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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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機動戦士ガンダム ダブルヒーロー夢の競演

お台場ガンダム

あらかじめ白状してしまえば、『機動戦士ガンダム』(1979)について何か書くことは、ぼくにとって非常に気の重い作業だ。たぶん、ファンの数は『宇宙戦艦ヤマト』の100倍どころじゃ済まないだろうし、関連書籍を積み上げていくと月に届くのかも知れないし、Wikipediaにも全部はとても目を通す気にはなれない量の情報が網羅されている。
そしてなにより富野由悠季監督ご自身が、すでに1980年12月の時点で「ガンダム論は語りつくされた」と話されているのだ(『ロマンアルバム・エクストラ35・機動戦士ガンダム』/徳間書店)。

そんな状況で、25年間もアニメ趣味から離れていたオッサンが何か発言していいものか・・・。

と、弱気になる気持ちだけはまずご理解いただいたとして、それでもぼくなりの「ガンダム論」を書かなければならない理由はただ一つ。
実は、ここまで書いてきた記事はすべて『機動戦士ガンダム』から逆算して考えたことだった。『ガンダム』という「解答」から、遡って「問題」そのものを発見していく作業がこのブログだった。
ならば最後は当然、その「解答」について触れないわけにはいかないだろう。

だが「解答」といえば聞こえがいいが、実際のところ『機動戦士ガンダム』で行われたことは、それまでの昭和の特撮・アニメの「解体」と言った方が早い仕事だったとぼくは思う。詳しくはおいおい書いていくとしても、そのことは富野由悠季監督も大いに自覚していた様子がある。

「たとえば『イデオン』を作っていた頃でいえば、大人というのはなんでこうまで怠け者なんだろう、怠惰なんだろう、ずるいんだろう、つまり子供に対して誠実でないという嫌悪感がありました」

「そんなことを考えずに、単なる勧善懲悪ものをやっていればそれはエンターテイメントとして安全パイですし、余計な責任を負わなくてすみます。そういう無難に次の仕事が来るような立ち居振る舞いばかりしている、そんなテレビアニメの仕事をやっている人間に対して本当に飽きたというか、腹が立ったんですね」

「そういう(※制作現場に対するジェノサイドという)思いは強かったです。そして何よりも、作品に対して誠実でありたいと思いました。『トリトン』の場合も、制作体制はめちゃめちゃで、きちんとした絵も作れないような状態で、なおかつオンエアはされている。見ている人に対して制作者として、どういうことで埋め合わせをしようかと本当に考えていました」

(以上、『戦争と平和』/徳間書店/2002年より引用)


実際この本に限らず、『ガンダム者』『富野由悠季全仕事』といった本のインタビューのなかでも、富野監督の発言の多くのものが、当時の制作体制や同業者への批判へと向けられていることに気付く。
たしかに当時のアニメは、およそ「作品」として扱われることのない底辺の存在だった。しかし問題なのは、当事者でありながらそういった状況に甘んじ、「子供に対して誠実でない」制作者たちの姿勢だと富野監督は思ったのだろう。
ならばその矛先が、やがては同業者に向かうのは自然な流れだ。


ヒーロー番組としての『機動戦士ガンダム』は、基本的には『超電磁マシーン ボルテスV』などとそう変わるものではない。まず「正義のヒーロー」がいて、これがロボットに乗り込んで活躍する。アムロ・レイだ。
一方、「悪」の側にも美形でカッコいいやつがいて、「正義のヒーロー」のライバル的存在として登場してくる。シャア・アズナブルだ。

ところがこのシャア・アズナブルが『ボルテスV』のプリンス・ハイネルと異なるところは、シャアは「悪」から生まれていながら、その「悪」への復讐を企んでいる点だ。結果的に「正義」に利する行動をとる点において、あるいは「悪」を裏切る点において、シャア・アズナブルは『サイボーグ009』『仮面ライダー』『人造人間キカイダー』といった、石ノ森ヒーローときわめて似た立ち位置にいる。

という具合に見てみると、要するに『機動戦士ガンダム』は、典型的な「正義のヒーロー」であるアムロ・レイと、「悪」から生まれて「悪」を倒す石ノ森タイプのヒーローであるシャア・アズナブルが同時に登場し、しかも激しく戦い合う物語だといえるだろう。これは豪華だ。『マジンガーZ対デビルマン』ってとこだ。

が、それが形だけのものに過ぎないことは、一度でも『機動戦士ガンダム』を観たことがある人には今さら説明するまでもないことだろう。あのアムロを”典型的な「正義のヒーロー」”だと言われれば、誰だって「はあ?」となるだろうし、シャアが最終的には「悪」への復讐を「ついでのこと」だと言い切ったことも、よく知られたことだ。
つまりは『ガンダム』の、昭和ダブルヒーロー夢の競演!なんてのは本当に形だけのことでしかない。

あるいは逆に見れば、それは「形」だけが必要だったのかもしれない。
一見、正統的な従来のロボットヒーローものと同じような経緯でガンダムに乗り込んだアムロ・レイは、形の上では「正義」のために「悪」と戦う少年だった。アムロが劇中で父母と離別していくのも「正義のヒーロー」にはありがちなパターンの踏襲だろう(ヒーロー物には最初から両親が全く設定されていない場合も多い)。

ところがその結果、この「正義のヒーロー」に投げかけられた言葉は「なぜあなたはこうも戦えるの? あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに!」というものだった。つまりは、「正義のヒーロー」には本当は戦う理由がないんじゃないか? ということだろう。

では、形の上ではアムロと何も変わらない「正義のヒーロー」たちは、この問いに対して何と答えればいいのだろう。例えば『マジンガーZ』の兜甲児。彼ならこの問いに、どう答えるのだろう?

つづく

機動戦士ガンダム アムロ・レイ その1

テム・レイ

いちいち説明するまでもないことだが、『機動戦士ガンダム』の基本的な設定は『マジンガーZ』と大差ない。
兜甲児とアムロ・レイはいたって似たような成り行きでロボットを操縦することになり、「悪」が繰り出してくる敵ロボットと戦う。この際、本来は戦闘に無縁である民間人がロボットを操縦する違和感については、彼らの血縁者が当のロボットの開発者であることで解消されている。所有権のある人間が使用者であるべきだ、といった感覚だろう。

そんな似た者同士の兜甲児とアムロだが、終わってみれば両者の間には巨大な隔たりがあったことは明らかだった。
簡単に言ってしまえば、アムロ以前に兜甲児が存在したことは許されたが、アムロの後に兜甲児が登場することは不可能だ。ここには不可逆性がある。

それは、単に兜甲児がスポ根チックな熱血漢で、アムロが内向的なオタク系少年だったから、というような表面的な差異によるものではなかった。アムロのキャラクターには裏付けがあり、兜甲児にはない。それが理由だ。

おそらく兜甲児の性格は、ロボットを操縦して戦闘を行うという彼の役割から単純に逆算して設定されたものだろう。運動神経抜群のスピード狂、猪突猛進タイプだが実は思いやりがあり、責任感や正義感も強い。
こういう人間でないと、あの巨大ロボで空を飛び回るなんて無理だろう。
なんて、一種のご都合主義から生まれたキャラが兜甲児だったとぼくは思う。

もちろん、この設定そのものが悪いわけではない。
スポ根ブームの後だけに子どもにも分かりやすいし、それなりの説得力はある。
問題は、その後、ロボットものの主人公といえば兜甲児タイプで決まり、という安易な追従が蔓延してしまったことだろう。要は主人公キャラの記号化だ。これは明らかに、子どもに対して「誠実ではない」。


では、一見するとそんな兜甲児へのアンチテーゼ、または単なる嫌がらせのようにもみえるアムロ・レイの性格設定の裏付けとは何か。
これはまったくもって難しく考える話ではないと思う。
子どもの性格は(ある程度までは)親が決めるものだ。この当たり前の視点が、『ガンダム』以前は丸っきり見過ごされていた。

例えばこんなセリフだ。
第19話「ランバ・ラル特攻!
「ぼくが一番ガンダムをうまく使えるんだ。一番、一番うまく使えるんだ・・・」
命令違反をしたアムロは、ガンダムのパイロットを降ろされそうになって腹を立て、勝手にガンダムに乗り込むと脱走してしまう。いろいろあってホワイトベースに戻ったアムロは、チームワークを乱した罪によって独房に閉じ込められてしまうが、その時アムロが吐いた(当時は衝撃的だった)セリフがこれだ。

それは確かに客観的な事実ではあるが、普通のヒーローがこれまで決して口には出さないものだった。
それに、そもそもこの時のブライトはチームワークを問題にしているのに、アムロには問題の所在自体を理解する素振りもない。アムロにとって重要なのは、好結果につながる「効率・能率」だった。
このアムロの発想を辿れば、それは彼の父、テム・レイに至ることになるだろう。

