プロフィール

竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
一つの 「カテゴリ」 で一つの記事となってます(記事は古い順に並んでます)。同世代のおっさん向け。

カテゴリ
もくじ

全ての記事タイトルを表示する

ブログ内検索
月別アーカイブ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

主要記事
リンク
応援中
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

フリーエリア
趣味 - シュミラン

ウルトラマンA最終回 最後の言葉は名言か?

エースの願い

『ウルトラマンA』最終回、第52話「明日のエースは君だ!」は、次のような言葉で締めくくられる。

やさしさを失わないでくれ。
弱いものをいたわり、
互いに助け合い、
どこの国の人たちとも友だちになろうとする気持ちを失わないでくれ。
たとえ、その気持ちが何百回裏切られようと。
それがわたしの最後の願いだ


現在発売中の『ウルトラマンA』DVD13巻のパッケージに「今なお色褪せない感動のメッセージが再び」とあるように、このウルトラマンA最後のセリフは、一般的には「名言」だと言われている。
もちろんぼくも、このセリフだけをとれば「名言」だと思う。

しかし、『ウルトラマンA』はこの最終回だけが単独であるのではなく、52回も続いたシリーズ作品だ。
それで『ウルトラマンA』を第1話から順番に見ていくと、実はこの「最後のセリフ」が「名言」でも何でもなく、ウルトラマンAの「敗北宣言」に他ならないことが分かる。

敗北宣言・・・。
それではウルトラマンAは何に敗北したのか?

そもそも『ウルトラマンA』が他のウルトラマンたちと決定的に違うのは、それが元々は「男女の合体による変身」というスタイルをとったことだ。普通に考えればこのスタイルの根源には、男性である北斗星司の「勇気」と、女性である南夕子の「やさしさ」の融合、という発想があると見ることができるだろう。
あるいはそれらを、「父性」と「母性」の融合、と考えることも可能だろう。

このうち、「父性」については前作『帰ってきたウルトラマン』が絶好のお手本となる。
11歳の少年、坂田次郎くんはMAT隊員・郷秀樹の生き様を間近に目撃し続け、郷に憧れ、郷のようになりたいと願った。郷はそんな次郎くんに「ウルトラ5つの誓い」という生活規範を与えた。
この郷秀樹の一連の行動の全てを一言で言えば「父性」ということになる。

一応、Wikipediaから「父性」を引用すれば、こうなる。

「子供を社会化していくように作動する能力と機能」
「子供に我慢・規範を教え、責任主体とし、理想を示すもの」
「善と悪を区別して指導する傾向」


『仮面ライダーV3』や『快傑ズバット』で主役を演じた宮内洋は常々「特撮ヒーロー番組とは子供達に正義の心を教える教育番組に外ならない」というポリシーを表明していたそうだが、ヒーロー番組の「父性」を分かり易く言えばそういうことになるだろう。

一方「母性」のほうを、同じくWikipediaから引用すれば、こうなる。

「子供の欲求を受け止め満たして子供を包み込んでいくことを指す」
「善悪の分け隔てなくすべてを包み込む傾向のこと」


もしもヒーロー番組が宮内の言うように「教育番組」であるのなら、「父性」だけでは「教育」の半面しか伝えられないことも確かなことだ。子どもにとって「父性」と「母性」はいずれも必要不可欠なものであり、また、それらは往々にして相互補完的な関係にある。

前作『帰ってきたウルトラマン』で完全とも言える「父性型ヒーロー像」を提示してしまったウルトラシリーズが、並み居るライバル番組に打ち勝って視聴率をとるには、前作の焼き直しというわけにはいかなかったのだろう。さらにはヒーロー番組の王者として新境地を切り開くには、より完全なる「教育番組」の高みを目指すことも求められたことだろう。

かくして『ウルトラマンA』は、「父性(勇気)」と「母性(やさしさ)」が融合した、最強のヒーロー像を模索することになった。
と、ぼくは想像する。
しかし、そんなウルトラマンAが最終回で目にしたものは、全くもって彼の当初の意に反した、子どもたちの行為だった。

