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横浜市・杉山神社のイタケル - 神武東征編その9

中川杉山神社

写真は、横浜市都筑区中川の杉山神社。港北ニュータウンのど真ん中で、イタケル(五十猛神)を祀る。
なんで紀伊から遠く離れた神奈川県でイタケルなのかは不明らしいが、例によって明治政府が「杉の山」なら「木の神イタケル」じゃね?と命じてきたんだろ。
地元民じゃないとまず知らない神社だが、鶴見川に沿って44社もあるらしい。春夏のコロナ自粛のしわ寄せが秋にきて、遠出する時間など全くとれないので、先日、納品の帰り道に港北エリアのイタケルたちをお参りしてきた。

西八朔・杉山神社

緑区西八朔にある杉山神社は武蔵国六の宮として、武蔵国総社・大國魂神社の「くらやみ祭」に参列しているんだとか。まぁフツーの村の鎮守だったな。

吉田・茅ヶ崎・杉山神社

他にも港北区吉田の杉山神社と、都筑区茅ヶ崎の杉山神社を参詣してきたが、茅ヶ崎には興味深い社伝があった。菱沼勇武蔵の古社』(1973年)によると、こちらを創建したのは、あの安房国一の宮、安房神社の忌部氏なんだとか。この夏ぼくらは、徳島で知った神武天皇の功臣、アメノトミ(天富命)を追って房総の安房神社を尋ねたもんだが、彼らの旅はこんな横浜市の内陸部にまで続いていたのだなー。

そうやって、はるばる東京湾を渡り鶴見川をさかのぼって辿り着いた杉山の地に、忌部さんたちが祀ったのが祖神の天日鷲らと「太祖」タカミムスビ(高皇産霊尊)だったと、社伝にはあるそうだ。

タカミムスビ・・・。
前回の最後に書いたように、ネトウヨ神スサノオをなぜか朝鮮由来の神だと見る人がいるように、皇室の祖神タカミムスビを朝鮮由来の神だと見る人もいる。しかも実を言うとそれは、ぼくの愛読書『古事記外伝』(藤巻一保)だったりする(笑)。

古事記外伝

『古事記外伝』によれば、天皇家が祖神とするタカミムスヒは「古代朝鮮や満州・蒙古など北方系の語族が天神としていた」神らしい。さらには「天孫降臨神話」までが、朝鮮から北方ユーラシアで共有されていた「支配者起源神話」を、5世紀前葉に半島経由で取り込んだものだと『外伝』はいう。

ううむ、自他ともに認める生粋のネトウヨであるぼく(笑)としては受け入れがたい話だ。それで何度か繰り返し読んでみたところ、朝鮮半島の神話を輸入したという説を、『外伝』自体が根拠を示して考察しているわけではないことに気が付いた。考察してるのは溝口睦子という学者さんで、『外伝』はその説を丸呑みしてアプリオリな前提として唐突に持ち出してくるから、ぼくらは面食らってしまうというわけ。

アマテラスの誕生

となると『外伝』をちゃんと理解しようと思えば、必然的にというか、やむなくというか、溝口睦子先生の本を読んでみるしかない。やや渋々なので安い本からと買ってみたが、おお、一冊目からビシッと書いてあるぞ。せっかくなので、前後の議論がある程度わかるように、長めに引用してみる。

 結論からいえば、新しい政治思想、すなわち王の出自が天に由来することを語る「天孫降臨神話」は、この時期に、当時朝鮮半島きっての先進国であり、かつ、先述のように、日本が主敵としてつよく意識していた、当の相手の高句麗の建国神話を取り入れる形で導入されたのではないかと私は考える。そう考える最大の理由は、両者、すなわち高句麗の建国神話と日本の神武東征を含む建国神話との類似である。両者は、全体の枠組みだけでなく、細部にいたるまできわめてよく似ている。(『アマテラスの誕生』岩波新書/2009年)


なるほど、溝口先生の説の根拠は、両者の建国神話「天孫降臨」の類似にあるということか。それならぼくらはまずは両者の神話について、きちんと知っておく必要があるだろう。今回の記事では「細部」が分かるように、現代語訳をそのまま引用してみる。

