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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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レインボーマン 死ね死ね団

死ね死ね団

繰り返しになるが、70年代の東映に代表されるヒーロー番組の問題点は、その悪役(敵)の設定にある。
「人間の自由」を奪い「世界の平和」を乱す侵略者・・・。こんな曖昧で荒唐無稽な存在があの時代のヒーロー番組で当たり前のように採用されたのは、日本の戦後が、まさにそういった「侵略者」の物語を共有していたからだろうとぼくは思う。
言うまでもなく、その「侵略者」とは、”アジアの人々の自由を奪い、アジアの平和な暮らしを乱した”と宣伝される、「大日本帝国」の物語だ。

要するに『仮面ライダー』や『マジンガーZ』といった東映ヒーローの根底には、東京裁判史観(自虐史観)が滔々と流れている、というのがここまでの話。
何も特別「故郷は地球」やら「ノンマルトの使者」を持ち出すまでもなく、70年代ヒーロー番組の多くは、番組全体として左翼テイストであった、ということだ。

そんな風潮のなか、明らかな意志をもって「愛国」を訴えたのが、川内康範のヒーロー番組だ。
レインボーマン』(1972年・東宝)は、日本「だけ」を狙う犯罪組織を相手に、一人の日本人青年が日本「だけ」を守るために戦っていくというストーリー。ここには「世界の平和」のような、ノーテンキなお題目は存在しない。彼が負ければ、ぼくらの祖国が滅亡する、というシンプルかつ具体的な危機が展開されている。

その『レインボーマン』での悪役を「死ね死ね団」という。
ぼくらの世代なら、そのテーマソングを知らない者はまずいないだろう(女性は除く)。

YouTube - 死ね死ね団のテーマ

「死ね死ね団」は日本人に恨みを持つ人間たちが、日本社会の破壊と、日本人の抹殺を目的として組織した秘密結社だとされる。そのため作中では、しばしば日本人批判が行われる。例えば「死ね死ね団」首領のミスターKは、こんなセリフを主人公のヤマトタケシに吐く。

「きさまが命をかけて守る日本に何がある?」
「日本人は目先の欲得だけにあくせくしているぞ。そんなものの、どこに守る価値がある?」

しかし勘違いしてはならないのは、だからと言って川内康範が「日本」全体を批判しているわけではない、ってことだ。川内康範が批判しているのは、70年代当時の日本人の有りようや意識であって、歴史を含む「日本」全体ではない。
そういった意味では、wikipediaのこの一文も微妙に問題があるだろう。

しかし単純な勧善懲悪モノではなく、太平洋戦争時に日本が犯した過ちを見つめ直そうとする作者・川内康範の意図が反映された、数々の特徴をもっている。すなわち、日本に虐待された外国人が組織立って日本人に復讐しようとするという敵の設定、(以下略)

「過ち」「虐待」「復讐」と来ればバリバリの「自虐史観」になってしまうが、それではまるで「死ね死ね団」のほうが「正義」になってしまう。そんな発想は、川内康範の履歴を見れば、ありえない話だ。
例えば、これぞ川内康範のスタート地点、といえるような発言にはこんなものがある。

「なぜ僕が特攻隊の遺書を発表しようとしたかというと、戦後の日本の文壇には新日本文学会をはじめとして、『太平洋戦争は侵略であって、戦死した者はすべて犬死にだ。この国のこれまでの歴史はすべて否定されなければいけない』という論調が広まっていたんです。羽仁五郎とかはその最たる者だ。ぼくはそんな考えには同調できなくてね、読売新聞で反論した」(『篦棒な人々・戦後サブカルチャー偉人伝』(河出文庫)


それでは「死ね死ね団」とは、どういう組織だったのか?

「死ね死ね団のボスは白人ということになっていますよね、いや、白人じゃなくてフィリピン人だ。ただその背後にいる真のボスは白人なんです。カンボジアであろうがベトナムであろうがフランスは直接植民地統治をしなかった。タイ人を使ったんです。傀儡でしょ。死ね死ね団のボスはフィリピン人なんだが、その背後に白人が控えている」(『篦棒な人々・戦後サブカルチャー偉人伝』(河出文庫)


これが川内康範ご本人が構想した「死ね死ね団」の真実だ。
白人が、日本に恨みを持つアジア人を利用して、日本社会の破壊と、日本人の抹殺を企てている。
「死ね死ね団」は白人の手先であり、傀儡でしかない(ただし、どういうわけか作中にはそれを臭わすような描写がなく、第45話で、戦時中に日本軍の軍医に妻を殺されたというボーグ博士に、ミスターKが「私も同じような境遇だ」と言うくらいしか、「死ね死ね団」の動機や背景について具体的に語られることはなかったと記憶する)。

