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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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シン・ゴジラと安倍晋三

バトルシップの旭日旗
いわゆる「リメイク物」に、ずっと不満があった。
名前を挙げれば『CASSHERN』(2004)とか『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(2010)『キカイダー REBOOT』(2014)などになるが、昭和の旧作が持っていたテーマがごっそり抜け落ち、見た目だけ綺麗に作り直しただけに、ぼくには見えた。

旧作のテーマ、については、それがこのブログのメインテーマなので随所に書き散らしてあるが、要は「戦後日本の正義」とは何か、という問いかけだ。稚拙で未熟な表現であったとしても、オリジナルの『新造人間キャシャーン』『宇宙戦艦ヤマト』『人造人間キカイダー』に、それがなかったというファンはいないと思う。

それにしても、たかが娯楽作品に大げさな、と笑う人もいるだろう。
不満の理由には、ぼくが日本の「次世代の物語」について考えていたせいもあったと思う。明治期の「富国強兵」とか昭和の「大東亜共栄圏」とかのように、単なるスローガンに留まらぬ、国家としての目標、国民が共有する夢、のようなものを何となく模索していた頃のことだ。

そのきっかけとなったのは、第一次安倍政権が打ち出した「戦後レジームからの脱却」だった。GHQの見えない支配を打ち毀し、自主憲法、自主外交、自主防衛をつかみ取る。
うむ、かっこいいな! 

・・・でも、どうやってやるの?
という答えがないままに、安倍さんは一旦、リタイアしてしまった。
結局のところ「戦後レジームからの脱却」も、サヨクのいう「9条があれば平和な世界」と大して変わらぬ幻想の「物語」に過ぎなかったということだったのか?。

だが奇跡の復活を遂げてからの安倍総理が、そうした「物語」を捨て去ってきているのは誰の目にも分かることだ。
アメリカ議会演説」「戦後70年談話」「広島での演説」「真珠湾での演説」・・・まぁ「慰安婦合意」も入れておくか(笑)。これらは具体的な歩み寄りのなかで、「現実」を変えていこうとする取り組みだ。「戦後」を終わらせていこうとする、取り組みだ。

ビックリしたのが「和解」という言葉だ。
水に流す日本文化に浸かっていると気がつかないが、なんと数年前まで、日米は心からの「和解」には至っていなかったんだと! 和解がなければ信頼もないわけで、なるほど自主防衛、自主外交への道は、まず相互の信頼から始まるわけやね(鳩山のせいだけじゃなかったんだねw)。

そして、10年前には一体どうやったら実現できるのか五里霧中だった憲法の改正も、何と本丸の第9条から議論の俎上に載せられるようになるという。これも「和解」から始まる「信頼」に基づくものなのかも知れない(自虐的過ぎるか?w)。

もちろん安倍政権にはヤバい話も一杯ある。この動画なんか、かなり怖い話をしてる。

【討論】種子法廃止は日本農業を滅ぼすのか?[桜H29/5/20] - YouTube

それでも、いよいよ肥大化する脅威に対して、アジア諸国が集団安全保障体制を築こうというときに、「安倍独裁」だ「戦争法案」だと「物語」を叫んだところで、「現実」を生きている人々の共感を得ることはできない。
また、軍による朝鮮人少女30万人の強制連行だとか、南京城内で民間人40万人の無差別殺戮だとか、そんなキテレツな「物語」ももう通用しないと思う、さすがにそろそろ。せめて国内では。

2012年に公開されたアメリカ映画『バトルシップ』は、はじめは犬猿の仲だった米海軍大尉と海上自衛隊一等海佐が友情を結び、協力して宇宙人と戦うという愉快な映画だ。とても面白いので、観てない人にはお勧めの一本だ。

しばらく休眠します。



【5/27追記】
そういえば以前、あのチャンネル桜で『シン・ゴジラ』の討論会が行われたことがあって、その中で京大の藤井聡教授が(映画としての面白さを認めつつも)、観られ方というか人気の理由には問題がある、と発言されていた記憶がある。

