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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
一つの 「カテゴリ」 で一つの記事となってます(記事は古い順に並んでます)。同世代のおっさん向け。

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仮面ライダーX ~米ソの陰謀 GOD機関

Xライダー

仮面ライダーX』(1974)の「悪」は、”世界征服をたくらむ悪の秘密結社”ではなかった。「悪」はもっとリアルで恐ろしい設定がなされていた。その名も「GOD機関」。

「GOD機関とは、世界の対立する大国同士が秘かに手を握り、改造人間を使って日本全滅を狙う、恐怖の秘密組織である」「日本を滅亡させるため、巨大な悪の組織GODは、不気味な活動を始めた」(第1話ナレーション)


誰が聞いたって「対立する大国」とはアメリカとソ連を指していると思うはず。その両大国が裏で手を結び、再び日本を滅ぼしにやってきた。それがGOD。
それに対抗するのが、神敬介が変身する仮面ライダーXだ。神敬介はGODによって殺害されたが、人間工学の権威である父、神啓太郎博士の手でサイボーグとして復活した。

要するに『仮面ライダーX』の世界観は、GOD対神、米ソ対日本。
これは、1974年当時の朝鮮半島や中国の経済状況を考えれば、リアルに導かれる結論というものだろう。米ソ以外のどこの誰が、大金をかけてわざわざ日本を滅亡させるための闇の組織を作ったりするものか。
常識的かつ自然な思考から、GOD機関は設定されているとぼくは思う。

では、このGODの設定は誰が考え出したものなのか?
ぼくなりに何冊か『仮面ライダーX』について書いてある本を読んでみたのだが、はっきりとは分からなかった。
ただ一つだけ確かなことは、『仮面ライダーX』ではメインライターの交代が行われたということだ。それまでの伊上勝に代わって登用されたのは、長坂秀佳。『日本沈没』や『特捜最前線』などで知られる脚本家だ。

『KODANSHA Official File Magazine仮面ライダーVol.5』に掲載されている長坂秀佳へのインタビュー記事によると、『キカイダー』や『アクマイザー3』等では連日のように行われた石森章太郎邸での打ち合わせが、『仮面ライダーX』では全くなかったらしい。

「だからたぶん、平山さんって人は『こういうのをやってくれ』って具体的な打ち合わせをするより、『とにかくまあ書いてみてよ』ってところがあったから、『X』もそういう流れだったんじゃないかと思う。出来ているのは石ノ森さんのデザイン。あとはタイトルと役名くらいかな(笑)」(上記ムック本から引用)


という本人の談話からしても、GODの設定が長坂秀佳のアイデアによるものである可能性はかなり高いようにぼくは思う。と言うのも、長坂秀佳が関わると、その作品世界が隠し持っていた真相とでも言いたくなる別の顔が現れることが多々あるからだ。

例えば『ウルトラマンA』に初めて梅津ダン少年が登場した、第29話『ウルトラ6番目の弟』を書いたのが長坂秀佳だ。あの回では、梅津ダンの父親の言葉として北斗星司が目指すべき「父性」が具体的に示される一方、その本質を見誤って「ウルトラの星」の実在に「父性」を預けてしまった北斗の姿も描かれた。それによって、ウルトラはウルトラ、人間は人間、という永遠の平行線が引かれ、宇宙のエリートとして一段高い位置から人間を保護しているウルトラの真実が露呈した。

この長坂の脚本はぼくの見るところ、ウルトラという異星人ヒーローの息の根を止めてしまう性質のものだったが、一方でそれは、素直に見たままを誤魔化さずに書いただけのものでもあった。無償の弱者保護に励むウルトラに、何らかのエリート意識がないと言ったらウソになるだろう。あって当然だと思うし、そんなウルトラに偽善を感じるのであれば、ウルトラを卒業する日が来ているだけのことだ。

そんな長坂のストレートな視線は『人造人間キカイダー』でいよいよその冴えを増す。
元々は、石森章太郎ー平山亨ー伊上勝の『仮面ライダー』トリオの手で、『仮面ライダー』的世界の亜流として始まった『人造人間キカイダー』が異様な輝きを放ち始めるのは、長坂がメインライターに居座った終盤に入ってからだ。
言わずとしれた、ハカイダーの登場。

ハカイダー自体は石森章太郎の原作漫画にも登場するが、ぼくの見るところ、テレビ版のほうが数段深い。「まず、設定ありき」を旨とする長坂が、石森章太郎の設定を極限まで拡大した成果がハカイダーだろう。そこには石森と長坂の持つ、それぞれのテーマの違いも見られるように思うが、それはまたいずれ。


話を戻すと、とにかく長坂秀佳の手で書かれた『仮面ライダーX』は、現代日本に生きる日本人が現代日本を守るために戦うという、普通に考えればごく当たり前のヒーロー番組としてスタートした。Xは声高に「正義」を叫んだり、どこかの誰かの「エージェント」であったりはしない。日本を滅ぼそうとする米ソの陰謀から、この国を守ろうとしているだけだ。

が、残念ながら、長坂はたった4本の脚本を残しただけで『仮面ライダーX』を降板させられてしまう。
その原因は上記ムック本等によれば、主人公を裏切ってGODに走った恋人・涼子と、涼子に瓜二つの謎の女・霧子の登場、といったサスペンス要素や、ギリシア神話をモチーフにしたGOD怪人の親しみにくさなどが局サイドに嫌われたからだということだ。長坂自身はインタビュー記事のなかで、自分の態度が悪かったのだろう、と今ひとつ意味不明なことを言っている。

いずれにしても長坂降板後の『仮面ライダーX』の悪役GODは、いつの間にか”世界征服をたくらむ悪の秘密結社”に戻っていったのだった。

つづく

サイボーグ009 超銀河伝説

悪の帝王ゾア

話が前後してしまうが、『仮面ライダー』から始まる70年代ヒーロー番組の源流がどこにあるかと言えば、それは石森章太郎のライフワーク『サイボーグ009』だろう。
1966年に公開された劇場用アニメ『サイボーグ009』の序盤部分は、『仮面ライダー』のそれと極めて酷似している。

まずショッカーならぬブラックゴースト団という悪の秘密結社があり、だまされてその組織の人体改造に協力してしまうギルモア博士(ライダーでは緑川博士)がいる。主人公の島村ジョーは抜群の運動能力を誇るカーレーサーだったが(本郷猛はオートバイのレーサー)、その能力に目を付けられてサイボーグにされてしまう。島村ジョーは博士とともに組織から逃亡し、組織と戦うことを誓うが、人間でなくなってしまった悲しみは時として彼を苦悩させるのだった・・・。

と、ごらんの通りで、基本的なストーリーはほどんど同じ。『サイボーグ009』の9人のサイボーグを1人にし、実写の特撮シリーズらしくリアリティを持たせたものが『仮面ライダー』だと言って、ほぼ差し支えがないように思う。

となると、このブログでいま問題にしている、自虐史観につながる世界観をヒーロー番組に持ち込んだ張本人は、実は石森章太郎その人だったということになるが、おそらくそれもほぼ断言して差し支えがないように思う。
その根拠はやはり『サイボーグ009』にある。

1966、1967年に相次いで劇場用アニメとして制作された『サイボーグ009』は、それから十数年たった1980年に『サイボーグ009 超銀河伝説』として銀幕にかけられた。原作・総指揮は石森章太郎。

新聞広告には『宇宙戦艦ヤマト、銀河鉄道999に続く壮大なスケールの娯楽超大作』と当時ヒットしていた宇宙を舞台にしたSFアニメを意識したコピーが打たれていた」(Wikipediaより)

1980年といえば、アニメブームのひとつの頂点とも言えるような時期だった。2年前の1978年には社会現象として騒がれた『さらば宇宙戦艦ヤマト』の公開があり、翌1979年には『銀河鉄道999』が大ヒット、テレビでは『機動戦士ガンダム』が始まった。書店には何種類ものアニメ雑誌がうずたかく平積みされていた記憶がある。

その一方で、70年代前半を席巻した特撮ヒーロー番組はもはや虫の息で、1980年だと『ウルトラマン80』『仮面ライダースーパー1』『電子戦隊デンジマン』といった定番ものがいくつかある程度・・・。しかしぼくらの世代で、これらの特撮番組を観ていた人はそう多くはないだろう。

すでに「正義」は相対化されて、一つではなくなっていた。悪役には悪役の主張があり、「正義」があった。主人公たちの「正義」が無条件に保証されることはなくなり、複数の「正義」の激突こそが、物語の根幹をなすようになった。主人公たちは、しばしば自らの「正義」の崩壊に直面し、そこから様々な問いかけが生まれていくような、重層的な構造を持った物語が多数誕生した。
『サイボーグ009 超銀河伝説』はそんな時代に投入された、130分の大作だった。

ストーリーはこうだ。
コズモ博士は宇宙を生んだ母源の存在を発見し、それをボルテックスと命名した。ボルテックスが実用化できれば、地球上のエネルギー問題は全て解決する大発見だ。しかし、宇宙征服を企む悪の帝王ゾアがその研究を狙っていることが発覚。コズモ博士と001はゾアの手で拉致されてしまう。残るサイボーグたちはゾアの野望を粉砕するため、宇宙への旅に出発するのだった・・・・。

『サイボーグ009 超銀河伝説』goo映画によるあらすじ

・・・これは逆の意味で、恐るべきストーリーだと言っていい。。
何と1980年になってなお、『サイボーグ009』は勧善懲悪の物語だったのだ。

もちろん『サイボーグ009』がいつでも”悪の軍団の侵略”と戦ってきたというわけではないんだが、仮にも2時間を超える劇場用作品ともなれば、『サイボーグ009』の集大成と見なされて然るべき存在だろう。キャッチコピーにあるように、この『超銀河伝説』は『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』に比肩する作品として制作されたのだ。

ちなみに1980年のアニメ映画というと『地球へ・・・』があるが、あらすじを読んだだけではストーリーや人間関係を把握するのが困難なほど、複雑かつ重層的な世界観がある。もちろん「正義」がどこにあるのか、あるいはそんなものは最初から存在しないのか、相当な熟考を要する。誰も、自分から自分が「悪」だとは言ってくれないからだ。

『地球へ・・・』goo映画によるあらすじ


もしかすると石森章太郎にとっては、ヒーローが戦う悪役の設定など、どうでもいいことだったのかもしれない。
問題なのは「悪」によって作られた身体を持つヒーローが、いかにして「善」の心を維持するかの内面の葛藤にあるのだろう。だから石森章太郎のヒーローたちは、やたらと悩む。島村ジョーも、本郷猛も、光明寺ジローも、とにかく悩む。自分が人間ではないことが、彼らを悩ませる・・・。