ではそんな「死ね死ね団」は、どういう方法で日本人を抹殺しようとしたか。

「キャッツアイ作戦」では日本人全てを発狂させようとして、キャッツアイという薬品を貯水池に流そうとした。「M作戦」では大量の偽札をばらまいて、インフレによる日本経済の破壊を目論んだ。
「モグラート作戦」では日本に資源を輸出している国の要人やタンカーを襲い、日本に石油等が入ってこないように工作した。
最後の「サイボーグ作戦」は、日本人をサイボーグ化して奴隷状態にしようとし、さらにはミサイルによる東京の破壊を計画した・・・。

という具合で、最後はやや力技のヤケクソ気味ではあるが、おおむね当時の日本の社会不安を反映した、かなりリアルな計画を次々と実行している。ここには「世界征服(笑)」などという漠然とした願望はない。日本人だけを目標にした、大規模かつ具体的な犯罪があるだけだ。

だから、それと戦うレインボーマンも、漠然とした「世界平和」を願ったりはしない。自分が戦わなければ母が死に、妹が死に、恋人が死に、親友が死に、隣近所の人が死に、自分にまつわる全ての人が死ぬ。そんな状況で、何が「世界」だ。何が「正義」だ。そんなお目出度いヒーローは、この作品には必要ないのだった。

つづく

川内康範「アメリカよ驕るな!!」(1999)

アメリカよ驕るな!!

レインボーマン』の内容について多少書いていこうと思ったが、川内康範作品は、氏の政治思想と切り離して考えることはできないと思い直し、まずそちらをざっとまとめておくことにする。

と言っても、ぼくには一人の思想家の哲学を要約できるような能力はないので、1999年に発行された『アメリカよ驕るな!!』(K&Kプレス)の前書きに当たる「私案『核保有国三原則』」から、適当に引用することで済ませたい。
幸いこの本はまだ新品が買えるので、興味のある人は是非書店にてお買い求め下さい。

以下引用

「私は戦争によって勝ち得る『平和』というものの脆さを、二十世紀を生きた人間としていやというほど見せつけられてきた。
それでも非戦の憲法を護持し得る国家の一員としての誇りを持ってきた。だが、その誇りをいまや見直さざるを得なくなりつつある
そうさせたのはアメリカである。第一の疑問は湾岸戦争であった。
そして今度のガイドライン問題、さらにユーゴスラビアに対するNATO軍の攻撃が、国連不在、アメリカ主導によってなされているという現実を通じて、もはや国連はその機能を放棄したも同然である、との判断に立たざるを得なくなった」


「ヨーロッパは十七世紀以降、戦争を繰り返してきている。
その最大ともいうべきナチスドイツは、アウシュビッツであれだけの大惨劇を演じながら一度として謝罪したことはない。また、謝罪を要求もされていない。それどころか、東南アジア各国は、米英仏蘭をはじめとする白人支配を受け、日本が三百余万名の戦死者を出しての敗戦時まで、完全なる植民地であった。
マレーシアのマハティール首相ではないが、東南アジア各国独立の契機は、日本の米英への挑戦があってのことだということぐらいは、日本の教育の戦争史観の中核部分として明記されてしかるべきことなのだ。
無論、それは日本の戦争を正当化するためのものであってはならないが、歴史の必然として新世紀を迎える日本人がすべて理解し、納得しておくべき重大な記録である。
それがねじ曲げられて、徒に謝罪外交などをするから、将来日本を背負って立つ若者たちの国家という概念の骨格が曖昧として、その曖昧さが国旗や国家という、極めて初歩的な、日本国籍を有する人々の、興国の理想すらも放棄させられているのだ。
その遠い素因をまさぐってゆくと、いやでも敗戦国日本に対しての、勝利者アメリカの対日政策の基本が何であったかの疑問にぶち当たる」


「私はこれまでに『不戦の憲法を護持せよ』の著作をはじめとして、絶対的平和とは亡国の思想とも思われるほどのスレスレ、つまりは皮膜一枚の覚悟がなければ果たし得ないとの私説を述べてきたのだが、いま、その過去の論述を根底的に見直す必要に迫られている
それは、非戦の憲法を改正する他に、法理論的にも猫の目のように変貌する国際情勢に対処し得ず、もはや日本国憲法は護持するに値しないとの結論に達してこの拙稿に至った」


「本来、憲法とは交戦国たる米国との講和条約が批准されて初めて制定されるべきが正当なる手段、方法である。したがって、サンフランシスコ講和条約が交わされる以前は、日本は非独立国であって、憲法を自発的に発布し得ないのが国際的常識である。
それを敢えて占領軍代表たるマッカーサー司令部の恣意によってつくられた憲法を不磨の大典の如く守ってきた日本国歴代政権担当者たちの責任はあまりにも大きい」


