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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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『もののけ姫』と『エヴァンゲリオン』

生きろ
もう少し、『もののけ姫』の話題を続けたい。
宮崎駿の思想的代表作とみなされる映画、『もののけ姫』(1997年)のテーマとは何だったのか。

1998年発行の「『もののけ姫』はこうして生まれた。」(浦谷年良/徳間書店)という本によると、制作当時の宮崎駿が「我々が直面している最大の課題」として語っているのは、次のようなことだった。

 今まで僕が作ってきたものは、基本的に守るべき人間がいて、その人間達に支持されているという人物が主人公だった。今度は違う。守るべき村や、守るべき何かが無いんですよ。要するに、露骨にはやってませんけど、はっきりお前さんはいらないと言われている人物なんです。いなくてもいい。活躍しても、別に褒め称えられない。(中略) 
 今度の映画を、この世に生きていて、いわれのない、不条理な、肉体的にも精神的な意味も含めてババを引いてしまった人間達が、どういう風に感じてくれるだろう。それは今の若者の共通の運命であるはずですから。


そうして宮崎が「大人である我々が」「答えをそれなりに出したい」(※)と言って、「不条理な運命の中で生きる」ことを模索する若者として登場させたのがアシタカとサンというわけだ。
だが、ぼくが初めて上記の発言を読んだとき、真っ先に頭に浮かんできたのは『新世紀エヴァンゲリオン』(1995〜96年)の碇シンジや惣流・アスカ・ラングレーの顔の方だった。

宮崎は「守るべき何かが無い」というが、アシタカにはもともと「守るべき人間」も「守るべき村」も存在したし、サンと出会ってからはサンを守ろうとしている。サンはサンで、守るべき森や山犬の家族があって、侵略者エボシと戦っている。二人とも自分の考えを持った立派な若者で、運動能力や知力、体力も申し分ない。

そんな優秀な二人が、宮崎お得意の”エスコート・ヒーロー・ストーリー”(要は『ドラクエ』)を繰り広げるのが『もののけ姫』という映画だ。果たして当時の「ババを引いてしまった」少年少女たちが、どれほどアシタカとサンに共感できたものやら、疑問が残る。

守るべき何かがなく、お前はいらないと言われ、活躍しても褒められない・・・、どう考えてもシンジやアスカについて語っているように読めるのは、ぼくだけではないだろう。

あの頃の宮崎はあちこちで、『エヴァンゲリオン』は観ていないと言っていたが、弟子の作品にまったく興味がないとは考えにくい。時期的にいっても、『エヴァンゲリオン』の少年少女にインスパイアされて、アシタカとサンのキャラクターを煮詰めていった可能性は十分にある。

が、そのことの真偽はどうでもいい。
問題は、では宮崎は「ババを引いてしまった」若者達に、「不条理な運命の中で生きる」ことへの「答え」を出せたのかどうかだ。

・・・「生きろ」。
糸井重里が考え、鈴木敏夫が選び、宮崎駿が「近い」と喜んだ『もののけ姫』のキャッチコピーだ。
おそらく、これが「答え」ということだ。

えーっ!?と拍子抜けするのが当然だろう。
こっちは「どう生きればいいか」の答えを期待しているのに、単に「生きろ」と言われても困るだけだ。答えになっていない。

実はこの展開について、「『もののけ姫』はこうして生まれた。」の著者、浦谷年良さんはあらかじめ予期していたフシがある。引用部分を、浦谷さんはこう分析する。

「貧しさから抜け出して豊かになろう」で生きてきた大人達の価値観は子供達にはリアリティがない。大人はその落差に気がつけない。気がついても変えられない。いや「豊かになる」以外の価値観を持っていなかった。そこにますます空洞が広がる。(同書)


要するに、「守るべき何かが無い」のは少年少女だけじゃない。宮崎駿ら、大人たちにもそれはなかったということだ。だから「答え」を出せない。生き方を提示できない。「おいしい生活」が最高の価値だ。

だがそのことで、宮崎や糸井を責めることはできないだろう。
戦後の日本は国として「守るべき何かが無い」状態であることを強いられてきたからだ。
アメリカの「保護国」なんだから当然だ。

独自に軍事・食料・エネルギーを開発することは半ば禁じられ、外交も制限され、バブル崩壊後は経済まで指図されるようになった。そんな国で、大人が子供に道を示せたら、その方がむしろ欺瞞というべきだろう。
極端な話、総理大臣も経団連の会長もヤクザの親分も金八先生も、みーんな「保護」されているコドモなんだから、コドモがコドモに威張ってどうすんだ?

「生きろ」という言葉の背景にはおそらく、「守るべき何か」を否定して、気がついたら生き延びること以外の価値を見失ってしまった戦後日本の、自己弁護があるような気がする。あるいは、自己肯定か。奴隷だろうが何だろうが、とにかく生きてりゃいいんだ、命どぅ宝だと。


5月14日の「しんぶん赤旗」の記事によると、沖縄の辺野古基地建設に反対する運動資金「辺野古基金」とやらの共同代表に、宮崎駿が就任したとか。そんで、辺野古は中止、普天間も撤去、などと主張しているとか。
ううむ、これぞまさに、コドモの主張だな。

普天間が危険だというから、人の少ない辺野古に移すといってるのに、ゴネるばかりでまるで聞きわけがない。

じゃあ米軍を追い出したあとの軍事的空白はどうすんのよ?
彼らが、それを考えないでも平気でいられる精神的根拠は、多分これなんだろう。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(『日本国憲法 前文』)


周りの国々は平和を愛してるんだから、その公正と信義を信頼しているだけでわれわれは安全なのだ、と書いてあるのが我らが最高法規、日本国憲法だ。なのに基地を作って防衛するなど、憲法の精神に反しているのだー!

「護憲派」と言われる彼らの脳内は、これくらいブッ飛んでいるに違いない。守りたいものは日本人の生命ではなくて、諸国民の公正と信義に信頼できる美しきわが心!!・・・とでも自己陶酔してない限り、あんなコドモっぽい無責任な発想にはならないと思う。
そして、そんな夢想に生きる大きなコドモたちが、現実の悩める少年少女達を救えるはずもないというわけだ。

だからこそ、この情けない「保護国」の状態を脱したいと願う人の矛先は、日本国憲法の改正に向かう。
ぼくは別に憲法に「守るべき何か」をゾロゾロ書けばいいとは思わないが、少なくともマッカーサーにそう「決意」しろ、と命令された前文などは全て削除したらいいと思う。たとえ前文が空白になっても、削除したという行為自体が、日本人の新しい「決意」となるからだ。


というわけで、例によってのタイトル詐欺で、ほとんど「もののけ」も「エヴァ」も出てこない記事になったが、とりあえず「もののけ姫」の話題はこれで終わり。

「エヴァ」については、TV放映当時ぼくはすでに28才で、ロボットヒーローアニメから精神的影響を受けるような歳じゃなかった。にも関わらず、ぼくにとって「エヴァ」は重要な作品となった。
なので次回からは「エヴァ」にまつわる個人的な話などしつつ、「ぼくが見たエヴァ」みたいな無意味で無内容な(笑)エヴァ論を展開してみたいと思う。

つづく

※96年7月6日、中国人映画監督の田荘荘氏との対談にて(DVD「『もののけ姫』はこうして生まれた。」より)。
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『エヴァンゲリオン』の思い出 その1 ーSFとオカルトー

smile
まずは前回の記事の補足から。

何度も「守るべき何かが無い」を引用したことで、いや俺には愛する家族や友人や愛人がいるぞ!と思われた向きもあるかも知れないが、そこは誤解しないでいただきたい。宮崎駿は的確に「守るべき村や、守るべき何か」と分けていて、ぼくらの大切な家族や友人や愛人は、前者の「村」の方に入れられていると思われる。そして、後者の「何か」の方はよく分からないので、とりあえず「生きろ」と言っておいたのではないかと思われる。

じゃあ後者の「何か」とは何なのか。

宮崎同様、左翼あがりの押井守監督は、『THE NEXT GENERATION -パトレイバー-』(2014〜15年)の第7章「大いなる遺産」の劇中で、後藤田隊長にこんなセリフを言わせている。

「(あなたを逮捕した)南雲さんと後藤さんは、今でも自分の正義を信じて、つまり、守るべきものを持っておられるようです

聞いているのは、『機動警察パトレイバー 2 the Movie』(1993年)でクーデターを起こして、戦後日本の「虚構性」を揺るがした元陸上自衛隊二佐、柘植行人。

押井監督の言葉を借りればこうなるだろう。
戦後日本は、国として守るべき「正義」を失っていた、のだと・・・。

これは、かなりフィットしている気がするが、どうだろう。
と言うのも、まさにこれから語る『新世紀エヴァンゲリオン』(1995〜96年)とは、戦後日本を舞台にして、そのどこにも「正義」がない状況を描いた作品だった。庵野監督のアンテナは、たしかに「無意識に社会を反映」(※)していたというわけだ。


ところで本題に入る前に、ここでぼくと『エヴァンゲリオン』との関わりについてハッキリさせておきたい。

ぼくが初めて『エヴァンゲリオン』に触れたのは1996年の夏頃だった。当時のぼくは、一回目の結婚に失敗して以来のどん底の日々で、極度の自己嫌悪に陥っていた時期だった。何にも興味を持てない乾いた毎日を送っていたある日、旧友がテレビシリーズ全26話を録画したVHSテープを貸してくれた。

最初は、気色悪いキャラクターじゃのーと渋々見始めたぼくだったが、すぐにこの作品の価値が分かった。『エヴァンゲリオン』は、少年時代のぼくに人間や人生を教えてくれた『ガンダム』や『イデオン』の正統な後継者であり、そこには「本当のこと」が描かれている、ということだ。