だが、ストーリーを吟味してみると、実はこの”人間ではない身体”にしか、彼らの戦いの動機が存在していないことに気がつく。島村ジョーも本郷猛も、もしも改造手術を受けることがなければ、好んで「悪」と戦うつもりなどサラサラなかっただろう。彼らは言わば、仕方なく、やむを得ず「悪」と戦った。「悪」と戦わなければ、「悪」の身体をもつ自分自身の「善」を証明できないからだ。戦わないジョーや本郷は、”今のところは”悪事を働いていない「悪」に過ぎない。

結局のところ、石森章太郎は彼のヒーローたちに「悪」と戦う積極的な動機を与えることがなかった。その結果、彼のヒーローたちの「正義」を担保するものが、彼らが「悪」と戦っていることの1点にしかないという事態に繋がってしまった。要は、「悪」が消えた瞬間に「正義」も消えてしまうという異常事態だ。

皮肉なことに、そんな石森ヒーローの異様な在りようが如実に表されたのが、石森的世界をその身体そのものに持った存在、キカイダーだった。

つづく

二つの『人造人間キカイダー』

良心回路の発動

1970年代には2種類の『人造人間キカイダー』が存在した。一つは、石ノ森章太郎が全てのストーリーを作ったマンガ版。もう一つは石ノ森のアイデアを元に1973ー1974年に制作されたテレビ版。この両作は、ともに石ノ森章太郎がキャラクター設定と基本的なストーリーを考え、同じタイトルを共有する作品だが、実際には核心部分がまったく異なっていて、いわゆる「原作」ー「テレビドラマ化」の関係ではない。一つのアイデアから平行して作られていった、別の作品と見ていったほうが話が早いだろう。

両者を別の作品にしてしまった核心部分を「良心回路」という。
キカイダーは、光明寺博士という天才ロボット科学者が作った人造人間だが、博士は自分の作ったロボットが依頼主によって悪用されていることを知り、秘かにそれらと対抗するためのロボットの製作を進めていた。そのコアパーツが博士が「良心回路」と呼ぶ装置で、博士は「キカイダー」にそれを内蔵したが、完成寸前に依頼主の手下に襲撃されてしまい、良心回路が未完成なまま、キカイダーは世に出てしまった。

依頼主はプロフェッサー・ギルと呼ばれる科学者で、ギルは光明寺博士が作ったロボットを操って犯罪を行い、その資金を元にした世界征服を企んでいた。ギルは手下のロボットを「超音波笛(悪魔笛)」と呼ぶ道具で操作していたが、その指令は良心回路が不完全なキカイダーにも有効だった。キカイダーはギルに笛を吹かれると、ギルの命令と良心回路の命令に引き裂かれて激しく葛藤する。

この葛藤を象徴するのが、左右が非対称であるキカイダーの姿だ。テレビ版の主題歌でも「正義と悪との青と赤」と歌われる通り、体の半分は完成しているが、もう半分は内部のメカが見えてしまっている。歌では青い方が「正義」とされているようだが、未完成の良心回路がこの姿を作り出したとすれば、青は「悪」である気もするが、そんな細かいことはどうでもいいか。

とにかく、以上のように『人造人間キカイダー』の核心部分は、彼に内蔵された良心回路という部品にある。当然、物語は、マンガにしろテレビにしろ、この良心回路をめぐって進行していく。プロフェッサー・ギルが手下のロボットに悪事を働かせようとすれば、そのたびにキカイダー(人間体は光明寺ジローという)にも影響が及び、「正義のヒーロー」が「狂って」しまう。キカイダーは「悪」のロボットと戦う前に、まず自分自身の内面の戦いに打ち克たなくてはならない・・・。

と、まあ何とも興味深い設定だが、これを「仮面ライダーよりも叙情的なものを」という平山亨の漠然とした要望を聞きながら、その場でサラサラとキャラクターデザインと初期設定を考えてしまったというんだから、石ノ森章太郎の天才ぶりには恐るべきものがある。石ノ森ファンの中には『人造人間キカイダー』を石ノ森の最高傑作だと考える人も多いと聞くが、少なくとも彼が生み出した変身ヒーローものの分野に限って言えば、ぼくも完全に同意できる。

と言うのも、まさに『人造人間キカイダー』を傑作たらしめた「良心回路」にこそ、石ノ森章太郎が考える「善(正義)」と「悪」が、いたって明快に表れていると思うからだ。
しかも幸いなことには、テレビ版の方の『人造人間キカイダー』も傑作だった。脚本家・長坂秀佳は、石ノ森の「良心回路」というアイデアを独自に発展させ、全く異なる世界を構築してしまった。そしてそれは、皮肉にも石ノ森ヒーローの持つ欠陥を暴露してしまう結果に繋がってしまったのだった。

というわけで前置きが長くなったが、次回から『人造人間キカイダー』という2つの傑作を順に見ていきたいと思う。
まずは石ノ森章太郎のマンガ版から。

つづく

人造人間キカイダー ~良心回路と服従回路

キカイダー表紙

人造人間キカイダー』の概略については、すでに書いたとおり。
では、石森章太郎のマンガ版に見られる「善」と「悪」とはどういったものだったか。それを知るには、マンガ版『人造人間キカイダー』で「良心回路」がどのように語られたかを見ればいいと思う。

◎まず、製造者である光明寺博士はこう言った。
「わるい命令にはぜったいにしたがわないロボットの『心』をつくるのだ!!」

◎キカイダー=ジローの誕生を知ったプロフェッサー・ギルはこう。
「ばかめが! 人造人間はロボットだ! 自分で善悪の判断などはじめられては・・・」

◎光明寺博士とプロフェッサー・ギルを「同じ穴のムジナ」だと言われたキカイダー=ジローの反応。
「光明寺博士はちがう!!それじゃなぜ・・・ぼくの”心”に悪いことはいけないと・・・おしえてあるんだ!?」

◎同じく「良心回路」を搭載されたが、自力でその効力を封じ込めてしまったダークロボット(ゴールデンバット)は、光明寺博士の娘ミツコにこう言った。
「人造人間には命令の拒否権などないんだよ!!」
「ところが・・・だ。おまえのおやじ光明寺博士は・・・あいつ、ジロー・・・キカイダーにその拒否権・・・命令の選択権を与えてしまった!! 光明寺がジローに不完全な『良心回路』をつけたことは皮肉にも、もっとも人間に近い人造人間をつくったということにほかならない」

◎「良心回路」を完成させてくれるという黒川博士(ギルの変装)に対してのジローの結論。
「不完全な『良心』を持っていたほうが人間らしいと思うんです」
「ぼくはひとりで・・・人間と同じように自然に・・・『良心回路』を完全なものに近づけていきます。そう”成長”するように努力がしたいんです」


『人造人間キカイダー』のマンガ版はイタリアの童話『ピノキオ』の引用からスタートするわけだが、テーマもだいたい同じで、要は人工の心がいかにして本物の人間の心に近づいていくのかが物語の中心にある。そして、ジローが近づこうと目指した”人間の心”が、実は彼の持つ”不完全な良心回路”そのものであったという「毒」は、石ノ森章太郎ならではの発想だろう。ジローは実は、最初から”人間の心”を持っていたんだという、一種のどんでん返しだ。

この発想自体は秀逸なもんがあると、ぼくも思う。

ところがこの物語は、中盤を過ぎてジロー=キカイダーの兄、イチロー=キカイダー01が登場してくる辺りから、なにやら混乱の様相を呈してきてしまう。
キカイダー01を作ったのも光明寺博士だ。博士はまだプロフェッサー・ギルと知り合う前に、事故死を装って殺害された長男・光明寺一郎の身代わりとして人工知能を装備したロボットの開発をはじめた。そうして完成したキカイダー01だったが、その悪用を恐れた光明寺の師匠・風天和尚の手で仏像の中に封印された。
しかしジローの前に新たな敵が現れたことを知った光明寺は、ジローにキカイダー01の存在を教える。二人は共鳴し、01は仏像を割って出現する・・・。

まだ試作機であったイチロー=01には、当然のことながら「良心回路」は組み込まれていない。と、同時にダークロボットでもないので、本来的に「悪」の出身だというわけでもない。つまりは「善」とも「悪」とも設定されていない。
そして復活したイチロー=01は、誰の命令も受けることなく、自分の意思で自由に行動する・・・。

・・・何のことはない。イチロー=01は、まさに人間そのものであって、ロボットをロボットたらしめる特徴を何一つ持っていない。ところがそんなイチロー=01について、ジローは、自分が「良心回路」を持たないイチローの「良心回路」になってやる必要があると言う。そのために、一緒にヨーロッパで静養しようと言う光明寺家の申し出も断った。

だが、マンガを何度熟読しても、いったいイチロー=01のどこに、「良心回路」がないことによる弊害が出ているのかはサッパリ分からない。たしかにイチローは粗暴で口が悪く、短気で思慮がなく、思いやりややさしさに欠ける困ったヤツだ。しかし決して悪事を働くわけでもないし、ジローが襲われれば助けてくれる。
要は、世間にいくらでもいる、そういう性格の持ち主であるだけだ。

となると、ジローが持ち、イチローが持たないという「良心回路」とは、一体何なのか? 

