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竹波エーイチ

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刺田比古神社のミチノオミ(道臣命)- 神武東征編その7

刺田比古神社

上の写真は、和歌山城や県立博物館から近い市街地に鎮座する、刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)。熊野上陸の際の大嵐で、兄弟を失ったあとの神武天皇を支えた大功臣、道臣命(ミチノオミ)を祀る。

八咫烏(やたがらす)の導きに従って大軍を監督して、無事に宇陀まで進軍させたり、あるときは待ち受ける敵の計略を見破ったり、またあるときは敵にを計略を仕掛けたりと、『日本書紀』が記す道臣命の活躍は目覚ましい。懐かしの光栄『三國志』なら武力90、知力90の趙雲子龍といったイメージか。

この道臣命を祖とするのが、古代豪族の大伴氏だ。
大伴氏というと、ぼくらネトウヨ(笑)の脳裏に真っ先に浮かぶのは「海ゆかば」の文化人・大伴家持だが、もとはゴリゴリの体育会系「軍事氏族」だったそうな。主に外征を担当する物部氏に対して、大伴氏は宮城の警護や反乱の鎮圧などを担当したんだとか。
うむ、それも趙雲っぽいな!

海ゆかば

そんな大伴氏のご先祖は、武力・知力だけでなく「魅力」のパラメータも凄かったようだ。
土地の豪族、八十梟帥(ヤソタケル)との決戦を控えた神武天皇は、必勝を期して「顕斎(うつしいわい)」なる儀式を行った。皇祖神・高皇産霊尊(タカミムスビ)を自らの心身に憑かせて、目に見えるようにして祀る、という意味らしい(『日本の宗教の事典』学研)。

このとき、斎主(いわいぬし)つまり神主に指名されたのが道臣命だったのだが、天皇から「厳媛(いつひめ)」という女性の名前を与えられている。神に仕えるのは女性だった時代だ。マジメな儀式なんだから、女装もしただろう。道臣命の容貌が優れていなければ、天皇に指名されるはずもない。マッチョなイケメンが女装して、くそ真面目に女性シャーマンを演じている光景は、想像すると笑えるかも。

そういえば神武兄弟の母君「玉依姫命」を、女性シャーマンを表す一般名詞だと考える説がある。
ぼくらも南九州で見てきたように、タマヨリヒメの本場(?)といえば宮崎県だと思うが、どういうわけか千葉県にも、タマヨリヒメをご祭神とする神社、しかも一の宮がある。

上総国一宮、玉前神社(たまさきじんじゃ)だ。

玉前神社

左の写真は、九十九里浜の釣ヶ崎海岸に立つ鳥居で、タマヨリヒメが漂着した場所だと伝わる。右は小ぢんまりしているが、黒ベースに赤のラインが格好いい拝殿。

社地は市街地にあって、お山のぐるりを車で一周できてしまう立地だが、こういう神社はご神体が「モノ」であるケースが多いような気がする。玉前神社もご神体は「玉」で、江戸時代の記録だとご祭神は「玉前命」だと書かれている。

それがなんで神武天皇の御母堂になったかと言えば、『古事記』や『先代旧事本紀』に名前の見えている神以外は祭神として認めない、という吉田神道の「独断の余弊」だと、柳田国男は書いている。んで続く文章の中で、タマヨリヒメは普通名詞だと柳田國男は言う。やや及び腰の文調から察するに、これは当時、柳田国男の独創だったようだ。

自分の見るところでは、玉依姫という名はそれ自身において、神の眷顧をもっぱらにすることを意味している。親しく神に仕え祭に与った貴女が、しばしばこの名を帯びていたとてもちっとも不思議はない。というよりもむしろ最初は高級の祭仕女官を意味する普通名詞であったと、見る方が正しいのかも知れぬ。(「玉依姫考」/『妹の力』角川ソフィア文庫)


面白いのは、「玉」に仕える巫女が「玉依姫」になった結果、玉をご神体とする県社・郷社の祭神が神武天皇になったのでは、という考察だ。ぼくらも北口本宮冨士浅間神社の摂社に「神武天皇社」を見たことがあるが、柳田曰く「玉依姫とその御子(玉)」への信仰が、やがて「御子」が日向の玉依姫の実子、神武天皇へと転じたのだろうとのことだ。

