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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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新造人間キャシャーン ブライキングボスとアンドロ軍団

キャシャーン誕生

新造人間キャシャーン』(1973ー1974・タツノコプロ)の物語は、同じ頃の東映ヒーロー番組ときわめてよく似た始まり方をする。

時代も場所もよく分からないとある国で、世界的なロボット工学の権威の東光太郎博士が、公害処理用のアンドロイドの製造を行っていた。ところがある夜、このうちのBK-1号が激しい落雷を受けて暴走してしまう。BK-1号は、ロボットによる人類征服を宣言すると、生みの親である東博士に襲いかかってきた。かろうじて窮地を脱した博士家族は国防軍に連絡するが、BK-1号には歯が立たずに全滅。
おのれの力を確信したBK-1号は博士の研究所を利用してロボットの量産を開始し、「アンドロ軍団」を組織。自分は団長「ブライキングボス」を名乗るのだった。

ブライキングボス率いるアンドロ軍団は最大の脅威である東博士を捜しはじめ、やがて博士が国立科学研究所にいることを突き止める。博士に危機が迫る。すると博士の一人息子の東鉄也が、自分を新造人間に改造してくれと志願してくる。博士は、一度改造すれば二度と人間には戻れないと言って一旦は拒否するが、元はといえば全ては博士自身が蒔いた種でもあり、息子に説得されるかたちで人間改造(機械と人間の合成)を行う。

こうして「新造人間キャシャーン」に生まれ変わった東鉄也はさっそくアンドロ軍団を撃退するものの、戦闘中にスキを突かれ、父と母を連れ去られてしまう。キャシャーンは、父母を奪回するために生まれ育った家(兼研究室)に忍び込むが、すでに父の東博士はどこかへ移送された後であり、母のみどりは父の手で白鳥型ロボット「スワニー」に姿を変えられていた。

アンドロ軍団はキャシャーンの生まれた国を皮切りに、次々と人間社会の侵略を開始した。都市が攻撃され、占領されていった。キャシャーンは、ロボットを憎む人々のなかでその正体を隠しながら、ひたすらアンドロ軍団と戦うのだった・・・。


てなあたりが『新造人間キャシャーン』の出だし部分だ。
簡単に言えば、父が心ならずも生み出してしまった「悪」をその息子が叩いて回るというストーリーは、東映の『変身忍者嵐』と同じパターンだ。要は、息子の鉄也=キャシャーンの行動の根底には「父のあやまち」への「償い」がある。

と聞けば、な~んだキャシャーンも大日本帝国を叩く自虐系か~と思われるかもしれないが、それはごく最初のうちだけのこと。実写の特撮番組では(予算的に)不可能な表現も、ただの絵であるアニメなら問題なく描くことが出来る。『新造人間キャシャーン』は、東映特撮が実現できなかった軍隊による都市の占領を描くことで、「敵」の持つイメージを180度転換させてしまったのだった。

具体的にはこんなこんじだ。
第5話「戦いの灯を消すな」。
アンドロ軍団はキャシャーンの生まれた国を占領すると、次々と近隣都市への侵略を開始した。各国の国防軍は必死の抵抗を試みるものの、すでに大量生産に入ったロボット軍団には全くの無力だった。
そんなある都市でのこと。
ここでブライキングボスが打った手は、ネズミ型ロボットの大軍をばらまいて食料という食料を食い尽くさせる作戦だった。人々は飢えに苦しみ、戦意を失っていった。
そこに山のようなパンを携えて現れたブライキングボスは、パンが欲しければ俺に土下座しろという。人々は日々の一切れのパンのために、ロボット工場でドレイのように働かされるのだった・・・。


『新造人間キャシャーン』の物語には、このエピソードに代表されるように、アンドロ軍団という”占領軍”とそれに占領されてしまった人々のやりとりを巡って展開されるものが多数、散見される。
アンドロ軍団は「ショッカー」等のように、コソコソと暗躍する存在ではない。人間が太刀打ちできない強大な軍事力を前面に押し出して、堂々たる行軍をもって都市の中心地を占拠する。

むろん、人間側にだって黙って占領されてドレイに落とされることを受け入れない者もいる。
上記の第5話でも、たった4人ではあったが勇者たちが攻撃隊を組織してブライキングボスの狙撃を図った。それが失敗に終わっても諦めず、人々が強制労働をさせられている工場に乱入すると監視ロボットを破壊し、人々を解放しようと奮闘した。
しかしどうだろう。
一緒に戦おうと叫ぶ4人の声に応える人は皆無であり、あまつさえブライキングボスの本隊が到着したと聞くや、我先に逃げ出す始末・・・。


第5話がぼくらに訴えたいことは極めて明瞭だろう。
『新造人間キャシャーン』の物語は、絶対的な力の差を前にして、ぼくらは降伏してドレイになるべきか、それとも団結して戦い抜くべきか、それを問うているのだとぼくは思う。
キャシャーンがいくらブライキングボスより強いアンドロイドだとは言っても、残念ながら彼の肉体はひとつしかない。何百、何千というロボット軍団を前にしては、彼の太陽エネルギーもすぐに限界を迎えてしまう。キャシャーンには、ともに戦ってくれる沢山の同志が必要なのだ。

というふうに見てみると、一見、東映ヒーローっぽい始まり方をする『新造人間キャシャーン』が、実は『月光仮面』や『快傑ハリマオ』型のヒーロー番組であったことが理解できる。すなわちこの番組は、観る側の倫理を問うているということだ。
と同時にこの番組では、いわゆる等身大ヒーローの限界も表されている。もしもショッカーが本気を出して挑んでくるなら、仮面ライダーもキャシャーン同様、おのれの無力さを痛感して打ちひしがれたことだろう。

といった辺りで『新造人間キャシャーン』の世界の基礎部分をざっと説明してみた。
繰り返しになるが、ここでの「敵」は次々と都市に進軍しては抵抗を排除し、降伏させ、占領するものだ。その行く手の先々では人々が選択を迫られていく。戦うべきか、屈するべきかと。

これはいったい、何を意味する物語なのだろう?

つづく

キャシャーン無用の街

キャシャーン無用の街

強大な敵に対し、抗戦か降伏かを問うヒーロー番組は『新造人間キャシャーン』に限ったものではない。すでに見たところでは『ウルトラマンA』や『マジンガーZ』にも類似したストーリーはあった。
だが『新造人間キャシャーン』においては、その問いかけはいささか執拗ですらあった。

第16話「キャシャーン無用の街」。
破竹の勢いで進撃するアンドロ軍団は、巨大な武器製造工場のあるブッキー市を次の攻略目標に定め、その隣町のハテナイ市を駐屯地にすることを決定した。それを聞いたハテナイ市では緊急会議が開かれたが、ここでは逃げるか戦うかの議論は起こらなかった。
というのもハテナイ市の市長は絶対平和主義者であって、彼の一存でハテナイ市の降伏は最初から決定していたからだ。

「いくさによって、この街が破壊されるのを望みません。同時にまた、戦いによって私たちの尊い命が失われるのを望みません。例え戦っても勝てる相手ではないのです。みなさん、私たちは軍団に服従するしかない。人間としての誇りさえ捨てれば平和が約束される。恥がなんです! 人間の命ほど、大切なものはないのです」

議会は満場一致で市長を支持し、市民にはアンドロ軍団への絶対服従が通達された。
キャシャーンは議員たちに抗戦を訴えるが、迷惑だから出て行けと街を追い出されてしまう。
やがてブライキングボスが直々に率いる本隊がハテナイ市に入ってくると、街頭スピーカーからはこんなアナウンスが流れる。
「アンドロ軍団のみなさま、ようこそこのハテナイ市に。私たちは今日からロボットの皆様の手足となり、何事にも耐え、よろこんで服従を誓います」

市長以下の議員は公邸に集められると、さっそく服従の証しとして四つん這いにさせられ、その上にロボットたちが腰をかけた。人々はロボット工場に集められると、奴隷のようにムチで打たれての強制労働だ。
ブライキングボスは大笑いする。
「わはは、このようにして守るほど、平和とはありがたいものかな」

沈鬱な調子のナレーションが入る。
「人間がこころを捨て、ロボットに服従したとき、人間はもはや人間ではなく、一個の機械となった・・・」

大通りでは犬のように首輪でつながれた人間が、ロボットに散歩させられていた。
しかしキャシャーンが危惧したとおり、人間の忍耐にも限界があった。犬コロ扱いされた男は発狂してロボットに反撃を試み、惨殺された。それをきっかけとして、ついに人々の反乱が始まった。
抗戦を叫ぶ人々が市長の邸宅を包囲して、投石を始めた。

そんな騒ぎを収拾しようと、ブライキングボスは市長に、市内に潜入しているキャシャーンの殺害を命じる。
絶対平和主義者を自認する市長はいったんは銃口を向けたものの、「戦いは好まん」と言ってキャシャーンを逃がす。ところがその様子をブライキングボスに取り入ろうと目論んでいた議員の一人に目撃され、密告されてしまう。

キャシャーンはハテナイ市を諦めてブッキー市に移動しようとしていたが、そこへ瀕死のハテナイ市民が救援を求めてやってくる。キャシャーンが街に戻ってみると、すでに市民は全員虐殺され、廃墟だけが広がっていた。ロボットにリンチを受けて息も絶え絶えになった市長は、街を見渡して言う。
「これが・・・私のつくった平和か・・・」
しかし、市長は最後まで「自分が正しいと思っている」と言いながら死んでいくのだった・・・。


この市長が主張するようなことを、現実の日本でも主張する人々がいることはご存じのとおり(無防備全国ネット)。そしてこの第16話が、そういった主張への回答として創作されているのも見ての通り。

結局のところ、この市長が読み違えたことは一点で、それは相手のブライキングボスが、ハテナイ市の人間を同格の存在とは見ていなかったことに尽きる。
ブライキングボスにとって、人間などは一段劣った存在として最初から差別の対象だった。そんな相手に服従しても、ますます相手を増長させるだけのことだろう。
価値観がまったく異なる相手に、市長の主張は無意味かつ無力だったというわけだ。


あらすじを追うと長くなるので省略するが、第29話「高熱ロボ・ネオタロス」もやはり、戦うか、降伏するかがテーマだ。

キャシャーンが新造人間であることはすでに世間の知るところとなり、人々は彼に複雑な感情を持っていた。だからアンドロ軍団に立ち向かうキャシャーンを見て、勇気ある少年たちがキャシャーンに助力しようとすると、それを制止して市長はいう。
「ロボットはロボットに任せておけ」
ところがそんな市長に少年たちは腹を立てる。
「大人のくせに、いくじなし!」
少年たちに罵倒された大人たちは、「人間の誇りのために」戦うことを決意する。

また、訳あってアンドロ軍団に加担していた科学者メリナ博士は、人間の尊厳のために戦って死んでいく人々や、命を捨ててキャシャーンを守ろうとする少女ルナの姿を見て心を入れ替え、彼女が作ったロボットの弱点をルナに教える。爆発に巻き込まれて瀕死の重傷を負った博士は、「死よりも尊いものがある」と言い残して絶命する・・・。


命を守ることよりも大切なことがある・・・。
これも『新造人間キャシャーン』のテーマの一つだろう。

第22話「ロボット・ハイジャック」。
キャシャーンに救出された人々は口々に「君のおかげだ」というと、脱出用の飛行機に乗り込んでいった。その中に介助を必要とする人がいたため、ルナ(書き忘れていたがキャシャーンの幼なじみの少女)が一緒に搭乗することになった。ところが飛行機はアンドロ軍団のワナにはめられ、途中の飛行場に誘導させられてしまう。飛行機をロボットが取り囲み、乗客を助けたければキャシャーンの隠れ場所を教えろとルナに迫る。キャシャーンがエネルギーを失って休養していることを知るルナは答えられない。すると人々は
「キャシャーンひとりの命より、おれたち乗客の何十人の命の方が大切じゃないか!」
と口々に非難する・・・。


特に説明の必要もないと思うが、こうした「公」と「私」の混同、というか錯誤のようなものは(例えば)1963年の日本映画『海底軍艦』などでも見ることができる。『海底軍艦』では、「国家の大義」という「公」について語る明治生まれの父親と、「わたしの気持ち」という「私」を押し出す戦後生まれの娘の間で、丸っきり会話が成立しない様子が描かれた。1963年の時点で、すでに「私」は「公」と同格になっていたということだ。

そもそもキャシャーンが死んだら人類が征服されることなんぞは子どもでも分かる理屈なわけだが、戦後民主主義では命はすべて等価とされる。そして命はまた至上の価値でもあり、命じたいに尊厳があるともされる。
ならば乗客たちがわめき散らす屁理屈も、戦後民主主義においては正しい発言だということになる(皮肉ですw)。

マジンガーZ』の記事では、”正義のロボット”を制約して、やがては排除してくるものとして「平和憲法」の存在を上げてみたが、ここで同様にキャシャーンの行動を制限・排除してくるものの正体は「戦後民主主義」だといえるだろう。

ある意味では、昭和のヒーロー番組は「平和憲法」「戦後民主主義」という”縛り”から、いかにして自由になるかの格闘でもあったとぼくは思う。
それは『新造人間キャシャーン』が、折に触れてキャシャーンと戦後民主主義を激突させていることで、十分にその証拠たり得るんじゃないだろうか。どう見ても『新造人間キャシャーン』にとって、戦後民主主義は常に「悪役」として描かれているようにぼくには思えるのだが・・・。


さて、一見すると国籍不明(北欧ともいう)の舞台で繰り広げられる『新造人間キャシャーン』は、こうして見ると実に戦後日本的な物語だと感じざるを得ない。なにしろ「平和憲法」同様に「戦後民主主義」も戦後日本にしか存在しない日本独特の思潮だからだ。
となれば『新造人間キャシャーン』におけるロボット軍団vs人間という戦いの物語とは、その表層を取り払ってみれば、結局のところは日本の、それも戦後日本の物語なんじゃないだろうか?