ここでもう一度、上に列記した「良心回路」についての作中の記述を見ると、実はそこに面白い事実があることに気がつく。それは、散々「良心」について語られていながら、一度も「良」や「善」あるいは「正義」そのものについて直接語られることがない、という事実だ。「良心」は、いつだって「悪」との対比で語られる。
すなわち、『人造人間キカイダー』における「善」「良」「正義」の定義とは、「悪」ではないこと、にしかない。
だから実際に作品を読むと分かるが、キカイダー=ジローは特に善行を積むわけでもないし、積極的に「悪」を探して叩いたりもしない。彼の「良心回路」が命じる「善」とは、ただただ自分自身が悪事をしないことに向けられているというわけだ。

では反対にジロー=キカイダーにとっての「悪」とは何か?
これも詳しくは作品で、と言いたいところだが、簡単に言ってしまえば、それは「悪」の命令に従ってしまうこと、だ。ただし、「悪」そのものについて『人造人間キカイダー』で直接語られることは、まったくない。

まとめればこうだ。
「善」とは、悪に従わないこと。
「悪」とは、悪に従ってしまうこと。

このことは、マンガ版『人造人間キカイダー』のクライマックスで、「良心回路」の動作を打ち消すためにキカイダー=ジローに取り付けられた装置を知れば、ますます理解が深まるだろう。
「良心回路」の対極にあるもの、それは「服従回路」と呼ばれるパーツだった。すなわち「悪」に従わせる回路だ。
キカイダー=ジローはこの装置によって「悪の心」を知り、仲間を「だまし」兄弟を「ころす」。
ジローは言う。
「・・・おれはこれで・・・人間と同じになった・・・!!」

しかしそれは、言ってみれば「良心回路」自体を否定していることに他ならないだろう。「良心回路」を”成長”させるだけでは、「人間と同じ」にはならないことの証明になるからだ。
その混乱が、イチロー=01の登場によるものであることは、すでに書いたとおり。「良心回路」を持たないイチロー=01を「善」とも「悪」とも設定できなかった時点で、「良心回路」は『ピノキオ』でのコオロギ(作中での「良心」)の位置から逸脱してしまった。ギルの悪魔笛という「悪」が消滅したとき、ジロー=キカイダーの「良心回路」も実質的に消滅していたというわけだ。


以上、『人造人間キカイダー』における「善」と「悪」をざっと見てみたが、「善」自体はもともとは存在せず、「悪」の出現によってそれは現れ、「悪」の消滅によって同じく消滅する、というこのパターンは、これまで見てきた石森ヒーロー作品の大半に共通する展開だ。もともと存在しないんだから、石森ヒーロー作品において「善」「良」「正義」といった概念が積極的に定義されることはない。それはいつでも、「悪」に従わないこと、「悪」と戦うこと、という具合に、逆説的にしか提示されない。

この石森ヒーローの立脚点の危うさを、知って知らずか白昼のもとに晒したのは、実は同じ『人造人間キカイダー』をタイトルにするテレビ版のほうだった。

つづく

人造人間キカイダー ジローの目的

光明寺家の人々

マンガ版の『人造人間キカイダー』は、要するに人造人間であるジロー=キカイダーの「自分探し」の物語だったので、ジロー以外の登場人物が描き込まれることはほとんどなかった。
と言っても、このマンガを読んだことがある人はそう多いとは思えないので、ざっとあらすじを・・・。


まず光明寺博士の自宅に近い研究所で生まれたジローは、襲い来るダークロボットと戦ってこれに勝った。しかし研究所は破壊され、博士の行方は分からない。続いて光明寺家がダークロボットに襲われ、これもジローが撃退するが、博士が残したメッセージのなかに、「良心回路」が完成できない場合はジローを破壊するように、という一文があることを聞いたジローは光明寺家から逃げ出してしまう。

あてもなく街をふらつくジローだったが、ミツコが依頼した服部半平という私立探偵に連れられて帰宅する。すると再び光明寺家がダークロボットに襲われ、ミツコが誘拐される。ジローはダークの手からミツコを取り戻したものの、自分がロボットであることに反発し、またもやミツコの前から逃げ出してしまう。

ジローが帰宅すると、ミツコと弟マサルはジローを探しに北海道に旅立っていた。ジローも後を追って北海道へ向かい、ミツコらと一緒にいたダークロボットを倒した。ところがミツコがそのダークロボットをかばうような発言をしたので、嫌気がさしたジローはアメリカに渡ってしまう。

ジローが帰宅すると、光明寺家がダークロボットに囲まれていたので、それらと戦闘。その途中、光明寺博士を目撃したジローは、連れ去られる博士を追ってダーク基地に。この後何があったのかは不明だが、またもや街をウロウロしているジローの前に、サブロー=ハカイダーが現れる。ハカイダーに悪魔笛を吹かれたジローは宝石店を襲った上に警官と乱闘、「良心回路」を完成してくれ~と騒ぎながら帰宅するが、そこでも悪魔笛を吹かれ、ミツコを襲ってしまう。ジローはハカイダーには歯が立たず、あっさり破壊されるとダーク基地に連行され、修理を受ける。が、この親切な措置は、ハカイダーの頭部に内蔵された光明寺博士の脳髄の意思によるものだった。これに怒ったギルはハカイダーを倒すが、復活したキカイダーの手でギルは殺され、博士の脳は元の体に戻される。意識不明の博士とともに、爆破炎上するダーク基地を脱出するキカイダーだった・・・。


と、このダーク基地全滅までがテレビ版の『人造人間キカイダー』と平行して描かれた前半部で、マンガ版はこのあとテレビ版の『キカイダー01』パートへとシームレスに続いていくわけだが、とりあえずここでは後半部分については触れないことにする。

とにかく言えることは、マンガ版はロボットアクションものにメロドラマを加えたもので、ジローがミツコに反発して家を飛び出していくことが物語展開の原動力になっている。また、そもそもジローはプロフェッサー・ギル率いるダークと戦うつもりはサラサラなく、自己防衛のための戦闘しか行っていない。

これはジローに搭載された(不完全な)「良心回路」の性質を考えれば当然の行動であって、「良心回路」は結局のところ、”悪魔笛の命令を聞かないこと”、以外の命令をジローに与えることはない。だから、人間の手で作られたロボットであるにも関わらず、ジローには生きる意味や目的がない。事ある毎に何かと街をフラフラとうろつくジローだが、まさにその姿こそが、この人造人間のデフォルトの姿だと言えるだろう。

で、マンガ版は要は現代風『ピノキオ』なので、これはこれで面白いんだが、テレビ版はそうもいかない。主人公が自分探し人間で自分にしか興味がなく、自己中心的かつ僻みっぽい、というのでは「正義のヒーロー」としてはふさわしいとは言えない。と言って、天才・石ノ森章太郎の初期設定を安易に変更することも、なかなか許されないことだろう。

それではその初期設定の中に何かテレビ向けに生かせるものはないか、と見ると、一つある。
ダークに研究所を襲われて行方不明になった光明寺博士・・・。
これは使える。

よく考えてみれば、ミツコとマサルの姉弟が父の行方を気にしないのは不自然だ。何とか探し出そうとするのが普通だろう。となれば、同じく光明寺博士の「息子」であるジローも彼らと一緒に「父」を探すことになり、ごく自然な展開として、光明寺をダークに連れ戻そうとするプロフェッサー・ギルとの激突が起こる。
しかもマンガ版には光明寺博士の現状についての記述はない。自由な設定が許されるだろう。

かくして、”記憶を失った”光明寺博士のダークからの本能的な逃走劇が始まり、それを追う子どもたちと、彼らを守ろうとするジローの旅が始まった。それはまた、プロフェッサー・ギルとキカイダーの激闘の始まりでもあった。
そしてテレビ版ではじめてジローに与えられることになった、彼の「目的」。この設定によって、『人造人間キカイダー』の核心である「良心回路」は、マンガ版とは全くことなる地平へと向かうことになるのだった。

つづく

人造人間キカイダー ~テレビ版の良心回路

ジロー誕生

うっかり調子に乗って、マンガ版にまで話を広げてしまった結果、いったい何の話を書いているのか自分でも訳が分からなくなっているこのブログだが、ここでもう一度テーマらしきものに立ち返ると、元々は『仮面ライダー』の亜流として始まったはずの『人造人間キカイダー』は、中盤から長坂秀佳という独特の眼力をもつ作家がメインライターに座ったことで『仮面ライダー』の世界から完全に逸脱したのみならず、『仮面ライダー』的なヒーロー像への痛烈な批評にまで達してしまった、という話だった。

それで強引に話を戻すが、その長坂秀佳ご本人は『人造人間キカイダー』について、次のように振り返っている。

「まず、設定ありき。そこにある設定を最大限に活かすというのが、オレの姿勢なんだよ。与えられた設定の、他人が気づいてない特色を膨らませるというか。
『キカイダー』って(主人公が)半分正義で半分悪で悩む、これが唯一の特色なのに、オレが入る前は、その設定がほとんど活かされてなかったんだ。正直”何なんだよ、これは”と思ったね」(KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.5/2004年刊)


ここで”何なんだよ”と言われているのは、常識的に考えれば『人造人間キカイダー』の当初のメインライターであった伊上勝だろう。伊上勝は『仮面ライダー』『超人バロム・1』『変身忍者嵐』に続いて、『人造人間キカイダー』でもメインライターを務めたが、『キカイダー』からは途中で完全に手を引いている。
一方、長坂秀佳のほうは、初めのうちは5回に1回くらいのペースの参加だったが、次第にピッチを上げ、終盤のハカイダー登場以降は、最終回までの全脚本を担当した。

またあとで詳しく書きたいが、石ノ森マンガ版でのハカイダーというのは、それほど重要な意味を持っていない。頭部に光明寺博士の脳髄が移植されているので、キカイダーが戦うことができない相手、というだけの存在だ。その設定を「最大限に活か」して、特撮テレビドラマ史上、もっとも有名な悪役に仕立て上げたのは長坂秀佳だ。

と書くと、いかにも伊上勝が凡庸な作家であるかのようだが、そんなことはない。
『人造人間キカイダー』でいえば、石ノ森は、ジローであろうとキカイダーであろうとプロフェッサー・ギルに超音波笛(悪魔笛)を吹かれると良心回路は無力だ、と設定したが、テレビ版ではキカイダーの姿であれば良心回路は完全に作動する、と変更した。笛を吹かれて苦痛にのたうち回るのは、ジローの姿のときに限定した。

この変更によって、『人造人間キカイダー』は俄然、面白くなった。ジローはいつでも自由にキカイダーになれるわけではない。まず、ギルの吹き鳴らす笛の音からいかに逃れるか。例えば、クルマのクラクションを鳴らすとか、わざと頭に衝撃を受けるとか、滝に飛び込むとか、作家の腕の見せ所だろう。

が、その一方で、ひとたびキカイダーに「チェンジ」してしまえば、特に弱点のないキカイダーは無敵だ。なにしろダークロボットの生みの親、光明寺博士が、全てを知り尽くしたダークロボットを倒すために作ったのがキカイダーなのだから、負けるはずがない。

そう、マンガ版では何の命令も受けていなかった無意味なロボット・キカイダーは、テレビ版では明確な命令を受けたロボットだった。第1話でジローは言う。
「ダークのおそろしい野望を砕くためにきた男!」
これが光明寺博士がジロー=キカイダーに与えた命令だ。さらに、ギルにダーク基地内の研究室を襲撃された博士はジローに念押しする。
「戦え!戦うんだジロー! ジロー、ダークの陰謀を打ち破ってくれ!」

