逆襲のジャミラ

逆説のHERO評論(特撮・アニメ)※「ウルトラマン『故郷は地球』は名作か?」「怪獣ジャミラは可哀想か?」という疑問から始まったブログ。ヒーロー番組に仕込まれた自虐史観について考察中。

手塚治虫とヒューマニズム

本

(ご注意!)以下の記事は、『ガンダム』や『イデオン』は好きだが手塚治虫には興味がなかった、というような人向けに書いたニワカ勉強の結果です。話を手短に簡略化してありますので至らぬ点もあるかと思いますが、鼻であしらっていただけますようお願い申し上げます。



ヒューマニズムという言葉にはいろいろな意味があるようだが、もともとは(神中心ではなく)「人間中心主義」と訳出された概念で、今日の日本では「人道主義」や「博愛主義」を指すことが多い・・・とWikipediaには書いてある。
手塚治虫が自身のテーマだと主張する「生命の尊厳」は、いかにも「人道」っぽいし「博愛」っぽい。手元にある秋田文庫版の『W3(ワンダースリー)』第2巻の帯には、「手塚治虫の人間愛に輝く。人間愛の完結編」とあって、なるほど手塚ヒューマニズムとは「人間愛」のことを指すのかと納得させられる。

が、どうも手塚評論の最前線では、「人間愛」で手塚を語るようなことは、ほとんどなかったようだ。
1989年に出版された『マンガ批評大系●別巻 手塚治虫の宇宙』(平凡社/竹内オサム・村上知彦編)には、1950年以降に発表された代表的な手塚評論が年代を追って収録されている。

その中でぼくの目に付いたものをあげてみると、まず佐藤忠男氏は手塚作品に「ペシミスティック」という言葉を使っている。開高健氏は、手塚の主題は「対立」であると言う。呉智英氏は、手塚作品に共通する姿勢を「あらゆる価値を突き放して見ているような、不信の姿勢である」と言う。

さらに面白いのがこれ。
1990年発行の講談社現代新書『手塚治虫ー時代と切り結ぶ表現者』のなかで著者の桜井哲夫氏は、手塚本人が自分のストーリーマンガの第一作だと言い切る『地底国の怪人』(1948年)を評して、このマンガの重要なポイントは「人間中心主義(ヒューマニズム)からの脱却」にあったと述べられている。

パラパラ読んだだけで真意を取り違えている可能性もあるので、興味のある方は元の本に当たっていただきたいが、とにかく手塚に詳しいプロの文筆家や大学教授のみなさんが、手塚を「ヒューマニズム」やら「人間愛」といった言葉では捉えて来なかった空気だけは伝わるものがあると思う。

じゃあそれは一体何なのか。
手塚にとって「ヒューマニズム」や「人間愛」には、どういう意味があったのか。


2002年にrockin' onから出版された『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』(宮崎駿)という本の中で、インタビュアーの渋谷陽一がこんな話をしている。

僕は一度、手塚治虫にインタヴューしたことがあるんです。で、ヒューマニズムについてちらっと話したら怒りだしちゃいましてね、手塚さんが。『もう、やめてくれ! 俺についてヒューマニズムというな、とにかく。俺はもう言っちゃ悪いけど、そこらへんにいるニヒリズムを持った奴よりもよほど深い絶望を抱えてやってるんだ』と

『ここではっきり断言するけど、金が儲かるからヒューマニストのフリをしているんだ。経済的な要請がなければ俺は一切やめる』と、もういきなりシリアスな顔をして怒られましてねえ

まあ特に説明はいらないだろう。「ヒューマニズム」でも「人間愛」でもいいが、それはつまりは商売上の看板であり、宣伝文句だったということだ。プロの批評家が、そんな程度のことを見抜けぬはずはない。
話のついでに記しておくと、しばしば”手塚ヒューマニズムの集大成!”みたいに宣伝されることの多い『ブッダ』。それについても、手塚本人がこんな話をしている。