28才のぼくは少年のように繰り返し『エヴァ』を観て、不思議なことに、この陰鬱なアニメによって救われていったのだった。

『エヴァ』のおかげで、閉じた心を溶かしてもいいのかなと思い始めていたぼくは、やがて二回目の結婚の機会に恵まれた。
失敗できない初めての映画デート。
ここでぼくが選んだ作品は、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997年)だった。

感想はこうだ。
「なんか、イヤ〜なもの見ちゃったな・・・」
今でも、ヨメさんのゲテモノ耐性の強さには深く感謝しているぼくだ。

というわけで、ぼくは『エヴァンゲリオン』のテレビシリーズ全26話については、手放しで絶賛している。それは、戦後日本の「SFアニメ」の問題意識を引き継ぎ、発展させ、ついには終わらせてしまった傑作で、どんなに褒めても言葉が足りない。

だが一方、『劇場版 Air/まごころを、君に』および『劇場版 DEATH (TRUE)² / Air / まごころを、君に』については、ぼくは語る言葉を持たない。

なぜって、劇場版は「SF」ではなくて「オカルト」映画だからだ。君子、怪力乱神を語らずだ。

2001年発行の『新版エヴァンゲリオン解読 そして夢の続き』(2001年/三一書房)という本の中で著者の北村正裕さんは、2001年当時のエヴァ言論の貧困を嘆いて、今後のエヴァ研究の発展を願っておられるが、それはちょっと無理な相談だろう。他人にまともだと思われたい人は、オカルトや陰謀論は語らないものだ。『エヴァンゲリオン』がオカルト作品として完結した以上、批評の舞台は「学研ムー」に移されたということだ。

一応、説明らしいことを書いておくと、人間の誕生を「創造説」か「進化論」で語ってるのが「SF」の範疇だとぼくは思っている。

例えば庵野監督の前作、『ふしぎの海のナディア』(NHK・1990〜91年)では、人間は240万年前に宇宙からやってきたアトランティス人の手で、彼らの下僕として作られた生き物だとされる。始めはクジラで試したが失敗し、その後「最初の人間、アダム」と呼ばれる巨人が作られるも破棄、最終的にはアトランティス人に似せて人間は作られた、とか。
たしかに荒唐無稽ではあるが、『ナディア』は人間「創造説」を採っているSFアニメだ。

では、『劇場版エヴァンゲリオン』はどうか・・・。
たしか、人間は何番目かの使徒でゴニョゴニョ・・・。

もちろんだからと言って、『劇場版エヴァンゲリオン』がダメだとかクソだとか言ってるわけじゃない。オカルト作品については、あれこれ考えたり語ったりするのは間違った楽しみ方ではないかと、そう言いたいだけだ。

現にぼくは『劇場版エヴァンゲリオン』のDVDは繰り返し鑑賞したし、素晴らしいアニメーション技術だなあと感心している。ついでに言えば、『新劇場版ヱヴァンゲリヲン』は3作とも映画館でみた上でブルーレイを持っている。
ただ、それらを語る言葉を持っていないだけのことだ。

前置きが長くなったので、本題は次回へつづく

(※)『パラノ・エヴァンゲリオン』1997年/太田出版

『エヴァンゲリオン』と『機動戦士ガンダム』

しと

それでは本題に入りたい。
まずは、『新世紀エヴァンゲリオン』が『機動戦士ガンダム』の問題意識をどのように発展させたかについて。

巨大ロボットアニメの中興の祖といえば、1972年にスタートした『マジンガーZ』だ。
それまでリモコン等で外部から操縦されていた巨大ロボットは、ここで人間が内部に乗り込んで直接操作する武器となった。

ストーリーを簡単に言うと、静岡県の「光子力研究所」には世界に比類ない「光子力」&「超合金Z」のテクノロジーがあって、それを奪いに世界征服を目論むDr.ヘルの「地下帝国」が襲ってくるので、主人公・兜甲児がマジンガーZで撃退するという話。「光子力」と「超合金Z」をDr.ヘルから守るのが、兜甲児の「正義」だ。

『機動戦士ガンダム』(1979年)は、この『マジンガーZ』のフォーマットに準じながら、その「正義」の正体をバラしていく。

簡単な図式でいえば、悪者の「地下帝国」=「ジオン公国」、「光子力研究所」=「ホワイトベース」、「マジンガーZ」=「ガンダム」で、テクノロジーそのものが標的にされて主人公が戦うところは同じだ。

そこで『ガンダム』の方を詳細に検討すると、もう一つの図式、「ジオン公国」=「大日本帝国」であり、「ホワイトベース」=「戦後日本」が見えてくる。

ところで『ガンダム』の方にはもう一つのピース、ホワイトベースやガンダムがそのために戦う存在、すなわち「地球連邦政府」がある。主人公、アムロ・レイたちは、謂わばその「連邦の盾」となってジオン軍と戦っている。

ならば『マジンガーZ』で、地球連邦政府と等式を結ぶのは何なのか。
アメリカ合衆国だ。

はじめは陸上を歩行するだけだったマジンガーZは、やがてアメリカ人科学者の協力で水中活動が可能になり、続いて、やはりアメリカ人科学者の援助によって空中飛行まで可能になった。しかし最終的には光子力も超合金Zも歯が立たない新たなる敵(ミケーネ帝国)が現れると、敗れた兜甲児は「心と体の傷を癒すため」にアメリカに留学していく・・・。

ここでのアメリカは、日本に「平和憲法」を押しつけたGHQそのものだ。マジンガーZはアメリカ様の許可によって、はじめて国外出兵が可能になった。そしてアメリカは、ミケーネ帝国の侵略に対して安全地帯だった。だから兜甲児は彼女同伴で楽しい留学生活がエンジョイできるわけだ。

こうして70年代ヒーロー番組の本質が見えてくる。
そこで描かれているのは、悪の大日本帝国の亡霊に「アメリカの盾」となって立ち向かっている戦後日本の姿であって、ヒーローが守っている「正義」とは「アメリカの正義」に他ならない、ということだ。

それゆえ、『ガンダム』においては主人公アムロ・レイにこんなセリフが投げかけられる。
「なぜ、なぜなの?なぜあなたはこうも戦えるの? あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに」(第41話「光る宇宙」)

ララァはアムロには戦う理由がないと言っている。アムロは「盾」でしかなく、人殺しを担保する「正義」など持ち合わせてはいない。
そして同じように兜甲児ら、70年代ヒーローが叫ぶ「正義」も、結局はアメリカ製の「借り物の正義」だった。

・・・長くなってきたので、もっと詳しく知りたいという酔狂な人は「仮面ライダー」「マジンガーZ」「機動戦士ガンダム」などのカテゴリを参照してください。

でも、とりあえずここまでの話だけでも、『新世紀エヴァンゲリオン』第1話「使徒、襲来」がどれほどの衝撃だったかは、十分に感じて頂けるんじゃないかと思う。
開始早々に現れる使徒。それを迎え撃つのは、なんとUN(国連軍)じゃないか。

ぼくがはじめて『エヴァ』を見たのは1996年夏だったが、まだ91年の湾岸戦争の記憶は強く残っていた。厳密には国連軍と多国籍軍は違うそうだが、要は、米軍じゃないか。それが『エヴァ』では日本本土でドンパチやっている。

ってことは、まさかもう自衛隊はないのか? リアル憲法9条の日本出現か? と興奮したもんだが、のちに「戦略自衛隊」の存在を知ってフェードアウト。
それはともかく、実質的に米軍と見なせるUN軍が日本国内で戦闘していて、しかもアッサリ負けちゃったことの意味は、あまりに大きい。

『ガンダム』のアムロ・レイにいたる70年代ヒーローには、たとえ「借り物」であったとしても「正義」と自称できるものはあった。だが『エヴァ』では、守られるべき「アメリカ」自身が、日本の地で戦って敗れてしまった。つまり『エヴァ』で、「アメリカの盾」を演じる者は誰もいない、ってことだ。
ならばと、長年悪役を務めてきた大日本帝国も一緒に消滅せざるをえない。

こうして、わずか開始数分で『エヴァ』の世界から「正義」も「悪」も消えてしまった。
それが当時の庵野監督のアンテナが捉えた、「無意識に社会を反映」した結果なのだろう。
1995年の日本には、守るべき「正義」もなく、戦うべき「悪」もなく、ただ人のむき出しのエゴだけが蠢いていたのだろう。

おそらくサブカル史において、1979年の『機動戦士ガンダム』が露わにした戦後日本の「正義」を、1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』が跡形もなく消し去ってしまった意味は大きかったはずだ。平成に入って7年目、ついに「昭和」は完全に終わった。ほんとなら、ここが日本社会が「借り物」ではない正義を模索するスタート地点だったのかも知れないが、どうも『エヴァ』が生み出したのは「セカイ系」とかいう内向きな分野だけだったようだ。

ひとつ興味深いのは、昭和ヒーロー番組を知らぬまま、先に『エヴァ』を見てしまった当時の14才前後の脳内だ。
彼ら彼女らはもう30代も半ばに達しているが、もしかすると根本的な世界観がぼくらと微妙に異なる可能性がある。機会があったらいろいろ聞いてみたいもんだ。

つづく

碇シンジの「補完」について

なぜ冷や汗?
『ガンダム』に続いては『イデオン』の話題に移りたいところだが、その前にひとつハッキリさせておくことがある。
それは、TVシリーズ最終話で、はたして碇シンジくんは「補完」されたのかどうか、だ。

