プロフィール

竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
一つの 「カテゴリ」 で一つの記事となってます(記事は古い順に並んでます)。同世代のおっさん向け。

カテゴリ
もくじ

全ての記事タイトルを表示する

ブログ内検索
月別アーカイブ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

主要記事
リンク
応援中
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

フリーエリア
趣味 - シュミラン

銀河鉄道999(劇場版) 〜鉄郎とテロリズム

鉄郎とハーロックとメーテル

さて、『ガンダム』に続いては、当然ながら同じく富野監督の代表作である『伝説巨神イデオン』に話を進めたい。

すでに延々と書いてきた通り、ぼくは『ガンダム』という作品は、戦場を舞台とした青春群像劇を展開する裏側で、既存のヒーロー番組の「嘘」をことごとく撃破していった解体者だったと思っている。
その結果、あれほど隆盛を誇った横山光輝や石ノ森章太郎、永井豪といった大御所の世界観は、『ガンダム』登場後はその活躍の場を失ってしまった。おそらくこの点については、いま40~45才ぐらいのオッサンであれば、リアルに体験した共通認識なんじゃないかと思う。

では、そんな解体者、富野監督が次に粉砕すべき相手は誰なのか?
「おとなの嘘」をついているのは誰なのか?
言うまでもない。マンガの神様にして、日本のアニメの創設者、手塚治虫以外誰も残っていない。
『伝説巨神イデオン』とは、富野監督が手塚解体に向けて放った刺客だったのだ!


【注意!】このあとしばらく手塚治虫の話題が続きます。俺は富野とイデオンにしか興味はねえ!という方は、こちらの記事までスキップしてみてください。

逆襲のジャミラ - 富野監督と戦後民主主義


・・・てな感じで話を進めていこうと思うわけですが、とある手塚解説書によりますと、「もし彼を論ずるのなら、当然のことながら、少なくとも彼の全作品を読んでみる必要があるだろう」とのことです。全くおっしゃる通りです。

ところが、あらかじめ白状しておくと、ぼくは手塚先生のマンガはほとんど読んでいないのです。『ドカベン』目当てで買っていたチャンピオンに掲載されていた『ブラックジャック』、それと『火の鳥』『ブッダ』ぐらいが、ぼくが少年時代に読んだ手塚作品でした。しかも、本当に面白いと思って読んでいたかというと疑問もあって、そろそろ背伸びしたい年頃のクソガキが、権威あるものから教養を得る、くらいの気分で『火の鳥』を買い集めていたような記憶があります。

そんな体たらくですので、手塚通の方がこの先を読むと腹が立つ可能性がありますのでご注意を。


・・・と、先に予防線だけは張っておいてサッサと本題に入りたいところだが、また例によって回りくどい前置きを(笑)。

ちょうど『機動戦士ガンダム』の初回放送が低視聴率にあえいでいた1979年の夏、松本零士原作のアニメ映画が公開された。『銀河鉄道999』だ。
Wikipediaによると、「配給収入は16億5000万円。1979年度の邦画の第一位で、これはアニメ映画史上初の快挙だった」そうで、「1970年代後半から1980年代前半に巻き起こったアニメブームを代表する作品の一つ」とのことだ。

あらすじは長くなるのでこちらを参照していただきたい(銀河鉄道999(1979) - goo 映画)が、簡単にまとめてしまえば、星野鉄郎という自分では「機械の体」を買えない貧乏な少年が、それをタダでくれるという星まで宇宙を旅をする話だ。ただ、星野鉄郎にはもう一つ、自分の母親を殺害した「機械伯爵」なる人物に復讐を遂げたいという思いもあった。

そして『銀河鉄道999』において、テーマと目されるものが出現するのは、実はサブストーリーと思われた復讐劇の方だった。復讐を遂げた星野鉄郎は、協力してくれたキャプテンハーロックにこう言う。

「機械伯爵や機械化人を見ていると、永遠に生きる事だけが幸せじゃない、限りある命だから人は精一杯頑張るし、思いやりややさしさがそこに生まれるんだと、そう気がついたんです。機械の体なんて、宇宙から全部なくなってしまえと」

すなわち、「限りある命の尊さ」、それが『銀河鉄道999』のテーマである。とはWikipediaにも書いてある。
星野鉄郎の元々の旅の目的は自分自身が機械の体になることだったが、それは間違っていた。寿命があるからこそ、人は「精一杯頑張る」し、「思いやりややさしさがそこに生まれる」ことに鉄郎は気がついたのであった、と。

・・・何か変だ。

人間の命に限りがあるなんて当たり前のことで、限りがない「永遠の命」を持っているのは劇中の機械化人だけのことだ。となると、ありもしない架空の事象から、この作品のテーマは導き出されていることになる。
それは果たしてテーマと呼べるようなものなんだろうか?

それに、鉄郎が劇中で知っている事実には、実はこのテーマに相反してしまうものがある。
ガラスのクレアさんの存在だ。
999号でウエートレスをしているクレアさんは、機械の体でありながら「精一杯頑張る」し、「思いやりややさしさ」があって、もちろん「人間狩り」などしない。このことは、旅の最初からずっと鉄郎自身が確認できたことだ。
そしてその反対に、生身の体でありながら「精一杯頑張る」ことをせず、「思いやりややさしさ」を持たない人間がいることを、他ならぬぼくら当時の少年少女自身が知っている・・・。

鉄郎のセリフはこう続けられる。

「ぼくたちは、この体を永遠に生きてゆけるからという理由だけで、機械の体になんかしてはいけないと気がついたんです。だからぼくは、アンドロメダの機械の体をタダでくれるという星へ行って、その星を破壊してしまいたいのです」

クレアさんに見られるように、体が生身か機械かはその人間性とは一致しない。
が、鉄郎は機械の体は間違っていると言う。これは鉄郎個人の考え方であって、そうは思わない人もいるだろう。残念ながらこの時の鉄郎の発言だけでは、機械の体のおかげで病気がちの肉体を克服できた人に、元の体に戻れと説得することはできないと思う。

そうして見ると、この後に展開される鉄郎の戦いとは、実のところ一種の思想戦なんだと思えてくる。
キリスト教が正しいのか、それともイスラム教が正しいのか。
鉄郎は生身の体が正しいと言い、機械化母星のプロメシュームは機械の体が正しいと言う。お互いに譲ることはない。

そして鉄郎はおのが信条に基づいて機械化母星に乗り込むと、機械化母星を破壊してしまった。
元は生身の人間であった、多くの機械化人たちが宇宙の藻屑となっていった。
鉄郎は「永遠の命」の大量虐殺と引き替えに、「限りある命の尊さ」という思想を守ったのだった。


・・・そのような鉄郎の行為を、一般的にはテロリズムという。

「限りある命の尊さ」と聞けば聞こえがいいが、裏を返せばその実態は、「永遠の命」の人間は尊くないというのが『銀河鉄道999』で表されたことだ。これは何とも不思議なテーマだ。クレアさんはその例外として扱われているが、それは彼女が「限りある命」に戻ろうとしているから「善」であるという、強調表現のひとつなのだろう。

要するに、『銀河鉄道999』は、テーマと言われているものと全体のストーリーの間に、かなりの乖離がある作品なのではないか? 
というか、ぶっちゃけ「限りある命の尊さ」なんて、後から取って付けた「テーマ」だったんじゃないか?
そして「テーマ」を取っ払ってみたとき、そこにあるストーリーから自然に読み取れるものが、何か他にあるんじゃなかろうか?

つづく

わが青春のアルカディア(キャプテン・ハーロック)

キャプテン・ハーロック

ネット上、あるいは書籍に残されている松本零士氏のインタビューを読むと、繰り返し語られている話題が3つほどあるように思う。大雑把にまとめると、一つは「人類は人種の壁を越えて仲良くするべきだ」という、氏の基本的な主張。それと、友情の大切さ。加えて、氏の戦争体験だ。
もちろん、これらは密接に関わっているわけで、悲惨な戦争体験を味わった松本零士が、その解決策に「人種を越えた友情」を見いだしたのだ、と聞けば極めて一貫性のある話だろう。

例えば、とあるインタビューで松本零士はこんな話をしている。

「世界中の読者あるいは、同年代にも伝えたいのは、私は世界中がお互いに理解し合い、仲良く暮らしていきたい。そのためにも、思想、宗教、信条、民族感情、これに土足で絶対に踏み込んではならない。お互いに敬意を払いながら楽しく仕事を続けていきたいし、またそう言う物を描きたい。(中略)だから、地球上で争っている場合ではない。どこの国の人とも仲良く、お互いに敬意を払いながら、穏やかに楽しく暮らしていきたい。そのために、この仕事をしているんだという断固たる想いがあるわけです」(夢は叶うー ~松本零士~ asianbeat)


実際、2001年に公開される予定だった新作『宇宙戦艦ヤマト』は、そんな氏の主張を反映して「多国籍的な乗組員」になる予定だったそうな(『宇宙戦艦ヤマト伝説』フットワーク出版社)。そういえば劇場版『銀河鉄道999』(1979年)でも、トレーダー分岐点などで「多国籍的な」人々が都会で共存している様子が描かれていた。
人種の壁を越えて仲良くすることが、氏の考える人類の未来像であったことは確かなのだろう。

1982年公開の『わが青春のアルカディア』(原作・構成・企画 - 松本零士)でも、もちろん「友情」は大きなテーマとなっている。ハーロックとトチローの時を超えた友情、地球人とトカーガ星人の人種を超えた友情は、このアニメ映画のストーリー上の根幹だろう。やはり松本零士の思想は、一貫して劇中で描かれているわけだ。

ところがさすがに「キャプテン・ハーロック」といえば松本ワールドの中心人物だけあって、その劇場版ともなると、まさに松本零士その人自体でもあった。氏の戦争体験すらが『わが青春のアルカディア』には描かれていたのだ。
それを言葉で表すとこうなる。

「それから亡国の悲哀ね、国が破れるということがどういうことなのかということは、子供心にもイヤっていう程味わいましたね。B29の大群に追われ、機銃掃射も受けている、その記憶がまだ生々しい内に占領軍がやって来て、そんなるつぼの中で暮らしていたんですよ。あの頃の私たちの扱いって、本当に動物以下でしたからね。
 と言っても、ひとりひとりの兵士に対しての憎しみは起こらないですけどね。中には優しい人もいるわけでしょ。ただ占領軍全体となると『絶対に施しは受けない』っていう気概は子供ながらに持っていましたね。占領軍兵士が投げてくるキャンディーなどは踏み潰して歩いてましたから」(松本零士インタビュー ルーフトップ★ギャラクシー


そして、以下が映画のあらすじだ。


『わが青春のアルカディア』の世界では、宇宙は「イルミダス」という宇宙人の侵略に脅かされていた。地球も例外ではなく、抵抗むなしくイルミダス地球占領軍に統治される状態だった。ハーロックは実戦英雄賞をもらうほどの名将だったが、いまは難民引き揚げ船の艦長でしかない。
イルミダス人は地球人を奴隷扱いにしていて、「この薄汚い黄色のネズミめ」とののしって、手に持っていた「フライドチキン」を投げつけてくる有様。さらにイルミダス人は地球人を評してこう言う。
「地球人はすぐに新しい環境に順応する。つまり、昨日まで敵だとわめいていた我々に、今日は尻尾を振ってついてくる

続いてハーロックには、地球人の義勇軍を組織して、トカーガ星を滅ぼしに行けという命令が下る。命令を持ってきたのは「協力内閣首相」のトライター氏だ。彼は、イルミダスに協力すれば地球の安全は保証される、だからトカーガを滅ぼしてイルミダスへの忠誠を示すべきだと言う。
もちろんハーロックはこの申し出を断り、腐りきった地球を脱出しようと、宇宙貿易人エメラルダスの宇宙船を奪おうとする。するとそこに地球占領に協力させられていたトカーガ人のゾルたちがやってきて、その船は自分たちがトカーガに戻るために使わせてくれと言ってくる。イルミダスが地球占領のためにトカーガ人を利用し、用済みになったトカーガを今度は地球人の手で滅ぼさせようとしていることに気付いた彼らは、手を取り合ってイルミダスへの抵抗を誓う・・・。


さて、以上のストーリーが意味しているものは至って明快なものだろう。「地球」を「日本」に入れ替えればいい。
戦争に敗れてアメリカに占領された日本。そして、アメリカの命令で他国の侵略に向かわせられる未来の日本が、『わが青春のアルカディア』で描かれた「世界」だ。氏のインタビューでの発言こそが、その裏付けだと言えるだろう。

私見だが、『わが青春のアルカディア』では、この強烈な世界観の方が、テーマとされている「友情」よりもはるかに強いインパクトを持っていたように思える。「友情」テーマは『巨人の星』でお腹いっぱいというぼくらだったが、そこには確かにリアルな「敗戦」が存在した。さらには戦勝国アメリカに「尻尾を振ってついて」いった、日本の「戦後」が存在した。

そしてもしも松本零士が、そんな忘れられつつある日本の「敗戦」と、高度経済成長後の見えにくくなっている日本の「戦後」を描く作家なのだとしたら、『銀河鉄道999』にもまた違った光が当たるだろう。
それは、人間世界全てを覆い尽くそうとする「機械化グローバリズム」への抵抗の物語だと考えることができるはずだ。ぼくが『999』での鉄郎の戦いを「思想戦」だというのは、鉄郎が解放しようとしたものが、他ならぬ、機械化至上主義という単一の価値観に「占領」されてしまった「心」だと思うからだ。

上掲のインタビューで氏も言っている。
「思想、宗教、信条、民族感情、これに土足で絶対に踏み込んではならない」

ハーロックにせよ星野鉄郎にせよ、それらに「踏み込んで」くる者と戦うためのレジスタンスでありテロだった。
劇中の主人公たちには、そのような暴力的な手段しか選択肢がなかった。
・・・だが、少年少女が見るアニメ映画が、テロを推奨するようなものであっていいはずがない。そこでは美しく、希望に満ちた言葉が語られなければならない・・・。


などと、今さら力説するような話じゃないんだが、要は、子どもが見れば「限りある命の尊さ」だったり「時空を超えた友情の尊さ」だったりする映画が、おとなから見れば悲しい現実を描いていることが分かる・・・なんてのは良くあることだ。前回の記事では散々煽ってみたものの、テーマとストーリーが乖離しているのは、少年向け作品の宿命なのかもしれない。

ならば何故、いま『イデオン』のカテゴリで松本零士について触れているのか。
それは『銀河鉄道999』が、ストーリー上の矛盾を抱えるリスクを押してでも選んだ言葉、すなわち「限りある命の尊さ」という「テーマ」が、ある偉大なマンガ家の「テーマ」に寄生することで、その過激なテロ思想が露呈することを回避したような気がしているからだ。

つづく

前回の補足・・・

せくしー

前回の記事は、自分で読み返しても何が言いたいのやらサッパリ分からないので、その補足から。

キャプテン・ハーロック『わが青春のアルカディア』で描かれた世界観が、あの日本の敗戦そのものであったことには疑いを挟む余地はないだろう。また、1982年の段階で、その後に日本が辿ることになる未来を描いていたことも同様。
問題は『銀河鉄道999』の方だ。

機械化帝国とは、一体何を表すものなのか?
ぼくはそこには、やはり松本零士の実体験が投影されているんじゃないかと思う。すなわち、「焼け跡世代」が見た、二つの価値観の対立と、新旧の交代劇だ。交代劇というと聞こえがいいが、要は、古い日本の価値観が、新しいアメリカ流の価値観に征服、占領されていく有り様をこの世代の人たちは見た。それが70年代の特撮やアニメに落としてきた影については、すでにあちこちに散発的に書いたことなので繰り返さない。

『銀河鉄道999』においては、アンドロメダという、言ってみれば海の向こうから来た価値観によって、全ての人間世界が覆われていく様子が描かれている。そしてその価値観の内容(永遠の命)はとても魅力的なものであり、それ自体が「悪」だとは言い切れないものがある。
しかし星野鉄郎はその価値観を「悪」だと考えた。ただしそれは、鉄郎の個人的な考えでしかないことは明らかで、機械の体とその人間性の間には完全な一致はない。機械だろうが生身だろうが、善人は善人だし、悪人は悪人だ。

問題があるとすれば、それは本来対等であるはずの二つの価値観の間にはハッキリとした上下関係があることで、それが支配と差別の構造を産み出していることだ。
もちろん、戦後の日本にそのような構造があったと言う訳じゃないが、日本人が受け入れたアメリカ式の価値観が、「正義」と名を変えてそれ以外の価値観を破壊しようとしたことは、歴史上の事実として多数残されている(そしてそれはまた、現在進行形でもある)。

つまりはこれは、東京人と大阪人が、ソバかうどんかを巡って言い争っているような構図ではない。
機械化原理主義は絶対的な価値観であり、他は一切認めない、という構図だ。
そして『銀河鉄道999』の世界では、人々はその価値観に盲従した。現実の東欧でソビエト支配へのレジスタンスが起こったり、中東の人々がアメリカ流に断固として抵抗したような姿はここにはない(ここでは続編は無視しています)。

だからぼくは、『銀河鉄道999』の人間世界には、戦後の日本が投影されていると思うわけだ。


※念のため書いておきますが、鉄郎がテロ行為に走ったからと言って、『銀河鉄道999』はいわゆる左翼暴力革命を支持するような作品ではないでしょう。まず、鉄郎の主張していることは「本来の姿に戻れ」ということで、立場は明らかな「保守」となります。また、機械化帝国は人間世界を統治するものではないので、いわゆる「反権力」でもないでしょう。鉄郎は権力機構という形あるものを破壊したのではなく、それがまき散らす価値観の大元を破壊しただけ。
それゆえぼくは、鉄郎の戦いを「思想戦」だと言うわけです。


