神武天皇とニギハヤヒ - 神武東征編その12

写真は、奈良県天理市に鎮座する「石上(いそのかみ)神宮」の拝殿。1081年に白河天皇が寄進したもので、拝殿としては国内最古なんだとか。こちら、1913年までは本殿がなくて、拝殿の裏手にある神域「禁足地」に埋められていた神剣「韴霊(フツノミタマ)」をそのまま祀っていたそうな。
この神剣「フツノミタマ」の元の持ち主は、タケミカヅチ(武甕雷神)。
出雲のオオクニヌシを恫喝して、「国ゆずり」を成功させた高天原の英雄だ。

『日本書紀』によると、生駒越えでの大和入りに失敗した神武天皇は、太陽を背負うべく熊野から迂回しようとしたところ、熊野の「神」が毒気を吐いて軍勢を萎えさせてしまった(戦意を失わせた?)。
このとき、タケミカヅチが神武天皇に授けた剣が「フツノミタマ」だ。この剣の威力で毒気は消え去り、爆睡していた天皇や将兵は覚醒し、再び大和を目指すことができたのだった。
『日本書紀』で「神宮」を検索すると、固有名詞としては、あの「伊勢神宮」より先に登場するのが「石上神宮」だ。
第11代の垂仁天皇39年というから、長浜浩明さんの計算だと西暦260年ごろ、天皇が皇子に石上神宮の神宝を管理させたという記事が出て来る。「伊勢神宮」の初出は景行天皇40年(同310年ごろ)なので、それから50年ほど後のことだ。

それで、当初は皇族が祀っていた石上神宮だったが、その後、物部氏に管理が任されるようになった。
この物部氏というのは、第10代崇神天皇の母の実家だったり、疫病対策で大神神社の創設に関係したり、出雲の神宝を調べに行ったりと、『日本書紀』3世紀代の記事に、その名が頻繁に出て来る人たちだ。
それもそのはず。
物部氏の始祖をニギハヤヒ(饒速日)というが、おそらく神武天皇のヤマト建国に最大の功績を挙げたのが、この人物だ。何しろ、神武天皇に大和を「国ゆずり」してしまったのがニギハヤヒだ。その子孫が長らく「寵遇」されるのは当たり前というものだ。

写真は、大阪府東大阪市の「石切剣箭(いしきりつるぎや)神社」。ニギハヤヒと、その子ウマシマジ(可美真手)を祀る。
マスコミの真似(圧縮マン)をして望遠レンズで撮ってみたが、なるほど結構な人混みに見えるもんだな(笑)。こちらは、近隣の民間信仰を集めた宗教テーマパークのような場所なので、日曜日ということもあってソコソコの人出だったが、年末の神社なんて、余所はガラガラだったよ。
さてニギハヤヒだ。
神武天皇とは誰なのかを考えるとき、ニギハヤヒの考察は外せない。てか、ヒントを与えてくれる唯一の存在かも知れない。そもそも、日向で暮らしていた神武天皇に、東征の決意をさせたのがニギハヤヒだ。
『日本書紀』によれば、シオツチ(塩土老翁)という、タイムトラベラーか諜報部員か、正体がよく分からない人から、「東方に美しい国があり、四方を青山が囲んでいます。その中に、天磐船に乗って飛び降った者がおります」と聞いた神武天皇は、「天から飛び降ったという者は、饒速日であろうか。その地へ行き、都を定めることにしようではないか」と決意する。
ぼくは、神武天皇は元々ニギハヤヒを知っていて、ニギハヤヒの降りた場所なら都にふさわしいはずだ、と確信している印象を受けるが、どうだろう。

