FC2ブログ
プロフィール

竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
一つの 「カテゴリ」 で一つの記事となってます(記事は古い順に並んでます)。同世代のおっさん向け。

カテゴリ
もくじ

全ての記事タイトルを表示する

ブログ内検索
月別アーカイブ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

主要記事
リンク
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

『竹取物語』(1987年・東宝) - 出雲編その2

かぐや姫

竹取物語』は1987年の東宝映画。監督は市川崑。

久々に観返したが、本来は娘を持つ親なら誰でも感情移入できる話なのに、かぐや姫の童女時代をバケモノに描きすぎて、肝心の「親心」に今イチ共感できなかった。三船敏郎と若尾文子の演技には問題があるはずもなく、惜しい・・・。って、前回観たときは若い求婚者の目線でみてたのに、今では親の目線かい!(笑)。CGのない時代としては、奈良時代の都のセットとか、お迎えのUFOの特撮は最高レベルだと思う。

ところで映画では3人だったが、原作だとかぐや姫に求婚する若い貴族は5人。
うち3番目にフラれた車持皇子は藤原不比等、5番目にフラれた石上中納言はモロに石上(物部)麻呂がモデルだとか。

二人は実際の政界でもライバルで、官位では左大臣に上り詰めた麻呂が上だったが、平城京遷都の際、旧都(藤原京)の留守番を命じられてしまったとか。これを不比等の陰謀だとする説を、どこかで読んだ記憶もあるが、その話はまだ先だ。


というわけで、不比等の父ちゃん、中臣鎌足の話題に戻る。
鎌足が鹿島出身のかっぺ(失礼!)だと、どう話が面白くなるのか、だ。

そもそも、この中臣鎌足という人物は謎に満ちている。違和感は、小学生の時に学研の子供向け歴史読本で、初めてその名を知ったときから続いている。何しろ唐突に歴史の大舞台に登場するや、あっという間に人臣の頂点を極めてしまう。そのパワーの源泉は一体どこにあったのか。教科書には書いてなかったように思う。

では、と『日本書紀』を順を追って読んでみる。
まず鎌足は、中臣家の家業である「神祇伯」に任命されるが、これを辞退した・・・として初登場する。
んで何をやってたかというと、蘇我氏を打倒する際の「みこし」となれる皇族を探していたと書いてある。「つぎつぎと王家の人に接触して、企てを成し遂げうる明主を求めた」(講談社学術文庫)。

つまりは、乙巳の変の発案者&リーダーは鎌足で、中大兄皇子(天智天皇)は「探された」「誘われた」立場の人なんだね。
でも「神祇伯」なんて神主の偉くなった役職で、ケンカに強いとは考えにくい。しかも相手は時の大権力者の蘇我氏だ。鎌足に誘われた中大兄皇子の勝算は、一体どこにあったのだろう。

蘇我入鹿の暗殺シーンは有名なので省く。

その後の中大兄皇子は法興寺に立てこもり、蘇我蝦夷に味方して軍を集結させていた漢直(あやのあたい)の寝返り工作を行う。その使者は、数年前、蘇我入鹿に命令されて山背大兄王を襲った巨勢徳多。巨勢は中大兄に「天地開闢以来、君臣の区別が始めからある」とか言わされてるが、聖徳太子の息子を襲った口で言うだけに、説得力はゼロだな(笑)。

続いて、同じく蘇我氏の配下にあった高向臣国押は漢直に、「蘇我蝦夷は今日明日にも殺され、われらも入鹿の罪で殺されるのに、誰のために戦うのか」と説いて武装解除して、兵は離散した。こうして中大兄皇子は勝利したのだった・・・と『日本書紀』には書いてあるわけだが、違和感ありありだな(笑)。

読んでの通りで、中大兄皇子は戦わず、ただ籠城しているだけだ。なのに、同じく皇族である山背大兄王を平気で襲撃できた軍勢が、およそ説得力があるとは思えない言葉にあっさり離散してしまった・・・。丸っきり、ありえない話だ。

しかし、中大兄皇子の「勝算」とは、この一連の流れを予測できたことにあったのではないか、と仮定したらどうだろう。もちろん、実際に流れを動かしているのは鎌足だが。

借り物

上の図は縄文時代と弥生時代の人口分布を表したもの。
ネットで拾ってきたものなんで、ホントに小山修三教授が作ったものか保証はないが、他の図でもだいたい同じ傾向を示していたのでOKとしよう。見ての通り、どの時期でも関東地方は人口が多く、早くから開けた地域だったことが確認できる。

そしてそれは、続く古墳時代でも同じだった。

かつて、古墳文化は畿内中心の視点で語られることが一般的であり、東国の古墳はほとんど話題にならなかった。そのため、「総国(ふさのくに)」が前方後円墳の数では全国最多の地域であることは、あまり知られていない。その出現も三世紀代にさかのぼるとされ、古墳時代の初期から有力な豪族が存在したことを示している。(『古代史の謎』/歴史REAL/2015年)


古墳時代の常総には、ヤマト王権の象徴とも言われる前方後円墳がひしめいていた。
そうであればこそ、あのヤマトタケルのエゾ征伐で、「総国」が素通りされた理由も分かるというものだ。そこはヤマトの勢力圏であり、タケルにとっては安全地帯だったのだろう。

ここで興味深いのが、「総国」には尾張の尾張氏や上野の上毛野氏のような有力な古代豪族がおらず、中小の豪族が割拠している状態だったことだ。彼らをまとめていた力とは何だったのか。
一つの仮説として、信仰というものも挙げられるだろう。かつて邪馬台国が北部九州の30カ国を、信仰の力でまとめたようにだ。

最近のウィキペディアの充実ぶりは素晴らしく、地味な本で面白いネタを見つけても、大概の場合はwikiに記載されていたりするもんだ。10年前は「ノンマルトの使者」あたりだと独立した項目がなくて、仕方なく「ウルトラセブン」にリンクを貼ったりしたが、今ではすっかり使える百科事典になっていると思う。