教授いわく、ゴジラによる破壊が、日本人の「改革願望」や「リセット願望」を反映してはいないかと。特に、劇中でゴジラの熱線で大河内内閣が壊滅させられたことで、若手や異端といった非主流がメインステージに躍り出た展開に共感が覚えられたのなら、いかにも自閉的だし幼稚な反応ではないか・・・みたいな話だったと思うが、詳細は動画にて確認されたし。

【討論】シン・ゴジラから見えてくる日本の現在[桜H28/10/1]

正直なところ、ぼくは教授の言われることは(失礼ながら)みずぽタンのツイートに類似したものだと思う。もしもこのゴジラが東京を破壊して閣僚を壊滅させたものの、非主流派の活躍だけによって海に帰った、あるいは殺された、というなら教授の説のとおりだろう。

だが実際に映画で描かれたのは、アメリカに属国視されてる悲哀だったり、東京圏に国力の40%を集中させてしまっている危険だったり、自衛隊と米軍の圧倒的な戦力差だったりと、ぬるい「改革願望」や「リセット願望」なんぞ吹き飛ぶような、日本の厳しい「現実」だったと、ぼくは思う。

そして、米軍と「協力」してゴジラを封印した以上、今後は東京駅すなわち皇居の目の前を、ゴジラの「共同管理」を名目に米軍がウロウロするなんて、よほどの田舎者以外、瞬時に理解できるだろう。「自閉的」でも「幼稚」でもない反応があればこそ、『シン・ゴジラ』はヒットしたのだと思うのだが・・・。

また、大河内内閣が全滅する前と後で「巨災対」主力メンバーの業務内容が変わったわけではないし、矢口蘭堂にとっての目の上のたんこぶは一貫して赤坂秀樹だ。描かれた「現実」を正確に見れば、閣僚壊滅には大した意味はない(たぶん樋口監督の、『日本沈没』への自己オマージュだと思う)。

ぼくの古い友人は、『シン・ゴジラ』を語ることは自分自身を語るようで怖いんだよね、と言っていたが、名言かも知れない。



シン・ゴジラとGのレコンギスタ

シン・ゴジラとGのレコンギスタ
ここまで見てきたように、昭和からミレニアムまでのシリーズで、ゴジラは実に様々に描かれ、様々に語られてきた。中には、劇場の外で語られたことを元にして、描かれたゴジラさえあった(GMKなど)。いま仮に、それらを引っくるめて「ゴジラの物語」と呼ぶことにしよう。

そうして『シン・ゴジラ』に目を移すと、今さら言うまでもなく、シン・ゴジラが「ゴジラの物語」とは全く無縁な存在であることが改めて見えてくる。シン・ゴジラには、福竜丸も原爆実験も原発事故も、なーんの関係もない。アメリカ人が海洋投棄した核廃棄物の影響を受けて怪獣化した生物が、たまたま2回東京に上陸して歩き回り、攻撃を受けたからやり返した・・・というだけの話だ。

実ははじめに見たとき、ぼくには『シン・ゴジラ』は何だか淡泊な映画に思えた。
しかし何度か見るうちに、これはしみじみ味わい深い映画だと意見が変わった。ここには「素」のゴジラの姿があり、ゴジラを「ゴジラの物語」から解放して、自由にしてやる映画なのだと思うようになった。
最初、淡泊な印象を持ったのは、庵野・樋口がどんな新しい「物語」を見せてくれるのかと、ぼくが過剰に期待していたからだろう。

だからぼくは、『シン・ゴジラ』に「3.11」は見ない。
「3.11」であるなら、まず描かれるべきは菅直人・枝野幸男らの愚行による「人災」のはずだが、映画に出てくる大河内内閣は無能ではない。彼らは、人災だと非難されるような失態は犯していない。

また、公開当時ネットで見かけた、牧悟郎博士がシン・ゴジラの「中の人」である、というような説にも賛同しない。それじゃシン・ゴジラは、自分は被害者だと逆恨みして罪もない人を殺戮しまくった怪獣ジャミラと同じじゃないか(笑)。

