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竹波エーイチ

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ヤマタイカの旅 − 沖縄編

金城哲夫氏書斎

このブログの管理人、竹波エーイチが「竹」「波」「エーイチ」のおっさん3人の複合人格であることは既に書いた。
そんなぼくらの愛読書に星野之宣さんの『ヤマタイカ』があって、以前からマンガに出てくる史跡を回ってみたいという計画があった。んで昨年11月、ようやく時間の調整がついて、沖縄行きのJALに乗り込むことができたので、その記録を少々・・・。

那覇到着後、まず向かったのがウルトラ者の聖地、「松風苑」だ。言わずと知れた、金城哲夫先生のご実家で、このブログで散々金城金城言っておいて、今さら初訪問とはお恥ずかしい限り。哲夫先生のお兄様に案内していただいて、生前の書斎を見学、お墓ではないが何となく手を合わせた。
食事は「アグーしゃぶしゃぶ」とビールたくさん。

翌日は雨の中、まずは青山繁晴さんのご著書で知った、「白梅の塔」にお参り。
適当に立ち寄ったビーチで沖縄風ファストフード「てんぷら」を立ち食いしたあと、高校生でごった返す「ひめゆりの塔」は冷やかし程度に済ませ、本日のメイン「斎場御嶽(せーふぁうたき)」へ。

三庫理

斎場御嶽は昨今のスピリチュアルブームとやらで、かなり観光地化されていたが、『ヤマタイカ』でみた風景もそのまま残っていた。
一方、マンガだと「三庫理」の下の洞窟にヤマトの舟が隠されていたが、さすがにそんな洞窟はなかった。
とりあえず、東に見える久高島に向かって、何となく手を合わせた。

なお、これから斎場御嶽に行かれる人へのアドバイスとして、現地NPOのガイドさんは絶対に頼んだほうが良いことを付け加えておきたい。沖縄の宗教の知識がないと、ただの山歩きになってしまうからだ。ぼくらに付いてくれたのは年配の女性だったが、沖縄ギャグ炸裂で、爆笑の連続だった。

斎場御嶽の後は、お世話になっている先生に数年ぶりの挨拶に伺った。『ヤマタイカ』第1章「妣の国」冒頭で、「琉球大学理学部、木村正明教授」として名前だけ登場される先生だが、詳細は省く。

続いて向かったのは、久高島行きのフェリーが出る安座間港。
閑散とした港にはなぜか猫がウヨウヨしていて、ぼくらは猫と海を交互にながめながら、ぼんやりとビールを飲んでいた。今に思えば、喧噪もなく会話もないあの時間帯が、ぼくらが最も沖縄にフィットしていた時だったのかも知れない。

久高島へは小さなフェリーで30分ほど。
海上から見る島は、不自然なほど扁平な姿をしていた。
なぜか虹が、水平線近くにだけ見えた。

唯一空いていた「久高島宿泊交流館」に荷物を降ろした頃には日が暮れていて、ぼくらは道に迷いながら漆黒の中を歩き、「食事処とくじん」に入った。疲れが出てきたぼくはイラブー(ウミヘビ)の料理を注文したが、他の二人はヴィジュアル的にアウトだったようだ。ビールをしこたま飲み、帰り道でも小さな商店でオリオン缶を買い込んで宿に戻る。

久高島7時ごろ

朝の5時。
イラブーのおかげで早起きしたぼくは、一人で日の出を見に行った。
生活ゴミがまったくなくて、人が好む美しい貝殻は大量に残されているという不思議な浜に佇んでいると、気がつけば周りには10名ほどの人々・・・。

『ヤマタイカ』の登場人物、熱雷草作は、沖縄の創世神話について、アマミキヨとシネリキヨの二神、あるいはアマミクという女神の名を挙げて、「その神が東方のニライカナイという永遠郷から来て、あそこに見える久高島を経て、この斎場御嶽に上陸した」と説明した。すなわち、久高島から東方の日の出を見るということは、まさにニライカナイに対面することに他ならない。
やがて雲の隙間から日の出の太陽が輝くと、人々は思い思いに散っていったのだった。


朝食後、ぼくらは自転車を借りて島の探索に出かけた。
50才近いおっさん3人のサイクリング・・・。
東京なら通報ものだろう(笑)。

目指したのは斎場御嶽よりも格が高いと言われる、「クボーウタキ」だったが、途中、やはり聖地の一つである「ヤグルガー」に寄った。神女がクボーウタキに行く前に禊に使う、神聖な井戸らしい。海に面した崖に湧き水の名残があった。
聖地に対する畏れから奥まで行かずに去ろうとしたぼくらだったが、入り口で白装束の老婆を含む数人とすれちがった。本物の「ノロ」だ。
ぼくらは、手を合わせつつも写真を一枚頂戴し、早々に立ち去った。

久高島のノロ

『ヤマタイカ』ラストシーンに出てくる「クボーウタキ」は聖地中の聖地で、当然のことながら立ち入り禁止。
結界の外で写真を一枚だけ失礼して帰路につくと、先ほどのノロが乗ったクルマと又すれ違ってしまった。心の中で先回りの失礼を詫びて、宿に戻る。

驚いたのは、交流館の事務員の女性がノロだったことだ。
「あたしもノロですよ。最年少ですけど。たぶん自分で終わりです。もう数人しかいません」
沖縄信仰の伝統さえ守れずに、なにが琉球王国の独立か、と沖縄メディアに腹が立ったが、きっとそれはヨソ者の感傷に過ぎないのだろうよ。

そういえば、久高島に着いたあたりから、持参したiPhoneが二台とも誤動作を始めたのも不思議な出来事だった。バッテリ残量の表示が狂いっぱなしで、代わりに起動させたiPadも挙動が怪しい。Docomoのガラケーには問題が出なかったので、制作国が気にいらなかったのかも知れない。


本島に戻ったぼくらはクルマを北上させて北谷港の「金松」でビフテキを食い、嘉手納の「道の駅」へ。『ヤマタイカ』では復活した戦艦大和による艦砲射撃で壊滅した嘉手納基地だが、その日、展望スペースから見えたのは巨大な輸送機が二機。しばらく眺める。
それから首里城に向かったが、よく考えたら大して興味がないことに気付き、そこはスルー。
クルマを置いて、国際通りの一本裏の通りの料理屋でビールと海鮮料理を頼んだものの、疲れも出てきて早々とホテルに戻った。おっさんは体力がなくていかんな・・・。
最終日は、公設市場で朝からビールを飲みながら「ゆし豆腐」を食べ、みやげを買い、那覇空港でビールと昼食、ANAで羽田へ・・・。


1986〜91年に執筆された『ヤマタイカ』の史観が古臭いのは重々承知している。
今どき縄文人vs弥生人の対立でもないし、騎馬民族征服王朝説(笑)の影響も随所に見られる。それでも、自虐史観が蔓延していたあの時代に、日本民族とは何かという根源的な問いかけが描かれたことには価値があったとぼくは思う。「火の民族による祭り」という日本史解釈にも感心させられた。

だから、あくまで、今では否定されている史観に基づいた「まんが」として、『ヤマタイカ』は今後もぼくらの愛読書であり続けるだろう。そしてぼくらの旅も、熊本へ、阿蘇へ、高千穂へ、宇佐へ、と続く予定なんだが、それがいつになるのかは、自分たちでも分からないのだ。

つづく

ヤマタイカの旅 -九州編その1

阿蘇くまもと空港

邪馬台国の女王、卑弥呼の巨大祭器「オモイカネ」を探すため、久高島を旅立った伊耶輪神子と神女たち。その神子を追う熱雷草作と岳彦の親子が到着したのは、九州は熊本空港だった・・・。ならばマンガ『ヤマタイカ』(星野之信)の舞台をめぐるぼくらの旅も、阿蘇くまもと空港から再開だ。

チブサン古墳

まず神子が向かったのは山鹿市にあるチブサン古墳
おそらく古代史ファンには普通の光景なんだろうが、どこにでもある田舎町の、民家や畑が点在する生活圏のすぐ隣に古墳があって、ぼくら門外漢にとってはビックリだった。

ここで神子が見ていたものは装飾壁画に描かれた人物像で、『ヤマタイカ』ではそれを、三本角の王冠を被って両手を広げている「卑弥呼」だと見なしている。
なお、マンガが連載されていた1986〜91年頃は、古墳の内部に自由に入れたようだが(笑)、現在は管理する山鹿市立博物館に見学の予約をする必要がある(写真は駐車場に設置されたレプリカ)。

阿蘇山

お次は、『ヤマタイカ』ではズバリ卑弥呼の居城があった場所とされ、元々は「オモイカネ」が埋められていた聖域とされる、阿蘇
死ぬまでに一度は見ておきたいと願ってきたが、今回、運良く阿蘇山公園道路が開放されていたので、中岳火口に近づくことができた。次々と立ち上ってくる白煙が、一気に数十メートル舞い上がっていく様子に中国人観光客が大喜びしていたが、そういえば中国には活火山がないんだっけ?(白頭山だけ?)

天安河原宮

宮崎県に移動して、高千穂町の天岩戸神社へ。
『ヤマタイカ』に出てきたのは西本宮に隠された「天岩戸」じゃなくて、道路を下って岩戸川をさかのぼった河原にある「天安河原宮」。アマテラスが岩戸に隠れたとき、思兼神ら天津神の皆さんが対策を相談した場所だそうな。

西都原古墳群

南にクルマを走らせて、西都原古墳群へ。
だだっ広い草っ原に300以上の古墳が並ぶ、日本最大級の古墳群だとか。

一つだけ横穴式石室が開放された珍しい形状の古墳(鬼の窟古墳)があったので入ってみたが、こんだけ目立つのにマンガに出てこないのは、連載当時まだ発掘されてなかったのかも知れない。

神武天皇をお祀りする宮崎神宮に立ち寄った後、『銀河鉄道999』に出てきそうなカッコいい列車で大分へ。別府の温泉旅館で食ったシマアジは格別の味わいであった。

宇佐神宮

そして、宇佐神宮・・・。

『ヤマタイカ』に登場する奈良東大寺の高僧によれば、西の宇佐、東の伊勢は、大和を"火"から鎮護する要として、東西の火山地帯との境界上に造営された二大神宮だという。それは大和を守るための巨大な結界であり、長年に渡って、ある"力"の侵入を防いできた、とも言う。

その"火"、そして"力"とは何か!!


・・・と、それはまぁネタバレになるのでマンガを買って読んでいただきたいが、読む際にはひとつ注意が必要な点がある。SFとしては不朽の名作である『ヤマタイカ』だが、日本の古代についての歴史観が古すぎるのだ。昭和末期から平成初期に書かれたんだから当たり前で、『宗像教授シリーズ』など読めば、星野氏がいつでも最新の情報をマンガに活かしているのは明らかだ。

んでは、『ヤマタイカ』の歴史観がどう古いかと言えば、まず「縄文と弥生の対立」があげられる。
BC300年頃、北九州に「スマートな弥生式土器と本格的な稲作文化」をもった「渡来人」が押し寄せて、原住民である縄文人を圧倒。渡来人の力で日本は弥生時代に発展し、あわれ縄文人は、蝦夷やら熊襲やら琉球やらへと押しやられてしまった・・・てな話。

それと「邪馬台国東遷説」。
AD250年頃、邪馬台国の女王・卑弥呼が亡くなると、「渡来系の実力者」がクーデターを起こして実権を奪う。彼こそが後の神武天皇であり、神武率いるニュー邪馬台国が東遷して大和に樹立した政権が、のちの大和朝廷だ・・・てな話。

これらがどう古いのかと言えば、まず前者だと、弥生時代はBC300年頃とかではなく、紀元前10世紀後半に始まったというのが最新情報らしい。2019年3月に出た『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(関裕二/PHP新書)によれば、炭素14年代法によって弥生時代の始まりが紀元前10世紀後半の可能性が高くなり、その結果

「北部九州に渡来人が稲作をもたらし、一気に日本列島を稲作文化が席巻した」というかつての常識は通用しなくなった。


とある。また、最新のDNA研究の結果として、「かつて信じられていたような大人数の移住の可能性は低く、少人数が何回かに分かれてやってきた」という科学者の推理を紹介しつつ、こう結論づけてある。

弥生時代や古墳時代は、かつて盛んに推理されていたような「渡来系の一方的な制圧、侵略」「渡来人が先住民を駆逐した」のではなく、大陸や半島を追われた人たちが、染み込むように日本列島に拡散し、定住し、先住民と融合し、稲作をはじめ、人口爆発を起こしていたと考えられる。


要は、100年200年でわーっと変わったと思われていたものは、実は1000年かけてゆっくり変わっていたことだった、縄文と弥生には対立なんかは存在せず、長い長い年月をかけて溶け合っていったのだ、というのが2019年の考え方。

それでは後者の「東遷説」はどうか。
こちらの否定のされ方は、時間が引き延ばされたとかいう次元の話ではなく、全くの逆転の衝撃だ。

2019年5月に出た『日本の誕生 皇室と日本人のルーツ』(長浜浩明/WAC)によれば、卑弥呼の後継者どころか、神武天皇は卑弥呼より300年も前を生きた人なんだそうだ。長浜さんの説をとれば、神武天皇と卑弥呼の間にはなんの縁もゆかりもなく、ヤマト王権と邪馬台国もまったくの無関係ということだ。

長くなったので、詳しくはつづく

映画『まぼろしの邪馬台国』(2008年・東映) -九州編その2

まぼろしの邪馬台国

まぼろしの邪馬台国』は2008年公開の日本映画。
主演の吉永小百合が、あっち方面のシンパだということで拒否反応を起こす人もいるかも知れないが、盲目の郷土史家・宮崎康平を演じた竹中直人の怪演はいいし、堤幸彦監督ならではのVFXもいいし、吉野ヶ里遺跡で撮影したと思われる弥生時代の再現シーンもいい。見て損はないと思う。

さて、それでは長浜本の話題に移ろうかと思ったが、本題に入る前に整理しておかないといけないことが、一点ある。
邪馬台国の位置についてだ。

すでに見たように、「東遷説」に基づくマンガ『ヤマタイカ』では、それは阿蘇だとされたし、映画『まぼろしの邪馬台国』で宮崎康平が出した結論は、長崎県の島原だった。
ぼくなんかも、ごく自然に邪馬台国は九州のどっかにあったんだろう、と感じていたが、専門家の間ではそうではなく、邪馬台国は大和(奈良県)にあったという説が主流なんだとか。

その根拠をざっくりwikipediaから引用すると「畿内には最大級の都市遺跡がある。魏に朝貢した邪馬台国はその当時の日本列島最大勢力であったはず」という仮定、に基づいているそうだ(『邪馬台国畿内説』)。

ううむ、漫画家や郷土史家が九州説で、専門の学者が大和説じゃ、やっぱり大和説が正しいのかなぁ・・・とあっさり考え直したくなるが、ここにお一人、興味深いキャリアの専門家がいる。長年の大和説を死の間際に否定して九州説に転じられた、門脇禎二先生だ。

門脇先生は京大卒業後、京都学派として長年大和説を支持され、京都府立大学の学長まで務められた立派な先生だ。その先生が、病床で執筆し、絶筆に終わった「九州説」が『邪馬台国と地域王国』(吉川弘文館/2008年)だ。

この本のなかで門脇先生は、大和説をとることが「不安になった」と率直に述べられている。そして全ての始まりだった『倭人伝』の読み込みへと戻られていったのだった。

ぼくは門外漢なのでザックリとした話になるが、『魏志倭人伝』には、邪馬台国の位置を示すものとして、距離・面積・方角があるらしい。

まずは距離だが、その起点となるのは、当時の魏の、朝鮮半島最南端である帯方郡で、これは今のソウルあたりと岩波文庫版には書いてある。んで、当時の朝鮮半島の状況は『魏志韓伝』によればこうだ。

