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竹波エーイチ

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ウルトラマン『故郷は地球』は名作か?

農村を襲うジャミラ
【ご注意】この記事は『ウルトラマン』全体について書いた長文の導入部となります。単独では情報不足ですので、お手数ですが「カテゴリ:ウルトラマン」にお回りください。



怪獣ジャミラの登場する『故郷は地球』は、ウルトラマン全39話のなかでも最も人気のある作品のようだ。2008年4月に放映されたNHK「BS熱中夜話」でも、第1話や最終回をおさえて堂々の人気第1位に輝いている。
そんな人気者、ジャミラとはどんな怪獣だったか。
客観的にみた、『故郷は地球』のあらすじはこうだ。

ある国に、ジャミラという科学者がいた。彼は有人人工衛星のパイロットとなって宇宙に旅立ったが、ついに帰還することはなかった。ジャミラの本国は、その事実を隠蔽した。
ジャミラはどこかの星で自分のロケットを「見えないロケット」に改造した。その間に彼はどういうわけか怪獣になっていた。

ジャミラが「地球の全人類に対する恨みと呪いの心」を持っていることを知っていた科学特捜隊パリ本部は、ジャミラが地球に戻ってくることを予期していた。ジャミラが狙うとしたら日本で開かれる国際平和会議だと考えた科特隊本部は、アラン隊員を日本に送り込んだ。
本部の予想通り、ジャミラは、国際平和会議に出席するために日本に向かっていた各国の代表者が乗っていた大型旅客機や船舶を破壊した。数百~数千におよぶ人々が大切な命を失った。

科特隊との戦闘で乗ってきたロケットを失ったジャミラは、徒歩で国際平和会議会場に向かい、たまたま通り道にあった農村を焼き払った。ジャミラには火焔による攻撃は効果がないと知った科特隊と防衛軍は、水流による攻撃に切りかえた。
そこにウルトラマンが登場。ウルトラマンもやはり、ジャミラの弱点である水を手から出す。
ジャミラは国際平和会議会場を目前にして、ついに息絶える・・・。



・・・これが39本もある『ウルトラマン』で、人気第一位になるほどの名作か?

ストーリーを簡単にまとめれば、宇宙で遭難してしまった宇宙飛行士が、どういうわけか(本国の宇宙局ではなく)「地球の全人類に対する恨みと呪いの心」を持ち、(全人類からしてみれば)いわれのない復讐をしにくる、という話だろう。つまりは逆ギレ、逆恨み、八つ当たりの類いだ。
それがどうして人気第一位の名作なのか。

このことは、ジャミラがどのタイミングで「地球の全人類に対する恨みと呪いの心」を持ったかを考えれば、ますます不思議になってくる。
ジャミラがそんな心を持っていることは、科特隊パリ本部からの伝令によって明らかになったことだ。つまり科特隊パリ本部は、ジャミラの存在も、その「地球の全人類に対する恨みと呪いの心」も、あらかじめ知っていた。しかし、遭難後のジャミラの行方は不明だったんだから、ジャミラが「恨みと呪いの心」を表明できたとすれば、まさしく遭難直後に他ならない。

ぼくなりに想像するに、おそらくジャミラの人工衛星に異常が起こった時、まだ本国との通信機能は維持されていたのだろう。そしてジャミラの本国は直接ジャミラに向かって、もはや宇宙空間での救出が不可能であることを告げてしまったのだと思う。これを聞いたジャミラが「恨みと呪いの心」を表明したことは想像に難くない。
が、なぜ「全人類」なんだ?
なぜ、ぼくや貴方や可愛い赤ちゃんまでもが、ジャミラの殺意の対象にならなければいけないんだ?

ここでジャミラが「科学のために」犠牲になったと考えるのは、余りにうかつと言うものだろう。
そもそも宇宙飛行士というのはエリート中のエリートの科学者であって、普通は志願して、厳しい競争を勝ち抜いてようやく就ける名誉ある仕事だ。宇宙で殉職するのは本望と言ってもいいかもしれない。宇宙への限りない夢を追ったのは、まさに彼ら科学者自身だったのだから。

となると、一体ジャミラはなぜ「地球の全人類に対する恨みと呪いの心」を持ったのか。

ぼくの本音を言えば、そんなことは分かるわけがないだろう、ということになる。
上記のあらすじを見てもらえば分かるように、ジャミラは数十年もの間、何の関わりもない「全人類」への一方的な復讐心を持続させることができた上に、地球に戻ってくるや否や、問答無用で大量殺戮を繰り返した男だ。こんなに執拗で残虐な人間の心理など、平凡な小市民のぼくに理解できるはずがない。犯罪心理学の先生にでも聞くしかないだろう。

ところが驚いたことにNHK「BS熱中夜話」では、この『故郷は地球』が、とある学校の国語の授業の教材として使われていることが報じられている。
http://www.nhk.or.jp/nettyu/2008/ultraman/0417/index.html(リンク切れ)

で、『故郷は地球』を観たあとは、次のような問題に答えなくてはならないらしい。

1 ジャミラはどのような思いで地球に戻ってきたと考えられますか。
2 この作品の中での犠牲者は誰ですか。
3 ウルトラマンができたこと、できなかったことはそれぞれ何ですか。
4 イデ隊員はなぜ戦うことをやめようとしたのですか。
5 ジャミラはなぜ最後まで、平和会議場を目指したのですか。
6 この作品の中で作者が訴えたかったことはどのようなことだと思いますか。
7 感想や、その他、気付いたことを書きましょう。


この問題を作ったのが、この学校の先生なのかNHKなのかは知らないが、「生徒の読解力を養う」ための出題でないことは明らかだ。自由な読解を求めているのではなく、定められた「正解」に誘導しようとする意図が見え見えすぎるからだ。

まず問1。これはジャミラには何らかの同情すべき「思い」があるかのように誘導している。しかし実際のところ、ジャミラはもはや殺人を繰り返す怪物であって、そんなジャミラに同情するのは「人権派弁護士」と同じ思考を持つことになる。つまり殺す側にも理由がある、というやつだ。このとき、ジャミラに殺された数百~数千の被害者の「思い」は全く考慮されることはない。

問2。犠牲者は何の罪もない旅客機や船舶の乗客と、家を焼かれた農村の人々だ。しかし問1によって、すでにジャミラに同情するように仕向けられているため、何となくジャミラ以外を選びにくい雰囲気になっている。

問3。ウルトラマンができなかったこと、という設問自体が素晴らしい。ウルトラマンはいつもどおりのウルトラマンで、3分以内に怪獣を始末するのが彼の役回りだ。しかしここでは、”今回に限ってはできなかったことがあったのだ”という出題者の思想そのものが押し付けられている。ぼくならこんな愚問には白紙で回答するが、強いて書くなら、ジャミラは火に強いのでスペシウム光線を使えなかったこと、とする。

問4 これはまあ普通の設問と言っていいだろう。イデ自身が劇中で、ジャミラは自分より年長の人間だから、と言っている。元人間だから、さらに科学者としての先輩だから戦えない。イデの個人的な感傷だが、イデ本人が言うんだからそうなんだろう。何かイデ個人の隠れたコンプレックスに触れるものがあったのかもしれない。ただ、これを一般論に拡大しようというのなら、それも出題者の押しつけだ。現に、イデとずっと行動をともにしていた他の隊員はジャミラに同情していない。

問5。だーかーらー、精神異常者の考えることなんて、常人には理解できないんだってば。平和会議の出席者のなかに、自分を見捨てた上司でもいたんじゃないの? だって宇宙開発と平和会議には何の関係もないわけでしょ? そこにいるのが「各国の代表」だから、人類を代表して殺されてくれってことか? マザーテレサとかも参加してるかもしれないのに。

問6。ジャミラに謝れってことだろう? 犠牲者=弱者=正義って、朝日新聞の論理だな。つまりは自虐史観だ。そもそもジャミラは誰かにわざと人工衛星を壊されたわけじゃないだろ? 2008年の技術を持ってしても、宇宙空間で軌道を離れてしまった衛星を探索することなんてできない。それが何で、ぼくや、この文を読んでいるあなたの責任になるんだよ。何なんだ、このストーリーは。

問7。・・・


思わず興奮してしまったが、もちろんこのテストの件をもって、『故郷は地球』を名作ではないと言うつもりはない。実相寺昭雄監督の独特の映像美は、いま観ても古さを感じない。
しかし、なぜ1位なのか。1位というからには、それが『ウルトラマン』全39話を代表するエピソードであると見られることは自然な成り行きだろう。

しかし、上記のテスト「問3」のように、この時のウルトラマンには「できなかったこと」があると見る人もいる。問いの答えははおそらく、元は人間だったジャミラを助けられなかったこと、なんだろう。「光の国からぼくらのために」地球にやって来た、人間の味方であるはずのウルトラマンが、結果的には”人間”ジャミラを殺してしまった。そんなウルトラマンは、本当に「正義のために」と言えるのか?

そういった発想が「問3」の根底にはあるのだろう。
そしてそれがまた、勧善懲悪を超えたストーリーとして、大人になったファンからの支持を集めていることは想像に難くはない。

だが、もしもその前提が間違っていたとしたらどうだろう。
ウルトラマンが地球に来たのは、「ぼくらのために」でも「正義のために」でもなかったとしたら。それでもウルトラマンが”人間”ジャミラを殺したことは、彼の正義と矛盾する大問題と見なされるべきことなんだろうか?

・・・そもそも『ウルトラマン』とは、一体どういった物語だったのだろう。

つづく




※類似記事:ジャミラは可哀想か?
      故郷は地球vsまぼろしの雪山

 関連記事:ノンマルトの使者
      怪獣使いと少年



【追記】
『ウルトラマン』制作当時の実相寺昭雄氏への周りの評価は

「空の贈り物」http://takenami1967.blog64.fc2.com/blog-entry-27.html

実相寺氏の、怪獣やウルトラマンへの考え方は
「故郷は地球vsまぼろしの雪山」http://takenami1967.blog64.fc2.com/blog-entry-29.html
「地上破壊工作vs怪獣殿下」http://takenami1967.blog64.fc2.com/blog-entry-30.html
にお回りください。

佐々木守氏のヒーロー観はこちら。
「怪獣墓場<シーボーズ>」http://takenami1967.blog64.fc2.com/blog-entry-31.html
「アイアンキング」http://takenami1967.blog64.fc2.com/blog-category-5.html

ウルトラ作戦第一号 〜ハヤタの願い

ウルトラマンの動機

ウルトラマン第一話『ウルトラ作戦第一号』は、宇宙空間を逃げる青く光る玉を、赤く光る玉が追跡している場面から始まる。二つの玉は地球に下降してくるが、ちょうどビートル号でパトロール中だった科特隊のハヤタ隊員がそれに気付き、ハヤタも青い玉の追跡を始める。やがて青い玉は竜ヶ森の湖に沈んでいき、それを追うハヤタだったが、後から来た赤い玉のほうと正面衝突し、森の中に墜落してしまう。ハヤタはビートルから投げ出されて地面に倒れているが、不思議と体に損傷はない。やがてハヤタの体は宙に浮き、上空の赤い玉に吸い込まれていく。

以下は赤く光る玉のなかで交わされたハヤタとウルトラマンのファーストコンタクトの模様だ。

「おい誰だ、そこにいるのは。君は一体何者だ」
「M78星雲の宇宙人だ」
「M78星雲の宇宙人?」
「そうだ。遠い宇宙からベムラーを宇宙の墓場に運ぶ途中、ベムラーに逃げだされて、それを追って地球に来た」
「ベムラー?」
「宇宙の平和を乱す、悪魔のような怪獣だ。申し訳ないことをした、ハヤタ隊員。その代わり、私の命を君にあげよう」
「君の命を? 君はどうなるんだ」
「君と一心同体になるのだ。そして地球の平和のために働きたい」
そう言うとウルトラマンはハヤタにベーターカプセルを渡し、
「困った時にこれを使うのだ」


二人の会話を長々と引用したのにはワケがある。
それは、この二人のそもそもの馴れ初めをきちんと把握しておかないと、『ウルトラマン』の全体像が見えなくなるからだ。例えば、ウルトラマンが光の国から地球を助けに来た善意の宇宙人、であるかのような勘違いをしてしまう、ということだ。
もちろん、今さら力説するまでもなく、ウルトラマンはたまたま殺してしまったハヤタに自分の命を預けてしまったから地球にとどまったというのが真相だ。さらにはハヤタが科特隊のメンバーに説明したように「彼は自分の宇宙船が爆発して自分の星に帰れなくなった」。