日本書紀

まずは我らが正史『日本書紀』の、「本文」から。
前段までで、スサノオの追放とスサノオの八岐大蛇退治、そしてオオナムチ(大国主神)の誕生とスサノオの「根の国」行きが語られている。その続き。

天照大神の御子正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊は、高皇産霊尊の御娘栲幡千千姫を妻に迎え、天津彦彦火瓊瓊杵尊をお生みになった。皇祖高皇産霊尊は、特に寵愛し、心をこめてあがめ教育された。そしてついに、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊を立てて、葦原中国の君主にしようと思われた。しかしその国には、螢火のように妖しく光る神や、騒がしくて従わない邪神がいた。また草や木もそれぞれに精霊を持ち、物を言っておびやかした。そこで高皇産霊尊は多くの神々を召集して、「私は、葦原中国の邪神をはらい平定しようと思う。さて誰を派遣すればよいだろうか。諸神よ、知っているところを隠さずに語ってほしい。」と仰せられた。諸神は、「天穂日命は、まことに傑出した神です。この神を派遣したらいかがでしょうか。」と申し上げた。(Kindle版『日本書紀』宮澤豊穂)


素人なりに話のポイントを挙げてみると、まず皇祖タカミムスビは造物主とか絶対者じゃなく、問題解決を集合知にゆだねる調整型リーダーだという点が目立つ。昭和天皇や明治天皇の記録を読むのと何も変わらない、皇室の伝統は神代にすでに確立していたということだろうか。

そしてタカミムスビは、葦原中つ国(地上)の支配者であるオオナムチ(大国主)に国譲りを迫る。そこで「うん」と言わせれば、地上の土地と人間はニニギのものになる。ここで描かれているのは『日本書紀』編集と同時進行で行われていた政策、「公地公民」のことだろう。天皇の地上の支配権はタカミムスビが与えたのではなく、実効支配者のオオナムチからの譲渡こそが、その根拠になっているというわけだ。

では「国譲り」に続く、天孫ニニギの降臨場面。

時いたり、高皇産霊尊は、真床追衾(床をおおうかけぶとん)で皇孫天津彦火瓊瓊杵尊をおおわれ、降臨させられた。皇孫は、天磐座(高い磐の台)を離れ、また天八重雲を押し分けて、稜威の道別きに道別きて(神聖で霊威ある道をかき分けかき分けて)日向の襲の高千穂峰に天降られた。このようにして、皇孫のいでます姿は槵日の二上(霊奇な峰の二つ並び立つ山)の天浮橋から、浮島があって平らな所に立たれ、荒れてやせた不毛の国のずっと丘続きに良い国を求め、吾田(鹿児島県薩摩半島南西部の南さつま市加世田付近)の長屋(長屋山)の笠狭の碕(野間岬)にお着きになった。その地にある人がおり、自分から事勝国勝長狭と名乗った。皇孫が、「国はあるのかないのか。」と尋ねられた。すると、「ここに国があります。どうか御心のままにごゆっくりして下さい。」と申し上げた。皇孫は、滞在されることになった。(Kindle版『日本書紀』宮澤豊穂)


細部が重要なので長々引用しているが、ここでぼくが注目したのは「皇孫」という単語。
『日本書紀』の本文は主にニニギを「皇孫」と呼ぶが、これはタカミムスビの「皇祖」と対応させている印象が、ぼくにはある。漠然とした「天孫」の神話じゃなく、具体的な皇室ファミリーの記録として、本文は書かれているようにぼくには思える。

最後に『日本書紀』本文から、神武天皇が東征に出た理由と決意について、ご本人の発言。日向で愉快に暮らしていた神武天皇は、なぜ苦難の道を選んだのか。

天孫が降臨されてから今日まで、百七十九万二千四百七十余年である。遠くはるかな国は、今なお皇恩に浴していない。大きな村には君がおり、小さな村には長がいて、それぞれ境界を区切り、互いに攻争している。さて、塩土老翁に聞いてみると、『東方に美しい国があり、四方を青山が囲んでいます。その中に、天磐船に乗って飛び降った者がおります。』と言った。私が思うに、その国は必ず天つ日嗣の大業を弘め、天下に君臨するのに十分な土地である。まさしく我が国の中心地ではあるまいか。天から飛び降ったという者は、饒速日であろうか。その地へ行き、都を定めることにしようではないか。(Kindle版『日本書紀』宮澤豊穂)