つづく

ブライキングボスの悩み 〜本土決戦の幻

最終回のブライキングボス

念のため書いておくが、『新造人間キャシャーン』の制作上のテーマは「非情な科学」と「人間愛」だった。表現としては、ハードSFとメルヘンという、タツノコプロが得意とする両分野の「融合」が目標とされた。これらは企画書に書いてあることなので疑いようがない。
そして当然のことながら、タツノコのスタッフは原則として、そういった企画意図にそって物語を作っていったことだろう。

ところが実際の作品を観ていくと、そのように意図されたテーマとは別に、テーマ以上の迫真力でぼくらに訴えかけてくるものがある。それが、圧倒的に強大な相手を前にしたとき人間はどうあるべきか、という問いかけだ。尊厳を捨てて屈するべきか、尊厳を守って戦い抜くべきか。『新造人間キャシャーン』が要所要所にそれを問うエピソードを並べてきたことは、これまで見てきた通り。

作品を貫き、たびたび表されるものをテーマだと言うのなら、降伏か抵抗かもまた、『新造人間キャシャーン』の”裏”のテーマだといえるとぼくは思う。
ではそんな、本来意図されていなかった裏テーマの根源はどこにあるのか?
『新造人間キャシャーン』が、我知らず描いてしまった世界とはいったい何だったのか?


アンドロ軍団発祥の地は(どこの国かは分からないが)海に面した断崖絶壁に立つ古城だった。この古城が描かれるときは大抵の場合、嵐が吹きすさんでいたり、あるいは夜だったりで、周囲の状況は非常に分かりにくくなっている。印象としては、とにかくこの国の端っこにある、ということだけが伝わってくる。城の向こうは海、また海だ。

この古城からスタートしたアンドロ軍団の征服進路も、具体的には示されない。占領地はハテナイ市、ブッキー市というような都市名が出てくることもあれば、グリシア、メキシカのように国名をもじったものであることもある。
ただ、これまた印象になるが、その進路はきわめて直線的であるように思える。15話でキャシャーンが言ったように、ハテナイ市の次はブッキー市・・・という感じで、アンドロ軍団は一歩一歩着実に行軍を続けているように思える。
そして最終的には、「全世界」の3分の1までをアンドロ軍団は征服したのだった・・・。

まとめてみると、海に面した「全世界」の隅っこから現れたアンドロ軍団は、おおむね直線的なルートをとって「全世界」の中心らしき方面まで進軍していった。途中にある都市や国ではアンドロ軍団に抵抗するところもあれば、最初から服従を選ぶところもあった。ただし作品全体としては、「人間の尊厳」を守ることは「命」を守ることよりも価値がある、という意味のメッセージが随所に織り込まれた。

そんなアンドロ軍団の団長はブライキングボスというアンドロイドで、こいつは人間をロボットより一段劣るものとして蔑視していた。ネズミロボットをばらまいて食料を奪い、パンが欲しければ土下座して許しを乞えと笑った。服従の証しにロボットの休む椅子になるように命じて、それに座った。ブライキングボスの目標は、すべての人間をロボットの奴隷にすることだった・・・。


さて、ぼちぼちアンドロ軍団とブライキングボスに隠されたイメージの正体も見えてきたところだと思うが、それを決定付けるのはこのエピソードだろう。

第30話「ロボット退治ナンバーワン」。
ロボットをわなに誘い込んでは圧殺し、一躍街の英雄になったレオーヌという男がいた。その数すでに30体! この街には戦略上の価値はないと放置してきたブライキングボスだったが、次第に不安を募らせはじめる。その理由は・・・。

「まずい・・非常にまずいな。人間はロボットに勝てないものと諦めかけているところだ。それがロボットに勝ったとなると、人間どもめ・・・われわれに立ち向かおうと思い始めるかもしれん。思想問題が一番難しい・・・」

そう、征服者ブライキングボスにとっての最大の課題とは、思想問題だったのだ。
人間はロボットに勝てない、と思い込ませること。それが占領の極意だと、このロボットのボスは考えていたわけだ。

この、ちょっと子ども向けアニメにしてはリアル過ぎる表現はどこから来たのだろう?
それを考えるヒントは、『新造人間キャシャーン』を作った人々の世代にあるとぼくは思う。具体的には、「原作」の吉田竜夫が1932(昭和7)年生まれ。「企画」の鳥海尽三が1929(昭和4)年生まれ。「総監督」の笹川ひろしが1936(昭和11)年生まれ・・・。要するに、この人々は終戦を小学校~中学校でむかえた世代に属している。言い換えるなら、彼らは教科書とともにあの戦争を過ごしていたということだ。

ならば彼らは、おぼろげながらも知っていたことだろう。東南アジア諸国に対する白人の植民地支配、それを打ち砕くことを大義名分とした大東亜共栄圏の理念、そして大日本帝国滅亡後のアジア諸国の独立運動を。
ここでは大東亜共栄圏の是非については問わないことにするが、大東亜戦争が「アジア人は白人には勝てない」というプロパガンダ(あるいは思い込み)を消し去ったことだけは事実として認めていいはずだ。

また(もちろん1972年当時ではまだWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の存在は明らかにされてはいないが)、戦後日本に広く流布された「真相はこうだ」等のGHQのプロパガンダを、彼らの世代がそのまんま受け入れていったとは考えにくい面もある。
例えば吉田竜夫と同年生まれの脚本家、辻真先は、

「正義ってのがひとつじゃないことが、五十年前によくわかりましたから、正義正義って偉そうにいうよりも、好きな女のコのために一生懸命になるほうが、よほど上等じゃないかな、という気はするんですよ(笑)」(『懐かしのTVアニメ ベストエピソード99<東映動画編>』二見書房)


という具合に、戦後のGHQの「正義」をややナナメに見ていたことを語っている。
まあ、こういった話は個人差もあるので断定はしにくいが、とにかく少年時代の彼ら世代は、ぼくらとは比較にならないほど「占領」だの「支配」だのをリアルに体験していたことは確かだろう。

となれば、ブライキングボスに見られる「人間差別」のリアルな表現の元もはっきりしている。「被占領」の実体験だ。
『宇宙戦艦ヤマト』の原作者の一人、松本零士(1938年生)は”亡国の悲哀”について、こんなことを話している。

「小倉にいるときは亡国の悲哀というものも味わいました。通りを進駐軍の戦車が轟音(ごうおん)を立てて走っていくのを見るとね、小3~4のガキでしたけど、涙で目の前がかすんでくるんですよ。最も嫌だったのは、米兵にこびを売る日本人を見ることでした」

「キャンデーをまかれようが何をまかれようが、踏みつぶして歩いていました。腹ペコだったけれど、絶対にもらわん、とね。別に米兵が憎いわけではなく、『施しは受けない』と、子供ながらもプライドをもっていたんです」

「僕の作品には『宇宙戦艦ヤマト』など亡国を扱ったものもありますが、実際に亡国の思いを存分に味わったわけですから、描くときに本気で描けるわけです。自分で見て知っていて、心の状況もわかる。体験は重要な参考資料になっています」

(以上、松本零士インタビュー「夢は宇宙へ」ー MSN産経ニュース)


こうした、『(米兵の)施しは受けない』というような強い思いは、この時代の少年たちには少なかれ多かれ存在したのだろう。でなければ、『新造人間キャシャーン』にそれと類似した光景が、わざわざ屈辱的なかたちで表現されることは考えにくい。アンドロ軍団にはありありと、「進駐軍」による「占領」のイメージが残されているとぼくは思う。

ならば、『新造人間キャシャーン』の物語の裏テーマとは、一体全体「何に」ついて「降伏か抗戦か」を問うていたのだろう。それは日本のもう一つの選択肢、すなわち「本土決戦」ではなかっただろうか?

沖縄から上陸してきたアメリカ軍が、鹿児島、福岡、広島、大阪・・・と陸路北上していく。そのとき、それらの街の人々はどうしたのか。一切れのパン欲しさに服従を選んだのか。それとも徹底抗戦を選んだのか・・・。

『新造人間キャシャーン』の裏テーマ、「降伏か抗戦か」は、終戦を多感な少年時代にむかえた人たちが、漠然と共有していた「本土決戦」という架空の物語が根底にあったようにぼくは想像している。であればこそのリアリティであり、統一されたイメージでもあったのだろうと。

繰り返しになるが、1972年当時のタツノコプロがそういった仮定や思想を元に『新造人間キャシャーン』を作ったと言っているのではない。押し寄せる強大なロボット軍団の恐怖、非力な人間とそれを助ける無敵のヒーロー、愛やら勇気やら尊厳やら・・・といった素材を咀嚼していったとき、スタッフに共通するイメージとして具現化してしまったものが「本土決戦」だったのだろうとぼくは思っている。

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ところで、『新造人間キャシャーン』の企画上のテーマが「非情な科学」であったように、1970年代前半は公害を始めとした科学文明全般への批判が高まっていた時代だった(らしい)。それは高じればしぜんに戦後日本への懐疑へと繋がったことだろう。高度経済成長に踊った結果がこれかと。
しかも当時は同時にエネルギー危機が騒がれた時代でもあった。ぼくの家庭でもトイレットペーパーの買いだめは確かにやっていた記憶がある。

科学による地球汚染、その科学を支えるエネルギーの枯渇・・・。終末観ただよう日本社会が呼んだヒット作としては『日本沈没』やら『ノストラダムスの大預言』が上げられる、と物の本には書いてあるが、子ども向けのアニメにも終末を迎えた地球から人類が脱出する物語の企画が立てられた。

言わずとしれた『宇宙戦艦ヤマト』(1974)だ。
人が住めなくなった地球から、人類が脱出する巨大宇宙船のベースとして選ばれたのが旧帝国海軍の戦艦大和。
ところが『新造人間キャシャーン』がそうであったように、表のテーマとは裏腹に、やはり『宇宙戦艦ヤマト』も裏のストーリーを含んでしまっていたのだった。

つづく

ゴジラvsキングギドラ 〜ゴジラザウルス

ゴジラvs新堂靖明

1991年に公開された日本映画に『ゴジラvsキングギドラ』がある。監督・脚本ともに大森一樹。
ぼくは約25年ぶりにオタク趣味を再開したおっさんなので、つい最近まではそんな映画があること自体を知らなかった。DVDも勢いで買ってはみたものの、未開封の状態で放置だった。

ところがいざ、ほんの気まぐれで観てみたところ、これが面白い。ストーリー自体はWikipediaに「タイムパラドックスに矛盾が多く・・・」とあるようにあまり褒められたもんではないが、そこにいるのは紛れもない本物のゴジラ! まさか平成作品に本物のゴジラ(とぼくが思っているもの)がいるとは思っていなかったので、ひとり狂喜乱舞したのだった。

というところで思い出したのが、この『ゴジラvsキングギドラ』をボロクソにけなしている本の存在だった。
それが1992年に出版された『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(佐藤健志)。
この本にはその昔、まだ学生だったぼくは随分と感銘を受けた記憶がある。すでにオタク趣味を離れていたぼくにとって、ゴジラやらヤマトやらについて硬派な議論が展開されているだけで十分に愉快なことだったし、議論自体もあやふやな記憶を辿っては大いに納得させられたもんだった。

例えばゴジラについてだが、佐藤健志氏はシリーズを大まかに3部に分け、そのうちの「初期ゴジラ」には当時の日本人の「ひがみ」意識が反映されているという。

「小国である日本が米ソの冷戦、ないしアメリカの世界戦略に巻き込まれてとんでもない被害を受けるのではないかという、五〇年代の国民感情をストレートに反映していたのだ」


要するに『ゴジラ』第一作ではアメリカの核の被害を日本だけが受け、続く『ゴジラの逆襲』ではそのゴジラと、シベリア出身のアンギラスの戦闘によって大阪市がメチャメチャに破壊された。それへの「ひがみ」が根底にあって大ヒットに結びついたのだと佐藤氏は説明する。

続く「中期ゴジラ」は「甘え」意識の反映だとか。国難に際し、ゴジラ等への怪獣たちに国防を委ねている日本人の姿は、

「自国の安全を守る上でアメリカの軍事力に全面的に依存するという、当時支配的だった『安保ただ乗り』の発想をそのまま反映したものだったのだ」

だそうだ。

では「後期ゴジラ」のなかでも、この本の出版当時には最新作だった『ゴジラvsキングギドラ』を佐藤氏はどう見たか。
佐藤氏はまず、この作品に秘められた「白禍論とでも言うべき徹底した排外的ナショナリズム」の存在を指摘する。あらすじの詳細はこちらでも見ていただきたいが、要約すれば、23世紀に世界最大の超大国になった日本を憎んだ白人グループがタイムマシンで時代を遡って現れて、1992年の日本をキングギドラを使って弱体化させてしまおうするストーリーだ。

そして佐藤氏はこの背景には「諸外国は日本の成功を嫉妬していて、隙があれば日本の足を引っ張ろうとしている」という「ひがみ」と、相変わらずの「甘え」、すなわちキングギドラを倒すのはゴジラにお願い、ゴジラが暴れたらメカギドラ(人間が操るキングギドラ)にお願い・・・という両面があるのだ、と結論づけるわけだ。


おおお、「ひがみ」と「甘え」でゴジラの全てが読み解けるのか!
と感心してしまう人は、いい人だ。

ぼくはあまりいい人ではないので反論させてもらうが、佐藤説の決定的な問題は、『ゴジラvsキングギドラ』の片一方のストーリーしか見ていないことだと思う。佐藤氏が説明しているのは、あくまでキングギドラ側のストーリーだけで、そこにゴジラ側のストーリーがない。それではこの作品を半分しか説明していないことになるだろう。

では『ゴジラvsキングギドラ』における、ゴジラの物語とは何だったか?
それこそがぼくが、ここには本物のゴジラがいる、というか帰ってきたと喜んだものだった。


今回、ゴジラはまず1945年の南太平洋ラゴス島に、太古の昔から生き残ってきたゴジラザウルスなる恐竜として現れた。戦争末期のラゴス島には日本軍の守備隊がいたが、おとなしい性格のゴジラザウルスと彼らは奇妙な共存生活を続けていた。しかしやがてラゴス島にもアメリカ軍が上陸し、激しい戦闘が始まった。するとゴジラサウルスは自分の棲み処を荒らす米軍に腹を立て、それを撃退する。結果的に命を救われた日本軍守備隊に帰還命令が下り、彼らは砲撃で傷つき苦しむゴジラザウルスに涙の敬礼をすると、島を去る。