龍口明神社の玉依姫

上は3月に参拝した、鎌倉の龍口明神社でいただいた御朱印。
玉のようなわが子、のちの神武天皇を見守る玉依姫のイラストが泣ける。

ところで、文献上での最初のシャーマンといえば、邪馬台国の卑弥呼だ。『魏志倭人伝』に出てくる「鬼道」が、シャーマニズムを表しているそうだ。んで、邪馬台国の話題となれば取り上げたいのが、長浜浩明さんの新刊『最終結論「邪馬台国」はここにある』(展転社)だ。

邪馬台国はここにある

まだ読んでない人もいるだろうから「最終結論」については控えるが、前書『日本の誕生』と大筋は変わっていない。ただ、前書では長浜さんの比定地には弱いところがあって、要は物証が少なかった。弥生時代の遺物はあれこれ出土しているものの、大規模な遺跡が見つかっていない地域・・・。

例えば、2015年の『日本発掘!』(朝日新聞出版)のなかで石川日出志という先生が、邪馬台国は「少なくとも九州ではない」と断言している。その理由は、「奴国」「伊都国」以上の規模の遺跡が発掘されていないから、だそうだ(ただこの先生は、当時の吉備や出雲に大きな勢力が存在していたことは認めているわけで、それらが『倭人伝』に全く記録されていない点をどうお考えなのかは、シロウトのぼくには計り知れない)。

それで『邪馬台国はここにある』を開くと、おお、今回はさすがに言及されている。
小郡市埋蔵文化財調査センター所長の片岡宏二氏の著作を引いて、筑後川下流域で近年おこなわれた圃場整備事業九州新幹線の建設に伴う発掘調査によって現れた、「大規模な集落の片鱗」を物証として挙げられている。

長浜さんが引用したのは久留米市の「塚畑遺跡」で、ここからは掘立柱建物が220棟、竪穴住居が200棟が、見つかっている。だがこれだけじゃ全然足りない。『魏志倭人伝』には、邪馬台国には「7万戸」あったとされるのだ。

弥生時代後期のクニ想定図

片岡宏二氏の『邪馬台国論争の新視点』(雄山閣)には、2019年末に増補版が出ていたので、ぼくも買ってみた。それでザックリ要旨を言うと、片岡氏は「邪馬台国遺跡」みたいなもんは存在しないとお考えのようだ。
上の「図16 弥生時代後期のクニ想定図」で、筑紫平野をおおう「うすいアミ」として描かれているエリア全部が、合わせて「邪馬台国」なんじゃないか、今までは「奴国」や「伊都国」の遺跡のように、集中して現れて来なかったから見えなかったクニが、最近の発掘によって見えてきたんじゃないか、というのが片岡説だ。

これは面白い。
日本発掘!』で石川という先生は、全容が視認できる吉野ヶ里遺跡に比べると、奴国の遺跡は一見小さく見えるが、それは「住宅地になっているから、いまは全体が見えないだけです」と言う。

でもそれ、片岡氏には同じロジックで反論されるんじゃなかろうか。「邪馬台国」は、バラバラの状態でしか見つかっていないから、一見存在しないかのように見える、と。
・・・どうも石川という先生の説明は分かりにくいなぁ、ぼくには。

増補版では、ごく最近発掘された環濠集落も挙げられていて、上記の地図はさらに充実しているようだ。

ある場所では堀立柱建物が140棟、またある場所では竪穴住居150軒、堀立柱建物10棟、また別の場所で竪穴住居160軒、堀立柱建物30棟、周溝状遺構40基、さらに他の場所では幅6m、深さ1.5mの大溝が直線で300メートルも掘られ、その両側に竪穴住居100軒以上・・・。こりゃ筑紫平野の表面全体を引っぺがしたら、7万戸ぐらい余裕で出てくるんじゃないの?(笑)

前方後円墳の世界

邪馬台国九州説のもうひとつの弱点が、卑弥呼の「墓」だ。
筑紫平野には、これぞ大権力者・卑弥呼の墳墓なりと断言できるようなものが見つかってないが、奈良盆地には日本最古の前方後円墳「箸墓(はしはか)古墳」がある。その築造年代は3世紀半ばで、248年に亡くなった卑弥呼の墓にはピッタリ合う。

