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竹波エーイチ

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手長足長と御柱 -出雲編その6

手長足長

アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』、第3シリーズの第81話は「コンビ妖怪手長足長」。
手長足長は東日本に広く伝えられる伝説の巨人だが、wikiを見る限りでは、アニメに出てきたのは福井県バージョンのようだ。「足長が手長を背負って海に入り、手長が貝のフンをその長い手で海に入れ、魚をおびき寄せ獲って暮らしていたという」。

ところでそんな妖怪をお祀りする神社が、諏訪にあった。
手長神社足長神社だ。
妖怪を祀る、なんて書くと怒られそうだが、実際には手長神社はテナヅチ、足長神社はアシナヅチ、というのが神社公式の祭神だ。

誰それ?ってのが普通の反応だろう。
神話時代の出雲で、怪獣ヤマタノオロチに7人の娘を食われてしまった、気の毒な夫婦がアシナヅチとテナヅチ。幸い、8人目のクシナダヒメが怪獣を倒したスサノオの妃になったので、外戚として神々の末席に加えられたのだろう(知らんけど)。

それにしても、なぜ諏訪に出雲の神が祀られているのだろう。それも、かなりマニアックというか、ローカルな神が。
それでwikiを見てみると「建御名方神が諏訪に侵入する以前に、諏訪を支配していた神の一つで、洩矢神と共に建御名方神と戦った」と書いてある。

んー?、タケミナカタといえばオオクニヌシの次男のはずで、スサノオはひいひいひいひいひい爺ちゃんでクシナダヒメはひいx5婆ちゃんだ。ならば手長足長は、ひいx6爺ちゃん、ひいx6婆ちゃん。なのに、自分のひいx6孫と戦って・・・、と何がなにやら、話がこんがらがってくるが、それは神話(古事記)をまともに読んだ場合のこと。

要は、「土蜘蛛(つちぐも)」とか「国栖(くず)」といった、「まつろわぬ神」に分類されるのが手長足長で、諏訪で祀られている理由は、「分からん!知るか!」というのが答えなんだろう。

だが何事も、現地に出かけてみなければ見えない風景もある。

手長神社の境内をウロウロしながら、出雲はねーがーと、出雲の痕跡を血走った目で探したぼくらだったが、拝殿の横に鎮座するたくさんの摂社・末社には思わずほっこり和まされてしまった。大も小も、どれもが己に合ったサイズの「御柱」を4本ずつ建てていて、なかでも上の写真にある高さ80cmほどのミニ神社のミニ御柱は、持ち帰りたいほどの可愛さだった。

諏訪には道ばたの小さな祠にも御柱があると聞いて、それを見ることも旅の目的にしていたぼくらは、すっかり満足した。そして上の写真の大きい方の社に手を合わせたとき、ぼくはふいに似たような感じの4本柱が描かれたCGを思い出した。
それは出雲の王の墓、「四隅突出型墳丘墓」を再現したCGで、「埋葬部の周囲からは4本の柱跡が発見され」と書いてあるものだった(『CGでよみがえる古代出雲王国』別冊宝島)。

四隅突出型墳丘墓

MOOKには、「諏訪は出雲一族が落ち延びた里なのか」という見出しで、次のような文もあった。

そもそも諏訪大社は、山陰から北陸地方を経由して諏訪に定着した出雲系の人々によって建てられた神社だとも考えられている。タケミナカタはオオクニヌシと越の女神・ヌナカワヒメの間に生まれた神で、出雲と北陸双方につながりの深い神なのだ。


むろん、ここに出ている人名は虚構だろう。だが、邪馬台国より遙かに昔から隆盛を誇ってきた山陰の文化が、オオクニヌシ(出雲)から現地妻のヌナカワヒメ(越)へ、さらには庶子タケミナカタ(諏訪)へ、と流れたことを象徴的に表しているのは確かだろう。ただしそれは、実際には100年、200年とかけて行われたから、本来の形や意味を失っている可能性もある。

