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竹波エーイチ

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吉見百穴とコロボックル -出雲編その7

吉見百穴

今から40年以上前になるが、近所の女子小学生たちがこぞって読んでいた本に『だれも知らない小さな国』(佐藤さとる/講談社)がある。語り手である「ぼく」と「こぼしさま」なる小人たちの物語で、当時はファンシー過ぎる気がして読まなかったぼくだったが、「コロボックル」という言葉だけはこの本で知った。

最近だと、ジブリの『借りぐらしのアリエッティ』(2010年)に出てきたアレ、といえば分かりやすいか。コロボックルってのはアイヌ語で「蕗の葉の下の人」という意味だそうで、身長は3cmほど。動きが異様に素早くて、しゃべりも早口だが人語を解する。通常は人間の社会から近い場所で、集団で生活している・・・。

という設定になっているが、もちろん実在はしない。
だが、明治時代にはコロボックルの住居跡だと考えられていた遺跡が、現在でも存在する。
埼玉県の比企郡吉見町にある「吉見百穴」だ。

訪問したのは小学校の遠足以来になるが、今見ても瞬時には理解不能な、不思議な遺跡だ。案内板によると、あれはコロボックルの住居跡ではなく、古墳時代末期(6世紀末〜7世紀末)の「横穴墓」というものらしい。

見ての通り、丘陵や台地の斜面を掘削して作ったお墓で、5世紀末と言われる埼玉古墳群より後の時代のものだ。西暦647年に発布された「薄葬令」によって、地方豪族が前方後円墳みたいなデカい古墳を造営することが制限された結果だ、とも書いてある。

ところでこの「吉見百穴」は、一体どこの誰が作ったものなのか。
無論、なんの記録もない時代のことで分かるわけはないが、興味深い指摘がある。『出雲を原郷とする人たち』(岡本雅享/藤原書店)という本によると、吉見百穴の横穴墓は「出雲系」なんだそうだ。

『日本の横穴墓』で、吉見百穴墓群の変遷を五段階に編年整理した池上悟立正大学教授は、その初期型は玄室が方形で、左右の側壁沿いに縁取りされた二つの棺座(遺体を安置した棺を乗せる場所)を付設し、それに対し直角に羨道がつく特徴を持つと分析。平面でみればT字形をなすこの横穴墓は、出雲意宇型に系譜を持つ出雲系横穴墓だとする。東海から南関東にかけて畿内・河内系横穴墓が分布する中、北武蔵の吉見百穴が出雲系なのは異彩を放つと、池上教授はいう。


棺座

写真は羨道から向かって左の棺座を写したもの。当然、右側にも左右対称で棺座がある。また、案内板の図だと羨道が膨らんで描かれていて「T字形」に見えないが、実物は池上教授の指摘どおりだ。

そういえば『だれも知らない小さな国』では、コロボックルたちは自分たちの先祖を「スクナヒコサマ」ダヨと言っていた。スクナビコナ(少名毘古那/少彦名)はオオクニヌシの国作りに協力した、知恵ある小人の神さまだ。二神が出会った場所は出雲なので、その子孫だというコロボックルたちも、元を辿れば出雲から来たことになる、のか?

それにしても、仮に吉見百穴の横穴墓が「出雲系」なのが事実だとしても、中間地点であるはずの東海や南関東がそれではない「畿内・河内系」だというのは、どういう理由なんだろう。

これまた勿論、正解は分からない。
が、『出雲を原郷とする人たち』には考えるヒントが示されている。出雲系「いわい」神社の分布だ。

本には、「越後から信濃、上野、武蔵へと出雲祝系の古社が連なるのだ」とあり、新潟の石井(いわい)神社、長野の祝神社、群馬の小祝神社、埼玉の出雲乃伊波比神社(寄居町)、出雲伊波比神社(毛呂山町)、伊波比神社(吉見町)、出雲祝神社(入間市)の名前が挙げられている。
つまり、彼らは東海道ルートではなく、北から南下してきたんじゃないか、というわけだ。

ちなみに「出雲国以外の式内出雲神社」は九社あるそうだが、その中で「出雲から最も遠く離れながら二社もあるのが武蔵国」なんだと。「式内社」ってのは927年にまとめられた『延喜式神名帳』に名前が掲載されている由緒正しい神社を指すが、ふるさとを遠く離れてなお「出雲」を冠した神社で、出雲の人たちが何を祝ったのか。