ここで『ウルトラマン』に詳しい人なら、それならどうしてウルトラマンはM78星雲のゾフィーに連絡して、すぐに「命」を持って来てもらわなかったのか、という疑問を持つかもしれない。『ウルトラマン』の最終回は、ゾフィーが持って来た2つの「命」のうちの1つを、ハヤタに与えることで終わったからだ。
しかしその疑問は実は、この後のウルトラシリーズでみられた、呼べばすぐにウルトラ兄弟がM78星雲からやってくるという展開を知っているから生まれるものだ。この初代『ウルトラマン』の世界には、ウルトラ兄弟という概念はまだ存在しない。だから常識的に考えるなら、ハヤタを殺してしまった時点でウルトラマンはすでにゾフィーに救援を頼んでいたが、ゾフィーが地球にやってくるまで約1年(39話分)を要してしまった、といったところが正解だと思う。

それはそうと、上記の二人の対話には、結構見過ごされがちでいて、実際は非常に重大な部分がある。それは、ウルトラマンは地球の平和を守るためにハヤタと一心同体になったわけではない、ということだ。
会話にあるように、ウルトラマンはまだ名乗りもしないハヤタの名前を知っていた。これはウルトラマンがハヤタに残留する思念を読んだ、という意味だろう。そしてそうであれば、ウルトラマンはその死の直前までハヤタが願っていた地球の平和とその防衛への思いも知ったことだろう。
ウルトラマンはこのハヤタの願い、思いを汲み上げた。

つまり、地球の平和を守りたかったのはハヤタであって、ウルトラマンではない。
ウルトラマンはハヤタに命を預けただけだったが、そのハヤタが願ったから怪獣と戦うことになった。
「申し訳ないことをした、ハヤタ隊員。その代わり、私の命を君にあげよう」がまず先にあって、「そして地球の平和のために働きたい」と続くというわけだ。
この時、もしもウルトラマンが殺してしまったのが野球少年だったなら、ウルトラマンはその力で少年を世界のホームランキングにしてくれたかもしれない。あるいは医学青年だったらガンの特効薬を開発する力を与えてくれたかもしれないし、文学青年ならノーベル賞をとれる小説を書かせてくれたかもしれない・・・。


ウルトラマンとは、ハヤタという人間の願望や意思の実現でしかなかった。そしてこれこそが、ウルトラマンが見ず知らずの地球人のために怪獣や宇宙人と戦う動機だった。
ウルトラマンの生みの親、金城哲夫は、まだ『ベムラー』という企画の段階にあった彼のニューヒーローについてこう書いている。

「面白いことに、隊員たちが、ベムラーの登場を頼みにしている時は姿を見せず、ベムラーのことを忘れ、敵と必死に戦いあって、破れかけた時に忽然と登場する」(『金城哲夫ウルトラマン島唄』上原正三)

ベムラーはウルトラマンのように人間が変身するヒーローではなかったが、それでも金城哲夫が「人間の戦い」を重要視していたことが窺える。この「人間の戦い」を突き詰めていけば、おのずと人間自身が50mの巨人に巨大化して怪獣と戦うことになるだろう。
ウルトラマンとは、ある意味ではそうして巨大化したハヤタ自身だったとも言えるとぼくは思う。

つづく

侵略者を撃て/科特隊出撃せよ 

交渉中:交渉決裂

上原正三が書いた『金城哲夫ウルトラマン島唄』には、金城哲夫が、彼の全く新しいヒーロー像であるウルトラマンを他の脚本家に説明するのに悪戦苦闘する様子が描かれている。

「四十メートルの巨人です。宇宙から来たんです。颯爽としてカッコいいんです」
「怪獣の殺し屋なのかなあ?」
「えッ。いえ、殺し屋ではありませんよッ」
「四十メートルの巨人。まるで怪物だ」
「ううう、違うんだなあ・・・・・・人間が怪獣に襲われてピンチになりますよね。その時に颯爽と現れて助けてくれるんです。ウルトラマンは正義の宇宙人なんです」
「でも怪獣をやっつけるんだよね」
「そりゃそうだけど。なんていうかなあ、ほら、人々の願い」
「願い?」
「そう、願い。祈りと言ってもいいです」
「祈り? すると神、宇宙から来た」
「神ではないんです。困ったな。ウルトラマンは人々の心が呼び寄せるものなんです」
「・・・・・・?」
「例えば、大怪獣が現れた。ウルトラマン助けてーッ、ウルトラマン来てくれーッ。そうした心からの叫びに反応するというか。そういう存在なんです。ですから初めから怪獣をやっつけに来るんじゃないんです。人間を守るために現れるんです。そうなんです。殺し屋ではありません。ウルトラマンは殺し屋ではありません」
「書いてみなきゃわからんなあ」(「ウルトラマン誕生」)



こうした金城の雲を掴むかのような説明を元に、『ウルトラマン』の初期の作品は、それぞれ異なった作家の手で書かれていった。第1話が関沢新一と金城哲夫、第2話千束北男、第3話山田正弘、第4話南川竜、第5藤川桂介。ちなみに『ウルトラマン島唄』によれば、第1話はシリーズに箔を付けようとして関沢新一に依頼したものの、関沢が映画用のシナリオを用意したため、やむを得ず金城が全面的に書き直したそうだ。大恩ある師匠に謝りにいった金城だったが、関沢は弟子の行き過ぎを叱ることなく共作のクレジットを勧めてきたともある。

ともあれ、こうして漠然としたイメージに基づいて複数の作者によって描かれたウルトラマンは、結果的に重層的なイメージを積み上げたヒーローとして活躍することになった。
まず第2話「侵略者を撃て」。
有名なバルタン星人が登場するエピソードだ。ここではハヤタ=ウルトラマンが、一方的に異星人を排除しようとはせず、まず話し合いによる解決を図ろうする様子が描かれた。

「彼らの星バルタンは、ある発狂した科学者の核実感が元で爆発してしまったのである。宇宙旅行中だった彼らは帰る場所を失い、しかたなく彼らの生存できる天体を求めて地球の近くまで来たのだが、あいにく宇宙船の重力バランスが狂い、修理をするために立ち寄ったと言うのであった」(石坂浩二のナレーション)
そしてすっかり地球が気に入ったバルタン星人は、このまま地球に住むと言い出す。これを聞いた星野少年やフジ隊員は「なんて図々しいやつらだ」と憤慨するが、ハヤタは落ち着いてこう言う。
「いいでしょう。君たちがこの地球の風俗、習慣に馴染み、地球の法律を守るなら、それも不可能なことではない」

ここにみられる精神は、聖徳太子以来の日本的精神である「和」の精神だろう。作家の井沢元彦さんは『逆説の日本史』等の著作のなかで、日本人の信仰の根底にあるものとして「和・言霊・怨霊・穢れ」の存在を主張しているが、その「和」だ。簡単に言えば、他人と争うことは「怨霊」が発生する原因になるので、話し合いによって皆がほどほどに「納得」する道を選ぶ。それが日本的「和」ということだろう。
ウルトラマンもその「和」の心を持っている。このことは、1966年当時の少年たちにとっては、ウルトラマンを身近に感じ、ウルトラマンを受け入れるに足る大きな要因となったのではないかとぼくは思う。


続く第3話「科特隊出撃せよ」ではまた違うウルトラマン像が提示された。
それは「武士」のイメージだ。
物語は、どこかの立派な城の映像から始まる。この城の敷地内にある古井戸から、ときどき変な鳴き声のようなものが聞こえると言うので、星野少年とフジ隊員が調査にやってきたというわけだ。実はその鳴き声の主は、地中に住んでいた怪獣ネロンガだった。ネロンガについては星野少年が次のように説明している。
「あの井戸にはね、昔ネロンガっていう怪物が住んでいたんだって。それを村井せいえもん(※wikiによる)という侍が退治したって言うけど、まだ生きてたんだ」

かつて村井強衛門(※wikiによる)という武士と戦ったネロンガは、今度はウルトラマンと戦う。もちろんこの符合だけでウルトラマンに「侍」のイメージが重ねられているというわけではない。それを明確に表しているのは、この回から劇中にナレーションが入るようになった、カラータイマーの存在だろう。
カラータイマーというのは、要するにウルトラマンの行動に時間的な制限があることを伝えるものだ。ウルトラマンは巨大で強いが、万能ではない。ウルトラマンには一定の短い時間しか地球上で行動できない。

カラータイマーによって示されるこのウルトラマンへの制限は、ウルトラマンという強大な存在への安心感につながるだろう。地球上で3分間しか行動できないウルトラマンが、地球の支配者になることはありえない。さらにそれは、内心ではウルトラマンを「人間に仕える者」として下に見る、秘かな優越感の源泉ともなるだろう。
日本の歴史上、これと似たような立場の存在として武士はあったと、上記の井沢元彦さんは言っている。武士は、殺人による血の「穢れ」を嫌った人々(特に公家)に、その「穢れ」をまとめて押し付けられた存在であると。だから現実世界でいかに物質的な栄華を誇ろうと、武士は日本的な精神世界においては一段下に置かれる被差別階級として始まったのだと。

ただ、こうしたケガレを嫌う日本人の性向を、『ウルトラマン』では巧妙な形で回避することに成功している。
まずウルトラマンの必殺技、スペシウム光線。これは、ウルトラマンが直接怪獣に手を触れずに倒せる技なので、ウルトラマンと血のケガレの間に適当な距離が置かれるようになっている。また、ウルトラマンが戦闘のあと毎回宇宙に飛び去るのも、血のケガレを地球の外に排出してくるような印象を生む。つまりはケガレに対する「禊ぎ」が行われている。

こうした配慮によって、本来は武士的なケガレにまみれていたウルトラマンは、毎回ミソギを済ませた状態で再び現れることが可能になった。何かおどろおどろしい印象のある『仮面ライダー』に比べて、『ウルトラマン』がどこかクリーンなイメージがあるのは、ケガレとミソギという日本人独特の感覚を無意識のうちに取り入れていたおかげかとも思う。

と、言うようなたわごとはともかくとしても、ウルトラマンはそもそものあり方として武士的であったことは確かだ。と言うのは、ウルトラマンとはまず辺境を守護する者であったからだ。
征夷大将軍・坂上田村麻呂が代表するように、武士はまず辺境にあって「外部」(蝦夷や熊襲)を制圧する者として誕生した。ウルトラマンもまた、辺境から「内部」に侵攻しようとする者を排除するために現れる。これは、常に最初から「内部」に存在するショッカーと戦った仮面ライダーとは、根本的に異なるあり方と言えるだろう。

では、そういった『ウルトラマン』世界において、「外部」にあった敵、すなわち怪獣とはどんなものだっただろう。

つづく

ウルトラマン 怪獣無法地帯 ~八百万の神々

怪獣無法地帯

すでに見てきたように、1954年の『ゴジラ』に始まる東宝怪獣シリーズには二つの怪獣観が存在したと言える。一つは、黒沼健~馬淵薫に見られる、怪獣を「単なる巨大な動物」と捉える怪獣観。ラドン、バラゴン、ゴロザウルスなどがそうだ。そしてもう一つが、香山滋~関沢新一が描く、怪獣にある種の「神性」を見る怪獣観。バラン、モスラ、マンダ、キングシーサー、そしてゴジラなどが該当する。

さて、それでは金城哲夫が指揮する『ウルトラマン』で、怪獣はどのように描かれたのだろう。

まず第3話「科特隊出撃せよ」のネロンガ。
ネロンガはその昔、村井せいえもん(wikiによる)という武士に退治された怪物だったという。人間が倒せたというのだから、せいぜい数メートルの大きさだったのだろう。しかしネロンガは地中で生きていて、付近に建設された発電所の電気エネルギーを吸収することで巨大化してしまった。普段は透明で眼に見えないが、電気を食べる時だけ姿を表す(wiki)。電気を食うために、水力発電所、変電所、火力発電所を破壊した。

第4話「大爆発五秒前」のラゴン。
もともとは2億年前の爬虫類が進化した「日本海溝に住む海底原人」だったが、「爆発した原爆の放射能で突然変異を起こした」と考えられた。その際2メートルだった体長は30メートルに巨大化した。海上保安庁の巡視船を沈めた後、葉山マリーナに上陸して暴れ回った(wiki参照)。