そうして誕生したジロー=キカイダーだったが、よく考えてみると、ジローはロボットのくせに命令違反を犯しているように見える。光明寺博士の命令は、ダークと戦ってその陰謀を打ち破ること、だった。それなのに、ジローは積極的にダーク基地を探し出してギルを殺そうとはしない。
ではジローが何をしていたかと言えば、第6話ではこう言っている(伊上勝脚本)。
「ダーク破壊部隊を倒し、光明寺博士を捜す任務がある」
ジローは、そのうちの後者を優先した。

ダーク基地で燃えさかる炎に巻かれた光明寺博士は、その時のショックのせいか記憶を失い、ダークの追っ手に怯えて逃げ回る日々だった。それを必死になって捜しているのがミツコとマサルの姉弟だ。ジローは、自分自身がダークに追われる身なので、陰からその二人を見守り、保護している。そしてその一方で、自分の手でも博士の行方を捜している。ジローは、そこまで含めて自分に与えられた「任務」だと拡大解釈している。

大きく見れば、テレビ版の『キカイダー』の初期設定はここまでだ。
マンガ版との相違点は、大きく言って2点。ジローが人間によって命令を受けたロボットであること。それと、ジローでは不完全な良心回路は、キカイダーにチェンジすれば完全に作動すること。

もちろんこの変更は、1話完結で一応は話をまとめなくてはならないテレビの事情からきたものだろう。キカイダーにチェンジしても悪魔笛に対抗できないというのでは、ヒーロー番組として成立しない。ギルにしても、自動笛吹き機でも作った方が安心して悪事を働けることになる。

こうしてテレビ版の良心回路は、マンガ版の良心回路とはまったく異なる装置となった。
これは逆に考えれば、石ノ森の考えた『キカイダー』の初期設定を、『仮面ライダー』や『変身忍者嵐』に無理矢理近づけていった結果と見ることも出来るだろう。つまり、表面的には『キカイダー』も『仮面ライダー』も『変身忍者嵐』も、1話づつを見る限りにおいては、そう大きな違いはないように見える。悪の軍団がいて、その陰謀を阻止する「正義のヒーロー」がいる。そして「正義のヒーロー」の最大の弱点とは、彼らが人間の姿でいることに他ならない・・・。

物語上の基本構造を同じくするこれら三作で、『キカイダー』を『キカイダー』たらしめているのが「良心回路」の存在だ。では、「まず、設定ありき」の長坂秀佳は、この「良心回路」という設定を、どう「膨らませ」たのだろうか。

つづく

人造人間キカイダー ~ジローとミツコ

ジローとミツコ

人造人間キカイダー』について書かれた評論に、『マンガ・特撮ヒーローの倫理学』(鳥影社)という本がある。この中で著者の諌山陽太郎さんが「良心回路」について書かれている部分を若干引用すると、こんなものがある。

「『人造人間キカイダー』でいう『良心回路』とは煩悩の滅却、すなわち運命からの脱却と、悟り、なのだろうが(以下略)」
「だから、キカイダーの『良心回路』とは、『良心』というよりは、私たちが普通に考える<心>だと考えるべきだろう」


ぼくはこの本を初めて読んだとき、諌山さんが何の話をしているのかがサッパリ分からなかった。というのも、諌山さんが語っているのはマンガ版の『キカイダー』についてであって、ぼくが知っているのがテレビ版の『キカイダー』だけだったからだ。

今は遅ればせながらマンガ版も読んだので理解できるが、たしかにマンガ版の「良心回路」は「普通に考える<心>」だと考えることもできると思う。ただ、その場合、ジロー同様に自分の意思で自由に行動できるイチロー=キカイダー01はどう考えたらいいのだろう。イチローには「良心回路」は搭載されてないので<心>がないことになるが、彼は未知への恐怖心を持ったり、ジローへの嫉妬心を持ったりと、「普通に考える<心>」があるとしか思えない言動をする。

・・・まあここまで来たらハッキリ言うしかないが、石ノ森章太郎のマンガ版の「良心回路」は矛盾だらけで余り練り込まれたものではない。おそらくちょっとした思いつきに過ぎなかったのだろう(う、これは言いたくなかった・・・)。

さて、そんな”思いつき”の「良心回路」が生き生きと描かれるのが、光明寺ミツコとのメロドラマにおいてだった。
テレビ版のミツコは、ジロー誕生の5年前に光明寺博士とともにダークに拉致され、助手として働かされていた。当然の結果として、ミツコはいっぱしのロボット技術者になっていたので、事ある毎にジローの「良心回路」を完全なものにしたがる。それは博士からの指示でもあったが、いつしかミツコがジローに対して恋愛感情を持ち始めている証しでもあった。

しかしそんなミツコの申し出をジローは断り続ける。
「おれは今のままで十分だ。余計なことはやめてくれ。光明寺博士の良心回路は不完全かもしれない。が、その不完全さをおれの意識のコントロールで補っている。もう大丈夫だ」(第3話)
この時のジローのセリフは、マンガ版にもほぼ同様なものがある。おそらく企画から参加している伊上勝が、石ノ森のアイデアをそのまま採用したのだろう(時期的にはテレビ版が先)。

第12話はもう完全にメロドラマだ。
ミツコ「ジロー、あなたの良心回路を直させて! 完全な人造人間にさせてちょうだい!」
ジロー「いや、ぼくは今のままでいいんだ」
ミツコ「でも、ダークの笛に苦しむあなたを見るのは、とても耐えられないわ」
ジロー「いいんだ!今のままで!・・・人間なんかになりたくない」
ミツコ「だけどあなたは、人間でないのが悲しいって言ってたじゃないの」
ジロー「それは・・・、そういう意味じゃないんだ・・・」

聞くところによれば、『人造人間キカイダー』は、東映ヒーローには珍しく女性のファンも多いそうだが、こんな二人の微妙なやりとりが受けているのだろう。平山亨プロデューサーの石ノ森への最初の注文は「仮面ライダーより叙情的なものを・・・」だったのだから、石ノ森がその期待に見事に応えていることは疑いがない。

ところがそんな二人のメロドラマは、回を進めるごとに意外な方向に展開していく。その理由を先に言えば、『人造人間キカイダー』の中盤までは、複数の脚本家が自己流に石ノ森の設定を料理していったからだろう。たとえば第3話では自分を「おれ」と称しているジローは、第12話では「ぼく」と言っている具合に。

そして、そうして互いに刺激を与え合った効果か、テレビ版の『キカイダー』はマンガ版を超えて、当時としては稀に見る深みを目指していく。例えばマンガ版のテーマの一つでもある”人造人間の孤独”。『仮面ライダー』や『サイボーグ009』にも見られる、石ノ森が得意とする表現だ。
第15話はそんなジローの”孤独”を描いた回だが、なんと脚本は伊上勝だ。メインライターの伊上勝までが、石ノ森の設定を逸脱していったのだ。

(あらすじ)死んだはずの光明寺太郎が帰ってきた。太郎はダークに囚われ、監禁されていたのだ。再会を喜び、抱き合う光明寺三兄妹を静かに見つめるジロー。
太郎はダーク基地から脱走する際に、秘密の計画書を持ち出していた。その計画を阻止するために現場に向かう太郎とジローだったが、太郎は戦闘中に負傷してしまう。太郎を抱えて光明寺家に戻ったジローに、ミツコとマサルは激しい口調で言う。
ミツコ「さわらないでジロー!あなたは心のどこかで太郎兄さんを疑っていたんだわ!だから、だから太郎兄さんは・・・!」
ジロー「違う!そんなつもりじゃ・・・」
マサル「姉さんとぼくで、太郎兄さんの看病をするんだ!」
ジロー「そうか・・・おれの出る幕はないわけか・・・。一眠りしておく。何かあったら起こしてくれ・・・」
もちろん、太郎はダークロボットの変身姿で、ジローの良心回路を破壊するのが目的だった。


というわけで、『人造人間キカイダー』のウリの一つであるジローとミツコのメロドラマ周辺について書いてみたが、そこだけを取り出してみると、ますます「良心回路」とは何かが分からなくなる。諌山さんは「普通に考える<心>」と言われるが、太郎の正体を半ば見破りながら、二人の姉弟の気持ちを思いやって黙っていたジローを見れば、ジローが普段から<心>を持っていたのは明白だ。

おそらく石ノ森は、普段のジローが「不完全」であることを表すために、ジローの性格を自己中心的で僻みっぽいものにしたのだろう。しかしそれは、所詮はある個人の持つキャラクターに過ぎなかったから、もっと自己中心的で僻みっぽいイチロー=キカイダー01が登場するや否や、ジローはただの”善人”としか表せなくなってしまった。気がつけば「良心回路」も、どう機能しているか全く分からないウヤムヤなものに・・・。

すでに「完全」と「不完全」の境界を失った「良心回路」が、諌山さんの言うように「普通に考える<心>」にしか見えないのは当然の結論だろう。

しかしそんな「良心回路」の設定が当初に持っていた面白さを見逃さない人物がいた。
その脚本家・長坂秀佳の筆で、テレビ版の「良心回路」はさらに独自の展開を見せていくのだった。

つづく

人造人間キカイダー ~ゴールデンバットとゴールドウルフ

ゴールドウルフ

人造人間キカイダー』の中で、光明寺博士によって「良心回路」を搭載されたロボットはジロー=キカイダーだけではなかった。石ノ森章太郎のマンガ版ではゴールデンバットが、長坂秀佳脚本のテレビ版ではゴールドウルフが、ジロー=キカイダーのテストケースとして「良心回路」を搭載された。ただしそれは、ジローのそれより「もっともっと不完全な」良心回路だった。

マンガ版のゴールデンバットというロボットには、石ノ森の考えた「良心回路」というものの本質が良く現れている。
ミツコを彼のアジトに誘拐し、ジローを罠に嵌めようとしたゴールデンバットは、自らの造物主である光明寺博士に対して激しい憎悪を持っていることをミツコに告げる。いわく、自分は「光明寺の実験のぎせい者」であると。
「身がってもいいかげんにしてもらいたい。うぬぼれんじゃないよ・・・と言いたいね!!」
「そいつは・・・その『良心回路』は・・・ジローのものよりもっと不完全だったから・・・”良心”なんてものに悩まされる時間が短くてすんだからいいようなものの・・・それでもずいぶん苦しめられた」