守備隊隊長だった新堂靖明は、帰国後「戦後日本経済を立て直した男」と言われる大成功を遂げ、帝洋グループ総帥として経済界に君臨する。新堂に言わせれば新宿は「わしの庭」で、そこには巨大な本社ビルがそそり立っていた。
やがていろいろあって、あのゴジラザウルスは怪獣ゴジラに変貌し、北海道に上陸する。23世紀の未来人が放ったキングギドラとゴジラの戦闘が始まると、新堂は「やつはもう一度、われわれのために戦ってくれる」と喜ぶ。

しかしキングギドラを倒したゴジラは「救世主」どころかそのまま破壊の限りを尽くしながら南下、東京へ向かってくる。
「どうせワシの人生はラゴス島で終わってるんだ。恐竜のおかげで生きのびたワシが築いたこの国の繁栄を、同じ恐竜がゴジラに姿を変えて壊しに来たかと思うと・・・皮肉な話だ」

新宿の超高層ビル、帝洋本社にゴジラが迫る。新堂は逃げようとはせず、ゴジラに向かい合う。しばし見つめ合う二人。新堂の目に涙が光り、ゴジラもそうであるように見えたその瞬間、ゴジラの放射能熱線で帝洋本社は吹き飛ばされるのだった・・・。


すでに見てきたように、『ゴジラ(1954)』から『三大怪獣 地球最大の決戦(1964)』までのゴジラは、日本の「戦後」を破壊しに来る存在だった。ゴジラは一貫して日本の「戦後」を憎悪していた。それが1964年までのゴジラの物語だ。

そういう意味では、『ゴジラvsキングギドラ』に登場するゴジラはまさに1964年までのゴジラそのものだろう。ゴジラは新堂に言っている。こんな日本を作るために、お前を助けたわけじゃない、と。そして新堂もそのことを理解した。

この二人のどこに、嫉妬されている「ひがみ」やら、怪獣に治安維持を依存している「甘え」があるのだろう。
素直に見れば、このときのゴジラはまさに、それら「ひがみ」や「甘え」を粉砕するために現れたようにぼくには思える。


佐藤健志氏の『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』に見られる一種の片肺飛行は、もちろんゴジラだけには留まらない。
氏の『宇宙戦艦ヤマト』論も、ぼくにはどうにも半分だけしか説明してしていないような気がしてならない。

長いのでつづく


※20年前の古い本でもあり、この20年のうちにはこの本への様々な賛否両論もあったことだと思います。
が、いかんせん、ぼくはそのほとんど全てを知りませんので好き勝手なことを書いています。悪しからずご了承ください。

ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義

ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義

前回の記事の続き)

佐藤健志氏が、『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(1992年・文藝春秋)のなかで『宇宙戦艦ヤマト』に関して展開している主張とは、要するにプロデューサーである西崎義展が作品に込めたイデオロギーの矛盾と、その危険性についてだ。

「・・・国家の概念を曖昧にすればナショナリズムと博愛的な国際主義は区別がつかなくなるということであり、その上で非現実的な精神主義にもとづいて絶対平和主義をつきつめるならば、結果は最も過激なナショナリズムと区別がつかないものになる・・・」(P.29)


このうちの「矛盾」は主に第一作『宇宙戦艦ヤマト』(1974)に現れ、「危険性」は続編である『さらば宇宙戦艦ヤマト』(1978)に現れていると佐藤氏は述べている。ぼく個人は『さらば宇宙戦艦ヤマト』に「危険性」があるとは思わないので、ここでは「矛盾」の方だけ検討してみたい。


まず佐藤氏が指摘するのは、『宇宙戦艦ヤマト』では「人類=日本人」の図式が、なかば強引に成立させられているという点だ。日本人だけが乗った宇宙船が出発するにも関わらず、彼ら乗組員は地球のためだと言う。これが佐藤氏がいうところの「国家の概念を曖昧にし」だ。ところが実際には、宇宙船は日本ナショナリズムの象徴とも言うべき戦艦大和そのものだったので、当然のことながら、これでは「地球のため」という博愛的な国際主義とは矛盾してしまう。

それを粉飾するために『宇宙戦艦ヤマト』でとられた措置が、敵方のガミラス帝国をナチスドイツになぞらえることだった。戦艦大和をナチスドイツと戦わせた「日本が勝つように書き直された第二次大戦の物語」であり、「日本の立場を枢軸国側から連合国側に移した第二次大戦の物語」が『宇宙戦艦ヤマト』であったと佐藤氏は言う。

とはいえ、どのように粉飾しようとヤマトが敵を武力でもって叩く以上「博愛と非暴力のジレンマ」は隠しきれるものではなく、第一作の『宇宙戦艦ヤマト』は矛盾と混乱を抱えたまま終幕してしまう・・・。


細かい話はあとに回すとして、ぼくがこの佐藤氏の説を片肺飛行だと思うのは、ここで語られていることが、もっぱらガミラス帝国vs宇宙戦艦ヤマトのあいだに起こる戦闘に限られている点だ。
言うまでもなく『宇宙戦艦ヤマト』のストーリーの根幹は、イスカンダルまで放射能除去装置をもらいにいくヤマトの航海のほうであって、ガミラスとの戦闘はそれを彩り盛り上げるためのサブストーリーだ。サブストーリーだけを見て『ヤマト』を論じても、それは『ヤマト』の全体像を見たことにはならないだろう。

たとえば、2002年の「宇宙戦艦ヤマト事件判決」は十分に客観的な資料たり得ると思うが、そこから『宇宙戦艦ヤマト』が誕生するまでのプロセスを追っていくと、こうなる。

まず昭和49年3月ごろに西崎義展プロデューサーが「巨大な戦艦が宇宙を飛ぶ」という発想を中心に構想を練る。

「ハイラインの著作『地球脱出-メトセラの子ら』における、『地球の危機的状況から脱出して宇宙に移住の地を求める』話(SF版ノアの箱舟)に刺激された」

ともある。

続いて、西崎に依頼されたSF作家の豊田有恒が『アステロイド・シップ』という原案を作り、それをさらに西崎が修正していくことになるが、この過程で敵役が「コンピュータ」から「ラジェンドラ星人」に、「アステロイド・シップ」が「戦艦大和」に変更される。

そしていよいよ、西崎の「各話別基本設定書」に基づいてシリーズ全体がシナリオ化されていくわけだが、ここには見逃せないポイントがいくつかある。

「(キ) シナリオの作成
 被告(※西崎)は,シリーズ全体のシナリオ作成に当たり,脚本家,SF作家等との間でブレーンストーミングを行い,「銀河系の中心に行くのではなく,銀河系の外に旅立つ,壮大な話にしたい」「相手方のラジェンドラ(イスカンダル)は二重連星とする」「異星人側もヒューマノイドタイプとする」「敵,大敵は,ナチスドイツを想定し,かつ,第二次世界大戦の連合軍ヨーロッパ侵攻作戦を下敷きに考える」「戦略,戦闘に太平洋戦争,ミッドウェイ,レイテ等の海戦の戦略を参考にする」など具体的な指示を出して,シナリオ作成作業を進めた」


という具合に判決文を読む限り、『宇宙戦艦ヤマト』における戦闘とは、あとからコロコロ設定が変更された副次的な存在に過ぎなかったらしい。なにしろ当初のプランでは敵は宇宙人ではなくて、コンピュータだったほどだ。
あくまで『ヤマト』のベースは「地球脱出」であり、宇宙人はそれを妨害してドラマを盛り上げる脇役だった。

また判決文では、「大敵=ナチスドイツ」であると同時に、ヤマトの旅が「太平洋戦争」であることが明示されている。
確かにガミラス帝国がナチスドイツをモデルに練り上げられていったことには疑いがないが、その一方で、ヤマトの航海自体も史実の戦艦大和のそれと同一視されていたというわけだ。


ヤマトに与えられたストーリーはガミラス帝国と戦うことではない。
だとすれば、『宇宙戦艦ヤマト』を「日本の立場を枢軸国側から連合国側に移した第二次大戦の物語」だと見る佐藤説は、いくらなんでも我田引水のこじつけに過ぎるようにぼくには思える。

ぼくの見るところ、佐藤氏のこの本は、戦後日本を客観的にみたときの社会構造にゴジラやヤマトやウルトラマン等をやや無理矢理に当てはめていっただけのものだ。たとえば『ヤマト』に見られる矛盾と佐藤氏が指摘するものは、平和憲法と自衛隊を共存させている日本の矛盾とほぼ同じものだし、『ウルトラマン』や『ゴジラ』に見られるという依存心は、日米安保への依存という単純な現実だ。

しかし、それらが日本社会の構造と同一だから日本人の心情と一致して大ヒットに結びついた、という展開にはどうにも納得がいかない。そういった矛盾や依存は敗戦によってやむを得ず受け入れたものであって、日本人が深層心理ではそれらから目を背けて来たことは内田樹氏の指摘に詳しい(「9条どうでしょう」)。

ならばゴジラがたびたび現れては(矛盾や依存に満ちた)戦後日本を破壊して回ったように、むしろ実際は佐藤氏の説とは正反対に、ゴジラやヤマトやウルトラマン等が戦後日本の構造から逸脱するからこそ人々は痛快になり、盛大な拍手を贈ったのではないだろうか。つまりは内なるルサンチマンの発露というやつだ(言わばヤマトは「戦後」を脱出する船だ)。

となれば『ヤマト』のストーリーの本質は、佐藤氏がはなっから無視した戦艦大和のストーリーの方に存在していることになる。


そしてここで久々の告白タイムとなるが、ぼくは学生時代にこの本を読み、映像を確認することなく佐藤氏の説に賛同してしまった一人だった(大学生にもなってアニメのVHSをレンタルするのが恥ずかしかった時代だ)。
聞けばぼくの友人にも同じ体験をしたヤツがいるので、ぼくらの世代には案外多いケースなのかもしれない。

しかしどうだろう? 
旧日本軍が連合国に入れてもらってドイツ軍を破るなんて、これじゃ丸っきり戦前否定の自虐史観じゃないか。もうすっかり反省したので連合軍に入れてくださーい。その代わりに単独でベルリンまで攻め込んでみせまーす、てか?
ほんとか?
本当に日本人はそんなことを望んできたのか?

つづく

宇宙戦艦ヤマトと忠臣蔵

スターシァ

江戸の頃から民衆の間で絶大な人気を誇る作品に『仮名手本忠臣蔵』がある。

本作は上演すれば必ず大入り満員御礼となる演目として有名で、かつては不況だったり劇場が経営難に陥ったりしたときの特効薬として「芝居の独参湯」と呼ばれることもあったほど(Wikipedia - 仮名手本忠臣蔵)。


ストーリーはわざわざ書くまでもないと思うが、要は主君の仇討ちの話だ。
主君は塩冶高貞で、実在した赤穂藩主・浅野内匠頭がモデル。仇討ちのリーダーは大星由良之助という架空の人で、赤穂藩家老・大石内蔵助がモデル。殺され役は高師直。塩冶高貞と同じく実在の人物から名前だけ借りた人で、モデルは吉良上野介。ストーリーの元ネタは『太平記』から持ってきたそうな。

もちろん、当時の観衆はこれが実際にあった「赤穂事件」を描いていることは百も承知。しかし「赤穂事件」そのままだと幕府批判が露骨すぎるので、時代を南北朝時代にして、登場人物も鎌倉末期の人に入れ替えているということらしい。「赤穂事件」を知らない人には「太平記」にしか見えないが、その実、本当に描かれているものは別のものというわけ。

それほどまでに幕府の監視が厳しかったということなんだろうが、とにかく江戸時代から今に至るまで、日本の庶民に一番人気のあるドラマがこのような二重構造を持っていたこと。ぼくは、この点に非常な興味を感じる。ハッキリとは口に出しにくいことでも『仮名手本忠臣蔵』の手法を使えば、暗黙の了解のうちに真意を伝えられる。それも『忠臣蔵』になじんだ日本人であれば誰しもが理解できる・・・。

結論から言ってしまえば、ぼくは『宇宙戦艦ヤマト』がそういった『忠臣蔵』パターンだったのではないか、と考えている。『宇宙戦艦ヤマト』は、あることをぼくらに伝えようとしたが、そのままの表現では色々と障害もあるので、『忠臣蔵』でいえば『太平記』にあたる”皮”のようなものが被せてある。ただし、ストーリーそのものの元ネタがあるわけじゃないので、その”皮”は登場人物たちの言動によって取り払われた・・・。そんな見方も面白いんじゃないかと思う。


と、いい気になって書いてみたが、もしかしたら『宇宙戦艦ヤマト』を一度もみたことがない人も読むかも知れないので、とりあえず冒頭部分のあらすじを書いてみる。

西暦2199年。大マゼラン星雲にあるガミラス星は、すでに星自体の寿命を迎えていた。そこに住むガミラス人は移住先を宇宙中に探した結果、地球に目を付けた。ガミラス人は冥王星に前線基地を作ると遊星爆弾による地球への無差別攻撃を続けた。その結果、地球の海は干上がり、生物が生きられる条件は消え失せた。また遊星爆弾の放射能が充満し、人間は地下都市でかろうじて生き延びている状態に追い込まれた。地球防衛軍は幾度となくガミラス艦隊に戦いを挑むが、その戦力差は圧倒的で、もはや全滅寸前だった。

そんなあるとき、イスカンダル星のスターシャから通信カプセルが届けられる。スターシャは放射能除去装置(コスモクリーナーD)を提供するからイスカンダルまでとりに来い、と伝え、光速を超えられる「波動エンジン」の設計図を添えてくれていた。

地球が完全に放射能で汚染されつくされるまであと1年。人類に選択肢はなかった。ちょうど地球脱出用に改造中だった旧帝国海軍の沈没船、戦艦大和は「波動エンジン」を搭載されると、14万8千光年のかなたイスカンダル星に放射能除去装置をもらうために旅立っていくのだった・・・。


整理すると、ガミラス帝国は地球に移住したいので、地球人を滅ぼしつつ、地球を彼らの好む放射能で充満させようと思っている。一方、地球人は、その放射能を除去するメカをもらいにイスカンダルまで出かけようとする。
なお、その間に進行する地球の危機はどうするんだ? については、たまたまイスカンダルへのルート上に冥王星があるので、途中で叩いていくことになっていたようだ(これは見事に成功する)。