結論から言ってしまえば、ぼくが初めて『新世紀エヴァンゲリオン』をみた1996年夏頃は、シンジは「補完」された、という合意があったように思う。これは、TVシリーズ第25話「終わる世界」と第26話「世界の中心でアイを叫んだけもの」を普通に眺めていれば、普通に導かれる結果だろう。順に見ていこう。

まず第25話「終わる世界」のAパートが、「そして 人類の補完が始まる」で終わる。

Bパート早々、闇の中にうずくまっているシンジが「なんだ? この感触? 前に一度あったような・・・自分の形がきえていくような・・・。気持ちいい・・・自分が大きく広がっていくみたいだ・・・どこまでも・・・どこまでも」と言って、「補完」が始まったことを示す。

続いてテロップ「それは人々の補完の始まりだった 人々が失っているもの 喪失した心 その空白を埋める 心と魂の、補完が始まる 全てを虚無へと還す 人々の補完が始まった
で、あーだこーだといろいろあって、「そして補完への道は つづく」で第25話は終わる。

最終回第26話は冒頭からテロップ。
「時に 西暦2016年 人々の失われたもの すなわち心の補完は続いていた だが、それを記すには、あまりに時間が足りない よって今は、碇シンジという名の少年 彼の心の補完について語ることにする」

どうだろう?
これだけ「補完」してますよーと言っておいて、最後が「補完」されませんでしたでは、完全にやるやる詐欺というものだろう。
続いて第26話では、オールスターキャストがシンジをひとつの結論に追い込んでいこうとする。そうして、やがてシンジは「ぼくはここにいたい」「ぼくはここにいてもいいんだ」と悟り、みんなの祝福を受ける。

・・・が、シンジが言ってる「ここ」ってどこだ?

第25話Bパート冒頭で、シンジが既に液状化してることは明白だ。
ならば「ここ」とは、補完された人々の心と魂が溶解している場所、ということになるだろう。シンジはみんなの説得で心を開き、「補完」の輪の中に入っていった・・・と見るのが至って普通の感覚じゃないか?

そのことは当時の出版物にも普通に書いてあることで、1997年2月、要は『劇場版Air/まごころを、君に』公開の5ヶ月前に発行された『ニュータイプ100%コレクション29 NEON GENESIS EVANGERION』(角川書店)でも、ストーリー紹介のなかで「祝福され微笑むシンジ。それこそが補完されたシンジの姿だった」という記述がある。

さらには、1997年3月発行の『庵野秀明 スキゾエヴァンゲリオン』(太田出版)では、庵野監督自身のこんな発言がある。

竹熊 シンジくんが大人になる話ですよね、ホントは。
庵野 それは、僕が大人になるってことと同じですよね。シンジ君って昔の庵野さんなんですかって聞かれるんですが、違うんですよ。シンジ君は今の僕です(笑)。一四歳の少年を演じるくらい僕はまだ幼いんです。どう見ても精神医学的に言うならオーラルステージ(口唇期)ですよね。メランコリーな口唇依存型。まあ、これは否定しようのない事実で、しかたがないことなんです。そこから前に進もうと思ってたんですが、それは結果として自己への退行になってしまった。袋小路ですね。
竹熊 となると、ある意味ではアン・ハッピーエンドですよね。『エヴァ』の最終回は。
庵野 ある意味ではそうですね。そこから前に出たのがハッピーと取れば、アン・ハッピーなんですけれど。これでよしとすればハッピーエンドですね。
竹熊 一応、ハッピーエンドの体裁は取ってますもんね。


簡単にまとめれば、シンジ=庵野で、彼らは口唇期から前に進もうとしたが、「退行」してしまった。
つまりは「赤ちゃん帰り」、現実逃避だ。
彼らに拒否されたのは「補完」じゃなく、現実世界の方だと見るのが普通の感覚だろう。


さて、以上はWikipediaにある記述、「ストーリーは変わらずどちらも補完を否定した結末であり」にケチをつける意図で書いたことじゃない。きっと、ぼくの知らない所で、そういうことに決まったのだろう。

ただぼくは、1996年夏、確かにシンジは「補完」されたのだと感じて精神的に救われたし、97年7月に『劇場版Air/まごころを、君に』を観て、ありゃー結末が変わっちゃったよと笑った。それが、ぼくが見た『エヴァ』だった、というわけだ。

ぼくにとっては、『エヴァ』のテレビシリーズと劇場版は、まったく反対の結末を描いている作品だということ。
そのことを前提に、次回は再び本題に戻りたい。

つづく

『エヴァンゲリオン』と『伝説巨神イデオン』

one more final

富野由悠季監督が、昭和のテレビアニメの思想面で果たした役割は大きい。
海のトリトン』『無敵超人ザンボット3』『戦闘メカ ザブングル』についてはリンクを踏んでいただくとして、ここではまず、『機動戦士ガンダム』の「ニュータイプ」について、ちょっと触れたい。

それは、人間が宇宙生活のなかで獲得した能力で、映画『逆襲のシャア』(1988)では「物とか人の存在を正確に理解できる人のことだよ」とクェス・パラヤに言わせたものだ。人間はまだその力をモビルスーツの操作ぐらいにしか活かせてないが、いずれは「人類がみんな共感しあえる」ようになると考えられていた。

もちろん、富野監督がそんな場末のカルト宗教みたいな理想論を唱えていた、なんてことじゃなくて、理想を唱えながら、それを人殺しの道具として進化させようとする人間のエゴイズムが、主眼として描かれた。富野監督にとって「ニュータイプ」なんてのは、人の心の醜悪さを引き出すための道具、方便でしかなかった。

そして、そうした「人の心」をテーマにして、さらに突き詰めていったのが『伝説巨神イデオン』(1980)だ。

『イデオン』の世界では、宇宙には地球人とバッフクラン人の二つの人類がいた。あるとき地球人は、彼らがソロ星と呼ぶ星の遺跡から、巨大な宇宙船とロボットを発掘した。しかしそれらはバッフクラン人にとって、他者に奪われるとバッフクラン人が滅亡するという伝説をもつ代物だった。バッフクラン人の攻撃が始まり、地球人はただ生き延びるために、それらを使って逃げようとする。

そうして地球を目指す主人公たちだったが、補給や修理のために立ち寄った植民星では同じ地球人から迷惑がられ、散々な目に合わされる。そしてついには、母星である地球からも拒絶されてしまうのだった。行く当てのない逃避行は、続く・・・。

詳しいことは「伝説巨神イデオン」のカテゴリを参照していただきたいが、『イデオン』の前半部で描かれたのは、われらが「戦後民主主義」の成れの果ての姿だったとぼくは思う。

戦後民主主義についてこのブログでは、脚本家・佐々木守さんの「個人が、体制よりも社会よりも組織よりも、すべてに優先されるという考え方・行動」という定義を採用しているが、要は「超」のつく個人主義だ。
富野監督はそれを、ただのエゴイズムだと断罪する。

続いて『イデオン』では、戦後民主主義によって「個」に分断されてしまった人間たちの孤独と悲哀が描かれていく。生き延びるために理解し合わなければならないのに、「個」のエゴが邪魔をする歯がゆさだ。
そして富野監督はいよいよ、戦後民主主義どころか、民主主義そのものの根幹へと降り立っていく。
「内心の自由」だ。

人は神さまを拾ったが、神は意思を持っていなかった。それで人は神に、私の願いを叶えてくださいとお願いした。神は聞き入れ、人が本心で願っていることを実現させた。そしたら人類が滅亡してしまった。
これが赤木リツコ博士風にまとめた(笑)『イデオン』のストーリーだ。

発掘された宇宙船(ソロシップ)とロボット(イデオン)には、何億人かの「第6文明人」の意思が封じ込められていた。彼らはあるとき、地球人ベスの夢に現れ「心のあり所たるイデの場を守る権利」があると言う。そこでベスは「全力を尽くして良き道を探すべきだ」と返した。このときからイデ=第6文明人は、「良き道」を人々の心の中に探し始めることになる・・・。

「内心の自由」とはこういうものだ。

 1648年に至るまでの1300年間のヨーロッパの歴史は、宗教戦争・十字軍・魔女狩り・拷問・異端審問などの横行です。
「違う宗教を信じてる奴」「よからぬことを考えているかもしれない奴」は、「殺さなければならない」のがヨーロッパ社会でした。
 しかし、三十年戦争で欧州が廃墟になって、ヨーロッパ人は、ようやく宗教戦争の不毛さに気付きました。1648年に(ウェストファリア会議で)示された「心の中では何を考えても良い」は近代思想の出発点です。これを現代の憲法学の用語では、精神的自由権と呼びます。(『誰が殺した?日本国憲法』倉山満/講談社)


戦いの最中、人々は問題解決へのより良き道を探そうと努力した。
自分たちが「良き心」を持つことが答えだと、やさしさや思いやりに目覚めた少女もいた。
しかしイデが人々の心に見つけた最大公約数的な「良き道」とは、破滅の道、すなわち全人類の滅亡だった・・・。


言うまでもないが、人間の内心が怪しげだからこそ、人類はそれを克服すべく民主主義を発展させたわけで、『イデオン』が今さらそれを告発して悦に入ってるとか、そういうことじゃあない。人間同士が分かり合おうする努力は、永遠に続けられなければならないことだ。『イデオン』はただ、人の心の実相という「本当のこと」を描いているだけだ。

で、ここまでが前置き。
『新世紀エヴァンゲリオン』は、この『伝説巨神イデオン』の問題意識をどう引き継いだというのか。

『伝説巨神イデオン』で描かれた「個」の孤独や悲しみは、人間が「個」であることに原因がある。ならば「個」を「個」たらしめているワクを取っ払ってしまえば、それらから救われることになるはずだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」とは、要は地球人類が「第6文明人」になるってことだ。意図して「個」を捨てるということだ。