逆にアトムのように、モラルで塗り固められた善人には、たいへん反発というか異質なものを感じて避けたくなることだってあります。『ブッダ』の終わりのほうなどは、早くやめたくなって、なんでこんなものを描き出してしまったんだろう、と思うくらい嫌悪を感じたこともありました」(『ガラスの地球を救え』手塚治虫/光文社智恵の森文庫)

ぼくのようなひねくれ者は、こんな話を聞くと何だか痛快な気分になって、手塚治虫という人物に親近感が湧いて来てしまうわけだが、それはさておき話を戻すと、一般に言われる「ヒューマニズム」やら「人間愛」といった「テーマ」が、その実態は商売上の看板であり宣伝文句であることが、ご本人の発言から分かった。

が、それは長年手塚が掲げてきた「生命の尊厳」というテーマに「経済的な要請」が結びついての結果であって、手塚本人がもとより意図したことではないだろう。「生命の尊厳」自体は、松本零士における「友情」のように、手塚の心情的テーマとして確かに作品中に存在していると思う。

それでは、松本零士で見られる「敗戦」「戦後」、すなわち表現上のテーマは、手塚の場合は何に見いだせるのだろう。

だらだらと長くなってしまったので、つづく。

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手塚治虫のテーマ「生命の尊厳」

ぼくのマンガ人生

いつまでも脱線していてもキリがないので、ざっくばらんに行きたい。
ぼくは劇場版『銀河鉄道999』における「テーマ」だと言われる「限りある命の尊さ」は、松本零士にとっての心情的なテーマとも表現的なテーマとも別に、それらの上に半ばムリヤリ載せられた言葉なんじゃないかと考えた。要は、お飾りというやつだ。

それでは、松本零士ご本人は、その点についてどうお考えになっているのか。
私は機械化したい人間がいれば機械化すればいいし、生身で生きたいならそれはそれでいいのではないかと思う。どっちが幸福であるかは、その人の人生が終わってみなければわからない」(『完全版 銀河鉄道999 PERFECT BOOK』(宝島社/2006年)

と、まあ見てのとおりで、そんなもんはどうでもいいと氏は考えているようだ。
少なくとも、氏にとっての『999』のテーマはそんなところにはない。ぼくには、そう聞こえる。
じゃあ誰が、『999』に原作者ですら意図していないような「テーマ」を与えたのか。
常識的に考えれば、そんな権限がある人間はただ一人だろう。監督の、りんたろう氏だ。

・・・といった辺りで、古くからのアニメファンであれば、この先の話は容易に想像がついてしまうだろう(笑)。
アニメ監督としてのりんたろう氏のキャリアは、手塚治虫率いる虫プロダクションからスタートした。氏が虫プロ時代に手がけた作品としては『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『ムーミン』などがあげられる。とWikipediaにはある。

で、今からは想像もつかない話だが、『アトム』や『ジャングル大帝』の時代、アニメはPTAやマスコミからひどく害悪視されていたそうだ。

『鉄腕アトム』がテレビ放送された当時は、新聞でよく叩かれました。子どもに悪影響を与えると(笑)。サブカルチャーの端っこにいましたよ。でも、子どもには世間の批判など関係ないわけで、それは今でも同じだよね。世間の良識とは断ち切れたところに子どもたちはいて、自由に観ていたと思う。当時批判していた連中は手のひらを返したように日本のアニメーションは素晴らしいと言っている(笑)」(『よなよなペンギン』りんたろう監督単独インタビュー/紀伊國屋書店Forest Plus

ざっくばらんに行きたい。
1986〜88年に手塚治虫が行った講演をまとめた『ぼくのマンガ人生』(岩波新書)のなかで、手塚治虫は再三に渡って”『生命の尊厳』がぼくのテーマ”だと語っている。それは「ぼくの信念」であり、「根本的」なテーマなのだと。

おそらくこうした手塚の主張は、マンガやアニメを取り巻く批判の逆風に立ち向かうべく、統一されたものなのだろう。たしかにマンガやアニメには暴力シーンも破壊シーンもあれば、人も死ぬ。だが、それらは、そうした描写を通じて子どもたちに「生命の尊厳」を伝えるための方便なのだ。と言えば、だいぶ聞こえが良くなる。