だが、前方後円墳の入門書を読む限り、どうもぼくには箸墓が卑弥呼の墳墓とは思えない。読んだのは広瀬和雄教授の『前方後円墳の世界』(岩波新書/2010年)。
教授によれば、2世紀後半から3世紀前半に日本の各地で「王墓」とよばれる大型墳墓が築造されていったが、やがてそれらの諸要素を統合した形で前方後円墳が誕生したのだそうだ。

前方後円墳の墳形は吉備・讃岐・播磨・大和などの諸地域、墳丘を飾る葺石は出雲地域、円筒埴輪につながる特殊器台・壺形土器は吉備などの地域、刳り抜き式木棺と竪穴石槨のセットは吉備や畿内などの地域、中国鏡、装身具、鉄製武器などの副葬行為は西日本各地といった具合に。
 
弥生墳墓によるかぎり、大和地域の政治勢力が、各地域の首長層を力で屈服させた、との説明は困難です。むしろ、各地の勢力が共存していたというイメージがふさわしいようです。(『前方後円墳の世界』広瀬和雄/岩波新書)


だが、『魏志倭人伝』に描かれた邪馬台国のイメージはどうだろう?

独身のまま、千人の侍女にかしずかせて、人に会わず引きこもっている女王。
その居室や宮殿・物見台・砦はいかめしく作り、常に警備のものが武装して守護している。
北の伊都国に統率者を派遣して睨みを効かせ、諸国を恐れはばからせている。
南の狗奴国とは交戦中で、中国に援助を求めている。
248年に卑弥呼が死ぬと男王が立ったが、国中がそれに従わず、殺し合いを始めて1000余人が死んだ。
卑弥呼の一族の娘を王に立てて、混乱はようやく収まった・・・。
(参考『倭国伝』講談社学術文庫)

考古学に裏付けられた箸墓古墳誕生に至る「共存」のストーリーと、『魏志倭人伝』に描かれた邪馬台国の殺伐としたストーリー。
ぼくには全く別のエリアで起こった、別のことにしか思えないんだけど。

纏向遺跡出土各地の土器とその産地

箸墓古墳が卑弥呼のお墓なら、卑弥呼の宮殿では?と目されるのが「纏向(まきむく)遺跡」だ。
2009年、ついに奈良盆地に王宮を思わせる大規模建屋が発見されたのだ。

「図24」は分かりやすいので『研究最前線 邪馬台国』(朝日新聞出版)から持ってきたものだが、纏向遺跡には周辺国からさまざまな土器が持ち込まれていることが分かる。箸墓と纏向には、広瀬教授の言われる「共存」という同じストーリーがあるようにぼくには思える。

だが、ここから除外されているエリアがある。
九州だ。
纏向からは九州の遺物はほとんど出ていないんだとさ。ならば九州にだけは、本州と異なるストーリーがあったと考えても、それほど無理矢理でもない気がする。

前方後円墳の世界』には他にも興味深いことが書いてあって、卑弥呼が死んで邪馬台国が内戦をしてた頃、箸墓に始まった前方後円墳は、北は栃木県から南は大分県にまで「同時多発的」に広がっていったそうだ。

もしも前方後円墳が卑弥呼の墓のコピーに過ぎないなら、このスピード感はないだろう。
西暦250〜300年には、すでに何らかの広域な政治的ネットワークが成立していたと、広瀬教授は述べられている。ここでも当時の中国人が見た「倭」とは違う「日本」が、中国人の視界の外に存在してたように、ぼくには思える。

なお、だいぶ先の話題になるが『前方後円墳の世界』では、考古学的な見地から「河内政権論」に疑問を呈している。むろん、その元になった「三王朝交替論」も「騎馬民族征服王朝説」にも根拠がないとしている。ぼくもそれらは学説というよりも、皇室の歴史を否定したい戦後左翼イデオロギーだと思うが、それを戦後左翼イデオロギーの本丸・岩波新書で展開した広瀬教授こそ、本当のリベラルだと感動する。