最も肝心な点は、ヤマトの目的がガミラス帝国と戦うことではないことだ。ヤマトはあくまで放射能除去装置(コスモクリーナーD)をもらうためにイスカンダルへ行こうとする。だが、当然のことながらヤマトのその行為はガミラスの利益に反するので、行く先々でヤマトvsガミラスの戦闘が起こる。
つまり、ヤマトには積極的にガミラスと戦う意思はないのに、いつもガミラスがちょっかいを出してくるので、やむを得ず反撃している・・・これが『宇宙戦艦ヤマト』の建前だ。

建前・・・すなわち、第一の「皮」だ。

つづく

宇宙戦艦ヤマト ~戦死者への鎮魂歌

日本の男の船

宇宙戦艦ヤマト』に被せられた”皮”のその2は、ヤマトが誰のための船なのかという点だろう。”皮”はもちろん「地球の全人類のために」という名目になる。

実際のところ、当時のスタッフには戦艦大和を持ち出すことへの微妙な抵抗感が、いつも心のどこかにはあったようだ。
原作者の一人である松本零士は『宇宙戦艦ヤマト伝説』(1999年・フットワーク出版社)という本のインタビューの中で、こんな話をしている。

それから、作品として自信がある無しじゃなくて、『ヤマト』を娯楽として漫画でお茶の間に送り込むということに、当時は重圧感を感じていたんです。肩の荷が重かった。戦艦「ヤマト」は3000人近くの戦死者を抱いて沈んだ船なんです。遺族もいるしその子供たちもいる。それで対極にスターシャを置いて、ヤマトは生存のために宇宙をおし渡る、大航海物語にしたんです


また、同じインタビューの中では、第2話のヤマト発進に際して「軍艦マーチ」が使われそうになった事に対して、現場の若いスタッフから「この映画には協力できません」という声が上がったというエピソードが語られている。放送局サイドからも「ここで軍艦マーチが流れるのなら、この番組はおしまいだ」とまで言われたそうな。

つまりは作り手は一様に、この「ヤマト」があの「大和」であることを強く自覚していた。
中でも松本零士は特にその傾向が強かったようで、氏が手がけた初期のコンテのなかには、「大和の外板を外すと中から戦死者の遺骨がたくさん出てくるシーンを描いておいた」そうだ。
そうすることで、氏にとっての『宇宙戦艦ヤマト』は「戦死者への鎮魂歌」となる、はずだった・・・・。


・・・はずだった、というのは、完成した映像からは「遺骨」のシーンが全部カットされたからだが、松本零士が「地球」やら「人類」やらを念頭に置いて『ヤマト』に関わったわけではないことは明らかだろう。戦艦大和とともに海に没した人々は日本人だけだし、『ヤマト』において鎮魂されるべき人も日本人だけだ。

などと書くと、またぞろ「あの愚かな戦争の犠牲になった全ての日本人・・・」やら「繰り返しません過ちは・・・」やらが脳裏をよぎってしまうのが戦後生まれの悪いクセだが、原爆や東京大空襲で殺された人や南方戦線で亡くなった人の魂までは、いくら『ヤマト』でも慰めることは出来ないだろう。

それに、そもそも「鎮魂」という言葉にはもっと強い意味があるように、ぼくには感じられる。戦艦大和と運命を共にしてしまった3000余人の人々が「まだ浮かばれていない、成仏していない」と思うからこそ、松本零士はその言葉を(意識してか無意識にかは分からないが)使ってきたんじゃないだろうか。

ならば、『ヤマト』の物語は「平和への願い」と言うような漠然としたものではないはずだ。なぜなら戦後日本は建前上は戦争を放棄したことになっており、見かけ上はずっと「平和」を維持してきた国だとされるからだ。戦艦大和の願いが「戦争をしない」というものであるのなら、彼らの願いはすでに成就されているんだから、今さら「鎮魂」される必要はどこにもない。
それでも人が戦艦大和を「鎮魂」したいというなら、それは戦艦大和の最期に「無念」を感じるからだろう。


ではそんな戦艦大和の最期は、劇中でどのように語られたものなのか。
それは第2話「号砲一発!!ヤマト始動!!
ここでは史実の戦艦大和の最期が、感情を交えないごく淡々とした言葉で説明されている。
が、その導入部にちょっと印象的なシーンが挟まれている。

霧深い洋上で小舟に揺られる漁師の親子の前を、山のように巨大な黒い影が通り過ぎていく。
父「大和だ・・・」
子「やまと?」
父「そうだ、よーく見ておけよ。あれが戦艦大和だ。日本の男の船だ。忘れないように、よーく見ておけ」

この短いやりとりに続いて史実の戦艦大和の最期が描かれていくわけだが、直前の会話の最後に「忘れないように、よーく見ておけ」と言われれば、視聴者の目は自然とその後の展開に釘付けにされてしまうだろう。おそらく、そのために用意されたのが、この親子の会話であったとぼくは思う(画調までがそれまでとは異なる)。

そしてこの親子で視聴者の注意を引きつけておいて、いよいよ戦艦大和の最期が語られていく。

「西暦1945年、押し寄せる300を超えるアメリカ艦隊に戦いを挑むべく、戦艦大和は護衛艦10隻を従え、日本海軍最後の艦隊として出撃していったのである。もはや一機の援護機の姿もなく、片道分の燃料だけを積んでの出撃は、まさに二度と帰らぬ覚悟をした決死の出撃であった」

といったナレーションに始まり、映像では、大和が孤軍奮闘するも敵の艦載機の集中攻撃を受けて、大火災の末に海底に沈没していくまでの様子が静かに描かれていく。
で、ここまでが「忘れないように、よく見ておけ」に含まれているとぼくは見る。


さて、それではここから『ヤマト』で「鎮魂」されねばならない戦艦大和の「無念」を上げるとしたら、次の二点になるだろう。
一つは、大和は「アメリカ艦隊に戦いを挑む」ために出撃したのに、目的を果たすことなく艦載機の空襲を受けて沈没してしまったこと。
もう一つが、大和が「二度と帰らぬ覚悟」を強いられ、実際に帰ってこなかったことだ(細かい事実誤認は気にしないものとする)。
『宇宙戦艦ヤマト』は、これら戦艦大和の「無念」をはらし、「鎮魂」せねばならない。

そうだとすれば、『ヤマト』における「鎮魂」は、現実の逆を以て行われなければならないだろう。
すなわち、戦艦大和に敵の大艦隊と雌雄を決するような大海戦をさせてあげること。
そしてその戦闘に勝利して、戦艦大和が無事に日本に帰ってくることだ。

つづく


※蛇足となりますが、上記に引用させていただいた『宇宙戦艦ヤマト伝説』という本は、表紙にわざわざ「原作●松本零士」とあるように一部に不公平な記述が見受けられます。『ヤマト』通の方なら問題ありません(むしろ楽しめます)が、『ヤマト』の入門書としては不適格だと思われますのでご注意ください。

(補足)ヤマトは誰のための船か?

きのこ雲

宇宙戦艦ヤマトが日本のための船であり、沖田艦長や古代進の言う「地球のため」「人類のため」が『ヤマト』に被せられた”皮”でしかないことは、他の部分からも察することができる。

やはり第2話「号砲一発!! 宇宙戦艦ヤマト始動!!」。
地球移住を狙うガミラス帝国は、冥王星前線基地から地球に向けて継続的に「遊星爆弾」なる兵器を撃ち込み、その攻撃の影響で地球の海は干上がり、地表は放射能が充満していた。地表に住めなくなった人類は地下生活を余儀なくされていたが、次第にその地中へも放射能は浸透を始め、人類はいよいよ絶滅の危機を迎えていたのだった。

というようなナレーションに続き、地球防衛軍の日本基地内の様子が映し出される。

ニューヨーク交信不能、エネルギーが尽きた模様。パリ、正午より沈黙。ケニア、パニック状態に陥っています。モスクワ、さよならを打ち続けています。北京、リオデジャネイロ、出力低下、電波キャッチ不能・・・

・・・交信不能。

これが、ヤマトがイスカンダルに向けて出発する以前の世界の状況だった。
ヤマトのクルーにしてみれば、もはや日本以外の国々の状態は、人間の生死を含めて全くの不明であり、彼らが言う「人類」は、ヒトという種以外のものを指しようがなかった。また、同じように「地球」というのも、彼らが唯一把握できている日本に住むヒトの生活の場としての意味しか持ちようがなかった。

要するに「地球」だ「人類」だと騒いだところで、その内容を具体的に吟味してみれば、そこには日本人の姿しか見えてこない。ここに、前回触れたような制作者サイドの思いを掛け合わせてみれば、ヤマトが日本人を救済しようとする日本人のための船であることは明白すぎると言えるだろう。
『ヤマト』は極めて民族主義的な物語であり、本音のところでは制作サイドもそれを否定してはいなかった、ということだ。


なお、次の第3話(「ヤマト発進!! 29万6千光年への挑戦!!」)では、沖田艦長が「ヤマト発進のために全世界から寄付が集まっている」と古代らクルーに話すシーンもあるが、これは今まさにヤマトが出航のためのエネルギーを充填している最中のセリフであり、今さら取って付けた感が否めないと思う。出発直前に現金をもらっても使いようがないし、第一そのことをどうやって通信してきたかも分からない。
これまたちょっと考えれば無意味かつ不可能な行為であり、結局は『ヤマト』を過度にナショナリスティックに見せないための飾り、”皮”の一部といった評価が正当であるような気がする。


ちなみに、というか、これはぼくの勝手な見方だが、『ヤマト』に限らず子ども番組一般を検討する際には、まず第一に作品で使われる「地球」とか「人類」とか言ったアバウトな表現を、全面的に取り去ってみることが求められると思っている。
これらは大抵の場合、ナショナリスティックな表現を許されない戦後日本が置かれた立場から作品を保護するために、便宜的な方便として使われていたものだろう。
簡単にいえば、サヨク的な批判に巻き込まれないための言い訳だ。

実際、ぼくの見るところではウルトラマンは「地球」やら「人類」を守るために現れたわけじゃないし、マジンガーZはずっと日本の領海内だけで戦っていた。ジャイアントロボは日本だけが保有すればいい、というのも、建前はともかく本音では「地球」も「人類」もまず日本があってのことだという心理が働いてのことだろう。

むろん、なかなかストーレートには愛国的な表現が許されなかった時代のことでもあり、少なくともその是非を問われるようなことじゃない。むしろ、作品を観ていくとき、その作品がどうやって民族主義を隠蔽しているかを探すのも、「通」な見方なんじゃないかと思う。


話がそれたが、実は上述した第2話には、『ヤマト』を観る上での重要なヒントが隠されているとぼくは考えている。
沖田艦長や古代らは「人類」「地球」と言うが、その実、彼らは日本以外の状況を全く把握していなかった。つまり、彼らが頭の中でイメージしているものと実際の現実世界は、同じものではない。

これを拡大したことが、『宇宙戦艦ヤマト』では全編を通して展開された。
『ヤマト』のなかで、ぼくら視聴者が観ていたものと、古代らクルーたちが見ていたものは、実は同じものではなかった。

つづく

宇宙戦艦ヤマト ガミラスはナチスドイツか?

イスカンダルとガミラス

宇宙戦艦ヤマト』の第3の”皮”が、「ガミラス帝国=ドイツ第3帝国」というものだろう。

もちろん、ガミラスがナチスドイツを想定していたことは「基本設定書」に書いてあることで、疑う余地はない。よく指摘される点としては、ガミラスがデスラーを総統に戴く独裁制の国家であることや、ドメル将軍(ロンメル)や副官ゲール(ゲーリング)といった実在の人物の名前をもじった人名などがある。
だからぼくなんぞは、初めてナチスの映像をみたとき逆に「ガミラスみてーだな」と思ったりしたもんだった。

ところが、あらためて『宇宙戦艦ヤマト』を通して観てみると、ひとつ不思議な違和感があることに気付く。
それは、沖田や古代を始めとしたヤマトクルー、そして地球に残された人々には、ガミラスがナチスドイツには見えていないんじゃないか、という点だ。

ストーリーを順に追っていくと、こんな感じになる。

まずヤマト出航以前に、彼らがガミラスについて知っていたことはほとんど皆無だった。分かっていた事と言えば、それが地球の科学力を遙かに凌駕するテクノロジーと、圧倒的な差を誇る物量を持っていて、とんでもない数の大艦隊で向かってくる敵であること。また、それは遊星爆弾というキノコ雲を吹き上げて放射能をまき散らす兵器をボコボコ落としてきて、無差別に大量虐殺をする連中であること。それくらいだった。

そしてヤマトの航海が始まり、第6話「氷原に眠る宇宙駆逐艦ゆきかぜ!」。
この回、はじめて古代進がガミラス人と接触するが、ヒト型ではあるが言葉は通じないという点以上の情報を得ることはなかった。

第11話「決断!!ガミラス絶対防衛線突入!!」。
ガミラスの冥王星前線基地を破り、太陽系から飛び出してきたヤマトを封じるべく、デスラー総統は”デスラー機雷”なる兵器でヤマトの破壊を狙ってくる。しかしヤマトは自力でこの危機を切り抜け、それを知ったデスラーはヤマトに対して
「ヤマト諸君の健闘を称える。今後の対決が楽しみだ。ガミラス総統デスラー」
と祝電を送ってくる。
ヤマトクルーはこのとき初めて、ガミラスのトップがデスラーという名であることを知った。

第13話「急げヤマト!! 地球は病んでいる!!」。
パトロール中の古代らがガミラスの戦闘機と交戦し、うち一機を拿捕した。
「ガミラスの資料は何一つ分かってないんだぜ」と古代。
捕虜となったガミラス人を検査した結果、皮膚の色が青い点を除けば「ほとんど我々と変わらない」ことが判明する。

第21話「ドメル艦隊!! 決死の挑戦状」。
いよいよ片道の中間地点を突破したヤマト艦内では、バラン星で得た資料を元に、「どこからどうやって来るかもわからない」ガミラスについての分析が始まっていた。このときクルーの真田志郎は、ガミラスが「地球の汚染度の変化を本国に報告していた形跡がある」ことから「ガミラスは地球への移住を考えていたんじゃないか」と推察する。