そもそも諏訪大社でもっとも古い上社前宮は、おなじみ『諏訪神社七つの謎』によれば「タケミナカタの墳墓の地であると伝えられる」とあり、wikiの「前宮境内図」にも「神陵」が記されている。つまり、前宮の4本の御柱は、タケミナカタのお墓の周りを囲むように立っているわけだ。

上のCGでは柱には屋根が取り付けられているが、四阿が建てられたとも「考えられている」という話で、はっきりしているのは墳墓の上に柱を立てる4つの穴があったということだけだ。

御柱が、本来の形や意味を失ってる可能性は、時間経過以外にもある。

諏訪大社上社で、生きたご神体「大祝(おおほうり)」として祀られた諏訪氏は、『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』によれば、「大和朝廷の仏教政策の具現者」だった。諏訪地方で最も古い寺「普門寺」が、初代大祝の邸内に建てられたことが、その根拠だ。年代的には西暦580年頃とも800年頃とも考えられるらしいが、縄文以来の長い諏訪の歴史から見れば、"新人"さんだ。

そして諏訪氏の出自には、「出雲系」の臭いが全くない。
wikiで「諏訪氏」を開いて、command+Fで「出雲」と入力しても、些末なことしかヒットしない。

一方で、「出雲系の人々によって建てられた」とされる諏訪大社には、確かに出雲っぽい痕跡がある。
巨石信仰だ。
上掲のMOOKでは「日本最古の信仰のカタチ」として、古代出雲王国の巨石信仰がクローズアップされている。そして諏訪大社では、15世紀に仏教系の「お鉄塔」をご神体とする信仰軸ができるまでは、上社本宮に巨石「硯石」を磐座とする信仰軸が存在していたと『諏訪神社七つの謎』には書いてある。

だがちょっと待って欲しい。
諏訪には別の、「最古の信仰のカタチ」があったはずだ。精霊ミシャグジへの信仰だ。

<ミシャグジ>の祀られている所には必ず古樹が茂り、その木の根元には祠があり、御神体として石棒が納められているというのが最も典型的な<ミシャグジ>のあり方であるという。ほとんどの<ミシャグジ>がそうであるというのが、今井野菊さんの実地踏査の結論である。(『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古部族研究会/人間社文庫)


引用したとおりで、縄文以来の諏訪の土着信仰は、巨石信仰とは別のものだ。
確かに諏訪には古くから「諏訪七石」と呼ばれる奇石群があって信仰の対象とはされてきたが、今では硯石ですら大切に祀られてるとは言いがたく、ミシャグジ信仰との差は明白だ(所在不明も数石あるほど)。

その理由を素直に考えれば、それはそれが「外来」の信仰だからだろう。
おそらく、縄文以来の精霊ミシャグジ信仰と、西暦580〜800年ごろに始まった諏訪氏の神仏習合体制の中間期に、巨石を信仰する人々が外来した。諏訪では起源も意味も不明とされる4本の御柱も、彼らの手でもたらされた。しかしやがて彼らは諏訪を立ち去ったので、御柱も巨石も謎のまま、信仰だけが残された・・・。

なんて想像をしてみたわけだが、彼らとは言うまでもなく、出雲族のことだ。
手長・足長両神社の祭神が出雲神話の登場人物なのも、彼らの置き土産だと思えば理屈には合う。


せっかくなので、出雲族が移動してきた時期についても推測してみる。

出雲の荒神谷遺跡からは358本もの銅剣が出土しているが、この数は古代出雲の神社の数とほぼ一致するそうで、出雲の諸豪族が銅剣祭祀を通じて団結していたことを表すそうだ(『古代日本誕生の謎』武光誠/PHP文庫)。その年代は西暦150年ごろ。近畿のヤマト連合、九州の邪馬台国連合に挟まれて、俺らヤベーって感じか(いや、その頃まだ九州は倭国大乱で大騒ぎか)。