ということで、『日本書紀』本文から、わが国の建国神話を確認してみた。
んじゃ続いて、溝口睦子先生が「全体の枠組みだけでなく、細部にいたるまできわめてよく似ている」とおっしゃる高句麗の建国神話を確認したい。

三国史記

まずは、現存する朝鮮半島最古の歴史書『三国史記』から「高句麗本紀」。
最古と言っても高麗時代の1145年に完成したもので、『日本書紀』より425年も後の成立だが、これしか残ってないので仕方ない。ぼくが買ったのは1975年発行の現代語訳『三国史記(中)』(林英樹/三一書房)。

始祖東明聖王の姓は高氏で、名は朱蒙である(または鄒牟、または衆解ともいう)。これより先、扶余(満洲松花江流域)王、解夫婁は子が無かったので、山川に祭祀をして、嗣子を乞うた。ある日、王の乗った馬が鯤淵に至って大きな石を見て涙を流した。王はこれを怪しみ、人をしてその石をころがしてみた。小児がいた。金色に輝き、形は蛙のようであった(蛙をまた蝸ともいう)。王は喜んで、「これは天がわれに、あとつぎをくれたのだ」といって、その子を拾って育てた。名を金蛙とつけ、長ずるにおよんで、太子とした。

後にかれの宰相、阿蘭弗が王に「この頃、日輪が天からおりてきて私にいうには、"将来、わが子孫をしてここに国をたてるから、汝等はここから去るがよい。東海の浜に土地がある。迦葉原という。土壌が肥え、五穀をつくるに適し、まさに都とすべきなり"といいました」といった。阿蘭弗はついに王に勧めて、都をかの地に移し、国号を東扶余とした。

その旧都に一人の男が、どこから来たか知らないが、自ら天帝の子、解慕漱と称し、来て都とした。解夫婁が薨じるや、金蛙が王位を継いだ。この時に、金蛙王は太白山の南、優渤水で、一人の女に出会った。誰かときくと、かの女は「わたしはもと河伯の娘で、名を柳花といいます。弟たちと外に出て遊んでいる時、一人の男が来て、自ら天帝の子、解慕漱といいながら、わたしを熊心山の下へ誘って、鴨緑江辺りの部屋の中へつれて行き、わたしのからだをおかしました。それから、かれは去って行って帰ってきません。わたしの父母はわたしが仲人もたてないで、男のいうことをきいたと責め、おい出すので、ついに優渤水にながし人となっています」と、答えた。

金蛙はこれを怪しみ、部屋の中に幽閉しておいた。日の光が照るので、からだを避ければ、日の光がまたついてきて照らした。それによってはらみ、一個の卵をうんだ。大きさが五升くらいあった。金蛙王はこれを棄て、犬や豚に与えても、みな食べなかった。また道の中に棄てた。牛馬がこれを避けて通った。後に野に棄てた。鳥たちがきて翼でこれを覆うので、王はこれを割ってみようとしたが、割ることができなかった。ついにその母にかえしてやった。その母(柳花)は、物で卵を覆い、暖かい所に置いたところ、一人の男の子が殻を破って出て来た。体つきが立派で風貌に気品があった。七歳の時からは断然ひとと異なり、自ら弓矢を作って射をよくし、百発百中であった。扶余の俗語に、善く射る者を朱蒙といったので、朱蒙と名付けた。金蛙王には七人の子がいた。(『三国史記(中)』林英樹/三一書房)。


・・・と、ここらへんまでが溝口先生が、わが国の「天孫降臨」に「全体の枠組みだけでなく、細部にいたるまできわめてよく似ている」と言われる部分だろう。この後、物語はアンデルセンの「みにくいアヒルの子」風に進み、高い能力を王子たちに嫉妬され、やがて王に疎まれた朱蒙は国を脱出して逃走し、高句麗を建国する。
その際に、母の柳花が言ったセリフが以下だ。神武天皇の東征の決意と、比較すべき部分だろう。