※なお、以下の『魏志韓伝』『魏志倭人伝』の訳は、こちらのサイトから引用させて頂いた。
古代史レポート

韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。


どうやらソウルから南が「韓」で、朝鮮半島南部で「倭」と境界を接しているらしい。
んでその接している「倭」については、『倭人伝』の方では「狗邪韓国」だと書いてあり、帯方郡から「狗邪韓国」までは7000余里なんだと。

そこからいよいよ海を渡って「対海国」まで1000里、南にまた1000里行って「一大国」、また1000里いって「末盧国」、ここからは陸行で、東南に500里で「伊都国」、東南100里で「奴国」、東に100里で「不弥国」と、ここまでは「里」で具体的な距離が書いてあって、そして最終的に、帯方郡から邪馬台国までは1万2000余里だとも書いてある。

簡単な引き算で、総距離12000から道中の10700を引けば残りは1300前後。
伊都国だとか奴国だとかが九州北部のどこかであることは大和説でも認めているわけで、邪馬台国は佐賀県、福岡県、熊本県のどこかだと考えるのが素直だろう。

次に面積だが、『魏志韓伝』によれば「韓」の面積は「四千里四方」とあって、今の韓国から「狗邪韓国」を切り取ったサイズが一周4000里。一方、邪馬台国を含む「倭」の面積は『魏志倭人伝』では「五千余里」で、九州全体に対馬を合わせれば「韓」の20%増しでザックリ計算が合うと思う(少なくとも中国地方や近畿地方は含まれないだろう)。

最後は方角だが、『倭人伝』には「その道里を計るに、まさに会稽東冶の東に在るべし」とあって、正確な地図もない時代のこと、「倭」は中原から海を渡った東方だとザックリ言ってるのだと、ぼくは思う。もしも女王国が九州でなく近畿地方にあったのなら、こういう書き方は意味を成さないのではないか。


というわけで、素直に『魏志倭人伝』を読めば、邪馬台国は九州のどこかでしかあり得ないように思えるが、一カ所、厄介な記述がある。「不弥国」までは「里」で表してきた距離が、そこから先はなぜか南へ「水行二十日」、南へ「水行十日、陸行一月」と旅程で表記され、ではその通りに、と移動すれば、邪馬台国はとんでもなく南の洋上に存在することになってしまうことだ。

それで学者が考えたのが、きっと南と東を間違えたのだろう。南じゃなくて東なら、だいたい近畿地方になるじゃないか。めでたしめでたし。

・・・ということらしいが、それってホントに学問なのか?(笑)
 
吉野ヶ里遺跡
(本文とは関係ありません)

考えるヒントは二つあるようで、まず『魏志倭人伝』と同時代に書かれた文献『広志』には、邪馬台国は伊都国の南にある、とシンプルに書いてあること。
もう一つは、時代を下った『隋書倭国伝』に「夷人(倭人)は里数を知らない。ただ日を以って計算している」という記述があること。

『魏志倭人伝』によれば、この時代の邪馬台国は、伊都国に代官を置いて、交易や外交を行っていたらしい。つまり、魏の使者が実際に知っているのは伊都国周辺までで、それより南は倭人からの伝聞情報でしかないってことだ。

倭人に聞いたら「水行二十日」だとか「水行十日、陸行一月」だとか答えたよ、というのが謎の旅程の正体で、実際には『広志』にあるように伊都国の割とすぐ南に邪馬台国はある、と言われた方がぼくにはスッキリした説明だと思えるんだが。

ちなみに『魏志』のあとに書かれた『後漢書』『宋書』『隋書』からは、水行なん日〜陸行なん日のくだりはカットされているな。


ところで『魏志倭人伝』によると、いわゆる「倭国大乱」と言われる時代があって「倭国は乱れ、相攻伐すること歴年」だったらしい。そこで「卑弥呼」という巫女を共同の王に立てることで、「倭」は平和を取り戻した、とある。
そしてそのせいか、卑弥呼の「宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している」とあって、つまりは邪馬台国はかつての大乱の地の上に、立つ国だと言えそうだ。

それでは『倭人伝』で倭人が用いたとされる武器、「鉄鏃」(てつぞく)が多く出土している地域はどこだろう。

それは、2016年発行の『古代史15の新説』(別冊宝島)に収められた安本美典さんの記事によれば、1位は福岡県で398個、2位は熊本県で339個、3位は大分県で241個、となっている。
素直に考えれば、これらの地域こそが「倭国大乱」の舞台で、邪馬台国もその中にあったはずだ!、となると思う。

ちなみに奈良県は、たったの4個だってさ・・・。

さて、そろそろ飽きてきたので、邪馬台国の位置の話題は終わりにしよう。
次回は長浜本に戻って、いかにして長浜さんが神武天皇の即位年を割り出したか、を紹介したい。


【6/12追記】
「水行」について、納得いく説明を読んだので追記しておく。

弥生時代を拓いた安曇族』(亀山勝/龍鳳書房)というブックレットによると、「水行」という表現は『三国志』65巻中「倭人伝」に出てくる3箇所しかなく、130巻の『史記』にも3箇所しか出てこない珍しい言葉で、かつ『越絶書』には「越人は山だって水行する」という文もあるらしい。

つまり「渡海」と「水行」は明確に分けて使われている言葉で、内陸部の河川を利用した場合のみ「水行」と表現されるそうだ。さらに具体的には「川を主に使い舟に乗っては陸地に上がりと繰り返し旅の状態」という「名詞的」なもので、現代で言う「航行」とは異なるとも。

古代史ファンには常識なのかも知れないが、なるほど〜と思ったので。

つづく

『日本の誕生』長浜浩明 -九州編その3

iPad Pro 2018

長浜浩明さんの最新刊『日本の誕生 皇室と日本人のルーツ』(WAC)によると、神武天皇が生きたのは、邪馬台国の卑弥呼の時代より300年ほど前の時代だという。仮に2019年から300年前といえば、徳川吉宗が暴れん坊将軍として活躍していた時代なわけで、300年はそれほどに長い。

まず先に神武天皇の「東征」があって、その300年ほど後に邪馬台国に卑弥呼がいた・・・。
これは従来の日本古代史、さらには日本建国史を根底から覆すような話で、真実であるなら教科書の書き換えが必要なレベルだ。

長浜さんは東京工業大学のご出身で、卒業後は大手の設計事務所に入社されたそうだ。
おそらく、そんなキャリアだからこそ気がつけたのが、『日本書紀』の神武東征のくだりが、「大阪平野の発達史」のある年代と奇妙な一致を見せるという事実だ。

戦後の復興期、大阪でも多くの高層建物が建設され、戦後数十年に亘り隈なく掘られた地盤の調査資料から、大阪の地下構造と形成過程が明らかになっていったのです。


その大阪平野の発達過程は7つに区分され、一番古いものは2万年前の「古大阪平野時代」、その後、河内「湾」の時代、河内「潟」の時代を経て、現在は河内「湖Ⅱ」の時代らしい。そしてそれら7枚の古地図を並べてみたとき、長浜さんは気がついたわけだ。
一枚の地図だけに、『日本書紀』で神武天皇が大阪湾に進軍した時の状況が、そのまま表されていると。

それは「河内潟の時代」、紀元前1050〜前50年の大阪の古地図だった。
この期間に限れば、あの『日本書紀』の描写は歴史的事実に基づいた記録だ、と考えることができるわけだ。

長浜さんの探求は、続いて文献に向かう。
裴松之は南朝・宋の時代の歴史家で、『三国志』では取り上げられなかった資料を元に「裴松之の注」なる補足を行った人物。
そこには三国時代の倭人の風習として、次のような記述があるそうな。

「其俗 不知正歳四時 但記春耕秋収 為年紀」

(倭人は歳の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている)


要は、「倭人は一年を二年に数えていた」と当時の中国人が記録していたわけだ。
そしてその明らかな終わりは、「暦博士」という官職が『日本書紀』に表れる欽明天皇の時代、西暦で539〜571年の在位期間の前まであたりか、というのが長浜さんの推理だ。

ならば、欽明天皇以前の天皇の年齢は、およそ半分に計算すればいい。
そうして導かれた神武天皇の即位は、前70年。これはまさに「河内潟」の時代に相当する・・・。

もちろん、ご著書では細かい分析がなされているわけだが、ぼくの記事は、古代史に全く関心のない東京某所の雑誌編集者に向けて書いているので、こんなもんで十分だろう。

八紘一宇
(本文とは関係ありません)

実は、神武天皇は卑弥呼より前の時代の人間なのでは? と考えさせる本は長浜本だけはない。

産経新聞出版から2016年に出た本に『神武天皇はたしかに存在した 神話と伝承を訪ねて』がある。副題の通り、神武天皇の足跡を実際に回って、神社や遺跡などに残された土地土地の伝承を丹念に集めていった、凄い本だ。

何より面白いのが、神武天皇が「東征」と言いながら、『古事記』によれば、岡田宮(北九州市八幡西区)で1年、阿岐国(広島県)には7年も逗留しているノンビリ旅の理由を、各地に稲作や鉄器、灌漑といった最新技術を広めながら味方に加えていったのでは…という考察をしつつも、当然のごとくに予想される読者からの反応に躊躇って、はっきりとは言い切れない歯がゆさを感じるところだ。

つまり、もしも神武東征が卑弥呼の没後、3世紀末とかに行われたのだとしたら、稲作も鉄器もありふれた、どこにでもある技術に過ぎないじゃん?
という反応に、どう答えたらいいのか。

だが長浜本なら説明可能だ。
卑弥呼より300年も早い時代に、神武天皇は「東征」した。
その時代であれば、レベルの高い稲作や鉄器は、どこへ行っても諸手を挙げて歓迎されたことだろう。


邪馬台国の卑弥呼と、ヤマトとの関係を端的に表している記述が、『日本書紀』にもある。
神功皇后六十六年」だ。

晋の国の天子の言行などを記した超居注に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。(『日本書紀(上)全現代語訳』宇治谷孟/講談社学術文庫)


武帝(司馬炎)二年は西暦266年なので、邪馬台国の時代にへの朝貢があったことが、中国側の記録に残っていることが分かる。
ところが『日本書紀』には、次の「六十九年」に「皇太后が稚桜宮に崩御された」とあって、素直に読めば「倭の女王」と「皇太后」が同一人物とは扱われていないことが分かる。

つまりは、『日本書紀』を編集したヤマトのエリート官僚から見て、邪馬台国の女王なんぞは「倭の女王」扱いで十分な、他人事で無関係な世界の住人に過ぎない、ってことだろう。・・・てか、ぼくが編集者なら、隠蔽というか、無かったことにしたい記述だな、これ(笑)。

春秋年だと神功皇后の年代が100年ほど早くなるため、たまたま我らがヤマトの「皇太后」陛下と、九州の野蛮な「倭の女王」が同じ時代に生きたことになってしまっているが、「倭の女王」ごときが神功皇后であったり、ましてや皇祖アマテラスだなんて、『日本書紀』からは到底感じられないと、ぼくは思う。

それを裏付けるように、『旧唐書』(東夷伝倭国日本国条)には、次のような記述がある。

日本国は、倭国のなかの別種である。その国が日の出る辺りにあるので、そのために日本を国の名とする。
あるいは、倭国が自分でその名が雅でないことを知って嫌がり、あらためて日本としたともいう。また、日本はもともと小国だったが、倭国の地を併呑したともいう。(『現代語訳 魏志倭人伝』松尾光/新人物文庫)


さて、こうして見てくると、「倭」というのは3世紀の九州に存在した、単なる地方王権のように思えてくる。ただ、「倭」だけが中国に朝貢していたので、中国の記録の中に残された、と。
そういえば『魏志倭人伝』にも、「倭」の東には「倭種」の国がある、と書いてあったな。

・・・というわけで次回は、『魏志倭人伝』に描かれた時代より「昔」の日本列島の状況について、ザックリ見てみたいと思う。

つづく

映画『日本誕生』(東宝・1959年) -九州編その4

草薙剣

映画『日本誕生』から、東国の平定を命じられたヤマトタケルが、伊勢神宮でおばの倭姫(やまとひめ)から草薙剣を受け取るシーン。『古事記』によれば、景行天皇の即位40年、ということなので、長浜さんの計算だと西暦310年頃ということになるだろう。

東征の前にタケルは熊襲(九州南部)も征討しているが、それは西暦304年頃のことで、邪馬台国の卑弥呼が没してから50年ほど後の話。その頃にはすでに宇佐に九州最古と言われる前方後円墳(赤塚古墳)が出来ているし、宮崎県でも大規模な生目古墳群が確認されていて、ヤマトの勢力がすでに九州を東から飲み込もうとしてることが分かる。

ううむ・・・なるほどヤマトタケルの西征・東征は、ぼくらが知る「日本」が、まさに「誕生」しようとしてる場面なんだな〜とか考えながら観ると、くっそ長いこの映画も感慨深いものがある。制作が田中友幸、音楽が伊福部昭、特技監督が円谷英二…とくれば、もう一つの『ゴジラ』なのでは?という見方もできるし、ヤマタノオロチと戦うスサノオはウルトラマンのモデルか?とか、まぁヒマでヒマで死にそうだという人にはお勧めできる映画だ。


それでは本題に。
前回の記事では、「倭」というのは邪馬台国を盟主とした九州諸国の連合に過ぎず、女王卑弥呼が没したAD248年より300年ほど早いBC70年頃には、すでに神武天皇がヤマトの地で即位していた・・・という長浜浩明さんの説を紹介した。

そもそも「倭」と「邪馬台国」が有名なのは、それらが中国の歴史書に記録されたからだ。
だがその記録、『魏志倭人伝』によれば中国人は「伊都国」までしか実際には知らず、その先は倭人からの伝聞によるものだったらしい。
それじゃ記録されなかったことは何から分かるかと言えば、日本各地に残された古代遺跡の発掘からだ。

ということで古い遺跡から順番に見ていくことで、弥生時代中期以降の「日本」について把握したいと思うが、素人が泥縄式に書いていくことなので、年代等はザックリした話だとあらかじめご了承ください(笑)。
また、いちいち引用するのも面倒なので、詳細はウィキペディアへのリンクを踏んで下さい。
参考書として、『日本の古代遺跡』(別冊宝島)から一部を引用してます。

熊本城
(本文とは関係ありません)

んでは、まず古そうなのが、大阪の池上曽根遺跡(和泉市・泉大津市)。
BC400年頃には人が住み着いていたらしいが、BC50年頃には、弥生時代最大級の「高床式堀立柱建造物」を有するまでに発展したとか。100年以上後の時代の吉野ヶ里遺跡より、進んだ技術も散見できるとか。       

鳥取県の青谷上寺地遺跡はBC200年頃から人が住んだところ。
北近畿、吉備地方の土器や、ヒスイやサヌカイトまで出土して、他地域との積極的な交流が認められるそうな。年代は定かでないが、中国の貨幣や鉄製品も大量に出土。

BC100〜AD100にかけて栄えたのが荒神谷遺跡(島根県出雲市)。
昭和58年からの発掘で、それまで日本全土で出土した銅剣300本を一気に上回る358本が出土。
異なる文化圏に属すると思われてきた銅剣・銅鐸・銅矛が一カ所から揃って出土して、近畿と北九州の中間地帯に青銅器の生産と保有の拠点が確認され、神話の国・出雲のイメージを覆した。

同じ頃、丹後の日吉ヶ丘遺跡(京都府与謝野町)からは大量の管玉が出土。AD100年頃には、日本最大最古の水晶工房をもつ奈具岡遺跡(京丹後市)もあり、「丹後王国」の存在を主張する専門家もいる。

そしてBC200年頃から発展した奈良県の唐古・鍵遺跡(磯城郡)からは、屋根に中国風の飾りをつけた楼閣が描かれた土器が出土して、この地域が近畿地方のリーダー的存在だったと目されているとか。長浜本によるなら、神武天皇が即位したのはこの時代にあたるか。

AD100年前後には、滋賀県にも唐古・鍵クラスの巨大環濠集落、伊勢遺跡(守山市)が登場。
ところがこの遺跡は、100年ほどで衰退したそうな。そしてそれを引き継ぐようなタイミングで現れたのが、纏向遺跡だ。