この回、ウルトラマンA=北斗星司は、地上に不時着したサイモン星人の子どもを、人間の子どもたちが寄ってたかってイジメている光景を目撃する。この子どもたちは、それぞれ大好きなウルトラ兄弟のお面をかぶり「ウルトラ兄弟でーす」と言う。北斗は
「ウルトラ兄弟は弱いものイジメはしない」
と叱り、子どもたちは反省する。が、実はこのサイモン星人は、かつてウルトラマンAに滅ぼされたヤプール人の変装だった。テレパシーを使ってそのことを知った北斗は、サイモン星人に化けたヤプール人を射殺するが、その様子を子どもたちに見られ、責められてしまう。そして
「もうやさしさなんか信じないぞ」
と言われるにいたり、ついに
「ぼくがやつのテレパシーがわかったのは、それはぼくがウルトラマンAだからだ」
と言って、子どもたちの目の前でウルトラマンAに変身する。
超獣を無事に倒したウルトラマンAだったが、ウルトラの掟によって、地球を後にすることになる。
このとき、ウルトラマンAが子どもたちに残した言葉が、上述の「やさしさを忘れないでくれ」だった・・・。


つまり『ウルトラマンA』は、その全52話をかけても、ついにこどもたちに「やさしさ」を伝えることが丸っきりできなかった。だから遺言のように、今更ながら具体的に言葉に発して訴えるしか手がなかった。
(中年特有の嫌味な見方をするならば)「名言」と言われる「エースの言葉」の正体は、実のところ負け犬の捨て台詞のようなものだったのだ。

という具合で、ぼくはウルトラマンAの「最後の言葉」は、彼の事実上の「敗北宣言」だったと考えている。
しかしそれは決してウルトラマンAが無能なウルトラマンだったからではない、とも考えている。『ウルトラマンA』はあの時代、すなわち1972年当時の日本社会の風潮にマッチした「教育番組」であろうとした。現実世界に生きている子どもたちにとって、良かれと思うことを貪欲に作中に取り込んでいった。
ところがその結果、『ウルトラマンA』は一種の自家中毒を起こしてしまった。
ぼくはそう考えている。


それでは『ウルトラマンA』は何を作品に取り込み、何に中毒し、何に敗れ去っていったのだろうか?
ウルトラマンAが子どもたちに伝えたかった「やさしさ」は、なぜ失われていたのだろう?

ぼくはその原因を、「戦後民主主義」と言われる当時の社会思潮にあったと思っている。

つづく

輝け!ウルトラ五兄弟  ~第二期ウルトラの幕開け

ウルトラ兄弟

一般的な分類としては、『ウルトラQ』から『ウルトラセブン』までを「第一期ウルトラ」といい、『帰ってきたウルトラマン』から『ウルトラマンレオ』までを「第二期ウルトラ」と言うそうだ。この区分けが、『セブン』から『新マン』の間に数年のブランクがあったことによるものであることは今更言うまでもない。

しかし実際に作品を見てみると、この線引きには単なる時間の断裂という以外に、ほとんど意味がないことが分かる。
作品の内容で見れば、『帰ってきたウルトラマン』が先輩である『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の流れを完全に受け継いでいるのに対し、『ウルトラマンA』はそれらとは全く異なる世界観からスタートしている。それはもう、全く別の構想から始まった、全く別のテレビシリーズのスタートと言っても過言ではないくらいの違いだ。
だから「第二期ウルトラ」は、『ウルトラマンA』を中興の祖とする、というのがぼくの見方だ。

簡単に説明すると、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』におけるM78星雲人は、人間への友情をベースに、人間の人間による人間のための自衛の戦いに、協力・助力をする者だった。彼らはできる限り人間として戦いに参加し、やむにやまれぬ状況に陥った時はじめて、ウルトラマンとしての力を使った。そこには、人間の平和は人間自身の手で掴み取らなくてはならない、というメッセージが込められていた。
強引にまとめてしまえば、異星人どうしに芽生えた友情と、人間の自立が、前3作のテーマだった。

では『ウルトラマンA』はどうか?