「国の人たちがお前を殺そうとしている。お前の才略では、どこに行くにしても暮らせないことはないだろう。(だから)速く逃げなさい」(『三国史記(中)』林英樹/三一書房)。


初めて読むと、カエルがどうしたタマゴがどうしたと、建国神話というよりアンデルセン童話にしか思えないかも知れないので、登場人物をざっくり整理してみたい。

まず「天帝」から国を明け渡せと(なぜか家来の夢を通じて)命じられた解夫婁(カイフル)がオオナムチの役だ。んでカイフルの子、金蛙がコトシロヌシ役。「天孫降臨」してきたニニギに該当するのは解慕漱(カイボソウ)で、この男が河の神の娘に生ませたタマゴから、神武天皇に該当する朱蒙(シュモウ)が生まれる。

これら登場人物が織りなす「全体の枠組み」をまとめれば、「天帝」に国を奪われたオオナムチの子、コトシロヌシが、国を奪った天帝の孫を育てたものの、能力に嫉妬して殺そうとしたが逃げられる・・・。

それが『三国史記』に見える、高句麗の建国神話の基本ストーリーだろう。

三国遺事

ところで、わが国に正史『日本書紀』と別伝の『古事記』があるように、高麗にも正史『三国史記』以外に、そこから洩れた異伝などを収録した『三国遺事』という書物がある。そしてそこには『三国史記』とはまた別の、高句麗建国神話があるというので、しぶしぶ買ってみた。

ぼくが買ったのは、1980年に六興出版から出た『完訳 三国遺事(全)』という本で、訳者は金思燁という人だ。そこから『三国史記』とは異なる部分「紀異第一 北扶余」を引用すれば、こう。

『古記』にいうには、『前漢書』に、宣帝の神爵三年壬戍(B.C59年)4月8日、天帝が訖升骨(升紇骨)城(大遼の医州の地にある)に降りてきて、五竜車に乗り、都を定めて王と称し、国号を北扶余とし、みずから解慕漱と名のり、子を生んで夫婁といい、解を氏とした。王はのちに天帝の命により都を東扶余に移した。東明帝が北扶余を継いで立ち、都を卒本州に定め、卒本扶余となったが、(これが)すなわち高句麗の始祖である(下に見える)。(『完訳 三国遺事(全)』金思燁)


これを『日本書紀』の役に当てはめて要約すれば、皇祖タカミムスビが自ら降臨してニニギと名のり、オオナムチ(大国主)を生んだことになる。その上でタカミムスビはオオナムチに国を移動させろと言うんだから、何が何だかサッパリ理解できないがケンチャナヨ。『三国遺事』でも、それ以降のストーリーは、概ね『三国史記』と同じだ。

実は、溝口睦子先生は「建国神話」とおっしゃるが、『史記』『遺事』に共通するストーリーは、中国の歴史書にはリアルな「歴史」として記載されている。この際なので、629年に成立した『梁書』から「高句麗伝」を引用する。ちなみに高句麗の滅亡は668年なので、書かれた当時まだ存在していることになる。

 高句麗、その先祖は東明より出る。東明は昔の北夷の橐離(たくり)王の子。王が(王宮を)離れて出て行った。その後に王の侍妾(後室の妾妃)が妊娠した。帰還した王はこれを殺そうとしたが、侍妾は「以前、天上に大きな鷄子(とりこ=渾沌宇宙)のような気を見ました。それが私に降りて来て、妊娠したのです」と言った。
 王は侍妾を幽閉し、後に男児が生まれた。王は男児を豚舎に放置したが、豚が息で暖めるので死なない。それを聴いた王は神だと思い、養育することにした。
 成長して弓の名人になるが、王は彼の勇猛を厭い、再び殺そうとしたので、東明は逃走、南の淹滞水に至り、弓で川面を撃つと、魚やスッポンが浮上して橋となり、東明はこれに乗って渡り得た。東明は扶余に至って王となる。その後、分岐して高句麗の種族となる。(『梁書』高句麗伝)