で、そのwikiの「中臣鎌足」には、乙巳の変を成功させた後の鎌足について、次のような記述がある。

この功績から、内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。


ええっ、何だこりゃ。違和感ありすぎだぞ。なんで一介の神主が、いきなり軍事のトップになれるんだよ。

だがwikiに書いてあることは間違ってないのだろう。『日本書紀』にはその晩年、病気の見舞いに訪れた天智天皇に、鎌足が謝罪するシーンがある。
曰く「ただ一つ私の葬儀は簡素にして頂きたい。生きては軍国のためにお役に立てず(百済救援の失敗をさすか)、死にあたってどうして御厄介をかけることができましょうか」(講談社学術文庫)。

wikiにはその解説として、「これは白村江の戦いにおける軍事的・外交的敗北の責任を痛感していたものと考えられている」とある。鎌足には、軍事で貢献する「責任」があった、てことだ。それって神職の考えることではないな。

ところでこの時代の日本軍は「国造軍と呼ばれる地方豪族がおのおの編成した私兵というべきもの」の集合体だったようだ(『敗者の日本史2』歴史REAL)。それで白村江では、全体の統制が取れなくて破れたそうな。

それじゃ鎌足にも、その「私兵」があったとしたらどうだろう。

それは「総国」の精強な兵士たちで、中臣家が祀る鹿島信仰の力で、鉄の団結で結ばれていたとしたら・・・。
そして鎌足はあの時、中大兄皇子に、その兵力の提供を約束したのだとしたら・・・。
蘇我派の軍勢を離散させ、エミシを絶望の自殺に追い込んだのも、その兵力の存在だったとしたら・・・。

天智天皇は白村江での敗戦後、鎌足の生前か没後かははっきりしないが、鹿島神宮の社殿造営を行ったという。wikiには「新政による朝廷の東国経営強化」が背景にあると書いてあるが、もっと簡単に、乙巳の変でのお礼・・・ぐらいな方が、ぼくにはピンとくる。

のちに天下を掌握したとき、藤原氏が建てた春日大社の第一殿には、祖神であるはずのアメノコヤネという「祭神」ではなく、高天原最強の「軍神」タケミカヅチが祀られた。それは藤原氏の誕生が、中臣氏家業の祭祀の力ではなく、東国の軍事力によるものだったことを主張してるのだとしたらどうだろう。

それはもちろん、天皇のおわす平城京を、見えない武力で威圧するためだ。


・・・なーんてことを、首都高湾岸線を走らせながら考えた。もちろん、すべては鎌足が鹿島出身(当時は都会!)だったらの話で、ただの素人の空想だ。

ただ、その気になれば歴史の捏造がいくらでも可能な立場で、例えばタカミムスビとかニギハヤヒとか、天皇家と肩を並べるストーリーを作れる神さまは他にもいるのはずなのに、藤原氏には何か軍神タケミカヅチへの強い執着があったように思えて、屁理屈をこねてみた次第だ。

・・・そういえば、前の記事では『延喜式』の「三神宮」についてちょっと触れたが、「三軍神」というものもあるらしい。平安後期の『梁塵秘抄』では、それは「関より東の軍神(いくさがみ)、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているそうだ。

諏訪の神といえば、タケミナカタ
『古事記』では、出雲での「国譲り」を拒んだタケミナカタは、タケミカヅチとの力比べに破れて敗走し、諏訪の地で命乞いをして幽閉された神だ。
んんー何か弱っちいが、それなのに三軍神なん? 武田信玄が拝んでるのって、負けて逃げてきた神様なん?

こりゃ、諏訪に行ってみるしかねーか。

つづく

ヤマタイカの旅 - 出雲編その1

鹿島神宮と香取神宮

漫画『ヤマタイカ』で、邪馬台国の巨大祭器「オモイカネ」を追う神子らが、宇佐神宮の次に向かった先は、出雲だった・・・。

出雲と言えば出雲大社
出雲大社といえば、まだぼくがサラリーマンだった1993年に読んだ『逆説の日本史』(井沢元彦/小学館)の衝撃を思い出す。
いじめられて泣いていたウサギを助けた、やさしい神だと思っていた大黒さまは、実は「国譲りの際に殺害され、古代人はオオクニヌシの怨霊を恐れ、その怨霊を封じ込めるために出雲大社を建てた」(wiki)という、恐ろしい祟り神だという主張には、ぶったまげた。

その主張にはいくつもの裏付けとなる証拠が挙げられていて、古代史に興味があったわけではないぼくなどは、完全に信じ込んだもんだった。
特に、参拝者にオオクニヌシを拝ませないために、「神座」が横を向いている…という記述などは、国を奪ったとされるヤマト側の底知れぬ悪意が感じられて、陰鬱な気分になるほどだった。

ところが、今回はじめての出雲行きの計画を立てて、いろいろと情報をネットで検索してみたところ、井沢氏のオオクニヌシ怨霊説を否定するような記事をいくつも見かけることになった。
出雲大社は怨霊の神社?」は、出雲大社紫野教会の神主さんが書かれた記事だが、そこにはオオクニヌシ以外にも神座が横を向いている神社の存在が挙げられていて、何とそれは「国譲り神話」で、まさにオオクニヌシから国を奪った張本人、タケミカヅチを祀る鹿島神宮なんだそうだ。

『日本書紀』によれば、高天原から下界に使わされたタケミカヅチとフツヌシは、オオクニヌシから葦原中国を交渉(脅迫?)によって譲り受け、天孫降臨のお膳立てをしたヤマトの大英雄だ。偉大な軍神として、それぞれ鹿島神宮と香取神宮に祀られている。

そのタケミカヅチの神座が横向き、って、・・・確かに何か変だ。
これは出雲より先に見ておく必要があるな、と思い、さっそく湾岸線から東関道を片道2時間かけて、東国三社の見物に行ってきた。


ちなみに、鹿島神宮と香取神宮って、古代史とか神社とかに興味がないと縁がない話だが、実はすごくエライらしい。

まず、戦後になって神社本庁が選んだ、(例外もあるが)エライ神社の353社「別表神社」には当然入っている。
それから明治時代に制定されたエライ神社17社の「勅祭社」にも、もちろん選ばれている。
元日に天皇が行う「四方拝」という儀式があるが、拝礼される僅か8つのエライ神社のうちの2つが鹿島神宮・香取神宮だ。
さらには平安時代に制定された『延喜式神名帳』のなかで「神宮」の名乗りが許されている超エライ神社は、伊勢神宮と鹿島神宮・香取神宮の3社だけ・・・。

それ以外にも「常陸国鹿島郡・下総国香取郡が神郡、すなわち郡全体を神領とすると定められていた」とか、「伊勢・近畿を除く地方の神社において、定期的な勅使派遣は両神宮のほかは宇佐神宮(6年に1度)にしかなく」(wiki)など、そのエラさは半端でない。