また、呑川から蒲田駅東口、そこから第一京浜で北品川へ、というのがサラリーマン時代のぼくの通勤ルートだったからと言って、『シン・ゴジラ』で暗喩されているのがぼくである可能性もない。

それと、庵野ファンなら考えてしまう「オマージュ」も、それぞれの劇中で、内閣総理大臣と内閣総理大臣補佐官が「ワシントンにゴジラが現れたとしても核兵器が使えるか」という同じ内容の問いかけをしている点から、1984年の『ゴジラ』に見る以外の作業は、ただの考えすぎ、なんじゃないかと、ぼくは思う。
それでは『シン・ゴジラ』に、新しい「物語」を背負わせてしまうことに、ならないか。

もう一度言うが、『シン・ゴジラ』には福竜丸も原爆実験も原発事故も、なーんの関係もない。
しかも映画の中でもご丁寧に、シン・ゴジラは「熱核エネルギー変換生体器官を内蔵する混合栄養生物」、すなわち水や空気だけで生存・活動ができる生物(wiki)だと説明して、核分裂だけしてる原子炉とは異なる、てかそれ以上の存在だと言ってるのに、なんで福島瑞穂にはシン・ゴジラが「福竜丸」「原爆実験」「原発事故」と関連してるように見えるのか。

それは福島瑞穂が「現実」ではなく「物語」しか見ていないからだろう。

福島みずほ @mizuhofukushima 4時間4時間前
「シンゴジラ」を見る。
福竜丸の展示館に行くと、太平洋で行ったアメリカの原爆実験がどれだけ被爆を生み出し、放射性物質が海流を回っているかわかる。
核はウラン採掘から高レベル放射性物質の処分まで命と環境を傷つける。
ゴジラは人類の身勝手から生じた悲しい化身に見える。そして人類は復習される


なるほどそういう「目」から見れば、なけなしの軍札を握りしめ、胸躍らせて慰安所の前で行列した兵隊さんたちの姿は、泣き叫ぶ少女を暴力で村から連れてきて輪姦した、悪辣非道な侵略者の姿に見えるのだろう。
「戦地における女性の人権」なんて、分かったような気にさせるだけの典型的な「物語」じゃないか。世界も歴史も人間も、そんな単純化された「物語」から理解できるとは、到底思えない。

実際、『シン・ゴジラ』では、何か得体の知れない生物が災害を巻き起こし、政府と自衛隊がそれを「現実的に」駆除しようと試みる様子が丁寧に描かれている。キャッチコピーは「現実対虚構」だったが、重点はあくまで「現実」で、「虚構」の方はゴジラでもガメラでも巨大な犬とか猫とかでも、何でも良かったような気さえする。

などと考えたとき、何だか似たような立ち位置にいると思える人物が二人、脳裏に浮かんだ。
一人は富野由悠季監督、作品は『ガンダム Gのレコンギスタ』(2014〜15)だ。

あらすじは、・・・やめておこう(笑)。
とりあえず初めて観たときの印象は、異様に分かりにくいアニメじゃのぉーに尽きた。それもそのはずで、客観的なナレーションもなければ、テロップも一切でないし、一目で分かる世界の図解のようなものも出てこない。国際情勢や人間関係は(例によって)込み入っているし、同時多発的に事件が起こっていく。

んでそんな分かりにくい世界の中で、主人公の少年と少女は戦いながら生きていき、世界を、人間を、そして自分を知っていく。地上で相争う二大国の、それぞれの高官の子弟として知り合った二人は、やがて自分たちが実の姉弟であることを知り、元々は宇宙からの支配層に属した出自であることを知り、そのさらに奥にある人類の秘密にまでたどり着く。

大人たちは、そんな二人の若者を、自分たちの「物語」に組み込もうとするが、二人はそれを拒否する。世界の現実を複雑なまま受け入れて、現実的に対応していく道を選ぶ・・・って、ひとことで言えば、「非セカイ系」って感じですか?