それを知る術はないが、とりあえず現地に行ってみた。

出雲伊波比神社

毛呂山町の出雲伊波比神社は、期待以上の雰囲気を持った神社だった。臥龍山なんて、諸葛孔明が昼寝でもしてそうな小山に鬱蒼と木々が繁っていて、はじめは入口すら分からず。登ってからは凜とした冷たい空気が漂い、静かにお詣りできた。個人的に、山と森と神社というスタイルが好みらしく、宇佐神宮とか香取神宮とかに近い印象で好感が持てた。


ところで、埼玉西部に出雲系の「いわい」神社チェーンがあれば、東部にも別の出雲系神社チェーンがある。氷川、久伊豆、鷲宮の神社群だ。『出雲を原郷とする人たち』によれば、埼玉県神社庁調査資料室の髙橋寬司学芸員の集計として、武蔵国内に氷川神社は284社、久伊豆神社は54社、鷲宮神社は100社あるそうな。

それほど多くの神社が出雲系ということだが、それらの創建に関わる記述をwikiから引用してみるとこうだ。

・・・成務天皇(第13代天皇)の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し[6]、祖神を祀って氏神として、(氷川神社)

・・・崇神天皇の時代に出雲大社から勧請して創建されたと伝える(氷川女体神社

・・・土師氏が出雲から久伊豆明神(大己貴命)の分霊を勧進し岩槻に社殿を建立した(岩槻久伊豆神社

・・・東国を経営するため、お供の昌彦・昌武の父子と出雲族27人の部族と共に当地に到着し(鷲宮神社)


壮観としか言い様がないな。
神話の国、出雲がそっくり引っ越してきたかと思えるほど、西も東も、どこもかしこも出雲だらけだ。ならば生粋の埼玉県民とは、出雲の神々の末裔なのか!?

それはさておき、今回いろいろと社伝を眺めていて思ったのが、これって実は本当の歴史が書いてあるのでは?ってことだ。
もちろん神話時代の話はそのまま信じることはできないが、少なくとも実在の可能性が否定されてはいない第10代崇神天皇の御代からの記述には、ある程度の整合性がとれているようにぼくには見える。

出雲側の事件と合わせて、順を追って並べていく。
まずは西暦150年ごろ、出雲では358本もの銅剣を一箇所に埋める謎の儀式が行われた。この数は古代出雲の神社の数とほぼ一致するそうで、出雲の諸豪族が銅剣祭祀を通じて団結していたことを表すそうだ(『古代日本誕生の謎』武光誠/PHP文庫)。

そして、長浜浩明さんの計算によれば西暦207年、今の奈良県桜井市で崇神天皇が即位する。212年ごろにヤマトから「四道将軍」が「越」「丹波」「吉備」「東海」の制圧に向かう。
この時代に、出雲族が武蔵国に創建したとされるのが、中氷川神社、氷川女体神社だ。なぜ出雲族が武蔵まで来たのかは理由不明だが、崇神天皇の時代に「出雲大神の宮」の宝を巡って、出雲振根(ふるね)という豪族が四道将軍に攻め滅ぼされた事件が『日本書紀』には書いてある。

ちなみに同じ頃、邪馬台国の卑弥呼は中国の魏に使者を送って金印をもらったりしているが、これは九州での話。

第11代垂仁天皇の32年(西暦256年ごろ)、野見宿祢(すくね)が出雲から土部100人を呼んで「埴輪」を開発し、これを喜んだ天皇から「土師(はじ)」の姓を賜ったと『日本書紀』にある。
年代はズレるが、鷲宮神社には「崇神天皇の時代に河内国から東国へ移住した土師氏が(略)当地に移住した際に先祖を祀ったのが起源」という話も残されていて、出雲から河内を経由して武蔵へという人の流れはあったようだ。「はにしのみや」がいつしか訛り、現在の「わしのみや」になった、とも。

第12代景行天皇の在位は西暦290〜320年。息子のヤマトタケルが九州や東国を平定して回ったとされる時代で、出雲伊波比神社はヤマトタケルによる創建だという。鷲宮神社に出雲国造の祖神アメノホヒを合祀したのもヤマトタケルだとか。