勝浦たんたんめん

さて、長浜さんの明快な論理にも、いつも感動を頂いているが、実は今回は一点だけ疑問が残った。
崇神天皇(在位207ー241年)の時代に四道将軍として活躍した一人に吉備津彦(きびつひこ)がいるが、長浜さんは講談社学術文庫の訳をもとに、吉備津彦が「西海」つまり九州に遣わされたとして、邪馬台国崩壊への道を構想されている。だけど、『日本書紀』の原文には「吉備津彥遣西道」とあって、吉備津彦は「西道」つまり山陽地方に派遣されたんじゃないだろうか。

ま、邪馬台国談義は楽しいけど、キリがないので(今回はw)終わりにしなくては。

次回こそスサノオの話題に、つづく、予定。

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生國魂神社とイツセの死 - 神武東征編その6

生國魂神社本殿

上のモノクロ写真は、大阪市天王寺区にある「生國魂神社」の本殿。
もちろん、ぼくら一般人には正面から本殿を見る機会などないだろうので、写真は『日本神社総覧』(新人物往来社/1996年)から拝借したもの。「いくたまづくり」と言うそうだが、カッコいい。

社伝によれば、創建は神武東征にさかのぼる。『日本書紀』の記述だと、2月11日に吉備を発した神武天皇軍は、大阪湾から大和盆地を目指し、3月10日には河内まで到達している。その際「難波碕」で、神武天皇が国土の守護神「生島大神」「足島大神」を祀ったのが生國魂神社の創始だと、神社で頂いたパンフレット『いくたまさん』には書いてある。

生國魂神社

日本の誕生』(WAC)で、長浜さんが神武即位年を割り出すヒントを得たという点で、ぼくら長浜ファンにとって最重要経典ともいえるパンフレット『いくたまさん』だが、「御由緒」の文章も興味深い。『日本の誕生』にも引用されていたが、ここで改めて引いてみる。

難波(浪速)と呼ばれた古代の大阪は、南北に連なる台地より成り、三方を海に囲まれた奔流の打ち寄せるところであった。現在の上町台地である。この上町台地周辺の海上には、大小さまざまな島が浮かんでいた。大和川と淀川が上町台地の北端で交わって一筋の大河となし、上流より運ぶ砂礫が堆積して砂洲となり、次第に島々(島嶼)を形成したのである。いわゆる難波の「八十島」である。これらの島々がやがて陸地と化し、現在の大阪の地形が形づくられた。今も市内に残る堂島・福島・弁天島などの「島」のつく地名が、古代の大阪を物語っている。(以下略)


マンガ『ヤマタイカ』(星野之宣)では「イザナミが象徴するイメージは"火山"だ」と語られ、日本神話の「国生み」を火山活動に結びつけた。ぼくらも「火の民族」を追って、いくつかの火山を周ってみた。

だが一向にピンと来ないのは、火山の周りにはイザナミを祭る神社はなかったし、そもそも記紀の「国生み」はもっと静謐な時空の中で行われた印象が、ぼくにはあるからだ。で、そんなぼくにピンと来たのは、引用した『いくたまさん』の御由緒の方だ。こっちの方が記紀の「国生み」のイメージに近い気がするし、何よりも、イザナミを信仰した海人族ではなく、当のヤマトの人たちが国土形成の過程を見てたという点で、ピンと来る。

(略)同神社では鎌倉時代まで、天皇の御衣を海に向かって振り、大八洲の霊を身に付ける即位儀礼「八十島祭」が行われていた。この儀式のために奈良時代の歴代天皇が即位の翌年、難波に行幸したことは『続日本紀』に記されている。(『神武天皇はたしかに存在した』産経新聞出版)


この本が書かれた2015年当時の生國魂神社の権禰冝、中村さんも文中で「生島、足島の神名は、国生み神話に通じる」と話されている。生島は島が生まれる状態、足島は島として成長、充足していく状態を神格化したもの、なんだそうだ。