で、そんなエライ神社に祀られている高天原の大功臣の、神座が横向き・・・って、もちろんタケミカヅチが怨霊に満ちた祟り神であるわけはないので、井沢説の"オオクニヌシは怨霊だから拝ませない"の根拠が崩れてしまっているのは、残念ながら明白だ。

図

上の写真は鹿島神宮の案内図で、楼門をくぐると参道の右手に北向きに拝殿があることが分かる(通り過ぎてしまう人が多発するとか)。そして配置図で、本殿内部で神座が東向きであることが分かる(海に向かっている点では、オオクニヌシと同じだとか)。


では何ゆえタケミカヅチの神座が横向きなのか。
1968年に発行された『鹿島神宮』(学生社/2000年改訂)は、昭和43年当時、鹿島神宮の宮司だった東実(とうみのる)氏が著した本だが、そこには理由として、そこが元々は「住居」だったからと書いてある。

つまりもっとも古い神社建築は、住居に源を発して、切妻造りの妻入りで、しかも心の太柱を回るようにして奥の間に入るかたちであり、したがって神座から一ばん遠いところの角に入り口が作られているということである。

大和民族が、天孫降臨後に農耕文化を身につけて、倉庫型式から発展させた唯一神明造り(伊勢の神宮の社殿形式)を完成させたのはまだこれより後の時代のことである。こうした点からも、鹿島に最初に営まれた武甕槌神の住居は、天日隅宮(出雲大社の原型)の作法以外では営まれないという結論が出てくるのである。(『鹿島神宮』)


一般人には聞き慣れない単語が多くて困るが、おそらく伊勢神宮の誕生とともに日本の神社のスタイルは決まっていったが、それより古い時代は神の住居そのものを再現してお祀りした、って感じだろうか。

で、となるとタケミカヅチさんは元はこの地方に住む人間で、死んだのちに神として祀られた・・・ってことになるが、東実氏は実際にそう考えられていたようだ。
『日本書紀』には、岐神(息栖神社の祭神)の案内で葦原中国を平定して回ったタケミカヅチとフツヌシは、最後に「天」(現在の日立市あたり)でブイブイ言わせていた星の神・カガセオを征伐したのち、天に「登る」・・・とある。んで、この「天」ってのは当時の常陸を指しているらしく、「登る」は常陸に残ったという意味だと、東実氏は解説されている。

一応、wikiからその顛末を引用すると、こう。

一説によれば「二神は、ついに邪神や草木・石の類を誅伐し、皆すでに平定した。唯一従わぬ者は、星の神・カガセオのみとなった。そこで倭文神・タケハヅチを派遣し、服従させた。そして、二神は天に登っていかれた。倭文神、これをシトリガミと読む」(巻第二 神代下 第九段本文)

ある書によれば、天津神はフツヌシとタケミカヅチを派遣し、葦原中国を平定させた。
その時、二神は「天に悪い神がいます。名をアマツミカボシ、またの名をアメノカガセオといいます。どうか、まずこの神を誅伐し、その後に降って葦原中国を治めさせていただきたい」と言った。(巻第二 神代下 第九段一書(二)


というわけで、葦原中国を平定して天孫降臨のお膳立てを成し遂げたタケミカヅチさんは「そうして、鹿島を本源とし、香取を本源とする経津主神(※フツヌシ)と力を合わせて東国の開拓と鎮撫に当たられた」と、買ってきた『新鹿島神宮誌』(鹿島神宮社務所)には書いてある。
面白いのは、この本に掲載されているタケミカヅチ一族の系譜だ。

『神宮誌』には、タケミカヅチのご子息の武治速見命から10代あとの「狭山彦命」までの系譜が列挙されているんだが、これが鹿島神宮に伝えられるもう一つの系譜、「鹿島大宮司家」の系譜と不思議な関わり方をする。

鹿島大宮司家の祖はアメノコヤネという神で、あの中臣氏(のちに一部は藤原氏)の祖神として、春日大社とか枚岡神社とかに祀られている神。
そのアメノコヤネから7代あとに「中臣神聞勝命」という人物がいて、崇神天皇の御代に「武甕槌神の神示を解して、大量の弊物をささげ、そのまま鹿島に神主としてつかえ中臣祠官の基礎をきずいた」と、『鹿島神宮』には書いてある。

ところが不思議なことに、この中臣神聞勝命の4代あとにも「狭山彦命」の名前があって、鹿島神宮では両者を同一人物と見なしているらしいのだ。
『新鹿島神宮誌』では、ここに「神系」と「中臣系」が一致して、「神系を含む鹿島中臣氏となった」のだーと称賛しているが、それでは狭山彦のY染色体は一体全体どうなってるんだろう? 
てか、このことが意味しているものは何なんだろ?

・・・とにかく!こうしてタケミカヅチの一族と鹿島中臣氏は合体した。
そうなると気になってくるのが、大化の改新で有名な中臣鎌足も、この鹿島中臣氏と何か関係があるのか、ないのか、だ。

藤原氏の氏神を祀る神社として建てられた春日大社は、祖神のはずのアメノコヤネは第三殿に置いて、第一殿にはタケミカヅチ、第二殿にはフツヌシを祀っているとか。

中臣鎌足は公式には「大和国高市郡藤原」出身のシティーボーイということになっているが、『大鏡』には鹿島出身のかっぺ(失礼!)だと書いてあるそうな。鹿島神宮の近所には、鎌足の生家跡だと主張する鎌足神社なるものもある。
また、乙巳の変を成功させて大出世を遂げた数年後には鹿島に神郡を設置したり、常陸に鎌足の封戸があったりと、何らかの縁はありそうだが、残念ながら詳細は不明らしい。

だがこの話、鎌足が鹿島出身だとすると、がぜん面白くなってくる話だとぼくは思う。
が、それは次回ということで。

息栖神社とタケミカヅチ像

上の写真は、三社目にお詣りした息栖神社。鹿島・香取の威圧感から解放されて、ほっと一息つけるので、やはり最後にまわるのがオススメかと。隣は大なまずを踏ん付けるタケミカヅチの像(鹿島神宮)。