ヤマト建国は三輪山麓の扇状地・纏向遺跡(奈良県桜井市)で始まった。三世紀初頭、それまでなにもなかった場所に、巨大人口都市が出現したのだ。各地から土器が集まり、前方後円墳が誕生し、この独自の埋葬文化を各地の首長が受け入れ、造営した。

纏向遺跡の特徴は、いくつもある。
まず第一に、農耕の痕跡がなく、政治と宗教に特化されていたこと。第二に、倭国大乱のあと、戦争を収拾する時期に出現したのに、なぜか防御のための施設が見当たらない(※『倭人伝』での卑弥呼の居城と一致しない)。

纏向の特徴の第三は、各地から土器が集まってきていたことだ。外来系の土器は、全体の三割弱を占める。内訳は、東海四十九%、…(中略)…無視できないのは、この時代最も栄えていた九州北部の土器がほとんど出土していないことなのだ。「北部九州の邪馬台国が東に移動してヤマトは建国された」という考えは、もはや通用しないのである。

(『縄文の新常識を知れば日本の謎が解ける』関裕二/PHP新書/2019年より引用)


『日本書紀』で纏向を都としたとされる天皇は、11代垂仁(241年即位)、12代景行(290年即位)だから、時期的にもドンピシャだ。素直に考えれば、九州の邪馬台国で卑弥呼が鬼道や祈祷に励んでいた頃、すでにヤマトでは皇室を中心とした一大勢力が確立されていた、と結論が出るように、ぼくには思える。

そして、ヤマトの周りには、もともと吉備や丹波、出雲といった「地方王権」があって、200年ほどの時間をかけて、徐々にヤマトに同化していったのだろう。

『日本書紀』によれば、10代崇神天皇は(216年に)「四道将軍」を派遣して、全国の教化をはかったそうな。行き先は北陸道(越)、東海道(尾張)、西道(吉備)、山陰道(丹波)。

例えばその時代の吉備には、全長72mにもなる双方中円墳「楯築墳丘墓」があって、ヤマト(前方後円墳)とは異なる文化の巨大勢力が存在していたのは確かなようだ。

血も流されたのだろう。以前に紹介した安本美典さんの記事によれば、弥生時代の鉄鏃は、九州を除けば、京都府(丹後)、岡山(吉備)、兵庫(丹波)、広島(安芸)、山口(出雲?)から多く出土している。繰り返すが、奈良はごく僅か・・・。

もう一度整理すると、AD216年に崇神天皇が「四道将軍」を派遣して近畿周辺を平定、241年垂仁天皇が纏向に皇居を置き、248年(九州で)卑弥呼没、304年ヤマトタケル九州平定、310年ヤマトタケル東国平定・・・という流れだ(『日本書紀』では九州平定は景行天皇による事績)。

というわけで、マンガ『ヤマタイカ』の歴史観のうち、卑弥呼の没後、邪馬台国を乗っ取った男王がヤマトに東遷した、という設定の無理矢理ぶりについては、十分に検証できたと思う。

だが実は、もう一つの問題の方が、このブログ的には縁が深い。
次回は、「渡来人」という自虐史観、を検討したい。

つづく

『火の鳥・黎明編』の自虐史観 -九州編その5

神武天皇?

80年代後半に描かれた『ヤマタイカ』の歴史観も古かったが、1967年の『火の鳥・黎明編』はもっと古い。というか、ほぼデタラメ(笑)。しかしぼくら世代の人間だと、いまだにその世界観を持ったままという人もいるはずだ。

学者の説によれば 西暦三世紀から五世紀にかけて 北中国やモンゴルあたりを 馬に乗って駆けまわっていた部族・・・・騎馬民族・・・・が ぞくぞくと朝鮮半島をとおって日本列島に侵略してきたという
そして もとから 日本に住んでいた原住民たちを つぎつぎに征服して のちの神武天皇のヤマト政府を 築いたのだとしている
神話に出てくるニニギノミコトは 天からタカチホの山にくだった神の子ということになっているが ほんとは 大陸からわたってきた 遊牧部族の首領のようなものだったというのである

 
手塚が「学者の説」というのは、江上波夫の『騎馬民族征服王朝説』。
今では学説というより、SFファンタジーとかライトノベル、学研『ムー』的オカルト、詩集?などに分類されているタワゴトだが、1967年当時はまだ纏向遺跡さえ本格的な発掘が行われておらず、皇国史観を否定したい手塚が飛びついたのも無理はない時代ではあった。

だがもしも、こんな問題のある歴史観の古典マンガを今頃になって引っ張り出し、若い世代に拡散、洗脳を狙ってる組織があるとしたら、死ね死ね団並に悪辣な連中だろう。GHQはとっくに解散したはずだが、今なおWGIPを実行してる部隊があるのかも知れない("火の鳥 朝日新聞"で検索を)。


ところで『火の鳥・黎明編』の歴史観は極端だとしても、日本古代史には岩盤と化した自虐史観が残っている。縄文時代を未開で野蛮な原始人の社会と見て、そこに朝鮮半島経由で「渡来人」が大量になだれ込み、稲作や製鉄の先進技術を使って弥生時代を始めた・・・というアレだ。ぼくら日本人は渡来人の末裔か、あるいは渡来人に文明化してもらった劣等な縄文人の末裔か、どっちか好きな方を選べと。

もちろんそれは、カビの生えた古くさい歴史観だ。
というか、「国民一人あたり何百万円の借金」みたいな、質の悪いプロパガンダだ。

最新情報では、縄文時代は野蛮でも未開でもない社会だと分かっているし、稲作は紀元前10世紀後半には始まっていたことが確認されていて、縄文と弥生は1000年の時間をかけて、ゆっくりと変化して、混じり合っていったとされている。言うまでもなくプレイヤーはどっちも同じ過去の日本人で、縄文と弥生は対立項ではない。ガラケーを使い続けるのか、スマホに買い換えるのか、程度の話だ。

それは、日本語が中国語や朝鮮語とは全く異なるので、日本の支配層が日本人以外だった時代は考えにくいことからも明らかだ。

さらに、「日本語」はいったいどこからもたらされたのか、はっきりとわかっていない。似ている言語が、周辺になく、孤立しているからだ。言語の血縁関係の判定法「規則的音声対応」を用いても、琉球語だけが、日本語とつながるだけだった。(『縄文の新常識を知れば日本の謎が解ける』関裕二/PHP新書)


また、よく言われる「縄文顔」「弥生顔」といった外見的な特徴も、科学的な話ではないらしい。
京都大学名誉教授の片山一道先生によると、弥生人の特徴とされる「面長で平板な顔、低い鼻、細い顎、高い身長」などは、山口県の土井ヶ浜遺跡の人骨には当てはまるが、西九州の弥生人は縄文人とほぼ同じだし、関東の弥生人には「渡来人的な特徴は見当たりません」とのこと。

古墳時代になると、弥生時代後半以降の生活と社会の劇的な変化に対応するように、縄文人とも弥生人とも身体特徴が異なる、のちの日本人に直接つながる古墳時代人が登場することは示唆に富む現象です。(『骨からわかる日本人の起源』別冊宝島)


USA
(本文とは関係ありません)

また、これまで鉄の精錬を日本人が可能にしたのは6世紀後半以降で、それまでは朝鮮半島から素材を輸入して農具や武器を作っていたと思われてきたが、2013年にカラカミ遺跡(長崎県壱岐市)から地上炉が複数見つかって、そのスタート時期は1世紀にまでさかのぼった、という説もある。

また、朝鮮側の記録である『三国史記・倭人伝』を読むと、弥生時代後期から古墳時代には、年がら年中「倭」が新羅の国境を侵したり、城を囲んだりする事件が多数記録されているが、なぜ「倭」がそれほどまでに強かったかには、こんな説もある。

鉄鉱石の産地は朝鮮半島だったが、日本列島ではそれを用いて「鍛造品」を作っていたのだ。同じ頃、朝鮮半島では強度の劣る「鋳鉄品」が作られていた時代にである。(『日朝古代史 嘘の起源』別冊宝島)


また、『魏志』の「韓伝」には「國出鐵韓濊倭皆従取之」、すなわち「倭」が「辰韓」に鉄を取りに来ていたという記述があって、邪馬台国の時代には「倭人」は原材料の鉄鉱石さえあればOKという状況だったようだ。ちなみに、ここでいう「倭人」は、現在の韓国の「全羅南道」「慶尚南道」あたりに当たる「狗邪韓国」の人々を指すようだ。

また、国際的脳科学者として知られる中田力さんは、日本の水田で作られている温帯ジャポニカ米の遺伝子が朝鮮半島のイネからは見つからないことを根拠に、以下の結論に至っている。

佐藤洋一郎氏によって明らかにされた、このRM-1b遺伝子を持つ温帯ジャポニカの分布は、日本に弥生をもたらした水田稲作が、韓半島を経由せず、直接、揚子江河口付近から伝わった技術であることを証明している。(『古代史15の新説』別冊宝島)


また、縄文晩期から弥生時代中期にかけては、日本の縄文土器が朝鮮半島南部から多数、発見されているが、反対はどうかと言えばこうだ。

北部九州沿岸部に朝鮮半島の土器がもたらされるようになったのは、弥生時代前期後半ごろだ、しかもその規模はわずかで、先住の民の集落の片隅に渡来系の人びとが、肩を寄せ合って暮らしていたイメージだ。そして、その後、集落の人びとと融合し、同化していったのである。(『縄文の新常識を知れば日本の謎が解ける』関裕二/PHP新書)


また、ヤマト王権の象徴とされる前方後円墳は3世紀後半には大和に現れ、その後全国に拡大、5世紀頃には鹿児島県の大隅半島に達したが(塚崎古墳群)、朝鮮半島南部にも5世紀後半ごろから築造されているとか(=ヤマトの勢力範囲に含まれたとか)。

南洲神社から桜島
(本文とは関係ありません)

・・・とまぁ、そんなこんなで、「縄文」と「弥生」は対立項ではないし、半島から先進文化が一方的に流れ込んだわけでもないことは、十分な根拠のある話だということだ。半島は必ずしも「上流」ではなく、日本が必ずしも「下流」ではない。

たとえば、半島側の正史である『三国史記・倭人伝』には、初期の新羅の指導者が「倭」と極めて関係が深かったことが書いてある。日本が「上流」のケースだ。

瓠公は、その族姓が詳らかではない。もとは倭人であって、はじめは瓠を腰につけて、海を渡って来たのである。だから瓠公といった。

脱解は、もとは多婆那の生まれであった。その国は、倭国の東北一千里にあった。(岩波文庫)


すでに見たように「倭」は九州北部を指すので、「多婆那」は出雲から丹後にかけてのエリアだと思われる。そこから来た脱解は新羅の第4代の王で、瓠公はその重臣。いずれも「倭人」。瓠公については「新羅の3王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物である」(wikipedia)とも。

「倭」と新羅の力関係を端的に表す、「于老」という新羅の将軍のエピソードも興味深い。

新羅本紀によれば、249年、于老は倭の使節を接待する酒席で、「いずれ倭王は塩汲み奴隷に、妃は飯炊き女になるだろう」という冗談を言った。この冗談を伝え聞いた倭王は激怒し、出兵する。これに対して于老は幼い息子を連れて倭の陣営に赴き、「すべては自分の責任です」と謝罪した。しかし、倭王はこれを許さず、于老を火炙りの刑に処して殺してしまう。(『日朝古代史 嘘の起源』別冊宝島)


このときの「男王」とは、『魏志倭人伝』で卑弥呼と壱与の間にいた人物のこと。当時の邪馬台国と新羅の、国力の差は明らかだ。ちなみにこの事件のスピード感、距離感からも、邪馬台国が半島から遠く離れた大和にあったとは、ぼくには感じられない。

そういえば『日本書紀』には不思議なエピソードが載っていて、高天原を追放されたスサノオは、息子の五十猛神を連れて、最初は「新羅の国」に降臨したとか。ところがスサノオは「この地には私は居たくないのだ」と不平を言って、船に乗って出雲に渡ったらしい。
また、五十猛神は天降る際に「たくさんの樹の種」を持参していたが、「韓地」には植えないで、日本中に蒔いて全てを「青山」にしたそうだ(「」内は講談社学術文庫より)。

『隋書』倭国伝にはこんな記述もある。

新羅・百済は、みな倭を大国で珍物が多い国とし、ともにこれを敬仰し、つねに通使・往来する。(岩波文庫)

 
さて、以前の記事でちょこっと参照したが、半島から「渡来人」がやってきたとされる時代のことは、幸いにも中国人が『魏志東夷伝』に記録していてくれていた。
次回はその中の「韓伝」と「倭人伝」の比較から、当時の両者の実態を探ってみたい。



【5/29追記】
数少ない読者様から「DNAを忘れてるぞ」という指摘があったので、追記する。

げのむ

名古屋大学の山口敏充先生は、アジア16地域から32人ずつの遺伝マーカーを構造解析した結果、「アジアは日本、モンゴル、朝鮮、そして大陸に分けられる」と結論している(『DNAでわかった日本人のルーツ』別冊宝島/2016年)。かつ「遺伝的特徴を判別式で表現した場合、日本人の97%が日本人らしい」そうだ。

100個ほどのマイクロサテライト(ゲノム上に、同じ配列が繰り返す反復配列には、反復数の差違がひんぱんに確認されます。数塩基の繰り返しをマイクロサテライトと呼び、遺伝的系統の目印となります)をマーカーとして調べた結果で、それぞれが地域によって特徴的な結果を示していることが、ここから確認できます。

グラフを見ると、"日本人グループ"の中でも、沖縄が"中国人・朝鮮グループ"から最も遠く、長崎が近い、ってのがイメージ通りで面白い。

2019年4月5日の「産経WEST」の記事、「鳥取の出土人骨をDNA解析 日本人は複雑なハイブリッド?」も興味深い。
19年前に発掘された、鳥取市の青谷上寺地遺跡の弥生人のDNA解析の結果、母系をたどれるミトコンドリアDNAはほとんどが「渡来系」だったのに対して、父系のY染色体の塩基配列データは、4体中3体が「縄文系」だと判明したとか。

意味するものは、(母系がバラバラで縄文系が少なかった理由は定かでないが)2世紀の鳥取近辺の支配者層が、縄文系だった、ってことだろう。女だけさらって来たのか? あるいは、半島(狗邪韓国)の「倭人」が「渡来」してきた結果なのか? 知らんけど。

※ミトコンドリアDNAの解析からは、父系=支配層の分析はできないらしいですよ、念のため。

つづく

映画『ドラえもん のび太の日本誕生』 -九州編その6

ツチダマ

同年代と話をしていると、時折、縄文人を「原始人」だと思ってる人がいることに気がつく。自然に出来た岩穴に住んで、狩猟採集のその日暮らし、石斧かついでウホウホ言って、動物と人間の中間ぐらいのイメージか。
しかし実際には、三内丸山遺跡で見られるように、大集落に定住し、高床式倉庫や巨大な竪穴式住居を建造し、農作物や樹木を育て、他の集落と交易し、海を渡って朝鮮半島まで出かけていたのが縄文人だ。いわゆるギャートルズ的な原始人ではない。

それではて・・・と考えて思い当たったのが、1989年のアニメ『ドラえもん のび太の日本誕生』だ。ここにはイメージ通りの原始人が出てきて、ウホウホ言っては迷信に惑わされたり、より強い部族に奴隷にされたりしていた。が、劇中では彼らは7万年前の中国の人々だとされ、7万年前といえば縄文時代より5万年以上昔の旧石器時代だし、一説によれば人類がアフリカを旅立ったのが7万年前とも言われて、それがどうして縄文時代に重なるかと言えば・・・土偶型ロボットのせいだろうな。

紀元前1000〜前400の縄文時代に作られた遮光器土偶が出てくるせいで、7万年前の原始人の姿が、縄文人の姿として記憶された・・・。あり得る話かとも思ったが、1989年だと20才を超えてるわけで、さすがに『ドラえもん』なんか観てないか、もう(笑)。