もちろんこの間の手塚の苦悩、苦労を、りんたろう氏が知らないはずはない。
「生命の尊厳」と「限りある命の尊さ」・・・。ざっくばらんに言って、非常に似ている・・・。

手塚の努力が実ったか、1979年にもなるとアニメもようやく市民権を得るようになった。りんたろう監督の『銀河鉄道999』は、その年の邦画興行成績の第1位という偉業を成し遂げた。
だが、ぼくに言わせれば同じような主張と世界観を持っているはずの、『わが青春のアルカディア』は惨敗した。アニメ史を語るような本をみても、今ではそのタイトルが出てくることすら稀だ。

ぼくにはこの両者の差は、「宣伝」や「看板」の差にもあったように思える。
ざっくばらんに言えば、そこに手塚的テーマの「生命の尊厳」があるかないか。それは『999』にはあって、『アルカディア』にはなかった。

そんな手塚的テーマを、人は「手塚ヒューマニズム」とも呼んだ。

話がぜんぜん進まないが、つづく

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前回の補足・・・

せくしー

前回の記事は、自分で読み返しても何が言いたいのやらサッパリ分からないので、その補足から。

キャプテン・ハーロック『わが青春のアルカディア』で描かれた世界観が、あの日本の敗戦そのものであったことには疑いを挟む余地はないだろう。また、1982年の段階で、その後に日本が辿ることになる未来を描いていたことも同様。
問題は『銀河鉄道999』の方だ。

機械化帝国とは、一体何を表すものなのか?
ぼくはそこには、やはり松本零士の実体験が投影されているんじゃないかと思う。すなわち、「焼け跡世代」が見た、二つの価値観の対立と、新旧の交代劇だ。交代劇というと聞こえがいいが、要は、古い日本の価値観が、新しいアメリカ流の価値観に征服、占領されていく有り様をこの世代の人たちは見た。それが70年代の特撮やアニメに落としてきた影については、すでにあちこちに散発的に書いたことなので繰り返さない。

『銀河鉄道999』においては、アンドロメダという、言ってみれば海の向こうから来た価値観によって、全ての人間世界が覆われていく様子が描かれている。そしてその価値観の内容(永遠の命)はとても魅力的なものであり、それ自体が「悪」だとは言い切れないものがある。
しかし星野鉄郎はその価値観を「悪」だと考えた。ただしそれは、鉄郎の個人的な考えでしかないことは明らかで、機械の体とその人間性の間には完全な一致はない。機械だろうが生身だろうが、善人は善人だし、悪人は悪人だ。

問題があるとすれば、それは本来対等であるはずの二つの価値観の間にはハッキリとした上下関係があることで、それが支配と差別の構造を産み出していることだ。
もちろん、戦後の日本にそのような構造があったと言う訳じゃないが、日本人が受け入れたアメリカ式の価値観が、「正義」と名を変えてそれ以外の価値観を破壊しようとしたことは、歴史上の事実として多数残されている(そしてそれはまた、現在進行形でもある)。

つまりはこれは、東京人と大阪人が、ソバかうどんかを巡って言い争っているような構図ではない。
機械化原理主義は絶対的な価値観であり、他は一切認めない、という構図だ。
そして『銀河鉄道999』の世界では、人々はその価値観に盲従した。現実の東欧でソビエト支配へのレジスタンスが起こったり、中東の人々がアメリカ流に断固として抵抗したような姿はここにはない(ここでは続編は無視しています)。

だからぼくは、『銀河鉄道999』の人間世界には、戦後の日本が投影されていると思うわけだ。


※念のため書いておきますが、鉄郎がテロ行為に走ったからと言って、『銀河鉄道999』はいわゆる左翼暴力革命を支持するような作品ではないでしょう。まず、鉄郎の主張していることは「本来の姿に戻れ」ということで、立場は明らかな「保守」となります。また、機械化帝国は人間世界を統治するものではないので、いわゆる「権力」ではないでしょう。鉄郎は権力機構という形あるものを破壊したのではなく、それがまき散らす価値観の大元を破壊しただけ。
それゆえぼくは、鉄郎の戦いを「思想戦」だと言うわけです。