ヤマトから「四道将軍」が派遣されたのは崇神天皇10年(長浜浩明さんの計算だと西暦212年ごろか)。それぞれ「越」「丹波」「吉備」「東海」に向かったとあり、出雲とは書いてないが、マジやべーぞ。

ヤマトに従った弟を殺した出雲振根(ふるね)が、四道将軍に攻め滅ぼされたのが崇神天皇60年より前の話(はっきり書いてない)なので、西暦230年代か。その後、『古事記』にはヤマトタケルによる出雲建の殺害が出てるが、年代不明。景行天皇の在位、290〜320年(長浜暦)のどこか。

そして最終的に「朝廷の出雲制圧は四世紀中葉」というから、西暦350年前後ということのようだ。370年頃にはヤマトのシンボル、前方後円墳も出雲に出現してるとか(『古代日本誕生の謎』)。

ま、ざっと考えて西暦150年から370年あたりか(アバウトすぎか?)。

古代出雲の地形

もう一つ、出雲の祭祀について『CGでよみがえる古代出雲王国』には、興味深い記述があった。
「水辺の祭祀」についてだ。

とりわけ大切だったのが水と農耕にまつわる祭祀で、松江市の前田遺跡や出雲市の古志本郷遺跡などからは、首長たちが行ったと思われる水辺の祭祀の遺物が発見されている。遺跡から見つかるのは、鉄刀、大刀の柄、和琴などで、王(首長)たちは、神を招き喜ばせる琴を奏でながら、川や水路に大刀を捧げ投じていたらしい。


なるほど、水辺なら諏訪にもデカいのがあるぞ。
MOOKによれば、縄文時代には島根半島は独立した島だったらしく、いま出雲大社が建っている場所などは、大昔には海岸線だったのだとか。事情は諏訪も同じで、やはり縄文時代、諏訪盆地は大半が湖だったらしい。諏訪大社は4つとも、大昔の湖岸線近くに建っているという話だ。

もちろん、神社が成立していった弥生〜古墳時代の諏訪湖は今と大して変わらないんだろうが、それでも出雲族が郷愁を感じて長く留まったとしても不思議ではない地域ではあるだろう。しかし彼らは去っていってしまった。ならば彼らの水辺の祭祀は、その後どこで行われたんだろうか。

つづく

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「龍の子太郎」と穂高神社 -出雲編その5

龍の子太郎

話が煩雑になるので触れなかったが、諏訪大社下社の祭神は、タケミナカタの妃とされるヤサカトメ(八坂刀売神)という女神だ。だが、下社の祭神はいつでもヤサカトメだったというわけではないらしい。『私の一宮巡詣記』(大林太良/青土社)によれば、それはタケミナカタの息子の片倉辺(かたくらべ)だったり、兄の事代主(ことしろぬし)だったり、なぜか景行天皇の皇后、八坂入姫(やさかいりひめ)だったりした記録もあるらしい。

それはおそらくこの夫婦が、イザナギとイザナミや、スサノオとクシナダヒメとは違って、本当の夫婦じゃなかったせいだとぼくは思う。現に、夫のタケミナカタが活躍(?)する『古事記』には、妻のヤサカトメは登場しない。

ヤサカトメとは何者か。
『延喜式』神名帳に名を残す、川会神社の「社記」によれば、父にワタツミを持つ「海神の女」がヤサカトメだということだ。そしてタケミナカタとヤサカトメは「治水のため水内山を破って水を流し、越海へ注ぎ、始めて平地を得た」のだとか。

実はこの夫婦神による開拓の物語は、別の伝説として今も長野県には残っている。ぼくらの世代なら誰でも知っている『まんが日本昔ばなし』のオープニング、『龍の子太郎』は、上田に伝わる民話「小泉小太郎」と安曇野の「泉小太郎」を下敷きに、松谷みよ子が創作した児童文学だそうだ。登場人物は湖に住む龍とその息子に変えられているが、そりゃ普通の人間の夫婦には、山を砕いて湖を決壊させたりはできないから(笑)。