第1話「輝け!ウルトラ五兄弟」は、超獣ベロクロンが突然現れて、広島県福山市を襲撃する場面から始まる。異次元人ヤプールによる地球侵略の幕開けだ。地球防衛軍がこれを迎え撃つが、あっさりと全滅。主人公の北斗星司と南夕子もベロクロンに襲われて死んでしまう。

すると宇宙からウルトラ5兄弟が現れて、中央に陣取るウルトラマンAが二人に指輪を与えた上で、こういう。
「銀河連邦の一員たるを示すウルトラリングを今おまえたちに与えた。そのリングの光る時、おまえたちは私の与えた大いなる力を知るだろう」
ウルトラマンAの力で生き返った北斗と夕子は、全滅した地球防衛軍に代わって新しく組織された防衛チーム、TACに入隊するのだった・・・。


以上はごく簡単なあらすじだが、『ウルトラマンA』が前3作と全く異なる世界観に基づく作品であることは、容易に理解されたことと思う。

まず、この世界には「善」であるウルトラ兄弟と「悪」であるヤプールの間の戦いの構図が、先行して存在する。で、そのヤプールが今度は地球を狙ってきた。だから、ウルトラマンAも地球にやってきた。
つまり、前3作では「善意の第三者」であったウルトラマンは今作では「当事者」であり、これまでは「当事者」だった地球の人間のほうが「善意の第三者」に置かれた。ここには、M78星雲人と地球人の友情、というような概念は最初から存在しない。ウルトラマンはウルトラマン、人間どもは人間ども、と明確に区分されている。

さらに、ウルトラマンAにとって重要なことはヤプールを全滅させることであって、地球の人間を守ることではない、という点も見逃せない。現れたヤプールを倒すためにウルトラマンAは現れ、それが結果的に地球の人間を守ったように見える、というのが『ウルトラマンA』の戦いだ。
これが前3作と全く違うというのは、初代ウルトラマンやウルトラセブンにはなかった「正義の御旗」を、ウルトラマンAは掲げているというところにある。言ってみれば、ウルトラマンAから見れば、地球なんぞは彼らの聖なる戦いの戦場でしかない。

だからウルトラマンAは、一貫して地球の人間を「保護」してしまう。
ヤプールさえ滅びればウルトラマンAの目的は達成されるんだから、別に地球の人間が「自立」しようがしまいが、ウルトラマンAにとっては関係ない話というわけだ(そのせいか、今作の防衛チームTACは、ちょっと機体に火がつくとすぐに脱出して戦線を放棄してしまう)。

という具合で、とにかく『ウルトラマンA』と前3作では、共通点を見つけるほうが困難なほど、その本質が全く異なる。『ウルトラマンA』を『帰ってきたウルトラマン』の続編だというのは、『キャプテン・ウルトラ』を「ウルトラシリーズ」だと言い張るくらい無理があるようにさえ思える。


と言っても、その世界観の違いをあげることで、ぼくが『ウルトラマンA』を非難しているということではない。『帰ってきたウルトラマン』は金城的ウルトラ世界の完成形で、もはやその続編を作ることは、しつこい焼き直しにしかならないだろう。『ウルトラマンA』が根本から設定を練り直すのは必然的な作業だ。

問題は、その新しい設定には、元々の無理があったのではないかということだ。
上述したように『ウルトラマンA』の世界観には、ウルトラはウルトラ、人間は人間、という分離がはじめから存在した。ウルトラは、「大いなる力」を人間に「与え」る存在だった。
ところが『ウルトラマンA』の売り物の一つは、男女の合体による変身だった。人間の男女が合体することで「性差を超えた超人」が出現する、ということになっていた。

人間とウルトラは分離しているのに、人間の男女が合体するとウルトラになる・・・。
これは明らかな無理であり、完全に矛盾した設定だといえるだろう。

また、『ウルトラマンA』では、「ウルトラ兄弟」という集団の存在が、その第1話から前面に押し出された。第27話からは「ウルトラの父」までが登場してくることになる。
しかし、立ち返ればどこまで行ってもウルトラはウルトラ、人間は人間、と言うのが『ウルトラマンA』の世界だ。果たしてそこに、ぼくら人間の子どもたちに伝えられる何かは、存在するものなのだろうか?