・・・3行くらいで終わらせるつもりが長くなってしまったので手短にまとめたいが、そうして見ると『銀河鉄道999』と『わが青春のアルカディア』はいたって似たようなテーマを構造として持つ作品だと思えてくる。

松本零士氏自身の主張する、心情的テーマとでも言うべきものは、男と男の友情であったり、民族の共存であったりと、「世界中がお互いに理解し合い、仲良く暮らしていきたい」に繋がっていくものだ。これは松本作品をみれば、大抵どこかしらに描かれていることだ。
一方、松本作品に横たわる世界観は「敗戦」であり「戦後」だろう。これを表現上のテーマと呼んでみることにする。

ただし、そのうちのいずれがインパクトを持つかと言えば、ぼくはそれは後者、表現上のテーマの方だと思う。
氏の実体験からくる「敗戦」「戦後」の描写には、ぼくら戦後生まれが決して描くことの出来ないリアリティが存在する。大げさに言えば、血の叫びみたいなもんだ。

一方、前者、心情的テーマの方は失礼ながら、いかにも優等生的発言のような気がするし、理想論の域を出ないようにも思える。別に反対する理由もないので、お愛想で頷いておこうかといったところか。

無論、このように作品を通して共通のWテーマを持つ人は松本零士に限った話ではない。
作家である以上、何らかの一貫したテーマを掲げるのは普通のことだし、その一方で本人の自覚とは無関係に、あふれ出てしまう本音のようなものもあるだろう。

それが端的に表れているのが、氏が敬愛し、「初期の希少な漫画本を多くの資料と共に保管」(Wikipediaより)しているという、手塚治虫だとぼくは思う。

つづく

手塚治虫のテーマ「生命の尊厳」

ぼくのマンガ人生

いつまでも脱線していてもキリがないので、ざっくばらんに行きたい。
ぼくは劇場版『銀河鉄道999』における「テーマ」だと言われる「限りある命の尊さ」は、松本零士にとっての心情的なテーマとも表現的なテーマとも別に、それらの上に半ばムリヤリ載せられた言葉なんじゃないかと考えた。要は、お飾りというやつだ。

それでは、松本零士ご本人は、その点についてどうお考えになっているのか。

「私は機械化したい人間がいれば機械化すればいいし、生身で生きたいならそれはそれでいいのではないかと思う。どっちが幸福であるかは、その人の人生が終わってみなければわからない」(『完全版 銀河鉄道999 PERFECT BOOK』(宝島社/2006年)


と、まあ見てのとおりで、そんなもんはどうでもいいと氏は考えているようだ。
少なくとも、氏にとっての『999』のテーマはそんなところにはない。ぼくには、そう聞こえる。

じゃあ誰が、『999』に原作者ですら意図していないような「テーマ」を与えたのか。
常識的に考えれば、そんな権限がある人間はただ一人だろう。監督の、りんたろう氏だ。

・・・といった辺りで、古くからのアニメファンであれば、この先の話は容易に想像がついてしまうだろう(笑)。
アニメ監督としてのりんたろう氏のキャリアは、手塚治虫率いる虫プロダクションからスタートした。氏が虫プロ時代に手がけた作品としては『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『ムーミン』などがあげられる。とWikipediaにはある。

で、今からは想像もつかない話だが、『アトム』や『ジャングル大帝』の時代、アニメはPTAやマスコミからひどく害悪視されていたそうだ。

『鉄腕アトム』がテレビ放送された当時は、新聞でよく叩かれました。子どもに悪影響を与えると(笑)。サブカルチャーの端っこにいましたよ。でも、子どもには世間の批判など関係ないわけで、それは今でも同じだよね。世間の良識とは断ち切れたところに子どもたちはいて、自由に観ていたと思う。当時批判していた連中は手のひらを返したように日本のアニメーションは素晴らしいと言っている(笑)(『よなよなペンギン』りんたろう監督単独インタビュー/紀伊國屋書店Forest Plus)


ざっくばらんに行きたい。
1986~88年に手塚治虫が行った講演をまとめた『ぼくのマンガ人生』(岩波新書)のなかで、手塚治虫は再三に渡って”『生命の尊厳』がぼくのテーマ”だと語っている。それは「ぼくの信念」であり、「根本的」なテーマなのだと。

おそらくこうした手塚の主張は、マンガやアニメを取り巻く批判の逆風に立ち向かうべく、統一されたものなのだろう。たしかにマンガやアニメには暴力シーンも破壊シーンもあれば、人も死ぬ。だが、それらは、そうした描写を通じて子どもたちに「生命の尊厳」を伝えるための方便なのだ。と言えば、だいぶ聞こえが良くなる。

もちろんこの間の手塚の苦悩、苦労を、りんたろう氏が知らないはずはない。
「生命の尊厳」と「限りある命の尊さ」・・・。ざっくばらんに言って、非常に似ている・・・。

手塚の努力が実ったか、1979年にもなるとアニメもようやく市民権を得るようになった。りんたろう監督の『銀河鉄道999』は、その年の邦画興行成績の第1位という偉業を成し遂げた。
だが、ぼくに言わせれば同じような主張と世界観を持っているはずの、『わが青春のアルカディア』は惨敗した。アニメ史を語るような本をみても、今ではそのタイトルが出てくることすら稀だ。

ぼくにはこの両者の差は、「宣伝」や「看板」の差にもあったように思える。
ざっくばらんに言えば、そこに手塚的テーマの「生命の尊厳」があるかないか。それは『999』にはあって、『アルカディア』にはなかった。

そんな手塚的テーマを、人は「手塚ヒューマニズム」とも呼んだ。

話がぜんぜん進まないが、つづく

手塚治虫とヒューマニズム

本

(ご注意!)以下の記事は、『ガンダム』や『イデオン』は好きだが手塚治虫には興味がなかった、というような人向けに書いたニワカ勉強の結果です。話を手短に簡略化してありますので至らぬ点もあるかと思いますが、鼻であしらっていただけますようお願い申し上げます。



ヒューマニズムという言葉にはいろいろな意味があるようだが、もともとは(神中心ではなく)「人間中心主義」と訳出された概念で、今日の日本では「人道主義」や「博愛主義」を指すことが多い・・・とWikipediaには書いてある。

手塚治虫が自身のテーマだと主張する「生命の尊厳」は、いかにも「人道」っぽいし「博愛」っぽい。手元にある秋田文庫版の『W3(ワンダースリー)』第2巻の帯には、「手塚治虫の人間愛に輝く。人間愛の完結編」とあって、なるほど手塚ヒューマニズムとは「人間愛」のことを指すのかと納得させられる。

が、どうも手塚評論の最前線では、「人間愛」で手塚を語るようなことは、ほとんどなかったようだ。
1989年に出版された『マンガ批評大系●別巻 手塚治虫の宇宙』(平凡社/竹内オサム・村上知彦編)には、1950年以降に発表された代表的な手塚評論が年代を追って収録されている。

その中でぼくの目に付いたものをあげてみると、まず佐藤忠男氏は手塚作品に「ペシミスティック」という言葉を使っている。開高健氏は、手塚の主題は「対立」であると言う。呉智英氏は、手塚作品に共通する姿勢を「あらゆる価値を突き放して見ているような、不信の姿勢である」と言う。

さらに面白いのがこれ。
1990年発行の講談社現代新書『手塚治虫ー時代と切り結ぶ表現者』のなかで著者の桜井哲夫氏は、手塚本人が自分のストーリーマンガの第一作だと言い切る『地底国の怪人』(1948年)を評して、このマンガの重要なポイントは「人間中心主義(ヒューマニズム)からの脱却」にあったと述べられている。

パラパラ読んだだけで真意を取り違えている可能性もあるので、興味のある方は元の本に当たっていただきたいが、とにかく手塚に詳しいプロの文筆家や大学教授のみなさんが、手塚を「ヒューマニズム」やら「人間愛」といった言葉では捉えて来なかった空気だけは伝わるものがあると思う。

じゃあそれは一体何なのか。
手塚にとって「ヒューマニズム」や「人間愛」には、どういう意味があったのか。


2002年にrockin' onから出版された『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』(宮崎駿)という本の中で、インタビュアーの渋谷陽一がこんな話をしている。

「僕は一度、手塚治虫にインタヴューしたことがあるんです。で、ヒューマニズムについてちらっと話したら怒りだしちゃいましてね、手塚さんが。『もう、やめてくれ! 俺についてヒューマニズムというな、とにかく。俺はもう言っちゃ悪いけど、そこらへんにいるニヒリズムを持った奴よりもよほど深い絶望を抱えてやってるんだ』と」

「『ここではっきり断言するけど、金が儲かるからヒューマニストのフリをしているんだ。経済的な要請がなければ俺は一切やめる』と、もういきなりシリアスな顔をして怒られましてねえ」


まあ特に説明はいらないだろう。「ヒューマニズム」でも「人間愛」でもいいが、それはつまりは商売上の看板であり、宣伝文句だったということだ。プロの批評家が、そんな程度のことを見抜けぬはずはない。
話のついでに記しておくと、しばしば”手塚ヒューマニズムの集大成!”みたいに宣伝されることの多い『ブッダ』。それについても、手塚本人がこんな話をしている。

「逆にアトムのように、モラルで塗り固められた善人には、たいへん反発というか異質なものを感じて避けたくなることだってあります。『ブッダ』の終わりのほうなどは、早くやめたくなって、なんでこんなものを描き出してしまったんだろう、と思うくらい嫌悪を感じたこともありました」(『ガラスの地球を救え』手塚治虫/光文社智恵の森文庫)


ぼくのようなひねくれ者は、こんな話を聞くと何だか痛快な気分になって、手塚治虫という人物に親近感が湧いて来てしまうわけだが、それはさておき話を戻すと、一般に言われる「ヒューマニズム」やら「人間愛」といった「テーマ」が、その実態は商売上の看板であり宣伝文句であることが、ご本人の発言から分かった。

が、それは長年手塚が掲げてきた「生命の尊厳」というテーマに「経済的な要請」が結びついての結果であって、手塚本人がもとより意図したことではないだろう。「生命の尊厳」自体は、松本零士における「友情」のように、手塚の心情的テーマとして確かに作品中に存在していると思う。

それでは、松本零士で見られる「敗戦」「戦後」、すなわち表現上のテーマは、手塚の場合は何に見いだせるのだろう。

だらだらと長くなってしまったので、つづく

手塚治虫 ロストワールド・メトロポリス・来るべき世界

初期SF三部作

ぼくが勝手に「表現上のテーマ」と呼んでいるものは、遅くとも思春期までの期間に、いつの間にか脳の奥底あたりに形成されるものだろう。おそらくそれは、作家の人格そのものとも結びついていて、相当に意識しない限り作品から除外することは難しいことであるように思う。

『ロストワールド』『メトロポリス』『来るべき世界』の三作を合わせて、「初期SF三部作」と呼ぶそうな。
これらは、1948~51(昭和23~26)年に相次いで発表された長編なわけだが、当時の手塚治虫はまだ20才を過ぎたばかり。ある程度までは思うがまま、自由に筆を走らせていたことだろう。まさか、自分を客観視して本音を押し殺す・・・ような芸当はまだ考えもしない時代だったと推測する。

というわけで、この初期SF三部作をざっと眺めてみれば、そこからは手塚治虫青年の生の声が聞けるように考えるのはぼくだけではあるまい。果たしてそこでは、手塚治虫中年の言うところの「生命の尊厳」は大いに語られていたのか。
(以下にあらすじを記したいが、長いのはウザいので極限まで要約します。詳しくはWikipediaなどを参照してください)

ロストワールド
地球に接近しつつある「ママンゴ星」の鉱物から膨大なエネルギー源を発見した敷島博士は、ロケットを建造してママンゴ星に到着。しかし人間のみにくい欲が悲劇を招き、搭乗員のほとんどは死亡(ヒゲオヤジのみ帰還)。ママンゴ星に残されてしまった敷島博士は、植物と動物の合体から産み出された”あやめ”と二人、まだ恐竜時代にあるママンゴ星のアダムとイブになるのだった・・・。

メトロポリス
人間の科学力は、ついに「人造人間ミッチイ」を産み出す。しかし、自分が人間でないことを知ったミッチイは作業用ロボットを率いて人間社会に反乱を起こす。科学はいつか人間を滅ぼすかも・・・というエピローグ。

来るべき世界
核実験の影響で生態系が破壊されつつある地球で、米ソがいよいよ全面戦争に突入していたころ、地上には「新人類フウムーン」が誕生していた。彼らはガス星雲の接近による地上の全滅を察知して、ノアの箱船計画をたてて地球を脱出する。その後、米ソ全面戦争とガス星雲の影響で崩壊した人類社会だったが、ガスの正体はただの酸素だった。
しかしいつの日かフウムーンが帰ってくれば、その時こそ人類は本当に滅亡するだろう・・・と締めくくられる。


・・・いくらなんでも短すぎるような気もするので、各作品のエピローグで語られた部分も引用してみる。作品を包んでいる雰囲気が、よく出ているように思う。

「ミイちゃん・・・ぼくたちが死んだり、地球へ帰ってしまったりしたことは、敷島博士やあやめさんにとって、かえって幸福だったかもしれないねえ・・・」(『ロストワールド』)

「ミッチイの一生は終わった。科学の最高芸術である生命の創造は、ただむだに人間社会を騒がせただけであった。おそらくいつかは人間も、発達しすぎた科学のために、かえって自分を滅ぼしてしまうのではないだろうか?」(『メトロポリス』)

「人間が猿を征服したように、いつかは人間以上のものが人間を征服する・・・これは自然の法則です。人類がそれと共存するためには人間同士の争いをやめさせなくてはならない。宇宙へとび去ったノアの箱舟は、いつか近い将来また地球へ戻ってくる・・・」(『来るべき世界』)


さて単刀直入に言うが、この三部作に共通して描かれたものの一点目は、”人間のどうしようもない愚かさ”だろう。
そしてもう一点が、”人類の終わりの日への予感”だ。
※『ロストワールド』は人類破滅を具体的に口に出してはいないが、地球人類が滅んだ後でもまだ若いママンゴ星で、人間と植物のハーフである新人類が種としての青春を謳歌しているイメージが残されていると思う。

アトムは僕が殺しました ー手塚治虫のこころ』(田中弥千雄/サンマーク出版)という本によると、手塚はこうした「SFマンガへの指針を与えてくれた作品として、チェコの作家カレル・チャペックの『山椒魚戦争』などをあげていたことがある」そうだ。SF的なストーリーとはこういうもんだ、というお手本は存在したというわけだ。

だが、その中で描かれる、執拗なまでの人間の愚かさはどうだろう。
出てくる奴はどいつもこいつもカネに目がくらみ、地位や名声に固執し、人を裏切り、自己保身に走る。正しい情報を伝えても煽動者に惑わされ、やることなすこと打つ手が遅い。身近で些末なことには神経を使うが、物事を大局的に見ることは放棄する・・・・。

と、まあそれがぼくを含めた普通の人間というものなんだろうが、コメディタッチの会話やコミカルな動作から目をそらして、描かれた人間たちの行動だけを吟味してみると、そこには正直、あまり希望のようなものは感じられないように思う。むしろ、破滅の日までこの愚行は続くのだという、諦念の方がうっすらと染み出ているような気さえする。そしてそこに「生命の尊厳」はあるかというと、少々頷きがたいというのが実感だ。

もちろん、そんなのはぼくの個人的な感想だと思われる人もいるだろう。
手塚治虫は人間の愚かさを描くことで、それを読む少年少女に未来への警告をしているんだと、そう肯定的に捉える人もいるだろう。

だが、ぼくの見るところ、手塚が抱えている愚かな人間への諦念は、諦念に留まるような浅いものではなかったようだ。それはまさに永遠の牢獄とも言える、終わりなき愚行だった。

『火の鳥』だ。

つづく

火の鳥・未来編 〜手塚治虫のニヒリズム

火の鳥

手塚治虫は『火の鳥』の全体構成を、黎明編から時代を下り、また未来編から時代を遡って、現代編で結実するものとしていた。しかし作品自体が長期化するにつれて、『現代』自体がその時によって変化してしまうため、この初期構想は実現しなかった。(Wikipedia - 火の鳥


いきなり引用からで恐縮だが、『火の鳥』とはそうして構想されたものだった。分かりやすい方で言えば、『黎明編』がヤマタイ国、『ヤマト編』が古墳時代、『鳳凰編』が奈良時代、『羽衣編』が10世紀、『乱世編」が平安末期・・・と順を追って展開され、やがて「現代」を追い越して、最終的には『未来編』に至る。
それを、過去と未来の一番遠いところから、現代に向かって交互に書かれていった点が、『火の鳥』ワールドの特徴だ。

そして、書かれなかった『現代編』についてはこんな意見がある。

「・・・読者はこの欠落部分を補うことができる。それは『火の鳥』以外の手塚マンガをこの欠落部分に押しこむことだ。実は『火の鳥』には、手塚治虫の全作品を包みこんでしまうだけの壮大な枠組みが備わっている。そのようにして『火の鳥』の欠落部分を補っていく過程で、読者は手塚マンガの一つひとつが、『火の鳥』の一部分であったことに気づいていくのではなかろうか」(『アトムは僕が殺しました』田中弥千雄/サンマーク出版


なるほど。アトムやブラックジャックの活躍こそが、書かれなかった『火の鳥・現代編』だということか。
そう言えば初期SF三部作にしても、『ロストワールド』のママンゴ星がその後再び地球に接近したかどうかは不明だし、『メトロポリス』のミッチイの物語だって近未来にはあり得るし、『来るべき世界』のフウムーンたちは地球よりもっと良い星を見つけて平和に暮らしたのかもしれない。
なるほど。初期SF三部作でさえもが、『火の鳥』の一部だったのか・・・。