これは全然関係ないものを無理矢理くっつけて話している訳じゃなくて、庵野監督が1988年の富野作品『逆襲のシャア』の伝道師だったのは有名だし、『エヴァ』は元々は(イデオン同様の)古代文明の話だったことからして、見えないリンクがあっても不思議ではないだろう。

ロンギヌスの槍:人類が生まれるまでに非常に高度なテクノロジーをもつ先史文明が二相存在し、最初の文明がEVAを造ってそれが原因で滅び、次の文明がロンギヌスの槍をつくってEVAを封じ込めに成功、後に何者かがEVAを復活させたときの対抗策、いわば全自動の安全装置として使徒を眠らせた。当事者間でも、すでに話が暴走しているいまとなってはどうかは知りませんが、これが企画会議のとき決められた設定。(『それをなすもの』山下いくと きお誠児/1998年・角川書店)


繰り返しになるが、戦後民主主義とは「個人が、体制よりも社会よりも組織よりも、すべてに優先されるという考え方・行動」だ。

それは戦後日本にだけ存在する特殊な思潮で、日本人を国やら地域やら学校やら会社やら、ありとあらゆる共同体への帰属から分離して、「個」に孤立させようとしてきた。愛国心は持つな、国歌は歌うな、個性が大事、個性を伸ばせ、ナンバーワンよりオンリーワンだ。ゆとり教育が最高だ。

富野監督は、そんな思潮に一貫して異議を唱えて続けているが、例えばこれ。
エゴとは「自我」のこと。

だからエゴというのは、すごくラフな言い方をしますと、ありません。あってはいけないんです。こういったときに、私とか僕がなくなっちゃって寂しいという言い方をするのが、今の子たちかもしれないし、今の日本の風潮かもしれないけども、それは違いますね。それは、エゴがあると信じた近代思想がでっちあげた概念です。(『イデオンという伝説』太田出版・1998年)


富野作品のエヴァンジェリストだった庵野監督が、果たして「補完」されちゃうと僕がなくなっちゃって寂しい、なんて思うものだろうか。

劇場版エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に』のラスト、「ONE MORE FINAL」。
シンジは「補完」されていく世界の中で、「でも、これは違う」と言って、碇シンジとして存在していくことを選ぶ。しかしどうだろう。再びシンジが自分のかたちを取り戻した世界は、まるで地獄絵図じゃないか。巻き添えにされたアスカが可哀想すぎるぞ。

てなわけで、『エヴァンゲリオン』のテレビシリーズと劇場版は、まったく正反対の描き方で、いずれも「戦後民主主義」を明確に否定しているのだとぼくは思う。一度目は自らの心を開いて「補完」の輪に飛び込むことで、二度目は「補完」を拒否した結果で。

そして「借り物の正義」と同様に、ここでも『エヴァ』は、「戦後」的、「昭和」的なるものを葬り去ろうとしているように、ぼくには見える。だがぼくたちは当時、残念ながらそのことの意味に気がつかなかった。反撃のノロシを見失ったまま、そろそろ20年がたつ。

つづく

『エヴァンゲリオン』の思い出 その2 ー初号機、人類補完計画ー


今頃になってバラすが、ここの管理人・竹波エーイチは「竹」「波」「エーイチ」の、3人のおっさんの複合体だ。3人でアイデアを出して、一人がまとめて書いてきた(だから、たまに昔話が食い違う)。

思えば、高校生の途中ぐらいでオタク趣味を止めたぼくらを、再び呼び戻したのが『エヴァンゲリオン』だった。1996年夏から、1997年の夏までの約一年間、ぼくらはエヴァについて頻繁にメールを交わした。ちなみに、ぼくが当時使っていたパソコンはアップルのパフォーマ5420で、メーラーはPost Petだったな。そして、オカルト映画『劇場版 Air/まごころを、君に』の公開をもって、ぼくたちの研究会は一旦解散した。

最近になって当時のHDDから文書をサルベージしたんだが、まだ若いせいもあって、とにかく議論が「熱い」。激論だ。『伝説巨神イデオン』以来の超本格的SF作品の登場に、燃え上がっている。あの頃、きっと日本中のアニオタがそんな日々を送ってたのだろう。

そこで今回は、当時ぼくらが考えていたメモから、『エヴァ』についての思い出話をしてみたい。おー俺もそう思ってた、などと楽しんで頂けたら幸いだ。

まず初号機について。
第2話で再起動した初号機に対して、冬月が「勝ったな」とつぶやく。これは彼が、初号機が第3使徒より強いことを知っていた証拠だろう。

第10話では、「局地戦闘用D型装備」とかいう重装備でようやくマグマ内を沈降できた2号機に対し、初号機は何の装備もなしに行動できた。

第18話ではアメリカ製の3号機を乗っ取った使徒をボコり、やはり使徒より初号機が強いことが分かる。

第19話では、左腕を失ったままの零号機に対し、使徒の部品から左腕を再生できる初号機がいた。さらに、S2機関を自ら取り込んだ初号機に対してゲンドウらが「はじまったな」「すべてはこれからだ」と、初号機がS2を取り込むのはシナリオの想定内だと言う。つまり、もともと初号機にはS2機関があったということだろう。

第21話、2003年に箱根の人工進化研究所地下のジオフロントで、冬月が作りかけの”エヴァ”を見せられる。第23話のリツコによれば、それらは2005年頃、すべて破棄されたという。しかしその1年前の2004年に、すでにユイは初号機に取り込まれている。

これらから、当時ぼくらが考えた結論はこうだ。
エヴァンゲリオン初号機は、第2使徒を改造・利用したものだ、と。
それは「アダム」に対しての「イヴ」で、第3〜第16までとは別格、アダムと同格の存在なんだろう、と。

次に人類補完計画について。
ゼーレのシナリオの方は、テレビシリーズ内の情報だけではサッパリ分からなかった。ただ、ゼーレのモノリスが12体で、エヴァシリーズも12体、という事実から、それぞれのゼーレがファミリー単位で永遠の命を得ようとしているのか、と考えていた。世界の支配者が最後に望むのは、不老不死ではないのかと。

一方ゲンドウのシナリオだが、「ロンギヌスの槍」が失われた状態で、最後の使徒を倒せば「願いが叶う」というんだから、S2機関を取り込んで「神」になった初号機のなかで、人類が「第6文明人」になるシナリオだろう、と考えていた。
ふたつの計画に、どう決定的な違いがあるかは分からずじまい(まさか劇場版でオカルトを持ち出してくるとは思わなかったので)。

使徒については、渚カヲルがお利口さんなのか、お馬鹿さんなのかが話題の中心だった。
なにしろカヲルくんは、間近で直視するまで「アダム」が「リリス」であることが分からなかったのだ。これは第3使徒から第16使徒までも、一緒だ。

唯一、ちゃんと「アダム」を狙えたのが第6使徒(魚のやつ)だけだと言うのでは、あまりに情けない。
アダムに生まれし者は、アダムに還らねばならないのか、ひとを滅ぼしてまで・・・」なーんで真顔で言ってるカヲルくんだが、おいおい、それは「リリス」だから〜、と先に教えてあげたくなる。
それに、もしも「アダム」が失われていて、代わりに「リリス」が磔にされてるというのなら、EVAシリーズのコピー元って何だ? という疑問が沸いてくる。

それで当時ぼくらが考えてたのは、EVAシリーズのコピー元は第2使徒の初号機で、「リリス」はアダムのパーツからクローンしたもの、加持リョウジがドイツから持ってきたのは「アダム」を幼体から再生させたもの、ってかんじだった。もちろん、TVシリーズでは「アダム」の幼体がその後どうなったかは不明。

・・・長くなりそうなので、つづく

『エヴァンゲリオン』の思い出 その3 ー使徒ー

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前回からの続き)

あらためて、「使徒」について。
世に『エヴァ』の「解読本」「謎本」がどれほどあったのかは知らないが、その善し悪しを決めるのは「使徒」についての考察次第なんじゃないかとぼくは思う。というか、96年当時、ぼくらが一番知りたかったのが「使徒」の正体だった。

まず第1話。
「予想どおり自己修復中か」「そうでなければ単独兵器として役に立たんよ」「機能増幅まで可能なのか」「おまけに知恵もついたようだ」などの会話から、ゲンドウと冬月が、使徒の能力をおおむね把握していたことが分かる。

第5話で、人間と使徒は、DNAが99.89%酷似してるとされるが、これはおそらくカヲルくんへの伏線だろう。

第10話で、使徒が「さなぎ」から「羽化」することが分かり、その幼体は第8話で加持くんが持っていた「アダム」の幼体と同じ姿だった。

第13話で、コンピュータ・ウイルス状の使徒がマギ・システムに侵入。リツコ「彼らは常に自分自身を変化させ、いかなる状況にも対処するシステムを模索しています」、冬月「まさに生物の生きるためのシステムそのものだな」。

第17話で、ミサトが「使徒同士の組織的なつながり」をほぼ否定した一方、同じ文脈のなかでゲンドウが「使徒は知恵を身に付け始めています」と言って、全体としての使徒の継続性・連続性の存在を示唆している。

第22話は、使徒が「人の心を理解」して、「人の心を知ろう」とする話。アスカが精神汚染される。この時、セカンドインパクトが使徒の接触が原因でないことが判明。

第23話、使徒が「積極的に一次的接触を」試みる。レイ、自爆。第三新東京市、消滅。

以上から、当時ぼくらが考えていた第3〜第16使徒とは、本体である「アダム」から分裂して、「アダム」に回帰するという行動原理の元、外敵を威力偵察して情報を収集し、共有された情報を元に適応・進化し、外敵を全滅させる・・・、みたいな軍事システムだ。