素直に考えれば、古い『梁書』の記録の方がオリジナルに近いはずで、そこにカエルだとかタマゴだとかで神話的な肉付けをしたのが『三国史記』であるように、ぼくには思える。そして後付けの装飾を取り去ってみれば、わが国と高句麗の建国神話に一致する点は、一欠片もないようにも思えてくる。

溝口先生はタカミムスビを大陸系の神を輸入したものと論じ、その根拠に両国の神話の類似を挙げられるが、それは本当に議論の根拠になり得るんだろうか。

次回につづく

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須佐神社のふたりのスサノオ - 神武東征編その8

伊太祁曽神社 太鼓橋

上は、和歌山市の郊外に鎮座する「伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)」の割拝殿を、太鼓橋から撮った写真。田んぼや住宅に囲まれた社叢の中で、スサノオの息子イタケル(五十猛神)を祀る古社だ。
参詣したのはクソ暑い8月だったので深緑が鮮やかだが、11月の今ごろは紅葉が見事なんだろう。何しろ祭神のイタケルは「木の神」として有名だ。

イタケルの名前は、正史『日本書紀』の「本文」には出てこない。出てくるのは参考文の「一書(あるふみ)」の方だ。本文では、高天原を追放されたスサノオは出雲へと降っていって、やがてオオナムチ(大国主)を子に持つが、参考文の一書では新羅国の曾尸茂梨(そしもり)に天降ったとある。それに同行したのが、イタケルだ。

ところが新羅に天降ったスサノオは「此地、吾不欲居」、要は新羅は気に入らん!と吐き捨てて、さっさと海を渡って出雲に向かってしまった。日本のネトウヨ第1号だ(笑)。
同行したイタケルも、天降りの際に沢山の樹木のタネを持ってきたのに、なぜか「韓地」には植えないで、すべて日本の国土に植えてしまった。うむ、ネトウヨの子もネトウヨだな(笑)。
日本書紀にはその後イタケルは、「有功の神」として紀伊国に祀られたとある。

伊太祁曽神社 拝所

イタケルが登場する「一書」は、もう一つある。
「韓郷の島」には金銀があるのに、わが子の国に舟がないとマズいだろう、と考えたスサノオは、自分の体毛から樹々を生んだ。文中には書いてないが、つまりは舟を作って「韓郷の島」の金銀を取りに行け、ということだろう。樹々のタネはイタケルと二人の妹が、せっせと播いて回ったそうだ。

学者の本によると、こうした神話の背景には、ヤマトの朝鮮侵攻の水先案内人として活躍した、紀伊海人の存在があると言うが、難しい話はともかくとしても、生粋のネトウヨを自認するなら一度は訪れておきたい神社が、ここ伊太祁曽神社だ。

須佐神社 参道 天幸馬

イタケルに続いては、父神のスサノオ(素戔男尊)にもお参りしなくてはなるまい。
阪和自動車道を南に進んで有田ICで降りて、有田川に沿って西に進むと、ぼくらの年代だと誰でも知ってる箕島高校があって、そのちょっと手前を南に折れると、スサノオを祀る「須佐神社」がある。

須佐神社には、いかにもスサノオ的なエピソードがあって、江戸初期の記録によると、はじめ社殿は海に面していたが、往来する船が恭謹の心を表さないと転覆させられたり壊されたりしたので、何と元明天皇の勅命(!)によって社殿を南向き(山向き)に作り替えられたんだとか。目を合わせると襲ってくるスサノオ、恐るべし(笑)。

須佐神社 拝殿 鈴門

ところでそれにしても、スサノオってのは出雲の神さまじゃなかったっけ?
ぼくらが昨年、島根県の古社巡りをしたときも、熊野大社を出たあたりで猛烈なビール欲と温泉欲に負けて行かずじまいになったものの、出雲市の須佐神社も予定ルートには入っていたのだ。

だいいち、神話じゃなくてリアルな「地誌」として提出された『出雲国風土記』には、スサノオは「神須佐能袁命」とか「須佐乎命」とかいって、実在の人物として記録されている。スサノオという王が実際に出雲にいたのは確かなことなんだろう。