・・・だが、冷静に考えてみれば、それは一つの棚ぼたではあっただろう。
なぜ初期SF三部作までもが『火の鳥』ワールドに入れるかと言えば、それはそれらが決まって「警告」や「問題提起」に止まり、その先を読者に委ねるスタイルをとっていたからだ。したり顔で、「こんなことでいいのでしょうか・・・」と締めくくるニュースキャスターと同じようなもんだ。

では、手塚治虫から問題を提起され警告を受け続けたぼくら人類は、手塚ワールドにおいて、最終的に一体どうなったというのだろう。
何のことはない。いとも呆気なく、滅亡してしまったのだった。


『火の鳥・未来編』の舞台は西暦3404年の地球から始まる。それからしばらくして、山之辺マサト以外の全人類は滅亡してしまうので、ぼくらの子孫たちの命もあと1400年くらいで終わることになる。
人類の文明は25世紀にその頂点に達したらしいが、そこから以降は衰退期だった。理由は地球という天体自体の衰退で、搭乗員である人類もそれに引きずられた。種としての老化現象を止められない人類は、前向きな気持ちを失い、ついには政治・行政をコンピュータの管理に任せることにした。

コンピュータは5台。現在でいうアメリカ、フランス、ロシア、中国、そして日本(常任理事国の座をイギリスから奪ったらしい)。ところが、そのうちのロシアと日本のコンピュータが些細なことから仲違いを始めて暴走、ついには全面核戦争を引き起こしたのだった。

ただ一人生き残った山之辺マサトは、実は火の鳥から永遠の命を与えられた男だった。火の鳥は山之辺に、新しい人類の創造を命じる。山之辺はそれに従い、生命のスープを海に投じる。長い月日が流れ、一度は死に絶えた海に生命が生まれ、やがて恐竜時代に。その後、ナメクジが文明を築くというイレギュラーがあったものの、ついにほ乳類の天下が始まる。道具を使う人類が現れ、それは急速に発展し、日本の地にはヤマタイ国が誕生した。

「でも、今度こそ」
と火の鳥は思う。
「今度こそ信じたい」
「今度の人類こそ、きっとどこかで間違いに気がついて・・・命を正しく使ってくれるようになるだろう」と・・・。


要するに、一番遠くの未来である『未来編』と、一番遠くの過去である『黎明編』は繋がっていて、火の鳥ワールドは「円」を描く。ぼくらはその回し車のどこかに存在する、何回目かの人類だということだ。アトムやブラックジャックも、何回目かの彼らだということだ。

しかしそれじゃ、手塚がそれまで描いてきた「警告」や「問題提起」には一体何の意味があったというのか。
人類は、生まれては滅ぶを何度となく繰り返し、その循環は途絶えることがない。それは、いずれの人類もが、手塚がさんざん描くように、どうしようもなく愚かだからだ。
ぼくは、手塚の考える輪廻転生論も宇宙論も時間論もよく分からない愚か者だが、ひとつだけ分かることは、この永遠の愚行のループには、夢も希望も存在しないということだ。人間の営みなんぞは、まるで「シーシュポスの岩」のようじゃないか。

これは、ぼくやあなたが手塚治虫の教えをよく聞いて、愚かであることを止めるだけではダメだ。
『ロストワールド』『メトロポリス』『来るべき世界』・・・そこでは、たった一人でも愚か者がいれば、すべてが台無しにされてしまうという悲劇が描かれていたじゃないか。絶対にその一人の愚か者にはならない、という自信はぼくにはない。

率直に言って、ぼくが『火の鳥・未来編』から強く感じるものは、手塚の人間への絶望であって、ニヒリズムだと思う。
そしてそのニヒリズムから、なかば必然的に発展したものが、次のような火の鳥の発言だろう。

「地球は死んではなりません。『生き』なければならないのです。なにかがまちがって、地球を死なせようとしました。『人間』という、ごく小さな『生きもの』です。人間を生みだして進化させたのに、その進化のしかたがまちがっていたようです。人間を一度無にかえして、生みなおさなければならないのです」


要するに、愚かな人間こそが、地球にとって最大の”害悪”だ、という発想だ。

参考:「地球から見れば、人間がいなくなるのが一番優しい」鳩山由紀夫

つづく

宇宙の騎士テッカマン 〜人間害悪説

ランボス・テッカマン・ドブライ

手抜き記事をひとつ。

前回の記事では、人間の愚かにすっかり絶望していた手塚治虫が、そのライフワーク『火の鳥』のなかで、”地球にとっては人間こそ害悪だ”と火の鳥に言わせたシーンを紹介した。ぼくは手塚治虫に詳しいわけじゃないので、もしかしたらもっと以前から、そうした主張を展開していたのかもしれない。
あるいは他に、手塚にそのような主張を持たせるに至った先人がいたのかもしれない。

ただ、先日同い年の友人と飲んだとき、ぼくが鳩山首相の「地球から見れば、人間がいなくなるのが一番優しい」という発言を持ち出したところ、それって『火の鳥』だよなあ~という反応があったので、ぼくらの世代にとっては”人間害悪説”の教祖はきっと手塚治虫なんだろう(別に誰でも構わないわけですが・・・)。

さて、そんな人間害悪説だが、単純にSF的なテーマとしても魅力的だったようで、ぼくがリアルタイムにみていたアニメ番組でも、それを採り入れようとした作品があった。
タツノコプロの『宇宙の騎士テッカマン』(1975年)だ。

ところがこの『テッカマン』だが、Wikipediaによると「制作当時大ヒットしていた『日本沈没』などの終末ブーム、公害などの社会問題など様々なテーマがストーリーに絡められたシリアスな作品である。(中略)しかし、前年の他社のテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』が打ち切りになったように、宇宙ものを当てるのは当時では難しいというアニメ業界のジンクスをこの作品も破る事はかなわなかった。そのため、1年間の予定で構成されたストーリーが本格的に動く前に半年で打ち切られ、多くの謎が残る形となった」

結論から言ってしまえば、要は”幻の”人間害悪説に終わってしまったというわけだ。


(一応、あらすじを)
環境破壊によって死滅しつつある地球の回復に失敗した人類は、宇宙への脱出のため超光速航法(リープ航法)の開発を急ぐ。するとそこに、宇宙征服を企む「悪党星団ワルダスター」が突如襲来。主人公・南城二は超人的能力を持つ「テッカマン」に変身すると、ワルダスターと戦うのだった。だが、リープ航法が実現しなければ、ワルダスターを退けても人類は滅んでしまう。果たして人類の運命は?


で、上に引用したような事情かどうかは知らないが、『テッカマン』は謎も解決しなければ伏線も繋がらず、地球と人類がどうなったのかも分からぬまま、「うおー」と叫んだきり終わってしまった。
そこで、本当はどう終わる予定だったのかを探してみたところ、やはり徳間書店の『ロマンアルバム』は役に立つ。
タツノコプロの陶山智氏の書いた「企画メモ」が直筆のまま掲載されていて、そこにちゃんと第3クール以降の予定が書いてある。

が、直筆といえば資料価値も高く、マニアなら大喜びするところなんだろうが・・・・肝心の文字が読めない。
いや、けっして字が下手くそということではなくて、印刷がかすれていて判別不能な状態なんですよ。
それで弱り果ててネットを探してみたところ、やはりインターネットは役に立つ。
「月の裏側」というテッカマン専門の個人サイトに、その全文がアップされていた。

宇宙の騎士テッカマンブレード個人ファンサイト「月の裏側」

そこからポイントと思われる部分を転載させていただくと、こんな感じだ。

又、ドブライは今まで太陽系の支配、すなわち地球征服と云う目的で、ランボスに指示を与えて来ましたが、果して、ドブライとは何者なのでしょうか?

悪党星団ワルダスターは、小宇宙の一つである”うずまき星雲IF-15”の中にある惑星群の連合体です。しかし、その星雲は地球年にして後10年で宇宙の彼方に飛び散ってしまう運命にあります。
ドブライは数千年も前より(ドブライは宇宙の超意志で死滅することはない)この事を予知し、あらゆる科学力を駆使して、滅亡を食い止めようとしたが、しかし、星雲の運命はドブライの努力にもかかわらず確実にやって来る。そこでドブライは宇宙侵略を開始し、この太陽系にやって来たのである。

ドブライにとって地球は最良の惑星であった(地球の様な惑星は彼が巡って来た宇宙のどこにもなかった)むしろ自分達の星団よりはるかにめぐまれた星であった。彼等の科学力は、今すぐ地球を奪えば公害で汚れた環境を浄化する事が出来る装置がある。
地球は宇宙の何処にもない楽園である。ドブライはその宇宙の楽園を墓場にしてしまう、地球人を憎んでいる。以上の事はランボス以下の宇宙人も城二達も知りません。太陽系への侵略と地球征服はドブライの単なる野望だと思っている。それにランボス達は、自分達の星雲が後10年で滅亡するとは思ってもいない。



ま、そんだけです。

つづく

無敵超人ザンボット3 〜神ファミリーと人間害悪説

脳みそ

ぼくがリアルタイムでみたアニメで、”人間害悪説”と真正面から取り組んだ作品だと思われるものが、富野喜幸(富野由悠季)監督の『無敵超人ザンボット3』(1977)だ。『ザンボット3』の革新性については、今さら言い足すようなことは持ち合わせていないので、Wikipedia - 無敵超人ザンボット3でも読んでいただいた方が早い。

ぼくがここで話題にしたいのは、そんな『ザンボット3』とは、手塚流”人間害悪説”を、富野流に書き換えたものだったんじゃないかと言うことだ。

そもそも富野監督と手塚治虫との縁は深い。富野監督が大学卒業後に選んだ就職先は虫プロダクション。そこでは『鉄腕アトム』の演出を任された。その後、フリーになって初めての監督作品が、手塚治虫原作の『海のトリトン』(1972)。

この『海のトリトン』で、富野監督が手塚治虫の原作を大きく書き換えてしまったことは有名な話だ。
その最終回には、「正義」だと思われていたトリトン族こそが「悪」だという大どんでん返しが待ち受けていて、多くの少年少女に衝撃を与えたそうだ(ぼくは観ていなかった・・・)。
そんな富野監督が、おれは手塚なんて全然知らんよ、と言うとしたらその方がむしろ不自然な気がする。

もちろん、『トリトン』の一例だけをもって、富野監督が手塚の人間害悪説の書き換えを狙って『ザンボット3』を作ったなどということはできないが、一方では、『ザンボット3』が旧来の『マジンガーZ』等への挑戦の意図が込められていたことは事実として広く認識されていることでもある。
作品の見えないところで、監督本人も意図せぬままに手塚に挑戦していたとしても、この人の場合だけは不思議ではないような気が、ぼくにはする。


では、『ザンボット3』が挑戦した(ようにぼくには思える)”人間害悪説”とはいかなるものか。
それを1965ー66年に手塚治虫が連載発表した『W3』(ワンダースリー)に見るならこうだ。

銀河系のすぐれた生物の集まり「銀河連盟」は、戦争を繰り返す愚かな人間たちが住む地球を、存続させるか破壊するかの会議を開いていた。評決は五分五分で、銀河連盟は1年の期限で地球人を調査することになり、W3が派遣された。
いろいろあって、1年後に銀河連盟が出した結論は、
地球という星はいかにも野蛮で危険きわまりない。宇宙に存続を許されない星だということがわかった

反陽子爆弾による地球爆破を命じられたW3だったが、彼らには地球で知り合った真一という少年に命を救われるという過去があった。W3のなかでも、地球爆破推進派だった一人が言う。
おらあね、地球はきらいだけど、あんたは好きなんだよ。あんたは心底から尊敬したよ

W3はそうして反陽子爆弾を持ち帰り、反逆罪をとわれた。追放刑を受けた彼らは、彼らの希望によって地球への流刑が決定、記憶を奪われたのち人間の姿に変えられ、10年前の地球に送られた。実はその姿は、真一少年を影から支えてきた人たちの姿であり、真一と協力してW3の命を救った人の姿だった。

そして地球の中心にはまだ反陽子爆弾が埋まっている、と脅かされた地球人はついに争いを止め、平和へと駆り立てられていくのだった。めでたしめでたし。


以上、大ざっぱなあらすじだが、まず注目したいのが、「銀河連盟」およびW3は、最後の最後まで「地球」すなわちぼくら人類を、野蛮で危険な存在だと見ていたことだ。ただ、圧倒的多数の愚者にまじって、真一くんのような彼ら好みの人間もいたので、地球は救われた。

それと、地球人は決して自分たちの力で平和を勝ち取ったわけではなく、宇宙人と反陽子爆弾という超越者の存在を知って内紛をやめたということ。しかも、その描写はたったの2ページで、W3という異物を排除しようと執念深く攻撃してきた人間の実態を描いたページに比べれば、余りにも少ない。

繰り返しになるが、描かれていたことの大半は、人間の持つ愚かな性だ。他者を信じず、争いを繰り返し、同族で殺し合う人間の野蛮さと危険さだ。そして、ごく僅かな数人を除けば、人間はついに己の愚かさを省みることはなかった。ただ、宇宙人と爆弾の存在が怖くて、戦争をやめたというだけのことだ。
きっと世界政府でも作ったのだろう。



手塚作品に見られる”人間害悪説”の一例として、『W3』に少し触れてみた。安い文庫版も出ているし、読み物としては文句なく面白いので、興味のある方はご一読を。
さて、それでは富野監督は、”人間害悪説”をどのように展開したのか。

『無敵超人ザンボット3』における「銀河連盟」的立場の存在を「ガイゾック」という。人類に攻撃を仕掛けてきたのは、ガイゾックが作ったコンピュータだっだが、その目的は「宇宙の静かな平和を破壊する悪しき考えを持つ知的生命体排除」(Wikipedia)だった。もちろん、人類が宇宙にとっての”害悪”だという立場だ。

これに立ち向かうのは、地球人ではなく、母星を同じくガイゾックに滅ぼされたビアル星人の末裔「神ファミリー」だ。彼らは「この主人公たちが敵・ガイゾックと戦闘し、住宅や避難民などへの被害が出るため、主人公たちは地球にガイゾックを『連れてきた』と誤解され、一般の地球人から激しく非難される」(Wikipedia)。

この誤解はなかなか解けず、地球人の協力も得られない神ファミリーは孤独な戦いを続けるが、やがて主人公の神勝平ら若者たちは、ガイゾック飛来以前の人間関係を取り戻していく。
そして最終回、多くの犠牲を払って、ついにガイゾックのコンピュータを追い詰めた勝平に向けられた言葉はこうだ。

「憎しみ合い、嘘をつき合い、わがままな考え。まして、仲間同士が殺し合うような生き物が、良いとは言えぬ。宇宙の静かな平和を破壊する。我は、そのような生き物を掃除するために、ガイゾックによって作られた。

(中略)最後に聞きたい。なぜ、我に戦いを挑んだ。なぜ。
地球の生き物が頼んだのか。自分たちだけのために守ったのか。本当に、家族や親しい友人を殺してまで守る必要があったのか。悪意のある地球の生き物が、お前たちに感謝してくれるのか。 地球という星が、そのような優しさを・・・。

お前たちは勝利者となった。しかし、お前たちを優しく迎えてくれる地球の生き物がいるはずがない。
この悪意に満ちた地球に、お前たちの行動をわかってくれる生き物が一匹でもいると言うのか」


物語は、傷つき倒れ、寒さに震えている勝平を、かつて非難し石もて追った生まれ故郷の人々が大挙して押し寄せ、迎えてくれる場面で幕を閉じる。


人それぞれ感じ方は違うものだし、いちいちぼくがゴチャゴチャ説明するようなことでもないだろう。
ただ一つ言えることは、もしも『W3』を読んで、人間なんて宇宙から見れば愚かで下等な生物だ!みたいな子どもっぽいニヒリズムに凝り固まった少年がいたとして、そんな彼を、普通の常識的な大人に変えるきっかけとなるものが、『ザンボット3』には確かに存在する。

それはつまり、「銀河連盟」が漠然と言う人間の「野蛮で危険」とは、ここでガイゾックが延々と吐く悪態に他ならないからだ。ここまで人間全てを悪し様に言われ、そんなもんへの抵抗感がかすかにでも湧いてくるのなら、彼はすでに”人間害悪説”から解放されているのだと、ぼくは思う。

本来は地球に対して中立であった神ファミリーが持った愛郷心。
ことさらに人間の愚かさや野蛮さを強調せずとも、あるいは「正義」の御旗を振り回さなくても、子どもに大切なことは十分伝えられる。
『ザンボット3』からは、そんな印象を強く受ける。


つづく

手塚治虫『ブッダ』 〜生命の尊厳と人間の尊厳

ブッダ

なかなか話が先に進まないので自分でも困っているわけだが、手塚治虫についてもう少し書く必要がある。
と言っても、ぼくが今ここでやりたいのは、浅薄な知識で手塚を語ることではなく、あくまで富野監督が『伝説巨神イデオン』で何をやりたかったのか、何と戦ったのかについてだ。

さて話は松本零士に戻る。
松本零士が心情的には”人種を越えた友情”を訴えつつ、その表現には多く日本の”敗戦”や”戦後”が描かれていたことはすでに見てきたとおり。
もちろんこれは矛盾でもなければダブルスタンダードのようなものでもなく、何かしらの作家性をもつ人物にはよく見られる光景なんじゃないかと思う。体験が表現をうみ、体験がメッセージをうむ。いずれにしても、実体験という裏付けがある以上、両者は作家の内部においては矛盾しない。