そしてヒトを滅ぼす最適の姿がカヲルくんというヒト型で、地球全体を(アスカみたいに)精神汚染することで人類だけ全滅させるのでは、と想像した。

もちろん使徒をバラまいたのはゼーレで、それはエヴァ12体を造るための口実だと考えた。
カヲルが、最後のさなぎを羽化させたら偶然ヒト型で現れたのか、それともレイのように幼児からヒト型で成長していったのかは、大きく意見が分かれたところ。ゲンドウはヒト型の使徒を予測してなかったようだし、一方、ゼーレはレイの正体を知らなかったわけで、これらを矛盾なく説明するには情報が足りなすぎた。

カヲルくんが次の「アダム」になるのでは? という意見もあったが、それは「僕が生き続けることが、僕の運命だからだよ」が根拠だった。ジオフロントを造った古代人だか宇宙人だかが、自己防衛のために造ったのが使徒システムなら、現人類を滅ぼした後も、カヲルくんは引き続き、次に現れる外敵からの防衛に備えなければならない。それがカヲル=次のアダム説。

だが、うっかりヒト型になったのが災いしたか、人の心の寂しさを知ったカヲルくんは、「君たちには未来が必要だ」と言って生存権を譲ってくれた。「未来」とはつまり、来たる人類補完計画のことだろう。

重複になるが、参考に元々の『エヴァ』の設定を引用しておこう。最初はEVAこそが悪魔的な存在で、それを倒すために使徒が準備されてたようだ。

ロンギヌスの槍:人類が生まれるまでに非常に高度なテクノロジーをもつ先史文明が二相存在し、最初の文明がEVAを造ってそれが原因で滅び、次の文明がロンギヌスの槍をつくってEVAを封じ込めに成功、後に何者かがEVAを復活させたときの対抗策、いわば全自動の安全装置として使徒を眠らせた。当事者間でも、すでに話が暴走しているいまとなってはどうかは知りませんが、これが企画会議のとき決められた設定。(『それをなすもの』山下いくと きお誠児/1988年・角川書店)


さて、これ以上の深入りはポエミーにしかならないので、そろそろ思い出話は終わりにしたいが、最後に一つ。
初めて『エヴァンゲリオン』テレビシリーズを見進めていった時、ぼくは作品世界の背景に、併走するふたつの物語を感じていた。ひとつは心の補完を求める人間の物語。もう一つは「肉体」の補完を求める使徒の物語。その二元論の真ん中にいるのが、レイだ。

最初のうちは、いかにも使徒と同じ肉体でできた作り物の人間っぽかったレイだったが、頬を赤らめたり、にっこり微笑んだり、涙を流したりと、次第に人間らしくなっていった。だがその心は、本当に人間と同じものなのか?

カヲルとシンジを追ってターミナルドグマに降りていくレイは、その答えを探しに行ったのだろう。だが、レイと同じようにシンジと心を交わした使徒、カヲルくんは、当のシンジの手で潰されてしまったのだ。ならばレイの運命も、誰か人の手によって潰されてしまう悲しいものなのだろうか。

しかしそれは杞憂だった。
『新世紀エヴァンゲリオン』最終回、レイは補完されたシンジを祝福する人々の輪の中にいた。

おー、レイちゃん良かったなあ、君も補完されたのかー、と思わず涙したぼくだったが、すぐにあることに気がついた。それは、テレビのこっち側にいるぼくは、補完されないということだった。そう、人はエヴァンゲリオンという特殊な装置なしには、分かり合うことができないのだ。
当時、離婚だなんだで極度の自己嫌悪に陥っていたぼくだったが、それは「本当のこと」としてスーッと心に入ってきた。そうしてぼくの閉じた心は、次第に溶かされていったのだった。

まとめます。
なぜ今頃、テレビシリーズの『エヴァンゲリオン』の話なんてしているのか。
一つには今年、自分がついにゲンドウの年齢に達することもある。
だが何といっても強調したいのが、それが(このブログで扱ってきたような)戦後的な枠組みの、ひとつの終局を描いていたことだ。

『エヴァ』には「父性」がない。誰も少年少女に正義を語ってはくれない。『エヴァ』には「母性」もない。それは庵野監督がみんな殺してしまった。『エヴァ』は「神」を造る物語だが、その「神」は肉体だけで、心がなかった。

語るべきものがないことこそが、『エヴァ』で語られたことだった。
だが20年近く経った現在から見れば、それは確かに、次へのスタート地点でもあった。

僕のアンテナが、要するに自分自身には何もないので、無意識に社会を反映できるというのがあるかも知れない。(『庵野秀明パラノ・エヴァンゲリオン』1997年)


『エヴァ』には語られるべき日本がなかった。
だが、日本は今もここにあって、新しい物語を探す人も出ている。
次回からはいくつか、そういった作品をみていきたいと思う。

つづく

『日本沈没』(2006年)

高僧

以前も書いたが、ぼくが知る限りで最後の反日反戦映画は、『きけ、わだつみの声Last Friends』(東映)だ。公開は1995年6月。
そしてそれ以降に作られた戦争映画は、近年大ヒットした『永遠の0』(2012年・東宝)に至るまで、特定のイデオロギーは交えないか、交えたとしても「右」寄りだ。大手が「左」寄りを作らなくなって、もう20年が経つ。

この理由は、対象年齢を落とした子供番組を見ると分かりやすいと思う。
例えば2001年の『ウルトラマンコスモス』では、怪獣性善説をとなえ、怪獣を殺さず保護しようとする人々とウルトラマンが、設定された。ぼくらが見た実相寺&佐々木のガヴァドンスカイドンシーボーズを全編に拡大しようとした恐ろしい作品だが、言うまでもなく、早々にウルトラマンは怪獣をぶっ殺すようになる。

あるいは2002〜2004年の『ガンダムSEED』『ガンダムSEED DESTINY』に登場する中立国オーブ
彼らは「他国を侵略せず、他国の侵略を許さず、他国の争いに介入しない」、すなわち「非戦」を訴えたが、やがては大国から独立を守るために武器を生産し、保持し、輸出し、さらには(ごく自然な成り行きとして)集団安全保障の先兵として戦うようになった。

この二作品で、最初に掲げられた左翼イデオロギーを吹っ飛ばしたのは何だったか。
それは「現実」だ。
現実にとって「不自然」だから、左翼イデオロギーは退場させられた。

そんなわけで、最近の日本映画では、局面から「自然に」現れてくる日本人の美意識や美徳みたいなものにスポットを当てた作品が主流になっているように思う。考えるより、感じろ、といったところか。代表的な作品として、2006年にリメイクされた『日本沈没』(監督・樋口真嗣/東宝)を観てみたい。

1973年版『日本沈没』では、徐々に判明していく破局にどう対処するか、という物質的な問題と並行して、日本人とは何か、という精神的な問題がクローズアップされた。ラストで田所博士(小林桂樹)はこう言う。

日本人は民族としては若い。四つの島でぬくぬくと育てられてきた、まだ子供だ。外へ出て行ってケンカをしてひどい目にあっても、四つの島に逃げ込み、母親のフトコロに鼻を突っ込みさえすりゃよかった。しかしこれからは、その帰るべき国がなく海千山千の世界の人間の中で・・・

それが小松左京の日本人観だったのだろう。
ゆえに「日本民族の将来」をどうするか、に対して出された結論のひとつに、「このまま何もせん方がええ」つまり、日本人は愛する国土とともに海に沈んだ方が幸せなのかも知れない・・・が加えられた。丹波哲郎の名演(怪演?)もあって、ずしりと重いテーマが示された。

しかしそれから30年以上が経った2006年版の『日本沈没』では、その小松左京の日本人観は明確に否定された。かつて丹波哲郎が演じた山本総理を今度は石坂浩二が演じたが、彼は気の毒にも阿蘇山の噴火に巻き込まれ、命を落としてしまうのだ。
だからと言ってリメイク版が、人命が一番大事だ、みたいな陳腐な主張をしているわけではない。むしろ反対に、命を捨てて、沈みゆく日本に踏みとどまろうとした人々を描いたのが樋口作品だ。

2006年版では冒頭から日本が沈没する未来が予測されていたが、田所博士の研究によってタイムリミットが一年以内であることが判明し、物語は一気に加速する。田所博士に協力したことでいち早く情報を知り得た潜水調査船のパイロット、結城達也は、すでに妻子を海外に逃がしていたが、自分は日本に残って田所博士の手伝いをすると言う。理由は、息子を自分が育った田舎の浜に連れて行って、海を教えてやりたいから。彼にとって、息子に教えたい「海」は、どこの海でも良かったわけではないってことだ。
しかしその結城は、深海での作戦実行中の事故で亡くなってしまう。

結城の同僚である(主人公)小野寺俊夫は、母親を逃がそうと実家に帰省するが、母親は「家族の思い出がつまっている」家とともに沈むことを選ぶ。最後まで、亡き夫と一緒にいたいのだと言う。小野寺は「馬鹿なこと言うなよ」と説得するが、母親は「命より大事な場合もあるの、人を好きだっていう気持ちは」と動かない。

潜水調査船の優秀なパイロットである小野寺は、実はイギリスの調査会社からオファーを受けていた。小野寺は、思いを寄せる女性、阿部玲子に一緒に渡英しようと持ちかけるが、断られてしまう。パイパーレスキューの隊員である玲子は、日本に残される人を見捨てることはできないと言う。

そうして「今までやりたいことだけやって生きてきた」小野寺の心境に変化が起こる。
小野寺は「自分の使命を見つけることができた」と玲子に書き残し、彼女を守るために老朽艦「わだつみ2000」に乗り込む。
それは機体の限界深度を超えた、生還不可能な作戦だった・・・。