ところがその『出雲国風土記』のスサノオには、神話のスサノオを想起させる要素が何もないんだとか。
なるほど手元の講談社学術文庫をパラパラ見てみても、オイラの子供たちにこういう名前を付けたよ、とかオイラの気に入った土地にオイラの名前をつけたよ、とかオイラ葉っぱを頭に乗せて踊ったよ、とか、ほのぼのとした癒やし系エピソードに満ちていて、青山を枯らし、民を若死にさせる破壊神スサノオのイメージはない。

この点について、ぼくらの愛読書『古事記外伝』(藤巻一保)の結論はこうだ。

風土記で描かれるスサノヲには、「啼きいさち」る神や、祓われる神としての顔は、みじんも見えない。農業や冶金にかかわる神の要素はあるけれど、暴風雨神や荒神的な要素もない。このスサノヲと、『古事記』のスサノヲを同じ神とするのには無理がある。そこを無理矢理つなげあわせようとする作業は、筆者には空しい砂上の楼閣づくりに見える。(「出雲という謎」)


つまりは「別の神」ということだ。出雲のほのぼのスサノオと、神話の荒くれスサノオは「別の神」だと考えた方が通りがいいと『古事記外伝』には書いてある。

おさる石

じゃあ日本書紀「神代」で、大海をとどろき渡らせ、山岳を鳴りひびかせて高天原に向かったと言うスサノオは、一体どこの神なんだろう。
そこで、『古事記外伝』で「天皇家の伝承を第一に重んじて」「これが日本国の正史だと編纂委員が認めてまとめあげた」とされる「本文」部分だけから、スサノオのストーリーを要約すれば以下になる。


国土を生み終わったイザナギ・イザナミの夫婦は、続いてアマテラスとツクヨミを生んで天に送った。未熟児のヒルコを流したあと、スサノオを生んだが、残忍で騒々しいヤツだったので「根の国」に行けと追放した。するとスサノオは、根の国に行く前に高天原で姉に挨拶したいとイザナギに頼んで、許可された。

高天原では、国を奪われると勘違いしたアマテラスがスサノオを待ち受けていたが、スサノオは父母の厳命に従って根の国にいく途中だと言って、二人の「誓約(うけい)」の結果、アマテラスの疑いは晴らされた。しかしその後のスサノオの暴行に業を煮やしたアマテラスは、天の岩屋に籠もってしまった。この事件は八百万の神々の力で解決して、スサノオは高天原を追放された。

出雲に天降ったスサノオは、ヤマタノオロチからクシナダヒメを救い、ヒメと草薙剣を得た。剣を天つ神に献上したスサノオは、出雲のスガに宮殿を建て、子にオオナムチを授かった。そして自分は根の国へ行った。(以上、竹波による大雑把な要約)


以上、日本書紀「本文」を要約すればいかにもシンプルで、スサノオは両親から「根の国」へ行けと言われたので忠実に実行し、その道中に高天原と出雲に立ち寄っただけ、という話になる。
んじゃ「根の国」ってどこよ、と言えば、それは「本文」からだけでは情報不足なので、参考文「一書」を参考にしてみる。

日本書紀 Kindle版

今はKindleという便利なものがあるので、まずそれで「根の国」を検索してみると、スサノオが父イザナギにこう言ってるシーンがヒットした。いわく「私は母について根の国に行きたい(吾欲従母於根国)」と。

このセリフは日本書紀「第5段の一書(第六)」に出てくるが、この一書はどうやら『古事記』とネタ元を共有しているようで、火の神を生んで焼死した妻イザナミを、夫イザナギが黄泉の国まで追っていくという有名なストーリーが収録されている。
で、ご存じの通り、このストーリーではアマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子はイザナギが一人で生んだことになっていて、スサノオがいう「母」イザナミは、すでに死んでいる。

それで今度は「伊弉冉尊」で検索して、イザナミがすでに死んでいることが明らかな記事を探してみると、さっきの一書の一つ前の一書(ややこしいw)に、イザナミの墓所の話題があった。いわく「紀伊国の熊野の有馬村に葬った」と。