ここでゴールデンバットが「苦しめられた」と言うのは、要するにいわゆる”良心の呵責”というものだろう。本来はプロフェッサー・ギルの命令に従っていればよかったはずのダークロボットなのに、「良心回路」が働くせいで善悪の判断に苦しめられた、と。しかしゴールデンバットの「良心回路」は出来損ないだったので、その呵責は短時間で解消し、無事にギルの命令に従えた、と。
作中の文脈からはそう読み取れると思う。

ところがこのゴールデンバットは、ジローを破壊せよというギルの命令の達成を目前にしながら、その方法をミツコに「ひきょうもの!!」となじられると、あっさりジローを解放してしまう。そして言う。
「そのおじょうさんに・・・ロボットにもプライドがあることを見せてやろうじゃないか・・・」

このときゴールデンバットはまるで一般論のように「ロボットにも」と言うが、もちろん彼以外のダークロボットは「プライド」なんて持っていない。さらには、「プライド」のために命令違反をするロボットも、彼以外にはいない。そしてその「プライド」のおかげでジローは窮地を脱し、正々堂々と勝負してゴールデンバットを倒すことができた。
では、そんなゴールデンバットの「プライド」とは、いったい彼のどこから来たものだったか。

言うまでなくそれは、彼に内蔵された「良心回路」からだ。
それだけではないだろう。
光明寺博士に対する「憎悪」。これだって、他のロボットにはない<心>だ。

石ノ森章太郎は「良心回路」を、あたかもぼくら人間がもつ”良心”であるかのように考えたようだが、実際には諌山陽太郎さんが言うところの<心>として描いてしまった。これが石森章太郎の矛盾であり、限界だった。
しかしそれは、同時に石森作品の魅力でもあった。有能な作家からみれば、その矛盾や限界は、作品世界の懐の深さとして映ったことだろう。

テレビ版で「良心回路」をもったロボットが登場するのは第11話。
やはり光明寺博士の手で「良心回路」を内蔵されたゴールドウルフは、普段はいたって温厚な紳士だった。そして彼は(マンガ版とは反対に)光明寺博士が「好き」だった。そのため彼は、記憶を失ったまま友人の田所博士の邸に滞在している光明寺博士をより安全な場所に隠そうとしたし、ミツコとマサルがダークに捕まればそれを逃がそうともした。

しかしゴールドウルフには「良心回路」と同時に「月光電池」と呼ばれる装置が内蔵されていた。月の光を受けると彼は人間の姿を失い、”良心”も消える。ジローは襲いかかるゴールドウルフを説得しようとするが、戦闘ロボットの姿のウルフにジローの言葉は通じない。
するとふいに月が雲に隠され、ウルフは人間の姿に戻る。すかさずギルの悪魔笛が吹き鳴らされ、ふたりは激痛にのたうち回る。やがて雲が去ると、いよいよウルフは笛の音に苦しむジローの息の根を止めにかかってくる。
どうにかキカイダーにチェンジしたジローは必死の説得を試みるが、万策尽きると必殺の電磁エンドをウルフに食らわせる。雲が再び月を覆い隠したのは、その直後だった。「月が・・・月がもう少し早く隠れていてくれたら・・・」と言い残し、ゴールドウルフは絶命する。それを見るキカイダーの機械仕掛けの目からは、ひとすじの涙が流れるのだった・・・。

このときキカイダーが涙を流した理由は、決してゴールドウルフの不運に同情しただけではないだろう。ゴールドウルフがみせる「善」と「悪」の二つの<心>が、ただただ「良心回路」と「月光電池」という二つの装置によって引き起こされている”現象”に過ぎないことが、キカイダー=ジローを泣かせたのだとぼくは思う。
ジローだって同じなのだ。ジローが<心>だと思っているものは、所詮は機械が生み出した現象に過ぎず、ひとたび悪魔笛を吹かれてしまえば彼の”良心”は停止する。

こうして石ノ森のゴールデンバットと長坂秀佳のゴールドウルフを見比べてみると、石ノ森が”良心”と言いながらあいまいな<心>として描いた「良心回路」を、長坂秀佳は徹底して”良心”にこだわって描いていることが分かる。もちろんそれは「まず、設定ありき」と言う長坂秀佳のポリシーによるものだろう。

しかしそうして「設定」にこだわればこだわるほど、「良心回路」の「設定」はますます分からなくなっていったはずだ。なにしろ「設定」では、ジローの「良心回路」は「不完全」なのだ。それにもかかわらず、ジローには普段から”良心”が備わっているように見える。いったいジローの”良心”は、どう「不完全」だと言うのか。

それとこの回のジローがゴールドウルフに見た「月光電池」。ゴールドウルフの「悪」は、この装置がもたらす現象だった。「月光電池」の力が「良心回路」を圧倒したとき、ウルフは「悪」に染まる。ならば「月光電池」とは「良心回路」の対極にある存在だと見ることができるのではないか。

長坂秀佳の筆によるこの第11話は、テレビ版の『人造人間キカイダー』が、マンガ版から大きく逸脱し、独自に発展していく契機となった作品だとぼくは思う。そしていよいよ第27話からは、伊上勝に代わって長坂秀佳がメインライターの座につくのだった。

つづく 

人造人間キカイダー ~バイオレットサザエの悪魔の恋

バイオレットサザエ・・・って長い名前だな、おい

人造人間キカイダー』第27話「バイオレットサザエの悪魔の恋」は、そのタイトルどおり、アンドロイド同士の「恋」が一応のテーマになっている。一応、というのは、本当にジロー=キカイダーとバイオレットサザエの間に恋愛感情が生まれたのかどうかが、いまいち定かではないからだ。

この回、ジローらは、「良心回路」の設計図を完成させたという荒木博士に会うために、大家荘という温泉旅館を目指していた。しかしその動きはいち早くダークにキャッチされ、荒木博士は設計図を渡すようにダークに脅迫される。
そこにジローが現れてバイオレットサザエとの戦闘になるが、悪魔笛に阻まれ、博士を助けられない。そして結局、大家荘に連れ戻された博士は脅迫に屈せず、バイオレットサザエに殺害されてしまう。滝壺に落下することでようやくキカイダーにチェンジできたジローは、大家荘でバイオレットサザエと再戦し、ダブルチョップを食らわせてこれを撃退。現場にいたもう一体のダークロボットを追って野外戦に移り、これも撃退した・・・。

問題はこの後だ。
大家荘に戻ったジローにミツコが言ったセリフで、テレビ版『人造人間キカイダー』は石ノ森章太郎のマンガ版から大きく逸脱していくことになるが、それはこんなセリフだった。

「あなたが完全になれば、ダークを全滅させることができるのよ。今みたいに苦しむこともなくなるのよ」

ここでミツコが言う「完全」とは、もちろん「良心回路」の完成を指す。
さらにその後のシーンでのプロフェッサー・ギルのセリフはこうだ。
「あれがやつの手に入って良心回路が完全なものにでもなれば、われわれダークは壊滅させられる・・・」

「良心回路」が完成すると、ダークが壊滅する・・・・。
こんな設定は石ノ森のマンガ版には存在しない。石ノ森版の「良心回路」とは、普通に考えるところの<心>である、とは、評論家の諌山陽太郎さんが『マンガ・特撮ヒーローの倫理学』で述べられているとおりだ。

それでは何故、脚本家・長坂秀佳は「良心回路」に別の意味を与えていったのか?
それは、「良心回路」を普通に考えるところの<心>と捉えたのでは、全体に矛盾が生じてしまうことに感づいたからではないか、とぼくは思う。
第27話の続きはこうだ。

キカイダーにダブルチョップを食らったバイオレットサザエは、胸部を故障して大家荘の庭先に倒れていた。これを察知したジローは、バイオレットサザエを大家荘に連れて入ると、修理を施してやる。不審がるバイオレットサザエにジローは言う。
「君たちは悪い人間の言うことだけを聞くように作られたアンドロイドだ。君たち自身に罪はない」
それを聞いたバイオレットサザエも言う。
「キカイダー、わたしも良心回路が欲しい」

するとそこにミツコが戻ってきて、ダークロボットを助けるのか、とジローに詰め寄る。ジローはミツコに
「ミツコさんには分からない。壊れかかった人造人間がどんな気持ちなのか」
と言い返すと、バイオレットサザエを安全な場所に隠す。そして、荒木博士が娘に預けたという「良心回路」の設計図を探しに出かけた。むろん、自分のためではなく、バイオレットサザエに装着してやるためだ。

しかしジローが去ると、そこに別のダークロボットが現れ、バイオレットサザエを粛正しようとする。バイオレットサザエは、これまでのジローとのやりとりは設計図を奪うための演技だったと言い、ミツコをとらえて設計図のありかを吐かせようとする。
そこへジローが現れ、バイオレットサザエに「考え直せ」と言うが、バイオレットサザエは聞く耳を持たずに襲いかかってくる。ジローはやむなく電磁エンドを食らわせてトドメを刺す。
断末魔のバイオレットサザエは言う。
「さっき言ったことは本当だった・・・。でも私たちはプロフェッサーギルから逃れられないのよ・・・」

この第27話は大筋だけを捉えれば、マンガ版から大きく逸脱しているというわけではない。マンガ版においても、人工知能を装備されたダークロボットたちは、自ら思考し、行動を決定する。テレビ版のバイオレットサザエも、そのなかの一体として構想されたはずだ。

だが、その、人間の手で装備された人工知能による思考、という制限内においても、ゴールデンバットやバイオレットサザエのように<心>らしきものを持ったアンドロイドは成立してしまう。それは、他でもなくジロー自身がそういうアンドロイドだからだ。

だとすれば、ジローが他のダークロボットとは異なり、あたかも人間のように見える秘密は「良心回路」にあるわけではないことになる。マンガ版のイチロー=キカイダー01が、「良心回路」を持たないのにも関わらず、見かけ上はジローと何も違いがなく、むしろジロー以上に生き生きとした人間のように描かれたことが、その証明になるだろう。

ならばテレビ版の「良心回路」とは何なのか?
実は、ぼくらはそれが「完成」した状態を簡単に目にすることができる。チェンジ(変身)した後の、キカイダーがそうだ。キカイダーは、ジローと違って悪魔笛の効果がない(正確には、薄い)。これが「良心回路」が完全に作動している状態だ。

そして第27話以降は、幾度となく「良心回路」のパワーが語られることになる。

「キカイダーがあの設計図を手に入れたら、完全無敵の人造人間になってしまう。そうなったら、このダークに勝ち目はないのだ」(第28話ギルのセリフ)

「もしぼくの良心回路が完全なものになったら、ぼくは人間以上の機械になってしまう。ぼくは少しでも人間に近いところにいたい」(第29話ジローのセリフ)