つづく

『ウルトラマンA』とキリスト教

Amazon

※本題とは関係ない話だが、先に書いておきたいので。


『ウルトラマンA』は、メインライターの市川森一がクリスチャンであることから、しばしばキリスト教的な世界観との関係が取り沙汰されるようだ。
ぼくが目にした範囲では、「ゴルゴタの丘」が出てくるとか、天使と悪魔の戦いだとか、北斗と夕子の合体変身にはアダムとイブが重ねられているとか、そんな話が根拠になっているらしい。

が、それはとんだ勘違いだ、と断言していいと思う。
なぜなら、市川森一がクリスチャンだからだ(笑。

クリスチャンにとっては「聖書」は絶対のものだ。「神」と呼んでいいのはGodとイエスだけで、他にはないはずだ。ならば、ウルトラマンのように中に人が入っている着ぐるみを「神」扱いすることは、Godの冒涜でしかない。
また、彼らにとってはアダムとイブは歴史上に「実在した」人類の始祖であって、日本神話のイザナギ・イザナミとは訳が違う。ましてや日本人のパン屋と看護師をアダムとイブに例えるなど、絶句以外の何ものでもないだろう。
「ゴルゴタの丘」だって、着ぐるみが張り付けられていいような場所ではない。

あるいは最終回の「エースの言葉」に見られるという「博愛主義」。
これもキリスト教的にはおかしな話だろう。クリスチャンが隣人愛を示すのはクリスチャンにであって、異教徒にではない。だからクリスチャンは過去の歴史で何度となく異教徒を皆殺しにできた。クリスチャンにとっては、異教徒は「隣人」ではないからだ。
だからキリスト教的な観点からすれば、異教徒である日本人の子どもに隣人愛や博愛精神を説くような必要はどこにもない。

それに、そもそもクリスチャンから見れば、M78星雲のウルトラマンだって、彼らが信じるGodが創ったものだ。そんなもんが「銀河連邦」を語り「大いなる力」を人間に与えるなど、抱腹絶倒のジョークだろう。バベルの塔や、ソドムとゴモラを思い出していただきたいところだ。

だから欧米圏には「神」のイメージに繋がりかねない巨大ヒーローはいない。
それはスーパーマンとウルトラマンの違いを見れば明白なことだ。スーパーマンは、基本的には「人間」だ。空を飛べるくらいなら、ピーターパンと同じ妄想の世界の住人ということで話は片付く。


まとめてしまえば、『ウルトラマンA』にキリスト教を見るなんて暴挙は、宗教音痴な日本人ならではの発想だということだ。本当の宗教はもっと厳格で、真剣で、恐ろしい存在だ。

※キリスト教について詳しく知りたい方は、上掲の本をどうぞ(ただし、ウルトラマンの話題はありません)。

関連記事:ウルトラマンと宗教

ウルトラマンA 男女合体変身その1

男女合体変身

『ウルトラマンA』で打ち出された新機軸といわれる要素は3点。
・男女合体変身
・ウルトラファミリー
・ヤプール人という組織的侵略者

まずはこのうちの「男女合体変身」から見ていきたい。


前回の記事でぼくは、『ウルトラマンA』は「戦後民主主義」と呼ばれる思潮を積極的に取り入れていった結果、自家中毒をおこして敗北に至った、と書いた。
それでは「戦後民主主義」とは何かというと、その名の通り「戦後」の日本に広められた民主主義を指し、戦前の「大正デモクラシー」と対をなす。「日本国憲法」「教育基本法」が根幹にあり、国民主権、平和主義、人権主義を三本柱とする。
と、Wikipediaには書いてある。

簡単に言えば、とにかく何が何でも「個人」が重要だ、とする思潮だ。個人の自由と権利は、何ものにも代え難い最高の価値だ、とする考え方だ。
となれば、ここから次に派生してくる「主義」は簡単に想像がつく。
平等主義、特に、男女の平等だ。

当時まだ幼児だったぼくには知る由もないことだが、ぼくが生まれた1967年頃は、日本にはまだ「男女平等」という意識は乏しかったらしい。それが現在のような意識に変わったきっかけは、1960年代後半の「ウーマンリブ運動」だった。

ウーマンリブ運動_Wikipedia

つまり『ウルトラマンA』の放送が始まった1971年ごろと言うのは、まさにこのウーマンリブ運動まっさかりの時代だったということだ。実際、同じ頃に円谷プロが制作した『トリプルファイター』という特撮番組も、3人のヒーローのうち1人は女の子だった。