続く第13代成務天皇の御代、ヤマトタケルが平定しまくった武蔵国に、出雲国造の一族から「エタモヒ(兄多毛比)」なる人物が初代の武蔵国造として赴任したと『先代旧事本紀』に書いてある。成務天皇5年とのことで、長浜暦だと323年ごろ。んでこのエタモヒさんが創建に関わったのが、氷川神社、玉敷神社大國魂神社なんだと。

そして出雲にヤマトのシンボル、前方後円墳が出現したのが西暦370年頃ということで、350年前後には大和朝廷による出雲制圧は完成したと考えられるそうだ(『古代日本誕生の謎』)。

うどん

(埼玉に行ったら"うどん"だろうと、吉見百穴の前にあった『松音屋』で"えび天ぷら冷や汁うどん"を食ったが、やたら美味いのでビックリした。うどんは腰が強く、天ぷらは最後まで衣はサクサク、えびはホクホクで、きっと普段は行列ができてるに違いない。)


さて門外漢ながらまとめると、もともと出雲から武蔵への人の流れはあったが、ヤマトタケルによる東国平定ののち、出雲国造一族からエタモヒなる人物が最初の武蔵国造として赴任した際、大規模な人の移動が行われ、氷川神社や大國魂神社などが創建された、という感じか。

出雲国造といえば皇室に次ぐ古い家柄で、そこの分家が武蔵国造となれば、その地位はけっこう高かったのかも知れない。
そういえば元日に天皇が行う四方拝という儀式で、「伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵・先帝三代の各山陵」(wiki)に続いて拝礼を受けるのは、大宮の氷川神社らしい。両賀茂神社、石清水八幡宮、熱田神宮、鹿島神宮、香取神宮を差し置いて、のことなので、その優遇は半端ないと不思議だったが、少し理由が見えてきたような気もする。

・・・いや、確かに社伝の件は朝廷が描いた「絵」や「筋書き」を押しつけられた「だけ」なのかも知れないし、氷川神社が優遇されてるのは皇居が武蔵国に移ってきたおかげ「だけ」なのかも知れない。ただ、そうやって冷静に見るのも、何だか今いち面白くなくてさ(笑)。

ま、いずれの謎も、ぼくが答えを出せるようなものじゃないだろう。
ぼくにできることは、実際に謎を見物しに行って、うまいうどんを食うことだ。

次回、氷川神社へつづく(出雲はいつ?)。

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手長足長と御柱 -出雲編その6

手長足長

アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』、第3シリーズの第81話は「コンビ妖怪手長足長」。
手長足長は東日本に広く伝えられる伝説の巨人だが、wikiを見る限りでは、アニメに出てきたのは福井県バージョンのようだ。「足長が手長を背負って海に入り、手長が貝のフンをその長い手で海に入れ、魚をおびき寄せ獲って暮らしていたという」。

ところでそんな妖怪をお祀りする神社が、諏訪にあった。
手長神社足長神社だ。
妖怪を祀る、なんて書くと怒られそうだが、実際には手長神社はテナヅチ、足長神社はアシナヅチ、というのが神社公式の祭神だ。

誰それ?ってのが普通の反応だろう。
神話時代の出雲で、怪獣ヤマタノオロチに7人の娘を食われてしまった、気の毒な夫婦がアシナヅチとテナヅチ。幸い、8人目のクシナダヒメが怪獣を倒したスサノオの妃になったので、外戚として神々の末席に加えられたのだろう(知らんけど)。

それにしても、なぜ諏訪に出雲の神が祀られているのだろう。それも、かなりマニアックというか、ローカルな神が。
それでwikiを見てみると「建御名方神が諏訪に侵入する以前に、諏訪を支配していた神の一つで、洩矢神と共に建御名方神と戦った」と書いてある。

んー?、タケミナカタといえばオオクニヌシの息子のはずで、スサノオはひいひいひいひいひい爺ちゃんでクシナダヒメはひいx5婆ちゃんだ。ならば手長足長は、ひいx6爺ちゃん、ひいx6婆ちゃん。なのに、自分のひいx6孫と戦って・・・、と何がなにやら、話がこんがらがってくるが、それは神話(古事記)をまともに読んだ場合のこと。