「ダーク破壊部隊が、いつも決まってキカイダーに敗れてしまうのは、キカイダーの良心回路がその場その場の状況に応じて、適切な判断をする力を持っているからだ」(第30話ギルのセリフ)

「キカイダーのように、敵方の能力および弱点を読み取る力は、まだ私にはありません」(第30話ダークロボット・アカネイカのセリフ)



こういったセリフからは、もはや「良心回路」を<心>と捉えるような曖昧さを見ることはできない。そしてそれは、キカイダーの強さを「良心回路」に求めた先にある、自然な結論だったとぼくは思う。

かくして長坂秀佳は、ここに一人のヒーロー像を提示することになる。

「良心回路」とは正反対の機能をもつ「悪魔回路」を搭載したヒーロー。
ハカイダーの登場だ。

つづく

人造人間キカイダー ~ハカイダーの悪魔回路

ハカイダーショット

ハカイダーは光明寺博士が製作したうえに、ご本人の脳髄が頭部の透明ケースに収められている人造人間だ。もちろん光明寺博士がそれを望んだわけではなく、プロフェッサー・ギルに図られてしまってのこと。
マンガ版では、博士の脳という人質をとられたキカイダーがハカイダーを攻撃できない、という一点に絞られて話が進んでいくが、テレビ版ではもうひと工夫がされている。

それが、「良心回路とは正反対」とギルが言う「悪魔回路」のハカイダーへの搭載だ。
正反対というのだから、「悪魔回路」の機能を見ていくことで、キカイダーの「良心回路」の正体も分かるはずだ。
では、作中で「悪魔回路」はどう働いたのか。

ハカイダー誕生の瞬間、ギルは叫んだ。
「お前の敵はこの世にただ一人、キカイダーあるのみだ!」
その言葉通り、結論から言ってしまえば、それはどんなことをしてでもキカイダーを自分の手で倒す意志、として機能した。そのためにハカイダーは、味方のダークロボットの邪魔ですら、平気で行う。

第38話「ハカイダーがジローを殺す!」。
この回ハカイダーは、ダークロボット・ヒトデムラサキが光明寺ミツコとマサルの姉弟を襲うところに割って入り、その邪魔をした。泡を食って、
「きさま、ダークを裏切る気か!」
と騒ぎ立てるヒトデムラサキに対して、ハカイダー=サブローはこう言い放つ。
「おれはただ、人質作戦などという汚い手が嫌いなだけだ。帰ったらギルに伝えろ。余計な出しゃばりはするなとな」

第40話「危うしジロー!機能完全停止!!」。
この回もハカイダーは、やはりマサルを襲うキリギリスグレイの妨害をし、あざけるように言う。
「マサルたちに手を出すことはおれが許さん。おれはお前たちのように、命令通り動く低脳ロボットではない」

しかしハカイダーの暴走は、味方ダークロボットの邪魔をすることには止まらなかった。再三の命令無視を叱責しようとギルが本部に呼びつけると、こともあろうか司令室のドアをぶち壊して乱入し、ギルがまだ話をしている最中だというのに「そんな話は聞く必要がない」と言って、天井をぶち破って去っていった。首領の威厳を無視されたうえに、司令室をボロボロにされたギルは、怒髪天をつく勢いだ。

そうしてハカイダーは、ただひたすらジロー=キカイダーをつけ回し、その命を狙うわけだが、よく考えてみればハカイダーは決してギルを無視したり、その命令に違反しているわけではない。
ギルによって与えられた最初の命令、「お前の敵はこの世にただ一人、キカイダーあるのみだ!」を忠実に実行しているだけだ。

そしてこの時、仲間はおろか首領のギルでさえを、その目的達成のためには邪魔者扱いしようとするこの強靱な意志こそが、「悪魔回路」の機能だと言えるだろう。なぜなら、作品のどこにもハカイダーがいわゆる「悪事」を働く描写はないからだ。
ハカイダーは「悪魔」のように悪事を行うアンドロイドではない。
「悪魔」のような執念で、キカイダーの打倒・破壊を目指すのがハカイダーだ。

さて、それではその「悪魔回路」と「正反対」の機能をもつ「良心回路」とは何か?
キカイダーの生みの親、光明寺博士は第1話でこう叫んだ。
「戦え、戦うんだジロー!ジロー、ダークの陰謀を打ち破ってくれ!」

これこそが、本来キカイダーに与えられた命令だった。そして、ジローの状態では不完全な「良心回路」は、キカイダーにチェンジした後は”完全に”機能する・・・。

となれば、「良心回路」の正体は明白だろう。それは、ハカイダーがキカイダーを追うような執念でもってダークの基地を探し出し、プロフェッサー・ギルをこの世から抹殺するために機能する装置だ。
それならばギルが、「あれがやつの手に入って良心回路が完全なものにでもなれば、われわれダークは壊滅させられる・・・」と、あれほどまでに「良心回路」の完成をおそれたことにも説明がつくと思う。

しかし、ジロー自身はそんな「良心回路」の完成をずっと拒否してきた。
これは石ノ森のマンガ版では、完璧な「良心」が備わってしまったジローは人間より優れた人格をもつ存在になるから、「人間」になることに憧れているジローには受け入れられなかった・・・というようなニュアンスで表現されたが、テレビ版の”完全な”「良心回路」は「良心」あるいは<心>ではない。

それではテレビ版のジローは、なぜ「良心回路」の完成を拒絶し続けたというのか?
おそらくそれは、もうひとつの「良心回路」、すなわちハカイダーの「悪魔回路」の末路を、ジローが内心秘かに予感していたからだとぼくは思う。

そしてそれは、『仮面ライダー』に始まる石ノ森章太郎ー平山亨(東映)の生み出した数多のヒーロー像へのアンチテーゼとして展開されていったようにも、ぼくには思えるのだった。

つづく

人造人間キカイダー ~ハカイダーの絶望

キカイダーの胴体

前回の記事で書いた「ハカイダーの末路」は、「ハカイダーの絶望」と言い換えられるものだった。
まずは、ざっとあらすじを。

第41話「壮絶ジロー空中分解!」。
ミツコとマサルの姉弟が拉致されてダーク基地に連行されると、そこには脳髄をハカイダーに移植されて植物人間にされた光明寺博士がいた。ようやく父と再会できた子どもたちだったが、もはや会話を交わすことさえできないのだった。
一方、そのころキカイダーも、ミツコとマサルを救出すべく、ダーク基地に向かっていた。そこに立ちふさがったのが、全身に地雷を埋め込んだダークロボット、アカジライガマだ。アカジライガマの秘密を知らないキカイダーは、必殺の回転アタックを食らわせるが、ガマの地雷と接触してしまい、大爆発を起こす。キカイダーの体はバラバラになって、無惨な骸を荒野にさらすのだった。

そこに現れたのが執拗にキカイダーを追ってきたハカイダーだ。ハカイダーはバラバラに壊れてしまったキカイダーの姿を見ると、アカジライガマに言う。
「キカイダーはこの世で俺のたった一人の強敵だった。キカイダーとの勝負だけが、俺の生き甲斐だった・・・。そのキカイダーを倒したアカジライガマ!俺はお前と勝負しなければならん!」
ハカイダーはアカジライガマの起爆装置を封じたうえで、ガマの爆弾を狙い撃ちし、アカジライガマを木っ端微塵にする。

「俺は仲間をやってしまった・・・」
虚脱したハカイダーは、ダーク基地近くの荒れ地をフラフラと徘徊している。

俺は、何だ・・・。
俺は何のために生まれてきた・・・。
アカジライガマは倒した・・・。キカイダーは死んだ・・・。
これから俺は、何のために生きていくんだ・・・。
俺の目的は何だ!
こんな姿で俺はどうやって生きていくんだ!
憎い!
俺を作り出したプロフェッサー・ギルが憎い!
殺す! ギルを殺す!


そう言うとハカイダーはダーク基地最深部に侵入し、ギルに問う。
「俺を作ったやつが憎い! なぜ俺を作り出したんだ!」
ギルはそれには応えず、お前を作ったのは光明寺だと言う。ハカイダーは今度は光明寺を探して基地を走り回る・・・。


ハカイダーが殺したがっている光明寺博士。その頭脳が、当のハカイダーの頭部にあるという現実が、この回の見所だろう。光明寺を殺すと言うことは、自分を破壊することに他ならない。というのも、ハカイダーはその活動を維持するために、定期的に光明寺の肉体とのあいだで血液交換をしなければならないからだ。
要するに、このときのハカイダーの殺意は、他でもない自分自身に向けられていた。

もちろん、このハカイダーの人造人間にあるまじき行動の源は、彼の中の「悪魔回路」にある。キカイダーを我が手で破壊する、という目的を失ってしまった「悪魔回路」がハカイダーを暴走させた。目的を達成した後のプログラムは、ハカイダーには存在しなかった。

このハカイダーの絶望。
実はこの絶望は、キカイダーにも存在したはずのものだった。
キカイダーに搭載されている「良心回路」。それは「悪魔回路」とは正反対に、何が何でも我が手でギルを殺す、という命令を受けたものだった。
だとすれば、いよいよギルを殺してダークを壊滅させた暁には、キカイダーの「良心回路」も目的を失い、彼もまたハカイダーが見たのと同じ暗黒、虚無を見ることになる。

だがジローは、自分の「良心回路」が完全になることを拒絶し続けた。
さらには、「良心回路」が完全に作動する状態であるキカイダーの姿で居続けることも望まなかった。
なぜか?