第1話「ガンダム大地に立つ!!」。
ブライトを前にアムロの父、テム・レイはこう言う。
「ガンダムが量産されるようになれば、君のような若者が実戦に出なくても戦争は終わろう」
アムロの父親はガンダムやホワイトベースの開発の中心となった軍事技術者だ。彼はこのセリフに代表されるように、科学の進歩や工業の発展こそが人類の幸せにつながる、という信念を持っていた。その信念にもとづき、彼はまだ幼児だったアムロを母親から引き離し、当時建設中だった「サイド7」という宇宙コロニーに移住させる。そこに彼の考える人類の幸福の実現があったからだろう。

そしてアムロは、陰では「親父」呼ばわりしている父を目の前にすると、「父さん」と呼んで敬語で話しをする。それにアムロの趣味は機械いじりで、15才にして小型の愛玩用ロボットを作るまでの技術がある。つまり、アムロはこの父から多大な影響を受け、おそらく内心では尊敬もしていたのだと思う。

ただ、その父はまだ幼かった自分から母親を奪った張本人でもあった。
母のいない心の空白を埋めるためには、アムロは父の思想や理念を無条件に受け入れるしかなかったのだろう。父の人格はともかく、その行動は正しいのだと。

そんなアムロが、科学や工業の発展がもたらす「効率・能率」について否定的な感情を持つことはないだろう。そしてまた、チームワークなどというきわめて情緒的な問題が、それらに優先するものだとは考えにくいことでもあっただろう。


という具合でこの父と子には、わずかなセリフからではあるが、確かな繋がりが感じられるように思う。この親にしてこの子あり、という実感がある。
もちろん、仮にも人間を描いているのだから、そうそう全てが理屈通りに合致するものではないが、少なくとも『ガンダム』以前にはこのような「普通の」視点がなかったことだけは断言できるように思う。

母に続く

機動戦士ガンダム アムロ・レイ その2 〜戦後民主主義

アムロいろいろ

アムロ・レイの言動には、もちろん母カマリアからの影響もうかがうことができるだろう。

第7話「コアファイター脱出せよ」には、アムロのこんなセリフがある。
「あなたがたは自分のことしか考えられないんですか?」

執拗なジオン軍の追跡を振り切ろうと、必死で戦うアムロたち。しかしホワイトベースに乗っている避難民は、自分たちだけを地上に降ろしてくれと言い出してくる。
このとき、まずブライト艦長が
「あと一息で連邦軍の勢力圏に入るんです。それまでの我慢がなぜできないんですか?」
と諭したのに対し、避難民が
それまでの命の保証は誰がしてくれるんです?
と返してきた。
それを聞いたアムロが言ったのがこのセリフだ。

アムロは続けてこうも言う。
「誰が、自分だけのために戦うもんか。皆さんがいると思えばこそ戦ってるんじゃないか。僕はもうやめますよ?」
このセリフは、(あのアムロにしては)なかなか感心なものだろう。
アムロだって成り行きでガンダムを操縦してはいるが軍人ではなく、避難民同様の民間人だ。命の保証なんて、あるわけがない。それでもホワイトベースのみんなが生き残れるよう、恐怖心をこらえて戦っているのだとアムロは苛立っている。

しかし、そのたった2話あとの第9話「翔べ! ガンダム」でアムロは豹変する。出撃拒否をし、それを諫めに来たブライトにぶん殴られたアムロはこう言い放つ。
戦いが終わったらぐっすり眠れるっていう保証はあるんですか?
ブライトもこれには口をあんぐりと開けて「保証?」と言葉を失ってしまう。つい先日、誰にもできっこない「保証」を求める避難民にいらだちを見せたアムロが、今度は自分の睡眠についての「保証」をブライトに求めてくれば誰だって混乱してしまう。


こういったアムロの精神分裂ぎみの傾向の根っ子には、おそらく母カマリアに対するアムロなりの葛藤があるとぼくは思う。もともとは地球で家族3人の生活を送っていたアムロは、まだ幼い頃、父に連れられて宇宙コロニー・サイド7に移住した。ところがこの際、母カマリアはまだ幼いアムロと離れて地球に残ってしまう。その理由はこうだ。
私は宇宙の暮らしって馴染めなくて

むろん、理由はそれ以外にもあったのだろうが、とりあえず作中で語られたのはこれだけだ。
カマリアは自分が宇宙コロニーでの生活をしたくないという理由で、アムロの養育を放棄してしまった。育児よりも、個人的な感情を優先した。さらに、これは後で分かることだが、地球がジオンとの戦場になると彼女はアムロと暮らした家まで放棄してしまった。

子どもを捨て、家も捨てる。
これは70年代に広く叫ばれていた、女性の自立、男女同権、ウーマンリブ運動の成れの果てだろう。そしてその大元には、戦後民主主義の中核である人権最優先思想があるだろう。個人の自由や権利は何よりも大切だとする考え方だ。

自分を捨てた母親をアムロが恨んではいなかったことは、第13話「再会、母よ・・・」のエピソードから十分に見てとれる。おそらく幼い日から、アムロはずっと母親の行動を理解し、受け入れようと努力してきたのだろう。それはつまりは戦後民主主義的な考え方を受け入れることに繋がる。

しかしその一方で、心の奥底には自分から母親を奪った個人主義への疑問は残っていたのだろう。
アムロの「保証」に対する正反対の言動には、その葛藤のあとが見てとれるとぼくは思う。
そしてその葛藤の結果として、アムロは時には個人的な感情に走ることもあれば、またある時には他人の自己中心的な行動に激しい苛立ちを覚えるのだろう。


てな感じで見ていくと、アムロというキャラクターが、必ずしも(兜甲児以来の)熱血ヒーローへのアンチテーゼとしてのみ設定されたネクラのオタクではないことが理解できるように思う。
アムロの父親が象徴しているのは、科学や工業の発展につながる効率・能率優先の考え方だった。これを、高度経済成長からやがてはバブルに踊るまでに至る、戦後日本の外面的な姿だとしよう。
そしてもう一方のアムロの母親は、戦後日本の内面、すなわち個人の自由や権利を優先する戦後民主主義を象徴しているとしよう。第13話でカマリアがアムロにみせた絶対平和主義も、それをあらためて強調するものだ。

子は親の鏡というが、そうしてみるとアムロの分裂気味の性格というものは、実のところ戦後日本の外面・内面の表象から導き出される、しっかりとした裏付けを持ったものであることが感じられる。アムロのキャラクターは、そう成るべくして成ったもので、制作者が脳内でテキトーに考えただけのものではない。

そしてあの時代には多数のテム・レイが存在し、多数のカマリアが存在した。ならば同じように、やはり多数のアムロも存在したのだろう。ぼく自身はそうではなかったが、アムロに自分の分身を感じる人が多数いたとしても、それは何も不思議なことではない。


・・・それにしても、このアムロの放つ破壊力は半端ではないだろう。
『ガンダム』の後では、もはや脳内でテキトーに考え出された熱血キャラの居場所などは存在しない。主人公の人格を形成する裏付けなしに、ぼくらがそのキャラクターに共感することは難しくなってしまった。
アムロこそがまさに戦後日本にありうるべき少年であるとしたら、一切の熱血ヒーローはみな虚構であり虚像であることになる。アムロを知ったあとに兜甲児が現れたとして、一体どこの誰が兜甲児のほうにリアリティを感じることが出来るだろう?

つづく

機動戦士ガンダム アムロ・レイ その3 〜ニュータイプ

いべんと

重複になるが、『機動戦士ガンダム』の富野監督が問題にしていたのは、従来のアニメ作品のなかに存在する「嘘」だった。『月刊ガンダムエース9月号』(角川書店)には、次のような監督の言葉がある。

「子供にとって一番大事なことは何だろうと考え、35歳の自分が出した結論は、ともかく嘘はついちゃいけないということだった。それを物語の芯にしようと思ったのね。それが『海のトリトン』という作品だった」


従来のアニメには「おとなの嘘」が含まれている。
分かりやすいのが主人公たちのキャラだろう。兜甲児(マジンガーZ)にせよ、剛健一(ボルテスV)にせよ、基本的には正義感の強い熱血漢で、どうやら死さえも恐れていないような印象がある。
だが、本当に彼らが「普通の少年」であるなら、彼らの本音は実はこんなものなんじゃないだろうか。

「死にたくないからやっているだけさ」
「ぼくはしょっちゅう戦わされてんだ」
「何回も何回も(ガンダムに)乗せられたんだ」

むろん、3つとも我らがアムロ・レイのセリフだ。

ここには、ロボットを管理する大人たちが、少年たちの持つ優れた反射神経や動体視力を大いに利用してきた歴史が暴露されているように思える。実際のところ、マジンガーZを兜甲児が操縦しなければならない理由はどこにもなく、兜甲児にしか操縦できない理由もまた、ない。兜甲児がそれを受け入れたから彼はマジンガーZに乗っている、ということになっている(所有者という面もあるが)。
要するに、兜甲児は、制作者を含む大人にとって都合のいい少年だった・・・。


一方、アムロの方には彼がガンダムを操縦することへの根拠が、一応は与えられている。
ご存じ、「ニュータイプ」という概念だ。

一言で説明するのはぼくには難しいが、少なくともファースト・ガンダムの時点では、宇宙生活のなかで人類が獲得した拡大された認識力や認知力、というようなイメージだったと思う。そして、いきなりガンダムを操縦してしまったアムロこそが、最も高い素質を備えた「ニュータイプ」だ、と考えられていたように記憶する。