・・・3行くらいで終わらせるつもりが長くなってしまったので手短にまとめたいが、そうして見ると『銀河鉄道999』と『わが青春のアルカディア』はいたって似たようなテーマを構造として持つ作品だと思えてくる。

松本零士氏自身の主張する、心情的テーマとでも言うべきものは、男と男の友情であったり、民族の共存であったりと、「世界中がお互いに理解し合い、仲良く暮らしていきたい」に繋がっていくものだ。これは松本作品をみれば、大抵どこかしらに描かれていることだ。
一方、松本作品に横たわる世界観は「敗戦」であり「戦後」だろう。これを表現上のテーマと呼んでみることにする。

ただし、そのうちのいずれがインパクトを持つかと言えば、ぼくはそれは後者、表現上のテーマの方だと思う。
氏の実体験からくる「敗戦」「戦後」の描写には、ぼくら戦後生まれが決して描くことの出来ないリアリティが存在する。大げさに言えば、血の叫びみたいなもんだ。

一方、前者、心情的テーマの方は失礼ながら、いかにも優等生的発言のような気がするし、理想論の域を出ないようにも思える。別に反対する理由もないので、お愛想で頷いておこうかといったところか。

無論、このように作品を通して共通のWテーマを持つ人は松本零士に限った話ではない。
作家である以上、何らかの一貫したテーマを掲げるのは普通のことだし、その一方で本人の自覚とは無関係に、あふれ出てしまう本音のようなものもあるだろう。

それが端的に表れているのが、氏が敬愛し、「初期の希少な漫画本を多くの資料と共に保管」(Wikipediaより)しているという、手塚治虫だとぼくは思う。

つづく

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わが青春のアルカディア(キャプテン・ハーロック)

キャプテン・ハーロック

ネット上、あるいは書籍に残されている松本零士氏のインタビューを読むと、繰り返し語られている話題が3つほどあるように思う。大雑把にまとめると、一つは「人類は人種の壁を越えて仲良くするべきだ」という、氏の基本的な主張。それと、友情の大切さ。加えて、氏の戦争体験だ。
もちろん、これらは密接に関わっているわけで、悲惨な戦争体験を味わった松本零士が、その解決策に「人種を越えた友情」を見いだしたのだ、と聞けば極めて一貫性のある話だろう。

例えば、とあるインタビューで松本零士はこんな話をしている。

世界中の読者あるいは、同年代にも伝えたいのは、私は世界中がお互いに理解し合い、仲良く暮らしていきたい。そのためにも、思想、宗教、信条、民族感情、これに土足で絶対に踏み込んではならない。お互いに敬意を払いながら楽しく仕事を続けていきたいし、またそう言う物を描きたい。(中略)だから、地球上で争っている場合ではない。どこの国の人とも仲良く、お互いに敬意を払いながら、穏やかに楽しく暮らしていきたい。そのために、この仕事をしているんだという断固たる想いがあるわけです」(夢は叶うー 〜松本零士〜 asianbeat

実際、2001年に公開される予定だった新作『宇宙戦艦ヤマト』は、そんな氏の主張を反映して「多国籍的な乗組員」になる予定だったそうな(『宇宙戦艦ヤマト伝説』フットワーク出版社)。そういえば劇場版『銀河鉄道999』(1979年)でも、トレーダー分岐点などで「多国籍的な」人々が都会で共存している様子が描かれていた。
人種の壁を越えて仲良くすることが、氏の考える人類の未来像であったことは確かなのだろう。

1982年公開の『わが青春のアルカディア』(原作・構成・企画 - 松本零士)でも、もちろん「友情」は大きなテーマとなっている。ハーロックとトチローの時を超えた友情、地球人とトカーガ星人の人種を超えた友情は、このアニメ映画のストーリー上の根幹だろう。やはり松本零士の思想は、一貫して劇中で描かれているわけだ。