それで、川会神社でワタツミを祀ってきたのが、海人族(あまぞく)として有名な安曇氏と聞けば、これは安曇野に行ってみるしかない。『諏訪神社七つの謎』(皆神山すさ/彩流社)にも、ヤサカトメは「安曇野に拠った安曇族が奉祭した女神であり」と書いてある。ただ、川会神社の方は今では廃れてしまっているようなので、ぼくらは同じく安曇氏が祖神を祀った、穂高神社へと向かったのだった。

穂高神社

海人族については説明が必要だろう。

穂高神社が監修したブックレットによれば「魚や塩の生産に従事したり、海や川の水上交通や交易を支配した人々で、安曇氏のほかに宗像氏などが有名である」。安曇氏の本来の本拠地は、北九州の博多湾にある志賀島一帯だったが、しだいに日本中に拡散していった。弥生時代の1世紀ごろには信濃まで到達したと見られるが、その目的はサケ漁だった・・・。

なんてのが通り一遍の説明になるだろうが、実はどうも安曇氏の正体は、そんなちょいと規模の大きい網元程度ではなかったようだ。

AD57年に後漢の光武帝に朝貢し、金印「漢委奴国王印」をもらってきた「奴国」とは安曇氏の「国」であり、『魏略』『晋書』『梁書」には、彼らが自らを「太伯」の末裔だと話した記録がある(倭者自云太伯之後など)、と『弥生時代を拓いた安曇族』(亀山勝/龍鳳書房)には書いてある。

弥生時代は、安曇族が拓いた・・・、これは実に面白い。
太伯は(今の上海あたり)を建国した人だが、その呉は紀元前473年にに滅ぼされた(三国時代の呉とは別)。その時、呉人たちの一部は海に逃れ、日本列島に辿り着いた者もいた。祖国の再起を誓って彼らが握りしめていたのが、温帯ジャポニカ米だったというわけだ。
これはイメージしやすい。

 その伝播経路について、佐藤(※洋一郎)は、日本列島、中国大陸、朝鮮半島の温帯ジャポニカ米のDNAを調べて、中国大陸と日本列島にあるが、朝鮮半島にはない遺伝子の存在を見つけた。この事実から考えると、中国大陸から朝鮮半島を経由することなく、直接日本列島に伝わった経路があったと考えられるわけだ。(『弥生時代を拓いた安曇族』亀山勝/龍鳳書房)


温帯ジャポニカ米以外でも、養蚕は朝鮮半島より100年早いBC三世紀以前には日本に伝わっていたというし、鵜飼は朝鮮半島・台湾・沖縄には伝わらず、日本列島にだけ伝わったらしい。つまりぼくらが漫然と想像する、中国から朝鮮半島を経て、対馬、壱岐、そして九州北部へ、なんてルートは、実は弥生時代まではほとんど機能してなかったとも考えられるわけだ。

亀山さんが割り出した、呉人(安曇族)の航路はこうだ。
まずは拠点である志賀島から南下して五島に。いい風を待って対馬海流を一気に横断し、済州島の南を流れる黄海暖流に乗り、山東半島の青島辺りへ。ここからは大陸沿いに南下して、杭州湾から大陸を離れ、東に向かう流れと対馬海流を利用して、志賀島に戻る。
このループだ。

そうやって呉人(安曇族)たちは、大陸から日本列島へ、長い時間をかけて少しずつ渡ってきた。
祖国を失って逃亡してきたことから始まり、志賀島に拠点を得てからは、大陸に残された呉人の救出、亡命者(?)の日本各地への入植・・・という、繰り返される呉人たちの活動が、日本の縄文から弥生への移り変わりの、根底をなした。