つづく


映画『ドラえもん のび太の日本誕生』 -九州編その6

ツチダマ

同年代と話をしていると、時折、縄文人を「原始人」だと思ってる人がいることに気がつく。自然に出来た岩穴に住んで、狩猟採集のその日暮らし、石斧かついでウホウホ言って、動物と人間の中間ぐらいのイメージか。
しかし実際には、三内丸山遺跡で見られるように、大集落に定住し、高床式倉庫や巨大な竪穴式住居を建造し、農作物や樹木を育て、他の集落と交易し、海を渡って朝鮮半島まで出かけていたのが縄文人だ。いわゆるギャートルズ的な原始人ではない。

それではて・・・と考えて思い当たったのが、1989年のアニメ『ドラえもん のび太の日本誕生』だ。ここにはイメージ通りの原始人が出てきて、ウホウホ言っては迷信に惑わされたり、より強い部族に奴隷にされたりしていた。が、劇中では彼らは7万年前の中国の人々だとされ、7万年前といえば縄文時代より5万年以上昔の旧石器時代だし、一説によれば人類がアフリカを旅立ったのが7万年前とも言われて、それがどうして縄文時代に重なるかと言えば・・・土偶型ロボットのせいだろうな。

紀元前1000〜前400の縄文時代に作られた遮光器土偶が出てくるせいで、7万年前の原始人の姿が、縄文人の姿として記憶された・・・。あり得る話かとも思ったが、1989年だと20才を超えてるわけで、さすがに『ドラえもん』なんか観てないか、もう(笑)。


くだらない前置きはこのくらいにして、本題に入ろう。
先進的な「渡来人」が最新の文明を携えて、朝鮮半島から大挙として日本列島に渡ってきたと言われる弥生時代の、朝鮮半島側の実態を『魏志韓伝』から探る作業だ。

まずはおさらいで、当時の「韓」の地理について(なお、訳は全て『古代史レポート』様のサイトより引用)。

韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。


帯方郡が今のソウルあたりらしいので、それより南が「韓」で、半島南部で倭人の「狗邪韓国」と接していたようだ。「狗邪韓国」はのちに加羅とか任那とか言われた地域を指すらしい。
それで、後の「百済」に当たる韓の西側が「馬韓」という国で、『韓伝』にはこうある。

その風俗は、規律が少なく、国邑(首都的集落)に統治者がいるとはいっても、村落は入り混じり、うまく制御することができない。跪いて拝む礼はない。


要は、国としての体を成していない、のが当時の馬韓だったようだ。
続いて、後の「新羅」に当たる韓の東側だが、二つの集団が混在していたらしく、まず「辰韓」。

その言語は馬韓と同じではない。
男女は(民族的に)倭に近く、また、入れ墨している。歩いて戦い兵器は馬韓と同じである。その風俗では、道を行く者が出会ったとき、みな立ち止まって道を譲る。


言葉が馬韓と違う上に、中国人から見ると「倭人」に近い・・・て、それってもしかして、倭人の国なんじゃないの?
という疑問は置いておいて、三番目の「弁韓」について。

弁辰は辰韓と雑居する。城郭がある。衣服や住居は辰韓と同じで、言語や法俗も似ている。
その(弁辰の)瀆盧国は倭と界を接している。十二国には王がいる。その人はみな大柄である。衣服は清潔で、長髪。また廣幅の細かい布を作る。法俗は特に厳しい。


弁韓は、倭人と似ていると言われる辰韓に似ていて、ここにだけ「倭」と同じように「王」がいるらしい。言うまでもなく、弁韓人は馬韓人とは言葉が通じない(済州島らしき話題もあり、そこも馬韓とは言葉が違うとある)。

・・・んー? この「韓」っての、「国」と考えることができるんだろうか。
言葉もバラバラ、風俗・習俗もバラバラ、政体もバラバラで、果たして当時の「韓」が「倭」に先進の文化を伝えられるほど、立派な存在なのか、はなはだ疑問だ。

人口だって、「韓」の三カ国全部で15万余戸だと中国人は数えているが、「倭」は対馬から邪馬台国までの道程だけで同じく15万余戸で、それが「倭」のうちの九州北部のごく一部であることは、中国人がちゃんと記していることだ(さらには『倭』だって、九州の一地方王権に過ぎないわけで)。

前回も引用した『隋書』倭国伝の一節が、頭に浮かんできてしまうなぁ(笑)。

新羅・百済は、みな倭を大国で珍物が多い国とし、ともにこれを敬仰し、つねに通使・往来する。(岩波文庫)




ところで当時の中国人は、「倭」がよほど自分たちと違って見えたのか、『韓伝』の何倍ものスペースを使って記録を残している。そこから、「倭人」を描いた部分を書き出してみよう。

その風俗はみだらではない。

その会合での立ち居振る舞いに、父子や男女の区別はない。

その習俗では、国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ場合がある。婦人は貞節で嫉妬しない。窃盗せず、訴えごとも少ない。その法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその一家や一族を没する。尊卑にはそれぞれ差や序列があり、上の者に臣服して保たれている。

下層階級の者が貴人に道路で出逢ったときは、後ずさりして(道路脇の)草に入る。言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付け、うやうやしさを表現する。


真っ先に浮かんだ感想は、これって今の日本人と同じ印象があるなぁ、ってことだ。3.11東日本大震災の時や、最近の日本旅行ブームで外国人たちが語る、息苦しさはあるが、秩序があり、公平感があり、礼節のある社会(フェミニストがキーキー言いそうな箇所もあるがw)。

日本人は、まだ「倭人」だった頃から、そういう社会を自然と作ってきたのかも知れない。
そういえば、ヤマト王権の象徴とされる前方後円墳には、次のような説明もある。

前方後円墳は、その墳形を大和や瀬戸内地方の墳墓から、墳丘側面に葺き石を貼る風習を山陰・出雲から、埴輪を立てるアイデアを吉備から、竪穴式石室にタテに割いた竹を合わせたような割竹型木棺を納める埋葬法を九州から……といったように、さまざまな地方から葬制・墓制が持ち寄られてできている。(『古代史の謎』洋泉社MOOK)


それは天皇家の権威を世に示すものではなく、ヤマトという連合が、連合であること自体を示すものだった。全ては大和に集まり、大和から拡がっていったのだった。

・・・なんて、そんな話をしていると何だかデッカい前方後円墳とかが見たくなってくるな。

というわけで、次の「ヤマタイカの旅」は、ヤマト最大のライバルか、あるいは最大の協力者だったか、よくわからない「出雲」から、マンガでは前半のクライマックスとなった「伊勢」「大和」と回ってきたいんだが、メンバーが揃うのは果たしていつになることやら・・・。

つづく

『火の鳥・黎明編』の自虐史観 -九州編その5

神武天皇?