要は、「土蜘蛛(つちぐも)」とか「国栖(くず)」といった、「まつろわぬ神」に分類されるのが手長足長で、諏訪で祀られている理由は、「分からん!知るか!」というのが答えなんだろう。

だが何事も、現地に出かけてみなければ見えない風景もある。

手長神社の境内をウロウロしながら、出雲はねーがーと、出雲の痕跡を血走った目で探したぼくらだったが、拝殿の横に鎮座するたくさんの摂社・末社には思わずほっこり和まされてしまった。大も小も、どれもが己に合ったサイズの「御柱」を4本ずつ建てていて、なかでも上の写真にある高さ80cmほどのミニ神社のミニ御柱は、持ち帰りたいほどの可愛さだった。

諏訪には道ばたの小さな祠にも御柱があると聞いて、それを見ることも旅の目的にしていたぼくらは、すっかり満足した。そして上の写真の大きい方の社に手を合わせたとき、ぼくはふいに、似たような感じの4本柱が描かれたCGを思い出した。

それは出雲の王の墓、「四隅突出型墳丘墓」を再現したCGで、「埋葬部の周囲からは4本の柱跡が発見され」と書いてあるものだった(『CGでよみがえる古代出雲王国』別冊宝島)。

四隅突出型墳丘墓

MOOKには、「諏訪は出雲一族が落ち延びた里なのか」という見出しで、次のような文もあった。

そもそも諏訪大社は、山陰から北陸地方を経由して諏訪に定着した出雲系の人々によって建てられた神社だとも考えられている。タケミナカタはオオクニヌシと越の女神・ヌナカワヒメの間に生まれた神で、出雲と北陸双方につながりの深い神なのだ。


むろん、ここに出ている人名は虚構だろう。だが、邪馬台国より遙かに昔から隆盛を誇ってきた山陰の文化が、オオクニヌシ(出雲)から現地妻のヌナカワヒメ(越)へ、さらには庶子タケミナカタ(諏訪)へ、と流れたことを象徴的に表しているのは確かだろう。ただしそれは、実際には100年、200年とかけて行われたから、本来の形や意味を失っている可能性もある。

そもそも諏訪大社でもっとも古い上社前宮は、おなじみ『諏訪神社七つの謎』によれば「タケミナカタの墳墓の地であると伝えられる」とあり、wikiの「前宮境内図」にも「神陵」が記されている。つまり、前宮の4本の御柱は、タケミナカタのお墓の周りを囲むように立っているわけだ。

上のCGでは柱には屋根が取り付けられているが、四阿が建てられたとも「考えられている」という話で、はっきりしているのは墳墓の上に柱を立てる4つの穴があったということだけだ。

御柱が、本来の形や意味を失ってる可能性は、時間経過以外にもある。

諏訪大社上社で、生きたご神体「大祝(おおほうり)」として祀られた諏訪氏は、『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』によれば、「大和朝廷の仏教政策の具現者」だった。諏訪地方で最も古い寺「普門寺」が、初代大祝の邸内に建てられたことが、その根拠だ。
年代的には西暦580年頃とも800年頃とも考えられるらしいが、縄文以来の長い諏訪の歴史から見れば、"新人"さんだ。

そして諏訪氏の出自には、「出雲系」の臭いが全くない。
wikiで「諏訪氏」を開いて、command+Fで「出雲」と入力しても、些末なことしかヒットしない。

一方で、「出雲系の人々によって建てられた」とされる諏訪大社には、確かに出雲っぽい痕跡がある。
巨石信仰だ。

上掲のMOOKでは「日本最古の信仰のカタチ」として、古代出雲王国の巨石信仰がクローズアップされている。そして諏訪大社では、15世紀に仏教系の「お鉄塔」をご神体とする信仰軸ができるまでは、上社本宮に巨石「硯石」を磐座とする信仰軸が存在していたと『諏訪神社七つの謎』には書いてある。