「これらの凶告を予知すれば、非戦を理想とするわが国の成し得る道は一つしかない。
ズバリ書く。『非核三原則』を破れ』。
但し、このことによって、日本は新しい『核保有三原則』を創設する。
その第一は、核を他国侵犯のための武力としない。
第二は、自主防衛、国民感情の安定剤としての効用性として位置づける。
第三は、アジア諸国をはじめとする全世界の非核保有国の、不戦への付加価値として位置づける。
神の皮肉であろうか、米国議会がさる十月二十日、包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准を拒否した。これを、非核保有国全体に対する覇権主義のゴリ押しとして捉えれば、非核武装諸国の正気の安定剤としての効用性を発揮することになる。
以上が、不戦を悲願として今日まで主張してきた筆者の本意である」


「結論を述べれば、日本は、自主防衛を前面に押し出しながら、国連加盟、非核保有百七十余か国の平和を守るための戦争抑止型国家に再誕することだ」

以上、川内康範著『アメリカよ驕るな!!』(K&Kプレス)より引用。

ここで特に注目すべきは、氏の憲法に対する考え方だろう。
Wikipediaには「日本国憲法第9条は護持すべきとしていた」との記述があるが、1999年の時点で、すでに氏は「改憲派」であり、核保有論者でもあった。これが戦後政治史とともに歩んだ川内康範の結論だったということだ。

つづく

レインボーマン誕生 ~ダイバダッタ

常軌を逸した修行のようす

レインボーマン』(1972年・東宝)の特徴を一言で言えば、それは「リアリズム」だと言えるだろう。
悪役の「死ね死ね団」のリアリティについてはすでに書いた通りだが、ヒーローの側も、その生い立ちから家族構成、恋人や親友、世話になっているご近所さんまでを、事細かに描いている。

それはまさに、そういったヒーローを取り巻く多くの人々こそが、このヒーローが守ろうとしているものに他ならないからだろう。レインボーマンは「世界の平和」やら「人間の自由」というような、耳障りだけはいいが他人事にも聞こえる、空虚で漠然としたスローガンのために戦っているわけじゃない。今すぐそこにある危機に対し、とりあえず自分に近いところから守っていこうとしているだけだ。

だからレインボーマンは、その必要があるのなら大臣にだって会いに行く(首相と思われる)。
第2クールで死ね死ね団が仕掛けた「M作戦」は日本経済に未曾有のインフレをもたらし、食料価格が高騰。人々は飢えに苦しんだ。だが、この非常事態に、”ヒーロー”は無力だった。彼にできることは大臣に掛け合い、涙を流して人々の困窮を訴え、国の食糧備蓄の放出を直訴することだけだった。

さて、そんなレインボーマンに変身するのは、ヤマトタケシという名の青年だ。
タケシは城東高校に通う学生で、学校ではレスリング部に所属、「下町の黒豹」と呼ばれる猛者だ。タケシには、「おふくろ」というおにぎり屋を営む母たみと、足の悪い小学生の妹みゆきがいる。みゆきはタケシの不注意から交通事故にあってしまったので、タケシはいつかは自分の手でみゆきの手術代を稼ぎたいと思っている。
タケシの父、ヤマト一郎は新聞記者だったが、10年前に東南アジア方面に取材に出たまま行方不明になっている・・・。

以上が主人公ヤマトタケシの家族構成だ。
続いては、そんな普通の高校生がレインボーマンになるまでのいきさつ。

タケシのレスリングの実力は群を抜いており、関東大会では「必殺回転落とし」を連発して弱小城東を準優勝に導いた。しかしその必殺技は大会中に4人もの負傷者を出しており、危険過ぎるという理由でタケシはレスリング部を追われてしまう。怒ったタケシは高校を中退し、プロレスを志す。しかし超高校級の実力も、プロでは全く通用しなかった。失望するタケシに、先輩の堀田がある新聞記事を見せる。そこにはヒマラヤの奥地に住むヨガの行者、ダイバダッタの写真があった。

タケシはプロレスラーに必要な体と技を身につけるため、ダイバダッタへの師事を目指してインドに旅立つ。いろいろあって運良くダイバダッタに弟子入りできたタケシだったが、修行は一向に進まない。
焦るタケシにダイバダッタは言う。

「お前がここに来た目的はプロレスラーになるため。しかし本当の目的は、妹の足を治すためだったはず。それがいつの間にか、おのれがプロレスラーになろうとばかり考えて、私利私欲のとりことなっておる」
タケシも反論する。
「ああ、俺だって人間だ、若いんだ。金も欲しいし、名声だって欲しいんだ。それのどこが悪いんだ」

それを聞いたダイバダッタはタケシを連れて、印パ戦争のまっただ中に降り立つ。そして戦場に放置された数十体の死体を蘇らせる。このダイバダッタの奇跡の力と如来の心にタケシは驚く。
「この術さえあれば、みゆきの足を直してやれる」
タケシの修行はついに本格化し、厳しい修行が続いた。

歳月は流れ、ダイバダッタがこの世を去る日がやってきた。
ダイバダッタは泣き崩れるタケシに、お前はレインボーマンになるのだと言う。
そして「勇気をもって東方の光となれ!」と言い残すと、激しい落雷とともに、ダイバダッタの魂はタケシに乗り移る・・・。