なるほど、神話のスサノオのイメージとして指摘される「暴風雨」や「大地震」は、島根県にはチト合致しないが、和歌山ならバッチリだ。もしも日本書紀の世界観が、本文をメインにしつつも一書も微妙に抱合しているとすれば、スサノオが目指す「根の国」は、紀伊方面になるはずだ。

日本の神々 松前健

ところで一書(第十一)には、イザナギがスサノオに「青海原を治めよ」と命じたという異伝もあるが、出雲の須佐神社は山の中で、海のイメージは全くない。一方、紀伊の須佐神社は漁港にほど近く、奉納された絵馬はほとんどが漁業に関係したものらしい。
また、紀伊の須佐神社が名神大社(従一位)だったのに比べて、出雲の須佐神社が「小社」なうえ「神階」もなかったという事実もある。

で、こうしたあれやこれやを全て検討した上で、神話学者の松前健さんは「スサノヲの崇拝の真の原郷」は「紀伊の須佐」だと断言しておられる。あちこちの本とかwikiとかで見かけるので有名な学説なんだろうけど、せっかくなので長めに引用しておく。

この神は古く紀伊の須佐付近の漁民、紀伊海人の信奉していた海洋的な神なのであった。しかも海の果ての根の国から来訪し、豊饒をもたらし、若者に成年式を施していくマレビト神なのであった。そしてこの根の国の霊物という内性のゆえに、高天原神話における幾多の罪穢の元凶である邪霊と同一視され、また日神の魂を奪い取る悪神とも同一視され、また足の不自由なヒルコとも混同されたのである。また海にゆかりのある霊物であるがゆえに、この神の分治の領域は海と定められたし、また浮宝としての船の守り神とされ、さらにその船の用材の供給者として紀伊の国の樹木神五十猛神の親神とされ、樹木の管理者・生成者とされたのであろう。(『日本の神々』松前健/1974年)


なるほど、もう一人のスサノオは、出雲から根の国(紀伊)に行ったのではない。
最初から紀伊に、いたというわけか。

この、スサノオ(的な霊物)は紀伊の神、という松前説は、ぼくには本当に納得できるものだ。
ぼくは個人的に、日本書紀「神代」には隠された裏ストーリーがあって、大っぴらには書けなかった古代ヤマトの侵略史がそれだと思っている。で、その珍説によれば、イザナギという淡路の神の次には、スサノオが登場する必要があるんだが、それが出雲の神だと順番が狂ってしまう。でもスサノオが紀伊の神なら、神武東征に従った順番になって、はなはだ都合がいい(笑)。

実際、学者の本によれば、紀伊の土着信仰の拠点だった伊太祁曽神社は、ヤマトの紀氏が信奉する日前宮に社地を譲った歴史があるらしい。それが暴力的なものか平和的なものかは定かでないが、紀伊土着の人々がヤマトの侵略を受けたことは確かなんだろう。

和歌山城

さて、素人の戯れ言はそれぐらいにしてスサノオに話題を戻すと、『古事記の本』(学研)みたいな入門書をめくるとき、「ん?」と首をかしげたくなる記述にぶち当たることがある。『古事記の本』でいえば、小見出しに「スサノオ命は朝鮮の神か?」なんて書かれていて、根拠としてスサノオが新羅に天降った日本書紀「一書」のエピソードが挙げられていたりする。

だけど上の方で見たように、スサノオ親子はネトウヨ(笑)で、新羅は気に入らん!と言ってサッサと退去したわけだ。
日本書紀は、ヤマトが白村江の戦いで唐・新羅軍に敗れたあとに編まれたので、ここには「古代宮廷人が公の場において新羅を"蕃国"視した観念が投影されている」と読み解く先生もいて、スサノオが朝鮮に由来する神だという発想自体が、一体どこから出てきたものか、ぼくにはさっぱり分からない。

ところが朝鮮に由来するのはスサノオだけではないらしい。
何と、皇室の祖神・タカミムスビ(高皇産霊尊)さえも、朝鮮に由来するという説があるらしい。

つづく


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