では、作家という意味では戦後最大級の巨人である手塚治虫の場合はどうだったか。
自伝である『ぼくのマンガ人生』(岩波書店)などを読むと、手塚治虫を”作家”にした原体験はやはりあの戦争だったようだ。具体的なエピソードは省略するが、戦争と敗戦を実際に体験した手塚に与えられた表現が、人間の愚かさと、愚かゆえに繰り返される愚行だったことはすでに見てきた。
『初期SF三部作』はもちろん、その後の『W3』『火の鳥』、さらには『ブラックジャック』でも、人間たちは互いに騙しあい、裏切りあい、殺しあった。
そしてその愚行は、『火の鳥・未来編』で人類が滅亡してしまうまさにその日に及んでも、やむことなく繰り返されたのだった。

物の本によれば、手塚治虫のこのような表現のみなもとには、”宇宙からの視点”があると考えられているそうな。
まだ人類が月にさえ到達する前の時点から、すでに手塚の目は大気圏を抜けて、宇宙から地球を見下ろしていた。そこから見える地球では、無闇に増えた人類がせまい大地に勝手に線を引き、その線をはさんで殺しあいをしていた。その線のなかは自分のものとばかりに大地をいじりまわし、ゴミを海に流していた。
ちっぽけな地球を、さらにちっぽけな人間という生きものが無茶苦茶にしている・・・。

そんな、今風に言うところの”上から目線”。
多くの論者が、手塚ストーリーマンガの基礎にこれを認めている。あちこちに書いてあることなので一々引用はしないが、このきわめて冷めた客観的な視点こそが”SF的”なるものを子どもたちに伝え、新時代の表現として多くの”手塚チルドレン”を排出したみなもとであると書いてある。


ということで手塚治虫の表現上のテーマはOKとして(?)、それではこの巨人の心情的なテーマとは何だったか。
これはもう、ご本人があらゆる場所で発言しているとおりで、「生命の尊厳」というものだ。
だが、ここで注意しなくてはならないことがある。
それは、手塚治虫のテーマは「人間の尊厳」ではない、ということだ。


繰り返しになるが、『手塚治虫 - 時代と切り結ぶ表現者』(講談社現代新書/1990年)のなかで桜井哲夫先生は、手塚ストーリーマンガの第一作として『地底国の怪人』(1948)に触れ、その「重要なポイント」として「人間中心主義(ヒューマニズム)からの脱却」をあげて高く評価している。

ところがこの後の議論では、桜井氏は一転して手塚に懐疑的な論調をとるようになる。
「いわれるほどの傑作だろうか。あるいは手塚の代表作とみなしていいものだろうか」と氏に批判されたのは『ジャングル大帝』(1950ー54)だ。

「主人公のレオが、人間社会からジャングルにかえったあと、動物たちに畑をつくらせ、食堂をひらかせ、動物を指揮して合唱させるといった、人間の文化への動物たちの同化がかたられる。(中略)これは、手塚のそれまでの作品とは、異質な世界観にたっている(さらに中略)極言すれば、ここには、明治以来の日本のモダニズムがかたりつづけてきた、欧米文化への同化がすなおにかたられているにすぎない」(同書「レオとアトムは何を語っているか」)


ついでながら、アニメ版の『ジャングル大帝』で演出をつとめた、りんたろう氏も、似たような違和感を語っている。

「雰囲気は好きなんだけど、あのテーマにはどうしても納得できないんだよね。要するに、生態系のピラミッドを壊しているわけじゃない。生態系のトップにいるのは肉食獣であるライオンでしょう。その下に草食の動物がいる。それを壊して、肉食獣が草食になるというのは、頭では理解できても、僕は生理的にダメだったんだよ」(『PLUS MADHOUSE04 りんたろう』キネマ旬報社)


手塚に詳しいお二方が感じている違和感とは、とどのつまり、手塚のなかに現れた「人間中心主義(ヒューマニズム)」への違和感のことだろう。そしてこれを逆から見れば、もともとの手塚治虫とはアンチ・ヒューマニストであった、という桜井氏の説に立ち戻ることになる。

ぼくの見るところ、おそらくこの『ジャングル大帝』こそが、手塚本人が言うところの「経済的な要請」の第一号だったのだろう。念のためもう一度引用しておくと

「ここではっきり断言するけど、金が儲かるからヒューマニストのフリをしているんだ。経済的な要請がなければ俺は一切やめる」

というのが手塚先生ご本人の本音だ。


「生命の尊厳」とは「人間の尊厳」ではない。
それは、1972ー83年という長きにわたって連載が続けられ、『火の鳥』と並ぶ手塚のライフワークと目される『ブッダ』を読むと分かる。最終巻、ついに完全なる悟りを開いた釈尊は、霊鷲山に集まった人間を含む動物たちを前にして次のように語る。

いつも私はいっているね この世のあらゆる生きものはみんな 深いきずなで 結ばれているのだと・・・・・・
人間だけではなく 犬も馬も牛も トラも魚も そして虫も・・・・・・
それから草も木も・・・・・・
命のみなもとは つながっているのだ みんな兄弟で平等だ おぼえておきなさい

(中略)

だれでもいい 人間でもほかの生きものでもいい 相手を助けなさい 苦しんでいれば救ってやり こまっていれば ちからを貸してやりなさい
なぜなら 人間もけものも 虫も草木も 大自然という 家の中の 親兄弟だからです!
ときには 身を投げ出しても 相手を救って やるがよい


ここで展開されているブッダの教えが、『火の鳥・未来編』で語られた「宇宙生命(コスモゾーン)」の概念と同じものであることは言うまでもないだろう。それはまた、『火の鳥・鳳凰編』で茜丸がみた夢とも同じものだ。死んだ茜丸はミジンコに生まれ変わり、次にカメになり、鳥になった。すなわち

人間=ミジンコ=カメ=鳥

コスモゾーンから見れば、これらの生命は等価だ。そしてそれら全てはコスモゾーンの一部として宇宙に存在する。人間はそのことを自覚しなければならない。勝手な思い上がりで、この秩序を破壊してはならない。

おそらく、手塚の言う「生命の尊厳」とは、簡単に言えばこんな感じのことなんだろう。
確かなことは、ここには「人間中心主義」はそのカケラもないということだ。「初期SF三部作」から『火の鳥』、『ブッダ』へ。途中、『ジャングル大帝』で道に迷う(失礼!)ことがあっても、手塚治虫のテーマはずっと同じだった。

そしてその心情的テーマは、表現においては思い上がった人間たちの愚かさを糾弾することで、見事な一貫性を見せる。松本零士がそうであったように、手塚治虫も原体験(戦争)から来る表現的テーマ(人間の愚かさ)を克服するために、心情的テーマ(コスモゾーン)を主張した。ここにはまったく矛盾はないはずだ。


が、ぼくの見るところ、手塚治虫は再び『ジャングル大帝』をやってしまった。
「経済的な要請」に、一生を賭けたテーマを売り渡してしまった。

『24時間テレビ』への参加だ。

つづく

手塚治虫『バンダーブック ~100万年地球の旅』と日本国憲法

ブラックジャック登場

『24時間テレビ 愛は地球を救う』については特に説明しないが、手塚治虫を「ヒューマニスト」と見る傾向が、この番組への作品提供によっていよいよ固定されたであろうことは疑う必要のないことだと思える。
そして、その記念すべき第1回放送に放映され、番組内で最高の28%もの視聴率をあげた(Wikipedia)のが『100万年地球の旅 バンダーブック』だ。

ストーリーは、宇宙船爆発事故の際に両親の手でただ一人脱出させられた赤ん坊が、流れ流れて惑星ゾービに辿り着くところから始まる。赤ん坊はその星のとある王妃に拾われるとバンダーと名付けられ、王子として育てられる。
ゾービ星では人間は動物の尻尾の肉しか食ってはいけないなどのエピソードは、いかにも手塚節全開だ。

また、平和な日々のなか練武に励まされるバンダーが父にその理由を問うと、その答えはこうだ。
宇宙は平和だが、地球という星だけが野蛮な侵略を続けている。それに備えて、バンダーに武術を学ばせているのだと。「歪んだ進化」を遂げてしまった地球人は、宇宙のなかで一番「残忍」で、「冷酷」で、「悪質」である。地球人には「差別の心」があり、「信仰がまちまち」であり、「領土あらそい」が耐えない。「地球はもう手遅れ」なのであった・・・。
(・・・むむむ、えらい言われようだ。)

やがて自分が地球人であることを知ったバンダーの苦悩~、以下のストーリーもあるにはあるのだが、正直それほど特筆するような内容でもないので、こんなところで。


とまあ、ざっと見ただけでも『バンダーブック』には「生命の尊厳」っぽい主張もあり、「人間害悪説」の展開などもあって、いかにも手塚作品という印象だ。そこには、いつも以上に「毒」を増した手塚治虫その人がいるだけで、作品自体には何も問題はないと思う。
問題があるとしたら、それが『24時間テレビ 愛は地球を救う』の目玉として放送されたことだろう。つまり、「生命の尊厳」は「人間の尊厳」を含む、という、手塚的にはおよそ有り得ない事態が発生してしまったわけだ。

が、これはぼくの見るところだが、手塚治虫のテーマにはもともと恣意的に解釈されかねないリスキーな部分があったように思う。
手塚の表現上のテーマだと思われる「人間の愚かさ」が、”宇宙からの視点”といわれるスタンスから産み出されたものであることはすでに書いたが、それは今風にいえば”上から目線”というやつであって、要するに、地上の人間たちの営みを極限まで低く小さく見るということでもある。

そして、手塚はそのようなちっぽけな人間が起こす戦争などの愚行の解決に、しばしば宇宙からやってくる超越者を利用してきた。『来るべき世界』や『W3』などがその代表例だろう。人間を「愚か」だと見る以上、このような他力本願な展開になるのはある意味当然の帰結でもある。

というところで、ふと周りを見回してみると、実は同じように他力本願な世界平和を考えている人々が存在していることに気がつく。ちょうど『愛は地球を救う』の言葉のように、人々の善意が集まれば世界平和が成り立つと考える不思議な人々がいる。

ぼくら戦後の日本人だ。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(『日本国憲法前文』)

要するに、手塚治虫の永遠のテーマである「人間の愚かさ」は、その論理的発展の結果として、ぼくらの「平和憲法」の精神に容易に近づくことが出来てしまう。全く同じものではないが、そこそこ共感し合えるということだ。

そしてそこに、手塚のもう一つのテーマ「生命の尊厳」が「人間の尊厳」をも含む、と来たらどうだろう。
何のことはない。
手塚の2大テーマは、「基本的人権」と「平和主義」を精神的支柱とする『日本国憲法』の精神とほとんど変わらない、ということになるだろう。もっとストレートにいえば、「戦後民主主義」の代弁者だ。


この手塚的な「戦後民主主義」がいかにいびつなものかは、現在のぼくらの国のトップの発言を見ることで痛感できる。

・「地球から見れば、人間がいなくなるのが一番優しい
・「国というものがなんだかよく分からないんですが
・「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」        
                        -鳩山由紀夫

これらの発言から分かることは、この人物の頭の中には、手塚流の”上から目線”と自分個人だけがあって、その中間がないということだろう。自分を育ててくれた共同体や、それを包む「くに」という感覚。そういうものがない。何とも不思議な人だ・・・。

などと感心している場合ではなくて、じゃあそれのどこが問題かと言えば、ぼくら当時のアニメファンはそのいびつさが何を生むかを実際に目撃したことがあるってことだ。

『宇宙戦艦ヤマト』第24話「死闘!! 神よガミラスのために泣け!!」。
この回、ついに宿敵ガミラスを屠ったヤマトだったが、古代進は廃墟と化した都市を見てこう叫ぶ。
「我々がしなければならなかったのは戦うことじゃない。愛し合うことだった。勝利か・・・糞でも食らえ!」

ガミラス人と地球人は、生物学的にみて共存共栄することはできない設定になっている。そのガミラスと地球人がひとつの惑星に住もうとすれば、いずれかが排除されるのはやむをえないことだ。そして地球人、古代進は勝った。その結果として、彼はこれからも地球上で生きていける。

だからこの時の古代進の発言は、いかにも「きれいごと」だ。その場かぎりの「ウソ」だ。
しかし『宇宙戦艦ヤマト』の物語は、時として自分の命を守るためには「平和主義」の縛りを解かなくてはならないことがある、というこの世の「真実」を伝えている。ガミラス人の奴隷とならないために、「人間の尊厳」を守るために、古代たちは「平和主義」ではいられなかったことを伝えている。

と、いまオッサンになってみれば、この時の制作側の残したメッセージは素直に読み取ることもできるが、正直、少年時代に劇場や再放送でみたときの印象は違った。

それは「偽善」であり「欺瞞」である。そう感じた。

ならば手塚治虫はどうなんだろう。
『24時間テレビ』に参加することで大切なテーマを見失うことを容認するこの巨人は、「偽善」「欺瞞」ではないと言い切れるんだろうか。

つづく

富野監督と戦後民主主義 〜『イデオンという伝説』

イデオンという伝説

前回の記事は途中から酔っぱらって書いているので、我ながらいつも以上に何を言ってるのか分かりにくい。
重複になるが、もう一度整理しておきたい。

まずは「戦後民主主義」の定義についてだが、このブログでは一貫して「故郷は地球」や「怪獣墓場」の脚本家、佐々木守氏の発言を基本に置いている。
あらためて引用しておくと、こういうものだ。

日本の敗北を体験した僕には「戦後民主主義」は明確な手ざわりとして残っている。それは「個人が、体制よりも社会よりも組織よりも、すべてに優先される」という考え方であり、そんな行動のことであった。(『佐々木守シナリオ集・怪獣墓場』あとがき)


言うまでもなく、佐々木守氏の言う「個人の優先」は、日本国憲法でいう「個人の尊厳」、細かく言えば「自由主義」「福祉主義」「平等主義」からなる「基本的人権尊重主義」から来るものだろう。
こと精神面だけをみるなら、これに「平和主義」を加えたあたりがいわゆる”憲法の精神”というやつで、「戦後民主主義」ともおおむね一致するものだと思う(以上はwikipedia - 日本国憲法を参照した)。

と一応の確認をしたところで、それでは手塚治虫の主張する「生命の尊厳」とは何かと言えば、字面こそ似ているが「個人の尊厳」とは180度正反対と言ってもいい概念だといえるだろう。
「コスモゾーン」にしても「ブッダ」の教えにしても、「個人の尊厳」どころか、むしろ「個」などは存在しないと言い切った方がよっぽど手っ取り早い説明になるはずだ。
つまり、もともとの手塚治虫は戦後民主主義とは無縁の思想を持ち、それを作品に展開していたわけだ。

ところが、手塚治虫の表現的なテーマと目される「人間の愚かさ」の方は、戦後民主主義と無縁ということにはいかなかった。
そもそも手塚は、それを”宇宙からの視点”と言われる(ことが多い)立ち位置から描いてきた。これは、地球上の人類をまとめて一つに俯瞰してしまう視点だったから、行き着く先の「平和」は、大抵の場合は「世界政府」の姿に収まることになる。

ただ、この場合の「世界政府」は、アメリカなりロシアなりの大国が天下統一することで成し遂げられるものではない。大抵は、世界中の国々が同時に善意をもって武器を捨てることが「平和」に繋がるという結末だ。
要するに、憲法9条が世界中に拡散した状態、と言えるだろう。

もちろん、手塚治虫が憲法9条の布教に励んでいたというわけじゃあない。
「人間の愚かさ」を描くために獲得した”宇宙からの視点”には、憲法9条的な、人間性善説ベースの平和主義と容易に結びつく可能性が最初から存在していた、とぼくが思うだけのことだ。


またもや前置きが長くなってしまったが、ここからが本題。

富野監督と手塚治虫の縁については、今さらぼくが説明するようなことでもないだろう。
富野監督は1964年に虫プロに入社、『鉄腕アトム』の演出や脚本を担当し、1972年の初監督作品が『海のトリトン』。1977年の『ザンボット3』は「人間の愚かさ」と「人間害悪論」をストーリーの骨格におき、”手塚治虫先生に捧ぐ”とばかりの内容だった。

1977年あたりといえば、60年代中程から始まった長い長い低迷から、ようやく手塚治虫が完全復活を遂げた頃だ。以前の記事では、ぼくは『ザンボット3』を手塚への挑戦だと書いたが、それもこれもチャンピオンが健在でなければただの弱い者イジメだ。王者手塚が復活したからこそ可能になった挑戦を、一番喜んだのは富野監督自身だったのかもしれない。

ところがその手塚はその翌年、『24時間テレビ 愛は地球を救う』に参加した。
一生を賭けた偉大なテーマ「生命の尊厳」は、本来は相容れないはずの「人間の尊厳」にその名を変えた。人間の「愛」が地球を救う、という傲岸不遜な人間中心主義(ヒューマニズム)に迎合した。

あくまで推測だが、この事態が富野監督にとって天変地異ほどのショックを与えたとしても不思議ではないと思う。
なぜなら、その後の富野監督の発言からは、随所に「個」を基本とした人間中心主義への懐疑の姿勢がうかがえるからだ。長くなるが、すでに絶版で入手困難な本なので、段落まるごと引用させていただく。

だからエゴというのは、すごくラフな言い方をしますと、ありません。あってはいけないんです。こういったときに、私とか僕がなくなっちゃって寂しいという言い方をするのが、今の子たちかもしれないし、今の日本の風潮かもしれないけども、それは違いますね。それは、エゴがあると信じた近代思想がでっちあげた概念です。日本においては『人形の家』のノラのような精神を翻訳するときに「自我」という日本語を作り、それがひいて社会の成員論を欠落させる状況まで生み出してしまった。それこそバカ野郎です。イデオロギーとして作っちゃったバカ野郎。だけど、高々、100年の歴史しかない概念などは、いつまでも思想としては生き残りませんから、基本的に社会の成員としての自分という考え方をすべきです。そうしたときに、どういうふうに社会との関係を持つのか、家族との関係を持つのか。そこをきちんとできなかったら、お前もない、私もないかもしれないんだと思わなくちゃいけない。今は本当に「まず私」で全てが始まっているというところから起こる勘違いというのが多すぎます。だから今我々が語っている言葉とか、一般に流布されているコンセンサス、認識論として手に入れている言葉というのは、全部が全部正しくはないですね。(『イデオンという伝説』太田出版・1998年)