おそらくそれは、「良心回路」が命じる単一の命令に従うことを、ジローが無意識のうちに拒否したからだと、ぼくは思う。もしもジローの「良心回路」が完全なものであれば、ジローはミツコやマサルがどんな危険な目にあわされようと、助けることはなかっただろう。光明寺博士を捜し出して、ふたりに会わせてやろうという気も起きなかっただろう。そんな余計なことを、彼の「良心回路」は命じていない。「良心回路」は、ただひたすらダーク破壊部隊を蹴散らし、ギルを殺せと命じているだけだ。

しかしジローは、自分が「良心回路」の命令だけに従うことを拒絶した。
それはつまり、ジローが自分の「目的」を、自分で選択できる状態に置いた、ということだ。

長いので次回に続く

人造人間キカイダー ~ハカイダーの幼児性

サブロー

前回の続き

人造人間キカイダー』終盤の面白さは、「正義のヒーロー」であるはずのキカイダーよりも、むしろ悪役であるハカイダーのほうが、より一般的な「正義のヒーロー」に近い、という点につきるだろう。

整理すればこうだ。
まずハカイダーは、キカイダーを倒せという単一の命令を受けている。ハカイダーはキカイダーと戦うことだけが目的なので、それ以外の悪事を働くことはない。また、ハカイダーは卑劣な行為は嫌っていて、正々堂々とキカイダーを倒すことを望んでいる・・・。

こんなハカイダーと、同時期の「正義のヒーロー」のどこに違いがあるというのか。
例えば『イナズマン』だ。

イナズマンは、バンバの新人類軍団を倒せという単一の命令を受けている(厳密には志願した)。イナズマンはバンバと戦うことだけが目的なので、それ以外の善行に励むことは特にない。また、イナズマンは卑劣な行為は嫌っていて、正々堂々とバンバを倒すことを望んでいる・・・。

という具合に、キカイダーという「善玉」を標的にしている以外の点では、ハカイダーとイナズマンの言動はほとんど同じだ。もしも、プロフェッサー・ギルがハカイダーに与えた命令が「バンバを倒せ」であったなら、ハカイダーとイナズマンは仲良く共闘して事に当たったことだろう(最終的な手柄をハカイダーに譲ってやる必要はあるが)。

だが、そんなハカイダーは、標的であるキカイダーが破壊されてしまうと自分の存在理由を見失い、途方に暮れてしまう。そのあげくが逆ギレで、自分にキカイダー打倒の命令を下したギルを憎悪すると殺意を持ち、さらにはその怒りを、血を分けた”父親”ともいえる光明寺博士に向けるようになった。

光明寺博士を目の前にして、ハカイダーが絶叫する殺害の動機はこうだ。
俺はコイツのおかげで、ただの殺人機械にされたのだ!」(第42話)

「殺人機械にされた」と恨みながら、今また光明寺を殺そうとするハカイダーの矛盾。
ハカイダーの精神レベルは、そんな矛盾にさえ気がつかないほど、幼い。
まるで、親のいいなりになってガリ勉に明け暮れたものの、元の頭が悪いせいで受験に失敗し、青春を奪われたとか騒いで金属バットで親を殴り殺そうとする子どものようだ。

ハカイダーは仲間のダークロボットを蔑んで、言った。
「俺はお前たちのように命令通りに動く低脳ロボットではない」と。
しかしどうだろう。
本当にハカイダーと他の「低脳ロボット」の間に、彼が自負するほどの違いはあったのだろうか。

そしてもしもハカイダーが、70年代の「正義のヒーロー」たちと同じヒーロー像であるとしたなら、彼ら「正義のヒーロー」たちはどうなんだろう。
ハカイダーは、キカイダー打倒が果たされたとき、自己の存在理由を失ってしまった。それは、それだけが彼の信じる「正義」だったからだ。しかしハカイダーは、その「正義」がどのように「正義」であるかは考えることがなかった。ただ、キカイダーを倒すことが「正義」だと、ギルに教えられただけだった。

いや、俺は違うぞ。俺は人間の自由と、世界の平和のためにショッカーと戦っているのだ。
と、仮面ライダー=本郷猛なら言うだろう。だからショッカーと戦う自分は「正義のヒーロー」なのだと。

だが、仮面ライダーがショッカーを全滅させたところで、実際にはこの世の中が何か良くなるわけではない。
そりゃ当然で、それは所詮は虚構の、架空の世界での出来事に過ぎないからだ。いもしないショッカーという侵略者にわざわざ「人間の自由」やら「世界の平和」やらを脅かさせておいて、おもむろにヒーローにそれを叩きに来させるのが70年代ヒーロー番組の基本フォーマットだ。

要は、仮面ライダーがショッカーを滅ぼしたのちに残るものは、70年代の”現実の”日本の姿でしかない。仮面ライダーは(歪んでしまっている)虚構の日本を、現実のリアル日本に戻す作業をしているだけだ。そこにあるのは、現実の日本社会の絶大なる受容・肯定であって、現実社会の永久不滅の維持だ。
つまりは仮面ライダーの「正義」とは、現実の日本社会の姿そのものに他ならない。

現実こそ「正義」、今がサイコー!ということだ。

だから、現実の日本を良しとしない立場から見れば、ヒーローの「正義」など茶番でしかない。
その左翼的思想をヒーロー番組に織り込んだ脚本家、佐々木守などは、自分が生み出したヒーロー『アイアンキング』のなかで、ヒーローに向けてこんな皮肉を浴びせかける。

「あなた(※ヒーロー)とあの人は違うわ。あの人たちは革命のために戦っている。自分の思想のために戦ってるわ。でもあなたは命令されて戦っている。そう、あなたは戦うことが好きなだけよ」
「弟は幸せものです。だって弟は自分の思想のために、自分の考えを貫いて死んだんですもの。(中略)あなたたちも、あなたたちの考えを貫いて戦ってらっしゃるんでしょう?」(詳しくは当ブログ、アイアンキングのカテゴリにて)

ヒーローは命令されて戦っている。ヒーローは自分の考えを持っていない。
これが佐々木守がヒーローたちに浴びせかけた皮肉だ。
ハカイダーがこれを聞けば、うんうん、たしかに俺はそうであったのー、と大いに納得することだろう。
ではイナズマンはどうだ?
仮面ライダーは、超人バロム・1は、変身忍者嵐は、ゴレンジャーは、どうなんだろう?
彼らは彼らが維持しようとする現実の日本社会の、どこがどう「正義」なのか、考えたことがあるのか? 現実世界を無批判・無条件に受け入れ、肯定し、維持しようとする力の先兵になってはいないのか?

一つの価値観だけを盲目的に信じさせられたハカイダーは、たしかに”幼稚”の誹りを免れないだろう。
しかし例えば、いい学校を出て、いい会社に入ることが人間の幸せだと信じて疑わず、それだけを我が子に押しつける大人は、果たして”幼稚”ではない、と言い切れる存在なのか?


『人造人間キカイダー』では、悪役のハカイダーのほうが、実際には「正義のヒーロー」そのものである、という一種のねじれ現象を見ることができた。
では、ヒーローであったはずのキカイダー=ジローは、このねじれ現象にどのような答えを見出したのだろうか。

つづく

人造人間キカイダー 最終回「ジローの最期かダーク全滅か!?」

脳をとられたハカイダー

結論から言ってしまえば、ジロー=キカイダーは「正義のヒーロー」になることを最後まで拒絶した。光明寺博士はジローの「良心回路」を完全にしてやろうとしたが、ジローはそれを断って、ひとり「修行」に旅立っていったのだった。

一応、前回までの記事で書いた箇所の後の、あらすじを。


光明寺博士を殺害しようとしてダーク基地内を探し回ったハカイダーは、ミツコとマサルが監禁されている牢獄に辿り着くが、そこには脳髄を奪われて人工的に余命を保っている博士の肉体とともに、五体バラバラにされたものの、ミツコの手で上半身だけの修理が終わったばかりのキカイダーがいた。ハカイダーは再びキカイダーと戦えることを喜び、キカイダーの修理が完成するのを待つ。

やがてキカイダーは完成し、二人の対決が始まった。戦いのさなか、ジローはミツコに博士の肉体をダーク基地内の手術室に運ぶように命じる。一方、ジローとハカイダーがまだ基地内にいることを知ったプロフェッサー・ギルも、最後の戦いを仕掛けてくる。
牢獄での戦闘は不利と見たハカイダーは通路に飛び出していくが、そこに待ち構えていたダークロボット・ハッコツムササビの奇襲を受け、絶命する。

ハカイダーの遺体を手術室に運んだジローは、ハカイダーから光明寺博士への脳髄移植手術をミツコに命じると、自分は時間を稼ぐためにサイドカーで逃走した。ダークがジローを追跡しているうちに博士の手術は成功し、光明寺親子はダーク基地を脱出する。が、多勢に無勢であっさり捕まってしまう。

ギルは「初めからこうしておけばよかった」と悔やみながらも、光明寺親子の死刑を行おうとするが、そこにキカイダーが戻ってきて、いよいよダークとの最後の戦いが始まった。
結局、悪魔笛を叩き折られたギルは観念し、司令室に逃げ込むと基地を爆破すべく、起爆装置を押す。かろうじて基地を脱出したキカイダーたちが見守る中、ダーク基地は大爆発を起こし、炎上するのだった・・・。

光明寺家はスイスで休養することになり、引っ越しの荷造りを急いでいた。ミツコはジローと過ごすスイスでの生活に思いを馳せているが、ちょうどその頃、書斎ではジローが博士に別れを告げていた。

「博士、ミツコさんたちには何も言わずに行きます」
「うむ、私も君の良心回路を完全にしてやれなかったことだけが心残りだ」
「いえ、ぼくはこのままがいいんです、欠点の多い人造人間のままで。完全な機械にはなりたくありません」
「・・・ジローくん、いろいろと苦労をかけたな」
「とてもためになりました」
「それから・・・やはり修行に出るのか?」
「はい、全国を回って、不完全な良心回路に負けない精神力を身に付けてきます」
「頑張りなさい」
去っていくサイドカーの爆音が、ミツコの耳にも聞こえたのだった・・・。


繰り返しになるが、もしもジローの「良心回路」が完全なものであったとしたら、光明寺博士が生還してダークが滅亡してしまった今、ジローもまたハカイダー同様に自らの存在意義を失って、底深い虚無感に襲われるはずだった。しかし幸いにもジローの「良心回路」は不完全なままだったので、彼の精神状態には特別な変化が起こることはなかった。

それならジローは、これまで通りミツコとマサルのそばにいて、二人を守っていけばいい。
そう考えるのが普通だろう。
だがジローには、そうもいかない事情があった。
ぼくはその事情を、ヒーローが子どもたちに示すべき「父性」を、ジローが持ち合わせていないからだと思う。『人造人間キカイダー』のなかで具体的に言えば、ジローがマサルに示すべき「父性」ということだ。

マサルという少年は、石ノ森章太郎のマンガ版ではほとんどクローズアップされることはない。マンガ版のサブストーリーはあくまでジローとミツコのメロドラマであって、マサルはミツコの付録のような存在でしかない。
そんな哀れなマサルに光が当たるのは、長坂秀佳がメインライターに座ったテレビ版の第27話からだ。

それ以後、永遠の平行線で話の広げようがないミツコとのメロドラマは影を潜め、”ヒーローと少年”という、特撮テレビ番組の王道に『人造人間キカイダー』はシフトしていく。