くだらない前置きはこのくらいにして、本題に入ろう。
先進的な「渡来人」が最新の文明を携えて、朝鮮半島から大挙として日本列島に渡ってきたと言われる弥生時代の、朝鮮半島側の実態を『魏志韓伝』から探る作業だ。

まずはおさらいで、当時の「韓」の地理について(なお、訳は全て『古代史レポート』様のサイトより引用)。

韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。


帯方郡が今のソウルあたりらしいので、それより南が「韓」で、半島南部で倭人の「狗邪韓国」と接していたようだ。「狗邪韓国」はのちに加羅とか任那とか言われた地域を指すらしい。
それで、後の「百済」に当たる韓の西側が「馬韓」という国で、『韓伝』にはこうある。

その風俗は、規律が少なく、国邑(首都的集落)に統治者がいるとはいっても、村落は入り混じり、うまく制御することができない。跪いて拝む礼はない。


要は、国としての体を成していない、のが当時の馬韓だったようだ。
続いて、後の「新羅」に当たる韓の東側だが、二つの集団が混在していたらしく、まず「辰韓」。

その言語は馬韓と同じではない。
男女は(民族的に)倭に近く、また、入れ墨している。歩いて戦い兵器は馬韓と同じである。その風俗では、道を行く者が出会ったとき、みな立ち止まって道を譲る。


言葉が馬韓と違う上に、中国人から見ると「倭人」に近い・・・て、それってもしかして、倭人の国なんじゃないの?
という疑問は置いておいて、三番目の「弁韓」について。

弁辰は辰韓と雑居する。城郭がある。衣服や住居は辰韓と同じで、言語や法俗も似ている。
その(弁辰の)瀆盧国は倭と界を接している。十二国には王がいる。その人はみな大柄である。衣服は清潔で、長髪。また廣幅の細かい布を作る。法俗は特に厳しい。


弁韓は、倭人と似ていると言われる辰韓に似ていて、ここにだけ「倭」と同じように「王」がいるらしい。言うまでもなく、弁韓人は馬韓人とは言葉が通じない(済州島らしき話題もあり、そこも馬韓とは言葉が違うとある)。

・・・んー? この「韓」っての、「国」と考えることができるんだろうか。
言葉もバラバラ、風俗・習俗もバラバラ、政体もバラバラで、果たして当時の「韓」が「倭」に先進の文化を伝えられるほど、立派な存在なのか、はなはだ疑問だ。

人口だって、「韓」の三カ国全部で15万余戸だと中国人は数えているが、「倭」は対馬から邪馬台国までの道程だけで同じく15万余戸で、それが「倭」のうちの九州北部のごく一部であることは、中国人がちゃんと記していることだ(さらには『倭』だって、九州の一地方王権に過ぎないわけで)。

前回も引用した『隋書』倭国伝の一節が、頭に浮かんできてしまうなぁ(笑)。

新羅・百済は、みな倭を大国で珍物が多い国とし、ともにこれを敬仰し、つねに通使・往来する。(岩波文庫)



田原坂
(本文とは関係ありません)

ところで当時の中国人は、「倭」がよほど自分たちと違って見えたのか、『韓伝』の何倍ものスペースを使って記録を残している。そこから、「倭人」を描いた部分を書き出してみよう。

その風俗はみだらではない。

その会合での立ち居振る舞いに、父子や男女の区別はない。

その習俗では、国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ場合がある。婦人は貞節で嫉妬しない。窃盗せず、訴えごとも少ない。その法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその一家や一族を没する。尊卑にはそれぞれ差や序列があり、上の者に臣服して保たれている。

下層階級の者が貴人に道路で出逢ったときは、後ずさりして(道路脇の)草に入る。言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付け、うやうやしさを表現する。


真っ先に浮かんだ感想は、これって今の日本人と同じ印象があるなぁ、ってことだ。3.11東日本大震災の時や、最近の日本旅行ブームで外国人たちが語る、息苦しさはあるが、秩序があり、公平感があり、礼節のある社会(フェミニストがキーキー言いそうな箇所もあるがw)。

日本人は、まだ「倭人」だった頃から、そういう社会を自然と作ってきたのかも知れない。
そういえば、ヤマト王権の象徴とされる前方後円墳には、次のような説明もある。

前方後円墳は、その墳形を大和や瀬戸内地方の墳墓から、墳丘側面に葺き石を貼る風習を山陰・出雲から、埴輪を立てるアイデアを吉備から、竪穴式石室にタテに割いた竹を合わせたような割竹型木棺を納める埋葬法を九州から……といったように、さまざまな地方から葬制・墓制が持ち寄られてできている。(『古代史の謎』洋泉社MOOK)


それは天皇家の権威を世に示すものではなく、ヤマトという連合が、連合であること自体を示すものだった。全ては大和に集まり、大和から拡がっていったのだった。

・・・なんて、そんな話をしていると何だかデッカい前方後円墳とかが見たくなってくるな。

というわけで、次の「ヤマタイカの旅」は、ヤマト最大のライバルか、あるいは最大の協力者だったか、よくわからない「出雲」から、マンガでは前半のクライマックスとなった「伊勢」「大和」と回ってきたいんだが、メンバーが揃うのは果たしていつになることやら・・・。

つづく

ヤマタイカの旅 - 出雲編その1

鹿島神宮と香取神宮

漫画『ヤマタイカ』で、邪馬台国の巨大祭器「オモイカネ」を追う神子らが、宇佐神宮の次に向かった先は、出雲だった・・・。

出雲と言えば出雲大社
出雲大社といえば、まだぼくがサラリーマンだった1993年に読んだ『逆説の日本史』(井沢元彦/小学館)の衝撃を思い出す。
いじめられて泣いていたウサギを助けた、やさしい神だと思っていた大黒さまは、実は「国譲りの際に殺害され、古代人はオオクニヌシの怨霊を恐れ、その怨霊を封じ込めるために出雲大社を建てた」(wiki)という、恐ろしい祟り神だという主張には、ぶったまげた。

その主張にはいくつもの裏付けとなる証拠が挙げられていて、古代史に興味があったわけではないぼくなどは、完全に信じ込んだもんだった。
特に、参拝者にオオクニヌシを拝ませないために、「神座」が横を向いている…という記述などは、国を奪ったとされるヤマト側の底知れぬ悪意が感じられて、陰鬱な気分になるほどだった。

ところが、今回はじめての出雲行きの計画を立てて、いろいろと情報をネットで検索してみたところ、井沢氏のオオクニヌシ怨霊説を否定するような記事をいくつも見かけることになった。
出雲大社は怨霊の神社?」は、出雲大社紫野教会の神主さんが書かれた記事だが、そこにはオオクニヌシ以外にも神座が横を向いている神社の存在が挙げられていて、何とそれは「国譲り神話」で、まさにオオクニヌシから国を奪った張本人、タケミカヅチを祀る鹿島神宮なんだそうだ。

『日本書紀』によれば、高天原から下界に使わされたタケミカヅチとフツヌシは、オオクニヌシから葦原中国を交渉(脅迫?)によって譲り受け、天孫降臨のお膳立てをしたヤマトの大英雄だ。偉大な軍神として、それぞれ鹿島神宮と香取神宮に祀られている。

そのタケミカヅチの神座が横向き、って、・・・確かに何か変だ。
これは出雲より先に見ておく必要があるな、と思い、さっそく湾岸線から東関道を片道2時間かけて、東国三社の見物に行ってきた。


ちなみに、鹿島神宮と香取神宮って、古代史とか神社とかに興味がないと縁がない話だが、実はすごくエライらしい。

まず、戦後になって神社本庁が選んだ、(例外もあるが)エライ神社の353社「別表神社」には当然入っている。
それから明治時代に制定されたエライ神社17社の「勅祭社」にも、もちろん選ばれている。
元日に天皇が行う「四方拝」という儀式があるが、拝礼される僅か8つのエライ神社のうちの2つが鹿島神宮・香取神宮だ。
さらには平安時代に制定された『延喜式神名帳』のなかで「神宮」の名乗りが許されている超エライ神社は、伊勢神宮と鹿島神宮・香取神宮の3社だけ・・・。

それ以外にも「常陸国鹿島郡・下総国香取郡が神郡、すなわち郡全体を神領とすると定められていた」とか、「伊勢・近畿を除く地方の神社において、定期的な勅使派遣は両神宮のほかは宇佐神宮(6年に1度)にしかなく」(wiki)など、そのエラさは半端でない。

で、そんなエライ神社に祀られている高天原の大功臣の、神座が横向き・・・って、もちろんタケミカヅチが怨霊に満ちた祟り神であるわけはないので、井沢説の"オオクニヌシは怨霊だから拝ませない"の根拠が崩れてしまっているのは、残念ながら明白だ。

図

上の写真は鹿島神宮の案内図で、楼門をくぐると参道の右手に北向きに拝殿があることが分かる(通り過ぎてしまう人が多発するとか)。そして配置図で、本殿内部で神座が東向きであることが分かる(海に向かっている点では、オオクニヌシと同じだとか)。


では何ゆえタケミカヅチの神座が横向きなのか。
1968年に発行された『鹿島神宮』(学生社/2000年改訂)は、昭和43年当時、鹿島神宮の宮司だった東実(とうみのる)氏が著した本だが、そこには理由として、そこが元々は「住居」だったからと書いてある。

つまりもっとも古い神社建築は、住居に源を発して、切妻造りの妻入りで、しかも心の太柱を回るようにして奥の間に入るかたちであり、したがって神座から一ばん遠いところの角に入り口が作られているということである。

大和民族が、天孫降臨後に農耕文化を身につけて、倉庫型式から発展させた唯一神明造り(伊勢の神宮の社殿形式)を完成させたのはまだこれより後の時代のことである。こうした点からも、鹿島に最初に営まれた武甕槌神の住居は、天日隅宮(出雲大社の原型)の作法以外では営まれないという結論が出てくるのである。(『鹿島神宮』)


一般人には聞き慣れない単語が多くて困るが、おそらく伊勢神宮の誕生とともに日本の神社のスタイルは決まっていったが、それより古い時代は神の住居そのものを再現してお祀りした、って感じだろうか。

で、となるとタケミカヅチさんは元はこの地方に住む人間で、死んだのちに神として祀られた・・・ってことになるが、東実氏は実際にそう考えられていたようだ。
『日本書紀』には、岐神(息栖神社の祭神)の案内で葦原中国を平定して回ったタケミカヅチとフツヌシは、最後に「天」(現在の日立市あたり)でブイブイ言わせていた星の神・カガセオを征伐したのち、天に「登る」・・・とある。んで、この「天」ってのは当時の常陸を指しているらしく、「登る」は常陸に残ったという意味だと、東実氏は解説されている。

一応、wikiからその顛末を引用すると、こう。

一説によれば「二神は、ついに邪神や草木・石の類を誅伐し、皆すでに平定した。唯一従わぬ者は、星の神・カガセオのみとなった。そこで倭文神・タケハヅチを派遣し、服従させた。そして、二神は天に登っていかれた。倭文神、これをシトリガミと読む」(巻第二 神代下 第九段本文)

ある書によれば、天津神はフツヌシとタケミカヅチを派遣し、葦原中国を平定させた。
その時、二神は「天に悪い神がいます。名をアマツミカボシ、またの名をアメノカガセオといいます。どうか、まずこの神を誅伐し、その後に降って葦原中国を治めさせていただきたい」と言った。(巻第二 神代下 第九段一書(二)


というわけで、葦原中国を平定して天孫降臨のお膳立てを成し遂げたタケミカヅチさんは「そうして、鹿島を本源とし、香取を本源とする経津主神(※フツヌシ)と力を合わせて東国の開拓と鎮撫に当たられた」と、買ってきた『新鹿島神宮誌』(鹿島神宮社務所)には書いてある。
面白いのは、この本に掲載されているタケミカヅチ一族の系譜だ。

『神宮誌』には、タケミカヅチのご子息の武治速見命から10代あとの「狭山彦命」までの系譜が列挙されているんだが、これが鹿島神宮に伝えられるもう一つの系譜、「鹿島大宮司家」の系譜と不思議な関わり方をする。

鹿島大宮司家の祖はアメノコヤネという神で、あの中臣氏(のちに一部は藤原氏)の祖神として、春日大社とか枚岡神社とかに祀られている神。
そのアメノコヤネから7代あとに「中臣神聞勝命」という人物がいて、崇神天皇の御代に「武甕槌神の神示を解して、大量の弊物をささげ、そのまま鹿島に神主としてつかえ中臣祠官の基礎をきずいた」と、『鹿島神宮』には書いてある。

ところが不思議なことに、この中臣神聞勝命の4代あとにも「狭山彦命」の名前があって、鹿島神宮では両者を同一人物と見なしているらしいのだ。
『新鹿島神宮誌』では、ここに「神系」と「中臣系」が一致して、「神系を含む鹿島中臣氏となった」のだーと称賛しているが、それでは狭山彦のY染色体は一体全体どうなってるんだろう? 
てか、このことが意味しているものは何なんだろ?

・・・とにかく!こうしてタケミカヅチの一族と鹿島中臣氏は合体した。
そうなると気になってくるのが、大化の改新で有名な中臣鎌足も、この鹿島中臣氏と何か関係があるのか、ないのか、だ。

藤原氏の氏神を祀る神社として建てられた春日大社は、祖神のはずのアメノコヤネは第三殿に置いて、第一殿にはタケミカヅチ、第二殿にはフツヌシを祀っているとか。

中臣鎌足は公式には「大和国高市郡藤原」出身のシティーボーイということになっているが、『大鏡』には鹿島出身のかっぺ(失礼!)だと書いてあるそうな。鹿島神宮の近所には、鎌足の生家跡だと主張する鎌足神社なるものもある。
また、乙巳の変を成功させて大出世を遂げた数年後には鹿島に神郡を設置したり、常陸に鎌足の封戸があったりと、何らかの縁はありそうだが、残念ながら詳細は不明らしい。

だがこの話、鎌足が鹿島出身だとすると、がぜん面白くなってくる話だとぼくは思う。
が、それは次回ということで。

息栖神社とタケミカヅチ像

上の写真は、三社目にお詣りした息栖神社。鹿島・香取の威圧感から解放されて、ほっと一息つけるので、やはり最後にまわるのがオススメかと。隣は大なまずを踏ん付けるタケミカヅチの像(鹿島神宮)。

つづく


『竹取物語』(1987年・東宝) - 出雲編その2

かぐや姫

竹取物語』は1987年の東宝映画。監督は市川崑。

久々に観返したが、本来は娘を持つ親なら誰でも感情移入できる話なのに、かぐや姫の童女時代をバケモノに描きすぎて、肝心の「親心」に今イチ共感できなかった。三船敏郎と若尾文子の演技には問題があるはずもなく、惜しい・・・。って、前回観たときは若い求婚者の目線でみてたのに、今では親の目線かい!(笑)。CGのない時代としては、奈良時代の都のセットとか、お迎えのUFOの特撮は最高レベルだと思う。

ところで映画では3人だったが、原作だとかぐや姫に求婚する若い貴族は5人。
うち3番目にフラれた車持皇子は藤原不比等、5番目にフラれた石上中納言はモロに石上(物部)麻呂がモデルだとか。

二人は実際の政界でもライバルで、官位では左大臣に上り詰めた麻呂が上だったが、平城京遷都の際、旧都(藤原京)の留守番を命じられてしまったとか。これを不比等の陰謀だとする説を、どこかで読んだ記憶もあるが、その話はまだ先だ。


というわけで、不比等の父ちゃん、中臣鎌足の話題に戻る。
鎌足が鹿島出身のかっぺ(失礼!)だと、どう話が面白くなるのか、だ。

そもそも、この中臣鎌足という人物は謎に満ちている。違和感は、小学生の時に学研の子供向け歴史読本で、初めてその名を知ったときから続いている。何しろ唐突に歴史の大舞台に登場するや、あっという間に人臣の頂点を極めてしまう。そのパワーの源泉は一体どこにあったのか。教科書には書いてなかったように思う。