セカイ系とは「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」であり、代表作として新海誠のアニメ『ほしのこえ』、・・・(wikipedia - セカイ系より)


もっと分かりやすく言えば、国会前で反政府デモとかやってるシールズとか、ああいう若者が「セカイ系」なんじゃないか?
現実的に考えれば、夜の国会前でわーわー騒いだところで、世界がわずかでも変わるなんてことは有り得ない。それは、彼らが主張してることの大半が、「物語」だからだ。安保関連法案が成立すると徴兵制、なんて、非現実的な「物語」以外の何物でもないでしょ。

で、そう来れば、彼らにやめろやめろと騒がれている人物は、まさに「物語」ではなく「現実」の側にいることになるんじゃないか?
シン・ゴジラと、Gのレコンギスタと、安倍晋三・・・か?

つづく

シン・ゴジラと平成ゴジラ

ゴジラのメルトダウン
平成ゴジラの第二作は『ゴジラvsビオランテ』。
注目すべきはその公開日で、1989年12月16日。それは日経平均株価が史上最高値38,957円に達する13日前のことだ。
まさにバブル経済のピークで作られた映画で、ゴジラはどう描かれ、どう語られたのだろうか・・・。

いや、先に言ってしまうと、実は今回ゴジラ自身はそれほど大した役回りではなかった。ゴジラは、前回東京で暴れた際にバラまいてしまった「G細胞」から人間が作ったビオランテをぶっ殺しに芦ノ湖まで出かけたり、戦闘で腹が減ったのでメシを食いに若狭湾の原発銀座に出かけたりしただけだ。

興味深いのは、ゴジラに対応する人間側のストーリーだ。

前作で、あれほど話題の中心にあった米ソの戦術核が、今回はまったくお呼びが掛からないのは何故なのか。
理由はいたって簡単で、すでに日本人は「ゴジラの体内の核物質を食べるバクテリアを利用した抗核エネルギーバクテリア」の開発を進めていたのだ。

要するに、核の無力化だ。
ゴジラの駆除を名目(口実?)に、米ソの核兵器をも無意味化しようという壮大な目論みは、ほんとバブリーだ。さすがは『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の時代だ。
そんな時代にあって、もはや日本の防衛をゴジラに任せる必要は全然ない。平成ゴジラが昭和ゴジラのように守護神化しなかったのは、当時の日本人のそんなバブリーな意識が根底にあったのかも知れない。

というのも続く『ゴジラvsキングギドラ』(1991)では、21世紀に世界一の経済大国になって南米やアフリカを買収し、22世紀末には米露中を凌ぐ世界最大の国家に成長する日本の未来が、23世紀からタイムマシンでやってきた未来人の口から語られるのだ(今となっては空しい妄想だが、当時は欧米の不動産とかバンバン買ってたわけでw)。

んで未来人はそんな日本をまだ弱いうちに叩いてしまうことを計画し、まず1945年、南太平洋で「ゴジラザウルス」なる恐竜の状態で生きていたゴジラを、ベーリング海の海底に移送する。これで怪獣ゴジラの誕生を阻止したうえで、キングギドラを使って1992年の日本の破壊を開始した(てことは、彼らはゴジラがゴジラでいた場合、キングギドラと戦って結果的に日本を守ってしまうことを知ってたんだろうね、なぜかは知らねど)。

ところがこの世には「定め」というものがあって、ビキニ環礁を遠く離れた北極近くのベーリング海で眠っていたゴジラザウルスのごく間近で、なんとソビエトの原子力潜水艦が火災を起こし、沈没したことがあったらしい。ソ連は口では回収したした言うけれど、まぁ放置されるのが普通だ。
つまり、平成シリーズのゴジラは、アメリカの水爆実験とは丸っきり関係ないままに、ソ連製の核燃料の影響で、恐竜が怪獣になってしまったものだというわけだ。しかも当のソ連がすでに崩壊していたため、だれを恨んだらいいものやら。