そして、その証拠とばかりに戦いの中でアムロの能力は見る見るうちに向上し、背後の敵まで感知できるほどになっていく。反射神経も常人の比ではない。たった一機で敵モビルスーツの十体やそこらは十分に相手できるほどだ。
これを敵側からみれば、もはや「超人」と呼ぶしかないだろう。アムロは普通の人間の能力をはるかに超えた存在になった。

が、実際にはぼくらはこのアムロのような超人を多数知っていた。
仮面ライダーだって、変身忍者嵐だって、超人バロム・1だって、みな人間の能力が飛躍的に拡大された姿だ。
ただし、アムロがちょっと違うのは、その能力がガンダムに乗ることで初めてフルに発揮されるという点だが、それだって一種の「変身」といえば変身だろう。

ところがこの我らの「変身ヒーロー」は、必ずしも劇中で絶賛されてはいなかった。
ニュータイプは万能ではない。戦争の生み出した、人類の悲しい変種かもしれんのだ
いまというときでは、人はニュータイプを殺し合いの道具にしか使えん

いずれもアムロのライバル、シャア・アズナブルのセリフ。
シャアの言うとおり、アムロは巨大な戦場にあってはアリのようなものだった。何千何万という兵が入り乱れる戦場で、一人で十人倒せることに何の意味があるのか。アムロの素晴らしい能力は、自分の周りにいる十人ほどの敵を倒すことにしか使われなかった。

つまりは局所的な兵器であり、殺し合いの道具。それがニュータイプだとシャアは言っているわけだ。ニュータイプには世界を変えるどころか、ちょっとした戦局を変えることさえ難しい。本当の戦場にあっては、ニュータイプはあまりにも無力な存在でしかなかった。

ならば仮面ライダーたちはどうだろう?


さて、以上のような例に見られることを、ぼくは『機動戦士ガンダム』による70年代ヒーロー番組の「解体」だと思っているわけだ。解体されたのは、むろん「おとなの嘘」だ。
ここでいう「おとな」とは、要はアニメを作る側にいる人々のことだが、彼らが往々にして安直な方向に走ることが富野監督を苛立たせてきたことはすでに書いたとおり。
では、そんな富野監督が「解体」しなければならない「安直」には何が残っているのだろう。

ぼくはそれを「成長」だと思う。
『機動戦士ガンダム』は、少年アムロの成長物語だった!
・・・何とも安直な解釈ではないだろうか。

確かにアムロは物語の終盤に近づくにつれ人間的にも丸くなり、チームワークを乱すようなこともなくなった。それどころか、みんなの意見のまとめ役になることさえあった。だが、事の始めからずっとアムロと行動を共にしてきたセイラさんには、こんなセリフもある。
・・・慣れていくのね。自分でもわかる

このセリフはテレビ版には存在せず、総集編である劇場版でわざわざ加えられたものだ。しかもそれは、今まさにアムロがニュータイプとしての能力を開花させる直前に吐かれた。セイラさんは言っている。これから起こるアムロの戦場での活躍は「成長」のような喜ばしいものではないんだと。それは戦うこと、人を殺すことへの「慣れ」でしかないんだと。

『機動戦士ガンダム』は、こうして観る側の安直ささえ否定したように、ぼくには思えるのだった。

つづく



※ちなみにアムロの「成長」を人間性の面で測ろうとすることも、続編である『ゼータガンダム』で否定されてしまっていると見ているが、この件はいずれまた。

機動戦士ガンダム コモンセンスとニュートラル

月刊ガンダムエース9月号

少々くどくなってきたが、『機動戦士ガンダム』制作当時の富野監督の問題意識について、もう少し。
前回までの記事では、「子供に対して誠実でない」従来のアニメに対して、「(子供に)嘘はついちゃいけない」というスタンスから富野監督が『ガンダム』に向かい合っていた点について書いてみた。

だが、嘘はつかないと口で言うだけなら易しいが、それをアニメ制作の現場で具体的に実行するにはどうしたらいいのか? 『月刊ガンダムエース9月号』のなかで、富野監督はこんな話をしている。

「少なくともファーストガンダムはコモンセンスだけで作った。分かりやすく言うと、右翼でも左翼でもなくニュートラルを貫いたんです。朝鮮戦争までの戦争の図式に則って、それを反戦でも軍国主義でもなく、ただひたすらニュートラルを意識して戦争を描いた。だから僕の主義は一切ガンダムには入れてません。子供が見るかもしれないんだから、絶対に右にも左にもブレないという覚悟をもって作ったんです」


コモンセンス・・・。辞書を引けば、常識とか良識とか分別とか、そういう意味だとされているが、この対談の別の場所では、「普通」という意味として使われた言葉でもある。これをまとめれば、子供に嘘をつかないこと=子供に「普通」の話をすること、で実行されることになる。

ちなみに上記に引用した監督の発言は、次のような安彦良和氏の発言への回答でもあった。

「僕はガンダムというのは非常に大きな社会的、歴史的意味を持った作品だと思っています。(中略)つまり、本来のサブカルのエリアを超えちゃったのね。なぜ超えたのかというのを、これから話し合っていきたいと思うんだけど・・・」


ここで安彦氏のいう「サブカル」がどこまでの範疇を指しているのかは、お二人の議論がいまいち噛み合っていないためハッキリとは分からないんだが、少なくとも『ガンダム』が従来のアニメのエリアを超えてしまったことだけは、「普通」の感覚の持ち主であれば認めざるを得ないことだろう。
そしてその理由は、『ガンダム』がコモンセンスに基づいてニュートラルに作られた作品だから、と富野監督は断言しているわけだ。

となると、これを逆に考えれば、従来のアニメは「普通」の感覚ではなく、ニュートラルでもない、そういうことになるだろう。そしてそこには「大人の嘘」がある、と。


勿体ぶった言い回しは多忙な友人たちの迷惑になるので、結論から言ってしまいたい。
アニメといっても「カルピス名作劇場」みたいなものもあるのでロボットアニメやヒーロー番組に絞ることになるが、それらが吐いている「嘘」とは、要するにアメリカのことだ。

在日米軍や日米安保。
本来、日本の存亡をかけた戦闘を描いているはずのロボットorヒーロー番組から、アメリカ軍の存在はほとんど抹殺されている。『鉄人28号』『ジャイアントロボ』『マジンガーZ』『ボルテスV』・・・どこにも在日米軍は登場してこない。まるでそんなものは最初から存在しないかのようだ(ちなみに1961年に公開された東宝『モスラ』には、ちゃんと在日米軍が登場するが、これは『モスラ』が成人向けの映画だという証明になるのかもしれない)。

日米安保も在日米軍も存在しない日本。
コモンセンスに照らし合わせば、これが「大人の嘘」であることは余りにも明白だ。つまりは、日本がアメリカ軍によって保護されているという事実は、”子供が知らなくていいこと”だとされているわけだ。あるいはそれは、”子供に知られたくないこと”なのかもしれないが・・・。

いずれにしても、このような「嘘」で固められたロボットorヒーローアニメが、「ニュートラル」だとは到底考えにくいことだ。
では、それは「右」なのか「左」なのかと言えば、もちろんのこと「左」だろう。在日米軍の存在しない日本を望んでいるのは「左」だと考えるのが普通だ。
さらには自衛隊はいつもミジメなヤラレ役で、活躍するのは民間人である少年(鉄人28号)や私設の研究所(マジンガーZ、ボルテスV)、よくて国連組織(ジャイアントロボ)というのでは、バリバリの「左」としか言いようがない。

要するに、ここには「国」がない。
個人、民間施設と来て、いきなり国連に飛んでしまう。国家が国民を守るための戦いは、一体どこへ行ってしまったのか(不思議と円谷プロ系の特撮は国家による防衛組織が多いが)。


という具合で、従来のロボットorヒーローアニメの多くは、在日米軍や日米安保の存在を隠蔽したうえで、国家が国民を守らない世界の物語を描いてきた。

さて、もうお気づきだろうが、『機動戦士ガンダム』とは、まさにこの世界観そのものをスタートラインに置いた作品だ。そこには「アメリカ」の姿はない。そして「日本」という国もない。従来のアニメがついてきた「嘘」が、『機動戦士ガンダム』では「現実」とされた。

だが、それにも関わらず、『機動戦士ガンダム』は「アメリカ」と「日本」を見事に描ききった作品だったとぼくは思う。
アムロ・レイに戦後日本の精神風土が反映されていることはその一例だろう。
つまりは「嘘」の世界に意識的に飛び込むことで、その「嘘」を内側から食い破ってしまった作品が『機動戦士ガンダム』だったのではないか、なんて感じにぼくには思えるのだった。

つづく

機動戦士ガンダム ホワイトベースと平和憲法

ホワイトベース

マジンガーZ』に始まる”スーパーロボットもの”のストーリーを一言で言えば、役に立たない自衛隊になり代わって、民間の戦闘用ロボットが侵略者の魔の手から日本の平和を守っている話、となるだろう。そして劇中では、そういった民間人による自衛の行為が「正義」だと見なされてきた。