『ウルトラマンA』や『トリプルファイター』が、急速に社会に広まりつつあるこの「最新の」思想を取り入れたことは間違いないだろう。男女平等の意識もないところに、女性がヒーローの一角を占める番組を作ったところで受け容れられるわけがないからだ。

※以上、中年には当たり前の知識だが、もしかしたら若い人もこの記事を読むかもしれないと思い、老婆心ながら説明した。

さて、こうして男女平等の社会風潮を背景に、北斗星司と南夕子による男女合体変身を売り物にしてスタートした『ウルトラマンA』だが、それが単に目先の新しさだけを追ったものではないことはすでに見てきたとおり。
そこにはヒーローが子どもたちに示すべきものは、勇気や強さだけではなく、やさしさも必要だ、という主張があった。これを児童教育の側面から捉えれば「父性」と「母性」と言い換えることができるだろう。

『ウルトラマンA』はこの両面を同時に具有することで、全く新しいヒーロー像を目指したのではないか、というのが前回までの話の流れだ。


ということは、逆に考えれば、これまでのウルトラマンたちは父性一辺倒で、母性を示してはいなかった、ということになるが、果たしてそれは正しい評価だったのだろうか?

高田明典という先生は『アニメの醒めない魔法』(PHP/1995年)という本のなかで「ウルトラマンは、子供の内に存在する原始的衝動(=怪獣)を抑える規範そのもの」と書いている。
子どもはまず、ビルや家屋を破壊する怪獣に自己を投影して興奮するが、やがて「こんなことをしていては叱られる」と葛藤する。そこへウルトラマンが現れると、今度は子どもはウルトラマンに自己を投影をするようになり、葛藤は解消する。そのときウルトラマンは、子どもにとって「超自我」として機能している、ということらしい。

この説明は大変分かりやすい。
ウルトラマンは、泣きわめいたり駄々をこねて暴れる子ども(怪獣)に、禁止事項を教える存在だということだ。

が、問題なのは、このときウルトラマンは「直接には」子どもたちに父性を示しているわけではない、ということだ。ウルトラマンが父性を示しているのは怪獣に対してであって、人間の子どもたちはそれを間接的に受け取るしかない。
しかし、人間にとっては巨大で手に負えない怪獣どもも、ウルトラマンにとっては巨大でも強大でもない。完全武装したプロのコマンドが、熊やら大蛇やらを退治しにいくくらいの危険度だろう。
だからウルトラマンの戦闘自体から、子どもが学べることはほとんどない。

つまりウルトラマンは、実際には子どもたちに「父性」を示しているとは言い難い。
ウルトラマンは禁止事項を教えるだけで、子どもを社会化したり、理想を示したりする効果はない。
それができるのは、ハヤタでありモロボシダンであり郷秀樹といった変身前の人間の姿だ。彼らがウルトラマンになるまでの過程にこそ、子どもたちが学ぶべき父性が存在する。

ところが、ここでウルトラマンの行動について改めて考え直したとき、面白い事実が見つかる。
それは、ウルトラマンは人間の善悪を問わず、全てを救済する、という点だ。
たとえば「まぼろしの雪山」では、村民が雪ん子を虐めたからウーが出た。しかしウルトラマンは村民に、おまえらが悪いから自業自得だ、とは言わない。
たとえば「恐怖のルート87」では、子どもをひき逃げしたクルマに怒ってヒドラが出た。しかしウルトラマンは犯人を捕まえて、ヒドラに引き渡したりはしない。

こんなのは一例で、ウルトラマンはいかなる場合であっても、人間の善悪や賢愚は問題にしない。
どんな場合でも、そこにいる全ての人間を助けようとする。
ここでもう一度Wikipediaから引用すると、父性は「善と悪を区別して指導する傾向」とあり、母性は「善悪の分け隔てなくすべてを包み込む傾向のこと」とある。

ならば、ウルトラマン自身が人間に対して示すもの。
それは「母性」だ。


半分以上前置きで終わったが、つづく



この1年でゴジラやウルトラに関する本を50冊ほど読んだのだが、そのうち「こりゃスゲー」と感動した本は

・「怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち」(切通理作)
・「ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義」(佐藤健志)
・「アニメの醒めない魔法」(高田明典)