さてこのゴジラ、本当なら亡くなったソ連の潜水艦クルーの魂を宿してウラジオストックでも襲うのが正しいように思えるが、彼は一心不乱に東京を目指す。もちろん、その理由がゴジラの口から直接語られることはないが、ドラマが一つの可能性を示唆していた。

新宿の高層ビルの最上階で、ひとりゴジラを待つ新堂靖明は、1945年、南太平洋の戦場でまだ恐竜だったゴジラザウルスに命を救われたことのある男だった。ゴジラザウルスのおかげで生き残った新堂は、帰国後「帝洋グループ」を興し、今では「戦後日本経済を立て直した男」として経済界に君臨していた。

新堂はゴジラザウルスを「救世主」と呼び、怪獣のゴジラもそうだと考えた。ゴジラも、彼のためにキングギドラと戦ってくれるのだと思っていた。しかし実態は、ゴジラは新堂らが営々として築き上げてきた「この国の繁栄を壊しにきた」だけだった。ゴジラと目が合った新堂は、何かを悟ったように数回うなずき、次の瞬間、ゴジラの吐く熱線で消滅した。

この展開、このドラマが示唆するものは、ゴジラ(ザウルス)は新堂が作りあげたと自負している戦後日本の繁栄、バブルに踊る東京を、新堂もろとも消し去りにやってきた、ということだろう。俺はこんなもののために、お前を助けたわけじゃないのだとばかりに。
そしてそれが、ゴジラが東京を目指した理由であると。

この時、新堂を通して語られているゴジラは、『風の谷のナウシカ』に登場する「巨神兵」のような存在だとぼくは思う。
つまり物事の善悪・可否を決める、裁定者だ。

平成ゴジラの最終回は『ゴジラvsデストロイア』。
公開は1995年12月なので、テレビ東京でひっそりと『新世紀エヴァンゲリオン』の放送が始まった少しあとに当たる。
エヴァについては、バブル崩壊後のダークな日本社会の反映として語られることが多かった記憶があるが、平成ゴジラの最期も異様なものだった。

一言でいえば、ゴジラは動く原子力発電所だった。

この回、何をとち狂ったか、返還間近の香港で大暴れしたゴジラは、身体は真っ赤に発光してるわ、白煙はもうもうと上がっているわで、もう爆発寸前の危うさ。そんな状態でさらにメシを食おうと伊方原発に近寄ったりするので、危なくて仕方がない。

結局いろいろあって、最期は、晴海の臨海副都心でメルトダウンを開始。
溶けた皮膚の裂け目から閃光を発し、放射能を撒き散らしながらドロドロに溶けていって、東京を誰も住めない死の街にしてしまったとさ。


長くなってきたので早口で言うと、ミレニアムシリーズ(1999〜2004年に全6作)は、昭和シリーズや平成シリーズのような続き物ではない。それゆえかゴジラのイメージが拡大されることがなかったが、『ゴジラxメカゴジラ』(2002)と『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』(2003)の連作には触れておきたい。

ここで政府が極秘裏に建造したメカゴジラ(機龍)は、実は昭和29年に海中で薬殺された初代ゴジラの骨格をそのまま使っていた。
八景島に上陸したゴジラを相手に優勢に戦いを進める機龍だったが、ゴジラの苦しげな彷徨を聞くと反応し、操作不能に陥ってしまう。この隙にゴジラはあたふたと海に逃げのび、残された機龍が代わって横浜市金沢区の破壊を始めるのだった・・・。

ということで、昭和・平成・ミレニアム各シリーズで描かれた、語られたゴジラについて、急ぎ足で紹介してみた。
これらを踏まえた上で、次回ようやく本題に入りたい。

つづく

シン・ゴジラと昭和のゴジラ

ゴジラと井浜原子力発電所
1954年の第一作の『ゴジラ』から始まる「昭和ゴジラシリーズ」でゴジラがどう描かれ、どう語られたかについては、当ブログの「ゴジラ」カテゴリで延々と書いたので、ここではザクッとまとめて話したい。