80年代後半に描かれた『ヤマタイカ』の歴史観も古かったが、1967年の『火の鳥・黎明編』はもっと古い。というか、ほぼデタラメ(笑)。しかしぼくら世代の人間だと、いまだにその世界観を持ったままという人もいるはずだ。

学者の説によれば 西暦三世紀から五世紀にかけて 北中国やモンゴルあたりを 馬に乗って駆けまわっていた部族・・・・騎馬民族・・・・が ぞくぞくと朝鮮半島をとおって日本列島に侵略してきたという
そして もとから 日本に住んでいた原住民たちを つぎつぎに征服して のちの神武天皇のヤマト政府を 築いたのだとしている
神話に出てくるニニギノミコトは 天からタカチホの山にくだった神の子ということになっているが ほんとは 大陸からわたってきた 遊牧部族の首領のようなものだったというのである

 
手塚が「学者の説」というのは、江上波夫の『騎馬民族征服王朝説』。
今では学説というより、SFファンタジーとかライトノベル、学研『ムー』的オカルト、詩集?などに分類されているタワゴトだが、1967年当時はまだ纏向遺跡さえ本格的な発掘が行われておらず、皇国史観を否定したい手塚が飛びついたのも無理はない時代ではあった。

だがもしも、こんな問題のある歴史観の古典マンガを今頃になって引っ張り出し、若い世代に拡散、洗脳を狙ってる組織があるとしたら、死ね死ね団並に悪辣な連中だろう。GHQはとっくに解散したはずだが、今なおWGIPを実行してる部隊があるのかも知れない("火の鳥 朝日新聞"で検索を)。

ところで『火の鳥・黎明編』の歴史観は極端だとしても、日本古代史には岩盤と化した自虐史観が残っている。縄文時代を未開で野蛮な原始人の社会と見て、そこに朝鮮半島経由で「渡来人」が大量になだれ込み、稲作や製鉄の先進技術を使って弥生時代を始めた・・・というアレだ。ぼくら日本人は渡来人の末裔か、あるいは渡来人に文明化してもらった劣等な縄文人の末裔か、どっちか好きな方を選べと。

もちろん、それはカビの生えた古くさい歴史観だ。
というか、「国民一人あたり何百万円の借金」みたいな、質の悪いプロパガンダだ。

最新情報では、縄文時代は野蛮でも未開でもない社会だと分かっているし、稲作は紀元前10世紀後半には始まっていたことが確認されていて、縄文と弥生は1000年の時間をかけて、ゆっくりと変化して、混じり合っていったとされている。言うまでもなくプレイヤーはどっちも同じ過去の日本人で、縄文と弥生は対立項ではない。ガラケーを使い続けるのか、スマホに買い換えるのか、程度の話だ。

それは、日本語が中国語や朝鮮語とは全く異なるので、日本の支配層が日本人以外だった時代は考えにくいことからも明らかだ。

さらに、「日本語」はいったいどこからもたらされたのか、はっきりとわかっていない。似ている言語が、周辺になく、孤立しているからだ。言語の血縁関係の判定法「規則的音声対応」を用いても、琉球語だけが、日本語とつながるだけだった。(『縄文の新常識を知れば日本の謎が解ける』関裕二/PHP新書)


また、よく言われる「縄文顔」「弥生顔」といった外見的な特徴も、科学的な話ではないらしい。
京都大学名誉教授の片山一道先生によると、弥生人の特徴とされる「面長で平板な顔、低い鼻、細い顎、高い身長」などは、山口県の土井ヶ浜遺跡の人骨には当てはまるが、西九州の弥生人は縄文人とほぼ同じだし、関東の弥生人には「渡来人的な特徴は見当たりません」とのこと。

古墳時代になると、弥生時代後半以降の生活と社会の劇的な変化に対応するように、縄文人とも弥生人とも身体特徴が異なる、のちの日本人に直接つながる古墳時代人が登場することは示唆に富む現象です。(『骨からわかる日本人の起源』別冊宝島)


あるいはこれまで、鉄の精錬を日本人が可能にしたのは6世紀後半以降で、それまでは朝鮮半島から素材を輸入して農具や武器を作っていたと思われてきたが、2013年にカラカミ遺跡(長崎県壱岐市)から地上炉が複数見つかって、そのスタート時期は1世紀にまでさかのぼった、という説もある。

朝鮮側の記録である『三国史記・倭人伝』を読むと、弥生時代後期から古墳時代には、年がら年中「倭」が新羅の国境を侵したり、城を囲んだりする事件が多数記録されているが、なぜ「倭」がそれほどまでに強かったかには、こんな説もある。

鉄鉱石の産地は朝鮮半島だったが、日本列島ではそれを用いて「鍛造品」を作っていたのだ。同じ頃、朝鮮半島では強度の劣る「鋳鉄品」が作られていた時代にである。(『日朝古代史 嘘の起源』別冊宝島)


『魏志』の「韓伝」には「國出鐵韓濊倭皆従取之」、すなわち「倭」が「辰韓」に鉄を取りに来ていたという記述があって、邪馬台国の時代には「倭人」は原材料=鉄鉱石があればOKという状況だったようだ。ちなみに、ここでいう「倭人」は、現在の韓国の「全羅南道」「慶尚南道」あたりに当たる「狗邪韓国」の人々を指すようだ。

国際的脳科学者として知られる中田力さんは、日本の水田で作られている温帯ジャポニカ米の遺伝子が朝鮮半島のイネからは見つからないことを根拠に、以下の結論に至っている。

佐藤洋一郎氏によって明らかにされた、このRM-1b遺伝子を持つ温帯ジャポニカの分布は、日本に弥生をもたらした水田稲作が、韓半島を経由せず、直接、揚子江河口付近から伝わった技術であることを証明している。(『古代史15の新説』別冊宝島)


縄文晩期から弥生時代中期にかけては、日本の縄文土器が朝鮮半島南部から多数、発見されているが、反対はどうかと言えばこうだ。

北部九州沿岸部に朝鮮半島の土器がもたらされるようになったのは、弥生時代前期後半ごろだ、しかもその規模はわずかで、先住の民の集落の片隅に渡来系の人びとが、肩を寄せ合って暮らしていたイメージだ。そして、その後、集落の人びとと融合し、同化していったのである。(『縄文の新常識を知れば日本の謎が解ける』関裕二/PHP新書)