ところがさすがに「キャプテン・ハーロック」といえば松本ワールドの中心人物だけあって、その劇場版ともなると、まさに松本零士その人自体でもあった。氏の戦争体験すらが『わが青春のアルカディア』には描かれていたのだ。
それを言葉で表すとこうなる。

それから亡国の悲哀ね、国が破れるということがどういうことなのかということは、子供心にもイヤっていう程味わいましたね。B29の大群に追われ、機銃掃射も受けている、その記憶がまだ生々しい内に占領軍がやって来て、そんなるつぼの中で暮らしていたんですよ。あの頃の私たちの扱いって、本当に動物以下でしたからね。
 と言っても、ひとりひとりの兵士に対しての憎しみは起こらないですけどね。中には優しい人もいるわけでしょ。ただ占領軍全体となると『絶対に施しは受けない』っていう気概は子供ながらに持っていましたね。占領軍兵士が投げてくるキャンディーなどは踏み潰して歩いてましたから
」(松本零士インタビュー ルーフトップ★ギャラクシー

そして、以下が映画のあらすじだ。


『わが青春のアルカディア』の世界では、宇宙は「イルミダス」という宇宙人の侵略に脅かされていた。地球も例外ではなく、抵抗むなしくイルミダス地球占領軍に統治される状態だった。ハーロックは実戦英雄賞をもらうほどの名将だったが、いまは難民引き揚げ船の艦長でしかない。
イルミダス人は地球人を奴隷扱いにしていて、「この薄汚い黄色のネズミめ」とののしって、手に持っていた「フライドチキン」を投げつけてくる有様。さらにイルミダス人は地球人を評してこう言う。
「地球人はすぐに新しい環境に順応する。つまり、昨日まで敵だとわめいていた我々に、今日は尻尾を振ってついてくる

続いてハーロックには、地球人の義勇軍を組織して、トカーガ星を滅ぼしに行けという命令が下る。命令を持ってきたのは「協力内閣首相」のトライター氏だ。彼は、イルミダスに協力すれば地球の安全は保証される、だからトカーガを滅ぼしてイルミダスへの忠誠を示すべきだと言う。
もちろんハーロックはこの申し出を断り、腐りきった地球を脱出しようと、宇宙貿易人エメラルダスの宇宙船を奪おうとする。するとそこに地球占領に協力させられていたトカーガ人のゾルたちがやってきて、その船は自分たちがトカーガに戻るために使わせてくれと言ってくる。イルミダスが地球占領のためにトカーガ人を利用し、用済みになったトカーガを今度は地球人の手で滅ぼさせようとしていることに気付いた彼らは、手を取り合ってイルミダスへの抵抗を誓う・・・。


さて、以上のストーリーが意味しているものは至って明快なものだろう。「地球」を「日本」に入れ替えればいい。
戦争に敗れてアメリカに占領された日本。そして、アメリカの命令で他国の侵略に向かわせられる未来の日本が、『わが青春のアルカディア』で描かれた「世界」だ。氏のインタビューでの発言こそが、その裏付けだと言えるだろう。

私見だが、『わが青春のアルカディア』では、この強烈な世界観の方が、テーマとされている「友情」よりもはるかに強いインパクトを持っていたように思える。「友情」テーマは『巨人の星』でお腹いっぱいというぼくらだったが、そこには確かにリアルな「敗戦」が存在した。さらには戦勝国アメリカに「尻尾を振ってついて」いった、日本の「戦後」が存在した。

そしてもしも松本零士が、そんな忘れられつつある日本の「敗戦」と、高度経済成長後の見えにくくなっている日本の「戦後」を描く作家なのだとしたら、『銀河鉄道999』にもまた違った光が当たるだろう。
それは、人間世界全てを覆い尽くそうとする「機械化グローバリズム」への抵抗の物語だと考えることができるはずだ。ぼくが『999』での鉄郎の戦いを「思想戦」だというのは、鉄郎が解放しようとしたものが、他ならぬ、機械化至上主義という単一の価値観に「占領」されてしまった「心」だと思うからだ。