まず全ての始まりである『ゴジラ』(1954)で、ゴジラとは、200万年前から海底洞窟か何かで生き延びてきた恐竜が、たび重なる水爆実験で生活環境を破壊され、日本近海に現れたもの、と語られた。
水爆の影響で怪獣化したゴジラは東京に2度上陸すると放射能をまき散らし、破壊の限りを尽くしたが、「オキシジェン・デストロイヤー」なる化学物質によって液状化させられて死滅した。

当時のポスターに「水爆大怪獣映画」と謳われているように、『ゴジラ』のテーマは「水爆に対する恐怖」であって、原爆被爆国日本から発せられた、反核兵器のメッセージでもあった・・・。

ところが時間が経つにつれ、ゴジラには似て非なる別の物語が付与されていく。
それは、ゴジラの進撃ルートが「東京大空襲」と同じであるという発見から生まれた、ゴジラはB29の大編隊のメタファーではないか?という見方だ。
本来、何の関係もないはずの水爆怪獣が、9年前に終わった戦争と結びついた瞬間だ。

それは東京大空襲の再現(リプレイ)だったはずです。

東京大空襲であるならこう撮るはずだという仮説を立てて映像を見ていくと、その仮説通りに見える。
『ゴジラ映画はいかに演出されたか』木原浩勝/『文藝別冊 円谷英二』)


こうした見方が生まれてくる根源は、おそらく「水爆実験の被害者」と言われたゴジラが、なぜアメリカではなく日本を襲ったのかについての理由が劇中で説明されなかったことにあるだろう。
ゴジラは何故、東京を襲ったのか。
ゴジラの破壊に「怒り」を見、ゴジラの最期に「哀しみ」を感じる心は、その答えをこう出した。

そしてこのとき『ゴジラ』は「戦災映画」「戦渦映画」である以上に、第二次世界大戦で死んでいった死者、とりわけ海で死んでいった兵士たちへの「鎮魂歌」ではないのかと思いあたる。”海へ消えていった”ゴジラは、戦没兵士たちの象徴ではないか。

東京の人間たちがあれほどゴジラを恐怖したのは、単にゴジラが怪獣であるからという以上に、ゴジラが”海からよみがえってきた”戦死者の亡霊だったからではないか。
「ゴジラはなぜ『暗い』のか」川本三郎/『今ひとたびの戦後日本映画』)


ゴジラに戦没者の魂が込められている・・・という感覚は、川本三郎さん一人のものではなかったのだろう。続く『ゴジラの逆襲』『キングコング対ゴジラ』『モスラ対ゴジラ』では依然、恐怖の破壊者として日本中で暴れ狂ったゴジラだったが、『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964)で宇宙からの侵略者、キングギドラと出会うと、本来あるべき姿へと戻っていった。
すなわち、南洋で散った戦没者に代わって日本を守る、守護神ゴジラの誕生だ。

この後のゴジラは、小笠原が返還されれば小笠原で戦い、沖縄が返還されたら沖縄で戦った。もしも北方領土や台湾が返還されたらそこでも戦ったことだろう。日本の国土と人々を守るために・・・。

てな具合で昭和のゴジラは、元々は水爆実験で怪獣化した爬虫類が東京で暴れまくって駆除されただけの話だったが、観る側がそこに「戦争」を見たり、「戦没者」を見たりしてその「物語」が膨らんでいき、あたかもそれに応えるかのごとく、ゴジラ自身もその意味を変容させていったのだった。
最後の敵が、アメリカナイズされた自分自身、メカゴジラだというのも、昭和シリーズのフィナーレには相応しい。


以上で昭和シリーズは終わり。
続いて平成ゴジラシリーズでは、何が描かれ、何が語られたのか。

1984年公開の『ゴジラ』では、ゴジラは30年ぶりに現れたとされている。
要は、昭和2作目の『ゴジラの逆襲』以降をなかったことにして、1954年に退治したゴジラと同種の生物が、伊豆諸島の火山活動で覚醒してしまったとした。