2006年の樋口版『日本沈没』で描かれたこと。
それは、自己犠牲の精神だった。

実は公開当時、旧作の大ファン(なにしろ主役がいい!)だったぼくは、樋口版にいまいち感心できなかった。何か予定調和的というか、できすぎの感じがして素直に楽しめなかった。だが、あの3・11の大災害のあとで、ぼくの評価は一変した。

CGや特撮の災害シーンがやけに身に迫るのはもちろんのことだが、映画で描かれた尊い自己犠牲の精神が、決して作り話の上だけの美談ではないことを、あの災害時のリアルな日本人の行動が証明してくれた。あの時日本中に、ヒーローは、確かにいたのだ。

というわけで、『エヴァンゲリオン』以降というか、ここ20年くらいの映像作品から、自然に現れてくる日本人の美徳や美意識として、今回は「自己犠牲の精神」について書いてみた。

もちろん、そんなのは珍しい話じゃない。このブログでも『ジャイアントロボ』の最終回や、『さらば宇宙戦艦ヤマト』は記事にしたし、最近見直した『ウルトラQ』(1966年)にも第14話「東京氷河期」で、怪獣ペギラに特攻をかける元ゼロ戦乗りのエピソードがあった。
要は、日本人にとって、それはいたってごく自然に湧いてくる美意識ということだ。

だが戦後日本には、その心情と、真っ向から対立する思潮がある。
戦後民主主義だ。

つづく

『小さき勇者たち〜ガメラ〜』(2006年)

相沢透

今のところ、ガメラシリーズ最後の映画が『小さき勇者たち〜ガメラ〜』(2006年)。
大人も楽しめる本格怪獣映画だった「平成3部作」とは異なり、小さな子供向けに作られた「ジュブナイル作品」だ。

あらすじは簡単。
ガメラのたまごを拾った少年は、生まれた子亀を「トト」と名付けて可愛がる。トトはすぐに大きく育ち、少年の前から姿を消す。少年の町が怪獣ジーダスに襲われると、8mほどに成長したトトが現れて撃退。力尽きたトトは、名古屋の研究所に連れて行かれる。

トトを追ってジーダスが名古屋を襲い、第2ラウンド開始。苦戦するトトには、たまごの台座として置かれていた「赤い石」が必要だと知った子供達は、逃げ惑う大人たちの流れに逆らって「赤い石」のバトンリレーを始める。最後に少年から「赤い石」を受け取って、ついに完全体となったトトはジーダスに圧勝する。

再び力尽きたトトを自衛隊が捕獲しようとするが、子供達に制止される。飛び去っていくトトに、少年が「さよなら、ガメラ」と言って、終幕。

前回の記事では、局面から「自然に」現れてくる日本人の美意識や美徳として、「自己犠牲の精神」を挙げてみたが、今回はどうだろう。凶悪な怪獣から人間を守るために戦ってくれるガメラが「赤い石」を必要としたとき、危険を顧みることなく走った子供達。

それを一言でいえば、「相互扶助の精神」だろう。要は、助け合いだ。

『小さき勇者たち〜ガメラ〜』で特筆されるべきは、それがひとりトトの飼い主の少年によるものではなくて、見ず知らずの子供達の協力によって成し遂げられたことだろう。前回も書いたが、3・11という最悪の局面で、それが「自然に」顕れてくる日本人の美意識・美徳であることを、ぼくらは目の当たりにできた。

・・・が、ここに一つ、それを真っ向から否定する存在がある。

前回の記事では、「自己犠牲の精神」に対抗する思潮として、「戦後民主主義」を挙げた。
戦後民主主義では、他の何よりも「自分」という個人が大事だとされるんだから、犠牲になるのは自分以外でなければならない。

だがそれは、実際には日本人の感覚や感性にはあっていないとぼくは思う。そりゃ当然で、そんなのはGHQが戦後に広めた、たかだか70年の歴史しかないシロモノだ。敗戦前に亡くなった日本人は、その存在すら知らないのだ。

さてでは今回の「相互扶助の精神」を否定しようとする存在とは何か。
日本国憲法」だ。
戦後民主主義の生みの親だ。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(『日本国憲法』前文)


例えば、クラスに中国くんという極悪のいじめっ子がいて、そいつはすでにチベットくんやウイグルくんを奴隷として扱い、横暴を極めてるとしよう。最近ではフィリピンくんが、中国くんをナチ呼ばわりして怖がってるとしよう。この時、他のクラスメートにできることは、一致団結して中国くんの暴力に対抗することだろう。フィリピンくんをいじめるなら、他の全員が相手だと思えと。

しかしそんな「相互扶助の精神」を、「違憲」だというのが「日本国憲法」だ。
でもそれって、日本人の自然な感覚から言って、かなーり「不自然」じゃないか?
しかも、いわゆる「護憲派」の連中は、自衛隊の存在は違憲じゃないと言うし、個別的自衛権も違憲じゃないと言う。
つまりは「自分は守るが、他人は助けない」のが「日本国憲法」の精神だということだ。

空軍少佐、じゃなくて3等空佐で退役後、評論家として活躍されている潮匡人さんは、『ウソが栄えりゃ、国が滅びる 間違いだらけの集団的自衛権報道』(KKベストセラーズ/2014年)という本のなかで、朝日新聞やNHKを始めとした護憲派メディアを「人類史上、最も不潔で破廉恥な意見を掲げながら安倍政権を非難している。じつに破廉恥な連中だ」と罵倒されている。実に痛快だ。こんな過疎ブログで時事問題を扱っても意味はないんだが、せっかくなので潮さんの本から集団的自衛権について、おさらいしてみたい。

まず集団的自衛権の定義だが、昭和56年の政府答弁書では「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利」とされているそうな。ポイントは「阻止する権利」で、集団的自衛権には「反撃する権利」などはない。それは国際法違反だし、国連憲章でも「復仇権の留保を認めていない」そうだ。要するに、アメリカと一緒になって反撃する権利、などは悪質なミスリードということだ。

さらに、集団的自衛権の行使によって、アメリカと一緒に戦争させられる(巻き込まれる)もウソだ。

 同夜放送のNHKスペシャル「集団的自衛権 行使容認は何をもたらすのか」でも、集団的自衛権を「反撃する権利」と国際法を無視し、勝手に定義したうえ、アフガン派遣で犠牲を出したドイツの例を挙げ、「犠牲者を生むリスクが高まる」と間接話法で指摘した。
 だが、その例は番組が報じたとおり「国連の枠組みの下」の活動である。つまり集団的自衛権の行使ではなく、集団安全保障のケースである。両者は似て非なる概念であり、水と油の関係とも説明される。


ついでに、自衛官不足が招く徴兵制もウソだ(潮さんのご息女は防衛大の学生さんだ)。
みんなで協力して守れば、軍事力は少なくて済む。

 現に日本以外のすべての国が集団的自衛権を行使できる。限定容認どころか、最初から容認されているが、英米その他、先進国で徴兵制を採る例は少ない。他方、中立政策のため集団的自衛権を行使しないスイスは国民皆兵(徴兵制)である。

最後に、潮さんの本から適当に〆の言葉をお借りすれば、こうか。

 護憲リベラル派は、特定秘密保護法案でも、自衛隊イラク派遣でも、防衛庁の防衛省昇格でも大騒ぎした。自衛隊が初めて国連PKOに参加した際も大騒ぎしたが、彼らの懸念はすべて回避された。イラク派遣も同様である。それどころか、世界中から称賛された。



つづく

ONE PIECE「ビンクスの酒」

ブルックとラブーン
ONE PIECE』には、以前取り上げた劇場版『冬に咲く、奇跡の桜』(2008年)を始めとして、いわゆる「いい話」がやたら多い。人によって好みは別れようが、ぼくは音楽家ブルックとクジラのラブーンのエピソード、「ビンクスの酒」が好きだ。

主人公ルフィーに8人目の仲間として「麦わらの一味」に勧誘されたブルックは、仲間との約束を果たさなければ男が立たない、と言って申し出を断る。それは50年以上前に「双子岬」に残してきたクジラの子、ラブーンとの、再開の約束だった。

ラブーンと別れた後、ブルックが所属する海賊団は全滅したが、「ヨミヨミの実」の能力者のブルックだけは骸骨となって生き残った。ブルックは、団員たち最後の合唱となった「ビンクスの酒」を録音したトーンダイヤルを、ラブーンに聞かせる夢を持っていた。

その話を聞いたルフィーは、旅の途中でラブーンに会ったことをブルックに教える。ラブーンは今も、50年以上昔に交わした約束を信じて、双子岬でブルックたちの帰りを待っていると。ブルックの眼窩から、涙がとめどなく溢れ出る・・・。

前回、前々回の記事に続く、日本人の「自然な」美意識や美徳シリーズ第3弾は、「約束を守る」ことの大切さだ。

世界には国同士で交わした条約を無視して平気な民族もいるが、日本人は日露戦争の借金を80年以上かけてでも完済するような国民だ。約束を守ること、約束を信じることの大切さを描いた作品は、なんぼでも存在する。

・・・が、ここでもまた、例によってそんな日本人の「自然な」美意識・美徳と、全く合わない存在がある。
もちろん(笑)「日本国憲法」がそれだ。

自民党の石橋ゲル、じゃなくて石破茂さんが、20歳若い評論家の宇野常寛さんと対談した本に『こんな日本をつくりたい』(太田出版・2012年)がある。雇用、社会保障、地方行政、安全保障、憲法、歴史など、多岐に渡る分野における石破氏の思想を知る絶好の本だが、まぁ大抵の場合、物わかりの良い(フリをした?)おじさんが、若者の意見をハイハイとにこやかに聞いてる印象の本でもある。