亀山さんは、呉人が持つ越人への復讐心と祖国再建の思いにも言及されているが、縄文人の与り知らぬところで、日本史が動かされていたということか。

呉人(安曇族)が縄文社会に、容易に溶け込んでいけた点にも説明がある。
太伯は、元々は大国「周」の皇太子だったが、王位を弟に譲って蛮地とされる江南に渡った。その時太伯は、江南の風習に合わせて、体にイレズミを入れ、髪を短くした。以後、「入郷而従郷」は太伯の教えとして、呉人に守られ続けたのだとか。日本に入植した呉人たちも、当然そうしただろう。

ところで、イレズミと聞いて思い出すのが『魏志倭人伝』で「倭人」の風習として語られた「黥面文身」だ。『魏志』の成立は3世紀末なので、それは呉の滅亡以来、700年以上かけて日本社会に浸透していった呉の風習、だと考えるのが自然だろう。ちなみに同じ風習は、馬韓(のちの百済)では「時々」見られ、辰韓(のちの新羅)では倭に近くみな文身(男女近倭亦文)で、済州島にはなかったらしい(『魏志韓伝』)。

だが、「倭人」がみな「黥面文身」かというと、実は違うらしい。
弥生時代の遺跡から出土した、「黥面」を描いた絵画や土偶の分布には偏りがあり、九州の東シナ海側、瀬戸内海、伊勢湾、三河湾といった海辺からは多く出るのに、内陸部からはほとんど出ないんだとか。

『古事記』にも、「黥面」についてのエピソードがある。
即位を控えてヨメ探しをしていた神武天皇は、惚れたに家来の大久米命を通じて、告ってみた。すると娘は大久米命に「なんで目尻にイレズミを入れて、鋭い目をしてるのか」と応えてきたんだと。

大久米命は九州から神武天皇に付き従ってきた武人だ。長浜浩明さんの計算によると、神武天皇の即位は紀元前70年頃(卑弥呼が死ぬ300年ほど前)になるが、その頃の奈良地方には、黥面の風習がなかったという話。
もちろん、神武天皇の故郷、宮崎県の遺跡からも「黥面」関係の出土はない。

大久米命のみが特筆されていたことから、神武天皇にイレズミはなかったと思われます。(『日本の誕生』長浜浩明/WAC)


「黥面」から見えてくること。
それは、大陸から弥生時代を構成する文明をもたらした呉人(安曇族)は、「入郷而従郷」の精神で縄文社会に溶け込んでいったので、あくまで海辺の民に留まり、日本の支配層になろうとはしなかったことだ。
それは彼らには取り返すべき祖国があり、復讐すべき相手がいたからだろう。

その結果、たしかに大陸からの渡来人はいたのに、縄文から弥生にかけて、DNA的にも言語的にも骨考古学的にも、日本人が日本人でなくなるような変化は起きなかった、というわけか。

若宮社と小太郎像
阿曇比羅夫を祀る若宮社と、泉小太郎の像)


亀山本によれば、鳥取県安曇、兵庫県安積、石川県安津見、滋賀県安曇川、新潟県安角、そして長野県安曇野などが、安曇氏の入植地だそうだ。穂高神社の前身は、市役所と農協と神社と総合商社を一緒にしたような機関だった、とも書いてある。

『穂高町史』によると、安曇氏が安曇野に移住してきたのは6世紀半ばから7世紀の初めだという。が、穂高神社の『社史』だと1世紀には、とあるわけで、結局はっきりしたことは分からないんだろう。

ただ、『龍の子太郎』に繋がる民話が示すように、歴史上のどこかで、タケミナカタに象徴される出雲/越の人々と、ヤサカトメに象徴される安曇族が手を組んで、信州の開拓を行った。そして今も、両者は夫婦神として、諏訪湖を挟んで祀られているのだと。
今はそれぐらいの理解でOKとしておこう。

ところで諏訪では、もう一件、2社でワンセットになる神社にお詣りしてきた。
そこでは何と、ゲゲゲの鬼太郎にも出て来る妖怪(笑)を祀っていたんだが、それはまた次回に。

つづく
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