第5話「ミロガンダの秘密」のグリーンモンス。
オイリス島という秘境から調査団の手によって日本に持ちこまれた食虫植物が、品種改良のために放射能を浴びせられて怪物になった。自らの成長に欠かせないオイリス島にしか存在しない栄養素を補うため、オイリス島の水を飲んで帰ってきた調査隊員たちを襲う。鉢植えサイズから等身大まで成長し、さらにスーパーガンのエネルギーを吸収して巨大化した(一部wiki引用)。

第6話「沿岸警備命令」のゲスラ。
「ゲスラは南米に住んでいるトカゲの一種でカカオの実が大好きなんじゃ。それにカカオの実にたかる害虫まで退治するいいトカゲなんだ」(劇中の斧山船員の談話)
しかし南米航路のコロンビア丸の積み荷にまじって来日してしまった一匹が、東京湾の汚水の影響で巨大化。横浜港で暴れ回った。


細かい説明になってしまったが、強引にまとめてしまえばこうだ。
『ウルトラマン』の怪獣とは、もともとは人間世界の外部、あるいは内部にある秘境(井戸の奥の洞窟など)に存在して人間に害をなさなかったものが、人間側のアクションによって怪物となって暴れ回ったものだと。

こういった怪獣のありようが最も顕著に出ているのが、第8話「怪獣無法地帯」だろう。
「火山噴火のために無人島になっていた多々良島に2年半ぶりに定点観測所を再開」してみたら、そこはレッドキングやチャンドラーやマグラといった怪獣がウヨウヨしている島になっていた。もしも定点観測所が再開されることがなければ、怪獣たちは人間に害をなすことも、退治されることもなかったというわけだ。

この「怪獣無法地帯」は極端な例としても、それでは『ウルトラマン』の怪獣とは、ただの巨大な動物だったのだろうか、それとも(ゴジラやモスラのような)何らかの神性をおびた存在だったのだろうか。
結論から言ってしまえば、ネロンガもラゴンも、やはりゴジラのような神性を持っていたのではないかとぼくは思う。それは彼らの破壊活動が怒りに満ちていて、どこか人間の行いを罰しているような印象があるからだ。
つまり怪獣とは、八百万の神々が人間に祟りをなしている姿ではないのか。

この八百万の神というのは、おそらく一神教の人々には全く理解できないものだろう。 
しかし日本人は古来より、あらゆる自然物に神が宿っているという感覚を持ってきた。言うまでもなくこの「神」は、一神教のGod、造物主とは異なる。人格のようなものを持った何か、だ。
外来の一神教の影響をほとんど受けなかった日本では、この感覚は現代人でも多く持っているものだろう。少なくとも1966年当時の日本人であれば、大人も子どももこの感覚を肌で感じることができただろう。だからこそあの時代の日本では、世界に類を見ない怪獣の大量生産が実現したのだとぼくは思う。

怪獣というのは、もの言わぬ自然の表象」というのは『ゴジラ』の監督、本多猪四郎の言葉だそうだ(『怪獣な日々』実相寺昭雄著より)。
そして日本人にとっては、「自然」であることはイコール「神」だった。

同じく実相寺昭雄の『怪獣な日々』によれば、金城哲夫はまず怪獣の名前を考えて、そこからストーリーを作るという離れ業を得意としたそうだ。つまり、まず「怪獣」ありき。
であるならば『ウルトラマン』のそれぞれのエピソードとは、その回に登場する「神」の物語、すなわち列伝体の「神話」であると考えることもできるだろう。

怪獣は神。
それならそれらと戦ったウルトラマンとは何だったのだろう。

つづく

バラージの青い石 ~ウルトラマンは神か?

チャータムとノアの神

※以下の記事は、「バラージの青い石」の脚本を書いた金城哲夫氏の宗教観についての個人的な雑文であり、「ノア」についての学術的な研究発表ではありません。
なお、赤字部分は、クレームコメントに対応する意味で、後日修正した箇所です(2009/2/3)。

『ウルトラマン』第7話、「バラージの青い石」。
ぼくはウルトラマンのマニアでもオタクでもなく、ましてや研究者のような高尚な者でもない、ただの冴えない中年のおっさんだ。しかしそんなぼくでも、この「バラージの青い石」が後にマニアやオタクや研究者を大いに悩ませた作品であろうことは容易に想像がつく。
ウルトラマンとは何者か? ウルトラマンは「神」なのか?
「バラージの青い石」はこの永遠の問いに、原作者自らが何ともテーゲーな解答を与えてしまったからだ。


バラージというのは、中東のアララト山のふもとにある街の名前だ。
「この街はかつて大いに栄えた街だったのですが、今では地図にも名前が載ってないゴーストタウンになってしまいました。学者の中には、実在の街ではないという人さえいるぐらいです」
そのバラージ近辺に巨大な隕石が落下し、それを調査しにいった科特隊トルコ支部、インド支部、さらにパリ本部の隊員たちが消息を絶った。それで日本支部にお鉢が回ってきたのだったが、日本支部も同じく宇宙怪獣アントラーの放つ磁力に引き寄せられ、砂漠に不時着させられてしまう。そこをアントラーに襲われてその場を逃げ出した隊員たちは、命からがらバラージの街にたどり着く。

隊員たちは街の人に話しかけてみるが、アラビア語もヘブライ語も全く通じない。そこに王女風の女、チャータムが現れ、テレパシーを使って会話を始める。
チャータムによれば、バラージは昔はシルクロードの交易地として栄えに栄えたが、アントラーが現れてからは訪れる人もいなくなり、老人ばかりが住む街になったとのこと。
「それじゃ、あの怪物はそんな昔から・・・。しかしあの怪物は何故この街を襲わないのです?」
と尋ねるムラマツ隊長に、チャータムは「ノアの神の守りです」と答え、宮殿に案内する。するとそこには左手に青い石を持った、ウルトラマンそっくりの神像があった。

「ノアは宇宙人だったのか・・・」(ムラマツ)
「5000年の昔、ウルトラマンの先祖は地球上に現れ、その時もやはり人類の平和のために戦っていたのか」(アラシ)
「うむ、我々人類にとって、ウルトラマンは平和のための大切な神なのかもしれん」(ムラマツ)


金城哲夫がどうしてこのような話を書いたのか、なんとも理解に苦しむ。あるいは共作にクレジットされている南川竜(野長瀬三摩地監督)が主導権をとった可能性もあるが、たしか金城は玉川学園で民俗学や宗教学を学んだのではなかったのか?
ごらんの通りで、「バラージの青い石」の宗教観はテーゲーだ。
アラビア語もヘブライ語も分からない住人という点で、ここがイスラムでもユダヤでもないことはすぐ分かる。第一、イスラムやユダヤなら、造物主と何の関係もない「神像」を崇拝するはずがない。
となると(多神教で偶像崇拝のアジア人ということで)ヒンドゥーだと考えたくなるが、ヒンドゥーには「ノア」なんて人物は登場しない。もちろん方舟の伝説なんて知りもしないだろう。

つまり、ここで隊員たちはしたり顔で「神」というが、それが何の「神」を指しているのか、さっぱり分からないというわけだ。ウルトラマンがその「神」だとまで言うにも関わらず・・・。
では、ウルトラマンとはいったい何の「神」だと言うのか?

しかしヒントはある。
それは、金城哲夫が沖縄の出身だということだ。

沖縄紀行:琉球八社を巡る
どなたが書かれたものか知りませんが、沖縄の信仰について分かりやすく書いてあったので勝手に引用させていただきます。※2013年7月に「花鳥風月Visual紀行」管理人の、うににん様より転載許可をいただきました)

・どうして沖縄に熊野権現が?と質問してみると、14世紀頃に本土から真言宗の僧が訪れたのがきっかけだと教えてくれた。

・ちなみに、沖縄では仏教はそれなりに市民権を得てはいるものの、檀家制度がないので住民は特定寺院とつながっているわけではない。

・こうしてみると沖縄の神社は明治の神仏分離令以降も 「習合」 の状態を長く維持し続けてきたことが伺える。切り口によって仏教的にも神道的にもニライカナイ信仰的にも見えるのだけれど、実は全部つながっていて根っこの部分は一緒なのである。本土では既に失われてしまった、神仏分離以前の古い信仰の姿が、ここには色濃く残っている。(『花鳥風月Visual紀行』より)


ここでぼくが注目したのは、「沖縄的チャンプルー空間」となっている沖縄の信仰における、仏教の位置づけだ。
他のサイトもいろいろ漁ってみたところ、仏教はどうやら沖縄では、その教義自体が問題にされることはほとんどなく、ひたすら葬式用の宗教として存在しているとのことだ。その理由としては上記の引用にあるように、沖縄では「明治の神仏分離令以降も『習合』の状態を長く維持し続けてきた」こともあげられるのだろう。

しかし本土においては、神仏は明治以来きっちり分離し、教義を明確にしてきた。そこへ沖縄の葬式仏教しか知らない金城哲夫がやってきて、民俗学や宗教学を学んだ・・・。
となれば金城哲夫は、知らずには済まされない、一人の巨大なヒーローの存在に当たったはずだ。
それは現在の日本仏教では最大規模の宗派、浄土真宗の本尊、阿弥陀如来だ。


仏教の基本というのは、いかにして個人が修行を積んで苦しい輪廻から解脱するか、ということだとぼくは理解している。要は、個人が自分のために行うものであって、他者を救済するような性質のものではない。
しかし浄土真宗は違う。
いわゆる「他力本願」というやつで、善人どころか悪人も救済してしまう信じられないほどサービスのいい宗派だ。それもこれも、数いる如来のなかで、阿弥陀如来だけが全ての人間を救うために修行を積んでくれたおかげだそうだ。
この阿弥陀如来がどれほどのヒーローだったかは、あの織田信長をもっとも苦しめたのは上杉謙信でも武田信玄でもなく、本願寺一向一揆だったことだけでも十分わかるだろう。

だからぼくらが「神さま仏さま」と助けを請うとき、「仏さま」がこの阿弥陀如来であることは間違いないように思える。
では「神さま」が誰かというと、おそらく誰と特定できる存在はいないだろう。そうではなくて、助けを請わざるを得ないような状況に追い込んでいる「神さま」のお怒りや祟りを鎮めてもらうために、「神さま」にすがっているのだとぼくは思う。
つまり「神さま許してください、仏さま取りなしてください」というところだ。
こういった感覚は本土の人間だけが持っているもので、沖縄の葬式仏教しか知らなかった金城哲夫にとっては一つの「発見」だったのではないかと思う。

「神ではないんです」「ウルトラマンは人々の心が呼び寄せるものなんです」「例えば、大怪獣が現れた。ウルトラマン助けてーッ、ウルトラマン来てくれーッ。そうした心からの叫びに反応するというか。そういう存在なんです」(『金城哲夫ウルトラマン島唄』上原正三著)

おそらくこんな便利な存在は、沖縄はおろか、外国にもそうそういるものではないだろう。キリスト圏ではよく「Oh My God!」というが、キリスト教は予定説の宗教なので、造物主が決めた運命は変えることができないはずだ。あれはただ運命を嘆いているだけのことだろう。
しかし金城は、本土には人々の「願い」や「祈り」に応えて救済してくれる存在がいることを知った。この鮮烈なイメージが、本土の子どもたちに与えられるべきヒーロー像として、やがてウルトラマンに結実していったとしても不思議ではないようにぼくには思える。

それでは「バラージの青い石」の「ノアの神」とは何だろう?
ぼくはそこには、やはり沖縄人としての金城の発想があるように思う。彼の故郷、沖縄では、神仏はいまだに分離していないという。ならば沖縄人金城にとっては、「仏さま」もあくまで「神さま」の一人でしかないということになる。
だから怪獣が「神さま」だとして、ウルトラマンもまた「神さま」であっても金城にとっては何の問題もない。ウルトラマンは「仏」という名の「神」だ、ということで落ち着いてしまうからだ。

ここに「バラージの青い石」の混乱の真相があると思う。
金城はおそらく、西洋・中東的な意味でウルトラマンを「神」だと考えたわけではないだろう。むしろそれは、沖縄からみた「仏」、阿弥陀如来だった。
しかし、沖縄の「沖縄的チャンプルー空間」となっている宗教観がそれを「神」だと言ってしまい、それまで統一感のあったウルトラ像に混乱をきたした。
そのようにぼくは考えている。