では、と『日本書紀』を順を追って読んでみる。
まず鎌足は、中臣家の家業である「神祇伯」に任命されるが、これを辞退した・・・として初登場する。
んで何をやってたかというと、蘇我氏を打倒する際の「みこし」となれる皇族を探していたと書いてある。「つぎつぎと王家の人に接触して、企てを成し遂げうる明主を求めた」(講談社学術文庫)。

つまりは、乙巳の変の発案者&リーダーは鎌足で、中大兄皇子(天智天皇)は「探された」「誘われた」立場の人なんだね。
でも「神祇伯」なんて神主の偉くなった役職で、ケンカに強いとは考えにくい。しかも相手は時の大権力者の蘇我氏だ。鎌足に誘われた中大兄皇子の勝算は、一体どこにあったのだろう。

蘇我入鹿の暗殺シーンは有名なので省く。

その後の中大兄皇子は法興寺に立てこもり、蘇我蝦夷に味方して軍を集結させていた漢直(あやのあたい)の寝返り工作を行う。その使者は、数年前、蘇我入鹿に命令されて山背大兄王を襲った巨勢徳多。巨勢は中大兄に「天地開闢以来、君臣の区別が始めからある」とか言わされてるが、聖徳太子の息子を襲った口で言うだけに、説得力はゼロだな(笑)。

続いて、同じく蘇我氏の配下にあった高向臣国押は漢直に、「蘇我蝦夷は今日明日にも殺され、われらも入鹿の罪で殺されるのに、誰のために戦うのか」と説いて武装解除して、兵は離散した。こうして中大兄皇子は勝利したのだった・・・と『日本書紀』には書いてあるわけだが、違和感ありありだな(笑)。

読んでの通りで、中大兄皇子は戦わず、ただ籠城しているだけだ。なのに、同じく皇族である山背大兄王を平気で襲撃できた軍勢が、およそ説得力があるとは思えない言葉にあっさり離散してしまった・・・。丸っきり、ありえない話だ。

しかし、中大兄皇子の「勝算」とは、この一連の流れを予測できたことにあったのではないか、と仮定したらどうだろう。もちろん、実際に流れを動かしているのは鎌足だが。

借り物

上の図は縄文時代と弥生時代の人口分布を表したもの。
ネットで拾ってきたものなんで、ホントに小山修三教授が作ったものか保証はないが、他の図でもだいたい同じ傾向を示していたのでOKとしよう。見ての通り、どの時期でも関東地方は人口が多く、早くから開けた地域だったことが確認できる。

そしてそれは、続く古墳時代でも同じだった。

かつて、古墳文化は畿内中心の視点で語られることが一般的であり、東国の古墳はほとんど話題にならなかった。そのため、「総国(ふさのくに)」が前方後円墳の数では全国最多の地域であることは、あまり知られていない。その出現も三世紀代にさかのぼるとされ、古墳時代の初期から有力な豪族が存在したことを示している。(『古代史の謎』/歴史REAL/2015年)


古墳時代の常総には、ヤマト王権の象徴とも言われる前方後円墳がひしめいていた。
そうであればこそ、あのヤマトタケルのエゾ征伐で、「総国」が素通りされた理由も分かるというものだ。そこはヤマトの勢力圏であり、タケルにとっては安全地帯だったのだろう。

ここで興味深いのが、「総国」には尾張の尾張氏や上野の上毛野氏のような有力な古代豪族がおらず、中小の豪族が割拠している状態だったことだ。彼らをまとめていた力とは何だったのか。
一つの仮説として、信仰というものも挙げられるだろう。かつて邪馬台国が北部九州の30カ国を、信仰の力でまとめたようにだ。

最近のウィキペディアの充実ぶりは素晴らしく、地味な本で面白いネタを見つけても、大概の場合はwikiに記載されていたりするもんだ。10年前は「ノンマルトの使者」あたりだと独立した項目がなくて、仕方なく「ウルトラセブン」にリンクを貼ったりしたが、今ではすっかり使える百科事典になっていると思う。

で、そのwikiの「中臣鎌足」には、乙巳の変を成功させた後の鎌足について、次のような記述がある。

この功績から、内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。


ええっ、何だこりゃ。違和感ありすぎだぞ。なんで一介の神主が、いきなり軍事のトップになれるんだよ。

だがwikiに書いてあることは間違ってないのだろう。『日本書紀』にはその晩年、病気の見舞いに訪れた天智天皇に、鎌足が謝罪するシーンがある。
曰く「ただ一つ私の葬儀は簡素にして頂きたい。生きては軍国のためにお役に立てず(百済救援の失敗をさすか)、死にあたってどうして御厄介をかけることができましょうか」(講談社学術文庫)。

wikiにはその解説として、「これは白村江の戦いにおける軍事的・外交的敗北の責任を痛感していたものと考えられている」とある。鎌足には、軍事で貢献する「責任」があった、てことだ。それって神職の考えることではないな。

ところでこの時代の日本軍は「国造軍と呼ばれる地方豪族がおのおの編成した私兵というべきもの」の集合体だったようだ(『敗者の日本史2』歴史REAL)。それで白村江では、全体の統制が取れなくて破れたそうな。

それじゃ鎌足にも、その「私兵」があったとしたらどうだろう。

それは「総国」の精強な兵士たちで、中臣家が祀る鹿島信仰の力で、鉄の団結で結ばれていたとしたら・・・。
そして鎌足はあの時、中大兄皇子に、その兵力の提供を約束したのだとしたら・・・。
蘇我派の軍勢を離散させ、エミシを絶望の自殺に追い込んだのも、その兵力の存在だったとしたら・・・。

天智天皇は白村江での敗戦後、鎌足の生前か没後かははっきりしないが、鹿島神宮の社殿造営を行ったという。wikiには「新政による朝廷の東国経営強化」が背景にあると書いてあるが、もっと簡単に、乙巳の変でのお礼・・・ぐらいな方が、ぼくにはピンとくる。

のちに天下を掌握したとき、藤原氏が建てた春日大社の第一殿には、祖神であるはずのアメノコヤネという祭祀の神ではなく、高天原最強の軍神タケミカヅチが祀られた。それは藤原氏の誕生が、中臣氏家業の祭祀の力ではなく、東国の軍事力によるものだったことを主張してるのだとしたらどうだろう。

それはもちろん、天皇のおわす平城京を、見えない武力で威圧するためだ。


・・・なーんてことを、首都高湾岸線を走らせながら考えた。もちろん、すべては鎌足が鹿島出身(当時は都会!)だったらの話で、ただの素人の空想だ。

ただ、その気になれば歴史の捏造がいくらでも可能な立場で、天皇家と肩を並べるストーリーを作れる神さまは他にもいるのはずなのに、藤原氏には何か軍神タケミカヅチへの強い執着があったように思えて、屁理屈をこねてみた次第だ。

・・・そういえば、前の記事では『延喜式』の「三神宮」についてちょっと触れたが、「三軍神」というものもあるらしい。平安後期の『梁塵秘抄』では、それは「関より東の軍神(いくさがみ)、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているそうだ。

諏訪の神といえば、タケミナカタ
『古事記』では、出雲での「国譲り」を拒んだタケミナカタは、タケミカヅチとの力比べに破れて敗走し、諏訪の地で命乞いをして幽閉された神だ。
んんー何か弱っちいが、それなのに三軍神なん? 武田信玄が拝んでるのって、負けて逃げてきた神様なん?

こりゃ、諏訪に行ってみるしかねーか。

つづく

稲毛神社と憲法改正 -出雲編その3

稲毛神社

割と近いところにも、タケミカヅチを祀る大きな神社があると聞いて、行ってみた。川崎市役所から歩いて数分、第一京浜ぞいに鎮座する稲毛神社だ。
川崎市内では唯一の別表神社ということで、市街地にあって小ぶりながら、重厚な雰囲気を醸し出している。

社伝には興味深いことがいろいろと書いてある。
いわく稲毛神社は、第12代景行天皇の御代には「武甕槌宮」として存在していたらしい。長浜浩明さんの計算だと、景行天皇の在位は西暦290〜320年にあたる(参考記事)。邪馬台国の卑弥呼が死んだのが248年と言われているので、かなり古くからある神社だということになる。

そしてそれから200年以上たって、第29代欽明天皇が東国の動乱への対策として、新たにフツヌシ、ククリヒメ、イザナギ、イザナミを配祠したそうな。「以降長らく勅願所とされた」とも。

興味深い点はふたつだ。

まず、元々はタケミカヅチが単独で祀られていたところに、後からフツヌシが加わるパターンといえば藤原氏の春日大社が有名だが、この二大軍神を合体させてパワーアップを図る手法には、古い先例があったという点だ。春日大社の成り立ちを考える際に、念頭に置くべき点だと思う(この点はまたいずれ)。

ククリヒメの配祠も興味深い点だ。
黄泉の国からの出口で口論するイザナギとイザナミの夫婦にククリヒメが「何か」を言うと、イザナギはそれを「褒めて」帰って行ったと『日本書紀』の「一書(第十)」にある。

wikiによれば「この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている」そうだが、稲毛神社の社伝を見る限り、「縁結び」というより「和解」の神という印象がぼくにはある。欽明天皇は、東国の動乱に「和戦両様」の構えで臨んだのだろう。

いずれにしても全国2700社以上の白山神社で、人々は「縁結び」や「和解」といった願いを託し、ククリヒメを祀ってきたのだろう・・・と素直に考えればいいものを、中には妙なことを考える人もいる。1992年に発行された『神道の本』(学研)によると、ククリヒメは「古代朝鮮起源の山神」なんだってさ(笑)。

「白山信仰は朝鮮半島から日本に持ち込まれ、日本のシャーマニズムと融合していった可能性が非常に高い」そうで、「日本と古代朝鮮の大変なつながりの深さを示すものとして、改めて注目されるのである」んだと。

もちろん、それから30年近くたつが、そんなヘンテコな説は誰にも注目されてないようですよ。
まぁ1992年と言えば、朝日新聞が仕掛けた「慰安婦問題」がヒートアップしていて、日本人の自虐史観がピークにあった時期ではあるが、それにしても古代史がらみの本って朝鮮コンプレックスが強すぎて、ウンザリさせられるケースが多過ぎる。

これはぼくが嫌韓だから(笑)言うのではなく、第三者である中国人が書いた『魏志韓伝』によれば、弥生時代の朝鮮半島は「倭」より劣る文化レベルだったわけで、どの時代でも無条件で朝鮮半島が上流のように言うことは、ただの知的怠慢、思い込みだとぼくには思える。

二ッ目厄除守

上の写真左は稲毛神社で買ったお守りで、なんと春に見に行ったチブサン古墳(山鹿市)の壁画がモチーフになっている。強烈な目力で厄を祓うそうな。右は川崎市民のソウルフード(?)、ニュータンタンメンの並盛りに、きくらげトッピング。稲毛神社からクルマで5分ほどの京町店にて。


さて、そうやって合体軍神と和解の姫神を祀っていた稲毛神社に転機が訪れたのが、平安末期。
この地を領有した河崎基家という武士が勧請してきたのが「山王権現」なる神さまだ。この神さまが実にややこしい。

wikiによると「山王権現とは、日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合して成立した、延暦寺の鎮守神である」とのことで、大学受験程度の日本史の素養しかないぼくなどは、何を意味してるのかも、何が有り難いのかも、さっぱり分からない体たらくだ。

おそらく、その実態は複雑すぎて、矛盾も随所にあるのだろう。
だが肝心なのは、川崎(河崎)の人たちが、山王権現という複雑なものを複雑なまま受け入れてきたという現実だ。

その現実は、ぼくには何とも日本人らしい姿に思える。
周辺環境の変化に対応すべく、日本の国防や安全保障は日々複雑化してるのに、肝心の憲法9条はほったらかし。山王権現なんて、訳の分からない神さまを拝み続けてきた河崎村の住民と、今も何も変わらない。

あ、これ日本人批判をしてるわけではないので。
白洲次郎ならプリンシプルがない!と怒るのかも知れないが、ぼくは平安時代も令和の今も、日本人は日本人だなぁと感心してるだけだ。
以前の記事で、『魏志倭人伝』に描かれた1800年前の「倭人」が、ぼくら日本人といたって似た精神を持っていることに触れてみたが、稲毛神社の社伝からも、それは同じように知ることができる。それは「この国のかたち」の根底をなすものだ。

そして「この国のかたち」とは、「憲法」のことを指す。

これはぼくが適当に言い出したことではなく、護憲派の作家として有名な井上ひさし氏が、リベラルの帝王・司馬遼太郎の著作『この国のかたち』(1986〜1996年/文藝春秋)について言及した一説による。

『この国のかたち』という表題は、おそらく「憲法」のことだと思います。司馬さんに伺おうと思いながら機会を失ってしまいましたが、『この国のかたち』は憲法の一番正しい定義だと思います。(『二つの憲法』2011年/岩波書店)

井上ひさし氏の指摘は間違ってない。ネット上の辞書によれば、英語のconstitutionには「構成、組織、構造、体質、体格、気質、性質、憲法、政体、国体」(weblio)などの訳があげられている。要するに何かの「かたち」を表しているわけだ。

ならば「憲法」とは、ウチの国はこういう国ですよ、という自己紹介文のようなものだろう。古代史で言えば、朝廷の役人の心得や理想を列挙した『十七条憲法』よりも、中国向けに本格的な漢文で日本史を綴った『日本書紀』の方が、「憲法」の意味するものに近いと見る。

しかし、そんな自己紹介文に「うそ」が記載され、現実の日本の姿とかけ離れていたとしたらどうだろう。かつて明治政府は、江戸幕府が結んだ不平等条約を改正するために、必死になって研究して、近代国家として欧米に引けを取らない明治憲法を作成した。憲法は、国の表看板であり、縦書きの名刺だ。でもそこに「うそ」が書いてあったら・・・。

「この国のかたち」は、誰かエライ人が決めるようなもんではないし、ましてや共産主義にかぶれたアメリカ人が決めることでもない。この時代を生きる日本人が選んできた現実こそが、「この国のかたち」だ。政治の仕事はその「現実」を読み取って、汲み上げて、そのつど憲法典の記述を修正していくことだ。
とぼくは思う。

・・・が、人間、初めてのことは中々踏ん切りがつかないもの。間違った修正や追加をしてしまう恐怖も、確実に存在する。ならば、なくてもいいものを削除することから始めてみれば良いのではなかろうか。70年もの太古の昔、当時の国際情勢に合わせて書かれた「前文」、いくらなんでも古文書すぎるだろ。

まずはこれを捨てるかどうかの国民投票を実行するのが、憲法改正の初心者にはお手軽な気がする。もちろん削除のあとは、「悠久の歴史がどうしたこうした」みたいなポエムは必要ないので、空白でいい。それか、ドイツの『ボン基本法』みたいなシンプルなやつがいい。

諏訪大社のプラモデル

上の写真は「諏訪大社(下社秋宮)」のプラモデル。城や寺はぼくらが小学生だった頃から売られていたが、神社まであったとは・・・。オタク道、おそるべし。


参議院選挙の開票番組を見ながら書いていたので、変な展開の記事になったが、要は古い神社には「この国のかたち」を知るヒントが沢山あって面白い、が話の結論だ(笑)。
近々、見物に行く予定の諏訪には、「諏訪大社」と呼ばれる神社が4つもあるのだとか。ヒントの量も、4倍か?