30年も巻き戻したんだから、このゴジラには破壊者から守護者となった歴史は刻まれていない。
このゴジラは、動物としての必要からソビエトの原子力潜水艦を襲い、静岡県の「井浜原子力発電所」を襲った。言うまでもない、「エサ」である放射性物質をいただくためだ。

この時、米ソ両国が戦術核を使ったゴジラの駆除をなかば脅迫してくるが、三田村総理(小林桂樹)はこう言って突っぱねる。
もしあなた方の国、アメリカとソ連にゴジラが現れたら、その時あなた方は、首都ワシントンやモスクワで、ためらわずに核兵器が使える勇気がありますか」と。

この時は、両首脳はこれで矛を収めることとなった。

そして(例によって理由不明の)ゴジラ東京上陸が始まり、自衛隊は「カドミウム弾」を使ってのゴジラ冷却作戦に打って出る。しかし対ゴジラで政府に協力している林田教授(夏木陽介)は「ゴジラは原子炉ではない」と言って作戦を否定する。

実はこの時、ゴジラとは別の恐怖が東京に迫っていた。ゴジラ殲滅のためにソビエトが準備していた戦術核ミサイルが、不幸な事故のせいで東京に向けて発射されてしまったのだ。

たしか公開同時に読んだ雑誌には、東京のビル群よりゴジラの背が低くなってしまったことが特集されていたもんだが、ここでも、ゴジラの放射能とは比較にならないほど巨大な核の脅威が、現実に存在することが描かれている。

こうして、何となく小さく描かれたゴジラは、林田教授に動物の持つ帰巣本能を利用されるかたちで伊豆大島まで誘導され、火山の噴火口に落とされた。だがこのゴジラは死んだわけではないので、ここから1995年にかけて全7作の平成シリーズが始まった。

映画を観てない友人向けの記事なので粗筋ばかりになってしまったが、まとめると1984年版で描かれたゴジラは放射性物質をエサとする巨大生物で、林田教授によれば「核兵器のようなもの」ではあるが「原子炉」ではない。ゴジラが東京に上陸した理由は不明だが、そのことによって、米ソの戦術核を東京に呼び寄せる結果となった・・・ってところか。

つづく

シン・ゴジラと福島瑞穂

蒲田くん
久しぶりに、ブログを更新することになった。
なった・・・というのは、それがぼく自身の意思ではなくて、友人との約束によるものだからだ。

と言ってもそれは大した約束じゃなくて、友人の撮った石垣島の写真を送ってもらう代わりに、内容は問わないからブログ記事を更新する、というもの。すでに写真を受け取ってしまった以上、気乗りはしないが約束は果たされなければならない。

気乗りがしないのにも理由はあって、このブログに多少の存在意義があったとしたら、それは日本の左傾化を阻止しなければならない時期において、のことだったからだ。つまりは、暗黒の民主党政権が誕生する2009年9月までは、ぼくはきわめて強い危機意識を持ってブログ記事を書いていた。そこにはぼくなりの存在意義が、確かにあったのだ。

実際、今の若い人には信じられないだろうが、あの当時の日本は中国・韓国・北朝鮮の非軍事的侵略に抗しきれず、かなりヤバい状況だった。何しろ自民党から「人権擁護法案」やら「外国人参政権」やら「皇室典範改正」などの法案が飛び出てくる時代だ。そしてセンターラインを見失った日本国民は、最悪の選択をしてしまった。左翼政権の誕生だ(今の韓国と同じだねw)。

しかしそこは、さすがに”成熟した民主主義”を誇るわが国だ。賢明な国民は、悪政を繰り返した民主党政権を数年で見切ることが出来た。舵は大きく右に切られ、日本はセンターラインを取り戻した。以後、いろいろ諸問題は抱えつつも、株価は上がり、失業者は減り、外交的な地位も向上・・・と、10年前からは考えられない明るい日本が今ここにある。