また、ヤマト王権の象徴とされる前方後円墳は3世紀後半には大和に現れ、その後全国に拡大、5世紀頃には鹿児島県の大隅半島に達したが(塚崎古墳群)、朝鮮半島南部にも5世紀後半ごろから築造されているとか(=ヤマトの勢力範囲に含まれたとか)。



・・・とまぁ、そんなこんなで、「縄文」と「弥生」は対立項ではないし、半島から先進文化が一方的に流れ込んだわけでもないことは、十分な根拠のある話だということだ。半島は必ずしも「上流」ではなく、日本が必ずしも「下流」ではない。

半島側の正史である『三国史記・倭人伝』には、初期の新羅の指導者が「倭」と関係が深かったことが書いてある。日本が「上流」のケースだ。

〔三〕瓠公は、その族姓が詳らかではない。もとは倭人であって、はじめは瓠を腰につけて、海を渡って来たのである。だから瓠公といった。

〔五〕脱解は、もとは多婆那の生まれであった。その国は、倭国の東北一千里にあった。(岩波文庫)


すでに見たように「倭」は九州北部を指すので、「多婆那」は出雲から丹後にかけてのエリアだと思われる。そこから来た脱解は新羅の第4代の王で、瓠公はその重臣。いずれも「倭人」。瓠公については「新羅の3王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物である」(wikipedia)とも。

「倭」と新羅の力関係を端的に表す、「于老」という新羅の将軍のエピソードも興味深い。

新羅本紀によれば、249年、于老は倭の使節を接待する酒席で、「いずれ倭王は塩汲み奴隷に、妃は飯炊き女になるだろう」という冗談を言った。この冗談を伝え聞いた倭王は激怒し、出兵する。これに対して于老は幼い息子を連れて倭の陣営に赴き、「すべては自分の責任です」と謝罪した。しかし、倭王はこれを許さず、于老を火炙りの刑に処して殺してしまう。(『日朝古代史 嘘の起源』別冊宝島)


このときの「男王」とは、『魏志倭人伝』で卑弥呼と壱与の間にいた人物のこと。当時の邪馬台国と新羅の、国力の差は明らかだ。ちなみにこの事件のスピード感、距離感からも、邪馬台国が半島から遠く離れた大和にあったとは、ぼくには感じられない。

そういえば『日本書紀』には不思議なエピソードが載っていて、高天原を追放されたスサノオは、息子の五十猛神を連れて、最初は「新羅の国」に降臨したとか。ところがスサノオは「この地には私は居たくないのだ」と不平を言って、船に乗って出雲に渡ったらしい。
また、五十猛神は天降る際に「たくさんの樹の種」を持参していたが、「韓地」には植えないで、日本中に蒔いて全てを「青山」にしたそうだ(「」内は講談社学術文庫より)。

『隋書』倭国伝にはこんな記述もある。

新羅・百済は、みな倭を大国で珍物が多い国とし、ともにこれを敬仰し、つねに通使・往来する。(岩波文庫)

 
ふう・・・、以前の記事でちょこっと参照したが、半島から「渡来人」がやってきたとされる時代のことは、幸いにも中国人が『魏志東夷伝』に記録していてくれていた。
次回はその中の「韓伝」と「倭人伝」の比較から、当時の両者の実態を探ってみたい。


【5/29追記】
数少ない読者様から「DNAを忘れてるぞ」という指摘があったので、追記する。

げのむ

名古屋大学の山口敏充先生は、アジア16地域から32人ずつの遺伝マーカーを構造解析した結果、「アジアは日本、モンゴル、朝鮮、そして大陸に分けられる」と結論している(『DNAでわかった日本人のルーツ』別冊宝島/2016年)。かつ「遺伝的特徴を判別式で表現した場合、日本人の97%が日本人らしい」そうだ。

100個ほどのマイクロサテライト(ゲノム上に、同じ配列が繰り返す反復配列には、反復数の差違がひんぱんに確認されます。数塩基の繰り返しをマイクロサテライトと呼び、遺伝的系統の目印となります)をマーカーとして調べた結果で、それぞれが地域によって特徴的な結果を示していることが、ここから確認できます。

グラフを見ると、"日本人グループ"の中でも、沖縄が"中国人・朝鮮グループ"から最も遠く、長崎が近い、ってのがイメージ通りで面白い。

2019年4月5日の「産経WEST」の記事、「鳥取の出土人骨をDNA解析 日本人は複雑なハイブリッド?」も興味深い。
19年前に発掘された、鳥取市の青谷上寺地遺跡の弥生人のDNA解析の結果、母系をたどれるミトコンドリアDNAはほとんどが「渡来系」だったのに対して、父系のY染色体の塩基配列データは、4体中3体が「縄文系」だと判明したとか。

意味するものは、(母系がバラバラで縄文系が少なかった理由は定かでないが)2世紀の鳥取近辺の支配者層が、縄文系だった、ってことだろう。女だけさらって来たのか? あるいは、半島(狗邪韓国)の「倭人」が「渡来」してきた結果なのか? 知らんけど。

※ミトコンドリアDNAの解析からは、父系=支配層の分析はできないらしいですよ、念のため。

つづく

映画『日本誕生』(東宝・1959年) -九州編その4

草薙剣

映画『日本誕生』から、東国の平定を命じられたヤマトタケルが、伊勢神宮でおばの倭姫(やまとひめ)から草薙剣を受け取るシーン。『古事記』によれば、景行天皇の即位40年、ということなので、長浜さんの計算だと西暦310年頃ということになるだろう。

東征の前にタケルは熊襲(九州南部)も征討しているが、それは西暦304年頃のことで、邪馬台国の卑弥呼が没してから50年ほど後の話。その頃にはすでに宇佐に九州最古と言われる前方後円墳(赤塚古墳)が出来ているし、宮崎県でも大規模な生目古墳群が確認されていて、ヤマトの勢力がすでに九州を東から飲み込もうとしてることが分かる。

ううむ・・・なるほどヤマトタケルの西征・東征は、ぼくらが知る「日本」が、まさに「誕生」しようとしてる場面なんだな〜とか考えながら観ると、くっそ長いこの映画も感慨深いものがある。制作が田中友幸、音楽が伊福部昭、特技監督が円谷英二…とくれば、もう一つの『ゴジラ』なのでは?という見方もできるし、ヤマタノオロチと戦うスサノオはウルトラマンのモデルか?とか、まぁヒマでヒマで死にそうだという人にはお勧めできる映画だ。