50歳になるまでの公人私人論も持っていたのですが、そうして他者がある中でおのれの関係性というものを意識した時に僕はもっと大きな言葉に到達しました。僕はエゴの肥大化が持つ誤解というものが決定的に現代の我々を不幸にしていると考えます。僕はエゴ、もっと言ってしまえば個性というものを絶対に認めないというところまで来ました。
そう考えると衆愚政治に陥ってしまうかもしれない可能性を持ってはいるけれども民主主義というシステムを取り入れた、集団の英知というものは認めざるを得ないと思います。この制度は合意という作業を経ることによって個的なものではない意思を生み出すシステムだからです。すごく乱暴に言います。公的に有用なエゴ、個性から発したサムシング。それはどんなジャンルのものでもいいのです。そうしたものなら容認できますが、果たしてそんなものは存在するのだろうか。僕は基本的に個人の言説というものを却下する。認めない。お前程度の認識論は、お前程度の意見は、お前程度の個性は、個性とは言えないんだからやめなさいと。(『ガンダム者 - ガンダムを創った男たち』講談社・2002年)


いずれも、言わんとすることは明快で、「個」の否定だ。
ぼくは、富野監督のこうした認識は、かなりの部分で(本来の)手塚治虫の思想に近いものがあるように思う。そして、上の方に引用した佐々木守氏の思想とは180度相容れない。
つまるところ、富野監督が否定しているのは戦後民主主義だということだ。

しかし師である(?)手塚治虫は1978年、向こう側である戦後民主主義の陣営に鞍替えしてしまった。あるいは、取り込まれてしまった。
これはどうしたことだ。
おれらの”先生”はどこに行ってしまったんだ。


かくして、富野監督の、「手塚治虫」をその手に取り戻すための戦いが始まった。
『伝説巨神イデオン』。
そこでは、戦後民主主義への正面からの攻撃と、失われた手塚ワールドの再構築が図られた。

と、ぼくは考えている。

※余談になるが、ぼくには富野監督の言う「バカ野郎」は、前回引用した某国の首相に向けられているように思える。

つづく

劇場版『地球へ・・・』(1980年)

地球へ・・・

ということで、ここからようやく『伝説巨神イデオン』の話題に入っていくわけですが、基本的な姿勢を最初に一点だけ・・・。
この先はできるかぎり作品から分かることだけで話を進めることにして、マイナーな資料からの引用等は極力慎むことにします(『ガンダム』編の反省です)。前回引用した『イデオンという伝説』(太田出版)には「第八章 完全復刻・初期設定ファイル」などという、何とも魅力的な資料も収録されているわけですが、こういったものはなるべく使いません。劇場でみた記憶だけで、あーでもないこーでもないとやり合ったあの少年時代に戻って、しかし40過ぎのオッサンの視点で、話を進めていきたいと思います。


・・・とか言いながら、またいきなり脱線してしまうわけだが、劇場版『伝説巨神イデオン』が封切られる2年前に公開されたアニメ映画に『地球へ・・・』がある。原作は竹宮恵子。

この『地球へ・・・』だが、主力メカが気持ち悪い形状をしていたので当時はまるで好きになれなかったが、いま見返してみると、これがかなり面白い。竹宮惠子は角川文庫版の『火の鳥3 ヤマト・異形編』のあとがきに
「そして、『手塚治虫をどこで、どうやって超えるか』を意識の底にひそかに沈めながらプロを目指したのだ」と書いているが、『地球へ・・・』はまさに、手塚治虫への挑戦状の一つだったと言えるだろう。もしも1980年に「手塚治虫賞」が存在していたなら、受賞は間違いないところだと思う。

(以下かなり大ざっぱなあらすじ)
舞台は1000年以上先の未来の話。
大気汚染によって人間が住めなくなった地球から人類が去って、すでに500年が経過していた。宇宙生活を始めた人類は徹底した管理社会体制を構築、再び地球を荒らさないために、人間自身を改造した。人工子宮による試験管ベイビー、血縁のない育て親による育児、成人検査による不良分子の殲滅・・・。そこで人は、「地球の子としての完全な平等を保証」されていた。

ところがそんな管理の網をすり抜けるように、人類の中に「ミュウ」と呼ばれる新人類が誕生していた。人類はミュウを敵視して抹殺を図るが、それでもミュウは生まれ続け、追っ手から逃れて地下生活を始めた。
「われわれも故郷が欲しい」
ミュウたちの思いは募り、ある事件をきっかけについに蜂起。地球を目指し、長い旅路につくのだった。

人類とミュウの戦闘は続き、やがてついにミュウは地球に辿り着く。
そして、地球を管理するコンピュータ・テラによって語られる真実、それはかつて人類が地球を去るに当たって故意にミュウを誕生させることに決め、「二つの因子のどちらかに地球の未来を賭けた」というものだった・・・。


さて『地球へ・・・』だが、昭和のアニメ作品が多く展開していた問題意識(のようなもの)が、実に良く整理された映画だと思う。”人間害悪説”に始まり、地球脱出へ。”世界政府”が必然的に生むであろう管理社会へのシニカルな視線。
ここに竹宮恵子の手塚への挑戦を探すなら、それはミュウたちが持つ地球への燃えさかるような愛郷心だろう。地球で生まれたわけでもなく、しかもすでに「人間」の枠を超えてニュータイプとなったミュウであっても、故郷は欲しい。人間は手塚流の上から目線だけは生きられないし、地球を救うのもまた、上から目線ではない・・・。

本題ではないので深くは考えてないんだが、まあそんな感じかと思う。
ではこの『地球へ・・・』が、本題である『イデオン』とどう関係があるのかと言えば、それはそのストーリーの根本にある「超越者」の存在についてだ。


『地球へ・・・』においては、人類とミュウは、超越者であるコンピュータの計画によって引き合わされ、戦わされた。それ自体は、戦国時代に真田昌幸がふたりの息子を徳川・豊臣両家につかせたように、よくある保険のパターンだから特筆するようなことじゃない。問題は、わずか2年前に公開された『地球へ・・・』が、その後の『イデオン』解釈に微妙な影響を与えたんじゃないか、ということだ。

あまり個人の趣味のサイトへの批判めいた話はしたくないんだが、こういう文章がある。

イデオン論 - Yasuakiの新批評空間(アニメ、ゲーム、哲学、経営、旅行)

サイト全体としてはとても一度に目を通すことは無理なほど膨大な情報量なので、とりあえず「イデオン論」だけに話を絞るが、この「イデオン論」が非常な力作であり、大いに刺激的な文章であることを認めつつ、全体としてはチト間違った解釈なんじゃないかとぼくには思える点がある。

それは、「だからこそ、イデは、『全力で良き力を示せ』と語りかけ、両者を対話させようとするのです」という事実誤認に基づく、「イデは、両種族を、どんな形であれ結び付けようとしていました」という解釈だ。
今さら言うまでもないが、「全力を尽くして良き道を探すべきだ」と言ったのはベスであってイデではない。だからそもそも、イデは両種族を結びつけようとはしていない・・・。

ぼくは、このような誤解を生んだ底辺には、年代の近い『地球へ・・・』の世界観からの影響があったのではないかと邪推している。
もちろん根拠はない。
だが、仮にもあの富野監督が、すでに世に出ているパターンを繰り返して満足するものだろうか、という疑問がぼくにはある。常にアニメの制作側に厳しい監視の目をむけ、その「大人の嘘」を糾弾してきた「あの時代の」富野監督が、他人の作品のおいしいところをパクって悦に入るなんてことが、一体全体あり得るだろうか。

まず有り得ないだろう。
ならばそれは、あくまで観る側の一方的な誤解というものだ。

ぼくは『伝説巨神イデオン』は、そういった従来からある”超越者による引き合わせ説”(新造語です)とは、かけ離れた次元で語られた物語だと思っている。

つづく

伝説巨神イデオン ベスの悪夢

ベス

前回の記事では、”引き合わせ説”を否定するようなことを書いたが、それはチト正確さに欠けていた。正確には、半分は”引き合わせ説”だが、全体としてはそうではないのでは?といったところだと思う。
なお、『伝説巨神イデオン』のストーリー解釈については、そもそもこのブログの本題ではない。イデとは何か、にも実はあまり興味がない(ハッキリ言えば、未だによく分からない)。また、ぼくは怠け者のアニメファンなので、世間の『イデオン』マニアの方々の「定説」といったものも全く知らない。
ゆえに目を覆いたくなるようなくだらないことを書く可能性が高いが、この点、あらかじめお断りしておきます。


さて、そんな言い訳を先にしつつも、やはりストーリー解釈なしに『イデオン』を語るのは難しい。そして『イデオン』につきまとう”難解”という評価は、結局はストーリーに現れてくる難解さのせいだと思う。
なぜなら、どんなに集中して繰り返し繰り返し『イデオン』を観たところで、「イデ」についての明快な解答は得られないからだ。それはあくまで、観る側のひとつの解釈でしか有り得ない。


ということで、先に結論から言ってしまえば、『イデオン』の一見した難解さの正体は、作中において「イデ」自体が変化したことによるものだ、とぼくは見ている。「イデ」はひとつだが、その性格は2つある。それを終始一貫したものと考えれば、話がややこしくなるのは当然のことだろう。

すでにちょっと触れているのであっさりいくが、イデ変身の転機になるのが第34話「流星おちる果て」の中の、イデとベスの対話だ。病に倒れたベスの悪夢として、イデは初めてその意思を語ることになる。

ベス「我々にだって自分の身を守るために、考える力も選ぶ権利もあるんだ」
イデ「幾千幾万幾億の意思の集合体たる我ら。我も我が身を、守る。守る。守る」
ベス「知恵のもと、心のもとは人だ。人を殺してイデがあるものか」
イデ「心のあり所たるイデの場を守る権利がある」
ベス「なぜ人同士の争いを続けさせる」
イデ「わたしが聞きたい。なぜ憎しみあうのだ」
ベス「憎しみ合ってはいない」
イデ「成り行きをなぜに賢く切り抜けん」
ベス「成り行き? それを作り試しているのか?」
イデ「我々にそのような力はない。我々は我々というひとつのものに過ぎない」
ベス「ともに苦しむ立場なのだ。全力を尽くして良き道を探すべきだ」
イデ「そのような力・・・」
ベス「全力でしめせ。そうすれば意思の力は時空さえ超えられるはずだ」
(ここでイデは消える)
ベス「おれは貴様の一部じゃない。俺は俺だ。俺は俺そのものだ」
(ベスがカララに言う)
ベス「おそろしい夢を見た。イデは自分も生き延びたがっている」


この夢を、ただのベスの無意識が作り出した妄想だと考えたら『イデオン』をみる、というか物語全般にふれる意義は全くないだろう。物語における夢の重要性については、今さら言及するまでもないことだ。

で、いちおう解説まがいのことをしておくと、この対話までのイデは、「心のあり所たるイデの場を守る権利がある」と主張するだけの存在だったことが、まず分かる。そしてベスに「全力を尽くして良き道を探すべきだ」と促され、それ以後、そうした行動をとるようになったことも分かる。
その結果が「宇宙の果て」まで逃げようとしたソロシップを勝手に亜空間飛行に突入させたり、カララとドバを対面させたり、コスモとドバを戦わせようとしたり・・・ということだ。
つまりイデによる”引き合わせ”が始まるのは、この対話の後だということだ。

このことは、そもそも『イデオン』の物語がどのようにして始まったかを考えれば、一層明らかなことのようにぼくは思う。『イデオン』の物語。それは、バッフクラン人がソロ星(ロゴダウ)にやってきたから始まったわけじゃあない。そこから遡ること2年前、地球人がそこに移住してきた日に、全ては始まったのだ。

長くなるので、とりあえず時系列に箇条書きにしてみる。

・地球人、ソロ星(ロゴダウ)に移住
・イデ、流星砲撃を開始
・バッフクラン人のイデ捜索隊が出発
・移住から1年半後、地球人の手でイデオンとソロシップが発掘される
・その半年後、バッフクラン人のイデ捜索隊がソロ星(ロゴダウ)到着
・イデオンが戦闘に巻き込まれ、イデオン起動
・ソロシップ内で白兵戦が起こり、イデのバリアーがルウを守る
・ソロシップが攻撃を受け、ソロシップ起動

という案配で、『イデオン』の物語は始まったのだった。


つづく

伝説巨神イデオン イデと流星

ドウモウスター

今やっているのは、劇中から分かることだけで『伝説巨神イデオン』を解釈しようという作業。
これは本来はこのブログのテーマとは関係ないわけですが、ストーリーがハッキリしないと本題があいまいになりそうなので、やむなく書いています。『イデオン』通の方には退屈だと思われますが、しばらくお付き合いいただけますと幸いです。


さて前回の記事では、イデオンとソロシップが起動するまでに起こったことを箇条書きにしておいたが、今回からはもう少し詳細にやりたい。まずは、イデが地球とバッフクランに撃ち込んでくる「流星」について。

いわゆる”引き合わせ説”においては、イデはこの流星によって地球人とバッフクラン人をお見合いさせようとした、ということになっているが、それはかなり無理のある説明だと思う。流星に対する地球人とバッフクランの立場が、まるっきり非対称的だからだ。

確かにバッフクランは流星の出所を探すべくソロ星(ロゴダウ)まで辿り着いたが、地球人はそれより2年前からすでにソロ星(ロゴダウ)に移住していた。地球人は流星に興味がなく、何の捜査もしていない。
そして、両種族が出会ってから後も、流星は両星に撃ち込まれ続けた。引き合わせるのが目的なら、なぜいつまで経っても流星を撃ち続ける必要があるのか?

劇中からそのヒントを探すとしたら、これは一つしかない。
流星が初めて落とされた「2年前」という単語と、地球人がソロ星(ロゴダウ)に移住してきた「2年前」という単語の一致、それだけだろう。だが、何の意味もなくわざわざ一致させる必要もない。
ならば流星は、地球人がソロ星(ロゴダウ)に移住してきたから発生するようになった、と考えるのが自然かと思う。


実はこの点については、バッフクラン側では次第に見当がつき始めていたようだ。
第34話「流星おちる果て」の中で、バッフクラン側の将ハンニバルは、地球側の将マーシャル・フランクリンとの会見でこの流星について触れ、こんな発言をしている。

イデにも自分を守る力があると言ったら・・・?
それ(流星)がイデの力によって行われているとしたら・・・?

このハンニバルの発言と、流星が引き起こした最終的な結末をみれば、流星が意図することは明らかな気がする。流星は最初から、地球およびバッフクランの母星を滅ぼす目的で発射されていた。そうなると思う。

だが、だとすると、ひとつ話の合わない点が出てくる。
前回ぼくは、イデはベスとの対話の後は、ベスの勧めに従って「良き道」を探す方向に向かったと書いた。”引き合わせ”はここから始まったとも書いた。それなのに劇中ではこの対話の直後、ソロシップがドウモウスターを離れるや否や、流星はまたも発生した。

これは変だ。
表向きは「良き道」を目指して両人類を引き合わせるが、その陰では相変わらず流星を撃ってくる。チャンスを与えるというのなら、せめて引き合わされている間くらいは流星攻撃は勘弁してもらいたい。何かちょっとイデってズルくないか・・・。

このイデの狡猾な二枚舌外交(?)に答えを与えるとしたら、こう考えるのが自然だと思う。
つまり、イデとソロシップ(イデオン含む)はそもそも別物であると。

イデはイデ本人が言うのだから「幾千、幾万、幾億の意思の集合体」なのだろう。
そしてソロシップとイデオンは、それを守る「入れ物」・・・。

入れ物は、地球人がそれに近づいたので、あらかじめセットされた防衛プログラムに基づいて、宇宙にいる「にんげん」を抹殺しようとした。もちろん、中味(イデ)の安全を守るためだ(その際、母星だけが狙われたのは、そこにある思念が巨大だったから・・・くらいの理由しかぼくには見当たらない)。
そして地球人は、発掘したイデオンとソロシップを改造して使えるようにしたが、流星発生システムには気がつかず、結果、自分たちの乗り物で自分たちの母星を滅ぼしてしまった。

といったあたりが、半分は憶測ではあるが、とりあえず劇中から考えられる「流星」の正体であるように思う。
そしてもしも流星がそのようなものだとしたら、ここから浮かび上がる事実がひとつある。ベスと対話する以前のイデの、恐るべき無目的性だ。


それを考えるヒントは、やはり第34話「流星おちる果て」にあると思う。
ベスに促されてか「良き道」を探し始めた(と思われる)イデが、まず始めにやったことは何だったか?
それは人間ではなく、ドウモウの卵と赤ちゃんを守るために勝手にドッキングをして、戦ったことだ。

ギジェ「もし純粋防衛本能によってイデが動くというのなら・・・」
カーシャ「それはドウモウの卵にあったと考える方が正しいわね。私たちが卵を救おうとした気持ちとは別物かもしれないわ・・・」

つづく

伝説巨神イデオン イデの伝説

イデの伝説

伝説巨神イデオン』のストーリー上の”難解”さは、物語の進行と共に多くのものが変化していくことに起因すると見ていいだろう。固定されたもの、絶対なものを『イデオン』から見つけることの方が、むしろ困難なのかもしれない。