レインボーマンが、仮面ライダーをはじめとした他の特撮ヒーローたちとは全く異なる点は、この「修行」にある。タケシは本人が逆ギレして叫んだとおり、煩悩にまみれた普通の人間であって、改造人間でもなければ人造人間でも超能力者でもない。さらにこの「修行」はあくまでタケシの任意であって、誰にも強制はされていない。
つまりレインボーマンとは、凡百の普通の人間が、自由意思と過酷な訓練によって、空中飛行すら可能とする驚異的な力を身に付けたヒーローだということだ。

というと、例えば自ら志願して改造手術を受けた仮面ライダーV3などはどうなるんだ、という話になるかもしれないが、V3=風見志郎にはデストロンに殺害された家族の復讐、という個人的な欲望があった。
ならば、レインボーマン=ヤマトタケシにも、妹の足を「術」で治療するという欲があるのではないか、と疑う人もあるかもしれないが、これは違う。

そもそも、どうしてタケシの妹は足が悪くなくてはならなかったのか。
帰ってきたウルトラマン』では、実兄の坂田健の足が悪いことによって、坂田次郎少年が、他人である郷秀樹に「父性」を求めるという展開が見られた。登場人物の足を折るという設定には、大抵の場合、本来の自然な物事の流れを阻害し、支流に誘い込むような意図がある。

『レインボーマン』においてそれは、主人公ヤマトタケシが自分の力を「私利私欲」のために使っていないかをチェックする装置として機能した。

つまり、ヤマトタケシは『レインボーマン』全52話の最後の最後まで、レインボーマンとしての力で妹みゆきの足を治そうとはしなかった。『レインボーマン』最終回は、手術のためにみゆきが乗る外国へ向かう飛行機を、その直前まで死ね死ね団の残党と戦っていたタケシが、必死の飛行術でかろうじて見送るシーンで幕を閉じるのだった。

そしてそのチェック機能は、さらに究極の選択をタケシに迫った。
第26話で、タケシはついに探し求めていた父、一郎と再会するが、それは死ね死ね団のアジトの中だった。協力してミスターKを追うヤマト親子。しかし何ということか、一郎は敵の放った銃弾に倒れてしまう。ようやく会えた父。妹みゆきは父の顔さえ知らない。会わせてやりたいと思うのが、兄としての人情だ。そしてレインボーマンの力は(時間はかかるものの)死人を蘇生させることも可能だった。
しかしタケシは、一郎に
「早くやつを追え!」
と叱咤されると、その声にしたがった。父を置き去りにして、巨悪を追った。

自分の責任で足を悪くした妹をそのままの状態にし、父を見殺しにしたタケシの罪業は果てしなく深い。『レインボーマン』は、”ヒーロー”になることを自ら選択したひとりの青年の、想像を絶する苦痛と苦悩を描いた、壮絶なまでの「子ども番組」だった。

つづく

レインボーマン 阿弥陀如来とニート

ヨガの眠り

レインボーマン』は、ごく常識的な意味での「リアリズム」を持ち込んだヒーロー番組だった。
いわゆる「悪の組織」にとって、”ヒーロー”ほど目障りで邪魔なものはない。どうにかして消してしまおうとするのが普通だろう。それを、ごく現実的に表現すればどうなるか。

ヤマトタケシは普通の民間人だ。だから彼は、下町で普通の人間として暮らしている。そのタケシを付け狙う死ね死ね団は、当然タケシの家族だって狙ってくる。団らん中のヤマト家を銃弾が襲い、時限爆弾が仕掛けられる。「危ないことはやめておくれ」と泣きながらすがりつく母。

大切な恋人、淑江も狙われる。淑江の父で、レスリングジムと保育園「どんぐり園」を経営する正造も狙われる。「どんぐり園」の園児さえも狙われる。レスリングの先輩である堀田が狙われ、堀田の知り合いの刑事は殺される。たった一人の親友、吉岡はサイボーグにされてタケシに襲いかかってくる。

要は、タケシとつながりのある全ての人々が死ね死ね団に狙われ、危険な目にあっていく。
これが”ヒーロー”が直面する現実というものだろう。

しかし『仮面ライダー』をはじめとしたヒーロー番組のほとんどは、その部分を省略した。その一方で、ヒーローたちにとっては自分の身を守るくらいは簡単なことでもあった。
だから『レインボーマン』をみた後に他のヒーロー番組をみると、そこにはヒーロー自身の安全が、かなりの面で確保されていることが分かる。彼らには、自分の親しい人たちが今この瞬間にも殺されているかもしれない、というような余計な心痛に悩まされることはない。これは気楽だ。仮面ライダーイナズマンには、いつだって”ヒーロー”を廃業する自由がある。公務員ヒーローのゴレンジャーなら、異動願いを出せばいいだろう。