第23話「逐に来た!! マゼラン星雲波高し!!」。
いよいよ目的地イスカンダルまで0.8光年の地点にまで辿り着いたヤマト。艦内のスクリーンでは、初めて二重惑星、双子星であるイスカンダルの姿が確認された。ところが安堵する間もなく、そのイスカンダル方面から60発におよぶミサイルが接近していることが発覚。古代は、航海の間中、心の奥底に押し込めていた疑問を口にしてしまう。
「イスカンダルもまた、我々の敵だった・・・?」
しかしミサイルがガミラスの物だと分かると、今度は
「我々はイスカンダルではなく、ガミラスに来てしまったのではないか・・・?」
揺れ動く古代の男心だったが、その後スターシャからの通信が入り、イスカンダルとガミラスが二重惑星であるという真実がヤマトクルーに伝えられる。

第24話「死闘!! 神よガミラスのために泣け!!」。
超磁力でガミラス星に引き込まれたヤマトは、天井都市からの爆雷と濃硫酸の海に挟まれて悪戦苦闘していた。絶体絶命のヤマトは、濃硫酸の海に潜って地下火山脈を波動砲で撃ち抜く。この攻撃に誘発されて、ガミラス星の火山が次々に噴火。ヤマトは天井都市に猛攻をかけて、やがて戦闘は終わっていた。ガミラスの全滅だった(ように見えた)。妨害者のいなくなったヤマトは、イスカンダルに向かうのだった。


以上、長々とエピソードをあげてみたが、つまりはぼくらが第3話の冒頭から知っているガミラスとイスカンダルが二重惑星という事実も、ガミラスがナチスドイツのような独裁国家であることも、ガミラス人の生活や文化にいたるまで、ついにヤマトクルーは知らないままガミラスを滅ぼしてしまった。女性や子どもは一人も見ていないし、数人の兵士とドメル以外は(デスラーを含めて)顔も知らない。むろん、地球に残った人々は結局最後まで、ガミラス人をナマで見ることはなかった。

では反対に、ヤマトクルーならびに地球の人々がガミラスについて知っていたこととは何か。

一つはガミラスは、高度な文明と、大量の物資と、強大な軍事力を持っているということ。
一つはガミラスは、核兵器を思わせる爆弾による無差別攻撃をしてくること。
一つはガミラスは、我々と同じ人間ではあるが、肌の色が違うこと。

そしてここで思い出したいのが、ガミラスをナチスドイツに想定して書かれた「基本設定書」の存在だ。
そこにはこうも記してあったはず。
「戦略,戦闘に太平洋戦争,ミッドウェイ,レイテ等の海戦の戦略を参考にする」
つまり「ヤマト」の旅は「大和」の旅でもあった。


ぼくら視聴者にはガミラスはドイツに見えていた。だからヤマトの旅は、佐藤健志氏の名著『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』にあるように、「日本の立場を枢軸国側から連合国側に移した第二次大戦の物語」であるように見えた。

しかし、劇中の登場人物たちにはそうは見えていなかった。
それは彼らには、「よみがえったヤマトが核兵器の脅威を打ち破り、艦隊決戦の末に『アメリカ』本土に核以上の兵器をぶち込む」、そういう物語として見えていたのだ。
と、ぼくは思う。

もちろんそんな危険な発想は、願望することさえがタブーだろう。
その危なさたるや、江戸幕府のお膝元で幕府批判の浄瑠璃や歌舞伎を上演するに匹敵する。バレたらどんな目に合わされか、想像しただけで恐ろしい(ヘリコプターから突き落とされるかもしれない)。

そこで登場してくるのが『仮名手本忠臣蔵』以来の、江戸庶民伝統の手法だ。
敵をあからさまにナチスドイツのパロディーにしてしまえば、その裏に潜む暗喩に気がつくのは日本人だけだ。何しろ『ヤマト』をぼんやり眺める限り、そこに具体的に「アメリカ」を指し示しているものは何もない。
そんな状態で、仮にアメリカ大使館が、なーんか怪しいなーと思ったところで、ケチのつけようがないだろう。


などと書くと、まるで西崎義展や松本零士が極度の反米思想を持っていたとぼくが主張していると思われるかも知れないが、そういう意味は全くない。おそらく、むしろあの人たちはアメリカが大好きでならなかったのだとぼくは思う。つまり、ガミラスを「アメリカ」のメタファーだというだけでは、それもまた片肺飛行だということだ。
なぜならヤマトの旅はあくまでもイスカンダルを目指すものであって、ガミラスを滅ぼしたのはやつらがヤマトのイスカンダル行きを邪魔したから以外の理由は何もないからだ。

つづく

『宇宙戦艦ヤマト』と自虐史観 〜ガミラスとラジェンドラ

デスラー発狂?

ところで、このブログのテーマは「ヒーロー番組と自虐史観」ということになっている。要は、ぼくらオッサン世代が幼少時に観たヒーロー番組には、自虐史観洗脳装置の役割を果たしてしまったものがあるんじゃないか? というのが出発点だ。

では『宇宙戦艦ヤマト』にもそれがあるのかと言えば、作品そのものには存在しないとぼくは思う。
しかし、自虐的な「解釈」は存在する。
そのきっかけとなるものが、第24話「死闘!! 神よガミラスのために泣け!!」で展開された、古代進と森雪のやりとりだ。

この回、イスカンダルを目前にしたヤマトは、その道程を阻もうとするガミラス軍の作戦によって、ガミラス本星へと誘導されてしまう。天井都市からの爆雷を受けたヤマトは海中に活路を見出そうとするが、濃硫酸の海はヤマトの艦体を溶解させていく。艦長代理の古代進は、やむをえず波動砲を使ってガミラスの火山活動を活発化させると、なおも攻撃を続けてくるガミラスのミサイルを迎撃、撃ち落とされたミサイルがさらに火山に刺激を与える形となって、気がつけば強大なガミラス帝国は滅亡していた。

廃墟と化したガミラス帝国を前にして、森雪は「私たちは何と言うことをしてしまったの」と嘆き、これに応える形で古代も言う。
「我々がしなければならなかったのは戦うことじゃない。愛し合うことだった。勝利か・・・糞でも食らえ!」


ここに『宇宙戦艦ヤマト』が持つ真のテーマがある、と見る人は結構多いようだ。テーマとはつまり、”平和主義”というやつだ。例えばぼくが読んだ本では、井上静という人が『アニメジェネレーション』(2004年・社会批評社)という本の中で『ヤマト』には「絶対平和主義的な主張が強烈に存在している」と高く評価している。

井上氏によれば、ヤマトが戦っているのは「内なる敵」、すなわち日本の過去である大日本帝国だそうだ。ヤマトはかつての同盟国・ナチスドイツの暗喩であるガミラスを倒すことで、自らの忌まわしき過去を否定し、叩きつぶし、「愛」と「平和」を叫んだのだ、というが氏の主張のようだ。

もちろん、ぼくに言わせれば、これぞ『ヤマト』への自虐的な解釈の代表格だ。
こういった解釈への反論はあちこちで読めるので一点だけ言わせてもらうなら、もしも『ヤマト』のテーマがそこにあったのなら、むしろ古代たちは(何らかの展開によって)ヤマトを敵に回して戦うべきであって、ヤマトを使って敵を倒してしまっては元の木阿弥というものだと思う。

要は、『ヤマト』のテーマはそんなところにはない。
テーマというのは繰り返し繰り返し形を変えて表されるもので、数分間のセリフの応酬だけで語られるものじゃない。
と、ぼくは思う。

では『ヤマト』において一貫して表現され、クライマックスにおいてようやく言葉にされたものは何だったか?

そもそも『ヤマト』の物語は、絶望の淵にあった地球人のもとにイスカンダルから救援の申し出があったことから動き出した。しかもイスカンダルのスターシャは、地球が復興するために必要な最先端技術を、イスカンダルまで自力で受け取りに来い、という。地球人は藁にもすがる思いでその言葉を信じると、かつて経験したことのない前人未踏の未知の航海に踏み出していった。

『ヤマト』の演出でぼくが素晴らしいと思うのが、宇宙空間を進んでいくヤマトの映像にBGMをかけず、ただエンジン音だけが静かに響いているシーンだ。ここには、この船のおかれた不安感や孤独感が見事に表現されていると思う。それでもヤマトはひたすらイスカンダルへ向かう。全ては地球の復興の使命のために。

そしてついに目指すイスカンダルへ到着したヤマトクルーに、スターシャは言う。
「明日の幸せというものは自分の力でしか獲得できないもの」だと。


特定のイデオロギーを交えなければ、このスターシャの言葉こそが『ヤマト』のテーマだとぼくには思える。
もしもスターシャが最初から地球に「放射能除去装置」を届けてしまったら『ヤマト』の物語は存在さえしなかった。しかしスターシャはそうはせず、地球人の明日を信じる勇気と、困難を克服する力をテストした。そしてヤマトのクルーたちは十分にスターシャの期待に応え、「自分の力」でイスカンダルに辿り着いた。

これが『宇宙戦艦ヤマト』の物語の中軸であり、ガミラスとの戦闘などは、言ってみれば人間の「勇気」と「力」を試すための設問に過ぎず、ストーリーを彩る装飾のようなもんだろう。
現に西崎プロデューサーの「企画書」を見ても、ヤマトの敵役は変更に次ぐ変更の末にガミラスに決まったことが明記されており、一方で『西遊記』をベースにした宇宙の旅の物語であることは比較的早くから決定していることも分かる。

一番最後に決定したことからテーマを読み取るというのは、やはり無理があるようにぼくは思う。


ただ「企画書」からは別の点で興味深いこともわかる。
それは、まだ「ガミラス」が「ラジェンドラ」と呼ばれていた段階で、すでにラジェンドラとイスカンダルが「二重連星」であることが決まっていたことだ。
二重連星、双子星・・・。

高度な宇宙航海技術をもつラジェンドラにとっては、イスカンダルとの距離が地球と火星ほどに離れていても、何ら障害はなかっただろう。にも関わらず『宇宙戦艦ヤマト』では、ガミラス=イスカンダルの等式が、物語のコア部分の一つとして明確に設定されていた。イスカンダルに向かうことは、ガミラスに向かうことでもあった。

そしてぼくの珍説によれば、ガミラスとはアメリカ合衆国のメタファーだった。
ならばイスカンダルが表すものも一つしかない。

イスカンダルもまた、アメリカのメタファーだ。

つづく


参考資料:宇宙戦艦ヤマト事件判決

宇宙戦艦ヤマト イスカンダル=ガミラス

なにもかもが懐かしい

宇宙戦艦ヤマト』(1974)の物語とは要するに、荒廃した祖国を復興させるために、より文明の発達した星に行って最新の技術を援助してもらう話だと言える。ヤマトのクルーはイスカンダルからの使者サーシャを「地球の恩人」だというし、イスカンダルについては「科学が到達した一つの理想郷」だとも言う。べた褒めだ。

ところが宇宙を見渡してみると、実はこの「理想郷」とほぼ同等の科学力をもつ星がもうひとつ存在していた。それがイスカンダルとは二重連星、双子星であるガミラス星だ。で、このガミラスこそが地球を荒廃させた張本人であることはご存じの通り。

そうして見ると、この双子の兄弟であるはずのイスカンダルとガミラスとは、ある事象の「善」と「悪」をそれぞれに表現しているようにも思えてくる。どっちが兄(姉)かは知らないが、片っぽが犯した過ちを、もう片っぽが償っているかのようにも見える。片方は破壊する者であり、もう片方は建設する者・・・。

結論から言ってしまえば、ぼくはこの「イスカンダル(善)=ガミラス(悪)」という構図で表されているものは、「アメリカ合衆国」だと考えている。ただし、その「アメリカ」は、『宇宙戦艦ヤマト』を作った人々が見た「アメリカ」だろう。

主な『ヤマト』のスタッフの生年を見ると、西崎義展は1934年、松本零士が1938年、山本暎一が1940年、豊田有恒が1938年となっている。いわゆる「昭和ヒトケタ」~「焼け跡」といわれる世代の人々だ。
この人たちが見たアメリカとは、まずは破壊者、殺戮者だった。大都市を空襲しては民間人を無差別に殺害し、最後はきわめて非人道的な大量破壊兵器を投下した。キノコ雲を吹き上げ、放射能をまき散らす遊星爆弾のイメージは、まさにアメリカが広島と長崎に落とした原爆以外の何物でもないだろう。

しかしその一方で、この世代の人々はアメリカの尽力のおかげで日に日に復興していく戦後日本の姿も見た。大規模な食料援助にはじまり、ガリオア資金、エロア資金・・・。アメリカからの援助がなければ、日本の復興は有り得なかっただろう。
沖縄出身の『帰ってきたウルトラマン』の脚本家、上原正三氏(1937年生)は、当時のアメリカは「解放軍」「ニライカナイの神々」に思えたとまで証言している(参考記事ー怪獣使いと少年その2)。


てな具合で、要するに戦前に生まれ、荒廃した焼け跡で少年時代を過ごした人々は、アメリカの「悪」を見、続いてアメリカの「善」を見た。ぼくはこのアメリカのダブルイメージこそが、ガミラス=イスカンダルの二重連星というイメージに結びついたように感じている。


では何故、よみがえった戦艦大和は「悪いアメリカ」と戦う必要があったのだろう?
それを一種の復讐心にもとづく妄想だと考えることに、ぼくは反対しない。アメリカに負けた国民が、妄想の中で何を考えようがそれは自由というものだろう。
だが、『ヤマト』が放送された当時のアメリカが、ベトナム戦争に負けた直後であったことも考慮に入れるべきだと、ぼくは思う。日本を占領した後も、「悪いアメリカ」は延々と戦争をし続けた。核こそ使われなかったものの、民間人への無差別攻撃は各地で続けられていた。そしてその挙げ句、アメリカは負けた。

こうしたアメリカの在りように、もっとも失望感を感じたのが『ヤマト』を作った世代の人々だったんじゃないかとぼくは推測する。戦後に生まれた団塊世代以降とは異なり、ヒトケタ~焼け跡世代はふたつの「正義」を目の当たりにした人々だ。幼少時に信じていた日本の「正義」が否定され、アメリカの「正義」を受け入れさせられたこの人々にとって、「正義」とは相対的な概念だったことだろう。それだけに、この人々は早々に安保闘争を起こしてアメリカの「正義」に反発したと聞くが、ベトナム戦争の決着は、アメリカの「正義」への疑問を決定的なものにした可能性はあると思う。