水門吹上神社・竃山神社

さて、生國魂神社に立ち寄ったのはJR新大阪駅に向かう帰路のことで、ぼくらはまだまだ和歌山をウロウロしてきた。

左の写真は、和歌山市の市街地にある「水門吹上神社」。
生駒山から大和を目指した神武軍は、土地の豪族ナガスネヒコの反撃をくらい、「孔舎衛坂」で激突した。その際、神武の長兄イツセ(五瀬命)が流れ矢を受けて負傷、軍は退却を余儀なくされた。和泉の山城水門まで移動したとき、矢傷が悪化したイツセが「残念だ。丈夫が賊に傷つけられて、報いないで死ぬことは」と雄叫びを上げた地として「おのみなと」の顕彰碑がある神社の一つ。

右の写真は、残念ながらついにイツセが没して葬られた場所に鎮座する「竈山神社」。
そうしてイツセを葬った後、神武軍が「誅」した女賊というのが、前回の記事で取り上げた「名草戸畔」さんだ。

ところで、「おのみなと」を日本書紀では「雄水門」、古事記では「男之水門」と書くように、一口に「記紀」とは言うものの、両者の表現はかなり異なる。その理由について、ちょうど神武東征のこの後の展開から分析している本を読んだので、ここで再度、整理しておきたい。本は梅沢伊勢三さんの『古事記と日本書紀の検証』(吉川弘文館/1988年)だ。

古事記と日本書紀の検証

名草で土地の女賊を討った神武軍は熊野に進んだが、ここでも相次ぐ身内の不幸に見舞われることになった。

『日本書紀』によれば、暴風雨に襲われて船が進まなくなると、神武の次兄イナイ(稲飯命)は「ああ、わが先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのか」と嘆いて、剣を抜いて海に入ってしまう。

さらには三兄のミケイリノ(三毛入野命)も、「わが母と姨(おば)は二人とも海神である。それなのにどうして波を立てておぼれさすのか」と言うと、常世の国に行ってしまったのだった。

こうしてあっと言う間に兄弟を全員失い、身内は息子のタギシミミ(手研耳命)だけになってしまった神武天皇・・・。
これ、映画ならめちゃ盛り上がる展開だと思うが、なんと『古事記』では全てカットされているんですよ!

正確には、神武東征が収録されてる「中巻」じゃなくて、その前の「上巻」の一番最後のところに、彼らの父ウガヤフキアエズの「系譜」として、ミケイリノが常世の国に渡ったことと、イナイが海に入ったことだけチョロっと書いてある。だがそれが、いつどこでの話なのかは、『古事記』だけ読んでいたら分からない。

特急

俗な本だと、『日本書紀』は時の天皇に都合がいいように『古事記』をカットしたもの・・・なんて書いてることがあるけど、ここでは丸っきり反対だ。その理由を梅沢教授は、天孫であるはずの神武兄弟を「天神」や「海神」が守護しないなんてシーンは、『古事記』の立場からは受け入れられないから、と説明されている。

言うなれば、このような説明は単に蛇足であるばかりでなく、一歩を誤れば「神孫王者国家」・「神助国家」の考え方を曖昧化し「王化之鴻基」にとってマイナスの作用をもしかねない記事である。いわば無くもがなの解説、詳細なるが故にかえって紛らわしい説明、いや国家的に見て好ましからぬ話の内容なのである。「邦家之経緯・王化之鴻基」を語ろうとする『古事記』の立場からすれば、むしろこれは「虚偽」として除き去ってこそ然るべき内容なのである。(『古事記と日本書紀の検証』)


つまりは、父系に「天神」、母系に「海神」の血を引くことが天孫(皇室)の権威と統治の源泉なのに、その「天神」「海神」に助けられることもないまま、恨みを抱いて天孫が死んだというのでは、皇室のメンツが丸つぶれだ。だから『古事記』はその記事を、隠蔽した。

ん?じゃモロに書いちゃってる『日本書紀』の立場はどうなってんだ?
梅沢教授は、『日本書紀』は"愚直なまでに「帝紀・旧辞」の古い姿を残して"いるという。

文献史的に見れば、『記・紀』は資料を共通にした二書であるが、その旧資料の方向を受け継ぎ、その原形をよく残しているのが『日本書紀』であり、この資料への批判是正を目標として作られたのが『古事記』である。(『古事記と日本書紀の検証』)