それでは本題に。
前回の記事では、「倭」というのは邪馬台国を盟主とした九州諸国の連合に過ぎず、女王卑弥呼が没したAD248年より300年ほど早いBC70年頃には、すでに神武天皇がヤマトの地で即位していた・・・という長浜浩明さんの説を紹介した。

そもそも「倭」と「邪馬台国」が有名なのは、それらが中国の歴史書に記録されたからだ。
だがその記録、『魏志倭人伝』によれば中国人は「伊都国」までしか実際には知らず、その先は倭人からの伝聞によるものだったらしい。
それじゃ記録されなかったことは何から分かるかと言えば、日本各地に残された古代遺跡の発掘からだ。

ということで古い遺跡から順番に見ていくことで、弥生時代中期以降の「日本」について把握したいと思うが、素人が泥縄式に書いていくことなので、年代等はザックリした話だとあらかじめご了承ください(笑)。
また、いちいち引用するのも面倒なので、詳細はウィキペディアへのリンクを踏んで下さい。
参考書として、『日本の古代遺跡』(別冊宝島)から一部を引用してます。

んでは、まず古そうなのが、大阪の池上曽根遺跡(和泉市・泉大津市)。
BC400年頃には人が住み着いていたらしいが、BC50年頃には、弥生時代最大級の「高床式堀立柱建造物」を有するまでに発展したとか。100年以上後の時代の吉野ヶ里遺跡より、進んだ技術も散見できるとか。       

鳥取県の青谷上寺地遺跡はBC200年頃から人が住んだところ。
北近畿、吉備地方の土器や、ヒスイやサヌカイトまで出土して、他地域との積極的な交流が認められるそうな。年代は定かでないが、中国の貨幣や鉄製品も大量に出土。

BC100〜AD100にかけて栄えたのが荒神谷遺跡(島根県出雲市)。
昭和58年からの発掘で、それまで日本全土で出土した銅剣300本を一気に上回る358本が出土。
異なる文化圏に属すると思われてきた銅剣・銅鐸・銅矛が一カ所から揃って出土して、近畿と北九州の中間地帯に青銅器の生産と保有の拠点が確認され、神話の国・出雲のイメージを覆した。

同じ頃、丹後の日吉ヶ丘遺跡(京都府与謝野町)からは大量の管玉が出土。AD100年頃には、日本最大最古の水晶工房をもつ奈具岡遺跡(京丹後市)もあり、「丹後王国」の存在を主張する専門家もいる。

そしてBC200年頃から発展した奈良県の唐古・鍵遺跡(磯城郡)からは、屋根に中国風の飾りをつけた楼閣が描かれた土器が出土して、この地域が近畿地方のリーダー的存在だったと目されているとか。長浜本によるなら、神武天皇が即位したのはこの時代にあたるか。

AD100年前後には、滋賀県にも唐古・鍵クラスの巨大環濠集落、伊勢遺跡(守山市)が登場。
ところがこの遺跡は、100年ほどで衰退したそうな。そしてそれを引き継ぐようなタイミングで現れたのが、纏向遺跡だ。

ヤマト建国は三輪山麓の扇状地・纏向遺跡(奈良県桜井市)で始まった。三世紀初頭、それまでなにもなかった場所に、巨大人口都市が出現したのだ。各地から土器が集まり、前方後円墳が誕生し、この独自の埋葬文化を各地の首長が受け入れ、造営した。

纏向遺跡の特徴は、いくつもある。
まず第一に、農耕の痕跡がなく、政治と宗教に特化されていたこと。第二に、倭国大乱のあと、戦争を収拾する時期に出現したのに、なぜか防御のための施設が見当たらない(※『倭人伝』での卑弥呼の居城と一致しない)。

纏向の特徴の第三は、各地から土器が集まってきていたことだ。外来系の土器は、全体の三割弱を占める。内訳は、東海四十九%、…(中略)…無視できないのは、この時代最も栄えていた九州北部の土器がほとんど出土していないことなのだ。「北部九州の邪馬台国が東に移動してヤマトは建国された」という考えは、もはや通用しないのである。

(『縄文の新常識を知れば日本の謎が解ける』関裕二/PHP新書/2019年より引用)


『日本書紀』で纏向を都としたとされる天皇は、11代垂仁(241年即位)、12代景行(290年即位)だから、時期的にもドンピシャだ。素直に考えれば、九州の邪馬台国で卑弥呼が鬼道や祈祷に励んでいた頃、すでにヤマトでは皇室を中心とした一大勢力が確立されていた、と結論が出るように、ぼくには思える。

そして、ヤマトの周りには、もともと吉備や丹波、出雲といった「地方王権」があって、200年ほどの時間をかけて、徐々にヤマトに同化していったのだろう。

『日本書紀』によれば、10代崇神天皇は(216年に)「四道将軍」を派遣して、全国の教化をはかったそうな。行き先は北陸道(越)、東海道(尾張)、西道(吉備)、山陰道(丹波)。

例えばその時代の吉備には、全長72mにもなる双方中円墳「楯築墳丘墓」があって、ヤマト(前方後円墳)とは異なる文化の巨大勢力が存在していたのは確かなようだ。

血も流されたのだろう。以前に紹介した安本美典さんの記事によれば、弥生時代の鉄鏃は、九州を除けば、京都府(丹後)、岡山(吉備)、兵庫(丹波)、広島(安芸)、山口(出雲?)から多く出土している。繰り返すが、奈良はごく僅か・・・。

もう一度整理すると、AD216年に崇神天皇が「四道将軍」を派遣して近畿周辺を平定、241年垂仁天皇が纏向に皇居を置き、248年(九州で)卑弥呼没、304年ヤマトタケル九州平定、310年ヤマトタケル東国平定・・・という流れだ(『日本書紀』では九州平定は景行天皇による事績)。

というわけで、マンガ『ヤマタイカ』の歴史観のうち、卑弥呼の没後、邪馬台国を乗っ取った男王がヤマトに東遷した、という設定の無理矢理ぶりについては、十分に検証できたと思う。