なぜなら、この時アメリカは「正義」であることを自ら中止したことになるからだ。
「正義の戦い」からは降りることが出来るし、「正義の味方」は辞めることができる。

だが、もしも「正義」がそんなにフレキシブルなものでいいのなら、日本の「正義」、戦艦大和の「正義」だって、実は死んだ訳じゃない、ちょっと休んでいただけだと考えてもいいことになるだろう。
心の奥底にずっと押し込めていた情念に火がつくとしたら、この時期をおいて他にはないようにぼくには思える。


かくして戦艦大和は復活を遂げることになったが、ただしそれは日本の「正義」の復活を意味するものではなかった。そこが『宇宙戦艦ヤマト』が単純な国粋主義アニメではない要点だろう。
ヤマトが叩きつぶしたのは、あくまで「悪いアメリカ」だけ。
しかも、旅の目的はあくまでも「良いアメリカ」に渡って、最新の技術を供与してもらうことだった。言ってみれば、1860年に勝海舟や福沢諭吉をのせて太平洋を押し渡った咸臨丸の大航海こそが、ヤマトにオーバーラップされるべきものじゃないだろうか。

さらにもう一点。
ようやくのことでヤマトがイスカンダルに到着してみると、何と「良いアメリカ」もまた「悪いアメリカ」と同様に惑星自体が寿命を迎えつつあり、住人はもはやスターシャただ一人となっていた。「良いアメリカ」にも復興と再出発が必要だったわけだが、これを助けたのが古代進の兄、戦死したはずの古代守だった。

冥王星の戦いでガミラス軍の捕虜となった古代守は、収容されたガミラス艦の事故をスターシャに救出され、イスカンダルで手厚い介護を受けていた。そしてスターシャの自分への愛を知った古代守は、イスカンダルに残り、この地の「アダムとイブ」になることを決意する。「良いアメリカ」と「日本のサムライ」がここに結ばれて、新たな歴史をスタートさせたというわけだ。

一方、「良いアメリカ」に導かれた「日本の男の船」は無事に最新の科学技術を手に入れて、祖国復興の帰路についた。あの日、戦艦大和は志を果たすことなく海の底に沈んでしまったが、ぼくらのヤマトは帰ってくる。人類の未来への希望を載せて・・・。

めでたしめでたし。



・・・と気分よく締めたいところだが、ごらんの通り、ぼくの珍説をとればどこもかしこも日本マンセーで、願望と妄想のオンパレードになってしまう。確かに古代たちヤマトクルーは「明日の幸せというものは自分の力でしか獲得できないものですからね」というスターシャの言葉どおりに孤独と不安に耐え、勇気と信念で数々の困難を克服していった。

しかし翻って現実を直視すれば、果たして戦後日本がスターシャの言葉に見合う存在であるかどうかは、かなりの疑問符が付くだろう。アメリカの支援を受け、アメリカの軍備に守られて経済発展を遂げた日本人が「自分の力」を誇示したら、それこそ世界中の笑いモンだ。

そしてそれは、『ヤマト』を作った当の人々こそが、十分に自覚していたことだろう。戦後に生まれた団塊世代は、戦後の良いところだけを見て成長したが、ヒトケタ~焼け跡は違う。多感な少年時代に、彼らは彼らの「日本」がこの世界から一度は消滅するのを見、まったく新しい「日本」が作られていく一部始終を見た。彼らは、戦後日本の現実と歩調を合わせて大人になっていった。

『ヤマト』はそんな人たちの少年時代の願望そのものだったのかもしれない。戦後のどこかのタイミングで、一度は戦艦大和は甦らなければならなかったのかもしれない。
だがそれは、おそらく一度だけの夢物語がふさわしいのだろう。

祭りは終わった。
ならば、ヤマトは現実に帰らなければならない。

つづく

ボルテスV その1 (例によってくどい前置き)

れっつぼるといん

ぼく自身はいたって不真面目な人間なのだが、1970年代のアニメ作品を年代順に観ていったときに、つくづく感じるのが日本人の生真面目さだ。例えば『宇宙戦艦ヤマト』だが、ぼくはこの名作は先行する『新造人間キャシャーン』の存在がなければ誕生しなかったんじゃないか、と思っている。

『キャシャーン』が画期的だった点は、「悪」をぼくらの外部に求め、ぼくらの視聴者のなかに「正義」を問いかけたことだ。具体的には、進駐軍あるいはGHQを想起させるブライキングボスに対して、ぼくらは土下座して降伏すべきか、それとも死を賭しても誇りを守るべきか、が問われた。

これは、あの当時に支配的存在だった石ノ森正太郎ヒーローの「正義」と「悪」とは全く異なるものだった。
石ノ森ヒーローの代表作である『サイボーグ009』『仮面ライダー』『人造人間キカイダー』等に共通するパターンとは、要するに「悪」から生まれた肉体を持つ主人公が、「善」なる心で「悪」と戦うというものだ。「悪」と「善」を併せ持つ主人公の引き裂かれ状態が、作劇上のテーマとなる。

つまり、石ノ森ヒーローにとっての真の「敵」は自分自身の中に存在した。ショッカーやダークと戦うことは、イコール自分自身の肉体、血の出自と戦うことだった。彼らは口々に世界の平和を守ると言うが、それは言い換えるなら、自分の中にある「悪」を封じ込めることで実現されることでもあった。

これまで散々書いてきたことなので説明は省くが、この石ノ森ヒーローの在り方とサヨクが喧伝する「自虐史観」は、実は同一の思考経路を描いてしまうものだとぼくは思う。ショッカーやダークは「日本の忌まわしき過去(大日本帝国)」であり、その血を受けた息子たちは、その父を倒し、自らの内に流れる邪悪な「悪」を封印しなければならない。

要は、ここで否定されている「悪」とはぼくらの中にも存在するもので、それは日本人が日本人であること自体を指す。日本人が再び「悪」に戻り、アジア諸国を侵略したりしないように、ライダーやキカイダーは大日本帝国的なものと戦い続ける。

だから、ぼくらは基本的にはヒーローの戦いに参加することはない。
「正義」はヒーローの内にあり、ぼくらは傍観すればいいだけだ。というか、叩かれているのはぼくらの中の「悪」なんだから、余計な手出しはするべきではない。黙ってショッカーやダークといった大日本帝国的なものが倒されていくのを見物しているほうがいい。


ところが『キャシャーン』の「悪」、アンドロ軍団は、ショッカーやダークとは比べものにならないほど強大な敵だった。ショッカーなどはせいぜい暴力団かカルト宗教に毛が生えたようなもんだったが、アンドロ軍団はまさに軍隊。その攻撃力は人間の軍事力をはるかに凌駕するもので、都市は次々に占領されていった。

キャシャーンはアンドロ軍団を相手に孤軍奮闘するが、一人の力には限界があった。キャシャーンは人々の力を必要としていた。人間の尊厳を守ろうとする、人々の勇気を必要としていた。キャシャーンは画面の中から、それをぼくら視聴者に問いかけてきた。おれと一緒に戦ってくれ、と。

こうしたキャシャーンの在り方が結果的に呼び込んでしまったものが、アンドロ軍団にオーバーラップされる占領軍(またはGHQ)のイメージだったことはすでに書いたとおり。『キャシャーン』の戦いには、あの日の日本人のもうひとつの選択、すなわち「本土決戦」の影がうかがえるとぼくは思っている。

まぁ、その是非はともかくとしても、とりあえず『キャシャーン』がいわゆる自虐史観的な物語ではないことは確かなことだろう。『キャシャーン』は、石ノ森ヒーローのようにナイーブな「内なる善」を守るものではない。ぼくらの街を侵略し、占領・支配しようとする「外敵」と、彼は戦っている。

そんな『キャシャーン』の登場で、子ども向けアニメは「民族の物語」を手に入れたようにぼくは思う。
ここに初めて、日本人のリアルな歴史とアニメ番組はリンクした。タブーは解除された。
いつまでも「敵」や「悪」を自らの内に求め、自省自虐を続けている必要はない。自国の歴史を恥じ、それを暗黒として叩いていなくてもいい・・・。

『キャシャーン』の放映が始まったのは1973年10月とのことだが、同じ頃、西崎義展が手がける企画書は大きな転換を迎えていたそうな。すなわち、「コンピュータ」であったはずの敵役は人間型の宇宙人へ、「宇宙戦艦コスモ(イカルスとも)」は「宇宙戦艦ヤマト」へ、そしてその乗組員は全員日本人へと、それぞれ変更されたのだった。
もしかしたら、西崎は『キャシャーン』に勇気をもらった(笑)のかもしれない。

・・・てな感じで、「たかが」子ども向けアニメであろうと生真面目に取り組もうとする日本人の間では、お互いに連絡を取り合うことなく無意識のうちに、一種の意思のバトンリレーが行われた可能性があるとぼくは睨んでいる。
それは個人の利益や名声を超えて、より良いものを作ろうという集合的な無意識だったのだろう。
『キャシャーン』を作ったのはタツノコプロだが、『キャシャーン』が開いた小さな風穴を突き破ったのは『ヤマト』のスタッフたちだった。

そして『ヤマト』で展開された世界観は、また別の人々によって一層の先鋭化を見せていく。
超電磁マシーン ボルテスV』(1977年)。
監督は、『オバケのQ太郎』『パーマン』『巨人の星』『ど根性ガエル』『侍ジャイアンツ』等で知られるアニメの巨匠、長浜忠夫だ。

つづく

ボルテスV その2 プリンス・ハイネルとGHQ

ハイネルとラ・ゴール

それでは『超電磁マシーン ボルテスV(ボルテスファイブ)』(1977)のあらすじを。

地球を離れること1万4千光年の宇宙に、ボアザンという星があった。高度な科学力を誇るボアザン星だったが、そこには二つの種族による対立があった。一つは頭に角(つの)が生えた種族で、彼らは「貴族」として思うままの贅沢な暮らしをしていた。もう一つは角のない種族で、こちらは「労奴」として苛烈な労働を強いられる階級だった。

あるとき、ボアザン皇帝の弟に一人の男子が生まれた。が、なんとその赤ん坊には角がなかった。その赤ん坊、ラ・ゴールは、ニセモノの角を着けられると王族の子として育てられ、やがてその科学への天才を開花させると若くして科学大臣の地位を得る。

ほどなく皇帝が亡くなり、王位継承者としてラ・ゴールの名が挙がる。しかしライバルであるザンバジルにニセの角の秘密を暴露されて、ラ・ゴールは失脚。彼自身は「労奴」に落とされ、身重の妻ロザリアは国外追放とされる。

労奴となったラ・ゴールは、新皇帝ザンバジルが宇宙征服の計画を立てていることを知ると、同志とともに反乱を起こす。しかしこの反乱は失敗に終わり、ラ・ゴールはただ一人、ボアザン星からの脱出を余儀なくされる。ラ・ゴールの宇宙の放浪は続き、ようやく彼がたどり着いた星が、ぼくらのこの地球だった。

地球に降り立ったラ・ゴールは、ボアザン星の「労奴解放」のため、さらにはザンバジル皇帝による地球侵略に備えるため、地球人と協力して軍事要塞ビッグファルコンと戦闘ロボ、ボルテスVを建造する。この間、地球で知り合った剛光代博士との間には、三人の男児をもうけていた。

やがてラ・ゴールが地球にいることを知ったザンバジルは、ラ・ゴールがすみやかに帰国しない場合は地球を攻撃すると伝えてくる。ラ・ゴールはやむをえず後のことを光代夫人らに託すと、ボアザンに帰っていった。

しかしボアザン帝国軍による地球侵略は開始された。
地球側ではラ・ゴールの3人の息子に2人の若者を加えた5人編成のボルテスチームが結成され、それを迎え撃つ。戦況は膠着したが、ボアザン側の内紛と、ボアザンから脱出してきた労奴の協力を得たボルテスチームは、ついにボアザンの地球侵略軍を撃退することに成功する。そして、労奴(本当は元ボアザンの将軍)の口から、父の真実を知らされたラ・ゴールの息子たちは、父を意思を叶えるため、ボアザンの労奴解放を目指して宇宙に飛び立つ・・・。


整理すればこうなる。
まず遠い宇宙に高度な文明があって、そこには「善」と「悪」が同時に存在する。「善」が地球にやってきて、「悪」を倒せるだけのテクノロジーを与える。地球人がその「善」の技術を使って「悪」を倒す。
大雑把なところで、『ボルテスV』の物語が『宇宙戦艦ヤマト』と世界観を同じくしていることは一目瞭然だろう。

ただし、もちろん後発の『ボルテスV』の方が、細部において先鋭化されていることは言うまでもない。例えば、「悪」についてだ。

第一話「宇宙からの侵略者」。
突如として太陽系に侵攻してきた大船団はボアザン帝国の地球征服軍だった。司令官の名はプリンス・ハイネル
戦闘に先立ってハイネルはこう演説する。

「戦いの時は来た。われらボアザン帝国の栄光と名誉、その香り高き文化をあまねく宇宙のすみずみにまで及ぼさんがため、この辺境の地、地球を支配する。虫けらのごとき人間どもを追い払うのだ!」

要点はふたつ。
ひとつは、ハイネルらは地球を滅ぼしに来たのではなく、彼らの「栄光と名誉」「香り高き文化」でもって教化しに来たという点。平たく言えば、植民地化だ。その理由は、ぼくら地球人は「虫けら」のように劣った存在だからだ。
ふたつめは、そんなボアザン人から見れば、地球などは「辺境の地」でしかないという点。

まとめて言えば、ハイネルらは、辺境の野蛮人どもはボアザン文化で支配してやったほうが幸せだと考えているようだ。

だからハイネルは、地球人にも「愛」という感情があると知ったとき、「下等動物の人間が愛を持っているとは」と言って大笑いする(第13話「謀略の父が地球を狙う」)。
また、彼らはボルテスのことを「ほ乳類がつくったロボット」とも呼ぶ(第7話「新隊員タッコちゃん」)。

さて、それじゃあ『ヤマト』では「ガミラス」が演じたこの悪役は、いったい何からイメージされるものなのか? 地球人を「辺境」の野蛮人と見、自分たちの「香り高き文化」で教化・支配しようとするボアザン人とは・・・。

この答えを長浜忠夫の心象風景に探すのなら、これはもうGHQ以外にはないとぼくは思う。
極東の地、日本を占領したアメリカは、日本の古い制度を徹底的に破壊し、彼らの文化や価値観で改めた。それも時間をかけずに怒濤の勢いで行った。こんなことが民衆レベルにまで起こったのは、日本の歴史上この時くらいのものだろう。

もちろん、大日本帝国が似たようなことを東アジアで実行したことは事実だが、1932(昭和7)年生まれの長浜忠夫は終戦時はまだ少年だ。戦争に負けること、他国の支配を受けることの意味を長浜少年に実感させたのは、GHQをおいて他にはないだろう。だからこの世代の人が「侵略者」をイメージすれば、それは自然とGHQに繋がるのだとぼくは推測する。

一方、「侵略者」であるボアザンが、同時に「建設者」として助力してくれる存在であることも『ヤマト』と同様の構図だ。ボルテスメカを建造したラ・ゴール、影となってボルテスチームを援助してくれたダンゲ将軍といった人々も、またボアザン人。
要は、『ヤマト』ではイスカンダル=ガミラスの二重連星として表現された「善」と「悪」は、『ボルテスV』ではボアザン星のふたつの身分階級(労奴と貴族)として表現し直された。後発の強味ではあるが、『ボルテスV』のほうが洗練されているし、核心を突いているとぼくは思う(もちろん、バトンリレーの結果としてだが)。

いずれにしても、そこで表現されているのはアメリカに対するダブルイメージだ。すなわち「良いアメリカ」と「悪いアメリカ」・・・。

そして『ボルテスV』の洗練はそれだけにはとどまらない。
『ヤマト』では今ひとつ消化不良というか、ウヤムヤだったもののいくつかは、『ボルテスV』の中で確実に形を成しているとぼくは見ている。

つづく

ボルテスV その3 最終回:崩れゆく邪悪の塔!!