だがタケシにはヒーロー廃業は許されない。
もちろん、死ね死ね団に降伏してもダメだ。敵は日本人全ての抹殺を悲願にしている。タケシが戦わなければ、遅かれ早かれ日本人は全滅する。そこにはタケシの家族も、恋人も、友人も、町内の人々も、みんな含まれている。
だからタケシは、一日でも早く死ね死ね団の本拠をつきとめ、それを滅ぼさなければならない。

その結果、事情を知らないご近所さんから見れば、タケシは昼間っからブラブラしている若いモン、すなわち「ニート」になってしまった。ヨガの秘術を会得し、ダイバダッタの魂を宿した史上最強の等身大ヒーロー、レインボーマンの真実は、ただのニートだった。

タケシは昼間のうちはずっと空から死ね死ね団のアジトを探している。彼には本郷猛のように大学で研究を続けたり、ゴレンジャーのように定例会議をしたりしている余裕はない。一刻も早く事件を解決するために、彼は自分の全ての時間をレインボーマンの使命に捧げているのだった。

ではその「レインボーマンの使命」とは何か。
タケシはそれを師匠のダイバダッタから受け継いだのだが、彼らはそれを「如来の心」という。
如来にもいろいろあるが、タケシが受け継いだのは「阿弥陀如来」の心だろう。
レインボーマンはエネルギーがなくなると「ヨガの眠り」と呼ぶ5時間の休息に入る必要があるが、このときタケシは座禅を組み、印を結ぶ。これが阿弥陀如来の姿をとっている。鎌倉大仏と同じと言えば分かりやすい。

Wikipediaには「阿弥陀如来」について次のような記述がある。

「『仏説無量寿経』によると、一切の衆生救済のために王位を捨てて、世自在王仏のもとで法蔵菩薩と名乗り修行をした。非常に長期間衆生の救済の思索をめぐらし、浄土への往生の手立てを見出し、衆生救済に関して48の誓願を発願したのち、改めて誓いを立て修行し、それが成就し仏となった報身仏と説かれる」


キーワードは2度出てくる「修行」だろう。
タケシがその心を受け継いでいるなら、彼はレインボーマンになった後も、たった一人で長い長い修行を続けなければならない。”ヒーロー”になっただけでは、まだ修行は終わりではないということだ。


ところで、ぼくはこのブログでは再三にわたって70年代ヒーロー番組の持つある側面について批判的な立場をとってきた。それは『仮面ライダー』に代表される東映ヒーロー番組の多くが、ぼくらの自衛のための戦闘を外部化し、他人事に感じさせる効用を持っているという面だ。つまり、戦うのはどこかの「正義」から委託された「代理人」であって、ぼくらは当事者ではない。ぼくらは「代理人」である「正義のヒーロー」に戦闘を依存し、戦況を見物していればいい。
そして言うまでもなく、この構造は、「正義」=アメリカ、「代理人」=在日米軍の構造と一致する。

しかしどうだろう。
あらゆる苦痛に耐え抜いて、ようやく誕生したレインボーマン。彼は”ヒーロー”になってなお、その使命と責任の重さに耐え、自分につながる人々の生存を思い悩み、瀕死の父親を見殺しにした罪業に苦しんだ。それもこれも、全てはこの日本の破壊をもくろむ死ね死ね団の魔の手から、ぼくら日本人を救済したいがためだ。
レインボーマンは、代わりがいくらでもいるような、どこかの「正義」の「代理人」なんかではない。

そんな孤独なヒーローに、ぼくらはただ「依存」するだけでいいのだろうか?
『レインボーマン』で描かれるヤマトタケシという主人公の姿は、ぼくら当時の子どもたちに、安全な場所から一方的に「依存」されることを拒否しているようにも、ぼくには思える。
第35話で恋人の淑江に、事件なんてレインボーマンに任せておけばいい、と言われたとき、彼女に正体を明かせないタケシはこう叫んだ。

「レインボーマンは宇宙からきたスーパーマンじゃないんだ。ロボットでもサイボーグでもないんだ。レインボーマンは人間なんだ。力の限り生きている人間なんだ。だから俺も、一緒に戦わなければならないんだ」

つづく


タケシがレインボーマンに化身(変身ではない)する際に唱える呪文は「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」というものだが、「完全な悟り」という意味だとか(豆知識)。


レインボーマン ひとつの日本

親子三代

ここまで『レインボーマン』が、いかに『仮面ライダー』をはじめとした70年代の東映ヒーロー番組と異なる世界観を持つかについて書いてきたが、今回はその決定打ともいえる部分に触れておきたい。
題して、ひとつの日本。

これまで見てきたように、70年代東映ヒーローの多くは、戦後日本に底流する巨大な物語とシンクロすることで、彼らの「正義」の正当性を保ってきた。その物語とは、ひとつは「人間の自由」を最大の価値とする「戦後民主主義」で、もうひとつは「世界の平和」に反するものを敵と見なす「東京裁判史観(自虐史観)」だ。