つづく

『暗黒神話』のタケミナカタ -出雲編その4

暗黒神話のタケミナカタ

神話時代の、出雲の国。
「国譲り」を迫る高天原からの使者タケミカヅチ(建御雷/鹿島神)に抵抗したのは、オオクニヌシの息子、タケミナカタ(建御名方/諏訪明神)だった。だがタケミカヅチはあまりにも強く、腕を引きちぎられたタケミナカタは諏訪まで敗走。諏訪から一歩も外に出ないことを約束して、命だけは助けられた。

時は流れ、昭和の長野県、蓼科山中。
父の死の真相を知るために、謎の老人に導かれた洞窟の中で、主人公の武は腕のない巨大な怪物と遭遇する。それは鎖に繋がれて幽閉された、タケミナカタの末路だった・・・。

諸星大二郎の名作『暗黒神話』が「少年ジャンプ」に連載されたのは1976年(昭和51年)のこと。ぼくは「チャンピオン」派だったので当時の記憶はないが、これと『トイレット博士』やら『東大一直線』やらが同時に掲載されていたあたりに、ブレイク間近の「ジャンプ」の底力を感じる。


さて、マンガでは(というか『古事記』では)、憐れな敗北者として描かれたタケミナカタだが、諏訪の伝説では話が全くの反対らしい。そこではタケミナカタの方が、強大な侵略者として語られた。

もともと諏訪には「洩矢(もりや)」という「神」がいて、縄文時代からずっと精霊ミシャグチを祀ってきた。wikiには洩矢神について、「ミシャグジ祭政を統括した氏族」だと説明がある。要は、諏訪土着の王さまだ。

そこに「国譲り」を迫ったのがタケミナカタだった。
以来、勝利者となったタケミナカタの子孫(諏訪氏)は諏訪大社の「大祝」つまりは「現人神」として祀られ、洩矢神の子孫(守矢氏)がその祭祀を司ったそうな。

ところで一説によると、諏訪で起きた「国譲り」こそが歴史的事実を反映していて、『古事記』のそれはパクり、というかそれにインスパイアされた創作だ、という話もあるそうだ。

というのも、父オオクニヌシが治める出雲の国から逃げてきたはずのタケミナカタだが、出雲地方にはタケミナカタを祭神とする神社はゼロで、『古事記』に記載されているオオクニヌシの子孫にはタケミナカタの名前がなく、『出雲国風土記』等にもやはりタケミナカタの名前はない。
要は、この神は出雲とは無関係としか思えないらしい(『諏訪神社七つの謎』皆神山すさ/彩流社)。

それじゃタケミナカタはどっから来たかといえば、『先代旧事本紀』にはヌナカワヒメ(沼河姫)という「越の国(こしのくに)」の女神とオオクニヌシの間にできた子だと書いてある。ざっくばらんに言えば、出雲のオオクニヌシが越の国に持った現地妻の子、つまりは妾の子がタケミナカタなんだろう。
実際に新潟県にはタケミナカタを祭神とする神社が1522社もあって、それは長野県の1112社を上回っているとか。(『諏訪神社七つの謎』)。

実は弥生時代後期の出雲と越の国には、深い繋がりがあったらしい。当時、ヤマトの前方後円墳に対して、出雲は四隅突出型墳丘墓で張り合って(?)いたが、出雲タイプは中間地帯の「丹波国」をすっ飛ばして、越の国に普及していたらしい。
出雲と越の国が遠く手を組んで、近畿のヤマト・丹波連合と対峙していた証だと、どこかで読んだことがある。


そういえば、何かの参考になるかと視聴したNHKスペシャル「“御柱”~最後の“縄文王国”の謎~」(2016年放送)は、歴史観の部分に違和感があって、素直に楽しめなかった。諏訪先住の「モレヤ神」に「縄文」「狩猟」という属性を与えるのはいいとしても、タケミナカタを「弥生」「農耕」の神に設定するのは強引すぎる。

タケミナカタを祀ってきたとされる諏訪大社について、東大名誉教授の大林太良先生は「狩猟民文化の余薫が香っている」(『私の一宮巡詣記』青土社)と言われてるし、『諏訪神社七つの謎』にも「諏訪明神は狩猟の神」と書いてある。

タケミナカタ=弥生=農耕なんてのは、結論ありきのレッテル張りだ。

そもそも、縄文と弥生は対立項ではなく、同じ日本に住む人々の生活が時間をかけて変わっていっただけなのに、NHKには日本民族を分断させたい意図でもあるのかと、勘ぐりたくなる。日頃のNHKの反日的な放送姿勢が、そう疑わせる。

境内

それはそうと8月上旬、くっそ暑い最中を諏訪に行ってきた。
諏訪湖の南にあるのが上社(本宮と前宮)、北にあるのが下社(春宮と秋宮)で、計4社で「諏訪大社」だ。

まずは諏訪インターを降りて直ぐの、上社本宮へ。
建物がゴチャゴチャと配置してある境内で途方に暮れたが、案内図を発見してからは、矢印に従って順路を巡り、無事お詣り終了。

その後、参道の土産物屋でソバをたぐっていると、晴天なのに突如として雷が鳴り響き、あっという間に豪雨に見舞われた。何ちゅう変わりやすい天気か(笑)。
傘もないので、仕方なく撮った写真など眺めて時間を潰していると、ふいに奇妙な感触に囚われた。

一体全体、ぼくらはここで何を拝んできたのだろう・・・と。

上に上社本宮「案内図」の中央部分を貼ってみたが、右下の「入口門」を入って「授与所」の前を左に曲がり、まっすぐ歩くと「参拝所」がある。ぼくらもここで参拝してきたわけだが、参拝所の先には「拝殿」はあるものの、「本殿」がない・・・。

もちろん、本殿のない神社の存在は知っている。ただその場合は、神の依り代としての山だとか巨木だとか巨石だとかがあって・・・。ああそういえば、諏訪大社の公式サイトには「御山(守屋山)」がご神体だと書いてあったっけ、と案内図を見直すが、「神体山」は参拝所の右手にあって、90度旋回しないと拝むことができない・・・。

つまり、案内図には「神居」とは書いてあるものの、そこには御神体も依り代もなく、ぼくらは何もない空間を拝んできたのではないか、という疑問が湧いたわけだ。

だがその理由について、答えは存在してるらしい。

諏訪神社七つの謎』によれば、もともとは神が降りる「磐座(いわくら)」すなわち案内図の「硯石」がご神体だったので、参拝は両「宝殿」の間の「四脚門」あたりから、硯石と神体山に向かって行われたのだろうということだ。

その後、神仏習合から明治維新までは、「幣殿」の奥に「お鉄塔」なる仏教施設があって、参拝所からはそれを拝んでいたようだ。お鉄塔ってのは、弘法大師が留学中に知った「南天の鉄塔」を、諏訪に巡錫した際に建てたもの、だそうだ。

この説明は、タケミナカタの後裔と称し、現人神として祀られた諏訪氏「大祝」とは何者だったかを考えるとき、説得力を増す。

古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』(古部族研究会/人間社文庫)によれば、大祝とは「大和朝廷の仏教政策の具現者」だったそうだ。諏訪地方で最も古い寺「普門寺」が、初代大祝の邸内に建てられたことが、その根拠だ。
諏訪の「国譲り」とは、「せまりくる大和朝廷との融和」のために、先住の守矢氏が選んだ苦渋の選択だったのではないか、とも書いてある。

・・・ううむ、なるほど、大祝が「仏教政策の具現者」なら、神社で「お鉄塔」を拝まされるのも、やむないことか・・・と納得しかけたぼくらだったが、いやいや、「お鉄塔」なんて今は存在してないじゃないか(笑)。
諏訪神社七つの謎』によれば、それは明治維新の廃仏毀釈で撤去、放置(!)されたとのことで、ホントにみなさん「お鉄塔」を拝んでいたのかは、実のところ八つめの謎では?

上社前宮と御柱
(上社前宮と、一の御柱)


それでiPadでGoogleマップを開いて、上社本宮の参拝所から"拝めるもの"を探してみた。
すると、あるある。あるじゃないか。

今でこそ、上社本宮のオマケ(失礼!)みたいなイメージで、正直みすぼらしい印象(重ねて失礼!)の上社前宮って、実はモロに本宮参拝所から1Kmほど先に、参拝者と正対した位置(横向きだが)に鎮座しているじゃないか。

聞けば、前宮はそもそもタケミナカタの墳墓の上に建てられたという説もあれば、大祝の居住地「神殿(ごうどの)」として政治の中心だった場所でもあるとか。
ふむふむ、ぼくらは本宮の参拝所から、タケミナカタのお墓であり大祝の旧邸である前宮を拝んでいたのだなー、諏訪は本当に深いし、複雑だなー。

・・・などと納得しかけたぼくらだったが、もう一度Googleマップをよく見れば、本宮と前宮の間には、他にも何だか良く知った名前があるぞぉ。

それは「神長官守矢資料館」そして「御頭御社宮司総社」。
タケミナカタに「国譲り」した洩矢神の後裔である守矢氏の現在の邸宅と、洩矢神が祀っていた「御社宮司」すなわち精霊「ミシャグジ」の総社が、上社本宮と前宮の中間地点に、存在しているぞぉ。

こりゃ、一体どういうこと? 
と『諏訪神社七つの謎』をパラパラとめくってみたところ、天正時代(信長とかの時代)に制作されたとする『上社古図前宮』という一枚の絵が目についた。
そこで、400年以上むかしの上社前宮の絵で、4本の御柱のド真ん中に描かれていたのは「御左口神」、すなわち「ミシャグジ神」だった・・・。

何のことはない。
上社本宮の参拝所から拝めるものは、いずれにしてもミシャグジ神だったということか。それはタケミナカタが諏訪に入ってくる遙か昔の、縄文時代から諏訪で信仰されてきた大地の精霊たちのことだ。

結局、ぼくらは知らず知らずのうちに、諏訪の地の、もっとも古い神さまを本宮で拝んで来たようだ。

話は下社につづく

「龍の子太郎」と穂高神社 -出雲編その5

龍の子太郎

話が煩雑になるので触れなかったが、諏訪大社下社の祭神は、タケミナカタの妃とされるヤサカトメ(八坂刀売神)という女神だ。だが、下社の祭神はいつでもヤサカトメだったというわけではないらしい。『私の一宮巡詣記』(大林太良/青土社)によれば、それはタケミナカタの息子の片倉辺(かたくらべ)だったり、兄の事代主(ことしろぬし)だったり、なぜか景行天皇の皇后、八坂入姫(やさかいりひめ)だったりした記録もあるらしい。

それはおそらくこの夫婦が、イザナギとイザナミや、スサノオとクシナダヒメとは違って、本当の夫婦じゃなかったせいだとぼくは思う。現に、夫のタケミナカタが活躍(?)する『古事記』には、妻のヤサカトメは登場しない。

ヤサカトメとは何者か。
『延喜式』神名帳に名を残す、川会神社の「社記」によれば、父にワタツミを持つ「海神の女」がヤサカトメだということだ。そしてタケミナカタとヤサカトメは「治水のため水内山を破って水を流し、越海へ注ぎ、始めて平地を得た」のだとか。

実はこの夫婦神による開拓の物語は、別の伝説として今も長野県には残っている。ぼくらの世代なら誰でも知っている『まんが日本昔ばなし』のオープニング、『龍の子太郎』は、上田に伝わる民話「小泉小太郎」と安曇野の「泉小太郎」を下敷きに、松谷みよ子が創作した児童文学だそうだ。登場人物は湖に住む龍とその息子に変えられているが、そりゃ普通の人間の夫婦には、山を砕いて湖を決壊させたりはできないから(笑)。

それで、川会神社でワタツミを祀ってきたのが、海人族(あまぞく)として有名な安曇氏と聞けば、これは安曇野に行ってみるしかない。『諏訪神社七つの謎』(皆神山すさ/彩流社)にも、ヤサカトメは「安曇野に拠った安曇族が奉祭した女神であり」と書いてある。ただ、川会神社の方は今では廃れてしまっているようなので、ぼくらは同じく安曇氏が祖神を祀った、穂高神社へと向かったのだった。

穂高神社

海人族については説明が必要だろう。

穂高神社が監修したブックレットによれば「魚や塩の生産に従事したり、海や川の水上交通や交易を支配した人々で、安曇氏のほかに宗像氏などが有名である」。安曇氏の本来の本拠地は、北九州の博多湾にある志賀島一帯だったが、しだいに日本中に拡散していった。弥生時代の1世紀ごろには信濃まで到達したと見られるが、その目的はサケ漁だった・・・。

なんてのが通り一遍の説明になるだろうが、実はどうも安曇氏の正体は、そんなちょいと規模の大きい網元程度ではなかったようだ。

AD57年に後漢の光武帝に朝貢し、金印「漢委奴国王印」をもらってきた「奴国」とは安曇氏の「国」であり、『魏略』『晋書』『梁書」には、彼らが自らを「太伯」の末裔だと話した記録がある(倭者自云太伯之後など)、と『弥生時代を拓いた安曇族』(亀山勝/龍鳳書房)には書いてある。

弥生時代は、安曇族が拓いた・・・、これは実に面白い。
太伯は(今の上海あたり)を建国した人だが、その呉は紀元前473年にに滅ぼされた(三国時代の呉とは別)。その時、呉人たちの一部は海に逃れ、日本列島に辿り着いた者もいた。祖国の再起を誓って彼らが握りしめていたのが、温帯ジャポニカ米だったというわけだ。
これはイメージしやすい。

 その伝播経路について、佐藤(※洋一郎)は、日本列島、中国大陸、朝鮮半島の温帯ジャポニカ米のDNAを調べて、中国大陸と日本列島にあるが、朝鮮半島にはない遺伝子の存在を見つけた。この事実から考えると、中国大陸から朝鮮半島を経由することなく、直接日本列島に伝わった経路があったと考えられるわけだ。(『弥生時代を拓いた安曇族』亀山勝/龍鳳書房)


温帯ジャポニカ米以外でも、養蚕は朝鮮半島より100年早いBC三世紀以前には日本に伝わっていたというし、鵜飼は朝鮮半島・台湾・沖縄には伝わらず、日本列島にだけ伝わったらしい。つまりぼくらが漫然と想像する、中国から朝鮮半島を経て、対馬、壱岐、そして九州北部へ、なんてルートは、実は弥生時代まではほとんど機能してなかったとも考えられるわけだ。

亀山さんが割り出した、呉人(安曇族)の航路はこうだ。
まずは拠点である志賀島から南下して五島に。いい風を待って対馬海流を一気に横断し、済州島の南を流れる黄海暖流に乗り、山東半島の青島辺りへ。ここからは大陸沿いに南下して、杭州湾から大陸を離れ、東に向かう流れと対馬海流を利用して、志賀島に戻る。
このループだ。

そうやって呉人(安曇族)たちは、大陸から日本列島へ、長い時間をかけて少しずつ渡ってきた。
祖国を失って逃亡してきたことから始まり、志賀島に拠点を得てからは、大陸に残された呉人の救出、亡命者(?)の日本各地への入植・・・という、繰り返される呉人たちの活動が、日本の縄文から弥生への移り変わりの、根底をなした。

亀山さんは、呉人が持つ越人への復讐心と祖国再建の思いにも言及されているが、縄文人の与り知らぬところで、日本史が動かされていたということか。

呉人(安曇族)が縄文社会に、容易に溶け込んでいけた点にも説明がある。
太伯は、元々は大国「周」の皇太子だったが、王位を弟に譲って蛮地とされる江南に渡った。その時太伯は、江南の風習に合わせて、体にイレズミを入れ、髪を短くした。以後、「入郷而従郷」は太伯の教えとして、呉人に守られ続けたのだとか。日本に入植した呉人たちも、当然そうしただろう。

ところで、イレズミと聞いて思い出すのが『魏志倭人伝』で「倭人」の風習として語られた「黥面文身」だ。『魏志』の成立は3世紀末なので、それは呉の滅亡以来、700年以上かけて日本社会に浸透していった呉の風習、だと考えるのが自然だろう。ちなみに同じ風習は、馬韓(のちの百済)では「時々」見られ、辰韓(のちの新羅)では倭に近くみな文身(男女近倭亦文)で、済州島にはなかったらしい(『魏志韓伝』)。

だが、「倭人」がみな「黥面文身」かというと、実は違うらしい。
弥生時代の遺跡から出土した、「黥面」を描いた絵画や土偶の分布には偏りがあり、九州の東シナ海側、瀬戸内海、伊勢湾、三河湾といった海辺からは多く出るのに、内陸部からはほとんど出ないんだとか。

『古事記』にも、「黥面」についてのエピソードがある。
即位を控えてヨメ探しをしていた神武天皇は、惚れたに家来の大久米命を通じて、告ってみた。すると娘は大久米命に「なんで目尻にイレズミを入れて、鋭い目をしてるのか」と応えてきたんだと。