ところで、またそれとは別のところにも、ウルトラマンへの仏教の影響はあるとぼくは思っている。
『ウルトラマン』第一話「ウルトラ作戦第一号」で、誤ってハヤタを殺してしまったウルトラマンは、自分の命を与えることでハヤタを救おうとした。この展開はいかにも仏教的というものだろう。

生活の中の仏教用語”月の兎”大谷大学ホームページより

こういった行為を「捨身」と言うそうで、法隆寺の玉虫厨子に描かれていたり、手塚治虫の『ブッダ』第1巻冒頭にも出てくる。仏教の神髄の一つなのだろう。

つづく

関連記事:ウルトラマンAとキリスト教

噴煙突破せよ ~科特隊について

shall we dance

『ウルトラマン』第21話「噴煙突破せよ」は、科特隊にとって記念すべき一作となった。この作品で、ついに科特隊は自力での怪獣退治に成功した。怪獣ケムラーは、イデ隊員の発明したマッドバズーカによって急所を攻撃され、自ら火山に落下して爆死したのだった。

いや、もちろんこれ以前にも科特隊はマグラーとアントラーを倒している。が、マグラーはその回の主役とは言えなかったし、アントラーにはバラージにあった守護石を投げつけただけで、いずれも自力で完全勝利をおさめたとは言い難い。やはり「噴煙突破せよ」を、科特隊の初勝利と考えてもいいように思う。そしてWikipediaによれば、この後の科特隊は、ギガス、ゴルドン(1匹目)、テレスドン(再生)、ドラコ(再生)、ジェロニモン、サイゴ、ゼットンを倒すことになる。

この科特隊の全成績をどう見るかは人それぞれのような気もするが、ぼくとしては十分合格点だと言いたいところだ。ゴジラシリーズにおける人間の絶望的なまでの無力さとは、全く比較にならないだろう。
特に「噴煙突破せよ」では、スペシウム光線がケムラーに通じなかったウルトラマンは、むしろ科特隊の砲撃の邪魔者になっていた。ウルトラマンにできることは、ケムラーを抱きかかえてその急所をアラシが狙いやすい位置に固定することだけだった。まさに科特隊の完全勝利だ。

が、それでも全話を平均すれば、科特隊が基本的にはウルトラマンを頼りにし、その登場を心待ちにしている気配があることは否めない。ウルトラマンになりたい子どもは沢山いるだろうが、それを差し置いて是非とも科特隊に入りたいという子どもが、果たしてどれほどいるものやら。

では、そんな科特隊とは一体何なんだろうか。
もちろん、科特隊とはパリに本部を置く国際科学警察機構の日本支部で・・・なんてことではない。科特隊の、劇中での役回り、その存在の意味とは何か、ということだ。

諌山陽太郎さんという作家の書いた『マンガ・特撮ヒーローの倫理学』という本のなかに、次のような一説がある。

荒ぶる<神>が天変地異を起こす(怪獣が現れる)

→呪術者が<神>の意を読む(科学者がその現象を解釈する)

→呪術者は人々に荒ぶる<神>の鎮め方を指示する(科学者の<ことば>を聞いた「科学特捜隊」が出場し様々な<科学>を駆使する)

→荒ぶる<神>は鎮められる(ウルトラマンが現れ、怪獣は退治される)

『ウルトラマン』は、<人間>世界の外と<人間>とが<科学>という呪術を用いて交感するという、生き生きとした<まつりごと>の世界を描いた物語なのである。

一部を引用しただけだと分かりにくいが、古代では<呪術>であったものが現代は<科学>であり、『ウルトラマン』はきわめて日本的な解決方法をベースにした物語だ、ということだと思う。
この説自体には非常に魅かれるものがある。
が、多少の不満もある。
と言うのも、科特隊が科学を駆使することとウルトラマンが現れて怪獣が退治されることには、何の因果関係もないからだ。これは論理の飛躍というものだろう。

この間には、諌山さんが省略した2つの決まったプロセスがある。
一つは、「噴煙突破せよ」等の一部の作品を除いてだが、まず科特隊が怪獣に敗北すること。
そしてもう一つが、ハヤタが自らの意志でウルトラマンに変身するということだ。
この二つのプロセスを経て、ようやくウルトラマンによって怪獣は退治される。

まあ、科特隊があっさり科学を駆使して怪獣を倒してしまっては、ウルトラマンの出番が無くなってしまって番組自体が成立しないわけだが、それにしても<科学>という<呪術>は、実際のところ荒ぶる<神>にはあまり役に立っていない。
つまりそれほどこの<神>は何かに怒り狂っている(『もののけ姫』のシシ神のように)。
こういう場合、古代の日本人はどうしたか。
『ゴジラ』のなかで、大戸島の古老はこう言った。
「むかしは長く時化の続くときには、若え娘っ子をいけにえにして、遠い沖に流したもんだ」

荒ぶる神への「いけにえ」。これが科特隊の役回りだろう。
ただし、ただいけにえになっただけでは足りない。まず<神>の怒りの原因を科学的に調査し、その<神>の怒りがどれほど大きいか、そしてその<神>がいかに強いかを身を以て示さなくてはならない。
つまり<科学>という<呪術>とは、神道の「祝詞」に近いものだとぼくは思う。
<神>の怒りをみなに伝え、その偉大さを奏上することによって、荒ぶる神を鎮める。それが科特隊の仕事だろう。


さて、これで『ウルトラマン』世界のおおよその概観が見えてきたように思う。
まず怪獣たち。彼らはいわゆる八百万の神が、人間の働きかけによって実体化し、境界を越えて人間に害をなすようになったものだとしよう。
さらに科特隊はそんな荒ぶる神を鎮めるために祝詞を奏上し、いけにえになるものだとする。
そしてウルトラマンは「和」を尊ぶ者であり、辺境を守る武士であり、荒ぶる神を葬る阿弥陀如来でもある。ウルトラマンは、怪獣退治による血のケガレの全てを引き受けて、遠い宇宙に排出もする。
しかしそんなウルトラマンは、実はいけにえであるはずのハヤタが変身した姿だ。ハヤタの、地球の平和を守りたいという強靭な精神力が、ウルトラマンを地上に存在させる。ハヤタの勇気ある決断がなければ、ウルトラマンは登場しない・・・。

こうして一望してみると『ウルトラマン』は、当時の日本人が普通に持っていた世界観や宗教観の内部に存在しているように思える。八百万の神、祟り、罰が当たる、ケガレとミソギ、和の尊重、武士道・・・おばあちゃんのぽたぽた焼きの世界だ。
なにより注目すべきは、この世界のどこにも「悪」の存在がないことだ。もちろんそれは、誰かを「悪」だと決めつければ、「言霊」が生まれるからだろう。
そしてもっと注目すべきことは、一見すると固定されて見える力関係を一瞬にして覆す力は、科学力でもなんでもなく、ハヤタという一人の人間の強烈なまでの平和への願い、祈りだということだ。
精神力が科学力に打ち勝つ。
この非合理性も、日本人ならではの世界観というものだろう。


このように、一種のループとして閉鎖的に完結していたウルトラマンの世界。
しかしその頃、永遠に思えたこの調和は、すでに内外両面からの崩壊が始まっていた。あとで詳しく書くつもりだが、そのうちの外的要因は金城哲夫自身が招いてしまった、いや、気がついてしまったものだ。
では内的要因は何か。

実相寺昭雄と佐々木守の参入だ。

つづく

空の贈り物 〜スカイドン

科特隊は気楽な稼業

1966年当時、TBS系の『ウルトラマン』を製作するかたわら、日本テレビ系で『快獣ブースカ』も手がけていた円谷プロは、慢性的な人材不足に悩まされていたそうだ。そこでまずTBSからディレクターとして実相寺昭雄が出向、さらにその実相寺の推薦で脚本家・佐々木守が『ウルトラマン』に参加することになった。そして実相寺と佐々木はコンビを組み、「故郷は地球」を初めとした多くの作品を『ウルトラマン』に残すことになった。

そんな実相寺/佐々木作品だが、2008年現在のウルトラファンの間では非常に高い支持を受けているようだ。
2008年4月にNHKで放映された「BS熱中夜話ウルトラマンナイト」で『ウルトラマン』の人気投票を行ったところ、実相寺/佐々木作品はベスト10に3本も入っている。「故郷は地球」(1位)「怪獣墓場」(3位)「空の贈り物」(9位)がそれだ。

実相寺/佐々木が作った『ウルトラマン』は全39話中6本だけだから、この成績は素晴らしいものがある。残る7本のうち6本はメインライターの金城哲夫がいろいろな監督と組んで作った作品であることを考えると、実相寺/佐々木こそが金城に次ぐ『ウルトラマン』の主力作家であったことを想像させるに足る成績と見ることもできるだろう。

が、実際はどうだったのか?
本当に実相寺/佐々木は、『ウルトラマン』の主戦級の作家だったのか?

『ウルトラマン』第34話「空の贈り物」。
あらすじは至って簡単なものだ。あるとき東京の晴海埋め立て地に、宇宙から怪獣スカイドンが落ちて来た。このスカイドンは落下の直後は口から火を吐いたりしたものの、あとは特に暴れるでもなくぼーっとしているだけの怪獣だった。
しかしとてつもなく重い怪獣で、その体重は20万トン。ウルトラマンの約6倍だ。しかもスカイドンは、とんでもなく頑丈でもあった。
手を焼いた科特隊は、なんとかしてスカイドンを宇宙に帰そうとするが、いずれの作戦も失敗に終わってしまう。ウルトラマンも打つ手がなく、すごすごと飛び去ってしまった。科特隊は最後にスカイドンに大量の水素を注入することで風船化し、どうにか宇宙まで飛ばすことに成功する。
が、これを誤って自衛隊の戦闘機が撃墜してしまい、スカイドンは落下してくる。ハヤタは再びウルトラマンに変身すると空中でスカイドンと正面衝突し、スカイドンを爆死させたのだった・・・。

この作品が放映された直後の円谷プロ内部での反応を、上原正三が書いた『金城哲夫ウルトラマン島唄』から引用するとこうだ。

「見た、金ちゃん」企画室にやって来た野長瀬三摩地が頬を膨らませて金城に食いついた。
「え、なんです?」
「実相寺よ」
「ああ、見ましたよ」
「許されるわけ? あんなことが」野長瀬は憤懣やるかたない表情だ。
実相寺昭雄作品「空の贈り物」(脚本・佐々木守)で主人公のハヤタが変身する際にフラッシュ・ビームの代わりにスプーンを差し上げたのだ。勿論ギャグである。
「TBSだからな。やりたい放題だよ」と不満を口にする若いスタッフも確かにいた。野長瀬は、長いこと黒澤明監督の助監督を務めて来た。黒澤監督は小道具の一つにまで気配りする完全主義者。野長瀬はそんな監督の薫陶を受けて育った。その自負は相当なものだった。映画を聖職と考え、生真面目で折り目正しい演出を心がけていた。ヒーローは神聖なるものだ。そのヒーローにみっともない真似させていいのかというのが野長瀬の言い分。


野長瀬三摩地監督は『ウルトラQ』以来の円谷プロの主戦監督だ。Qでは「ペギラが来た!」「風船怪獣バルンガ」「ガラモンの逆襲」などを、マンでも「大爆発五秒前」「バラージの青い石」などを監督している。
その野長瀬が「頬を膨らませ」「憤懣やるかたない表情」をし、若いスタッフは実相寺がTBSの威を借りて「やりたい放題」と不満を口にする・・・。

どうやら、とても歓迎されている雰囲気ではないようだ。

上原正三は「スプーン」を問題にしているが、実は「空の贈り物」の「ギャグ」はそれだけにとどまらない。
まず冒頭、真っ昼間から喫茶店でさぼっているムラマツ隊長がいる。隊長は雨が降ってくるのを見ると、本部に連絡して傘を持って来いと言う。その連絡を受けたアキコはそのとき大福を両手にもって頬張っていて、ハヤタはのんびり爪を研いでいる。
ハヤタは傘を届けるためにビートルで出撃し、赤坂の上空から傘を放り投げる。
スカイドンが晴海に墜落してきたのは夜だったが、隊員たちは急報を受けたときまだパジャマ姿。ムラマツは制服を着ているものの、後ろ前になっている。
「オートジャイロ作戦」が成功したと思った隊員たちは、まだ明るいうちから全員でビールで乾杯している。イデは鼻毛を抜いていて、ハヤタはアラシにマッサージをしてもらっている。
「風船化作戦」のあとは、隊員全員でカレーライスを食べている。そこへ自衛隊からスカイドン撃墜の報があり、あわてて飛び出したハヤタが掲げてしまったのがスプーンだったのだった・・・。