前回の記事で取り上げた「ドウモウ」の件。
このエピソードが意味するものは、要はイデにとって、ルウはもう必要のない存在だということだとぼくは見ている。それまでのイデオンとソロシップは、その性能を発揮するためにルウの「純粋防衛本能」を利用してきたが、それはこの時に終わった。これからは、ベスの言う「良き道を探す」ために、イデ自身がイデオンとソロシップをコントロールする。そういう宣言が行われたのが、あの回だったんじゃないかとぼくは思う(ただし、このコントロール自体も時間の経過とともに発展していくのが厄介なところ)。


という具合で、とにかく『イデオン』のストーリー解釈においては、変わりゆくものと絶対のものを、その都度区別して考えていくことが重要になる。と言っても、その作業自体はそれほど難しくはない。新しい情報が真実。それだけだろう。上書きされた古い情報を逐一捨てていくことで、それは簡単に実行できることだとぼくは思う。

ではそうして真っ先に捨て去られるべきものは何か。
カララの語る、「イデの伝説」だ。

「昔、バッフ星を治めていた女王が凶悪な怪獣にさらわれた時、世の中の光は消え、緑はあせ、バッフ族は絶滅寸前にまで追いやられたということです。そんな時、この怪獣に立ち向かっていった凛々しい英雄がありました。怪獣の力の前には、その英雄の力では適うべくもありませんでした。イデの力を持つ果物によって、英雄は女王を自分のものにしました。そして二人は、平和にバッフ星を治めたということです」(第5話「無限力・イデ伝説」)

「(イデのエネルギーが反物質エネルギー以上のものかというベスの問いに答えて)それ以上のものです。それは愛です。人々に希望と勇気と情熱を与える、愛のようなもの。・・・私はイデのエネルギーをそう信じているのです。無限エネルギーなどという便利なものが、この世の中にあるものでしょうか」(第7話「亜空間脱走」)


長々と引用しておいてアレだが、時間の経過とともに、カララ自身の言葉でこれらの発言が否定されていったのはご存じの通りだ。第34話「流星おちる果て」で、イデに「エゴ」があることを知ったクルーに「じゃあバッフクランの伝説のイデの英雄ってのは何なんだ」と聞かれ、カララはこう答える。

「伝説は伝説です。英雄を見た人は一人もいないのですから」


また、「イデは愛」発言(笑)についても、第27話「緊迫の月基地潜行」ではこう変わる。

「イデは自己の存在を他のものに侵略される前に他者を滅ぼす。例えそれが、イデを生み出した第6文明人であっても・・・。イデもエゴ。愛などというものではなくて・・・」


もちろん「イデの伝説」自体は存在し、(シェリルが言うように)神話の意味性というものも存在する。変わったのは、その受け取られ方だ。カララについて言えば、月基地の大型コンピューター「グロリア」による分析の結果が彼女を変えた。
そしてここには驚くべき真実がある。
要は、第26話までで語られた「イデ」「イデオン」「ソロシップ」「第6文明人」についての情報は全てクルーの憶測や推理の類であって、そもそも丸っきり信頼に値しないということだ。
グロリアだけが、ある程度まで真相に辿り着いた。その情報だけは信じることができる。だが、それ以外は『イデオン』解釈にとってはノイズでしかなく、あらかじめ取り除いて考える必要があるというわけだ。


ただ、「イデの伝説」についても、一つだけ変わらぬものがある。真実を知らない、多くのバッフクラン人側の受け取り方だ。第11話「追撃・遺跡の星」での「伝説を裏付ける科学的証拠」についての会話。

「バッフクラン星に大昔からの隕石の落ちたような穴があるのです。それが飛んできたと思われる方向を探っていくとロゴダウ・・・」(カララ)
「イデの果物って食べ物として表現されてるんすか?」(ジョリバ)
「いえ、輝きの玉とか二つ目の太陽と言われています。それに、悪人にイデを奪われると守りきれなかった英雄は罰せられて焼き殺され、暗黒を生むとも言われています」(カララ)
「そしてイデの輝きが星になった」(ベス)


イデを異星人に奪われると自分たちが罰を受けて殺される。
この薄気味悪い予言があるからこそ、バッフクランは異常な執念を燃やしてソロシップを追ってくる。ドバが自分の野望のために、伝説のこの部分を利用したであろうことは容易に推測できるところだ。カララが言う通り、伝説はしょせん伝説でしかなく、せいぜいが政治的に利用されるぐらいのものという、ぼくらの実際の感覚と同じ立ち位置で『イデオン』の物語が成立していることが良く分かるエピソードだと思う(それにしてもこの伝説の終末観は、物語全体の終末とよく一致してはいる)。

さて、こんなかんじで「イデの伝説」からはオカルト的な要素は排除することができた。
だが『伝説巨神イデオン』ではもっと厄介なオカルトが展開されている。

人の心だ。

つづく

伝説巨神イデオン 無限力の真実と妄想

無限力

前回の記事では『伝説巨神イデオン』において、”変わりゆくものと絶対のもの”という観点から「イデの伝説」についてちょっと考えてみた。今回はその続きということになるが、お題は「真実と妄想」でいきたい。
と言っても『イデオン』劇中で語られた「真実」はあまりに僅かしかない。ほとんどはそれを元に登場人物たちが思い描いた想像で占められているのが『イデオン』だ。それを注意深く仕分け(笑)することで、また一つ「イデ」の実相に迫れたらという試みだ。

劇中において、「イデ」についてようやくまともな情報が得られたのは、第27話「緊迫の月基地潜行」でのことだ。月基地にある大型コンピューター「グロリア」で「イデ」のデータを解析したシェリルとジョリバが、ソロシップに帰還したのち交わされたクルーとの会話をまず引用する。非常に興味深いやりとりなので、チト長いがなるべく省略しないことにする。

カーシャ「地球は私たちを見捨てたのね」
ベス「自ら戦うことを放棄して、民族が守れるか」
シェリル「いえ、戦わないことが守りになる場合もあるわ」
ベス「何?」
コスモ「どういうことなんだ、シェリルさん」
ジョリバ「ソロシップとイデオンが無限力を持っていることが分かったんだ」
コスモ「何だって」
カーシャ「無限力って、どういうこと」
シェリル「イデオンとソロシップの力は、開放された時、ひょっとしたら地球の一つや二つ、いえ、それ以上のものを破壊できる力ってことでしょ」
ベス「確かなのか、シェリル」
シェリル「コロボックが調べてくれたのよ。確かよ。何億人かの第6文明人の意思を封じ込めるシステムがイデ。そのイデの力を破壊のために使ったら、あたしたち・・・」
コスモ「で、そのイデのコントロールシステムは分かったのかい(シェリルうろたえる)シェリルさん、しっかりしてよ。コントロールするする方法が分からないんじゃ、何にもならないじゃないか」
シェリル「それは、ムーンランドの兵隊がコロボックを殺しちゃって・・・いけないんですよ。調べられなくって」
ジョリバ「シェリル、あとは俺が説明する」

※一部省略

ベス「で、そのイデってのは第6文明人の意思を・・・」
ジョリバ「うん、イデオナイトのバリアーが封じ込めてんだな。この空間に。それをエネルギーとしているのがイデ」
ハタリ「それが何で動き始めたんだ」
ジョリバ「封じ込められたイデの防衛本能らしいんだ」
カーシャ「防衛本能?」
ジョリバ「より純粋な防衛本能に応えて、イデは動き始めたということさ」
コスモ「より純粋な防衛本能・・・」
ジョリバ「例えばパイパールウのような、赤ちゃんの自分を守りたいという考え方にイデは同調したんだ。俺たちは偶然にしろ、ルウのような赤ちゃんをソロシップに乗せた。そのおかげでイデの力が俺たちを守ってくれていたというわけさ。でなけりゃ・・・」
コスモ「いや、おかしいよ。自己防衛意識のかたまりにしては、俺たちを守ってくれない」
ベス「いや、イデそのものが独立したものになっていたら考えられるぞ。ソロシップとイデオンが完成して数多くの意思の力が一つのパワーとなったとき・・・」
カララ「イデは自己の存在を他のものに侵略される前に他者を滅ぼす。例えそれが、イデを生み出した第6文明人であっても・・・。イデもエゴ。愛などというものではなくて・・・」
シェリル「そうなのよ。そのイデに取り込まれているのよ、私たちは・・・」
コスモ「取り込まれている? 無限力のイデにか・・・。でもさ、カーシャ。バッフクランの伝説にあるよな、良き力によってイデは目覚めるって」
カララ「でもイデを生むシステムを考えた第6文明人はなぜ滅びたのです? 私たちのようにコントロールできなかったからでしょう?」
コスモ「そりゃ、そう考えられるけど・・・」


さて、この討論のなかから「真実」を語っている人物を探すなら、それはジョリバただ一人だということが分かる。後は「真実」を元にした推理であり憶測であり妄想だ。

特に問題となるのがシェリルの思考だろう。
グロリアは一言もそんなことを言ってないのに「破壊に使ったら」という仮定をもとに妄想を広げて、ついには「取り込まれている」だ。無論、この妄想のベースにはバッフクランの伝説があると見ていいだろう。例の「悪人にイデを奪われると守りきれなかった英雄は罰せられて焼き殺され、暗黒を生む」というやつだ。

そして、もっとも科学的であるはずのシェリルがこうした妄想に取り憑かれたことが、クルーの思考に大きな影響を与えていく。シェリルは第29話「閃光の剣」でもソロシップを襲う月基地の兵士に対し「こんなことをしていてはイデに滅ぼされるわ!」と絶叫しているが、それが根拠のないシェリルの妄想であることは上記の討論で分かる。
だが、第32話「運命の炎のなかで」ではベスが「われわれはイデによって滅ぼされないと信じよう」と言い、第34話「流星おちる果て」ではカーシャまでが「イデに好かれるためには無関係な生物を殺すことを避けたほうがいいと思いません?」と言う。

さらに書いておくと、第35話「暗黒からの浮上」にはシェリルの
そうね、イデの力、良き心の現れなんていうけれど、この破壊力は悪魔の力よ
という発言があるが、この「良き心」とは何のことか。伝説にあるのは「良き力」であって「良き心」ではないはず。
ぼくの乱筆のメモによれば、この「良き心」を劇中で初めて使ったのは第33話「ワフト空域の賭け」でのハタリだ。
イデは良き心によって、より良く発動するという伝説が俺には気になる

・・・一体全体この妄想の肥大ぶりはどうしたことか。
その原因を辿っていけば、やはりそこにはカララがいる。
イデは自己の存在を他のものに侵略される前に他者を滅ぼす。例えそれが、イデを生み出した第6文明人であっても・・・
この発言だ。もちろんこれはカララの個人的な考えだ。根拠はない。
だが、あの重苦しい空気の中で、このカララのたわごとがシェリルの妄想を増幅させてしまった。そしてそれは、いつしかグロリアが提示した「真実」であるかのように、クルーの間に広まっていった・・・。


さて、ここまでの話は『伝説巨神イデオン』が、いかに人間というものをリアルに描いた作品かというマンセーにしかならない。この作品の恐ろしいほどの深みはここからだ。

ソロシップのクルーたちが、グロリアを使うことでイデの「真実」に迫ろうとしたように、相手方であるバッフクランも別のルートからイデを研究していた。その成果の一つが、ソロシップに潜伏したギジェの口から語られることになるが、それはこうだ(第30話「捨て身の狙撃者」)。

シェリル「バッフクランではイデをどのようなエネルギーと考えているのです?」
ギジェ「数十億の第6文明人の意思の集中です」
シェリル「意思の力・・・」
ギジェ「それだけではない。イデは我々の意思さえも取り込んでいっているのではないかと考えます」
シェリル「ええ、でなければイデオンは動き出しはしなかった」


このギジェの発言は信頼するに値するものだろう。仮にも地球人以上のテクノロジーを持つバッフクランを代表しての研究成果まで疑っていたのでは、話がぜんぜん進まない。また、この頃のギジェの立場と目的を考えれば、この場面で彼がシェリルにいいかげんなことを言う理由がない。イデは確かに、人間の意思を取り込んでいく存在なのだろう。

だとすれば、ここには戦慄すべき事態が浮かび上がってくる。
ソロシップの人々が漠然と持っている意思、すなわちイデによって滅ぼされるという妄想。
イデが、これに限ってだけは取り込まないという保証はどこにもないってことだ。

つづく

『伝説巨神イデオン』と『2001年宇宙の旅』

第6文明人

というわけで、ここまでぼくなりに『伝説巨神イデオン』の解釈を続けてきたわけだが、もちろん説明のつかないことも沢山ある。その原因は、いわゆる「第6文明人」についてのヒントが作中には全く存在しないせいだ。

例えば第17話「激闘・猿人の星」での、ハルルに対するギジェの報告。
「ロゴダウの異星人の船が埋まっていた地点と巨人メカの地点。この二つの点から四方へ、エネルギーのようなものが飛んだ後が発見されたのです」
「これが地面の中から発見された、エネルギーの通った跡と思われるものです。しかもその跡は、ロゴダウの反対方向に突き抜けております」

劇中では、結局これが何だったのかは語られることがない。ただ、地球人がロゴダウ(ソロ星)に移住してくる以前に起こったことは、これ以外にはバッフ星への隕石落下事件(イデ伝説の元)ただ一つしかないことから、この両者は結びつくものなんだろうと推測するしかない。ならば答えは、第6文明人の滅亡と、その際のエネルギー拡散によって発射された隕石・・・、と考えるのが自然だということになるだろう。

さらに不明瞭なのが、第25話「逆襲のイデオン」に登場した宇宙図。そこには、ソロ星を中心に、それぞれ250万光年の等距離を、一直線上に位置するバッフ星と地球が映し出されていた。
正直に言って、これが何を意味するのかはまったく分からない。あるいはそれは、第6文明人滅亡の際に発生したエネルギーが隕石に宿り、墜落地点にきわめて似たような人類を生み出す元になったのかもしれないが、そんなのは想像の域を出ない。また、この物語がそれをきっかけに動き出すことがない点からしても、大して意味のない事実だったのかもしれない。


とにかく、考えても答えのでないことに時間を費やすのは無駄というもの。
ここまでは、できる限り外部情報を使わないという姿勢でやってきたが、そろそろ富野監督ご自身に「イデ」を語ってもらいたいと思う。と言っても「イデ」そのものについては、やはり劇中で生かされた設定だけに拘りたい気持ちもあるので、あくまで間接的に語られた「イデ」についてだ。

イデオンという伝説』(太田出版・1998年)のなかで、『2001年宇宙の旅』には根幹に神がいるというイメージがあるが『イデオン』には相反する要素の激突と融合が描かれているのではないかと聞かれ、富野監督はこう答えている。

確かにそれを目指していたところはあります。要するに、キリスト教文化圏の人間が作ったときに『2001年』になってしまうんです。僕は八百万の神の日本の人間です。ですから、『イデオン』は東洋の人間が作ったものといえます。
(中略)
なぜ我々は闘うのか。なぜオスとメスがいるのか。なぜわけが分からないまま、イデという巨大な存在に対してわけが分からないままを良しとしないで、平気で、気も狂わないで、対決していくことができるのか。
(中略)
そのときに、一神論というモメントの方が有効なのかといったら、僕は東洋人ですし八百万の神の元にいる人間ですから、解読した構図はああいうふうになったよ、ということです。あそこに出てくるイデというのは、東洋人が借り物の一神教を持ってきているだけのことで、じゃあイデが善なるものとして肯定できたのかといったら、できないから、ああしたと。


いつもながら富野監督の発言は難解だが(笑)、ぼくなりに要約すれば、まずイデは一神教の「神」ではないということ。それとイデは「善なるもの」でもない、ということ。この2点は『イデオン』理解では外せない要素のようだ。

西洋の「神」は決定者であり裁定者だから、そういう「神」のイメージをイデに持てば、超越者であるイデが両人類を引き合わせてテストした、というような解釈が成り立つ。またそこには「良き心」のような、倫理的な基準も存在するだろう。
だが、東洋、とくに日本の八百万の「神」のイメージは、それとは180度異なる存在になる。イデもあまたの「神」の一人でしかなく、何も決定しないし何も裁かない(怒り狂うことはあるが)。
そしてそれらの「神」は、人間たちとの精神的な交感を行う。人間と「神」が関わり合うことで、世界は動いていく・・・。

もしも『伝説巨神イデオン』が『2001年宇宙の旅』の日本人版であるとしたなら、そこで語られるイデという「神」のイメージがいかなるものだったかは、判断に迷うようなものではないと思われる。八百万の神であるイデは、周囲の人間たちの精神との交感を行う。人間の意思を取り込み、それを現実に還元する。そこでは人の思うことが、現実となっていく。

ならば、あの「滅び」とは何だったのか。
あれはイデが下した大いなる決定だったのか。
それとも、そこにいた人が望んだ結果だったのか。

つづく

伝説巨神イデオン バッフ・クラン

ギジェ

いきなり話を本題の方に戻すが、もしも「24時間テレビ」に参加することで手塚治虫が矛盾や欺瞞のたぐいを犯したとして、それが「子どもに対して誠実でない」「子どもに嘘をついている」と思ったとき、その対処としてはどんな方法が考えられるだろうか。
富野監督はクリエイターだ。クリエイターなら、やはり自分の作品の中で、その矛盾や欺瞞を曝こうとするんじゃなかろうか。それはつまり、「愚か」である人間に、「生命の尊厳」というお題目を与えてみることだ。そこに本当に矛盾や欺瞞のたぐいがあるのであれば、それらは物語の中で自ずとその正体を現すはずだ。

「24時間テレビ」の精神的な根拠に、いわゆる戦後民主主義があることに異論を唱える人は多くはないだろう。「愛は地球を救う」というが、このときの「愛」の主体はあくまで「個人」を起点にしているはずだ。ひとりひとりの「愛」が寄り集まることで、地球をも救うほどのパワーになる。そんなところだろう。

だが、手塚治虫は一貫して人間の愚かさを描いてきた。人間が本来愚かな存在であることを熟知していた。
そんな愚かな個々の人間に「生命の尊厳」を与えたらどうなるか。
命どぅ宝」という言葉があるが、大概の人間は、自分の命を守ることを第一に考えるんじゃないか?