だがちょっと待って欲しい。
諏訪には別の、「最古の信仰のカタチ」があったはずだ。精霊ミシャグジへの信仰だ。

<ミシャグジ>の祀られている所には必ず古樹が茂り、その木の根元には祠があり、御神体として石棒が納められているというのが最も典型的な<ミシャグジ>のあり方であるという。ほとんどの<ミシャグジ>がそうであるというのが、今井野菊さんの実地踏査の結論である。(『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古部族研究会/人間社文庫)


引用したとおりで、縄文以来の諏訪の土着信仰は、巨石信仰とは別のものだ。
確かに諏訪には古くから「諏訪七石」と呼ばれる奇石群があって信仰の対象とはされてきたが、今では硯石ですら大切に祀られてるとは言いがたく、ミシャグジ信仰との差は明白だ(所在不明も数石あるほど)。

その理由を素直に考えれば、それはそれが「外来」の信仰だからだろう。
おそらく、縄文以来の精霊ミシャグジ信仰と、西暦580〜800年ごろに始まった諏訪氏の神仏習合体制の中間期に、巨石を信仰する人々が外来した。諏訪では起源も意味も不明とされる4本の御柱も、彼らの手でもたらされた。しかしやがて彼らは諏訪を立ち去ったので、御柱も巨石も謎のまま、信仰だけが残された・・・。

なーんて想像をしてみたわけだが、彼らとは言うまでもなく、出雲族のことだ。
手長・足長両神社の祭神が出雲神話の登場人物なのも、彼らの置き土産だと思えば理屈には合う。


せっかくなので、出雲族が移動してきた時期についても想像してみる。

出雲の荒神谷遺跡からは358本もの銅剣が出土しているが、この数は古代出雲の神社の数とほぼ一致するそうで、出雲の諸豪族が銅剣祭祀を通じて団結していたことを表すそうだ(『古代日本誕生の謎』武光誠/PHP文庫)。
その年代は西暦150年ごろ。近畿のヤマト連合、九州のヤマタイ国連合に挟まれて、俺らヤベーって感じか(いや、その頃まだ九州は"倭国大乱"で、それどころではないかw)。

ヤマトから「四道将軍」が派遣されたのは崇神天皇10年(長浜浩明さんの計算だと西暦212年ごろか)。それぞれ「越」「丹波」「吉備」「東海」に向かったとあり、出雲とは書いてないが、マジやべーぞ。

ヤマトに従った弟を殺した出雲振根(ふるね)が、四道将軍に攻め滅ぼされたのが崇神天皇60年より前の話(はっきり書いてない)なので、西暦230年代か。その後、『古事記』にはヤマトタケルによる出雲建の殺害が出てるが、年代不明。景行天皇の在位、290〜320年(長浜暦)のどこか。

そして最終的に「朝廷の出雲制圧は四世紀中葉」というから、西暦350年前後ということのようだ。370年頃にはヤマトのシンボル、前方後円墳も出雲に出現してるとか(『古代日本誕生の謎』)。

ま、ざっと考えて西暦150年から370年あたりか(アバウトすぎかw)。

古代出雲の地形

もう一つ、出雲の祭祀について『CGでよみがえる古代出雲王国』には、興味深い記述があった。
「水辺の祭祀」についてだ。

とりわけ大切だったのが水と農耕にまつわる祭祀で、松江市の前田遺跡や出雲市の古志本郷遺跡などからは、首長たちが行ったと思われる水辺の祭祀の遺物が発見されている。遺跡から見つかるのは、鉄刀、大刀の柄、和琴などで、王(首長)たちは、神を招き喜ばせる琴を奏でながら、川や水路に大刀を捧げ投じていたらしい。


なるほど、水辺なら諏訪にもデカいのがあるぞ。
MOOKによれば、縄文時代には島根半島は独立した島だったらしく、いま出雲大社が建っている場所などは、大昔には海岸線だったのだとか。事情は諏訪も同じで、やはり縄文時代、諏訪盆地は大半が湖だったらしい。諏訪大社は4つとも、大昔の湖岸線近くに建っているという話だ。

もちろん、神社が成立していった弥生〜古墳時代の諏訪湖は今と大して変わらないんだろうが、それでも出雲族が郷愁を感じて長く留まったとしても不思議ではない地域ではあるだろう。
しかし彼らは去っていってしまった。
ならば彼らの水辺の祭祀は、その後どこで行われたんだろうか。

つづく

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