こういった、とても真剣に地球の平和を守っているようには思えない科特隊の姿は、大人が見れば「ギャグ」だと分かるものだろう。こんなだらけた組織は民間にだってありえない。現実には存在しない、デフォルメだ。
しかしこの番組を観ているのは幼い子どもたちだ。
野長瀬は、視聴者の子どもたちがこんな「みっともない」科特隊を観てどう感じるかを問題にしているのだと思う。普段は立派に見える大人たちが、見えないところではこんな風にだらけた態度をとっているとしたら、そんな大人たちを子どもたちはこれまで通り尊敬できるだろうか、と。
学校の先生も、警察官も消防士も、役人や総理大臣だって、見えないところでは鼻毛を抜いて大福でのどを詰まらせているんじゃないか。この放送をきっかけに、そんな疑いに取り憑かれる子どもが現れたとしても不思議なことではないだろう。なにしろ60年代といえば、子どもは今よりもっと単純なものだった。

一体、実相寺昭雄と佐々木守はどうしてこんな作品を作ったのだろう。彼らは『ウルトラマン』での彼らの作品を通して、子どもたちに何を伝えようしたのだろう。
このコンビによる『ウルトラマン』でのデビュー作は、怪獣ガマクジラが登場する第14話「真珠貝防衛指令」だった。ガマクジラは真珠を食べる怪獣だ。女性隊員のアキコは「女の夢を壊さないでー」と激しく怒る。
つまり、この回のウルトラマンの相手は「女性の敵」だった。「人類の敵」とまで言われたゴジラとは大違いだ。ガマクジラはただ真珠を食べているだけで、そういう間抜けな相手とウルトラマンは戦わされた。

ぼくの結論を言ってしまえば、実相寺/佐々木は、ヒーローの破壊を目論んだのだと思う。
それはなぜか。
これも結論から言うと、彼らが「左翼」の人だからだ。wikipediaには「佐々木守」について次のような記述がある。

1960年に日本共産党に入党(数ヶ月で離党)した経験から、政治思想的には左翼のスタンスであり、後年のインタビューなどでも「今でも機動隊のバスを見かけると怒りがこみ上げて体が熱くなってくるんですよ」「なぜ今の若者は国に怒りを持たないのだろう」等と述懐しているほか、「今の日本の諸悪の根元は天皇制にあります」などと反皇室思想を明確に表明していた


「実相寺昭雄」についてはこう。

大島渚グループとの親交が深く、劇場用デビュー中篇「宵闇せまれば」の脚本を大島が執筆したほか、田村孟、佐々木守、石堂淑郎らの脚本が多い。とりわけ、現在からは信じがたいほど左翼色濃厚な作家だった石堂とはデビュー長編「無常」以下「曼陀羅」「哥」のATG三部作でタッグを組み・・・



『ウルトラマン』の中でも、選り抜きの名作と言われる「故郷は地球」「怪獣墓場」「空の贈り物」は、こういった活動をしていた二人の左翼によって作られたものだった。
では、そんな二人を金城哲夫はどう見ていたのか。
『金城哲夫ウルトラマン島唄』から、先ほどの金城と野長瀬の会話の続きを引用するとこうだ。

「ぼくは面白かったけど」
「本当に?」
「ええ」
「おやじさんは?(※円谷英二のこと)見たんでしょ」
「おやじも、別に、いいんじゃないかって」
「そう言ったの?」
「ええ、テレビだから、いいんじゃないかって。面白いよって」
「そうかなあ、テレビだから・・・」野長瀬は小さな声で呟き、口をつぐんだ。

このやりとりを見て、金城が実相寺/佐々木を心から歓迎していると感じる人はいないだろう。金城は明らかに戸惑い、はっきりとした答えを出さないようにしている・・・。

と、ぼくが思うのは、『ウルトラマン』には実相寺/佐々木と金城との間に、秘かな対決が存在するような気がするからだ。対決というと大げさだが、暴走する実相寺/佐々木に、金城が歯止めをかけようとしている作品が見受けられるように思える。
それはまず、実相寺/佐々木の「恐怖の宇宙線」対、金城の「恐怖のルート87」として現れた。

つづく

恐怖の宇宙線vs恐怖のルート87 〜実相寺&佐々木 vs 金城

こどもの怪獣

前回の記事で『ウルトラマン』には、実相寺/佐々木と金城哲夫との間に一種の対決があるのではないか、とぼくは書いた。その第1ラウンドが、第15話「恐怖の宇宙線」vs第20話「恐怖のルート87」だ。いずれも「子ども」が中心になっている物語だが、ウルトラマンと「子ども」との関わりは全くの正反対と言っていいだろう。

まずは、佐々木守脚本、実相寺昭雄監督による「恐怖の宇宙線」から。あらすじは例によってシンプルの極地。佐々木守の底知れぬ才能を感じる逸品だ。
未知の宇宙線の影響で、ムシバ少年が土管に書いた怪獣ガヴァドンの落書きが実体化してしまう。ガヴァドンは何も悪さはせずに寝てばかりいるが、そのイビキと存在自体によって東京の経済を麻痺させてしまう。ハヤタはウルトラマンに変身するが、ムシバら子どもたちに「殺さないでーやめてくれー帰れー」のシュプレヒコールを浴びる。ウルトラマンはガヴァドンを持ち上げると、そのまま宇宙に連れ去る。ムシバ少年たちは「いっちまった。ちぇ、つまんねえの」と嘆く。その夜、子どもたちがガヴァドンを偲んで泣いていると、ウルトラマンの声が聞こえてくる。
「泣くな子どもたち。毎年7月7日の七夕の夜、きっとガヴァドンに会えるようにしよう。この星空の下で・・・」
しかしムシバは「七夕の夜、雨が降ったらどうなるんだよう」と愚痴る・・・。


一つ前の第14話「真珠貝防衛指令」で、「女性の敵」なんていう結婚詐欺師か宝石泥棒かという相手と戦わせられたウルトラマンは、今回は「子どもの夢を壊す者」にされてしまった。
佐々木守の狙いは明らかだろう。ウルトラマンは「大人」のメタファーだと、佐々木は子どもたちに伝えている。学校の先生や、口うるさい親、おっかないおまわりさん・・・君たちが苦手な、そういう「大人」とウルトラマンは同じなんだよ、と佐々木は言っている。それがこの作品に込められたメッセージだろう。だからムシバはウルトラマンの言葉に反抗する。サイコーにご機嫌なおもちゃを取り上げられてしまったからだ。

ウルトラマンに向かって「帰れ」コールをした子どもたち。そしてガヴァドンとの別れに涙した子どもたち。
しかし彼らの本音は「ちぇ、つまんねえの」だ。そこに本当のガヴァドンへの愛情があったわけではない。要は、世の中が混乱し、大人たちが困り果てている状態を楽しんでいるだけのことだ。
怪獣ガヴァドンでなくても、東京のど真ん中に巨大なウンコが出現しただけでも、彼らは同じように楽しむことができただろう。さすがに学生時代に児童文学を志したというだけあって、佐々木守は子どもの本質を熟知している。

これまで「人類」を丸ごと守っていることになっていたウルトラマン。しかし「恐怖の宇宙線」で、人類は「大人」と「子ども」に分断されたのだった。


これに対する金城の返答はこうだ。
第20話「恐怖のルート87」。国道87号線でトラックにひき逃げされたムトウアキラ少年の魂が乗り移った(と思われる)怪獣ヒドラは、国道87号線を走るトラックを次々と襲う。ハヤタはウルトラマンに変身するとヒドラと戦い、スペシウム光線でとどめを刺そうとするが、アキコ隊員がヒドラの上にムトウアキラ少年の魂が乗っていることに気がついて叫ぶ。
「ウルトラマン、ヒドラを殺してはいけないわ!」
ウルトラマンもそれに気付いたのか、飛び去るヒドラをただ見送った。アキコ隊員は言う。
「ウルトラマンには分かってたんだわ。ありがとう、ウルトラマン」
ムトウアキラ少年を殺したひき逃げ犯は自首し、事件は解決する。イデ隊員は言う。
「ヒドラは子どもたちの守り神だったのかもしれませんね。遠い遠い昔から・・・」
しかしどうしてアキコ隊員にはヒドラの上のムトウアキラ少年が見えたのか。アキコは言う。
「結局、純真な心の持ち主には、普通の人には見えないものが見えるってことじゃないかしら・・・」


怪獣が子どもの側にいる、という点ではこの両作品は似ているような印象を受けるが、内容は全く違う。ただ寝ていただけのガヴァドンに対し、ヒドラは「交通事故で不幸な死をとげた多くの少年たちの化身」となって大人社会を襲った。ガヴァドンは巨大なウンコと何も変わらないが、ヒドラはゴジラ以来の伝統的な怪獣像を踏襲している。
つまりここで金城哲夫は、怪獣が人間に害をなすからハヤタがウルトラマンになって戦うのだ、という『ウルトラマン』の大前提から逃げてはいない。そしてその上で、ウルトラマンが子どもたちと共にあることを表現する。
ムトウアキラの幻影が見えたのはアキコとウルトラマンと、テレビの前の子どもたちだけだった。ウルトラマンはアキコや子どもたち同様の「純真な心」を持っている。だからウルトラマンは君たちのものなんだ。
それが金城がこの作品に込めたメッセージだろう。


それにしても、なぜガヴァドンもスカイドンもガマクジラも、もっと派手に町中で暴れたり訳もなく人間を襲ったりしないのだろう? どうして実相寺/佐々木の怪獣たちは寝てばかりいるのだろう? そして、何も悪いことをしない怪獣たちを、どうしてウルトラマンは力づくで排除しようとするのだろう?
なんだか怪獣のほうが可哀想に見えてくる。もしかしたら怪獣のほうが哀れな存在なんじゃないか・・・?

怪獣が寝てばかりで何もしなければ、暴力をふるっているのはウルトラマンだけになる。怪獣が弱者に見えてくる。さらにその怪獣が、不幸な生い立ちだったりしたらどうだろう。

しかも、その怪獣が元は人間だったとしたら・・・。

つづく

故郷は地球vsまぼろしの雪山 〜「怪獣な日々」

まぼろしの雪山

実相寺/佐々木vs金城の第2ラウンドは、怪獣になった人間がテーマだ。いずれも主役、というか狂言回しは科特隊のイデ隊員が務める。イデを通して、科特隊の、そしてウルトラマンの「正義」が問われる。

実相寺/佐々木が繰り出すのは、怪獣ジャミラが登場する第23話「故郷は地球」だ。
あらすじを簡単に言うと、有人人工衛星に乗り込んだエリート科学者ジャミラが宇宙で遭難し、自分を救助に来ない全人類に恨みを持つと、どういうわけか怪獣に変化してしまい、地球に復讐のために戻ってくるというストーリーだ。

ジャミラは日本で開かれる国際平和会議にこそ復讐すべき「全人類」の代表が集まって来ると思ったのか、会議の参加者をピンポイントで殺害する。はじめはジャミラ退治に精を出していた科特隊日本支部だったが、パリ本部のアラン隊員からジャミラが元は人間であったことを聞かされたイデは言う。
「おれ、やめた。ジャミラと戦うことはやめた」「考えてみりゃ、ジャミラはおれたちの先輩じゃねえかよ。その人と戦えるか!」「おれたちだってな、いつジャミラと同じ運命になるか知れないんだよ」(『戦後ヒーローの肖像』佐々木守著より)
イデはジャミラにも叫ぶ。
「ジャミラ、てめえ人間らしい心はもうなくなっちまんたんかよォ」
イデの叫びはジャミラには届かず、ジャミラはなおも国際平和会議会場に向かう。結局、科特隊とウルトラマンは、ジャミラの苦手である水を浴びせかけ、ジャミラを退治したのだった・・・。