の3冊。上から、作家論、構造分析、児童心理学の本。

しかし、いずれも絶版で古本でしか手に入らないとは・・・。
しかも全部10年以上前の本だ・・・。


ウルトラマンA 男女合体変身その2 ~さようなら夕子よ、月の妹よ 

夕子

前回の続き

ウルトラマンが人間に示すものは「母性」。ウルトラマンの「父性」は怪獣に対して示される・・・。
そうだとすると、話は急にややこしくなってくる。

『ウルトラマンA』では、男性の北斗星司と女性の南夕子が合体して変身することで、父性と母性を兼ね備えた新時代のヒーローを表すはずだった。
整理すれば、父性+母性=ウルトラマンA、であり、北斗+夕子=ウルトラマンA、のはずだった。

ところが実際には、ウルトラマンは人間の子どもに父性を示すことはなく、それは変身前の北斗が担うものだった。北斗の父性と、ウルトラマンの母性が合わさって、ウルトラマンAになる。

・・・じゃあ、夕子はどうなるんだ?
夕子が人間への母性を示すことは、ウルトラマンのもつ母性と重複してしまうことになる。
そしてその一方で、夕子の母性との合体がなければウルトラマンAになれない北斗がいる。

かくして、まるでポッカリと空いた空間を埋めるように、南夕子の母性は北斗星司にだけ向かうことになる。それ以外に夕子に与えられた母性を発揮する場所はなかった。

そういった状況が究極の形で現れているのが、第20話「青春の星 ふたりの星」だ。
この回、北斗は休暇をとって個人的に不審な船舶の調査をしている。そこに超獣が現れる。これまでのウルトラマンだったら迷うことなく変身して、近隣の人々を守ろうとしただろう。しかし、北斗は現場にいるのに何もできない。そこへようやくTACの航空隊がやってくる。夕子は「星司さんが危ない」と乗っているタックアローで超獣に接近し、(故意に)海に落とされる。そしてようやく海中で合体変身にこぎつけることができた・・・。

はっきり言えば、『ウルトラマンA』はこのパターンの繰り返しだった。
最前線で戦う北斗は一刻も早くウルトラマンAになりたい。だが、そこに夕子はいない。ひたすら夕子の到着を待ち、ますますピンチに陥る北斗。
一方、夕子の方も早く北斗を変身させたい。もう頭の中はそのことで一杯で、北斗以外は目に入らない。だからいかにこの夕子の突撃が勇敢な行いであっても、そこには北斗への母性しか存在せず、視聴者の子どもたちに示すべき父性はない。
もちろん、夕子を待つだけの北斗にも、父性はない。

結局、最終的に北斗星司が父性を発揮できるためには、南夕子がウルトラマンAであることを辞める以外にはなかったわけだが、その別れ際の会話には男女合体変身の矛盾が完全に表れている。

第28話「さようなら夕子よ、月の妹よ」。
実は夕子は、かつて超獣ルナチクスにふるさとを廃墟にされた、月の住人の末裔だった。そして今、そのルナチクスをウルトラマンAは倒した。夕子はふるさとの再建のため、仲間の元に帰らなくてはならない。
夕子は、指にはめられたウルトラマンAの証し、ウルトラリングを抜いて北斗に渡す。

「これからは、あなた一人でウルトラマンAになるのよ」(夕子)
「おれ一人でウルトラマンAになれるだろうか?」(北斗)
「なれるわ」(夕子)

ここには、ウルトラマンAが出現するか否かの主導権は、実は夕子のほうが握っていたことがハッキリと見て取れる。
北斗はただ待っているだけで、そこに夕子が命がけで駆けつけてくる。かつてハヤタが、モロボシダンが、郷秀樹が子どもたちに示した勇気や強さは、『ウルトラマンA』では実は南夕子が示していたというわけだ。

ただし、夕子の勇気や強さがハヤタら先輩たちと違う点は、それが北斗星司ただ一人を助けたいがための勇気であり強さだった、ということだ。
残念ながら、それは父性ではない。そこには子どもたちが普遍的に学び取れる規範はない。


こうして、当時の最新の思潮である「男女平等」を取り入れた『ウルトラマンA』の第一の新機軸、男女合体変身は破綻した。もちろん、男女平等という考え方自体が悪いというわけではない。
ただ、『ウルトラマンA』においては、それは規範たるべき主人公から父性を奪い取る結果になった、というだけだ。