こうした物語は、戦後になってGHQによって持ち込まれた考え方だから、要するに元々はアメリカの「正義」だ。そしてその「正義」を受け入れた(受け入れざるを得なかった)戦後日本に生まれた特撮ヒーローたちは、「人間の自由」と「世界の平和」のために「悪」と戦った。

しかし、”ヒーロー”たちの「正義」がアメリカの「正義」だとするなら、彼らの戦う「悪」はまず第一にそのアメリカに反旗を翻し「世界征服をもくろんで侵略戦争をおこした」とされる大日本帝国と容易に結びついてしまう。現に、「ショッカー」にはナチスドイツとの深い関わりが示唆され、『変身忍者嵐』は悪に与した父の「過ち」を償おうとし、『超人バロム・1』は日本の外部に存在する「正義」の、その「代理人」を名乗った。彼らの戦う「悪」には、どこか戦後の(左翼的な)文脈で語られがちな大日本帝国のイメージがつきまとっていた。

そんな中、川内康範原作の『レインボーマン』は、ヒーローの戦う「悪」を、日本社会の破壊と日本人の抹殺をもくろむ集団(死ね死ね団)だと具体的に提示した。ここには、東映ヒーローが安直に乗っかった自虐史観の物語はない。
それが明らかな形で示されるのが、第22話、第43話といった辺りだ。

主人公ヤマトタケシの父、ヤマト一郎は新聞記者だった。10年前、いち早く死ね死ね団の陰謀を察知した一郎は、幼い我が子を妻たみに託すと東南アジアまで取材に出かけた。しかし反対に死ね死ね団に拉致されてしまい、10年の間、彼は監禁生活を余儀なくされていた。

第22話「一億人を救え!!」はそんな父が、10年ぶりに成長した息子の姿を見るエピソードだ。
一郎は首領のミスターKに呼ばれ、死ね死ね団の最大の敵はレインボーマン、すなわち一郎の息子ヤマトタケシだと教えられる。それを聞いた一郎のセリフはこうだ。

「タケシが、わたしの息子が、きさまたちと戦っているのか・・・。そうか、タケシが正しい男に成長してくれたのか。そして俺の心を継いで、やはり死ね死ね団と戦うとは・・・。タケシ、父さんは苦しい思いをして生きてきた甲斐があったぞ」

そして死ね死ね団の基地の中で再会した父と子は、協力してミスターKを追いつめる。しかしその父はミスターKの放った銃弾に倒されてしまう。父を助けるべきか、ミスターKを追うべきか。タケシが究極の選択を迫れられた時、父はタケシの迷いを一喝する。「早くやつを追え!」と。そして言う。
「人間に欲望がある限り、悪は消えない。お前の戦いは永遠に続くのだ」

第43話「太陽とみどりに誓う!」では、タケシの祖父が登場する。
このときタケシは、戦闘で受けた傷が元で、レインボーマンの術が使えない状態に陥っていた。そんなタケシの焦りを見抜き、無心であることの大切さを教えたのが剣道の道場を開いている祖父の久蔵だった。この時のやりとりからは、タケシが幼少時からこの祖父に剣術の指南を受けていたことがうかがえる。タケシの人並みはずれた運動能力は、この祖父から受け継いだものだった。

このように「レインボーマン」では、主人公ヤマトタケシが、父の心と祖父の技を受け継いでいることが強調されている。それは言いかえるなら、戦前、戦中、戦後の日本が、レインボーマンという一つの像を結んでいるということだ。ここに日本史の分断はない。一つの日本だ。戦前・戦中の日本を「悪」として否定して、それと戦うことが「正義」だというような、自虐史観につながる発想はない。

そして、そんな父と祖父に育てられたタケシ自身にも自虐史観はない。
第32話で、「アルパニア」という国から友好使節が来日するという新聞記事を読んでいるとき、妹のみゆきに「アルパニア」がどういう国かと聞かれ、タケシはこう答えている。

「東南アジアの小さな国で、戦争中日本がひどいことをしたんだ。それが今度ようやく仲直りができて、むこうの友好使節がやってきたんだよ」

タケシは戦争で日本がアジア諸国に「ひどいことをした」ことを認めている。だからと言って、そんな日本を必要以上に恥じたり、過剰な贖罪意識を持っているわけではない。タケシが「アルパニア」の友好使節団を保護しようと命がけで戦ったのは、それが現在の日本のためになるからだ。

だからタケシは「世界の平和」などといった大言壮語はしない。
彼の誓いは、あくまで「日本人一億のために」だ。
「この、美しい太陽と緑のこの国を、みんなの幸せを守るのが俺の使命なんだ」

つづく

正義のシンボル コンドールマン

敵の本拠はニューヨーク

武装した国連の職員が白昼堂々と東京都内を爆走し、徒党を組んで1人の怪人をなぶり殺しにする『秘密戦隊ゴレンジャー』が人気を集めていた1975年。この年、われらが川内康範も一人のヒーローを世に送り出した。
それが『正義のシンボル コンドールマン』だ。