ジャミラと「故郷は地球」について記事を書くのはこれで3回目になる。
1)ジャミラは可哀想か
2)『故郷は地球』は名作か

何度も同じことを書いても仕方ないので、今回は単刀直入に書くことにしたい。
実相寺/佐々木がこの作品で言いたいことは、ウルトラマンはジャミラが元は人間であったことを知っていながら「怪獣」として殺害したが、人間を守るはずの彼が人間ジャミラを殺していいのか? それでもウルトラマンは人間の味方と言えるのか? ということだ。

と、断定するのには理由がある。
実相寺本人が、ウルトラマンという存在が嫌いだったと証言しているからだ。

『ウルトラマン』の誕生した昭和四十年代の初頭は、東京オリンピック、新幹線開通、首都高速の開通などに引き継いだ列島改造の波が大きくうねっていたころで、映画の題名でいけば超高層のあけぼの時代という、土木工事が根こそぎ日本の様相を変え、地霊を追い払っていた時期なのである。
いわば、ウルトラマンのヒーローとしての本質には、正義という名分に、そんな開発側の論理が匂っていたことは否定できまい。
だから、そのシリーズに手を染めていたとき、ヒーローに感情を移入することは難しかった。つくり手としては、どうしても眠りを妨害される地霊のほうへ感情と関心がかたむいていたわけで、ヒーローを熟知させ、正義の御旗を担ぐ気にはなれなかったのである。(「『ウルトラマン』二十五周年偶感」

どうもあのころ、ウルトラマンなど、正義の側に肩入れをしなかったのは、土建屋と歩調を合わせて開発に狂奔するイメージが、超人側にはつきまとっていたせいかもしれない。(「ウルトラ・シリーズの怪獣たち」

ウルトラマンのような巨大なヒーローは、結局人間に利用されるだけされて、ある時代が終われば御用済みの払い下げになるのだろう。(「ウルトラマンを作った男」

いずれもちくま文庫から出ている『怪獣な日々』(実相寺昭雄著)から引用した。
実相寺のウルトラが、金城哲夫と全く異なる地点からスタートしていることは一目瞭然だろう。実相寺作品とは、最初からウルトラマンの「正義」を否定することを目標にしていた。そのために逆算されて生まれたのが、子どもの夢から生まれた何も悪事を働かない怪獣ガヴァドンであり、ただ重いだけの怪獣スカイドンであり、科学競争の犠牲者ジャミラだった。

そもそも実相寺は『ウルトラマン』制作の初期メンバーではない。金城哲夫を始めとした若い情熱が、『ウルトラQ』を超えるものを、全く新しい子どもたちのヒーローを、とぶつかりあったあの現場に、実相寺はいない。彼はTBSからの出向社員で、遅れてウルトラに参加した助っ人だった。実相寺が来た時にはすでに『ウルトラマン』は完成していた。
何事も、創造するよりも破壊するほうが簡単なのは分かりきったことだ。『ウルトラマン』で言えば、怪獣が悪さをせず、むしろ人間の行為の犠牲者であるように設定すれば、それを排除しようとするウルトラマンの正義は容易に揺らいでしまう。
しかしそれは完全なルール違反だとぼくは思う。手を使ってサッカーをやったなら、それはもはやサッカーとは言えないはずだ。

ただ、監督陣の末端にいてはっきりいえることは、これを見る対象としての子供のことなど、わたしは何も考えていなかった、ということだ。ほかの監督さんのことは知らない。少なくともわたしは、子供に”夢”を与えたいということは、全く思わなかった。(「今日の夢・ウルトラの夢」

ほかの監督さんのことは知らない・・・つまり実相寺は『ウルトラマン』を使って、『ウルトラマン』ではないものを作っていたのだろう。


「故郷は地球」に対する金城の返答は、第30話「まぼろしの雪山」だ。

ある雪深い村に、15年前、行き倒れの母子があった。母親はすでに死んでいたが赤ん坊は生きていて、そのことから「雪女の娘」だと村人に嫌われた。娘はゆきと名付けられ、飯田山の麓に住む独り者の老人に育てられたが、老人も2年前に死んでしまった。あるとき村の猟師の一人が、いつも猟の邪魔をするからと言ってゆきに脅しの発砲をした。するとそこに土地の伝説の怪獣ウーが現れて、ゆきを守った。しかしそのせいで村人のゆきへの迫害はますます酷くなり、ついには鉄砲を持った猟師の集団にゆきは追われた。ゆきの助けを求める声に、怪獣ウーがまたも現れた。ハヤタはウルトラマンに変身してウーと戦った。いよいよスペシウム光線と思われたそのとき、ゆきがウーを呼ぶ声が聞こえてきた。やがてその声が聞こえなくなると、ウーは消滅した。雪山で死んでいるゆきの映像が映し出された・・・。

「故郷は地球」と同じく、「まぼろしの雪山」も演劇上の主役はイデだ。幼い時に母と死に別れたイデは、ゆきに同情し「何だか今度の事件はひどく気が重いんだ」とぼやく。
「ぼくにはウーが、15年前に死んだ雪ん子(ゆき)の母親の身代わりのような気がするんだ。ひょっとすると母親の魂が、今でもゆきのそばに・・・」
しかしアラシ隊員にそれは感傷だと言われ、イデはウーとの戦いに向かう。

戦闘を懐疑し、放棄しかけるという点で「故郷は地球」と「まぼろしの雪山」のイデの立ち位置は似ている。また、ウーがゆきの母親ではないかと言われるところは、元は人間であったジャミラに近いものがある。
が、両者のウルトラマンの扱いは全く違う。水に弱いジャミラに、執拗なまでにウルトラ水流を浴びせ続けたウルトラマンはここにはいない。ここにいるのは「恐怖のルート87」で「純真な心の持ち主」にしか見えないアキラ少年を見た、あのウルトラマンだ。ウルトラマンは今回も、ウーを呼ぶゆきの声を聞いたからスペシウム光線を発射しなかったのだ。

もちろん「怪獣」の扱いも異なる。実相寺は自分の文章のなかで

時代の間尺に合わなくなったもの、地に宿る霊、樹々の精、といったものが消えゆく宿命を背負って”怪獣”というかたちを結んだことは間違いないだろう。

だから感情移入は滅びゆくものへの挽歌という趣になった。(「ウルトラ・シリーズの怪獣たち」)

と書いているが、こういう書き方は「ずるい」とぼくは思う。それは、そういう意味での怪獣を描き続けたのは金城哲夫であって、実相寺昭雄ではないからだ。
実相寺のガマクジラ、ガヴァドン、ジャミラ、スカイドン(テレスドン、シーボーズ)のどこが「時代の間尺に合わなくなったもの、地に宿る霊、樹々の精」なのだろうか。そういった怪獣の哀れさは、金城のヒドラにありウーにこそあるのではないか。
金城は『ウルトラQ』のころから、巨大猿ゴロー、マンモスフラワー、岩石怪獣ゴルゴス、大ダコのスダール、大蜘蛛タランチュラ、モグラ怪獣モングラーなどで、怪獣たちの悲しさや哀れさを描いてきた。その上で、それらを退治せざるをえないウルトラマンというヒーロー像を追求した。

上原正三の書いた『金城哲夫ウルトラマン島唄』のなかで、金城が『怪獣解剖図鑑』の大伴昌司を相手にこんな会話をしている様子が描かれている。

「だから、ぼくは何度も言っています。ウルトラマンは怪獣の殺し屋ではない」
「でも怪獣を退治している」
「殺すつもりはないんです」
「えッ?」
「お前、やめろよ、そんな悪さやめろ。早く帰れ、山でも海でも、巣に帰れ」
「ウルトラマンが?」
「そうです。諭しているんですよ、初めは。それでも悪さをやめないから懲らしめるんです」
「懲らしめる?」
「そうです。それも仕方なく懲らしめるんです。よーく見てご覧なさい。ウルトラマンの顔。怪獣に話しかけていますよ。怪獣にもいろいろな性格があるから、きかん気の強いヤツ、生まれながらの乱暴者とか」


怪獣博士の大伴昌司にして、金城のウルトラマンに込めた思いが全く理解できていなかったことは驚きに値する。無論、そうした混乱を招いた元凶の一端が、実相寺昭雄作品にあることは言うまでもないことだろう。同じシリーズでありながら、全く違うヒーロー像を描く人間が同居していて、混乱を起こさないことの方が不思議というものだ。

ところで、最初は「実相寺/佐々木」と書いていたものが、途中から「実相寺」一人になったのには訳がある。
ぼくの見るところ、佐々木守には何が何でもウルトラマンを破壊しようという意図があったわけではないようだ。ないわけではないが、実相寺より薄い。
それは「故郷は地球」の脚本を読むと分かる。ジャミラを「一匹の怪獣として葬り去れ!」と言った科特隊パリ本部のアラン。放映された映像では、その言葉をアランは全く表情を変えることなく冷徹に言い切った。それが余計に、科特隊という組織のありようを強調する結果になった。
しかし佐々木の脚本では、そのときアランは涙を流していたのだ。

『ウルトラマン』には、実相寺昭雄が自ら脚本を書いた作品が一本ある。
第22話「地上破壊工作」。
果たして、そこで破壊されたのは「地上」だけだったのだろうか。

つづく

地上破壊工作vs怪獣殿下 <テレスドン>

怪獣殿下

ここでもう一度、ウルトラマンとハヤタのなれそめについて確認しておきたい。
第1話「ウルトラ作戦第一号」。
まず「M78星雲の宇宙人」が「遠い宇宙からベムラーを宇宙の墓場に運ぶ途中、ベムラーに逃げだされて、それを追って地球に来た」。ところがM78星雲人は、パトロール中の科特隊隊員ハヤタと衝突し、ハヤタを殺してしまう。M78星雲人は「申し訳ないことをした、ハヤタ隊員。その代わり、私の命を君にあげよう」といい「君はどうなるんだ」と聞くハヤタに「君と一心同体になるのだ。そして地球の平和のために働きたい」と言った・・・。

ここには『ウルトラマン』における重要な設定が、少なくとも2点ある。
一つは、ウルトラマンは地球の平和を守るためにやってきたわけではない、ということ。詳しいことは分からないが、ウルトラマンは死刑囚を護送する警官のような仕事をしていたらしい。しかし囚人ベムラーに脱走されて、それを追って地球に来た。

もう一つは、ウルトラマンは地球の平和を守るためにハヤタと一心同体になったわけではない、ということ。ウルトラマンには地球を守る動機も理由もない。ただ、殺してしまったハヤタに命を与えたところ、そのハヤタが地球の平和を願っていたので、その手助けをすることにした。
要は、ウルトラマンはM78星雲からハヤタの分の「命」が届くまでの間、ハヤタの意思や願望の発現として、地球上で怪獣退治に携わることになったということだ。

地球を守りたかったのはウルトラマンではない。地球人、ハヤタだ。
これが『ウルトラマン』の物語の「肝」だとぼくは思う。なぜならこの一点があるからこそ、『ウルトラマン』は人間の戦いの延長にあることになるからだ。

ということを念頭において観たとき、次のエピソードはどのように思えるだろうか。
実相寺昭雄脚本、監督作品の『ウルトラマン』第22話「地上破壊工作」。

この回、地上侵略を目論む「地底人」の手でハヤタは拉致されてしまう。地底人は怪獣テレスドンを地上に送り込んで東京の破壊を進めつつ、ハヤタに催眠術をかける。彼らはハヤタを操縦することで、ウルトラマンをも我がものにしようとしたのだった。術にかけられたハヤタの手がベータカプセルに伸びる。フラッシュビームが焚かれる。すると、

ウルトラマンは光の子である。宇宙のかなたM78星雲からの正義の使者ウルトラマンは、たとえハヤタが意識を失っていようとも、光の国のスーパーマンだったのである(ナレーション)

ウルトラマンは登場の際の閃光で地底人を滅ぼすと、地上で暴れるテレスドンと戦い、これを始末した・・・。

・・・ハヤタが意識を失っていても、ウルトラマンは自発的に怪獣テレスドンと戦った・・・。
これはもはや「ウルトラ破壊工作」とも呼べる、恐るべき陰謀と言っていいだろう。ウルトラマンが自分の意思で怪獣を倒し地球を守っているというなら、そこに人間の戦いはない。ウルトラマンは理由もなく人間に肩入れして怪獣を殺戮する、戦闘代行人だ。そしてハヤタは、困った時にウルトラマンを「呼ぶ」だけの人間ということになるだろう。
この瞬間、人間は戦闘をウルトラマンに依存する、哀れな存在に成り果てた。