俺はDr.ヘルの野望を叩くために、このマジンガーZを正義のために使うことを、今ここに誓う
これは『マジンガーZ』第2話の兜甲児のセリフだが、甲児にとっての「正義」を具体的に言えば「Dr.ヘルの野望を叩く」ことになるようだ。

が、果たして甲児がこの言葉どおりの行動をとっていたかと言うと、そうとは言い切れないことは事実だろう。
そもそも「世界征服」を狙うDr.ヘルがどうして毎回毎回日本に現れるかと言えば、それは日本の光子力研究所だけが保有する「光子力」や「超合金Z」を手に入れるためだ。それだけがヘルに対するアドバンテージなので、当然のごとくマジンガーZの任務は光子力研究所を死守することが第一となる。
その結果、『マジンガーZ』における戦場は、そのほとんどが光子力研究所の所在地である富士山麓で展開された・・・。


これを、番組を続けていくための方便だと考えるのは大人の事情。
子どもからすれば、どうして甲児はエーゲ海にあるDr.ヘルの本拠地に攻め込まないんだろう? という疑問が沸いても不思議ではない。

だが、長じるにつれてその謎は解けていくはずだ。
甲児が海を渡ってエーゲ海まで進軍しない理由・・・。それは「平和憲法」にある。

ぼくらの時代は、たしか小学校6年生でこの「平和憲法」について学んだような記憶があるが、要は日本は専守防衛以外の軍事行動を禁止されている。いかにマジンガーZが民間所有のロボットとはいえども、戦闘用であることは一目瞭然だ。そのような兵器が海外渡航をするなんて、およそ許されることではない。なるほどね~。

結果として甲児は、いかにもDr.ヘルの「世界征服」の野望から日本を、さらには世界を守っているかのように見せながら、その実態は静岡県あたりの一部の地域を守っているだけだった。ちなみにこの構図は同時期の『ゲッターロボ』にも見ることができる。光子力研究所の代わりに早乙女研究所が存在し、やはりそこにもゲッター線という敵に対するアドバンテージが存在した。

と言って、別にぼくはそれらの設定をバカにしたり否定したりしているわけじゃあない。
憲法9条を逆手にとって、戦闘地域を無理なく限定するなんて、なかなか考え抜かれた設定だろう。たかが一体のロボットで世界中の戦闘に駆けつけるなんて、最初から不可能なことだからだ。

しかし、それを「正義」だと言い切ってしまうのはどうだろう?
たしかに光子力研究所の持つテクノロジーを悪用されないために守り抜くという思いは正しいのだろう。だが光子力研究所の存在自体が、近隣都市に戦乱を強いていることも事実だ。また、ヘルの地震兵器によって日本各地が災害に見舞われ、その中止と光子力研究所が交換条件に使われるというエピソードもあった(参考記事 - マジンガーZと市民運動)。

要するに、甲児の言う「正義」は、多大な犠牲の上に成りたつ「正義」だった。
もちろん、だからと言って無防備主義者の言うように「光子力」や「超合金Z」をDr.ヘルに渡してしまえ、ということではない。それでは単に、悪事に協力する行為でしかない。
そうではなく、この「正義」の本質、正体とは何か? ということを考えたい。
答えは『機動戦士ガンダム』の中にあるとぼくは思う。



ということで、ようやく本題に入ったわけだが、まず整理しておきたいのが『マジンガーZ』と『機動戦士ガンダム』の類似点だ。特に、戦闘の中核である「基地」、それぞれ光子力研究所とホワイトベースがそれに当たるが、そこには少なく見積もっても三つの共通点があると思う(※ただし初期のミッション遂行中のルナ2からオデッサあたりまでの話)。

めんどくさいのでストーリーは省略するが、まず第一点は、その存在自体が敵の目標であること。
第二に、中にいるのが非戦闘員中心(および非戦闘員に限りなく近い新米の軍人)であること。
第三に、専守防衛であること。

宇宙空間を飛行できる軍艦と、地上に建造された研究所。
見かけは全く異なる両者だが、その実態はこれほど似ている。いや、似させられているというべきかもしれない。
だから当然の帰結として、『マジンガーZ』で起こったのと似たような事件が、ホワイトベースでも起こり得る。

第11話「イセリナ、恋のあと」。
サイド7を脱出したホワイトベースは、執拗なシャアの追撃を交わしつつ、地球へと降りてくる。
目的は二つ。一つはホワイトベースやガンダム等の新型兵器を連邦軍本部に届けること。もう一つはサイド7で収容した避難民を、安全な連邦の勢力圏まで連れていくこと。アムロ自身も避難中の民間人の一人だったが、生き延びるためにやむなくガンダムに乗り込んで戦っていた。

ところが避難民のなかには、自分は戦おうともしないで、他人に我が身の安全を要求するだけの者たちも多くいた。彼らはホワイトベースが北米大陸に到着すると、そこがまだジオン軍の勢力圏であるにも関わらず、自分たちだけをホワイトベースから降ろしてくれと騒ぎだした。その理由がこれだ。
ジオンが狙っているのはホワイトベースとガンダムだ。わしらは関係ねえ

この避難民の主張が、『マジンガーZ』で光子力研究所をDr.ヘルに明け渡せとデモを起こした民衆(?)の主張とまったく同じものであるとは明白だろう。

つづく

機動戦士ガンダム ホワイトベースと光子力研究所

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前回の記事では、『機動戦士ガンダム』のホワイトベースと『マジンガーZ』の光子力研究所の間には、かなりの類似点があることを挙げてみた。

このことは、ホワイトベース同様に宇宙を飛行する軍艦である宇宙戦艦ヤマトが、専守防衛でもなければ敵の目標でもなく、多くの民間人が搭乗しているわけでもないことを鑑みると、制作側が露骨に意識したものだと考えたくなるところだ。つまりターゲットは『マジンガーZ』に絞られている・・・。

で、そうなると一つ面白い可能性が出ててくる。
それは、『機動戦士ガンダム』の劇中でホワイトベースがどう見られていたかを考えることで、『マジンガーZ』世界における光子力研究所とは何だったのかが見えてくる、という可能性だ。
だとすれば、ホワイトベースはまさに、光子力研究所を「解体」していることになるんじゃなかろうか?


では順番に。
それはまず、アムロやブライトには「囮」だと言われた。
ホワイトベース(やガンダム)の優れた性能から予想される脅威が、敵をそこに引きつける。そして敵がそこに引きつけられている限り、そこ以外の場所は安全だというわけだ。

さらにそれは、連邦の将軍に「厄介者」だと言われた。
ようやく南米の連邦軍本部(ジャブロー)に到着したホワイトベースは、それを執拗に追跡してきたシャアに本部への案内をして来たようなものだった。入り口を発見されたジャブロー内部は、これを機に交戦状態に突入してしまう。
ホワイトベースの近くにいると災いに巻き込まれてしまう典型だ。
そういえばアムロが暮らしていたサイド7も、ホワイトベースの入港がきっかけで宇宙空間に浮かぶ粗大ゴミになってしまったのだった。


このうち後者については、『マジンガーZ』劇中でも何度か似たような表現がされたことは既に見てきた通りだ(マジンガーZと市民運動)。Dr.ヘルは、光子力研究所が持つテクノロジーを求めて襲来してくるんだから、当然のように近隣の都市だけがいつも戦闘に巻き込まれる。
とんだ厄介者だ。

では前者の方はどうかと言うと、これも実は『マジンガーZ』の劇中から探すことが出来るものだったりする(マジンガーZとアメリカ)。繰り返しになるがもう一度書いておくと、第33話で弓教授に助言を求められたニューヨークのスミス博士は、別れ際にこんなセリフを吐いたのだった。

われわれは彼(Dr.ヘル)を倒すためには、どんな援助も惜しみませんよ

酔っぱらって半分居眠りしながらDVDを観ていたぼくは、この発言を聞いて一気に目が覚めてしまったもんだ。
えんじょ・・・援じょ・・・援助を惜しまない・・・?
この、当事者意識のなさは一体どういうことだ? 
要するにアメリカ在住のスミス博士にとって、Dr.ヘルの侵略は「他人事」ということなのか?

だが、日本で(と言うか静岡県で)Dr.ヘルとの必死の戦闘を続けている兜甲児には、そんなスミス博士に怒りをぶつける権利はなかった。最終回第92話。いろいろあってマジンガーZを失い、その後釜にもっと強力なグレートマジンガーが準備されていることを知った甲児は、心と体の傷を癒すためと称し、なんとアメリカに留学してしまったのだ。

これはつまり、その地は甲児から見て「安全圏」にある、ということだろう。
そしてその「安全圏」に住む人は、日本での戦闘を「他人事」として見ている・・・。


ぼくにはこの状況は、光子力研究所がその「安全圏」を維持するための「囮」となっているように見えるが、そりゃコジツケだという人もいるだろう。
では、こんなセリフはどうだろうか?