そしていよいよ憲法の改正までが国民的な議論の俎上に載せられているこの時期に、自虐史観ガーとか、戦後民主主義ガーとか言ってるブログの更新ってどうなのよ? と思うと、ぼく自身も笑ってしまうしかない。それに今はプロの文筆家を除けばツイッターとかのSNSが主流なわけで、ブログって何? なんて人もいるのかも知れない。
ぼくにしてもツイッターには日常的に触れているが、長文の時事ブログなんて「株式日記」くらいしか読まなくなって久しい(ちなみにぼくはツイート自体はしたことがないし、2ちゃんねる含めた掲示板、他人様のブログのコメント欄などに書き込みをしたことも一切なかったりする)。

というわけで、やむなく更新するこのブログ。内容は問わないと言うのなら「糖質制限ダイエット」だとか「横浜のおすすめデートスポット」だとかをテキトーに書いた方がアクセスアップに繋がりそうだが、わざわざ友人を失うような行動はとらない方がいい(笑)。
ならばここのブログ主好みのアニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』(2012〜14)はどうか、と思ったが、周りに観てた人間が誰もいないので盛り上がらないし、新しい作品はリアル世代の青少年が批評したほうがいいのでオヤジは黙ってろ。

やはり『ゴジラ』で始まったブログは『ゴジラ』で終わるべきなのか・・・。

(以下、いきなり本文に入る)

シン・ゴジラ』(2016・東宝)のような名画について、しばしば言われることの一つに、観る人によって様々に解釈できる許容力、というものがある。むろん映画は論文じゃないんだから、名画の持つ許容力自体はぼくだって否定しない。
だが、以下のツイートはどうだろう?

福島みずほ @mizuhofukushima 4時間4時間前
「シンゴジラ」を見る。
福竜丸の展示館に行くと、太平洋で行ったアメリカの原爆実験がどれだけ被爆を生み出し、放射性物質が海流を回っているかわかる。
核はウラン採掘から高レベル放射性物質の処分まで命と環境を傷つける。
ゴジラは人類の身勝手から生じた悲しい化身に見える。そして人類は復習される

一言、これは酷い(笑)。
『シン・ゴジラ』のゴジラは「福竜丸」も「原爆実験」も関係ないし、「人類の」身勝手から生じてもいないし、仮に「復習され」たのだとしても「人類」じゃなくて日本人だけだ。
続いてもう一つ、引用。

福島みずほ @mizuhofukushima 4時間4時間前
「シンゴジラ」の映画を見る。
放射性物質を吐き出して、暴れるゴジラを見ていると原発事故を思い出す。原発はいらない。
コントロールできず人類は復習を受ける。核兵器でゴジラを撃退しようという計画もひどすぎる。

こちらも同様だ。
『シン・ゴジラ』と「原発事故」には何の関係もない。そして今回のゴジラは「原発」自体でもない。

これらをみる限り、福島瑞穂が本当に『シン・ゴジラ』を劇場で観たのかが疑わしくなってくるが、おそらく彼女はその目で観たのだろう。そして映画で実際に描かれたものとは別のものを、スクリーン上に見たのだろう。

でもぅ瑞穂ちゃんはオタクの評論家じゃないんだしぃぃ映画をどう感じたってあの娘の勝手だと思うんですぅぅ・・・って声も聞こえそうだが、今回ぼくはそのような、一見中立を装う思考停止を許さないことにする。
なぜならこれは1954年以来続いてきたゴジラシリーズとは別の、『シン・ゴジラ』だからだ。
『シン』であるからには「旧」とは異なると、タイトル自体が言っているのだ。
しかもこれを作ったのが、日本でも指折りの特撮オタクで知られる庵野秀明樋口真嗣だ。旧シリーズと同じで、あるわけがないのだ。

・・・と、ここで今、若い人に大流行しているという「LINE」とかいうスマホアプリで件の友人に問うてみれば、彼は昭和・平成・ミレニアムにまたがる旧ゴジラシリーズは、ほとんど観ていないと言う。
ならばよし。
『シン』を知るには、まず「旧」を知ることだ。
「旧」で描かれた、あるいは語られたゴジラとは違うものが、『シン』にはあるはずだ。

あと何回かつづく