狂ったザンバジル

超電磁マシーン ボルテスV』(1977)は、基本的には地球を侵略する異星人を巨大ロボに乗り込んだ若者たちが撃退する、というストーリーだが、もちろんそれだけではない。そこでは、ボアザン星人のラ・ゴールと地球人の剛光代のあいだに生まれた3人の息子たちが、父・剛健太郎(ラ・ゴール)を探し求める物語がサブストーリーとして展開された。

ボアザン星随一の天才科学者にして王位継承の筆頭だったラ・ゴールは、ボアザン貴族の証しである「角」を持たずに生まれたことをライバルに暴露されて全てを失い、地球へと逃亡してきた。彼を追った新皇帝ザンバジルが宇宙征服の野望を持つことを知るラ・ゴールは、ボアザンと地球の平和のために、わずかな理解者たちと協力してボルテスメカ等を建造する。だが、彼らの息子たちがまだ幼いうちに、ラ・ゴールは地球を去らねばならなくなった・・・。

こうした父不在の物語はアニメだけではなく『人造人間キカイダー』等の特撮ヒーロー番組にも見られるものだが、それらに登場してくるロボやメカが表すものこそが、いわゆる「父性」と言われるものだろう。Wikipediaから引用すれば「子供を社会化していくように作動する能力と機能」であり「子供に我慢・規範を教え、責任主体とし、理想を示すもの」が「父性」だ。
『ボルテスV』でいえば、ラ・ゴールの息子たちにとってはボルテスメカの存在自体がラ・ゴールの意思そのものであって、彼らがそれに乗り込むことで彼らはラ・ゴールの願いを実現する。

実はこのあたりは、ヒーロー番組としての『宇宙戦艦ヤマト』では少々物足りなかったとぼくが感じている点だ。
『ヤマト』においては、基本的なメカを作ったのは旧日本海軍だし、クルーたちの「父」としては沖田艦長が存在した。それで重複を避けたのかもしれないが、あの物語で実際に「父性」を示していたのは実はイスカンダルのスターシャだった。スターシャが地球人に波動エネルギー技術を与えたのは、それによって地球人が「自分の力で」生き抜いていくため・・・。

要するにあの偉大な沖田艦長だって、スターシャの巨大な「父性愛」によって試練を与えられ、鍛え上げられた一人だったということだ。ただ、いかんせんスターシャが妙齢の美女だったもんで、どちらかと言うとイスカンダルには「母性」的な印象が残ってしまう。「母性」を同じくWikipediaから引用すれば「子供の欲求を受け止め満たして子供を包み込んでいくことを指す」。スターシャは優しい容貌をしてはいるが、善悪を問わずに全てを包み込んでくれるかといえば甚だ疑問と言わざるを得ない・・・。

という具合で、『ヤマト』においては「父性」の有りどころが今ひとつ整理されていない印象があって、それがメインテーマを見えにくくしている結果に繋がっているように、ぼくには思えるのだった。つまりは、たった一話のうちの、それもわずかな時間だけしか展開されなかった「愛」をもってテーマに思わせてしまう、などだ。


まぁ以上はぼくの個人的な印象に過ぎないような気もするし、それによって『ヤマト』の価値がいささかなりとも毀損するものではないことは念のため。後発の『ボルテスV』のほうが、いろいろな面で整理されているとぼくが感じているだけのことだろう。

例えば「母性」。
正妻ロザリアを失ったラ・ゴールは、逃亡先の地球で剛光代博士と再婚して3人の息子を授かったわけだが、第2話「苦闘への前進」で息子たちのピンチに直面した光代さんは、彼らを守るために戦闘機で出撃すると敵ロボットに特攻をかけて爆死してしまう。これはまさに「母性」の発揮しうる究極の形といえるものだろう。


さて『ボルテスV』のサブストーリーが、ラ・ゴールの3人の息子が「父」を探す物語であることはすでに書いたが、この作品はそれほど単純なものではなかった。ボアザン貴族にして、地球征服軍司令プリンス・ハイネルの物語もまた、「父」を探していた。皇族でありながらハイネルは「父」を知らず、その裏返しの感情として、ハイネルは異常なまでに「貴族」という血統に執着し、自己の拠り所としていた。「貴族」でない者への差別意識は誰よりも強かった。

そうして意気揚々と地球侵略をはじめたハイネルだったが、ラ・ゴールが設計したボルテスの反撃にあって作戦はことごとく失敗に終わり、ついには司令から解任されてしまう。失意のハイネルは、それでもボアザンへの忠誠心は揺らぐことはない。ラ・ゴールに率いられた労奴解放軍とボルテスチームの協力で陥落寸前のボアザン帝の首都・黄金城にあって、我先に逃亡を図ろうとする貴族たちを叱咤したのはハイネルだけだった。ハイネルだけが滅びゆくボアザンにあって、最後までボアザン貴族の名誉と誇りを守り抜こうとした。

そして最後の最後、ハイネルはラ・ゴールの息子、宿敵・剛健一との一騎打ちに撃って出る。
しかしその時、ついにハイネルの出生の秘密が明らかになった。ハイネルは実は、ラ・ゴールの前妻ロザリアが、その命と引き換えに産み落としたラ・ゴールの長男だった。ハイネルこそが、ボアザンの真の王位継承者だったのだ。

するとそこへ現皇帝ザンバジルが、抱えきれないほどの財宝とともにフラフラと現れる。その昔、謀略によってラ・ゴールから王位を奪ったザンバジルは、そのとき恐怖のあまり気が狂っていた。彼はハイネルの姿を認めると「悪いのはハイネルだ」と騒ぎ出す。ハイネルは「余はこんなウジ虫のために戦っていたのか」と絶望し、ザンバジルを殺害する。その時、ザンバジルが持っていた爆弾が爆発し、ハイネルを紅蓮の炎が包む。

「兄さん!」と手を差し伸べる健一に、ハイネルは静かに首を振る。そしてつぶやく。「父さん・・・」と。
ハイネルが炎の中に消えていき、長い長い戦いが幕を閉じる。労奴は解放され、ラ・ゴールによるボアザンの復興が始められる・・・。


ボアザンのうち、「悪いアメリカ」の先兵であったプリンス・ハイネルもまた、失われた「父」を求めていた。だが、ハイネルは、自分の「父」が(「良いアメリカ」を暗喩する)ラ・ゴールであると知ったとき、自らの滅亡を選択した。自らの死をもって、「悪いアメリカ」を完全に葬り去る道をハイネルは選んだ。それなくして真に「良いアメリカ」の復興はない、とハイネルは悟ったのだろう。

『宇宙戦艦ヤマト』そして『ボルテスV』が制作された1970年代といえば、最強を誇ったアメリカ合衆国に次々と綻びが見えだしてきた時代だ。「ニクソンショック」「ベトナム敗戦」「オイルショック」なんてのは、アメリカの強さの裏付けであった「ドル」「軍事」「石油」がもはや絶対ではないことを雄弁に物語る事件だった。
経済や国防をアメリカに依存している我が国にとっても、それは他人事ではない。「父」なるアメリカの衰弱は、「子」である日本の即死にも繋がりかねない。

70年代ヒーロー番組に見られる「父」探しの物語の底には、そういったアメリカ弱体化という不安の影が落とされていたんじゃないかと、ぼくは推測する。だからこそヤマトもボルテスチームも「悪いアメリカ」を打ち倒しに出かけたし、プリンス・ハイネルは「悪いアメリカ」である自己の消滅を選んだ。

しかし、繰り返しになるが「良いアメリカ」なんてのは、それに一方的に依存している日本人の願望でしかない。アメリカに古き良き寛容精神を求めるのは日本人の身勝手であって、アメリカにはアメリカの都合があるだろう。日本人には「悪いアメリカ」に見えているものが、その実アメリカ自身の正直な本音の願望の結実である可能性だって否定はできないのだ。

つまり、もしも「良いアメリカ」なんてものが、とっくに死んでしまっているものだとしたらどうだろう・・・。
願望を捨てて現実を直視してみたとき、蘇ってしまったヤマトの居場所はどこにあると言うのだろう?

つづく

さらば宇宙戦艦ヤマト ~ヤマトの現実

拡散波動砲の末路

地球侵略を狙うガミラスを滅ぼして人類の危機を救ったヤマトが直面した「現実」は、不当なまでの「冷遇」だった。

さらば宇宙戦艦ヤマト』(1978)は、ヤマトがイスカンダルから放射能除去装置を持ち帰ってから約1年後の物語だ。すでに地球は完全に復活し、青い海と緑の大地は蘇った。人類は「地球連邦政府」として一つにまとまり、太陽系の資源をフルに利用して文明社会を再建させていた。

しかしその社会では人類の救世主であるはずのヤマトクルーたちは、地球防衛軍の要職に就くのでもなければ恩給生活を楽しむわけでもなく、末端の現場労働者として働いていた。資源輸送船団の護衛や惑星基地の守備などが、彼らに与えられた任務だった。

そんな任務の折り、護衛艦艦長だった古代進は宇宙のどこからか送られてくる謎の信号をキャッチした。それは宇宙に新たな脅威が生まれていることを告げていた。古代はその脅威の調査を防衛会議に提案するが、まるで相手にされない。ちょうどその頃、最新鋭の戦艦アンドロメダを完成させていた地球防衛軍は、そんな脅威なんかアンドロメダを中心にした地球艦隊で一蹴できる、と考えていた。

でも古代は納得できない。アンドロメダの進水式で地球連邦の初代大統領はこう言った。
「宇宙の平和、それをもたらし、それを守るリーダーとなるのは我が地球であります」
だったらリーダーらしく、地球の安全を考えるだけではなく、宇宙の脅威について調べにいくべきだろう、と古代は言うわけだ。

続いて古代たちを襲った衝撃は、ヤマトが廃艦され、記念艦として安置されるという決定だった。
ヤマトを用無し扱いされた元クルーたちは激しく憤慨する。古代らは、ヤマトが遙かなイスカンダルまで旅をした理由は「こんな堕落した地球を作るためではなかったはず」だと言い、ついにはヤマトに乗り込むと、謎の信号の発信元めざして勝手に出撃した。

そしてヤマトは銀河系のはずれのテレザート星でテレサという女性に会い、「白色彗星帝国」という侵略者の存在を知らされる。白色彗星帝国は宇宙を移動しながら次々と文明を侵略していたが、次に狙っているのが地球だと聞いて、ヤマトもあわてて地球に戻ろうとする。

しかしヤマトが戻った時にはすでに戦端は開かれてしまっていた。旗艦アンドロメダを中心にした地球艦隊は、拡散波動砲という最新技術で白色彗星帝国の艦隊を撃滅するが、本体である彗星には手も足も出ずに全滅させられてしまう。残ったのは、戦場に遅れてやってきたヤマト、ただ一隻だった・・・。


さて、以上の流れから逆算して分かることは、ヤマトのイスカンダルまでの航海を「地球のため」「人類のため」だと考えることのナンセンスさだろう。見てのとおりで(「地球」は感謝しているかもしれないが)「人類」はヤマトを評価はしていない。むしろ目障りな存在として、クルーともども遠ざけられていたのが実際のところだ。

要するにヤマトの先の航海はあくまで「日本のため」だったということだ。日本を救うために出発したヤマトは、「結果的に」人類を救ってしまっただけで、あくまでその動機はナショナリスティックなもの。おそらくこの動機の一種の不純さが、ヤマトとそのクルーへの冷遇を日本人が受け入れざるを得なかった背景にあるだろう。

つまりここでは徹頭徹尾、日本=ヤマトの等式が強調されているようにぼくには思える。
遠ざけられているのはヤマトとそのクルーだけではない。「日本」そのものが、この「地球連邦」世界においては厄介者、邪魔者なのだと。

それが明確に現れているのが、ヤマトの技術を応用・発展して製造されたアンドロメダを始めとする地球艦隊全滅後のシーンだろう。スクリーンに映された絶望的な映像を前にして、人々は口々に言う。
「われわれにはまだヤマトがある!」

ヤマトファンなら誰もが溜飲の下がったシーンだ・・・。
所詮、ヤマトをパクっただけのアンドロメダなんかじゃダメなんだよ! ガミラスとの実戦で鍛え抜かれたヤマトにしか、波動砲の真の力は引き出せないんだ! そして宇宙の友人を持っているのもヤマトだけだ! 今こそデスラーに教えてもらった彗星の弱点を突くときが来たんだ!