『コンドールマン』の舞台は(おそらく)1975年当時の世界。
そこでは「みにくい人間の欲望からモンスター一族が生まれ出」ていた。金の亡者ゼニクレージーをはじめ、ゴミゴン、スモッグトン、ヘドロンガーといった幹部たちを率いる首領はキングモンスター。彼らは、ニューヨーク摩天楼のビルの一室を本部にすると、「公害・戦争・犯罪などあるゆる悪」をばらまく「人類征服作戦」を開始した。

主人公、三矢一心は国際平和運動グループ「世界の旗」のメンバー。一心は「世界の平和を話し合う会」に国連事務局次長キムトン氏を招いたが、現場をテロ組織に襲撃され、キムトン氏は一心をかばって狙撃されてしまう。
犯人を追ってアメリカ・ネバダ州まで渡った一心だったが、テロ団を背後で操っていたモンスター一族に攻撃され、同行したタバ老人と一緒に逃走する。そこで彼らが発見したのが、古代ムー帝国の守り神、ドラゴンコンドルの傷ついた姿だった。ドラゴンコンドルのタマゴに危険が迫り、それを守ろうとした一心は敵の銃撃を受けてあえなく死亡。タバ老人の手で荼毘に付される。

やがてタマゴは孵り、ゴールデンコンドルが無事に誕生すると、ドラゴンコンドルはタバ老人に言う。
「わたしは彼の心に報いるためにも、彼の母なる国、日本と、日本人の力になりたい。古代ムーの呪術者タバよ、最後に力を貸して欲しい。正義を守るコンドールマンを誕生させるのだ」
それを聞いたタバは、一心の遺骨の一部を祭壇に投じる。一心とコンドル親子がひとつに融合し、ここに「合成鳥人」コンドールマンが誕生した。

そのころ日本では、市場から砂糖をはじめとした甘味が姿を消していた。政府閣僚にすり替わったゼニクレージーの手で、大規模な食品の買い占めが始まっていたのだ。コンドールマンはたった一人で、この巨大な陰謀と戦うのだった。


コンドールマンが戦うモンスター軍団とは、要するに人間の欲望が具現化してしまった怪物たちだ。
そして彼らの本拠は、資本主義の総本山ともいえるニューヨークにある。

この『コンドールマン』の「悪」の設定からは、川内康範が考えた1975年当時の日本というものを、如実にうかがうことができるように思う。モンスター一族の首領は言う。
「日本人は欲のかたまりだ」
だから食いものを取り上げてしまえば、日本人は互いに争って自滅するだろう、と。
同じようなセリフは『レインボーマン』にもあった。
死ね死ね団首領のミスターKはこう言う。
「日本人は目先の欲得だけにあくせくしているぞ。そんなものの、どこに守る価値がある?」
そうした欲にまみれた日本人が生み出すスモッグやヘドロ、ゴミの山からモンスター一族が誕生した。

こういったセリフだけを見ると、まるで川内康範は日本人を憎悪しているかのようにも見えるかもしれない。自虐史観をまき散らすサヨク人間と変わらないという印象を持つ人もあるかもしれない。
が、もちろんそうではない。

そもそも川内康範のキャリアは「海外抑留日本人の帰国運動や戦没者の遺骨引き上げ運動」からはじまった。
さらには再三引用しているこの発言だ。

「なぜ僕が特攻隊の遺書を発表しようとしたかというと、戦後の日本の文壇には新日本文学会をはじめとして、『太平洋戦争は侵略であって、戦死した者はすべて犬死にだ。この国のこれまでの歴史はすべて否定されなければいけない』という論調が広まっていたんです。羽仁五郎とかはその最たる者だ。ぼくはそんな考えには同調できなくてね、読売新聞で反論した」(『篦棒な人々・戦後サブカルチャー偉人伝』河出文庫)


要するに、川内康範が怒っているのは「戦後」の日本と日本人について、ということだ。

このことは、最近ネット上を賑わしている、NHKの台湾についての偏向報道番組の問題と、ほぼ本質を同じくしているように思える。この番組の問題自体はこちらのブログでも見ていただくとして(「アジアの真実 」)、ここでぼくが「本質」というのは、親日・知日で日本統治の良い面を高く評価している台湾のご老人たちが、なぜ今なお、日本に対する不満を抱えたままでいるのか、ということだ。

それは結局のところ、日本の「戦後」に失望し、絶望しているからだ。
「戦前」や「戦中」ではない。もちろん上記の引用でいうところの「これまでの歴史」でもない。
それらを「否定しなければならない」としてスタートした「戦後」のほうに、台湾のご老人も、川内康範も怒っている。