ところが、宇野さんが靖国問題について、「共同追悼施設」をつくるしかない、靖国神社への国会議員や政府関係者の参拝は禁止して、A級戦犯は分祀するしかない、と言ったところ、石破氏は明快に反論する。

うーん。私はそうは思わないな。戦前において、日本国と兵士たちの約束は、「戦争で散華(戦死の婉曲的な表現)した者はすべて靖国神社に祀られる」「天皇陛下が必ずご親拝くださる」という二つの内容でした。昭和天皇は1975年の11月を最後にご親拝されていませんし、今上陛下も同様です。いわゆる「A級戦犯」が合祀されたから、という説が有力ですが、とにかく天皇陛下にご親拝いただくように努めることが政治の仕事だ、と私は思っているのです。


実際には、天皇陛下の靖国ご親拝が途絶えたのは、当時の社会党(現在の民主党+社民党)議員たちが「憲法20条第3項」に違反していると訴えた事件がきっかけだそうだが、その点の詳細は、専門のブログ様へパスしておこう(「正しい歴史認識、国営重視の外交、核武装の実現」)

とにかくここで石破氏が言ってるのは、昔の人たちが交わした約束を、今の人たちの勝手な都合で変えてしまってはいけない、ということだ。例えば青山繁晴さんによると、硫黄島のコンクリートの下には今も成仏できない英霊の魂が存在しているそうで、「靖国で会おう」と交わされた約束は、まだすべてが果たされたわけじゃないのだ。

なのに、その約束を無効だとするのが日本国憲法だ。
と言っても、もちろん「日本国憲法」という憲法典にそう書いてあるわけじゃない。
それの解釈を生業とする憲法学者さまの手で、それの正当性の根拠として、約束は無効にされたのだ。
八月革命説」だ。

1945年8月、日本国は「革命」によって新しく生まれた国家だ。
そう言って憲法学者は、「日本国憲法」が抱える諸問題を乗り越えようとした。その結果、例えば東大法学部においては、日本は戦前と戦後に分断された。

ならば戦前に交わされた約束に効力はない・・・。
と、1978年生まれの宇野さんが考えての発言とは思わないが、「A級戦犯」という単語の前に「いわゆる」をつける石破氏と、何もつけない宇野さんでは、昔の人たちがいまだ果たせぬ約束への思いの軽重を感じざるを得ない。

言うまでもなく、数度の国会決議によって日本にもう「戦犯」は存在しない。民主党の元総理大臣、野田佳彦氏も「『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではない」と国会で発言している。


というわけで、ひとしきり石破氏アゲをしてみたぼくであるが、もちろん、氏への不満もある。
よく指摘される、南京事件についての見解には納得できない。

南京大虐殺と言われる事件にしても、1937年12月時点の南京で日本軍の軍紀が非常に乱れていたこと、東京から監察官のような者まで現地に入ったこと、南京陥落の四日後に南京入りした中支方面軍司令官の松井石根大将が、日本兵による略奪、暴行、強姦事件の報告を受けて「南京攻略に成功し皇威を輝かせたのに、兵の暴行によって一挙に貶められた」と泣いて怒ったことなどを考え合わせれば、規模はともかくとして虐殺があったことは事実を言わざるを得ない。

石破氏はこう言うが、事実誤認がある。
早坂隆さんの『松井石根と南京事件の真実』(文春新書・2011年)によると、松井大将が「涙の訓示」を行ったのは1938年の2月7日、すなわち南京入城から3ヶ月近く後のことだ。
訓示を直接聞いた飯沼参謀長の日記には、要旨としてこう書かれているそうだ。

南京入城の時は誇らしき気持ちにて其翌日の慰霊祭亦其気分なりしも本日は悲しみの気持ちのみなり。其れはこの50日間に幾多の忌まわしき事件を起こし、戦没将士の樹てたる功を半減するに至りたればなり、何を以て、この英霊に見えんやと言うに在り


松井大将が嘆いているのは、50日がたっても「自分が思い描く水準に達しない軍紀」に対してであって、入城当時の話ではない。大将は、南京陥落当時のことは「誇らしき気持ち」だと言ってるじゃないか。他の誰よりも中国人民を愛していたと言われる大将自身が。

石破氏には一度、早坂隆さんから南京事件についてのレクチャーを受けていただきたいと願う。
その一点を除けば、安倍総理に万が一の時は、石破総理で大丈夫なんじゃないかと思える。

つづく

【2017年5/28追記】
石破氏の「自虐史観」は修正不能なレベルであることが分かったので、「石破総理」は御免被る、と訂正します。

『キャプテンハーロック -SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK-』(2013年)

ハーロック
ここまで、日本人が自然に持っている美意識や美徳として、「自己犠牲の精神」「相互扶助の精神」「約束を守ることの尊さ」を描いた作品をみてきたが、今回はその先を示すメッセージを持つアニメを取り上げる。お題は松本零士の代表作、『キャプテンハーロック』だ。

ハーロック映画の旧作は、1982年公開の『わが青春のアルカディア』。
その世界では、地球は「イルミダス」という宇宙人との戦争に敗北して、占領統治を受けていた。イルミダス人は地球人を奴隷扱いにしていて、「この薄汚い黄色のネズミめ」とののしって、「フライドチキン」を投げつけてくる。イルミダス人は言う。

地球人はすぐに新しい環境に順応する。つまり、昨日まで敵だとわめいていた我々に、今日は尻尾を振ってついてくる

地球側の「協力内閣首相」は、イルミダスに協力すれば安全が得られると言って、ハーロックにトカーガ星侵略の先兵になれと命じてくる。ハーロックは地球を脱出し、イルミダスへのレジタンスを開始する・・・。

説明の必要もないと思うが、要するに「地球」=敗戦後の日本で、80年代になってすっかり見えにくくなったアメリカの支配と戦い続けているのがキャプテン・ハーロックということだ。

60〜80年代には同じように「アメリカ」をテーマに含んだ作品がゴロゴロあった。このブログで取り上げたものでいえば、『ジャイアントロボ』『帰ってきたウルトラマン』『マジンガーZ』『機動戦士ガンダム』『戦闘メカ・ザブングル』など。

それが、1982年の『超時空要塞マクロス』あたりから「アメリカ」の影が急速に薄くなっていった原因について、80年代のバブル経済による日本人の自信回復があったとぼくは見ている。この頃は『マクロス』以外にも『ナウシカ』や『うる星やつら』など、少女を主役にした作品が多数ヒットして、男の子向けのウルトラマンなどは1980年の『ウルトラマン80』でいったんシリーズを休止している。

つまり、もう戦後ではないんだと、我々は軍事力なしにアメリカの土地を占領(実際は購入)しているじゃないかと、経済力で戦った第二次日米戦争の勝者はわれわれ日本だと、そんな感覚だろう。

しかし結局は、1988年に押しつけられた「日経平均先物」の売り浴びせを契機に、バブルは崩壊させられた。日本はふたたびアメリカに敗戦し、金融ビッグバンやら規制緩和やらと、経済活動でも様々な支配を受け始めた。

エヴァンゲリオン』が、あたかもアメリカなんて問題外かのように扱って、現実逃避(オカルト)に走った気持ちも良く分かるし、そこから「セカイ系」なんてスーパー内向的な作品群が派生したのも同情できる。

日本はもうダメだ。朝日新聞や日経新聞には、連日のようにそう書いてあるじゃないか・・・。

だから、かつて地球(=日本)を見捨てたキャプテン・ハーロックは、今度は地球を破壊しようとする。

キャプテンハーロック -SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK-』(2013年・東映)の世界では、宇宙に広がった5000億の人類が一斉に地球に帰還しようとして、戦争状態に突入してしまう。人類はその調停役として「ガイア・サンクション」なる統治機構をつくり、地球は「聖地」として封印され、今も青く美しい外観を保っていた。

しかしその姿はウソだった。
美しい地球はホログラム衛星が作り出した虚像で、本当の地球は赤くただれた大地をガスが覆う、みにくい姿をしていた。

その原因を作ったのは、他でもない、われらがキャプテン・ハーロックだった。
ガイア・サンクションから地球の警備を任されたハーロックだったが、一部の支配者層が秘かに地球への居住を始めたことに激怒して反旗を翻すと、「ダークマター物質」で地球を覆い尽くしてしまったのだった。

自分の手で地球を死の星にしてしまったハーロックは、宇宙そのもののリセットを企て、「次元振動弾」なる爆弾を99の惑星にセット、最後の一つを地球に仕掛けるべく「ガイア・サンクション」との最終戦争に突入した。

・・・と、ここまで聞くと、悪役は地球を死の星にしたハーロックじゃないの?
という疑問が沸くが、正解だろう。
主役は、ガイア・サンクションから送り込まれた工作員、ヤマの方だ。

一度は任務どおりにハーロックを捕らえたヤマは、降り立った地上で一輪の花を見つけて衝撃を受ける。
地球は何度だって甦る、人間だって
ヤマはハーロックを解放すると、アルカディア号から全宇宙に同時放送を行い、地球の本当の姿を実況中継する。
真実から逃げずに向き合ってこそ、はじめて俺たちは本当の一歩を踏み出すことができる

真実を全人類にさらされたガイア・サンクションは地球を破壊しようとするが、アルカディア号がそれを阻止する。戦いは終わり、戦闘で眼を傷つけたヤマにハーロックが眼帯を手渡し、ヤマの舵でアルカディア号は宇宙の闇に旅立っていく・・・。



細かいストーリーは映画をみてもらうとして、旧作と新作におけるハーロックの立場は、『日本沈没』の新旧作における山本総理に近いようにぼくは感じる。『日本沈没』旧作で「何もせん方がええ」という極論を完全には否定できなかった山本総理は、新作では災害で落命した。