上掲のインタビューで氏も言っている。
「思想、宗教、信条、民族感情、これに土足で絶対に踏み込んではならない」

ハーロックにせよ星野鉄郎にせよ、それらに「踏み込んで」くる者と戦うためのレジスタンスでありテロだった。
劇中の主人公たちには、そのような暴力的な手段しか選択肢がなかった。
・・・だが、少年少女が見るアニメ映画が、テロを推奨するようなものであっていいはずがない。そこでは美しく、希望に満ちた言葉が語られなければならない・・・。


などと、今さら力説するような話じゃないんだが、要は、子どもが見れば「限りある命の尊さ」だったり「時空を超えた友情の尊さ」だったりする映画が、おとなから見れば悲しい現実を描いていることが分かる・・・なんてのは良くあることだ。前回の記事では散々煽ってみたものの、テーマとストーリーが乖離しているのは、少年向け作品の宿命なのかもしれない。

ならば何故、いま『イデオン』のカテゴリで松本零士について触れているのか。
それは『銀河鉄道999』が、ストーリー上の矛盾を抱えるリスクを押してでも選んだ言葉、すなわち「限りある命の尊さ」という「テーマ」が、ある偉大なマンガ家の「テーマ」に寄生することで、その過激なテロ思想が露呈することを回避したような気がしているからだ。

つづく

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銀河鉄道999(劇場版)

鉄郎とハーロックとメーテル

さて、『ガンダム』に続いては、当然ながら同じく富野監督の代表作である『伝説巨神イデオン』に話を進めたい。

すでに延々と書いてきた通り、ぼくは『ガンダム』という作品は、戦場を舞台とした青春群像劇を展開する裏側で、既存のヒーロー番組の「嘘」をことごとく撃破していった解体者だったと思っている。
その結果、あれほど隆盛を誇った横山光輝や石ノ森章太郎、永井豪といった大御所の世界観は、『ガンダム』登場後はその活躍の場を失ってしまった。おそらくこの点については、いま40〜45才ぐらいのオッサンであれば、リアルに体験した共通認識なんじゃないかと思う。

では、そんな解体者、富野監督が次に粉砕すべき相手は誰なのか?
「おとなの嘘」をついているのは誰なのか?
言うまでもない。マンガの神様にして、日本のアニメの創設者、手塚治虫以外誰も残っていない。
『伝説巨神イデオン』とは、富野監督が手塚解体に向けて放った刺客だったのだ!


・・・てな感じで話を進めていこうと思うわけですが、とある手塚解説書によりますと、「もし彼を論ずるのなら、当然のことながら、少なくとも彼の全作品を読んでみる必要があるだろう」とのことです。全くおっしゃる通りです。

ところが、あらかじめ白状しておくと、ぼくは手塚先生のマンガはほとんど読んでいないのです。『ドカベン』目当てで買っていたチャンピオンに掲載されていた『ブラックジャック』、それと『火の鳥』『ブッダ』ぐらいが、ぼくが少年時代に読んだ手塚作品でした。しかも、本当に面白いと思って読んでいたかというと疑問もあって、そろそろ背伸びしたい年頃のクソガキが、権威あるものから教養を得る、くらいの気分で『火の鳥』を買い集めていたような記憶があります。

そんな体たらくですので、手塚通の方がこの先を読むと腹が立つ可能性がありますのでご注意を。


・・・と、先に予防線だけは張っておいてサッサと本題に入りたいところだが、また例によって回りくどい前置きを(笑)。

ちょうど『機動戦士ガンダム』の初回放送が低視聴率にあえいでいた1979年の夏、松本零士原作のアニメ映画が公開された。『銀河鉄道999』だ。
Wikipediaによると、「配給収入は16億5000万円。1979年度の邦画の第一位で、これはアニメ映画史上初の快挙だった」そうで、「1970年代後半から1980年代前半に巻き起こったアニメブームを代表する作品の一つ」とのことだ。

あらすじは長くなるのでこちらを参照していただきたい(銀河鉄道999(1979) - goo 映画)が、簡単にまとめてしまえば、星野鉄郎という自分では「機械の体」を買えない貧乏な少年が、それをタダでくれるという星まで宇宙を旅をする話だ。ただ、星野鉄郎にはもう一つ、自分の母親を殺害した「機械伯爵」なる人物に復讐を遂げたいという思いもあった。