だが実は、もう一つの問題の方が、このブログ的には縁が深い。
次回は、「渡来人」という自虐史観、を検討したい。

つづく

『日本の誕生』長浜浩明 -九州編その3

iPad Pro 2018

長浜浩明さんの最新刊『日本の誕生 皇室と日本人のルーツ』(WAC)によると、神武天皇が生きたのは、邪馬台国の卑弥呼の時代より300年ほど前の時代だという。仮に2019年から300年前といえば、徳川吉宗が暴れん坊将軍として活躍していた時代なわけで、300年はそれほどに長い。

まず先に神武天皇の「東征」があって、その300年ほど後に邪馬台国に卑弥呼がいた・・・。
これは従来の日本古代史、さらには日本建国史を根底から覆すような話で、真実であるなら教科書の書き換えが必要なレベルだ。

長浜さんは東京工業大学のご出身で、卒業後は大手の設計事務所に入社されたそうだ。
おそらく、そんなキャリアだからこそ気がつけたのが、『日本書紀』の神武東征のくだりが、「大阪平野の発達史」のある年代と奇妙な一致を見せるという事実だ。

戦後の復興期、大阪でも多くの高層建物が建設され、戦後数十年に亘り隈なく掘られた地盤の調査資料から、大阪の地下構造と形成過程が明らかになっていったのです。


その大阪平野の発達過程は7つに区分され、一番古いものは2万年前の「古大阪平野時代」、その後、河内「湾」の時代、河内「潟」の時代を経て、現在は河内「湖Ⅱ」の時代らしい。そしてそれら7枚の古地図を並べてみたとき、長浜さんは気がついたわけだ。
一枚の地図だけに、『日本書紀』で神武天皇が大阪湾に進軍した時の状況が、そのまま表されていると。

それは「河内潟の時代」、紀元前1050〜前50年の大阪の古地図だった。
この期間に限れば、あの『日本書紀』の描写は歴史的事実に基づいた記録だ、と考えることができるわけだ。

長浜さんの探求は、続いて文献に向かう。
裴松之は南朝・宋の時代の歴史家で、『三国志』では取り上げられなかった資料を元に「裴松之の注」なる補足を行った人物。
そこには三国時代の倭人の風習として、次のような記述があるそうな。

「其俗 不知正歳四時 但記春耕秋収 為年紀」
(倭人は歳の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている)


要は、「倭人は一年を二年に数えていた」と当時の中国人が記録していたわけだ。
そしてその明らかな終わりは、「暦博士」という官職が『日本書紀』に表れる欽明天皇の時代、西暦で539〜571年の在位期間の前まであたりか、というのが長浜さんの推理だ。

ならば、欽明天皇以前の天皇の年齢は、およそ半分に計算すればいい。
そうして導かれた神武天皇の即位は、前70年。これはまさに「河内潟」の時代に相当する・・・。

もちろん、ご著書では細かい分析がなされているわけだが、ぼくの記事は、古代史に全く関心のない東京某所の雑誌編集者に向けて書いているので、こんなもんで十分だろう。


実は、神武天皇は卑弥呼より前の時代の人間なのでは? と考えさせる本は長浜本だけはない。

産経新聞出版から2016年に出た本に『神武天皇はたしかに存在した 神話と伝承を訪ねて』がある。副題の通り、神武天皇の足跡を実際に回って、神社や遺跡などに残された土地土地の伝承を丹念に集めていった、凄い本だ。

何より面白いのが、神武天皇が「東征」と言いながら、『古事記』によれば、岡田宮(北九州市八幡西区)で1年、阿岐国(広島県)には7年も逗留しているノンビリ旅の理由を、各地に稲作や鉄器、灌漑といった最新技術を広めながら味方に加えていったのでは…という考察をしつつも、当然のごとくに予想される読者からの反応に躊躇って、はっきりとは言い切れない歯がゆさを感じるところだ。

つまり、もしも神武東征が卑弥呼の没後、3世紀末とかに行われたのだとしたら、稲作も鉄器もありふれた、どこにでもある技術に過ぎないじゃん?
という反応に、どう答えたらいいのか。

だが長浜本なら説明可能だ。
卑弥呼より300年も早い時代に、神武天皇は「東征」した。
その時代であれば、レベルの高い稲作や鉄器は、どこへ行っても諸手を挙げて歓迎されたことだろう。


邪馬台国の卑弥呼と、ヤマトとの関係を端的に表している記述が、『日本書紀』にもある。
神功皇后六十六年」だ。

晋の国の天子の言行などを記した超居注に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。(『日本書紀(上)全現代語訳』宇治谷孟/講談社学術文庫)


武帝(司馬炎)二年は西暦266年なので、邪馬台国の時代にへの朝貢があったことが、中国側の記録に残っていることが分かる。
ところが『日本書紀』には、次の「六十九年」に「皇太后が稚桜宮に崩御された」とあって、素直に読めば「倭の女王」と「皇太后」が同一人物とは扱われていないことが分かる。

つまりは、『日本書紀』を編集したヤマトのエリート官僚から見て、邪馬台国の女王なんぞは「倭の女王」扱いで十分な、他人事で無関係な世界の住人に過ぎない、ってことだろう。・・・てか、ぼくが編集者なら、隠蔽というか、無かったことにしたい記述だな、これ(笑)。

春秋年だと神功皇后の年代が100年ほど早くなるため、たまたま我らがヤマトの「皇太后」陛下と、九州の野蛮な「倭の女王」が同じ時代に生きたことになってしまっているが、「倭の女王」ごときが神功皇后であったり、ましてや皇祖アマテラスだなんて、『日本書紀』からは到底感じられないと、ぼくは思う。

それを裏付けるように、『旧唐書』(東夷伝倭国日本国条)には、次のような記述がある。

日本国は、倭国のなかの別種である。その国が日の出る辺りにあるので、そのために日本を国の名とする。
あるいは、倭国が自分でその名が雅でないことを知って嫌がり、あらためて日本としたともいう。また、日本はもともと小国だったが、倭国の地を併呑したともいう。(『現代語訳 魏志倭人伝』松尾光/新人物文庫)


さて、こうして見てくると、「倭」というのは3世紀の九州に存在した、単なる地方王権のように思えてくる。ただ、「倭」だけが中国に朝貢していたので、中国の記録の中に残された、と。
そういえば『魏志倭人伝』にも、「倭」の東には「倭種」の国がある、と書いてあったな。

・・・というわけで次回は、『魏志倭人伝』に描かれた時代より「昔」の日本列島の状況について、ザックリ見てみたいと思う。

つづく