大久米命は九州から神武天皇に付き従ってきた武人だ。長浜浩明さんの計算によると、神武天皇の即位は紀元前70年頃(卑弥呼が死ぬ300年ほど前)になるが、その頃の奈良地方には、黥面の風習がなかったという話。
もちろん、神武天皇の故郷、宮崎県の遺跡からも「黥面」関係の出土はない。

大久米命のみが特筆されていたことから、神武天皇にイレズミはなかったと思われます。(『日本の誕生』長浜浩明/WAC)


「黥面」から見えてくること。
それは、大陸から弥生時代を構成する文明をもたらした呉人(安曇族)は、「入郷而従郷」の精神で縄文社会に溶け込んでいったので、あくまで海辺の民に留まり、日本の支配層になろうとはしなかったことだ。
それは彼らには取り返すべき祖国があり、復讐すべき相手がいたからだろう。

その結果、たしかに大陸からの渡来人はいたのに、縄文から弥生にかけて、DNA的にも言語的にも骨考古学的にも、日本人が日本人でなくなるような変化は起きなかった、というわけか。

若宮社と小太郎像
阿曇比羅夫を祀る若宮社と、泉小太郎の像)


亀山本によれば、鳥取県安曇、兵庫県安積、石川県安津見、滋賀県安曇川、新潟県安角、そして長野県安曇野などが、安曇氏の入植地だそうだ。穂高神社の前身は、市役所と農協と神社と総合商社を一緒にしたような機関だった、とも書いてある。

『穂高町史』によると、安曇氏が安曇野に移住してきたのは6世紀半ばから7世紀の初めだという。が、穂高神社の『社史』だと1世紀には、とあるわけで、結局はっきりしたことは分からないんだろう。

ただ、『龍の子太郎』に繋がる民話が示すように、歴史上のどこかで、タケミナカタに象徴される出雲/越の人々と、ヤサカトメに象徴される安曇族が手を組んで、信州の開拓を行った。そして今も、両者は夫婦神として、諏訪湖を挟んで祀られているのだと。
今はそれぐらいの理解でOKとしておこう。

ところで諏訪では、もう一件、2社でワンセットになる神社にお詣りしてきた。
そこでは何と、ゲゲゲの鬼太郎にも出て来る妖怪(笑)を祀っていたんだが、それはまた次回に。

つづく

手長足長と御柱 -出雲編その6

手長足長

アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』、第3シリーズの第81話は「コンビ妖怪手長足長」。
手長足長は東日本に広く伝えられる伝説の巨人だが、wikiを見る限りでは、アニメに出てきたのは福井県バージョンのようだ。「足長が手長を背負って海に入り、手長が貝のフンをその長い手で海に入れ、魚をおびき寄せ獲って暮らしていたという」。

ところでそんな妖怪をお祀りする神社が、諏訪にあった。
手長神社足長神社だ。
妖怪を祀る、なんて書くと怒られそうだが、実際には手長神社はテナヅチ、足長神社はアシナヅチ、というのが神社公式の祭神だ。

誰それ?ってのが普通の反応だろう。
神話時代の出雲で、怪獣ヤマタノオロチに7人の娘を食われてしまった、気の毒な夫婦がアシナヅチとテナヅチ。幸い、8人目のクシナダヒメが怪獣を倒したスサノオの妃になったので、外戚として神々の末席に加えられたのだろう(知らんけど)。

それにしても、なぜ諏訪に出雲の神が祀られているのだろう。それも、かなりマニアックというか、ローカルな神が。
それでwikiを見てみると「建御名方神が諏訪に侵入する以前に、諏訪を支配していた神の一つで、洩矢神と共に建御名方神と戦った」と書いてある。

んー?、タケミナカタといえばオオクニヌシの息子のはずで、スサノオはひいひいひいひいひい爺ちゃんでクシナダヒメはひいx5婆ちゃんだ。ならば手長足長は、ひいx6爺ちゃん、ひいx6婆ちゃん。なのに、自分のひいx6孫と戦って・・・、と何がなにやら、話がこんがらがってくるが、それは神話(古事記)をまともに読んだ場合のこと。

要は、「土蜘蛛(つちぐも)」とか「国栖(くず)」といった、「まつろわぬ神」に分類されるのが手長足長で、諏訪で祀られている理由は、「分からん!知るか!」というのが答えなんだろう。

だが何事も、現地に出かけてみなければ見えない風景もある。

手長神社の境内をウロウロしながら、出雲はねーがーと、出雲の痕跡を血走った目で探したぼくらだったが、拝殿の横に鎮座するたくさんの摂社・末社には思わずほっこり和まされてしまった。大も小も、どれもが己に合ったサイズの「御柱」を4本ずつ建てていて、なかでも上の写真にある高さ80cmほどのミニ神社のミニ御柱は、持ち帰りたいほどの可愛さだった。

諏訪には道ばたの小さな祠にも御柱があると聞いて、それを見ることも旅の目的にしていたぼくらは、すっかり満足した。そして上の写真の大きい方の社に手を合わせたとき、ぼくはふいに、似たような感じの4本柱が描かれたCGを思い出した。

それは出雲の王の墓、「四隅突出型墳丘墓」を再現したCGで、「埋葬部の周囲からは4本の柱跡が発見され」と書いてあるものだった(『CGでよみがえる古代出雲王国』別冊宝島)。

四隅突出型墳丘墓

MOOKには、「諏訪は出雲一族が落ち延びた里なのか」という見出しで、次のような文もあった。

そもそも諏訪大社は、山陰から北陸地方を経由して諏訪に定着した出雲系の人々によって建てられた神社だとも考えられている。タケミナカタはオオクニヌシと越の女神・ヌナカワヒメの間に生まれた神で、出雲と北陸双方につながりの深い神なのだ。


むろん、ここに出ている人名は虚構だろう。だが、邪馬台国より遙かに昔から隆盛を誇ってきた山陰の文化が、オオクニヌシ(出雲)から現地妻のヌナカワヒメ(越)へ、さらには庶子タケミナカタ(諏訪)へ、と流れたことを象徴的に表しているのは確かだろう。ただしそれは、実際には100年、200年とかけて行われたから、本来の形や意味を失っている可能性もある。

そもそも諏訪大社でもっとも古い上社前宮は、おなじみ『諏訪神社七つの謎』によれば「タケミナカタの墳墓の地であると伝えられる」とあり、wikiの「前宮境内図」にも「神陵」が記されている。つまり、前宮の4本の御柱は、タケミナカタのお墓の周りを囲むように立っているわけだ。

上のCGでは柱には屋根が取り付けられているが、四阿が建てられたとも「考えられている」という話で、はっきりしているのは墳墓の上に柱を立てる4つの穴があったということだけだ。

御柱が、本来の形や意味を失ってる可能性は、時間経過以外にもある。

諏訪大社上社で、生きたご神体「大祝(おおほうり)」として祀られた諏訪氏は、『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』によれば、「大和朝廷の仏教政策の具現者」だった。諏訪地方で最も古い寺「普門寺」が、初代大祝の邸内に建てられたことが、その根拠だ。
年代的には西暦580年頃とも800年頃とも考えられるらしいが、縄文以来の長い諏訪の歴史から見れば、"新人"さんだ。

そして諏訪氏の出自には、「出雲系」の臭いが全くない。
wikiで「諏訪氏」を開いて、command+Fで「出雲」と入力しても、些末なことしかヒットしない。

一方で、「出雲系の人々によって建てられた」とされる諏訪大社には、確かに出雲っぽい痕跡がある。
巨石信仰だ。

上掲のMOOKでは「日本最古の信仰のカタチ」として、古代出雲王国の巨石信仰がクローズアップされている。そして諏訪大社では、15世紀に仏教系の「お鉄塔」をご神体とする信仰軸ができるまでは、上社本宮に巨石「硯石」を磐座とする信仰軸が存在していたと『諏訪神社七つの謎』には書いてある。

だがちょっと待って欲しい。
諏訪には別の、「最古の信仰のカタチ」があったはずだ。精霊ミシャグジへの信仰だ。

<ミシャグジ>の祀られている所には必ず古樹が茂り、その木の根元には祠があり、御神体として石棒が納められているというのが最も典型的な<ミシャグジ>のあり方であるという。ほとんどの<ミシャグジ>がそうであるというのが、今井野菊さんの実地踏査の結論である。(『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古部族研究会/人間社文庫)


引用したとおりで、縄文以来の諏訪の土着信仰は、巨石信仰とは別のものだ。
確かに諏訪には古くから「諏訪七石」と呼ばれる奇石群があって信仰の対象とはされてきたが、今では硯石ですら大切に祀られてるとは言いがたく、ミシャグジ信仰との差は明白だ(所在不明も数石あるほど)。

その理由を素直に考えれば、それはそれが「外来」の信仰だからだろう。
おそらく、縄文以来の精霊ミシャグジ信仰と、西暦580〜800年ごろに始まった諏訪氏の神仏習合体制の中間期に、巨石を信仰する人々が外来した。諏訪では起源も意味も不明とされる4本の御柱も、彼らの手でもたらされた。しかしやがて彼らは諏訪を立ち去ったので、御柱も巨石も謎のまま、信仰だけが残された・・・。

なーんて想像をしてみたわけだが、彼らとは言うまでもなく、出雲族のことだ。
手長・足長両神社の祭神が出雲神話の登場人物なのも、彼らの置き土産だと思えば理屈には合う。


せっかくなので、出雲族が移動してきた時期についても想像してみる。

出雲の荒神谷遺跡からは358本もの銅剣が出土しているが、この数は古代出雲の神社の数とほぼ一致するそうで、出雲の諸豪族が銅剣祭祀を通じて団結していたことを表すそうだ(『古代日本誕生の謎』武光誠/PHP文庫)。
その年代は西暦150年ごろ。近畿のヤマト連合、九州のヤマタイ国連合に挟まれて、俺らヤベーって感じか(いや、その頃まだ九州は"倭国大乱"で、それどころではないかw)。

ヤマトから「四道将軍」が派遣されたのは崇神天皇10年(長浜浩明さんの計算だと西暦212年ごろか)。それぞれ「越」「丹波」「吉備」「東海」に向かったとあり、出雲とは書いてないが、マジやべーぞ。

ヤマトに従った弟を殺した出雲振根(ふるね)が、四道将軍に攻め滅ぼされたのが崇神天皇60年より前の話(はっきり書いてない)なので、西暦230年代か。その後、『古事記』にはヤマトタケルによる出雲建の殺害が出てるが、年代不明。景行天皇の在位、290〜320年(長浜暦)のどこか。

そして最終的に「朝廷の出雲制圧は四世紀中葉」というから、西暦350年前後ということのようだ。370年頃にはヤマトのシンボル、前方後円墳も出雲に出現してるとか(『古代日本誕生の謎』)。

ま、ざっと考えて西暦150年から370年あたりか(アバウトすぎかw)。

古代出雲の地形

もう一つ、出雲の祭祀について『CGでよみがえる古代出雲王国』には、興味深い記述があった。
「水辺の祭祀」についてだ。

とりわけ大切だったのが水と農耕にまつわる祭祀で、松江市の前田遺跡や出雲市の古志本郷遺跡などからは、首長たちが行ったと思われる水辺の祭祀の遺物が発見されている。遺跡から見つかるのは、鉄刀、大刀の柄、和琴などで、王(首長)たちは、神を招き喜ばせる琴を奏でながら、川や水路に大刀を捧げ投じていたらしい。


なるほど、水辺なら諏訪にもデカいのがあるぞ。
MOOKによれば、縄文時代には島根半島は独立した島だったらしく、いま出雲大社が建っている場所などは、大昔には海岸線だったのだとか。事情は諏訪も同じで、やはり縄文時代、諏訪盆地は大半が湖だったらしい。諏訪大社は4つとも、大昔の湖岸線近くに建っているという話だ。

もちろん、神社が成立していった弥生〜古墳時代の諏訪湖は今と大して変わらないんだろうが、それでも出雲族が郷愁を感じて長く留まったとしても不思議ではない地域ではあるだろう。
しかし彼らは去っていってしまった。
ならば彼らの水辺の祭祀は、その後どこで行われたんだろうか。

つづく

吉見百穴とコロボックル -出雲編その7

吉見百穴

今から40年以上前になるが、近所の女子小学生たちがこぞって読んでいた本に『だれも知らない小さな国』(佐藤さとる/講談社)がある。語り手である「ぼく」と「こぼしさま」なる小人たちの物語で、当時はファンシー過ぎる気がして読まなかったぼくだったが、「コロボックル」という言葉だけはこの本で知った。

最近だと、ジブリの『借りぐらしのアリエッティ』(2010年)に出てきたアレ、といえば分かりやすいか。コロボックルってのはアイヌ語で「蕗の葉の下の人」という意味だそうで、身長は3cmほど。動きが異様に素早くて、しゃべりも早口だが人語を解する。通常は人間の社会から近い場所で、集団で生活している・・・。

という設定になっているが、もちろん実在はしない。
だが、明治時代にはコロボックルの住居跡だと考えられていた遺跡が、現在でも存在する。
埼玉県の比企郡吉見町にある「吉見百穴」だ。

訪問したのは小学校の遠足以来になるが、今見ても瞬時には理解不能な、不思議な遺跡だ。案内板によると、あれはコロボックルの住居跡ではなく、古墳時代末期(6世紀末〜7世紀末)の「横穴墓」というものらしい。

見ての通り、丘陵や台地の斜面を掘削して作ったお墓で、5世紀末と言われる埼玉古墳群より後の時代のものだ。西暦647年に発布された「薄葬令」によって、地方豪族が前方後円墳みたいなデカい古墳を造営することが制限された結果だ、とも書いてある。

ところでこの「吉見百穴」は、一体どこの誰が作ったものなのか。
無論、なんの記録もない時代のことで分かるわけはないが、興味深い指摘がある。『出雲を原郷とする人たち』(岡本雅享/藤原書店)という本によると、吉見百穴の横穴墓は「出雲系」なんだそうだ。

『日本の横穴墓』で、吉見百穴墓群の変遷を五段階に編年整理した池上悟立正大学教授は、その初期型は玄室が方形で、左右の側壁沿いに縁取りされた二つの棺座(遺体を安置した棺を乗せる場所)を付設し、それに対し直角に羨道がつく特徴を持つと分析。平面でみればT字形をなすこの横穴墓は、出雲意宇型に系譜を持つ出雲系横穴墓だとする。東海から南関東にかけて畿内・河内系横穴墓が分布する中、北武蔵の吉見百穴が出雲系なのは異彩を放つと、池上教授はいう。


棺座

写真は羨道から向かって左の棺座を写したもの。当然、右側にも左右対称で棺座がある。また、案内板の図だと羨道が膨らんで描かれていて「T字形」に見えないが、実物は池上教授の指摘どおりだ。

そういえば『だれも知らない小さな国』では、コロボックルたちは自分たちの先祖を「スクナヒコサマ」ダヨと言っていた。スクナビコナ(少名毘古那/少彦名)はオオクニヌシの国作りに協力した、知恵ある小人の神さまだ。二神が出会った場所は出雲なので、その子孫だというコロボックルたちも、元を辿れば出雲から来たことになる、のか?