なるほど、『古事記』はベースとなった「帝紀・旧辞」を、つまりは改変してるということか。
そういえば他の本で読んだが、『日本書紀』では「天」とか「天上」とか色々な呼び方をしてる神々の世界を、『古事記』では「高天原」にビシッと統一してて、それは「アマテラス」や「オオクニヌシ」などにも同じ事が言えるのだとか。

そんな、やけにまとまりのいい『古事記』には、長らく「偽書説」もあった。

後に成立した『日本書紀』『続日本紀』に本書に関する記事が見られないことや、古事記という名称が古事(ふること)を記した本を意味する一般名詞でもあったこと、一部の家に伝わる秘書的存在で、成立の当初から重んじられた形跡がないことなどから、偽書ではないかと疑われたことがある。(『日本の宗教の事典』学研)


一部の家に伝わる秘書・・・と言われれば、それがいったい誰の家なのかは当然気になるところだ。答えは『古事記 不思議な1300年史』(斎藤英喜/新人物往来社)に書いてあった。

近衛家だ。

13世紀半ば、『古事記』の中巻を持っていたのは、藤原氏の近衛家だけだったんだってさ。しかしそれも失われたのか、平安時代初期の写本が現存する『日本書紀』に対して、『古事記』の方は南北朝時代の写本が最古なんだとか。1371〜72年に書写というから、成立したと言われる712年からは約660年経つ。

古事記不思議な1300年史

古事記 不思議な1300年史』には、平安時代に『古事記』がどのように読まれていたか、についても書いてあった。どうやら、一種の「字引き」だったらしい。

朝廷で『日本書紀』の講義が行われたとき、問題になったのが漢文の読み方だった。たとえば完全な漢文で書いてある『日本書紀』で「陰上」という文字が読めないとき、ヤマト言葉で書かれた『古事記』を参照すると「美蕃登」(みほと)という「古語(倭語)」で書いてある。それで「陰上」は「ほと」と読めばいいと分かる。そういう案配だそうだ。

だが、全ての単語の読みが確定したら、もう参考書は必要なくなる。
そうしていつしか『古事記』は、「一部の家に伝わる秘書」になっていったようだ。

そしてここで、件の近衛家のご先祖、藤原不比等こそが『古事記』を改変した張本人で「藤原・中臣氏による祭政の掌握こそが、古事記の構想の根源なのである」というエキサイティングな論陣を張る『古事記外伝』(藤巻一保)に話を広げようかと思ったが、ダラダラ長くなったので、またいずれ。

淡島神社

左の写真は、徳島県阿南市で参詣した「淡島神社」(右は参道のプレデターに似てる?奇岩で、特に意味はない)。
こちらの現在の祭神はスクナヒコナだが、おそらく江戸時代までは「淡島」を祀っていただろうと、社名からは想像できる。

淡島というのは不思議な存在で、『日本書紀』の参考文(一書)では、ヒルコに続いて生まれた「子」だと言われたり、あるいは淡路洲に続いて生まれた「島」だと言われたりで、例によって統一されてない。
ところが一つの史観でバシッと統一表記されてるはずの『古事記』でも、淡島は国生みでは「子」とされ、仁徳天皇には「島」として歌に詠まれていて、珍しく足並みが揃ってない。

それでも寝所で結婚をして生んだ子は水蛭子。この子は葦の船に入れて放流した。次に淡島を生んだ。これも子の数に入れない。

(五三)(海いちめんが輝く)難波の碕から船出して 我が治める国を見渡すと 淡島 淤能碁呂島 蒲葵の生える 島も見える 遠く離れた島も見える

(どちらも『古事記』角川ソフィア文庫より)

『日本書紀』本文では、ヒルコは「大日孁貴(アマテラス)」と「月の神(ツクヨミ)」に続いて生まれた三人目の子供だった(4人目がスサノオ)。
しかし『古事記』の編集者には、どうしてもヒルコを4兄弟から外したい理由があった、と『古事記外伝』には書いてある。
それでヒルコが最初に生まれた子だとする伝承を採用したので、淡島も「子」として残ったものの、ザコ過ぎて忘れてしまい、その結果、仁徳天皇の歌と矛盾してしまった・・・。

ま、ただの想像だが、あれだけ見事に構成された「物語」でも、案外ちょっとしたミスは残されているのかもなぁと愉快に感じたので。

つづく

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