『伝説巨神イデオン』では、人間を人間という概念ではなく、「個人」として扱おうとする意図を随所に見ることができると思う。
それはまず、地球人側の登場人物が乗る船、「ソロシップ」に表されている。

ソロ星脱出時点でのソロシップ内部には、(役柄のない非戦闘員は別として)親子関係もなければ夫婦関係もなく、上司部下の関係もなければ、深い友情で結ばれたような人たちもいない。要するに、みんなが「個」だ。
しかもそのソロシップは、宇宙を逃げ回るという以外の目的を持たない船だ。これを「個」の側から見れば、自分の命を守ることだけに意識を集中することに、十分な正当性を与えられている状態だと言えるだろう。

この、ソロシップ内部を「個」の集団に保つことが『イデオン』の物語にとって重視されていた証拠には、後から「クルー」に加わったカララとギジェの存在がある。バッフクラン人であるこの二人は、それまで所属していた関係性から完全に断ち切られた時点で「クルー」として認められた。つまりは「個」になったとき、ということだ。

さらには、主人公たちの戦う「敵」からもそのことは分かる。
『機動戦士ガンダム』における「敵」は、ジオンという全体主義の国家だった。理念や理想を掲げる相手と、アムロらは戦わされた。そのことによって『ガンダム』は、アムロたちが理念や理想のために戦っているわけではないことを表現した。
『伝説巨神イデオン』では、「敵」は封建制を思わせる「侍」の国、バッフクラン。戦後民主主義VS全体主義の次は、戦後民主主義VS封建制だ。富野監督がぼくらの戦後民主主義に揺さぶりを掛けようとしていることは間違いない。

このバッフクランが突きつけるもの。
それは彼らが、生きなければならない理由、または死ねる理由を持っているということだ。血や名誉、あるいはもっと下世話に一族郎党の繁栄でもいいんだが、とにかくバッフクラン人の生と死には彼らなりの意味や意義がある。社会との繋がりの中で、自分の命が存在しているという意識がある。だからあれほど高度な科学力を持ちながら、彼らは「イデの伝説」にも突き動かされる。

ソロシップに乗り込んでからのギジェの異様なまでの自己卑下と羞恥心は、まさに彼が「イデの発現を見たい」という個人的理由だけによって生存していることから来るものだ。バッフクラン人にとっては、自分のためだけに生きることは、ひどく恥ずかしいことなんだろう。

では翻って地球人側はどうか。
地球市民だかコスモポリタンだか知らないが、コスモ達がそういう状況にあることは見たまんまのことで、彼らには生きなければならない理由も死ねる理由もないことは確かなことだ。コスモ達は、ただひたすら死にたくないだけだ。

もちろんだからと言って『イデオン』の主張するものが、封建制へ帰れ、というような素っ頓狂なものだと言う訳じゃない。それはあくまで、ソロシップを含む地球人側全体が、「個」の集団であることを強調しているだけのことだろう。

つづく

伝説巨神イデオン アジアン、キャラル、地球 〜日本国憲法

悔し涙

伝説巨神イデオン』の世界では、地球人はいわゆる「世界政府」を実現した後ということになっている。そこでは人種の壁もなく、言語も統一されている。まさに、ヒューマニズムが目指す理想の社会がそこにある。国家なきワンワールドだ。人間は不要な属性から解放され、ただ一個の個人として存在している。

その地球人たちはやがて、人口増加への対処か、はたまた資源の確保かは定かでないが、宇宙に進出して植民星を建設するようになった。ただし、その植民星もあくまで地球の延長としての「大地」のひとつに過ぎず、地球人は地球人、植民星が別の国家になったというわけではなかった。

ソロシップが「個人」の寄り集まりであることは前回書いたが、こうしてみると地球人の世界全体も、実は「個人」の集合として設定されていることがよく分かる。隅から隅まで、どこを見ても「個人」しかいないのが『イデオン』の地球側の世界だ。

ではそんな舞台設定をしておいて、そこで描かれたものとは何だったのか。
それはずばり、「個」のもつ排他性だろう。


バッフクランに追われる身となったソロシップは補給のため、あるいは休息のため、地球人の移民星に立ち寄る。
しかしそのどこでも彼らは迷惑がられ、拒絶され、排斥されてしまう。

「お前達もバッフクランと同じようなもんだろう」
「住む星が違えば、すでに同じ地球人ではないのよ」(第18話「アジアンの裏切り」)

「あんたたちのおかげでバッフクランって異星人が攻めてきたんじゃない。出て行って欲しいな、今すぐ」(第23話「戦慄・囮の星」)

「アジアンを巻き添えにした貴様たちに何が言える。私たちは私たちの力で身を守る必要があるんだ」(第37話「憎しみの植民星」)

こうした地球人へのソロシップへの対応の極めつけが、母星のはずの地球が取った行動だ。
地球政府はソロシップの受け入れを拒否し、それどころか防御用ミサイルを配備して、バッフクランを引き連れてソロシップがどこかに去っていくのをじっと待つ戦法に出た。ソロシップは母星からも見捨てられた・・・。

こうした地球人の有りようとは、要するに人間に命を大切にさせたことの結果が表されているのだとぼくは思う。人間は「愚か」なんだから、「生命の尊厳」を与えればただただ自分の身を守ることを考えるものだろう。誰もその行動を責めることはできない。「個人」はなによりも優先され、尊重されなければならないのだから、まず自分の「個」を守ることは当然の権利だ。例えそれが、他の「個」を排除する結果であってもだ。

何回か前の記事で、手塚はヒューマニズムと妥協することで、戦後民主主義とも手を結んでしまった云々というようなことを書いたが、結局のところ、それを実際に表現として具現化してしまえばこんなものになる。いくら表面的な言葉だけを飾ったところで、その実態は他者への排他性にしか繋がらない。

そしてそのことは、ただ手塚の「嘘」にとどまるものではなく、現実に起こっていることでもある。
「個人の尊厳」と「絶対平和主義」を柱とする日本国憲法、そしてその精神である戦後民主主義がこれまで何をしてきたか。自分だけが平和であればいいと引きこもり、台湾でも朝鮮でもベトナムでも知らんぷり。「個人の尊厳」を謳いながら、拉致被害者は放置してきた。チベットウイグルも俺の知ったことか。

何のことはない。
ソロシップを追い出そうとしたアジアンやキャラル、そして地球とは、戦後日本の姿そのものだ。
そこで尊重されるべき「個人」なんて、徹頭徹尾、自分のことだけじゃないか。
まるで富野監督は手塚の「嘘」を露呈させることで、戦後日本の「嘘」、その偽善や欺瞞まで曝こうとしているかのようだ。

しかしそんな暗澹たる状況の中、やがてソロシップの人々は「個」であることを乗り越えようとしていくようになる。始めはいがみ合い、エゴ丸出しだったクルーたちの間には協力と調和が生まれ、ついには自分たちを犠牲にすることで(宇宙の果てまで逃亡することで)問題を解決しようとする境地に至るようになる。

が、時すでに遅し。
イデは発動してしまうのだった。

つづく

伝説巨神イデオン もう一人の私(湖川友謙)

イデよ!

「イデ」とは何か?
この問いに対する答えとしてぼくが最も合点がいくのは、湖川友謙さんのこの発言だ。
(イデは)もう一人の私
(BSアニメ夜話「伝説巨神イデオン」/2008年3月19日放送より)


「イデ」について確実に分かっていることの一つには、第34話「流星おちる果て」でマーシャル・フランクリンが言った「イデは知力をひとつの場に集積してエネルギーに転化する働きを持つ」という事実がある。これは地球の大型コンピュータ「グロリア」の計算結果なので、疑う必要はない。

以前の記事で、ぼくは富野監督の”『イデオン』は『2001年宇宙の旅』の日本人版だ”という発言を引いて、「イデ」は神は神でも八百万の神と書いた。日本の神というのは西洋の神と違って、万物の創造主でもなければ人間を裁く存在でもない。神は人間の近く(例えば鳥居の向こう側など)に共存していて、人間との交感を行う。

ギジェの言った「イデは我々の意思さえも取り込んでいっている」からは、そうした日本の神の有りようが彷彿されると、ぼくは思う。それはつまり、湖川さんの言う「もう一人の私」の集合体ということだろう。

ただややこしいのは、イデのそういった側面が明らかになってくるのは、第34話「流星おちる果て」以降のことだという面がある。この回ベスの悪夢に登場したイデは、自分の存在目的を「我も我が身を守る」ことだと言った。ルウの純粋防衛本能にシンクロしてきたのは、それが「我が身を守る」に直結していたからだろう。
しかしイデは、ベスに「ともに苦しむ立場なのだ。全力を尽くして良き道を探すべきだ」と促される。どうやらイデはこの時、「我が身を守る」ためには「良き道」を探すことが先決だと気づいたらしい。


『伝説巨神イデオン』における「イデ」のわかりにくさは、要するにイデが複数の顔を持っているせいだとぼくは見ている。一つは第1話から『発動編』のラストにまで至る、自己防衛意識。そして第34話以降に見られる「良き道」の模索。
だが、「幾千幾万幾億の意思の集合体」でしかない「イデ」は、一体どうやって、そして何が「良き道」だと判断するというのか。イデにできることは一つだろう。周囲の人間の意思を取り込むことだ。人間が思うことを、現実に反映させることだ。

第38話「宇宙の逃亡者
バッフクランの武将、ギジェ・ザラルは「イデの何たるかを知りたい」という強烈な願いを抱えて、敵艦であるソロシップに乗り込んだ。ギジェにとってそれは恥辱にまみれた行為であったが、彼は耐えた。やがてその願いの純粋さを信用されたか、ギジェはイデオンのパイロットに昇格する。が、ステッキンスターでの戦闘で、不運にもギジェは敵のビームに撃ち抜かれてしまう。すると突然「イデオンのゲージ」が輝き、イデオンは勝手に合体。星をも貫くほどの破壊力のイデオンソードを発したのだった。「こ、これがイデの発現、か・・・」ギジェの最後のセリフだった・・・。

この不思議なエピソードにも色々な解釈があるのだろうが、ぼくにはこれは、イデがギジェの思いを叶えてやった光景であるように思える。もちろん、イデにそんなやさしさや思いやりがあったというのではない。ギジェの強烈な思いが、それを現実にしてしまった、という意味だ。

これとは反対のケースになるが、イデが自ら善悪を判断する「神」のような存在ではないことの証しも作中にある。
それは劇場版『発動編』での出来事。
イデに滅ぼされるという妄想に取り憑かれたシェリルは、ルウを船外に連れ出すと両腕で抱いたまま叫び出す。

「イデよ、答えて欲しい。今ここには純粋に守りしか思わぬ子が死を恐れている。イデよ、この無垢な子の、怖れの心に応えるべきです。ルウの純粋な心がイデの力の現れであるのなら、なぜ多くの人を死に至らしめるのですか。むしろ人を生かすのが、イデの成すべきことではないでしょうか」

次の瞬間、シェリルの体は宇宙空間に放り出される。イデを「説得」しようとしたシェリルの行為を、イデは完全に無視した。イデには、人間が言葉で語る「善悪」など何の意味もない。「良き道」は、そんなところにはないと言わんばかりだ。


・・・それにしても、この「神」の恐ろしさはどうだろう。
この「神」には、取り繕った言葉や上辺だけのきれい事、自分自身についている嘘、小賢しい打算のたぐいは全てが見抜かれてしまう。心の奥底の、それこそ本能レベルにある思念だけを、この「神」は汲み取る。それも、より大きく強い意思をこの「神」は取り上げる。

イデの発現。
それは、そこにいる人々の思いや願いの発現なのかも知れないのだった。

つづく

伝説巨神イデオン なぜ生きてきたの!

涙

伝説巨神イデオン』の分かりにくさ、しかしそれにも関わらず感じられるリアリティの正体は、劇中で刻々と移ろいゆく「イデ」と「人」にその理由があるとぼくは思っている。人が変わればイデも変わる。イデが変わることが、また人を変えていく。
しかし、もしもイデが「もう一人の私」、つまりは人の心の増幅装置でしかないのだとしたら、ここで扱われているものはただただ人の心。それも、上っ面を取っ払った、奥底に秘められた本心だということになる。果たして人はそこで、何を思い、何を願っているというのだろうか・・・。

などとポエミーなことを書いていると古い友人に笑われるので、いつもの調子に戻す。

始めの頃、覚醒したばかりのイデは、まだ純粋に自己防衛本能しか持たない無目的な存在だった。イデは、コスモ、デク、ルウの順に、より強い恐怖心に呼応していくが、まだその周囲に人は少なく、取り込むべき意思はバラバラなものだった。イデの行動を決定づけるような「心」は何もなかった。

やがて戦闘が激化すると、いよいよイデの周囲には人の「心」が集まり始める。相手への恐怖、そして憎悪がイデに取り込まれ、イデの力は次第にパワーアップしていく。
いち早くその危険性に気がついたソロシップのクルーたちは、「良き心」を持つことがイデを押さえる鍵になると考えるが、戦いの現実がそれを許してはくれなかった。恐怖と憎悪は、際限なくイデの力を巨大化させていくのだった。

が、そんな戦場にあって、他の人間とは異なる思いを持つ人が一人だけいた。
カララだ。

もともと「愛は地球を救う」並に空想的な理想主義を持っていたカララだが、第35話「暗黒からの浮上」でベスの子を妊娠していることに気がついてからは、再びその思いを強めていた形跡がある。
それがこのセリフだ。

私たちが育て上げてきた良き心は、次に続く人たちが受け継いでくれます」(『発動編』)

ドバとの和解交渉に敗れ、イデの守りでかろうじてイデオンに帰還したカララのこのセリフに、カーシャは驚き、コスモも「よくも先のことまで考えられるもんだ」と呆れている。つまり、そんなことを考えていたのはカララだけだったということだ。

ここに「イデ」が現すべき「心」がまた一つ増えた。
敵対する相手を滅ぼしたいという憎悪、イデに滅ぼされるという恐怖、そして、新たなる時代への希望だ。
ぼくはここにはすでに、この物語の終末が完全に姿を現してしまっているように思える。
つまり、メシアをメシアたらしめたのは、他ならぬカララだったんじゃないかと言うことだ。


それにしても、そんなカララの最期は悲しい。
ソロシップにあっても比較的「公」の感覚があり、調和と協力という理想主義を持ち続けていたカララは、姉ハルルへのむき出しの憎悪を抱いたまま死んでいった。「公」から「私(個)」へ。その瞬間、殺意しか持たぬカララの死は孤独だった。

もっともこれは、ハルルとドバにも当てはまることだろう。
バッフクラン一族の安全と繁栄のためにソロシップを追うこの親子は、ギンドロ(の幽霊?)が認めたように本心から「公」の心を持っていたのだろう。だが、その奥底に秘めてきた個人的理由、すなわち父親としての悲しみ、殺された恋人への復讐心を吐露し、それに支配されたとき、死が訪れた。彼らもまた、たった一人で死んでいくのだった。

ソロシップの人々も悲しい。
カーシャはソロシップにあっては最もエゴの強い人間として描かれてきた。気が強く、協調性に乏しい。カララやギジェを受け入れるのにも、一番時間がかかった人間だった。しかしそんなカーシャも戦いの中で変わっていった。自らイデオンを降りてルウとメシアの守りにつき、母を失ったメシアを心配するアーシュラにやさしい言葉もかけた。カーシャなりに、調和と協力を目指していたのだろう。
だが、コスモに、イデは現人類を滅ぼして新しい知的生命を作ろうとしていると言われれば、こう叫ぶしかない。

じゃあわたしたちは、なぜ生きてきたの!

発動したイデの前では、人が調和や協力を求めて努力することさえ無意味だった。人の心の奥底に潜む恐怖心や憎悪、自己中心的なエゴ・・・何でもいいが、とにかくそういった「悪しき心」の前には、人間の理性的な意思など無力だった。
ガンドロワが超新星のエネルギーを集約するように、イデが人の心の奥底を集約するとしたなら、そこにはカーシャ自身の心の暗部も含まれていることになる。「もう一人の私」が、いまカーシャを滅ぼそうとしている・・・。

つづく

伝説巨神イデオン みんな星になってしまえ!