それは、ついに連邦軍の連合艦隊が、ジオン軍との最終決戦に向かう道中のホワイトベース艦内の会話だ。サイド7脱出以来のアムロの戦友であるカイ・シデンは、自分たちの戦いについてこう言った。
問題なのはオレたちが連邦の無能な官僚や参謀の盾となって死ぬってことなんだ」(劇場版「めぐりあい宇宙編」より)


「囮」「厄介者」に続くホワイトベース論、それは「連邦の盾」というものだった。
それではもしも、ホワイトベース=光子力研究所という仮説が成立するとしたなら、光子力研究所はいったい何の「盾」となっているんだろうか?

つづく

機動戦士ガンダム 地球連邦政府=アメリカ合衆国

デギン

カイ・シデンが、自分たちがその「盾」になっていると断言した「地球連邦」とは何か?
不思議なことに『機動戦士ガンダム』全43話のなかで、この「連邦」について語られたことはほとんどない。その歴史も政体も理念も、その他もろもろ、何一つと言っていいほど説明されない。

だが、それを子ども番組ならではの手抜きや省略だと考えるのは間違いだろう。
なぜなら、もう一方のジオン公国については、それらは十分過ぎるほどに語れているからだ。ジオン公国の首都はサイド3のズム・シティーにあるし、国家元首はデギン・ザビ。議会もあって、首相の名前はダルシアさんだ。国家理念はジオニズムだとか。

それでは何故、一見すれば「正義」の側に立つと見られる「連邦」についての説明はないのか?
ぼくの愛読書の一つに井沢元彦さんの『逆説の日本史』というシリーズがあるが、このなかで度々登場してくる主張にはこんなものがある。いわく、

当たり前のことは記録されない

井沢さんの主張は歴史書の読み方を指しているわけだが、これを強引に「連邦」に当てはめればこうなるだろう。
「連邦」とは、ぼくらが当たり前に知っている世界のことである、と。

確かにそう言えば、ぼくらはアムロらの生きる連邦世界での生活様式に、基本的には違和感を覚えない。彼らは洋服を着てコーラ(らしきもの)を飲み、ハンバーガー(らしきもの)を食べる。自由や人権に対する考え方なども、おおむね似たようなもんだ。

だからぼくらは特に深く考えることなく、連邦にもどこかに人口が密集した首都があり、そこには民主的な選挙を経た議会があり、官公庁や政府があると感じることができる。
要は、そこはぼくらが現実に生きるこの世界の、延長線上にあるんだと・・・。


ところがこの連邦を、現在の国連(連合国)が主導して樹立された世界政府のようなものだと考えていると、とんだカウンターパンチを食らってしまう。言うまでもない、ご存じのようにこの連邦からは、現在の国連本部のあるアメリカ合衆国が除外されているからだ。
北米。
そこはジオン軍に占拠されて、連邦の地図から消えた土地。

地球はおろか、宇宙にまでその版図を広げている連邦から、なぜアメリカだけが消えているのか。
大気圏から地球に降下したホワイトベースは、シャアの策略によって、わざわざ敵地である北米に誘導された。そして延々と北米大陸を横断させられた。その結果、ぼくらは第5話から第11話の間、荒れ果てて人も住めなくなった北米を、ずっと見せつけられた。

『機動戦士ガンダム』は創作なんだから、ホワイトベースがどこを旅するかなんて、制作者が自由に決めることができる。それをわざわざシャアの策略ということにして北米に誘導した・・・。


自然に考えれば、もしも国連(連合国)が主導する形で「連邦」が樹立されたのなら、世界でもっとも重要な場所はアメリカに集中していることになるだろう。
ところがそのアメリカだけが、ジオンに奪われたままの敵地となっているのは一体どういうことか。

くどいようだが『機動戦士ガンダム』は単なる創作物だ。
ジオンが地球上のどこを占拠しようと、それは制作サイドの思うがままだ。
それをわざわざ、現在においても世界の中心と見なされるアメリカに指名したんだから、そこには何かしらの意図がある。と、ぼくは思う。
つまりはこれは、一種の謎かけ、暗号のたぐいではなかろうか?


そう思うとき、『機動戦士ガンダム』のなかに、どことなく似た雰囲気を持つエピソードが存在することに思い当たる。
それは、ジオン公国誕生の瞬間という、『機動戦士ガンダム』において最も重要とも言える一幕だ。

そもそものジオン共和国を作った人は、シャア・アズナブルの実父、ジオン・ダイクンだ。ダイクンは、息子のシャアによると
「宇宙移民者の独立主権を唱えて地球連邦政府に独立運動を起こした」
しかし
「(側近の)ジンバ・ラルはわたしたちを育てながら、デギン・ザビ公王が父を暗殺したといい続けていた。父の死をもたらした病を仕掛けたのがデギンであるのは事実だ」

この経緯はテレビ版38話では、ジンバ・ラル本人による言葉で説明されている。
「ところが急の病に倒れ、その御臨終のきわにお父上はデギン公を御指名になったのです」
「私はジオン様の御気性をよく存じております。
デギン公を御指名になったのは、御自分の暗殺者がデギン公だと教えたかったのです


暗殺者であるからこそ、後継者に指名されたというデギン。
この理屈は普通に考えれば変だ。逆だ。
『機動戦士ガンダム』という、徹底してリアリティにこだわった作品のなかで、このジンバ・ラルの発言だけは分かったような分からないような、妙な後味が残る。何だか不思議なロジックだ。

ところがここに、同様のロジックをもってすれば、その違和感が解消するものがある。
なぜ連邦の地図からアメリカが消されているのか?
そして、なぜその状態が半ば放置されているのか? という違和感だ。

ここに、当たり前のことは記録されない、という観点を加味すれば、導かれる結論はこうなるだろう。

それは、世界全体がアメリカだからだと。
連邦全体がアメリカだからこそ、北米大陸にはもはや特別の意味はなく、それを奪回する必要さえないのだと。


つづく

機動戦士ガンダム ジオン公国=大日本帝国

じーくじおん

機動戦士ガンダム』の制作スタッフたちが、”打倒ヤマト”の思いを強く抱いていたことは良く知られたことだ。
が、そうは言いつつも、彼らが巧妙に利用したものの一つが「連邦政府」だろうとぼくは思う。すでに『さらば宇宙戦艦ヤマト』に「連邦政府」が登場していたからこそ、当時のぼくらは「あーゆー世界なわけね」と、容易に思考停止することができた。そうでなければ、「連邦政府?なにそれ?」に対する説明を『ガンダム』も求められたことだろう。

ところで、そんな『さらば宇宙戦艦ヤマト』の物語は、ヤマトがその地球連邦を守るために、強大な敵に体当たりを食らわそうとするシーンで幕を閉じる。ただし、映像には巨大な爆発が映されるだけで、ヤマトが実際にはどうなったかの描写はない。つまり、あの爆発がテレサの手によるものか、ヤマトの特攻によるものかは定かでない・・・。

・・・もしかしたらヤマトは生き残ったのではないか・・・。
そんな願望、というか妄想は、あの結末を受け入れがたい思いで見つめた人々が、等しく共有したものだろう。
ヤマトは地球を離れはしたが、まだ生きている・・・。
そして、消えてしまった「日本」の復活を願っている・・・。

だが、もしもヤマトがあの大和であり、あの時代の日本そのものであるとしたら、ヤマト=大和=日本が目指すべき道の先にある場所はどこなんだろうか?

言うまでもない。それはアメリカしかない。北米大陸しかない・・・。


などと、わけの分からない話はここまでにするとして、さて、前回の地球連邦に続いて考察すべきものは、当然、相手方のジオン公国ということになるだろう。
ジオンとは何か? ジオンが意味するものは何なのか?
そのヒントは、いつでもぼくらの目の前にあったように、ぼくは思う。

人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって、既に半世紀が過ぎていた。地球の周りの巨大な人工都市は人類の第二の故郷となり、人々はそこで子を産み、育て、そして死んでいった。
宇宙世紀0079、地球から最も遠い宇宙都市サイド3はジオン公国を名乗り、地球連邦政府に独立戦争を挑んできた。この一ヶ月あまりの戦いでジオン公国と連邦軍は総人口の半分を死に至らしめた。人々はみずからの行為に恐怖した。戦争は膠着状態に入り、八ヶ月あまりが過ぎた


繰り返し繰り返し流された、番組冒頭のナレーションだ。引用したのは第1話のものだが、その後も適宜アレンジされながら、序盤のガンダム世界への導入役を務めた。

思えば『機動戦士ガンダム』は観る側に極度の集中を求めた作品だったが、このわずかなナレーションには、ジオンとは何かが極限まで凝縮されていたんだと今になって思う。
まず分かることが、この長大な物語が、ジオンの「独立戦争」によって始まったものだと言うことだ。物語の主体は、ジオンにあって連邦にはない。
もう一つが、ジオンが地球から「最も遠い」宇宙都市であるということだ。
ぼくに言わせれば、これだけでもうジオンが何なのかは十分に示唆されているように思う。

そもそものジオンは連邦の一部だった。ジオンは連邦の内部に存在するものだった。しかしジオンは宇宙移民者の解放を叫んで「独立戦争」を起こすと、連邦から「最も遠い」外部から、連邦の内部にむけて侵攻を始めた。そして北アメリカを連邦から奪った。
こういったジオンの一連のストーリーから連想するものは何だろう。