・・・と少年だったぼくなどは大いに興奮したもんだが、今思えば、物の見事に制作側の意図にはめられている微笑ましい光景だったのだろう。散々持ち上げておいて、あっさりヤラレてしまったアンドロメダなんぞは気の毒な噛ませ犬でしかない。本当のヒーローは遅れてやってくる、というのもプロットの常套手段のひとつだ。

だが、改めて考えてみれば、このシーンというのはいささか執拗過ぎるようにもぼくには思える。
何しろ「地球艦隊」は一隻残らず全滅してしまったのだ。普通のヒーローものなら、手負いのアンドロメダがヤマトを認め、協力して敵に当たるなんてシナリオになるんだろうが、生き残ったのはヤマトだけだった。当然この後のストーリーは、ヤマトVS白色彗星の一騎打ちしかない。

となると、ここまでの間、物語の中核を成していたと思われるヤマトとそのクルーの冷遇問題はどこへいってしまったのか? もはや地球のために戦う者がヤマトしか残っていない状況で、なおかつヤマトを遠ざけ、退けようとする動きが、「堕落した地球」にあるというのだろうか?

もちろん、あるはずはない。人類は再び、ヤマトに全てを託すしかない。

つまりぼくが言いたいのは、『さらば宇宙戦艦ヤマト』の物語においては、この瞬間にヤマトの勝利が確定したんじゃないか、ということだ。ヤマトとそのクルーは、彼らが置かれた悲しい現状を自力ではねのけて、いま再び人々の希望と期待を一心に集めて復活した。
「ヤマトは生きている。地球を救うために。俺たちのヤマトを死なしてはならない」
という古代の思いは実を結んだ。
これを勝利と言わずして何といえばいいのだろう。

しかしそうなると訳が分からない点がひとつ出てくる。
一体ヤマトは誰に対して勝利したのか、ということだ。

つづく

さらば宇宙戦艦ヤマト ~ガトランティスはアメリカか?

白色彗星帝国の摩天楼

さらば宇宙戦艦ヤマト』の敵役を、「白色彗星帝国」という。
以下、説明がめんどくさいのでWikipediaから引用すると、こうなる。

国号はガトランティス。国家元首はズォーダー大帝。アンドロメダ星雲方面から地球へ向かって圧倒的軍事力で宇宙の星々を次々と侵略していく。
人工国家・超高層ビルの集合による摩天楼・大国主義・国家利益追求による好戦志向・人種のるつぼだが国家指導層の殆どは特定人種が占める等、善悪は別として、アメリカをイメージした国と思われる

白色彗星帝国=ガトランティスが「アメリカ」っぽいことは疑いがない。
特に、ヤマトの果敢な攻撃を受けて周囲を覆う白色ガスが取り払われたあとの「都市帝国」の映像は、1978年当時の普通の感覚であればマンハッタンの摩天楼をイメージする他ないものだろう。

その白色彗星帝国=ガトランティスは、惑星を侵略しては植民地にし、そこに住む人々を奴隷にしていった。従わない連中には大規模な空爆を仕掛け、とどめは当然、核兵器の投下だ。
要するに、絵に描いたような模範的侵略者、それが白色彗星帝国=ガトランティスだ。
そして今作、ヤマトはその強大な侵略者の前に立ちふさがり、その野望を阻止せんとした。アメリカの帝国主義を打ち破れるのは、日本のヤマトだけなのだー!!

と書けば威勢が良いが、どこをどう見ても『さらば宇宙戦艦ヤマト』にはそう言った誇大妄想的な痛快さは存在しないように、ぼくには思える。地球においては冷遇され、白色彗星帝国との戦いは絶望につぐ絶望の連続。最後は一応の勝利を遂げはしたが、それを勝利と呼ぶにはあまりに悲しい結末が『さらば宇宙戦艦ヤマト』だった。

結論から言ってしまえば、ぼくは『さらば宇宙戦艦ヤマト』が白色彗星帝国をアメリカ帝国主義になぞらえて、それを倒すことで自慰的な満足を得ようとした作品だとは思っていない。それでは前作の繰り返しになるし、ベトナム敗戦で弱っているアメリカに後足で砂を掛けるような、卑劣な行為であるような気さえする。
『さらば』が訴えたかったことは、そんな卑屈な感情から来るものではないだろう。


『さらば宇宙戦艦ヤマト』で注目すべき点は、ヤマトの波動砲の使い方にあったとぼくは思う。

前作で発射された波動砲は5回。

1回目は木星の「浮遊大陸」に向けて発射。
2回目はオリオン座アルファ星の「炎」に向けて発射。
3回目はバラン星の「怪獣バラノドン」に向けて発射。
4回目はバラン星の「人工太陽」に向けて発射。
5回目はガミラス星の「火山脈」に向けて発射された。

一言でいえば前作のヤマトは、人が乗っていることが明らかである戦闘機や艦船に対しては、いっさい波動砲は使わなかった。
仮にも唯一の核被爆国である日本人が、軽々と人に向けて核を撃ってはならない。この点だけでも『ヤマト』スタッフの高い志が読み取れる好例だろう。『ヤマト』は決して、アメリカ人に過去の仕返しをしに行っただけの妄想系ではない。

ところが『さらば』でその事情は一転する。
テレザート星に向かうヤマトの前に「謎の」大艦隊がせまると、ヤマトは躊躇なく波動砲をぶっ放したのだった。まるでそこに「人」が誰もいないかのように・・・。

これはつまり、ヤマトのクルーがガトランティス人を「人」としては見ていない、ということを表すものだろう。
と言ってもそれは、人間以下の畜生だとか、人の姿をした鬼だとか、そういった詩的な意味ではない。ガトランティスが「敵」という役回りを与えられただけの、記号の帝国だという意味だとぼくは思う。

そこに「人」の実体はない。
だからヤマトは迷うことなしに波動砲が撃てた。
ならばガトランティスの野望というものにも、実は実体がないことになるだろう。それは、ヤマトに絶望を引き起こさせるための「強大さ」の象徴であり、人間がなしうる「悪」の集合体だった。

白色彗星帝国=ガトランティスは、アメリカ合衆国のメタファーではない。

そしてそれは、『さらば』のヤマトが戦った真の敵でもない。
ぼくはそう思う。

つづく

さらば宇宙戦艦ヤマト 宇宙の愛 ~そして神話に

ガトランティス=地球連邦

前回からの続き

ご存じのとおり、『さらば宇宙戦艦ヤマト』は地球連邦艦隊の最後の一隻となったヤマトが、すでに攻撃能力を失いながらもガトランティスの超巨大戦艦に体当たりしていくシーンで幕を閉じる。この特攻に先立って、若き艦長・古代進は生き残ったクルーに退艦命令を出してこう言った。

俺たちの戦いを永遠に語り継ぎ、明日の素晴らしい地球を作ってくれ

地球がなくなれば、彼らの戦いを永遠に語り継ぐ人もいなくなるのだから、古代にとってガトランティスに勝利することは最初から既定の結果だったのだろう。そしてガトランティス側もまた、よろよろと接近してくるヤマトに攻撃を仕掛けることもなく、黙って成行に身を任せているようだった。最後まで必死の抵抗を続けた前作のガミラスとは大違いだ。

そうしてみると、『さらば宇宙戦艦ヤマト』の物語にとって重要だったのは、古代たちが「どう」戦ったのかであって、「誰と」戦ったのかではなかったように思えてくる。つまり、ガトランティスがアメリカを模した帝国であるという表面的なイメージには、それ自体に大した意味はないんじゃないかと考えたくなる。

しかし、古代に特攻を決意させたのは紛れもなくガトランティス、その大帝ズォーダーだった。
すでに満身創痍でボロボロのヤマトに対し、ついにその本体である超巨大戦艦の姿を見せたガトランティスは、主砲の一撃で月を粉砕してみせた。勝ち誇ってズォーダーは言う。

宇宙は全てわが意思のままにある。わたしが宇宙の法だ。宇宙の秩序だ

これを聞いた古代は激しく憤慨し、反論する。

ちがう、断じてちがう。宇宙は母なのだ。そこで生まれた生命は全て平等でなければならない。それが宇宙の真理であり、宇宙の愛だ

しかし思い出してみれば、このやりとりに極めて類似した展開が『さらば宇宙戦艦ヤマト』にはもうひとつ存在したことに気がつく。それはヤマトが再び旅立っていく直接の動機にも繋がったものだ。
ヤマトを廃艦させ、記念艦にしようとした人々。
その代表格である地球連邦政府の初代大統領は、アンドロメダの進水式に際してこう言った。

宇宙の平和、それをもたらし、それを守るリーダーとなるのは我が地球であります

ところが「リーダー」を自称する連邦政府には「宇宙の平和」への責任感などカケラもなく、そのことが古代を憤慨させ、ヤマトを出撃させる結果になった。古代から見れば、連邦政府の叫ぶ「宇宙の平和」なんぞは地球人のエゴイズムでしかなく、それが高じたものこそが「宇宙の法」「宇宙の秩序」を語るガトランティスに他ならなかったのだろう。

つまりガトランティス=地球連邦政府。

古代が戦おうとしたものとは、「宇宙の愛」すなわち宇宙に生きる全てのものの「平等」を奪い、我が手で支配しようとするこういった考え方だったとぼくは思う。白色彗星帝国=ガトランティスとは、未来の地球連邦政府の姿そのものだった。

そしてその地球連邦政府の世界にあって、ヤマトとそのクルーは厳しく冷遇されていた。ヤマトは老朽艦扱いされ、ガミラスの魔の手から世界を救った英雄たちは末端の労働者として埋没していた。
しかし前作『宇宙戦艦ヤマト』では、ヤマト=日本ではなかったか?
ならば冷遇され、邪魔者扱いされ、埋もれてしまっていたのは、本当は「日本」ではなかったのか?

そう考えたとき、アンドロメダ進水式での初代大統領の発言は、ぼくに現実世界のある国のトップの発言を思い起こさせる。言うまでもない。歴代のアメリカ大統領だ。彼らは「自由主義世界のリーダー」を自認し、「ニューワールドオーダー」を叫んでベトナムやイラクに攻め込んだ。確かに1978年当時の日本はまだそういった行為に直接加担することはなかったが、その後の展開はご存じのとおりだ。

だが、『ヤマト』のスタッフが危惧していたことは、未来の日本が本意でもない戦争に駆り出されることへの不安だったわけではないだろう。すでに戦後教育によって日本の過去の歴史は全否定され、アメリカ様式が日本の伝統を浸食して久しかったのが70年代だ。

そこに「日本」はあるのか?
すでに「日本」は連邦政府(=アメリカ)に呑み込まれていて、実はその実体は存在していないも同然なのではないか?
ならばヤマトには、もはや命をかけて守るべきものが何もないことになるんじゃないか?

『さらば宇宙戦艦ヤマト』に描かれている日本の「現実」には、そういった精神的な背景があったのではないかとぼくは推測する。なぜならまさに『さらば宇宙戦艦ヤマト』の結末には、失われた「日本」をいかにして生かすかという思いが込められていたように思えるからだ。


「ヤマトは生きている」「俺たちのヤマトを死なせてはならない」と言って連邦政府の支配下を離脱したヤマトは、連邦自慢の艦隊が全滅した後もたった一隻で戦い続けた。人々はそんなヤマトに地球の運命を託して、熱い声援を贈った。
しかしガトランティスはあまりも強大で、次第にヤマトはその戦力を失っていった。

たった18人になってしまったクルーに、艦長古代は退艦命令を出し、こう言った。

みんなは俺が死ににいくと思っているんだろう? そうじゃない。俺も生きるために行くんだよ。命というのはたかが何十年の寿命で終わってしまうような、ちっぽけなものじゃないはずだ。この宇宙いっぱいに広がって、永遠に続くものじゃないのか? 俺はこれから、そういう命に自分の命を換えにいくんだ。これは死ではない

古代は言う。「宇宙いっぱいに広がって、永遠に続くもの」「そういう命に自分の命を換えにいく」のだと。
「そして俺たちの戦いを永遠に語り継ぎ、明日の素晴らしい地球を作ってくれ」と。

そう言い渡すと、彼は最愛の人、森雪の亡がらを抱いて一人、ヤマトを超巨大戦艦に向けて発進させる。するとテレサがどこからともなく現れる。実は彼女は反物質世界の人で、こちら側の世界にふれあうと巨大な爆発を引き起こす存在だった。彼女が超巨大戦艦に接触すれば、ガトランティスも一瞬にして消滅する。

テレサは古代に、ありがとうと言う。
「あなたのおかげで人々は目覚め、より美しい地球と宇宙のために働くことでしょう。わたしはこの日を待っていたのです」
テレサに導かれたヤマトの姿は次第に小さくなっていき、やがて巨大な爆発となる。あとには漆黒の宇宙空間だけが残されたのだった・・・。


古代の願い。
それは、ヤマトの物語が「伝説」「神話」となって、「宇宙いっぱいに広がって、永遠に続く」ことだった。それが古代の言う「命」だ。そしてそんなヤマトの戦いが「宇宙の愛」に則ったものだったからこそ、テレサは現れた。その一部始終を地上の人々は見た。彼らは「神話」の目撃者となった。

もちろん、この時の目撃者となったのは何も劇中の人物たちだけではない。
ぼくら当時の少年たちも、そのうちの一人だった。

かつてヤマトという船が「日本」という守るべき、残すべきもののために戦ったこと、さらにその戦いは「宇宙の愛」を貫くためのものでもあったこと、これらはぼくらの胸中奥深くにしまいこまれたものだ。それは、いつの日か「日本」を取り戻さなければならない時に、大きな力の源とならなければならないものだろう。
ヤマトの「神話」を語り継ぐのは、ぼくら当時の少年少女だということだ。



ところで・・・。

もしもこの時のヤマトが実は破壊されず、そのまま太陽系のどこかで「日本」を興している世界があるとしたらどうだろう。ヤマトが連邦政府に対して独立を宣言し、主権を主張している世界があったとしたら・・・。

ジオン公国だ。

つづく


※詰め込みすぎで説明不足の感があるので付け足しておきますが、古代のいう「平等」とは、いわゆる民族主義的な意味での平等だと思われます。つまりは世界の多様性は多様性のままに存在するべきで、それぞれの伝統や文化は固く保持されるべきだろうということです。
これに対し、サヨク的な「平等」は人為的に操作された平等ですので、本来の多様性は破棄されている状態でしょう。つまりは、アメリカによるイラクの強引な民主化や、中国共産党がチベットやウイグルで行っていることは「宇宙の愛」に反する行為だということです。