『わが青春のアルカディア』で地球を見捨てたハーロックは、新作『SPACE PIRATE CAPTAIN HARLOCK』では自らが地球崩壊の原因を作ってしまう。そして最後は、ヤマという若者にキャプテンの座を譲ることになった。

いずれも旧作は否定され、新作で新たなメッセージが発せられているとぼくは思う。
ハーロックの新作で言えば「真実から逃げずに向き合ってこそ、はじめて俺たちは本当の一歩を踏み出すことができる」が、そのメッセージだろう。

脚本は、『亡国のイージス』や『終戦のローレライ』の福井晴敏だ。メッセージが左巻きである可能性はゼロに近い。

いわゆる「サヨク」の反義語としての「保守」が意味するのものは何か。
ぼくはそれを、歴史の事実を知った結果、だと考えている。イデオロギーではないので、「染まったり」「かぶれたり」する性質のものではない。かつ不可逆的だ。

例えば、いわゆる「従軍慰安婦」を軍が強制連行した証拠はない、とか、いわゆる「南京大虐殺」の実在を裏付ける物証はない、とか、東京裁判や日本国憲法制定は国際法違反だ、とか、戦後GHQは「WGIP」で日本人を洗脳した、とか、そういった歴史の事実を知っていって、なおサヨクでいられるのは無理がある。サヨクでいられるのは、事実を知らないか、何らかの事情によって知らない事にしているかだ。

そして、サヨクでいるうちは「本当の一歩を踏み出すこと」はできない。
彼らは日本を(ウソの)過去に縛り付けようとしているのだから当たり前だ。『恐怖新聞』とかに出てくる、海で足にすがりついて溺れさせようとする水死者の霊、サヨクにはああいうイメージしかない。

※参考動画
【筆坂秀世】日本共産党と中韓~左から右へ大転換してわかったこと[桜H27/7/7]

というわけで、1980年前後、もっともラディカルに戦後日本の本質を描いた作品のリメイクが、自らその戦後的な枠組みを全否定したことには、大きな意義があるとぼくは思う。イデオロギーによるのではなく、普通の日本人が自然に持っている美意識や美徳が、次の時代の日本に反映される気運は、確実に芽生えている。


つづく

『二つの憲法』井上ひさし

痛快!憲法学

1945年8月、日本はアメリカに敗れ、占領された。
このインパクトは量り知れないわけで、60年代後半から80年代前半のヒーロー物テレビ番組でも、わずかでも政治色があれば「アメリカ」の影が見え隠れした。

ひとつは「アメリカ」を守ろうとした仮面ライダーマジンガーZなど。もう一つが、「アメリカ」と戦おうとした宇宙戦艦ヤマトキャプテンハーロックザブングルなど。そして1979年の『機動戦士ガンダム』で、前者のアムロと後者のシャアが激突した。

しかしそんな「アメリカ」は、日米経済戦争の激化とともに語られなくなり、二度目の敗戦のあとは意識の外に置かれるようになったことは、『エヴァンゲリオン』の記事で触れた。「年次改革要望書」など、目に見えない再占領が行われたのは、ご存じの通り。

一方、同じ頃、元左翼運動家の宮崎駿が「転向」したことは、『ナウシカ』の記事で触れた。理由にはソビエトの崩壊もあるが、それ以上にユーゴ紛争で「民族主義」が選ばれたことが、宮崎に左翼イデオロギーを見捨てさせる原因となった。ナウシカは人間の手によるユートピア(共産主義)を否定し、「シュワの墓所」を破壊してしまう。

そうして90年代後半からは、特撮やアニメからイデオロギーを感じる作品はほとんどなくなった。一部、『ウルトラマンコスモス』や『ガンダムSEED』なども存在したが、それらは物語が進む中で、初期設定のイデオロギーが人々の自然な感情によって否定されていく過程を描いた、ともいえるものだった。

また、ぼくはここ20年にメジャー配給された国産の戦争映画は全部みたと思うが、そこにもイデオロギーは感じられず、ただあの戦争を個人個人がどう生きたか、が淡々と描かれていたように記憶する(自主制作は除く)。

このカテゴリでは、そんな21世紀の作品群から、日本人が自然に持っている美意識や美徳を描いた特撮やアニメを取り上げた。そして驚くべき事に、それら「日本の心」を真っ向から否定し、対立してくるのが「日本国憲法」であることを紹介した。

それはなぜか?
なぜわが国の最高法規が、ぼくら日本人の心を否定してくるのか?


このカテゴリの〆として、その答えを日本を代表する左翼言論人、井上ひさし氏の発言に探ってみようと思う。テキストは、2011年に岩波書店から発行されたブックレット、『二つの憲法』。1999年8月に行われた講座を収録したものだそうだ。

まず冒頭のあたりから、井上氏はいきなり矛盾した話をする。
「押しつけ憲法論」を否定して、良いものは積極的に取り入れるべきだと言いつつ、井上氏は司馬遼太郎の晩年のエッセイ集に言及する。

 『この国のかたち』という表題は、おそらく「憲法」のことだと思います。司馬さんに伺おうと思いながら機会を失ってしまいましたが、『この国のかたち』は憲法の一番正しい定義だと思います。


この指摘に問題はないだろう。辞書を引けば、constitution には憲法の他に、「構成・組織・構造」「体質・体格」「気質・性質」そして「政体・国体」とある。憲法が「この国のかたち」であることは疑いがない。

ところが井上氏はその後、「日本国憲法」の条文の元となった「パリ不戦条約」などを絶賛し、人類の理想を求める叡智の集合体が「日本国憲法」だと謳い上げるわけだ。

だがこれは、明らかに矛盾する発言だ。
「この国のかたち」とは、要は「日本の現実」のことだろう。日本の歴史や文化、伝統などの上に生きている、普通の日本人の集合体が「この国のかたち」のはずだ。
しかし井上氏は、欧米人が、欧米人の都合に合わせて作った法律の条文をかき集めたものが、「この国のかたち」だと言う。

さらには、欧米が「パリ不戦条約」の成立に尽力したかつての日本の働きぶりを覚えていて、「あの頃の平和維持の熱意をもう一度燃やして欲しい」と願って9条が生まれた、とおっしゃるが、「日本国憲法」制定後も、アメリカもイギリスもフランスも、みーんな次の戦争をしていたのはどう説明されるんだろう。

第一次インドシナ戦争
朝鮮戦争
第二次中東戦争

それと、このブックレットでは真ん中の半分くらいが「明治憲法」の批判に充てられていて、なかにはひどい事実の曲解もあって、うわぁ・・・って感じなんだが、これなんかも凄い。

 このように「大日本帝国憲法」は、立憲君主制といいながらそれは見せかけでした。絶対天皇制だった。それは、条文をたどってみればわかる。ですから、この憲法を持つ限り、満洲事変に始まって敗戦に至る日本の行く先は見えていたのではないか。そういう疑問も湧いてきます。


小室直樹先生の『痛快!憲法学』(集英社・2001年)には、「明治憲法」成立の過程が分かりやすく書いてあるが、それを読むと、上記の井上氏の発言は誹謗中傷にしか思えない。

そもそも憲法は、幕末の不平等条約の改訂のために必要とされたものだ。
日本が資本主義の民主主義国でないと、欧米に相手にされない。それで、国民に資本主義の精神を持たせるため、すなわち労働の自己目的化を促進するために設置されたのが、二宮金次郎の銅像だそうな。

ところがここで問題になったのが、民主主義には欠かせない「平等」の精神。
キリスト教では「神の前の平等」があるが、日本にGODはいない。それで伊藤博文らが考えたのが「天皇の前の平等」で、明治天皇がご先祖に誓う形で、ようやく欧米にも認められる憲法が誕生した。と小室本には書いてある。

だから、条文だけ読めば井上氏が「絶対天皇制」とわめくのも詮無いこと。
しかし憲法典で大切なのは条文ではなく運用のはずで、その観点からすれば「明治憲法」を持つ日本は立派な「立憲君主国」だった。それは、君主に「拒否権」がないこと、つまり天皇陛下が内閣の決定に反対できなかったのが「明治憲法」下の日本だったという事実から分かる。

「満洲事変に始まって敗戦に至る日本の行く先」は、少なくとも天皇とは何の関係もない。「明治憲法」の不備は、その点ではない。

ま、詳しいことはブックレットを読んで(笑って)いただきたいが、井上氏の発言は、あまりにもイデオロギーに満ち満ちているとぼくは思う。欧米は無条件で素晴らしく、戦前の日本は暗黒の社会・・・、まるっきりGHQの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」そのまんまだ。

そしてそんな井上氏が絶賛する「日本国憲法」も、イデオロギーによって生まれた存在だ。欧米人の”理想”の、寄せ書きだ。

伊藤哲夫さんの『明治憲法の真実』(到知出版社・2013年)という本によると、「日本国憲法」の「前文」は、「アメリカ憲法」「リンカーンのゲティスバーグの演説」「マッカーサー元帥が憲法にふくましめようとした三項目」「三国のテヘラン会議宣言」「大西洋憲章」「独立宣言」が典拠となっているそうだ。

「日本国憲法」は、「この国のかたち」ではない。
だからそれは、ぼくらの「現実」と対立する。

つづく


【憲法改正について】
いきなり自主憲法だとか、自民党案だとかは無理があると思うので、とりあえず「前文」と「9条2項」の削除、がぼく個人の意見だ。「9条2項」の削除に強い抵抗があるなら、自衛軍は有するが、侵略戦争と徴兵制は禁止する、と改正すれば共産党も反論しにくいんじゃなかろうか。


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