それにしても、1975年の『コンドールマン』において、敵のモンスター軍団の本拠地がアメリカのニューヨークにあるというのは、東映特撮ヒーロー番組もいよいよ行き着くところまで行き着いたという感がある。
というのもぼくの見るところ、ヒーロー番組を虚心坦懐に眺めてみると、そこにはしばしばアメリカの「陰」というものが見え隠れするからだ。

というわけで、次回からはテーマを大きく変えて、70年代(一部は60年代)のヒーロー番組から、「アメリカ」を読み取る作業をはじめてみたい。

つづく

川内康範「まんが日本昔ばなし」

まんが日本昔ばなし

※話題を変えようと思っていたが、肝心なことを書き忘れていた・・・。


同じ1975年の春にスタートした『正義のシンボル コンドールマン』と『秘密戦隊ゴレンジャー』だったが、勝敗は明白。約2年に渡って全84話が放送された『ゴレンジャー』に対して、川内康範原作の『コンドールマン』はたった半年、全24話で番組が終了した。
それどころか『ゴレンジャー』のほうは『ジャッカー電撃隊』(1977年)という後継番組を生み、さらに1979年からは現在に続く「スーパー戦隊シリーズ」の第1号作『バトルフィーバーJ』へと発展していったのだった。

1979年ともなると、すでにぼくは特撮ヒーロー番組を観るような年齢ではなかったので、その『バトルフィーバーJ』という番組は観たことがない。また、当時リアルタイムでみていない作品を、今からDVDでみようとも思わない。
それでWikipediaの記事を読んでみたのだが、いかにも、と言うか、まさしくこれぞ『ゴレンジャー』の正統を継いだ番組だったようだ。例によって5人組のヒーローが登場してくるのだが、それぞれ「ジャパン」「コサック(ロシア)」「フランス」「ケニア」「アメリカ」を名乗り、風采や必殺技もそれぞれの地域の特徴を前面に押し出したものだとか。

『ゴレンジャー』のころは、国連職員という肩書きはあれどメンバーはみな日本人で、あまり日本の外を意識させることはなかったが、『バトルフィーバーJ』はまさに多国籍軍のイメージ。地理の勉強になるといえば聞こえはいいが、世界には統一的な「正義」があるという誤解を植え付けかねない。
くどいようだが、世界共通の「正義」のもとでは、日本やドイツはいまだに「敵国」扱いだ(国連「敵国条項」)。

まあ『バトルフィーバーJ』にケチをつけるのは、ぼくらより下の世代に任せるとして、それではテレビヒーローの生みの親である川内康範という人は、果たして「スーパー戦隊シリーズ」に完全敗北してしまったんだろうか? 氏の生み出すヒーローは、もはや時代遅れだったんだろうか?

ここでもう一度、川内ヒーローの特色のようなものを言うなら、それは月光仮面にしろレインボーマンにしろ、彼らは「正義のヒーロー」ではなくて「正義の味方」だったということだ。彼ら自身が「正義」なのではなく、日本人のなかにある「正義」を彼らは守ろうとした。だから、そこでは常に、テレビを観る側の「倫理」が問われていることになる。いくら「弱者」であろうと、心が正しくない者を彼らは助けることはない。その必要もない。
なお『コンドールマン』の主題歌でも「正義を助けるコンドールマン」と謳われ、川内節は守られている。

一方、仮面ライダーは「人間の自由」や「世界の平和」のために戦った。これは単に人間がおかれている「状態」を問題にしているだけなので、いくら熱心に観ても「正義を愛する心」などは芽生えない。また、仮に仮面ライダーがショッカーを全滅させたとしても、後に残るのはただの現実の日本社会の回復でしかないので、実は何一つ建設的な要素がない。
人も育たず、国も変わらないということだ。
これはおそらく「スーパー戦隊シリーズ」も同じことだろう。

ならば川内ヒーローが消滅した1975年秋には、ぼくら当時の子どもたちに、日本人の心の中にある「正義」を教えてくれる番組は消滅してしまったのだろうか?

いや、そんなことはなかった。
それは全く違うスタイルで、しかももっとダイレクトな表現で、そして「スーパー戦隊」とは比較にならない巨大な影響力をもって、ぼくらの前に姿を現した。

それが、川内康範監修の『まんが日本昔ばなし』だ。

ぼくらの世代でこの長寿番組を知らないという人はまずいないと思うので、いちいち詳しい説明はしないが、要はここには日本人が受け継いできた伝統のすべてがあると言っても過言ではないだろう。言葉はもちろん、歴史や文化、倫理や規範、生活習慣や土着の風習など、いちいち挙げていくのが面倒なくらいだ。「世界の平和」やら「人間の自由」やらも結構なことだが、そんな政治がらみで判断の難しいものを語るより前に、まず日本の子どもなら先に学ぶべきものが沢山ある、ということだ。

『月光仮面』と『まんが日本昔ばなし』は、ある意味では同じことをまったく別の角度から表現したもの、と見ることもできるとぼくは思う。

つづく