ナチスドイツはどうか? それはちょっと違うだろう。ドイツはヨーロッパのほぼ中央にあるし、その理念は「第三帝国」というように過去の強いドイツの復活を目指したものだ。

アメリカ独立戦争はどうだろう? これも違う。清教徒たちはたしかに世界(ヨーロッパ)の外部に飛び出したが、内部(イギリス)に向かって侵攻してきたわけではない。

ロシア革命のソ連はどうだ? たしかに「独裁」「革命」はザビ家に似たような雰囲気を感じさせるが、そもそもボルシェビキは「独立戦争」は起こしていない。

そう、それはもっと身近なところにある。
こんな国があったはずだ。国際連盟という世界の内部にいながら叛旗を翻すと、「極東」の地からアジアの解放を叫んで欧米の列強に宣戦布告をした国が。

いわずもがなの、大日本帝国だ。

つづく

機動戦士ガンダム 連邦の盾、アメリカの盾

zion

さて、ここでこれまでの話を整理してみるとこんな感じ。
まず、「悪」の側のジオンのストーリーには、かつての大日本帝国のストーリーがオーバーラップさせられていた。
そして、それを迎え撃つ「正義」の側に立つ連邦政府とは、宇宙にまで拡大したアメリカ的世界だった。

で、そうしてみると、要するに『機動戦士ガンダム』の世界とは、過去の日本と未来のアメリカの間に起こった出来事であるように思えてくる。
じゃあその世界でぼくらの日本はどうしているのかと言えば、そもそもそれは、存在すらしていない(世界政府なんだから当たり前)。ただの一地方の旧名でしかない。

ところが作品を詳細に検討してみると、実はその痕跡だけは残されていた。
それは、序盤のホワイトベースに見ることができる「平和憲法」的な物語であり、アムロレイの周辺に漂う「戦後民主主義」的な物語だった。
これらはいずれも、本来は現在のぼくらが生きる戦後日本にしか存在しないはずのものだ。

ではそんなホワイトベースが劇中でどう語られたかといえば、カイ・シデンいわく「連邦の盾」というものだった。連邦政府を攻撃してくるジオン軍の前に立ちふさがって、連邦政府を守っているのがホワイトベースだということだろう。

この構図・・・。
ぼくはこの構図は、そっくりそのまま『マジンガーZ』の世界にも適用することが出来るように思う。

そもそもDr.ヘルという人物は世界的に高名な科学者で、アカデミズムの中心にいた男だ。しかし彼は古代ミケーネ人の遺跡群を発見するとその地位を捨て、世界征服の野望に燃え上がった。ヘルは世界の内部から外部へと飛び出すと、内部に向けて侵攻を始めた。

ところがそんな大事態に対し、アメリカ人科学者たちはどこか「他人事」で、せいぜいが光子力研究所への技術援助を申し出る程度。それは、Dr.ヘルが侵攻している先が、日本の静岡県近隣に限られていたからだ。甲児らがヘルの狙う光子力研究所とそのテクノロジーを守っている限りにおいては、それ以外の世界の安全は守られているというわけだ。

そして今、漠然と「世界の安全」と言ってみたものの、この世界がどこを指しているかも明白だった。
最終回でマジンガーZを失った甲児が、心と体の疲れを癒すために渡った「安全」な場所は、アメリカ合衆国だった・・・。


以上、こういった『マジンガーZ』の世界観を、『ガンダム』を見終わったあとの視線で見直してみると、ぼくには兜甲児と光子力研究所は、本人たちの意思とは関わりなく、「アメリカの盾」であったように思える。

もちろん、『マジンガーZ』を単独で見た場合、彼らが「アメリカの盾」でしかないと見るような要素は存在しない。主人公たちは「日本を守るため」「世界の平和のため」そして「正義のため」に戦っている。そう叫び続けている。

しかしそれなら何故、ショッカーには大日本帝国のイメージが重ねられるのか。
なぜ変身忍者嵐は、悪に加担した父のあやまちを償わなければならないのか。
なぜ鉄人28号ジャイアントロボでは、アメリカの存在が無視されなくてはならないのか。
正義のエージェント・超人バロムワンは、ほんとは何のエージェントなのか・・・。

それらあの時代の子ども番組を俯瞰してみたとき、ぼくが共通して感じる印象は、悪=大日本帝国、正義=アメリカの構図だ。アメリカというと語弊があるかもしれないので、それぞれ、戦前と戦後に言い換えてもいい。
要は、ヒーローたちが守るべき「平和」も「正義」も、それは戦後にアメリカの力でもたらされたもので、彼らはその現状を維持するために戦っている。それらを守る「盾」となって戦っている・・・・。


お断りしておくが、ぼくは今ここでその是非を問うているわけじゃあない。それが「自虐史観」と言われる思潮と一致するなんてことは、他でさんざん書いたことだ。
そうではなくて、70年代最後の年に登場した『機動戦士ガンダム』が、それ以前のヒーロー番組に秘められていた構図を、白日の下に暴露してしまった事実を言いたい。『ガンダム』の登場によって、いわゆる勧善懲悪的なヒーロー番組は、その世界観からしてが解体されたのだと。


そしてその最たるものは、「悪」であるジオン公国の扱いにあるだろう。
これまでのヒーロー番組なら、ジオンは自らの野望・欲望のために世界の平和を乱す侵略者として描かれたことだろう。どこか、大日本帝国の影を引きずりながら・・・。
だが、自分たちを「連邦の盾」だと看破したカイ・シデンは、同じセリフのなかでジオンをこう評したのだった。

「ジオン公国は地球連邦の独善から逃れようとして戦っているんだ」

つづく


<補足>
上記に引用したカイ・シデンのセリフは、テレビ版・劇場版いずれの本編にも存在しないものでした。出典は『ロマンアルバム・エクストラ50 機動戦士ガンダム? めぐりあい宇宙編』の中の「AR台本(抜粋)」より、となります。
参考までに、その周辺のやりとりも引用しておきます。

カイ「親孝行しにいっちゃいけないのか」
ブライト「生きのびたいだけなら、それもいい」
カイ「オレのいっていることはそういうことではないぜ。ジオン公国は地球連邦の独善からのがれようとして戦っているんだ。ザビ家独裁は倒さにゃならんが、問題なのはオレたちが連邦の無能な官僚や参謀の盾となって死ぬことなんだ。そいつはいやだ」
ミライ「カイのいうことは正しいわね。でも、いまの相手はザビ家そのものよ」

機動戦士ガンダム アムロが戦う理由〜ララァ

ララァ

※前回までの記事に対し、「ジオン=大日本帝国」はおかしいのではないか、というご指摘をいただきました。もしかしたら同じような感想を持たれた方もいるかと思いますので、この場で釈明させていただきます。

結論から言ってしまえば、ぼくも「ザビ家=大日本帝国」なんて記述をみたら、アホらしいのでそれ以上先を読むことはないでしょう。ぼくが言いたかったのは、あくまでジオン共和国~初期ジオン公国が作中で置かれた立ち位置が、従来のショッカーやらDr.ヘル(地下帝国)と同じだということです。

ぼくは『機動戦士ガンダム』とは、旧来の『マジンガーZ』等の「子どもに対して誠実ではない」ロボットヒーロー番組を、「コモンセンスとニュートラル」のスタンスから書き換えられた作品だと考えます。手法としては、徹底したリアリズムということになるでしょう。

そうして作られた『機動戦士ガンダム』は、結果的に『マジンガーZ』等の世界観の真実を暴露してしまったようにぼくには思えます。リアリズムの観点からみれば、それまでは悪の侵略者だと単純に決めつけられてきた「敵」にも、十分な説明と整合性が必要とされるでしょう。そのとき、初期のジオンが置かれた位置こそが「大日本帝国」のイメージであって、このことにより『機動戦士ガンダム』は、それまでの作品群がなんとも安直に「悪」だ「侵略者」だと決めつけてきた「敵」が何だったのかを、問わず語りに物語ってしまったのではないか・・・というのが話の主眼です。
あくまで初期設定の話ですので、その後のザビ家による残虐非道と大日本帝国には何の関連もありません。

ちなみにぼくは(ホロコースト的な意味での)「南京大虐殺」が史実だとは思ってませんので、ザビ家を大日本帝国と同一視することなぞ、心外なくらいに有り得ない話なのです。


と、言い訳はこのくらいにして本題に入ると、ジオンという、「正義」を主張してくる敵役の存在に驚かされたのが『機動戦士ガンダム』の思い出の一つだったが、ぼくにとって更なる衝撃だったのは以下のやりとりだった。

ララァ「なぜ、なぜなの?なぜあなたはこうも戦えるの? あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに」
アムロ「守るべきものがない?」
ララァ「私には見える。あなたの中には家族もふるさともないというのに」
アムロ「だ、だから、どうだって言うんだ?」「守るべきものがなくて戦ってはいけないのか?」
ララァ「それは不自然なのよ」