ウルトラマンに対する子どもの”夢”。
それは果たして、ウルトラマンを「呼ぶ」ことだっただろうか。後の『ウルトラマンタロウ』にはこんな歌詞がある。
力が欲しいと願うとき腕のバッジが輝いて
ウルトラマンは「なる」ものだと、この歌詞は言っているようにぼくには思える。ハヤタを殺したM78星雲人には地球を守る理由なんて存在しない。ただ、ハヤタの強烈なまでの平和への思い、願い、巨大な敵と戦おうとする勇気、それがあるからハヤタはウルトラマンに「なる」。
そして子どもたちは鉛筆か木の枝を空に差し出し、ウルトラマンに「なる」ことを夢見る。

ただ、監督陣の末端にいてはっきりいえることは、これを見る対象としての子供のことなど、わたしは何も考えていなかった、ということだ。ほかの監督さんのことは知らない。少なくともわたしは、子供に”夢”を与えたいということは、全く思わなかった。(「今日の夢・ウルトラの夢」実相寺昭雄)

実相寺昭雄の手で、ウルトラマンと人間ハヤタは分離させられた。ハヤタは困ったときにベータカプセルのスイッチを押し、ウルトラマンを「呼ぶ」だけの人になった。

それへの反撃か、金城哲夫は第26話「怪獣殿下・前編」で、ハヤタ以外の人間にベータカプセルのスイッチを押させている。怪獣ゴモラとウルトラマンの戦闘を見物していた鈴木治少年(怪獣殿下)の目の前に、なぜかベータカプセルが転がり落ちてくる。戦闘が終わって飛び去るウルトラマン。それを見送った少年は、子どもらしい無意味さでベータカプセルのスイッチを連打する。もちろん、何も起こらない。

ここでは、少なくともハヤタ以外の人間がベータカプセルを使っても、ウルトラマンが現れることがないことだけは示されてはいる。が、もう全ては手遅れだろう。
ハヤタの意思とは関係なくウルトラマンが人間社会を守るために怪獣を殺した、というストーリーはもう放映されてしまっているのだ。今さら、ハヤタはあのとき実は催眠術にかかっていなくて・・・なんて、ますます子どもたちの心を裏切る結果にしかならない。


それにしても、実相寺昭雄というのは本当に恐るべき人物だ。
実相寺が1972年に書いた「くたばれ!ウルトラマン!」という文章の中に、次のような一説がある。

そして、現在の怪獣ブームの最大の特質は、実は怪獣が全く姿を消していることにあるのではないだろうか(中略)現在の英雄たちが相手にしているのは、殆どが宇宙から来た侵略者であり、怪獣めいた異形が宇宙人に伴われてやって来ても、彼等はもはや昔日の怪獣ではない。仮想敵国としての侵略側の番犬、または、兵器の一環としてその姿をおどろおどろしく飾っているだけなのである。いわば現在のブラウン管を彩っている英雄たちの相手は、怪獣もどきであって怪獣ではないのだ

おそらく『ウルトラマンA』の侵略者ヤプールとその手先の超獣のことを言っているのだろうと思うが、どうやら実相寺は72年当時の怪獣のありようを嘆いているようだ。最近の怪獣は「番犬」「兵器」「怪獣もどき」であって、彼がウルトラで作り出した本当の「怪獣」とは異なるものだと。

では、『ウルトラマン』で一番初めに登場した「番犬」「兵器」「怪獣もどき」とは何だったか。
・・・テレスドンだ。
実相寺が脚本も監督も担当した「地上破壊工作」の怪獣テレスドンだ。
何のことはない。実相寺こそが率先して、怪獣を侵略者の「番犬」にしていったのだ。

つづく

怪獣墓場 <シーボーズ>

悩むヒーロー

『ウルトラマン』第35話「怪獣墓場」(佐々木守脚本/実相寺昭雄監督)は、宇宙パトロール中のアラシ、イデ両隊員が、彼らが宇宙の「ウルトラゾーン」と呼ぶ一帯で、過去に戦ってきた怪獣たちの亡霊を発見するところから始まる。
「やつらはここまでウルトラマンに放り出されて、そして永遠にウルトラゾーンを漂っているんだ」(イデ)
「まるで怪獣墓場だな、ここは」(アラシ)

すでにみてきたように実相寺/佐々木作品には、ウルトラマンを「正義」の座から引きずり降ろそうという意図がある。怪獣の墓場があるエリアをあらかじめ「ウルトラゾーン」と呼ぶのも、その一環にあるとみていいだろう。
続いて舞台は科特隊基地内部に移る。

「話を聞いてみるとかわいそうね。姿形があたしたちと違い、力がありすぎるというだけで、宇宙へ追放されてしまったのだから」(フジ)
「そういえば随分やっつけたなあ・・・ウルトラマンの力を借りて」(ムラマツ)
「やつらはウルトラマンに力いっぱい放り出されて無重力地帯までスッ飛んでいき、そこで永久に宇宙の孤児となっているんですよ」(アラシ)
「キャップ、どうです? 怪獣供養ってのをやってみませんか?」(イデ)
その場にいたたまれなくなったハヤタは外へ飛び出す。そして、
「許してくれ。地球の平和のため、やむなくお前たちと戦ったのだ。俺を許してくれ」(ハヤタ)
さらにナレーションがダメ押し。
「心ならずも葬った数々の怪獣たちに対し、ウルトラマンはおそらく心の中で詫びていたに違いない」

以上の会話が、ハヤタ(ウルトラマン)に怪獣に対して「謝罪」させることを結論にして、そこから逆算されて作られていることは明白だろう。フジ隊員は怪獣を「姿形があたしたちと違い、力がありすぎるというだけ」というが、そんなはずはない。また、アラシとイデが見た亡霊は、ケムラー、アントラー、ネロンガだったが、それらは爆死したのであって、宇宙に放り投げられたわけではない。
しかしその後、実際に「姿形があたしたちと違い、力がありすぎるというだけ」という怪獣シーボーズが宇宙から落ちてきて、また宇宙に戻されるというストーリーが続くため、まるで全ての怪獣がそうであったかのように思わせることに成功している。
要するにこのストーリーは、ハヤタ(ウルトラマン)に「謝罪」させるために、事実を「ねつ造」している。

だが、どうして佐々木守にはハヤタに謝罪させる必要があったのだろう?
『戦後ヒーローの肖像』という本のなかで、当時の気分について佐々木はこう書いている。

こうした特撮ドラマを書きながら思ったことは、宇宙人は本当に地球の侵略者なのかということだった。明らかに地球侵略を狙ってきた宇宙人もいた。しかし多くの宇宙人はたまたま何かの偶然や出来事が重なって地球に落ちてきただけではないのか。それを自分たちと姿かたちや話す言葉が違うというだけで闘い追放しようとするのは、それこそ地球人のエゴであり、逆に侵略しようとする野望の原点ではないのか。これに欲望が加われば戦争の理由になる。かつての日本のアジアや太平洋地域への侵略の基礎はここにあったはずだ。いま宇宙人の侵略と戦うという大義名分にかくれて、ぼくたちはいつの間にか戦争気分を醸成しているのではないか。まさに「地球人は宇宙の敵」であり「日本人は地球の敵」になりつつあるのではないか。


つまり佐々木に言わせれば、怪獣退治はアジアへの侵略の原点につながることであり、それを行う日本人は「地球の敵」になりつつあり、だからハヤタとウルトラマンは怪獣に謝罪しなくてはならない、ということらしい。

言うまでもないが、これぞまさしく正真正銘、非の打ち所のない「自虐史観」というものだろう。自虐史観の持ち主が、自虐史観を子どもたちに植え付けるために作ったファンタジーが「怪獣墓場」という物語だということだ。

それにしても、佐々木には何故にそうまでして、子どもたちに自虐史観を植え付ける必要があったのだろう。ぼくの見るところ、佐々木には何が何でも守り抜きたいものがあり、そのための手段として自虐史観を使った形跡がある。

日本の敗北を体験した僕には「戦後民主主義」は明確な手ざわりとして残っている。それは『個人が、体制よりも社会よりも組織よりも、すべてに優先される』という考え方であり、そんな行動のことであった。(「佐々木守シナリオ集・怪獣墓場」あとがき)


戦後民主主義。
それが佐々木の死守したいものだったようだ。それは、個人がなによりも優先される、という思想のことだ。時々勘違いしている人がいるが、多数決の原則等は「民主主義」のことで、一般的に「戦後民主主義」は、戦後の日本にだけ存在する行き過ぎた個人主義のことを指すようだ。個人の自由や個人の権利が最重要視されるので、悪平等に繋がったり、ゆとり教育を生んだりする土壌となったものだ。

終戦を抑圧的で旧態然とした北陸の片田舎(本人が言っていることです)で迎えた佐々木少年は、GHQによってもたらされた「戦後民主主義」に、限りない夢と可能性と未来を感じたそうだ。これだけは手放したくない。個人の自由や権利を奪う社会は二度と来て欲しくない。
そういった佐々木の願いが顕著に現れているのが「故郷は地球」のジャミラだろう。たしかにジャミラの持つ権利や自由を奪うことは、あってはならないことだ。

しかしその思いを表現するために、佐々木は「公」を「悪」だと決めつけた。「私」を抑圧するものとして「公」を捉えた。だから「公」に属する科特隊、ハヤタ、ウルトラマンは、佐々木にとって「悪」だということになる。
それでは正義の味方ウルトラマンを、子どもたちに「悪」であるように思わせるにはどうしたいいか。一番てっとり早いのはウルトラマンに「謝罪」させることだろう。あのウルトラマンが謝っているんだから、きっと何か悪いことをしたのに違いない。と、純真な少年少女なら無条件に信じてしまっても仕方がないことだ。

が、大人はどうだろう。いい大人が、純真な少年少女のように、他人が言うことをそのまんま受け入れてしまっていいものだろうか。例えば、(ホロコースト的な意味での)「南京大虐殺」。あるいは、(軍の強制という意味での)「従軍慰安婦」といった自虐史観・・・。
ジャミラの「故郷は地球」やシーボーズの「怪獣墓場」を無批判に「名作」だと信じることと、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」が本当に存在したと信じることは、どこか似ているようにぼくには思える。

終戦を8才でむかえた佐々木にとって、1966年にジャミラを、1967年にシーボーズを生み出すことには大きな意義があった。しかしそこで追求された「戦後民主主義」は、現在どう発展しているというのか。
「公」より「私」が優先される社会で、公務員や政治家が「私」に走ることを、一体誰が非難できるのか。社会的なマナーやモラルの崩壊を、どこの誰が止められるというのか。

精神分析の世界では、ウルトラマンなどのヒーローは子どもにとって「超自我」にある存在だそうだ。心の中のウルトラマンが、悪いことをしようとする心の働きを制御する、という意味だろう。
しかしそのウルトラマンは、これまで殺してきた怪獣たちに「謝罪」してしまった。ウルトラマンも悪いことをしている。そんなウルトラマンは、本当に「超自我」として機能するのだろうか。

もちろん、中年になったウルトラファンが、自嘲的な意味合いを込めて「故郷は地球」や「怪獣墓場」を懐かしむことは反対しない。しかし、一方で現在の日本社会の精神崩壊を嘆いたり村山談話に腹を立てながら、その一方で「故郷は地球」「怪獣墓場」を名作扱いすることは完全に矛盾するとぼくは思う。それらはみな、根っ子を同じくするものだからだ。

その根っ子、戦後民主主義は、このあとも着実にウルトラを蝕んでいくことになる。そして『ウルトラマンA』をもってウルトラという巨木は朽ち果ててしまうことになるが、その件についてはいずれ書きたいと思う。
それよりもまず、佐々木守の思想が最も顕著に現れている「ヒーロー番組」について検討し、佐々木のヒーロー観をより一層、浮き彫りにできたらと思う。

アイアンキング』だ。

つづく

遊星から来た兄弟/禁じられた言葉 〜在日米軍とウルトラマン

ザラブとメフィラス

そもそもウルトラマンには地球を守る理由はない。だから、地球を守りたいのはハヤタであって、ウルトラマンではない。つまりウルトラマンは、人間ハヤタの意志の実現として登場する。
金城哲夫がこのことを十分意識していたことは、1967年に発行された『怪獣大全集3/怪獣絵物語ウルトラマン』で読むことができる(現在は『小説ウルトラマン』ちくま文庫)。