そして『銀河鉄道999』において、テーマと目されるものが出現するのは、実はサブストーリーと思われた復讐劇の方だった。復讐を遂げた星野鉄郎は、協力してくれたキャプテンハーロックにこう言う。

「機械伯爵や機械化人を見ていると、永遠に生きる事だけが幸せじゃない、限りある命だから人は精一杯頑張るし、思いやりややさしさがそこに生まれるんだと、そう気がついたんです。機械の体なんて、宇宙から全部なくなってしまえと」

すなわち、「限りある命の尊さ」、それが『銀河鉄道999』のテーマである。とはWikipediaにも書いてある。
星野鉄郎の元々の旅の目的は自分自身が機械の体になることだったが、それは間違っていた。寿命があるからこそ、人は「精一杯頑張る」し、「思いやりややさしさがそこに生まれる」ことに鉄郎は気がついたのであった、と。

・・・何か変だ。

人間の命に限りがあるなんて当たり前のことで、限りがない「永遠の命」を持っているのは劇中の機械化人だけのことだ。となると、ありもしない架空の事象から、この作品のテーマは導き出されていることになる。
それは果たしてテーマと呼べるようなものなんだろうか?

それに、鉄郎が劇中で知っている事実には、実はこのテーマに相反してしまうものがある。
ガラスのクレアさんの存在だ。
999号でウエートレスをしているクレアさんは、機械の体でありながら「精一杯頑張る」し、「思いやりややさしさ」があって、もちろん「人間狩り」などしない。このことは、旅の最初からずっと鉄郎自身が確認できたことだ。
そしてその反対に、生身の体でありながら「精一杯頑張る」ことをせず、「思いやりややさしさ」を持たない人間がいることを、他ならぬぼくら当時の少年少女自身が知っている・・・。

鉄郎のセリフはこう続けられる。

「ぼくたちは、この体を永遠に生きてゆけるからという理由だけで、機械の体になんかしてはいけないと気がついたんです。だからぼくは、アンドロメダの機械の体をタダでくれるという星へ行って、その星を破壊してしまいたいのです」

クレアさんに見られるように、体が生身か機械かはその人間性とは一致しない。
が、鉄郎は機械の体は間違っていると言う。これは鉄郎個人の考え方であって、そうは思わない人もいるだろう。残念ながらこの時の鉄郎の発言だけでは、機械の体のおかげで病気がちの肉体を克服できた人に、元の体に戻れと説得することはできないと思う。

そうして見ると、この後に展開される鉄郎の戦いとは、実のところ一種の思想戦なんだと思えてくる。
キリスト教が正しいのか、それともイスラム教が正しいのか。
鉄郎は生身の体が正しいと言い、機械化母星のプロメシュームは機械の体が正しいと言う。お互いに譲ることはない。

そして鉄郎はおのが信条に基づいて機械化母星に乗り込むと、機械化母星を破壊してしまった。
元は生身の人間であった、多くの機械化人たちが宇宙の藻屑となっていった。
鉄郎は「永遠の命」の大量虐殺と引き替えに、「限りある命の尊さ」という思想を守ったのだった。


・・・そのような鉄郎の行為を、一般的にはテロリズムという。

「限りある命の尊さ」と聞けば聞こえがいいが、裏を返せばその実態は、「永遠の命」の人間は尊くないというのが『銀河鉄道999』で表されたことだ。これは何とも不思議なテーマだ。クレアさんはその例外として扱われているが、それは彼女が「限りある命」に戻ろうとしているから「善」であるという、強調表現のひとつなのだろう。

要するに、『銀河鉄道999』は、テーマと言われているものと全体のストーリーの間に、かなりの乖離がある作品なのではないか? 
というか、ぶっちゃけ「限りある命の尊さ」なんて、後から取って付けた「テーマ」だったんじゃないか?
そして「テーマ」を取っ払ってみたとき、そこにあるストーリーから自然に読み取れるものが、何か他にあるんじゃなかろうか?

つづく

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