第41話「光る宇宙」で交わされたアムロとララァの会話だ。
このやりとりについては、まずアムロの弁護を先にしようと思う。ララァは「私には見える。あなたの中には家族もふるさともないというのに」というが、これはアムロの責任ではない。『ガンダム』の物語が、アムロにそれを要求した。

そもそも『ガンダム』におけるアムロのストーリーは、そういった自分につながるものを次々に喪失していく旅路だった。アムロは物語の冒頭で育ちの地、サイド7を失った。戦いのなかで初めてもった恋心も失った。地球では生まれの家と、自分を捨てた母親に別れを告げた。連邦軍の一員となって出撃した宇宙では、安全な中立コロニーで過去の栄光にすがって生きる、かつては畏敬していた父のみじめに変わり果てた姿を見た・・・。

という具合に、アムロの「家族もふるさとも」は物語によって奪われたものだ。
今や中年のおっさんになり果てた目から見れば、ここで答えに詰まっているアムロの姿にはぐっとくるものがある。

しかし、しかしそれでもやはり、ぼくもアムロに問いたい。
君は何のために戦っているのかと。


ガンダム者 ーガンダムを創った男たち』(講談社/2002年)の中で安彦良和氏は、放映当時、ジオンに強く惹かれていった若者たちについてこんな苦言を呈している。

「ただテーゼに対してアンチテーゼをぶつけて、それで面白いだろうという対比のさせ方はよくやる手法なんですが、その仇役が際立ち過ぎた。お陰でアンチテーゼのほうがテーゼだったという思い込みが、わりとコアなファンを中心に広がってしまった(中略)あくまでも正であり反であるというその緊張感を楽しんでほしいのであって、地球連邦はこんなに腐っているからみんなでジオンに味方しようってことではないんです。人間はダメだからみんなでニュータイプになろうよって、そういう設定なら僕は最初から降りています」


苦言は苦言として、現実にジオンが必要以上に魅力的に描かれ、そこに多くの若者が惹かれてしまったことは隠しようのない事実だった。実際、アムロにしたって、他人の家に勝手に上がり込んで酒をかっ食らっている連邦の兵士と、見事に統制されたランバ・ラルの部隊を比較して、どっちが優れた人間集団であるかくらいは容易に理解できたことだろう。

ぼくはジオンの侵略者と戦っているんです」(第15話「ククルス・ドアンの島」)
アムロほどに聡明な少年が、いつまでもこんな純朴な気持ちのままでいたとは考えにくい。
現に、サイド7以来、アムロとともに戦ってきた少年カイ・シデンはこんなことを言ってる(予定だった)。

ジオン公国は地球連邦の独善から逃れようとして戦っているんだ。ザビ家独裁は倒さにゃならんが、問題なのはオレたちが連邦の無能な官僚や参謀の盾となって死ぬってことなんだ」(『ロマンアルバム・エクストラ50 機動戦士ガンダム? めぐりあい宇宙編』中の「AR台本(抜粋)」より)

あまりにもマニアックな資料から引用するのはどうかとも思うが、とりあえずは制作サイドにはこんな意図もあったこと、そして、当時のぼくらがカイにこう言わせた気分を共有し始めていたことは、安彦さんの発言からも確かなことだったように思う。

ジオンの魅力。
それはカイの(幻の)セリフから読み取れるように、ジオンが理想を持ち、その理念のために命を賭けているという事実にあるのだろう。ザビ家を褒めるわけではないが、あの”ギレンの演説”を聞いたときのアムロの反応、
「これが・・・敵・・・?」
からは、初めて見る全体主義国家の異様な一体感への衝撃をうかがうことが出来る。自由気ままだが常に孤独感を抱えていたであろうアムロにとって、多くの人が同じ気持ちを共有することができるという事実は、信じがたい光景だったに違いない。

だが、アムロにだって反論の余地はあったはずだ。
先輩ヒーローである本郷猛や兜甲児のように、彼も「正義」を主張すればいい。
「ぼくは正義のために戦っているんだ!」
そうララァに言い返せばいい。

おそらくララァには大爆笑されるだろうが・・・。


結局のところ、仮面ライダーや兜甲児が自らの「正義」を安心して叫べる根拠はただ一つ。それは、相手側のショッカーやDr.ヘルが、自分で自分を「悪」だと言ってくれた上に、オレらこそが本当の「正義」だ!とは言わないことだ。そうやって敵味方がお互いに認め合うことで固定された「善悪」だけが、ヒーローの「正義」を担保するものだった。

『ガンダム』がこの構造を完全に暴露してしまった今、自分で自分を「悪」だという敵役なんて、バカらしくて見てられなくなるのが普通だ。ヒーロー番組の歴史は、「ガンダム以前」「ガンダム以後」に分断された。

そのトドメを刺すのは、シャアだ。

つづく

機動戦士ガンダム 正義は誰のものか

アムロの演説

シャアだ!
と言いつつ、もう少しアムロの話題を。

コメントでも指摘していただいた通り、「悪」であるはずの敵方にも立場と言いぶんを認め、「正義」を相対化してしまった作品自体は『機動戦士ガンダム』以前にも存在した。古くは『ウルトラセブン』の「ノンマルトの使者」や、マンガ版の『デビルマン』、テレビシリーズとしては『海のトリトン』や『宇宙戦艦ヤマト』・・・もっとあるのかもしれない。

だが、それらはいずれも「正義」を相対化しただけで、「正義」そのものがヒーロー側から取りさらわれたわけではなかった。それらのヒーローには依然として、戦うだけの理由があることになっていた。

では我らがアムロ・レイはどうだったか。
ララァに戦う理由がないと言われてしまう直前のアムロは、それをこんな感じで語っている。場所はホワイトベース艦内。すでに引用したカイ・シデンのセリフのすぐ後だ。

ミライ「カイのいうことは正しいわね。でも、いまの相手はザビ家そのものよ」
カイ 「じゃあさ、その後で連邦も叩くかい?セイラさん」
セイラ「え?私には政治のことは分からないわ。自由のための戦いとしか理解していないから」
カイ 「あいまいなのね、セイラさんみたいな利口な人がさ」
アムロ「あいまいでいいんじゃないんですか?」
カイ 「なんでだよ、ニュータイプ」
アムロ「それですよ。ジオン・ダイクンのいった人の革新論のいきつく先だってどういうものかわかってないんです。でも人間は環境に従って変化してゆく能力はもっています。そんな人の能力を阻止するものは拒否したい、それはみんなの感情のなかにだってあるはずなんです。こいつはいやだなとか、危険だなって感覚です。そんなものに対して戦わなくっちゃいけないってことです。そう思いませんか」


さて、例によってこのやりとりは『ロマンアルバム・エクストラ50 機動戦士ガンダム? めぐりあい宇宙編』中の「AR台本(抜粋)」から引用した。するとここに厄介な問題があって、実は上記アムロのセリフのうち、最も重要だと思える部分は劇場版ではカットされてしまっていることが分かる。
具体的には「それはみんなの感情のなかにだってあるはずなんです。こいつはいやだなとか、危険だなって感覚です」がそれだ。

なぜカットされてしまったのかは分からないが(単純に尺の関係か?)、そのおかげで、この時のアムロのセリフは映画館ではまったく意味不明のものだったように思う。だが、アフレコ台本をみれば一目瞭然だろう。
アムロは、シャアがいるから戦っている。そう聞こえる。

まあ、そこには拘らなくてもいいのかもしれない。
「あいまいでいい」という通り、アムロは自分がハッキリとした理由もなく戦っていることは、十分に自覚している。差し当たっては若者らしく、それをシャアへの対抗心で埋め合わせている状態なのだろう(ララァへの想いについては割愛する)。


てな感じで表現されたこのヒーローだったが、それでは何故、アムロには戦う理由がないのか。なぜ、兜甲児や本郷猛が叫んだ「正義」をアムロは叫ばないのか。
注目すべきは、ここでもやはりカイのセリフだろう。
じゃあさ、その後で連邦も叩くかい?セイラさん

もう一度最初から整理してみると、『機動戦士ガンダム』は大先輩である『マジンガーZ』の世界を、リアリズムで再構築したものだ(と何かで読んだか、誰かに聞いた記憶がある)。
その世界を簡単な図式にすればこうだ。

(悪)地下帝国ー兜甲児ー光子力研究所(正義)
(悪)ジオン軍ーアムローホワイトベース(正義)

兜甲児が結果的に光子力研究所だけを守っていたように、アムロもホワイトベースを守るために戦う。この構図については両者の行動は一致する。
ところが『ガンダム』において、そのようなアムロの行動は「連邦の盾」でしかないと看破されてしまった。図式はこう変わらざるを得ない。

(悪)ジオン軍ーアムロ&ホワイトベースー地球連邦(正義)

これを『マジンガーZ』側にも、時折チラチラ見え隠れしていた例のものを適用すればこうなる。

(悪)地下帝国ー兜甲児&光子力研究所ーアメリカ合衆国(正義)

『マジンガーZ』とアメリカ合衆国の関係については繰り返さないが、要するに『機動戦士ガンダム』は、『マジンガーZ』においては本来見えなかったはずのアメリカを、ずばり可視化してしまったのだとぼくは思う。
そしてそこにカイのセリフが重なっていく。