蒸発した父親を捜す旅を続けるマサルにとって、ジローは心強い保護者だった。それもそのはずで、もともとジローとは、ダークの手で殺された本当の兄、光明寺太郎の身代わりとして実父が製作したアンドロイドだった。マサルはジローを慕うが、その想いは本来は兄の太郎に向けられるべきものだった。
そのため、第15話でダークロボットが変身したニセの太郎が現れると、マサルの気持ちはあっさりとジローを離れてしまう。

そんなマサルの気持ちにつけ込んだのがハカイダーだ。
第36話「狂ったジローが光明寺をおそう」に始まる急展開は、悪魔笛に操られたジローが、ついに記憶を取り戻した光明寺博士を絞殺しようとすることから始まる。
この時のはげしい葛藤で、ジローはオーバーヒートを起こして全機能が停止。光明寺はダーク基地に連行され、ハカイダーの製造を強制されてしまう。ミツコはジローを修理するが、声帯回路が直らず、ジローは声が出ない。殺人容疑で拘置所にぶち込まれたジローは身の潔白を証明できず、牢を破って逃亡する。

「父の仇」ジローを探し回るマサル。
ここでマサルの前に現れ、「どんな機械の動きも止める特殊光線」を放つ「デス・ホイッスル」を手渡したのがハカイダーだ。さらにハカイダーは、マサルがダークロボットに襲われるとそれを助け、マサルをすっかり手なずけてしまう。ジローの地位は、かくも容易にハカイダーに取って代わられてしまったのだった・・・。

要するに、マサルにとって、ジローはただの便利なボディガードに過ぎなかった。
光明寺博士は、バレれば殺されるというダークの監視の中、秘かにジロー=キカイダーを製造した。ジローとは、あくまでダークの陰謀と戦い抜くのだという、光明寺の意志そのものであり、彼の「父性」そのものでもあった。また、マサルの兄、太郎は、環境警備隊の隊員としてダークに対抗し、殺害された。

こうした「生き様」は、ジローにはない。
ジローはただ、マサルとミツコを見守り、襲い来るダークを撃退していっただけだ。それも彼が、ダークに対抗しうる力を持つアンドロイドだったおかげだ。
おそらくジローは、なぜダークと戦わなければならないのか、とマサルに問われても、きちんとした答えを与えてやれることはなかっただろう。ジローは、ただ、ダークは「悪」だから戦え、と命じられたから戦った。そこに、ジロー自身の「父性」はない。ハカイダーと何も変わらない。

ところが幸いにして、単一の命令だけを与えられたはずのジローの「良心回路」は不完全だった。そのおかげで、ジローはダーク打倒よりも、ミツコとマサルの護衛を優先することを自ら選択できた。
つまりはジローは偶然にも、「主体性」を持ったアンドロイドとして生まれてきた。
だから、すでに自分が「ボディガード」でしかないと気付いてしまったジローの「主体性」は、光明寺一家と離れての修行の旅路を選択させた。マサルに伝えるべき「父性」を備えた真のヒーローになるためには、それしかなかった。


この、ハカイダー登場以降の『人造人間キカイダー』が、東映的なヒーローのあり方への一種の批評になっていることは興味深い。悪役であるはずのハカイダーのほうが、東映的なヒーローの属性の全てを備えており、その一方で、善玉ヒーローとして設定されていたはずのキカイダーが、最終的には自分自身のあり方を否定してしまう。
こんな視点は石ノ森章太郎のマンガ版には存在しないので、(アドバイス等は受けたかもしれないが)後半のメインライター・長坂秀佳のもつ世界だろうと、ぼくは推測する。

そんな長坂秀佳が、全32話中、30本の脚本を担当した東映ヒーロー番組がある。
快傑ズバット』だ。

つづく

快傑ズバット 〜長坂秀佳

あすかー!!

快傑ズバット』(1977年・東映)のあらすじは至ってシンプルだ。親友を殺された主人公・早川健が犯人に復讐するために旅を続ける。それだけだ。旅の中で早川は行く先々の悪党を倒して回ることになるので、結果的に『快傑ズバット』は、いわゆる「正義のヒーロー」のフォーマットに準じているように見える。
が、これはそう見えるだけで、実態は180度と言っていいくらいに異なる。

まず主人公の早川健は、「何をやっても日本一」というバカバカしくも痛快な看板を掲げている以外は、ただの人間だ。そのただの人間が、自分で作った強化服「ズバットスーツ」を着込み、自分で作った改造車「ズバッカー」に乗って、悪党どもと戦う。それもただ、悪党に殺された親友の今際の際の言葉「一緒に戦おう」という約束を守るためだけに、だ。

悪党どもも人間だ。こいつらはヤクザだったり暴力団だったり、普通にどこの街にでもいる犯罪集団だ。もちろん、それらの上位組織として「ダッカー」という悪の総本山が存在するが、これも首領が変テコな着ぐるみを着ていることを除けば、現実の社会と何も変わらないだろう。また早川は、自分が戦っている相手が「ダッカー」の支部であることを、途中までは知らない。

要は『快傑ズバット』とは、いわゆる「正義のヒーロー」フォーマットの枠内で、ぎりぎりのリアリティをキープしている希有な作品だと言えるだろう。『快傑ズバット大全』(双葉社)のなかで脚本家の長坂秀佳が語るには、『ズバット』をもっとも支持していたのは当時の大学生だったそうだ。そうした傾向のせいか、15%もの高視聴率を稼ぎながら玩具が売れず、スポンサー降板で打ち切りという展開は、アニメの名作にはよくある話だが、特撮ヒーローでは珍しいように思う。

さて、そういった『ズバット』にまつわる痛快なエピソードについては「Wikipedia - 快傑ズバット」でも見ていただくとして、ここでぼくが強調したいことは、このようにある程度まともなリアリティを保ったままでも、特撮ヒーロー番組は十分に成立できたという一点だ。現実社会に本当にいる「悪」を、ただ親友との約束を守るために追いかける男がいてもいい。

ズバットを演じた宮内洋はつねづね「特撮ヒーロー番組とは子供達に正義の心を教える教育番組に外ならない」と語ったそうだが、ことこの作品についてはその言は妥当だろう(『V3』『ゴレンジャー』には疑問も残るが)。『ズバット』には一人の人間の「生き様」があり、「父性」として子どもたちが学べるものが多く含まれているとぼくは思う。

では(いいかげんしつこいが)『ズバット』以外の東映ヒーローのどこが問題なのか?

まずそれらは、子どもたちに明らかな「ウソ」をついている。
それらは大抵の場合、「人間の自由」と「世界の平和」を守ることがスローガンになっているが、それを侵すショッカーを始めとした悪の軍団というものは実際には存在しない。だからショッカーを全滅させることによって回復する「人間の自由」と「世界の平和」というのは、ただの「現実の世界」であるに過ぎない。

だが、東映ヒーロー全盛期には、少なくとも「世界の平和」は存在していない。70年代前半には、ベトナム戦争はまだ終わっていない。
ヒーローたちが本当に「人間の自由」と「世界の平和」を目指すなら、彼らはまずベトナムに行くべきだろう。そしてアメリカ人に殺されているベトナム人を助けることが先だ。

さらに、ヒーローたちがみな、人間でないという点も問題だ。
彼らは「改造人間」だったり「人造人間」だったり「超能力者」だったりして、そういった特殊な能力をもつこと自体が戦闘の動機になっていたりする。それを一言で言うなら『超人バロム・1』の「正義のエージェント」になるだろう。要するに、これらの番組世界で「悪」と戦うのは「代理人」ということだ。ぼくらではない。

結論をいえば、これら2つの問題を抱えたヒーロー番組は「現状肯定・現状維持」の強力な推進者であり、平和維持を「他人事」に押しやる作用を持つ。ぶっちゃけて言えば、アメリカ万歳、戦争なんてオラ関係ねえ、ということだ。
なぜなら、彼らヒーローの戦う「悪」には、かつて”アメリカ様に逆らって痛い目にあわされた”「大日本帝国」の姿が見え隠れしているからだ。

そもそも、なにゆえ「世界征服をねらう悪の軍団」などという荒唐無稽な設定が、何の躊躇いもなく繰り返し繰り返し登場してくるのか。ぼくはその理由を、戦後日本社会にそれらと同じ設定をもつ「悪の軍団の物語」が存在したからだと思っている。言うまでもなくそれが、「大日本帝国の物語」だ。

つまりは、先にあらかじめ、戦後日本に蔓延した「東京裁判史観(自虐史観)」のストーリーがあったからこそ、東映ヒーローの「悪の軍団」のストーリーは成立した。「悪」と言えば、なんといっても「世界征服をねらう侵略者」だろう、という暗黙の了解があった。

例えば『仮面ライダー』のショッカーは、あのナチスドイツと深い関わりがあることを作中で示唆された。あるいは『変身忍者嵐』では、悪の軍団「血車党」に心ならずも協力してしまった「父の過ち」を償うために、その息子が血車党と戦った。いずれも「悪の軍団」には「大日本帝国」の影がうかがえると思う。

となれば、70年代東映ヒーロー番組とは、観れば観るほど「自虐史観」を植え付けられ、現在の日本のあり方こそが正しいのだという思考停止を促す作用があることになる。
残念ながらぼくらの世代は、そういった番組をリアルタイムで(まだ柔らかかった)脳みそに注入された世代だった。
すでに白状したとおり、ぼく自身、ほんの6、7年前までは堂々たる自虐史観を持ち、アメリカ様に忠誠を誓う一匹のB層だった。・・・お恥ずかしいことです。

ただ、ぼくが言いたいことが、石ノ森章太郎や平山亨(東映)が、意図的に子どもたちに自虐史観を植え付けようとしてヒーロー番組の量産をしたわけではない、ということは、いまここで『快傑ズバット』を取り上げたことで十分理解していただけると思う。そして、多くの東映ヒーローファンが、『ズバット』こそが70年代ヒーローの最高傑作だと評価していることも追記しておきたい。

それにしても、脚本の長坂秀佳という人はどういう人なんだろう。
ご本人が書かれた自伝『長坂秀佳術』(辰巳出版)も読ませていただいたが、その豪放磊落で愉快な人物像は楽しませてもらったものの、ご自身の思想面への言及は多くはなかった。
ただその人は、『仮面ライダーX』では「悪」を「米ソ」の陰謀による日本の破壊だと設定してメインライターを降ろされ、『人造人間キカイダー』では東映的な「正義のヒーロー」を最後の最後に否定し、ついには人間が人間と戦う当たり前のヒーロー『快傑ズバット』に行き着いた人だということだ。

つづく