上の写真は、大阪府交野市の「磐船(いわふね)神社」。
拝殿の後ろの高さ12m、長さ12mの巨石が、ニギハヤヒの乗ってきた「天磐船」だとして祀る神社だ。今回、時間がなくて回りきれなかったので、著作権フリー画像サイト「写真AC」から借用してきた。
『日本書紀』によれば、天磐船で降臨したニギハヤヒは、生駒〜東大阪あたりを治める土豪ナガスネヒコ(長髄彦)の妹をヨメに貰い、「主君」と崇められていた。それはニギハヤヒが、「天つ神の御子」であることを表す「天羽羽矢」と「歩靭」を持っていたから(のよう)だった。
大和を目指す神武軍は、生駒山麓でナガスネヒコ軍に敗れて熊野に迂回、山を越えて宇陀に進み、またもナガスネヒコ軍とバトルになるが「しかし手ごわく、何度戦っても勝つことができなかった」。
神武天皇はナガスネヒコに「天神の御子は、大勢いるのだ」といって、ニギハヤヒと同じ天上界の表徴「天羽羽矢」と「歩靭」を見せてやるが、ナガスネヒコは「畏れ、かしこま」るものの、軍備を解こうとはしない。
ここでニギハヤヒが登場し、ナガスネヒコに「神と人との区別を教え」て降伏を促したが、ナガスネヒコは従わない。ニギハヤヒは天つ神が「深く心にかけて思われているのは、ただ天孫のことだけである」ことを知っていたので、ついにはナガスネヒコをぶっ殺してしまう。そして「多くの兵士を率いて帰順した」。
天皇は「もとより饒速日命は、天から降ったということを聞いて」いた。今回、ニギハヤヒのとった行動は「真心を尽くした」と評価され、「その功績を褒賞して、寵遇」された。(※「」内はKindle版の『日本書紀』宮澤豊穂より)

以上が『日本書紀』に書かれたニギハヤヒによる「国ゆずり」の顛末だ。
ニギハヤヒという人物が、神武東征の先遣隊だったのか、あるいは埋伏の毒だったのか、それともたまたま近畿に根付いていた天皇の同族だったのか、あれこれ空想は膨らむが、答えは『日本書紀』には書いてない。
『日本書紀』が伝えるのは、天皇の軍は弱っちかったが、自らがナガスネヒコを手にかけずとも建国の偉業が成し遂げられたのは、その尊い血統によるのだ、という皇室存在の根源についてだ。

(ウマシマジ『前賢故実』国会図書館)
ところが不思議なことに、「記紀」と並び称されることの多い『古事記』には、この一連の顛末についての言及がない。まず天皇とナガスネヒコ(古事記では登美毘古)の間で交わされた、宇陀でのやり取りがない。ナガスネヒコを誰が殺したかも分からない。
このように進軍していると、邇藝速日命が参上してきて、天つ神のご子孫に、「天つ神の御子が天降られたと聞きました。そこで自分も後を追って降ってきました」と申し、天上界の所属であったしるしの玉を献上してお仕え申し上げることとなった。この邇藝速日命が登美毘古の妹の登美夜毘売と結婚して生んだ子は宇摩志麻遅命、これは物部連・穂積臣・綵臣の祖先である。
こうしてこのように、荒々しい神どもを平定し、服従しない人どもを追い払って、畝傍の橿原宮においでになって天下を統治なさった。(『古事記』中村啓信)
見ての通り、ニギハヤヒという近畿土豪連合に君臨する「主君」から、神武天皇への「国ゆずり」という『日本書紀』の核心部分が『古事記』には存在しない。だから『古事記』における神武天皇は、平和に暮らしてきた畿内の人々の暮らしを踏みにじり、殺し、土地を奪った侵略者になってしまう。
有名な津田左右吉博士による「記紀批判」すなわち、神武東征はフィクションだという思想の根本には、これを認めると皇室が九州から来た征服者になってしまうことを危惧した愛国心があると、以前読んだ本に書いてあった(『ここまでわかった!日本書紀と古代天皇の謎』)。
だがここまで見てきたように、『日本書紀』には明確に大和の「国ゆずり」が書いてあり、天皇の尊い血統は武力に勝るのだと謳われているわけで、問題は『古事記』だ。「記紀」とは言うものの、両者は目的も意図も、まるで別物だということか。

そこら辺を徹底的に追求した本に、ぼくらの愛読書『古事記外伝』(藤巻一保)がある。皇室の伝承を本文にして、単純に参考文(一書)を併記しただけの『日本書紀』に対して、『古事記』にはある統一された歴史観が確認できると『古事記外伝』は言う。
それが「出雲」や「伊勢」を必要以上に持ち上げる作為で、その意図・目的は、藤原氏による「政治」と中臣氏による「祭祀」の独占体制にある・・・というような内容だったと思うが、ひじょーに興味深いな。
ぼくらも出雲はすでに回ってきた。
ならばお次は『古事記外伝』を携えて、伊勢に向かわざるを得ないだろう。
※オオクニヌシは出雲大社で盛大にお祀りされているのに、同じく国を奪われたナガスネヒコは??という面白い考察はこちら(出雲大社は怨霊の神社?- 出雲大社紫野教会)
つづく
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