ピカッ!
あたり一面に光がかがやいたかと思うとハヤタはいつのまにか自分が全長四十メートルのあの宇宙人になっていることに気がついた。S16号は小さく足元にころがっている。
(そうか、そうだったのか・・・あの宇宙人はあれからずっとぼくのからだの中にいたのだ。まさに一心同体なんだ。ぼくはハヤタでもあれば、あの宇宙人でもあるのだ。一つのいのちで二人が生きているのだ!)
いっしゅん、子供のころに読んだ「ガリバー旅行記」を思い出した。小人島に上陸したガリバーの気持みたいだった。
(よし、ベムラーに体当たりだ)
足を動かすと、きょだいな立木がまるで雑草のようにふみ倒されてゆく。まるで自分の体ではないみたいで、ハヤタの意志とは関係なしに、数歩でベムラーに接近した。ハヤタは消えて、M78星雲の宇宙人が生き返ったのだ。


以上はテレビ放送の第一話「ウルトラ作戦第一号」で、ハヤタが初めてウルトラマンに変身した直後の描写だが、ウルトラマンの体になったあともハヤタの意識がしばらくは残っていることが分かる。ウルトラマンはまさに、ハヤタの意志を引き継いで行動しているというわけだ。

こうしたハヤタとウルトラマンの関係は、これまで順に見てきたように、こと怪獣を相手にしているうちは何の問題もなくウマくいっていた。それは『ウルトラマン』の世界が、日本人の精神世界や宗教観といったものの内部だけで完結していたおかげとも言えるものだった。

八百万の神々が祟り、科特隊による祝詞の奏上といけにえの儀式が行われたのち、阿弥陀如来の慈悲による祟り神の鎮魂に至る。ケガレは宇宙に放出されてミソギが行われる。
そしてこの一連の物語の肝が、人間ハヤタの死をも恐れぬ精神力がウルトラマンを実現するという点において、まさに日本的世界観が完成するというわけだ。日本においては、人間の精神力は何ものにも勝るものなのだ。
聞くところによると、あれほど外国でも喝采を浴びた『ゴジラ』に比べて『ウルトラマン』はほとんど受け入れられなかったというが、それもこれも『ウルトラマン』があまりにも日本的だったせいもあるのだろう。

しかしそんな『ウルトラマン』の世界は次第に亀裂が入るようになり、やがては完全に崩壊してしまった。
亀裂の一つは、すでに見てきた実相寺/佐々木守による内部からの破壊工作の結実だった。ウルトラマンは、何も悪事を働かない怪獣を、人間の都合にあわせて排除する公権力の尖兵だと彼らは糾弾した。いまだに「故郷は地球」や「怪獣墓場」が「名作」だと言われるんだから、彼らの試みは完全に成功したと言っていいだろう。

しかしそんな実相寺や佐々木の嫌がらせなどは、ほんの悪戯程度のものでしかなかった。
金城哲夫自らが入れてしまったもう一つの亀裂は、『ウルトラマン』世界の致命傷となる一撃だった。それは二人の侵略宇宙人、ザラブ星人とメフィラス星人によってもたらされたものだ。

第18話「遊星から来た兄弟
ウルトラマンとハヤタが一心同体であることを知っていたザラブ星人は、ハヤタを拉致したうえでニセウルトラマンに変身すると街を破壊した。ザラブ星人は言う。
「ウルトラマンこそ地球征服を狙う宇宙人ではないでしょうか」
再びニセウルトラマンが現れると、科特隊ムラマツ隊長は言う。
「たとえウルトラマンでも、この地球上で暴力をふるう者とは戦わなければならん」

第33話「禁じられた言葉
自らを「紳士的」だというメフィラス星人はフジ隊員の弟サトルに、地球をあなたにあげますと言えばサトルだけは最高の暮らしをさせてあげようと持ちかけるが、サトルに拒否されてしまう。これを聞いたハヤタが大笑いをすると
「だまれウルトラマン! きさまは宇宙人なのか、人間なのか!」
と激怒する。

この二人の侵略宇宙人から見ればウルトラマンはあくまで第三者であって、地球を守る理由が何もないのに人間に肩入れする厄介でおせっかいな存在でしかない。要は地球にとってウルトラマンは、赤の他人だということだ。
こうして宇宙という外部からの視線にさらされた時、ハヤタの意志の実現やら日本的世界観やらは一瞬にしてたわごとと化し、どこかへ吹き飛んでしまった。実相寺が「地上破壊工作」でやったような手の込んだことをする必要は全くなかった。ウルトラマンの過去を知る侵略宇宙人を登場させるだけで、簡単にハヤタとウルトラマンは分離してしまったのだった。

これは実相寺/佐々木の悪戯が所詮は金城の手の中で踊っていたことと比べて、あまりにすさまじい破壊力だったといえるだろう。ハヤタという人間の意志やら思いやら願いやらがウルトラマンという像を結ぶとぼくらは思っていたが、そのウルトラマンがハヤタと一心同体になる前の姿を知っている宇宙人がいる。もちろん彼らは、ウルトラマンがもともと地球を守るために地球にやってきたわけではないことも知っているだろう。

となると、彼ら侵略宇宙人から見たウルトラマンとは、地球人が(はっきり言えば日本人が)国防を依存している存在ということになる。
現実世界でそれと似た存在を探すなら、それは在日米軍以外に考えられない。

つづく

小さな英雄/さらばウルトラマン(最終回)

ジェロニモン

ぼくは約25年ぶりにオタク趣味を再開したおっさんなので詳しい顛末については知らないが、1980年代のウルトラファンの間では「ウルトラマン=安保構造」という説があったようだ。今ぼくの手元にある本では『ヒーローの修辞学』(平松洋)『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(佐藤健志)がそういった議論を展開している。いずれも発刊は1992年。

このウルトラマン=安保構造説を簡単に言うと以下の通り。

怪獣=テロや災害
宇宙人=ソ連・北朝鮮
科特隊=自衛隊
ウルトラマン=在日米軍

つまりは国防や治安維持を米軍に依存している日本人の甘え意識が『ウルトラマン』世界と一致したため、平均視聴率30%以上というあれだけの大ヒット作となったのだ、という理屈だ。
なるほど、それならアメリカやヨーロッパで『ウルトラマン』がヒットしなかった理由の説明にもなり、かなりの説得力がある・・・というような気がするが、実のところ金城哲夫はそんなことにはとっくに気がついていたようだ。

第37話「小さな英雄
最終回を2話後に控えたこの回は、多々良島でレッドキングに殺されたピグモンが復活して、日本の危機を伝えるためにはるばる来日してきたことから始まる。
ピグモンは言う。
「科学特捜隊とウルトラマンに倒された怪獣たちがジェロニモンの力で命を復活して、科学特捜隊に復讐するため総攻撃をかける。あと5時間で世界各地から60匹以上の怪獣が日本に終結する。今のうちにジェロニモンを倒せ。ジェロニモンは怪獣の酋長で、超能力を持っている。注意せよ」

ここで語られている最も重要な点とは何か。
それは怪獣たちが知性を持ち、明確な目的を持って行動し始めた、ということだ。これは明らかに『ウルトラQ』や初期の『ウルトラマン』に見られた、八百万の神としての怪獣というものの自己否定と言えるだろう。怪獣はついに侵略者となった。

ではその怪獣たちから見たウルトラマンとは何か。
第7話「バラージの青い石」では、ウルトラマンも怪獣と同じく「神」だと表現された。ここには怪獣=悪、ウルトラマン=善という単純な勧善懲悪を嫌った金城の感覚が見てとれる。ウルトラマンと怪獣には上下はない。ただウルトラマンは、人間ハヤタの意志の実現として怪獣と戦うのだということだろう。

しかし怪獣が組織的な侵略者になってしまえば事情は異なる。ウルトラマンはここでも怪獣対人間の戦いに割り込んでくる第三者のM78星雲人でしかない。
こうして金城哲夫自らの手で『ウルトラマン』の世界は完全に崩壊させられた。

そしてその理由こそが、上記ウルトラマン=安保構造説に金城自身が気がついていたからだとぼくは思う。
怪獣酋長ジェロニモン。
この名前が、北米大陸の先住民、インディアン・アパッチ族のジェロニモに由来していることは疑いがない。だからわざわざ怪獣の「王」ではなく「酋長」と呼んでいる。そしてかつてジェロニモが戦った相手と現在ジェロニモンが復讐を誓う相手をだぶらせている。
つまりウルトラマンは「アメリカ」だと、金城は言っているのだ。

沖縄出身であの沖縄戦を実体験した金城にとって、『ウルトラマン』が内在してしまったこの構造はあってはならないものだったことだろう。また、子どもたちが無邪気にウルトラマンをヒーローとして喝采することも許されざることだっただろう。それでは子どもたちは、当時なおも沖縄を占領し続けているアメリカ軍を応援していることになってしまう。

かくして最終回「さらばウルトラマン」では金城の手によるウルトラ殺しが実行された。
そしてウルトラマンを見送るムラマツ隊長は言う。
「地球の平和はわれわれ科学特捜隊の手で守り抜いていこう」



と言うと、なんだか不安に満ちてはいるが人類が自立していく船出の日、といった印象があるかもしれないが、実は金城自身はそうは思っていなかったようだ。果たして人類にとって、本当にウルトラマンとは必要な存在だったのか? 金城はそうではないと言っているようにぼくには思える。以下に最終回「さらばウルトラマン」で交わされたゾフィーとウルトラマンの対話を引用する。

「わたしはM78星雲の宇宙警備隊ゾフィー。さあ、わたしと一緒に光の国に帰ろう、ウルトラマン」
「ゾフィー、わたしのからだはわたしだけのものではない。わたしが帰ったら、一人の地球人が死んでしまうのだ」
「ウルトラマン、お前はもう十分に地球のために尽くしたのだ。地球人は許してくれるだろう」
「ハヤタは立派な人間だ。犠牲にはできない。わたしは地球に残る」
「地球の平和は人間の手でつかみとることに価値がある。ウルトラマン、いつまでも地球にいてはいかん」
「ゾフィー、それならばわたしの命をハヤタにあげて地球を去りたい」
「お前は死んでもいいのか?」
「構わない。わたしはもう2万年も生きたのだ。地球人の命は非常に短い。それにハヤタはまだ若い。彼を犠牲にはできない」
「ウルトラマン、そんなに地球人が好きになったのか。よろしい、わたしは命をふたつ持ってきた。そのひとつをハヤタにやろう」
「ありがとうゾフィー」
「じゃ、ハヤタと君のからだを分離するぞ」


この対話からは、仮にも「宇宙警備隊」を自称するゾフィーが、地球を警備する気など全くないことがはっきりと見てとれる。そしてゾフィーはまた、ウルトラマンが地球に残りたがっている理由を「そんなに地球人が好きになった」だけだと見ていることもわかる。要するに警備のプロフェッショナルであるゾフィーから見て、地球人には特別ウルトラマンの手助けは必要ないということだ。だから余計なおせっかいはやめろと、ゾフィーは言っているのだ。

ここで「ウルトラマン」を「在日米軍」と言いかえると、金城の真意がうかがえるようで思わず笑いがこみ上げてきてしまうが、それはさておき、実際のところ「怪獣酋長」などと何やら最強を臭わせるジェロニモンを倒したのはイデ隊員だったし、ウルトラマンを敗ったゼットンを倒したのも科特隊の新兵器だった。たしかにウルトラマンがいてくれれば科特隊の被害は最小で済むだろう。しかし絶対に必要かといえば実はそうでもない。そういったあたりが妥当な位置だろうとぼくは思う。

もしかしたら2万年もの間、怪獣墓場とM78星雲を往復してきたウルトラマンは、今の生活に飽き飽きしていたのかもしれない。それが誤って殺してしまったハヤタの残留思念に触れたとき、若き日のあの燃えたぎるような情熱を思い出したのかもしれない。よし、この若者に力を貸してやろう。
案外そんなところが、ウルトラマンが地球にとどまった理由だったのかもしれない。

と言うのも、続く『ウルトラセブン』がまさにそういったひとりの宇宙人と、人間たちとの友情を描いた物語だったからだ。

つづく