じゃあさ、その後で連邦も叩くかい?セイラさん

カイが連邦の「正義」など丸っきり認めていないことは明らかだ。
そしてそれに対し、他の誰一人としてカイに正統的な反論を試みる人はいない・・・。

だがそれも当然のことだろう。
連邦については、ギレンが「絶対民主制」と言った程度のことを除けば、その国家理念等はほとんど明らかにされていない。そのうえ、アムロやカイは宇宙コロニー育ちなので、地球にたいする愛郷心さえ持っていない。
そんな彼らから見て、連邦の「正義」なんぞは、結局のところ”借り物”でしかないだろう。そんな「正義」をいくら叫んだって、それは虚しいだけのことだ。

そしてそれは、数多の先輩ヒーローだって同じことだろう。
彼らが口々に叫ぶ「正義」や「平和」はそもそも誰のためのものなのか?
それは要するにショッカーやら地下帝国やらの侵略から、「戦後の日本」を維持するための戦いだろう。ならば守られるべきは、その「戦後の日本」を作った人々だ。その人たちの理念だ。ぶっちゃけて言えば、GHQの正義だ。

果たしてそれは、本当に”借り物”の正義ではなかったのだろうか?
そんなもののために、本当にヒーローたちは命を賭けられるものなのだろうか?

つづく

機動戦士ガンダム 復讐のシャア

2大ヒーロー

このカテゴリの始めの方で書いた通り、ぼくは『機動戦士ガンダム』は昭和ヒーローの二つの類型を同時に登場させ、互いに争わせたヒーロー番組だと思っている。

類型の一つは、横山光輝の『鉄人28号』から永井豪の『マジンガーZ』を経て大流行した”正義のロボット”もの。心を持たないロボットを、「正義」の心を持つ少年が操って「悪」を倒す。言うまでもなく『ガンダム」ではアムロ・レイ。

そしてもう一つが、石ノ森正太郎が得意とした”復讐のヒーロー”。『サイボーグ009』『仮面ライダー』『変身忍者嵐』『人造人間キカイダー』・・・。「悪」から生まれたヒーローが、「正義」の心でその「悪」を討つ。
こちらは『ガンダム』では、ジオン軍にありながらザビ家に復讐を誓うシャア・アズナブル。

ところが、このうちの前者が『ガンダム』の中で「連邦の盾」だと看破されたことは、ここまで見てきた通り。”正義のロボット”番組は、アメリカは存在しないと「嘘」をつくか、あるいはアメリカの「盾」となるか、いずれかを選ばないことにはその立脚点を失う物語群だった。

それでは後者、”復讐のヒーロー”は『ガンダム』においてどのように語られたか。
これはもう、多くの説明は必要ないだろう。

アムロ「本当の敵は、ザビ家ではないのか!
シャア「わたしにとっては、違うな!」(「めぐりあい宇宙編」)

その理由はこれだ。
ザビ家を連邦が倒すだけでは、人類の真の平和は得られないと悟ったのだ」(第38話「再会、シャアとセイラ」)

これは要するに、仮面ライダーがショッカーを倒しただけでは人類の真の平和は来ないと、本郷猛が言っているようなものだろう。
が、全くもって正論だと思う。
なぜなら仮面ライダーが行っている「正義」とは、結局のところ現実世界が「平和」で「正しい」ことを前提にして、その維持を図ることに他ならないからだ。仮面ライダーがショッカーに勝ったところで、世の中が何か良くなるわけじゃない。そして実際には1970年代前半の世界は、「平和」でもなければ「正しい」わけでもなかった。

ならば仮面ライダーの「正義」の根拠は一体どこに求めることができるのか?
おそらくそれは、そもそもが反語的にしか存在しないようにぼくは思う。
つまり、彼が戦っている相手が「悪」だから、彼は「正義」なんだと。

そしてその「悪」について、『機動戦士ガンダム』はひとつの示唆をぼくらに与えているようにぼくは思う。
すなわち、当初のジオンがそうであったように、「悪」とは大日本帝国を表してるのではないかというイメージだ。ショッカーにせよ、ダークにせよ、地下帝国にせよ、その立ち位置はジオンとほぼ同じ。ストーリーを共有している(詳しくは当ブログの他の記事を探してください)。

だとすれば、逆に「正義」の在処もボンヤリと見えてくるんじゃないか。
それは、大日本帝国を「悪」とみなし、滅ぼしたものの「正義」であるはずだ。そしてその「正義」を維持するため、仮面ライダーたちは、大日本帝国の復活を阻止している・・・。

これが以前ぼくが書いた”借り物の正義”の構図だ。
大日本帝国が本当に「悪」ならそれで問題ないが、そうではない以上、ぼくら日本人が仮面ライダーの「正義」を応援するのは、ぼくらでない他の誰かの「正義」を応援することだろう。誰かからこれが「正義」だよと教えられ、そのまま信じて疑わないだけのことだろう。

”復讐のヒーロー”シャア・アズナブルは、この構図に気がついたのだとぼくは思う。
すなわち、”復讐のヒーロー”ですら、「連邦の盾」であるという事実に。


ここで少々話が飛躍するが、『ガンダム』における「連邦」とは世界政府のことだ。
いわゆるサヨクの人たちは常々国家というものを否定したがる。「地方主権」だとか「東アジア共同体」だとか、何とかして「国」という形を壊そうとして躍起になっているようだ。

だがいくら「国」を壊そうと、何らかの統治組織は存在するのだろう。
それを至って彼ら好みに考えていけば、結論は世界政府にしかないようにぼくには思える。人種差別も国家間格差も多国籍企業も、世界政府のもとでは消滅するだろうからだ。

あの時代にそんな理想が大いに語られたのかどうかは、まだハナ垂れ小僧だったぼくには定かでないが、『さらば宇宙戦艦ヤマト』にせよ『機動戦士ガンダム』にせよ、世界政府は人類の当然の帰結点として、その作品世界に存在した。宇宙時代に国家もあるまいという判断だったのかもしれない。

が・・・。
ここでぼくが注目したいことは、それらの世界政府は決して手放しで素晴らしいものだとは描かれなかった点だ。
そこには新たな階級が生まれ、支配と差別と排除の構造が生まれたことが描かれていた。

一握りのエリートが宇宙にまで膨れ上がった地球連邦を支配して五十余年、宇宙に住む我々が自由を要求して何度連邦に踏みにじられたかを思いおこすがいい。ジオン公国の掲げる人類一人一人の自由の為の戦いを、神が見捨てる訳はない
地球連邦は聖なる唯一の地球を穢して生き残ろうとしている。我々はその愚かしさを地球連邦のエリートどもに教えねばならんのだ

有名な「ギレンの演説」から抜粋してみた。
ギレンが嫌いな人も多いだろうので、サヨクが好みそうな虐げられた弱者のセリフも一つ。

今度地球へ帰ったらわしは絶対に動かんよ。ジオンの奴らが攻めてきたって、地球連邦の偉いさんが強制退去を命令したって、わしは地球で骨をうずめるんだ」(第5話「大気圏突入」)

この老人は言っている。ジオンと連邦の偉いさんは、彼を抑圧するという意味において、同じなのだと。
さらに続編の『機動戦士Zガンダム』にはシャアのこんなセリフもあったな。

地球連邦が第二のザビ家になろうとしているのが、わからないのか」(第7話「サイド1の脱出」)

シャアのいうように、ザビ家を倒したあとの「連邦」は、結局その内部からティターンズを産み出してしまった。ジオン軍を誕生させたのは、ザビ家の野望だけにあったわけじゃなかった。「連邦」そのものに、何度でもジオン軍を産み出す土壌があったというわけだ。

まあその土壌が何であるかは、ガンダムシリーズを観ながらおのおのが考えるべきことだとは思うが、とにかく世界政府が決して人類の理想ではないことをシリーズが訴えていることだけは事実だろう。そしてそれが、”復讐のヒーロー”シャア・アズナブルにとっての、本当の「悪」であったことも忘れてはならないことだと思う。


だらだらと長文になってしまったので無理矢理まとめれば、かくして、昭和を席巻したテレビヒーローの二大類型は、『機動戦士ガンダム』の登場によっていずれも根底から解体されてしまった。”正義のヒーロー”も”復讐のヒーロー”も、これからは自分の力で本当の「悪」を探さなければならない。もはやそこに、大人の「嘘」は許される余地はない。

いまや、『鉄人28号』に始まり『マジンガーZ』で開花した”正義のロボット”ものも、『サイボーグ009』に始まる石ノ森ヒーローものも、すべては「ガンガム以前」のワクに括られてしまったのだった。


・・・だが、それでは『ガンダム』を作った張本人たちは今後どうすればいいのだろう?
いまさら自分たちで壊してしまったフォーマットに戻れるはずはない。

道はふたつある。
一つは、自分で自分の亜流を作ること。これは『機動戦士Zガンダム』がそれだ。
そしてもう一つは、さらなる解体を続けること。

手塚治虫という巨人が、まだ残っている。

つづく