かーしゃ

ややポエミーな感想文めいてしまうが、自分のことも交えて書きたい。
当時中学生だったぼくが、劇場で『伝説巨神イデオン』を観たあとの率直な感想は、「ああ、ここには本当のことが描かれている・・・」といったもんだった。要するに、リアルだと感じた。
このぼくの反応については、常々「子どもに嘘を言ってはいけない」と語る富野監督からしてみたら、してやったり!といったところだろう。おかげでいわゆる「イデオン基準」を持ってしまったぼくが、次第にアニメを観なくなったことも含めて・・・。

では『イデオン』で描かれた「本当のこと」とは何だったのか。
いろいろな視点、いろいろな感想があるだろうが、ぼくはそれを「本当のニヒリズム」だと感じた。それでわざわざニヒリズムの大家、手塚治虫まで引っ張り出してきたというわけ。

手塚治虫がアンチヒューマニストでありニヒリストであることは、ご本人の言からすでに引いた。その手塚治虫が「24時間テレビ 愛は地球を救う」に参加することは矛盾だし、欺瞞だと文句も書いた。
だが(ここまでの話をひっくり返すわけではないが)実のところ、手塚ニヒリズムには「24時間テレビ」のヒューマニズムと手を組むだけの十分な理由があったとぼくは見ている。


手塚治虫のメインテーマである「生命の尊厳」は、結局のところは手塚の宇宙観であって、それ自体に強いメッセージが込められているわけではない。だいいち「コスモゾーン」だなんて言っても、それは解脱でもしない限り認識不可能な代物だ。
だから手塚は「人間の愚かさ」のほうにメッセージを込めた。それは戦争であったり、環境破壊であったり、人種差別であったり、さらには殺人や強盗のたぐいまで。ありとあらゆる人間の愚行が、作品の至るところで描かれた。そうすることで、手塚は読者である少年少女に、逆説的に「生命の尊厳」を伝えようとしたのだろう。

そんな手塚の、どこか人間を突き放して客観的にみる視線は、しばしば「宇宙からの視線」と言われているようだ。例えば地球を存続させるか破壊してしまうかを会議する『W3』の「銀河連邦」。あれぞまさに、第三者的に人間を眺める視線の代表例と言っていいと思う。あるいは「火の鳥」の視線、の方が手っ取り早いかも知れないが。

さて、そうして客観的に人間を眺めるのも結構だが、そうするとここに一つ、重大な事実があることが分かる。
それは、手塚作品には、人間の善悪を区別し、それを裁く存在がいるということだ。もちろんそれは手塚治虫本人だが、戦争が悪だと決めるのも手塚だし、環境破壊が悪だと決めるのも手塚。

いや、もちろん手塚が手塚の倫理基準で善悪を測ること自体に文句をつけているわけじゃない。それは手塚の思想として、尊重されなければならないものだ。
ぼくが気になるのは、善悪を区分することによって、善なるものの存在が輪郭を持って浮き上がって来てしまうことだ。ぶっちゃけて言えば、「善人」という存在だ。

いやいや、もちろん手塚がいつでも悪人と善人を単純に分けて描いていたというわけじゃない。
だが、もしも戦争を悪だというのなら、戦争をしない人は善ということにになるだろうし、環境破壊を悪だとすれば、それをしない人は善というしかないだろう、ということだ。
で、そうなると手塚は「人間の愚かさ」を描く反面で、そこに描かれていない部分での「善人」の存在を認めていることになるんじゃないか、ということだ。

だが、描かれていない部分の「善人」がなぜ善であるかといえば、それは”愚行をしないこと”以外に根拠がない。
つまりはその「善人」はもともと「善人」であった、という「人間性善説」だ。
ぼくはこれが、ニヒリスト手塚が24時間ヒューマニズムと手を組めた理由だと思う。戦争をしない人、環境を大切に考える人、人種差別をしない人、人殺しをしない人・・・要は、「悪」というほどの「愚行」をしない人は「善」であるのだとしたら、手塚が差し伸べられた手を振り払う理由はどこにもないというわけだ。

しかもよくよく考えてみなくても、それは日本国憲法でも戦後民主主義でも同じことだ。
人間性善説だからこそ、凶悪犯罪者にも個人の権利を尊重しようとする人がいるし、人間性善説だからこそ、武器を捨てても他国が攻めてくることは絶対にないと思う人がいる。
戦前嫌いの手塚が、あえて戦後生まれの憲法や戦後民主主義とケンカする必要も、またない。

・・・むむむ・・・長くなってしまったな。
ま、いいや、続けよ。


ざっくばらんに言うが、あの頃のぼくが『イデオン』に感じた「本当のこと(嘘ではないこと)」とは、結局のところ、そうした「人間性善説」に基づく人間観、への反撃にあったように思う。戦争をしなければ、環境にやさしければ、果たしてそれだけで「愚か」でないと言えるのか。人間は、手塚的な「上から目線」で白黒つけられるような存在なのか。

イデが発動した世界では、人が思うことが現実になっていく(とぼくは思っている)。
目の前で起こる破壊も殺戮も、それは人の心の現れ、言霊だ。
そんな世界にあって、カーシャは「良き心」であることが、この不幸な戦いを終わらせるただ一つの方法だと考えるようになる。勝ち気な自己主張はなりをひそめていき、仲間とのチームワークを大切にし、いつでもやさしい心を持とうと心がける。しかし、それでも惨劇は起こってしまった。守らねばならなかったカララは敵に撃ち殺されてしまった。カーシャは思わず叫ぶ。
そうよ、みんな星になってしまえ!
次の瞬間、無数の「星」がまた宇宙に生まれるのだった・・・。


およそ人間を「善」と「悪」に仕分ける発想からはこんな表現は生まれないだろう。
「上から目線」で戦争や環境破壊を「愚か」だと言ってみたり、あるいは「人間性善説」に基づくヒューマニズムを振り回しても、それは人間を語っていることにはならない。

「良き心」であろうと努めてきたカーシャの心に一瞬生まれた闇。それは、偽善や自己欺瞞の通用しない世界では現実のこととなった。そして人が死んだ。
だがそれは、あのときのカーシャが「愚か」だったから起こったことだったのか。
そうではないとぼくは思う。

誰の心にもある闇。
カーシャは「ぼく」だから、中学生だったぼくは、これが「本当のこと」だと感じたのだ。


じゃあ私たちは、なぜ生きてきたの!
カーシャのこの問いかけも重い。もしもイデが人間の「悪しき心」を滅ぼそうとしているとして、自分だけは絶対にイデに滅ぼされない「良き心」を持つと言える人間が、どれほどいるものだろう。あれほど「良き心」を持とうとしたカーシャに生まれた一瞬のニヒリズムでさえ、イデは見逃さないのだ。

それだけではない。
バッフクランに追われ、ただ”生き延びるために生きる”ことを強いられてきたカーシャたちは、結果的に自分のことだけを考え、自分の命を守るためだけに行動してきた。だから「なぜ生きてきたの」という問いに、「生きるため」以外の答えがない。
だがそれは本当にカーシャらソロシップの人々だけのことなんだろうか。
基本的人権、個人の尊重だと言っては自分のことだけを考え、平和主義だと言っては自分の身を守ることだけを考える。それが正しいとぼくらは教わってきた。
そんなぼくらがカーシャのこの悲痛な問いかけに、いったい何と答えてやることができるのか。ここでもカーシャはぼくであり、隣の席で泣いている名も知らぬ中学生だ。


そして『イデオン』の世界では、人はみな「個」として一人孤独に死んでいった。
「公」に生きてきたはずのドバやハルル、調和と協力を願っていたカララも、最後はわざわざ「個」に引き戻されて死んだ。『イデオン』が、「個」であることの悲しさを訴えていることは疑いがないようにぼくには思える。
こんな・・・、こんな甲斐のない生き方なんぞ、俺は認めない!
コスモはそう怒る。
だが、自分のことだけを考え、自分の身だけを守ればいいというこの日本という国にあって、「甲斐」のある生き方はどこに見つかるのだろう・・・。


という感じで、『伝説巨神イデオン』特にその『発動編』においては、登場人物の言葉はいちいちぼくら観るものを巻き込もうとしてくる。カーシャがコスモが、みなが「もう一人の私」に見えてくる。
それは、彼らの置かれた状況が、その本質において現実に生きるぼくらの戦後日本にオーバーラップさせられるからだろう。だから『イデオン』は、遠い遠い未来の突拍子もない出来事でありながら、リアルだ。

そしてそのリアルさは、手塚ニヒリズムが戦後日本の文脈と手を組むことで露呈させてしまった本性を、突き詰め乗り越えることで得られたものだった。
みんな星になってしまえ!
それは、まさに手塚が書きたくて書けなかった、手塚の本音だったのかもしれない。

つづく

伝説巨神イデオン 因果地平へ

だあ

ここでもう一度強調しておきたいが、ここまで書いてきたことはあくまでぼく個人の『イデオン』観であって、客観に耐える性質のものではない。中学生の頃に感じていたことを、中年オヤジの言葉で書き起こしただけのことなので、丸っきりデタラメなものである可能性もあるが、ぼくはそれでいいと思っている。『イデオン』には多様な解釈があり、受け止め方がある。ぼくの意見もそのうちの一つに過ぎないわけで、それこそがまさに「イデオン基準」なんてものが存在する『イデオン』の巨大さの証しだとも思っている。

ということで、これもまた「多様な解釈」の一つとして書くが、ぼくはあのガンドロワの爆発に巻き込まれた時、イデもやはり滅んだんだろうと思っている。イデは、イデオナイトのバリアーでソロシップとイデオン内部に固定されている存在だ。固定している装置が破壊されてしまえば、イデも宇宙に離散してしまうだろう。

ぼくが、「良き道」を模索したイデまでが滅んでしまったと考えるのには多少の根拠もあって、それが『イデオンという伝説』(太田出版/1998年)に収められている富野監督の次の発言だ。

輪廻にも上昇する輪、という概念があってしかるべきなのではなかろうか?
少なくとも、私は、そう考えたい。それを現わす仕方を発見してみたい。その思いはつのるばかりであった。
(『伝説巨神イデオン記録全集①』八十年四月二十五日)


本にはこの部分しか掲載されていないので前後の脈絡が分からないが、富野監督が既存の「輪廻」の概念に対しての異議申し立てをしている発言であるように、ぼくには読める。そしてその思いは「つのるばかり」であったと。
では富野監督は、既存の「輪廻」のどこに異議を唱えているんだろうか。

それがバラモン教の「輪廻」ではないことは常識的に考えれば疑いがない。文句があるなら自分で宗教でも始めればいいことだ。クリエイターがケチをつける相手は、やはりクリエイターだと考えるのが自然だとぼくは思う。
となれば、ここでも登場してくる人物はただ一人。
手塚治虫だろう。


オカルトめいた言い方をすれば、手塚治虫は『火の鳥』にある呪いをかけている。
『未来編』の終わりが『黎明編』の始まりに繋がることで、『火の鳥』全編がひとつのループを描くことは良く知られたことだが、その『火の鳥』の世界観に立てば、あらゆる事象は同じことを延々と繰り返していることになり、人間の愚行が収まらない原因も、まさにそこにあることにもなる。

ところでそのループする『火の鳥』には、実は『現代編』が存在しない。が、識者のなかには、その空白を埋めるものこそが『鉄腕アトム』や『ブラックジャック』といった、現代から近未来を扱った膨大な作品群だと説明する人もいる。つまりは、それらは『火の鳥』ワールドの各断片であるというわけだ。

が、ちょっと待ってくだせえよ。
てえことは、その他の作家が作った作品も、もしかして『火の鳥』の一部ってことですかい?
マジンガーZ』も『巨人の星』も、手塚さんの手のひらの上で踊ってる存在に過ぎないってことですかい?


もちろん本当に手塚がそんな呪いをかけたわけはないが、世界の始まりと終わりを手塚が描き、それをループさせてしまった以上、論理的には『ガンダム』も『ザンボット3』も、そのループのなかで何度となく繰り返される「人間の愚行」のひとつと言われても反論しにくい。
だが、反論の方法は一つだけある。『火の鳥』とは異なる表現で、世界の終わりと始まりを作品として表現すればいい。

「上昇する輪」という輪廻。
これはつまり、ループではなく、らせん状で行われる輪廻ということだろう。
『イデオン』においては、フィナーレで輪廻した人々が、前世と全く同じ愚行を繰り返すことはありえない。地球人とバッフクラン人が、同じ場所で一つの人類として再生するんだから当たり前のことだろう。
それから先の彼らがどうなったかは分からないが、少なくとも彼らだけは『火の鳥』の呪いからは脱出できたということだ。例え、そこに新たなる愚行が始まるのだとしても、同じことを延々と繰り返すよりははるかにマシということだ。


ところで、そんな風に書くと、まるで『イデオン』が希望に満ちた物語であるかのように思われる人もあるかもしれないが、どうやらそれは違うらしい。宗教的な反応をしてしまう観客を想定していたか、と聞かれ、富野監督はこう答えている。

それは当然しますよ。だけど、『イデオン』にひとつだけはっきり言えるのは、あそこには救済はないんだから、観てはいけないよというメッセージも間違いなくあるんです。(『富野由悠季全仕事』キネマ旬報社/1999年)


まあそれでも救済があると考える人がいても否定はしないが、ぼくもやはり『イデオン』は強い絶望にはじまる物語だったように思う。ただ、そこにあるニヒリズムは紛れもなく「本物」で、「嘘」がない。
富野監督はぼくら当時の少年たちに、人間が人間であることの本当の絶望を、『イデオン』という「嘘八百のフィクション」の中に示すことで、そこ(底)から始められるスタート地点を示してくれたんじゃないかと、オッサンになったいま、ぼくは思っている。


それにしても、1980年前後のこの時期の富野監督は、マジで「神懸かり」のようだ。
『イデオンという伝説』のなかに興味深い発言があったので、最後にそれを引いておく。

やっていた当時は、今ここでお話しているような言葉では、明確に口にできませんでした。だけど、僕はここに生かされている人間です。ここに生かされていく人間、そういう人間の肉体というのは、風土から与えられたものを記憶するといった形で、風土が要求しているものを発信するためのフィルターでもあると実感します。
(中略)
それ(イデオン)を作れたということは、実はそうした言葉・・・本当に何かを表現していかなくちゃいけない、パブリックに次世代に伝えなくちゃいけないと思って、自分の語りたいものを語っているんじゃなくて、イヤな言い方になるかもしれないけれども、言霊みたいなものがあって、僕に語らせていたのかもしれない。そういうことを感じます。




※書き忘れてしまったが、イデがあの爆発を生き延びたことになると、新しい人類はまたイデに意思を取り込まれて「エサ」のような存在になってしまう。それでは「らせん」とは言い難いので、そんな悲劇は繰り返されないだろう、とぼくは思うわけです。

つづく

戦闘メカ ザブングル

JUST RUNNING

友人たちに、まだ続くのかよ!と笑われているこのブログだが、あとひとつ、割と熱心に観ていた作品があるのでザッと触れておきたい。
戦闘メカ ザブングル』(1982ー1983)。

当時は単純にギャグ系ロボット番組として楽しんでいた『ザブングル』だが、今になってみると、ここには富野監督が行き着かざるを得なかった必然があったように思えている。ひとつは『機動戦士ガンダム』『伝説巨神イデオン』で否定した要素を除外した先に存在する「ヒーロー番組」としての必然。もうひとつが、残された「おとなの嘘」を曝くという意味での必然。

以下、大ざっぱなあらすじを・・・。

舞台は「惑星ゾラ」と呼ばれる地球。
ここの支配者階級を「イノセント」、被支配者階級を「シビリアン」という。
シビリアンはイノセントについて、「生きるため必要なものを提供してくれる偉大な存在」だと考えていて、「香り高い文化」をもつ存在として憧れる者もいた。
しかしその実態は、惑星ゾラに適応する人類を作るための実験を行っているのがイノセントであり、「管理」され、実戦の中で競わされていることに気がついたシビリアンの一部は反乱を起こす。
主人公のジロン・アモスはこの反乱とは直接の関係はなかったが、好きな女をイノセントに拉致・洗脳され、それを奪い返すためにイノセントと戦うことになるのだった・・・。

※我ながらいいかげんな粗筋だと思うので、詳しく知りたい方はWikipediaでも参照してください。
戦闘メカ ザブングルの登場人物 - Wikipedia」


長話にしたくないので簡単にまとめてしまうが、まず『ザブングル』でのジロン・アモスたちの戦いは「アメリカの盾」ではない。『マジンガーZ』や『仮面ライダー』などの世界観に存在した、見えない、描かれない、外部の何者かのために、ジロンたちは戦っているわけではない。

そしてこの世界では、イノセントまたはジロンたちによって守られているだけの、「善意の第三者」の存在がギリギリまで排除されている。マリア・マリアという「非戦平和主義」の少女が登場するが、彼女もやがては銃をとるようになった。

つまりここに登場する人間は、ほぼ全員が「当事者」として存在する。もちろん、直接イノセントと戦ってはいない者も多数いるが、彼らもこの世界の支配ー被支配の構造のなかに生きていて、全くの無関係ということではない。「純粋無垢な善人」という見えない集団は、ここには存在しない。

※この『ザブングル』の世界観というのはこのブログにとっては非常に重要な話で、昭和のアニメが、ついに完全なかたちで戦後民主主義の文脈から切り離された歴史的な瞬間!・・・ということになるわけだが、長くなるので割愛する。


もうひとつの必然、残された「おとなの嘘」については、イノセントとシビリアンの支配ー被支配の関係が、いかにも戦後の日米関係を彷彿させるというだけの話。「文化」はイノセントにしかなく、「生きるため必要なものを提供してくれる偉大な存在」もイノセント。

松本零士にも日米関係を連想させる作品が多数あるが、たいがいは支配されることへの反発が主題になる。要は、支配の実像がそこに描かれることになる。
一方『ザブングル』では、支配される側が心から感謝して支配されているという、笑うに笑えないような世界が描かれている。もちろんこの「見えない支配」の構造には、次第にSF的な理由がくっつけられていくわけだが、それでも「支配」にはそういう形態もあるのだと少年少女に伝えようとした『ザブングル』の意義は大きいとぼくは思う。



・・・といったあたりで、ぼくが少年時代に観たアニメや特撮についての話はぜんぶ終わりです。

この後も富野監督作品をはじめ、『うる星やつら』やら『パトレイバー』やらも観るには観たのですが、もはやアニメから精神的影響を受ける年齢でもなく、また、それらの作品から政治的な背景を感じるようなこともありませんので、このブログのテーマからは外れてしまうことになるでしょう。

これまで好意的なコメントやメールを寄せてくださった方に深く感謝します。悪態をついていった人にも、一応感謝しておきます。

それでは。

おわり・・・といいつつ続く