それにしても、仮に吉見百穴の横穴墓が「出雲系」なのが事実だとしても、中間地点であるはずの東海や南関東がそれではない「畿内・河内系」だというのは、どういう理由なんだろう。

これまた勿論、正解は分からない。
が、『出雲を原郷とする人たち』には考えるヒントが示されている。出雲系「いわい」神社の分布だ。

本には、「越後から信濃、上野、武蔵へと出雲祝系の古社が連なるのだ」とあり、新潟の石井(いわい)神社、長野の祝神社、群馬の小祝神社、埼玉の出雲乃伊波比神社(寄居町)、出雲伊波比神社(毛呂山町)、伊波比神社(吉見町)、出雲祝神社(入間市)の名前が挙げられている。
つまり、彼らは東海道ルートではなく、北から南下してきたんじゃないか、というわけだ。

ちなみに「出雲国以外の式内出雲神社」は九社あるそうだが、その中で「出雲から最も遠く離れながら二社もあるのが武蔵国」なんだと。「式内社」ってのは927年にまとめられた『延喜式神名帳』に名前が掲載されている由緒正しい神社を指すが、ふるさとを遠く離れてなお「出雲」を冠した神社で、出雲の人たちが何を祝ったのか。

それを知る術はないが、とりあえず現地に行ってみた。

出雲伊波比神社

毛呂山町の出雲伊波比神社は、期待以上の雰囲気を持った神社だった。臥龍山なんて、諸葛孔明が昼寝でもしてそうな小山に鬱蒼と木々が繁っていて、はじめは入口すら分からず。登ってからは凜とした冷たい空気が漂い、静かにお詣りできた。個人的に、山と森と神社というスタイルが好みらしく、宇佐神宮とか香取神宮とかに近い印象で好感が持てた。


ところで、埼玉西部に出雲系の「いわい」神社チェーンがあれば、東部にも別の出雲系神社チェーンがある。氷川、久伊豆、鷲宮の神社群だ。『出雲を原郷とする人たち』によれば、埼玉県神社庁調査資料室の髙橋寬司学芸員の集計として、武蔵国内に氷川神社は284社、久伊豆神社は54社、鷲宮神社は100社あるそうな。

それほど多くの神社が出雲系ということだが、それらの創建に関わる記述をwikiから引用してみるとこうだ。

・・・成務天皇(第13代天皇)の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し[6]、祖神を祀って氏神として、(氷川神社)

・・・崇神天皇の時代に出雲大社から勧請して創建されたと伝える(氷川女体神社

・・・土師氏が出雲から久伊豆明神(大己貴命)の分霊を勧進し岩槻に社殿を建立した(岩槻久伊豆神社

・・・東国を経営するため、お供の昌彦・昌武の父子と出雲族27人の部族と共に当地に到着し(鷲宮神社)


壮観としか言い様がないな。
神話の国、出雲がそっくり引っ越してきたかと思えるほど、西も東も、どこもかしこも出雲だらけだ。ならば生粋の埼玉県民とは、出雲の神々の末裔なのか!?

それはさておき、今回いろいろと社伝を眺めていて思ったのが、これって実は本当の歴史が書いてあるのでは?ってことだ。
もちろん神話時代の話はそのまま信じることはできないが、少なくとも実在の可能性が否定されてはいない第10代崇神天皇の御代からの記述には、ある程度の整合性がとれているようにぼくには見える。

出雲側の事件と合わせて、順を追って並べていく。
まずは西暦150年ごろ、出雲では358本もの銅剣を一箇所に埋める謎の儀式が行われた。この数は古代出雲の神社の数とほぼ一致するそうで、出雲の諸豪族が銅剣祭祀を通じて団結していたことを表すそうだ(『古代日本誕生の謎』武光誠/PHP文庫)。

そして、長浜浩明さんの計算によれば西暦207年、今の奈良県桜井市で崇神天皇が即位する。212年ごろにヤマトから「四道将軍」が「越」「丹波」「吉備」「東海」の制圧に向かう。
この時代に、出雲族が武蔵国に創建したとされるのが、中氷川神社、氷川女体神社だ。なぜ出雲族が武蔵まで来たのかは理由不明だが、崇神天皇の時代に「出雲大神の宮」の宝を巡って、出雲振根(ふるね)という豪族が四道将軍に攻め滅ぼされた事件が『日本書紀』には書いてある。

ちなみに同じ頃、邪馬台国の卑弥呼は中国の魏に使者を送って金印をもらったりしているが、これは九州での話。

第11代垂仁天皇の32年(西暦256年ごろ)、野見宿祢(すくね)が出雲から土部100人を呼んで「埴輪」を開発し、これを喜んだ天皇から「土師(はじ)」の姓を賜ったと『日本書紀』にある。
年代はズレるが、鷲宮神社には「崇神天皇の時代に河内国から東国へ移住した土師氏が(略)当地に移住した際に先祖を祀ったのが起源」という話も残されていて、出雲から河内を経由して武蔵へという人の流れはあったようだ。「はにしのみや」がいつしか訛り、現在の「わしのみや」になった、とも。

第12代景行天皇の在位は西暦290〜320年。息子のヤマトタケルが九州や東国を平定して回ったとされる時代で、出雲伊波比神社はヤマトタケルによる創建だという。鷲宮神社に出雲国造の祖神アメノホヒを合祀したのもヤマトタケルだとか。

続く第13代成務天皇の御代、ヤマトタケルが平定しまくった武蔵国に、出雲国造の一族から「エタモヒ(兄多毛比)」なる人物が初代の武蔵国造として赴任したと『先代旧事本紀』に書いてある。成務天皇5年とのことで、長浜暦だと323年ごろ。んでこのエタモヒさんが創建に関わったのが、氷川神社、玉敷神社大國魂神社なんだと。

そして出雲にヤマトのシンボル、前方後円墳が出現したのが西暦370年頃ということで、350年前後には大和朝廷による出雲制圧は完成したと考えられるそうだ(『古代日本誕生の謎』)。

うどん

(埼玉に行ったら"うどん"だろうと、吉見百穴の前にあった『松音屋』で"えび天ぷら冷や汁うどん"を食ったが、やたら美味いのでビックリした。うどんは腰が強く、天ぷらは最後まで衣はサクサク、えびはホクホクで、きっと普段は行列ができてるに違いない。)


さて門外漢ながらまとめると、もともと出雲から武蔵への人の流れはあったが、ヤマトタケルによる東国平定ののち、出雲国造一族からエタモヒなる人物が最初の武蔵国造として赴任した際、大規模な人の移動が行われ、氷川神社や大國魂神社などが創建された、という感じか。

出雲国造といえば皇室に次ぐ古い家柄で、そこの分家が武蔵国造となれば、その地位はけっこう高かったのかも知れない。
そういえば元日に天皇が行う四方拝という儀式で、「伊勢神宮、天神地祇、神武天皇陵・先帝三代の各山陵」(wiki)に続いて拝礼を受けるのは、大宮の氷川神社らしい。両賀茂神社、石清水八幡宮、熱田神宮、鹿島神宮、香取神宮を差し置いて、のことなので、その優遇は半端ないと不思議だったが、少し理由が見えてきたような気もする。



・・・いや、確かに社伝の件は朝廷が描いた「絵」や「筋書き」を押しつけられた「だけ」なのかも知れないし、氷川神社が優遇されてるのは皇居が武蔵国に移ってきたおかげ「だけ」なのかも知れない。ただ、そうやって冷静に見るのも、何だか今いち面白くなくてさ(笑)。

ま、いずれの謎も、ぼくが答えを出せるようなものじゃないだろう。
ぼくにできることは、実際に謎を見物しに行って、うまいうどんを食うことだ。

次回、氷川神社へつづく(出雲はいつ?)。

氷川神社と出雲族 -出雲編その8

氷川神社拝殿

このカテゴリでは、ぼくらの愛読書『ヤマタイカ』(星野之宣/1986〜91年)に登場した史跡を回る、聖地巡礼の記録を書いている。マンガでは、沖縄から旅立った主人公たちは九州に渡り、阿蘇山、高千穂、宇佐神宮などを回った。

それでぼくらも同じようなルートを辿り、さてお次は出雲大社へ・・・というところで、ふいに足が止まった(笑)。もともとはただの観光旅行のはずだったのが、出雲大社についてチョロチョロ調べているうちに、すっかり古代史の「沼」にはまってしまったのだ。

足は茨城県の鹿島神宮に向き、長野県の諏訪大社に向かった。

その諏訪で知ったのが、はるかな昔に諏訪大社(の原型)を作ったのは、古代出雲から来た人々「出雲族」だという説だった。調べてみると、たしかに諏訪には古代出雲の信仰を特徴づける「巨石信仰」「水辺の祭祀」「四本柱」などの痕跡が残っていて、それなりに説得力のある話だと思えた。

面白くなってさらに調べてみると、出雲族の足取りは、何とぼくらがいま住んでいる武蔵国にまで続いていることが分かった。
埼玉県の西部には越後から信濃・上野と南下して点在する出雲系「いわい」神社の分布があり、県東部に広がる氷川神社・久伊豆神社・鷲宮神社の各勢力も、出雲と深い関わりがあるという。うーむ、面白い。

ところで、古代の「出雲族」には二つのグループが存在するということは、説明の必要がありそうだ。
いわゆる「国譲り」神話の前から出雲に住んでいた人々と、「国譲り」のあと出雲の中心となった人々は、一部は重複するものの、別物として考えるらしい。

二世紀中葉から末にかけて、大量の銅剣銅鐸を埋めたのは前者だ。西暦150年頃の出雲に強大な勢力が存在したことを、考古学が科学的に証明している。
さらに続く三世紀には、吉備から越に広がる「四隅突出型墳丘墓」が出雲にも現れて、中国地方から北陸地方に広がる一大連合の存在が、想定されるらしい。

しかし、西暦370年頃には、出雲にもヤマトの象徴「前方後円墳」が出現し、独自の文化はすでに幕を下ろしていたという。出雲もヤマトの神話に組み込まれ、アマテラスの次男アメノホヒの子孫が出雲国造の先祖とされて、出雲の祭祀と政治を担うようになっていた。

大和朝廷の勢力が出雲に及んだ時に、出雲の豪族は親朝廷派と反朝廷派に分かれたのだろう。そして、出雲氏を中心とする前者が、朝廷の助力を得て後者の神門氏の一部を討ったのだろう。(『古代日本誕生の謎』武光誠/PHP文庫)


んで、この出雲国造(出雲氏)から分家したのが初代の武蔵国造エタモヒさんで、成務天皇5年に武蔵に赴任したとすると、長浜浩明さんの計算では西暦322年前後のことになる。出雲が完全にヤマトに制圧される50年ほど前には、出雲氏の一部はヤマト式祭祀の担い手として、武蔵の神社の整備に当たっていたと言うことか。

では、氷川神社がそうした武蔵の神社群の中心だったと考えたとき、そこに諏訪で見たような古代出雲族の痕跡を見つけることは難しいんだろうか。ヤマトから派遣された国造が出雲出身だからといって、勝手に出雲の古い祭祀を行って良いとは考えにくいが・・・。

見沼
(出典:龍学さま)

ところがここに面白い話があって、氷川神社というと大宮公園にあるデッカい社殿を思い浮かべがちだが、実は享保時代に干拓されるまでこの地に存在した「見沼」のほとりに立つ、三社を合わせて氷川神社とみなす考え方もあるらしい。

三社とは、大宮区の氷川神社、見沼区の中山神社(中氷川神社)、緑区の氷川女体神社を指し、それぞれの祭神は、スサノオ、オオクニヌシ、クシナダヒメだ。

氷川神社は、広大な見沼を神池そのものと見たて、高鼻の氷川神社を男躰社とし、浦和市三室に氷川女躰社をおき、その中間にある片柳中川の氷川神社(現・中山神社)を簸王子宮とする三社を合わせた壮大な規模をもつ社となって発展したともいわれる。(『大宮のむかしといま』大宮市/1980年)

水界の辺の一対の神社という点では、鹿島・香取と共通しているが、ここでは夫婦の神であることが明瞭なことと、もう一つ簸川王子社という子神の社もあって、いわば父母子の聖家族を形作っていることが特徴的である。(『私の一宮巡詣記』大林太良/青土社)


ふむふむ、氷川三社とは、四社で一社をなす諏訪大社のようでもあり、二社でひとつの機能を果たす鹿島・香取のようでもあると。
しかも、それでいて他とは異なる、「聖家族」(父スサノオ、母クシナダヒメ、子オオクニヌシ)を形成する独自性も持っていたとなると、武蔵国住人としては誠に誇らしい。

そして、そんな「水界の辺」にある神社に「水辺の祭祀」が存在しないなんて、ありえない話だろう。『私の一宮巡詣記』には「父母の社の祭礼は水の祭り」と書いてあるし、もっとズバリ賞なのがこれだ。

見沼は大宮氷川神社の「御沼」であり、もともとは武蔵の国造が、出雲以来の伝統を守って水の神事を行った場所とされている。(『<出雲>という思想』原武史/講談社学術文庫)


さてそうなると、他にも古代出雲の祭祀の痕跡があるのでは、と欲が増す。
「4本柱」はどうだろう。
出雲では墳丘墓の上に立てられ、諏訪でもタケミナカタの墳墓を囲んで立てられたのち、「御柱」として今に残る、あの不思議な風習は。

・・・調べてみるものだ。
それは女体社に残されていたよ。
享保期の干拓まで行われていたという、「御船祭」だ。

御船祭は、4本の竹を湖中に刺して神域となし、甁子に入れた神酒を沼の主に献じるというものだった。近年、氷川女体神社の東南2Kmほど先に位置する「四本竹遺跡」(下山口新田)の発掘では、粘土中に突き刺さった竹が790本も確認され、合わせて古銭なども出土。かつてのお旅所(祭祀場)だったことが裏付けられている。(『週刊・神社紀行35 氷川神社 大國魂神社』学習研究社)


同書には女体社の信仰について、「さまざまに伝えられる龍の伝説は、龍に仮託された水神への畏敬の念から発生したものであろう」という記述もあり、そこらも『龍の子太郎』の元となった諏訪地方の竜神伝説と微妙にダブってきて、ほんと興味深い。

※ただ、「巨石信仰」については、三社をウロウロ探してみたものの、とくに何も見つからなかった。でもまぁ、その点は諏訪でもとっくに廃れているわけで、ここまでの話がひっくり返されるようなことではないと思う。

竜神社
(氷川女体神社の竜神社)


面白いことに、出雲と武蔵の関わりは、古代に限定されるものではなかった。

<出雲>という思想』によると、明治27年1月、第7代の埼玉県知事に千家尊福という人が就任するが、この人は第80代の出雲国造でもあったんだと。当時の知事は公選ではなく官選だったので、貴族院議員だった尊福さんが、なぜか埼玉、とんで埼玉に来ても不思議ではなかったそうだ。

尊福さんは知事としての政務をこなすかたわら、氷川神社の祈年祭や新嘗祭には奉幣使として参向したそうだ。原先生は「それはかつて、出雲国造が古伝新嘗祭に際して、神魂神社熊野神社へ参向した光景をほうふつとさせる」と書き、こう謳いあげている。

天皇のいる東京府に接する形で、祭政一致の「古代出雲王朝」の姿が再現されていたのである。(『<出雲>という思想』第二部 埼玉の謎)

すごい話だ。大宮が古代出雲になった日、というわけか。

天皇といえば、明治天皇が東京に移られてわずか10日目に、関東の神社では初となる親祭を氷川神社で行われたことは有名な話だ。その理由を探したところ、旅行用のガイドブックにこう書いてあった。

明治元年(一八六八)、明治天皇は東京遷都に際して氷川神社に行幸。桓武天皇の平安遷都の際の京都の賀茂神社に習い、当社を武蔵国の鎮守として、自ら祭政一致の範を示された。(『関東の聖地と神社』辰宮太一/JTBパブリッシング)


ううむ、鳴くよウグイス平安遷都の桓武天皇以来って、1000年以上の時間を平気で飛び越えてしまうところが、わが国の皇室のスケール感だな。古代史の本を読んでると1000年ぐらい、ちょっと前のことに感じてくるから恐ろしいよ(笑)。

ヤマタイカの遮光器土偶

ところで『私の一宮巡詣記』では、氷川神社で注目される点として、「アラハバキ社が重要な地位を占めていたこと」があげられている。それは我らが『ヤマタイカ』では、「古代東国の蝦夷の神」「すなわち火の民族の神!!」と語られ、巨大な遮光器土偶として登場した神だ。

果たしてアラハバキは本当に、蝦夷やアイヌが受け継いだ縄文の神なのだろうか。
そしてそれがなぜ、大宮の氷川神社で祀られているのだろうか。

つづく