しかし実のところ、『ウルトラマンA』で父性を奪われたのは北斗星司だけではなかった。
それどころか、歴代ウルトラマンたちが示してきた地球人類への「母性」さえ、ウルトラマンAからは消失してしまったのだ。

つづく 

死刑!ウルトラ5兄弟 〜絶対悪=侵略者ヤプール

4兄弟の磔

『ウルトラマンA』が、前作『帰ってきたウルトラマン』までとは、全く異なる世界観から成る作品であることはすでに書いたとおりだが、重要なことなので、ここでもう一度繰り返したい(これがブログの面倒なところ)。

まず初代のウルトラマン。
あるとき彼は全くの偶然で、地球人ハヤタを殺害してしまった。すでに2万年も生きている彼は、光の国から代わりの「いのち」が届くまでのわずかな間、ハヤタに自分の命を貸してやることを思いついた。続いて彼は、ハヤタの死体に残留する思念を読んだ。すると、どうやらハヤタは地球の平和を守るために働く青年だと分かった。幸い、自分も同じような仕事をしている。では、二人で協力して、君(ハヤタ)の願いを叶えようじゃないか。
こうして『ウルトラマン』の物語はスタートした。

続いてウルトラセブン。
仕事の関係か、ただの寄り道かは不明だが、あるとき地球を訪れたウルトラセブンは、この美しい天体がとても好きになった。ところがこの惑星は、凶悪な侵略者、クール星人に狙われているじゃないか。セブンは薩摩次郎の姿を借りるとウルトラ警備隊に近づき、危険を忠告する。このとき結果的に隊員を助けることになったセブンは、請われてウルトラ警備隊の隊員となり、大好きな地球と警備隊の友人たちのために働くようになったのだった。

が、そんな彼らは、ゾフィーやセブン上司に「地球の平和は地球人の手で守るべきだ」と促されると、後ろ髪を引かれるような思いを残してM78星雲に帰って行った。

ところがそれからしばらく経つと、かつて「自分の手で守る」と誓ったはずの日本人が、MATチームを解散させ、国防を他人に頼ろうとしている雰囲気があることが分かった。そこで、新ウルトラマンは日本にやってくると、MAT存続と日本人の自立のために働いた。しかし、バット星人によるウルトラの星侵略作戦が始まったため、やむなくM78星雲に帰還することとなった。

この3人のウルトラマンの立場は明確で、彼らはいつでも人間の手助けをする者だった。その根底にあるものは人間への限りない友情の心で、彼らはできる限り人間の姿で怪獣や宇宙人と戦い、ウルトラマンの力を使うのは本当に事態が悪化してからだった。
そしてウルトラマンたちは人間の賢愚や善悪は問わず、そこにいる全ての人を救済しようとした。これは言い換えると、ウルトラマンは地球と人類に「母性」を示している、ということだった。

こんなところが前3作の概略なわけだが、要点としては、彼らは一様に人間に助力・協力をする存在だということと、彼らは地球と人間に「母性」を与えていたという2点になるだろう。

しかしすでに見たとおり『ウルトラマンA』にとっては、地球は彼とヤプールの戦いの「戦場」でしかなかった。
それは、そもそもの彼の地球来訪のきっかけが、地球にヤプールが侵略をかけたことにあったからだ。もしヤプールが地球を狙わなかったら、ウルトラマンAが地球にやってくることはなかった。

つまり、まず「悪」ありき。
「絶対悪」ヤプールがあって、それを追うように「正義」が誕生した。ウルトラマンAは、ウルトラ史上初めて、「正義」のために「悪」と戦うウルトラマンだった、ということだ。

そんなウルトラマンAが、他のウルトラマンと全く違うウルトラマンであることを更にハッキリと表しているのが次のエピソードだ。

『ウルトラマンA』第13話「死刑!ウルトラ5兄弟」。
このエピソードは、「兄弟愛」をテーマにした作品だ。
新聞配達の少年が、突然現れた超獣バラバに襲われる。少年はそのとき弟と一緒だったが、弟をかばって自分だけが殺される。弟は兄を殺した超獣に復讐を誓う・・・。
こうした伏線が張られた上で、今度はウルトラ兄弟の兄弟愛に話は進んでいく。

パトロール中の北斗と夕子のウルトラリングがふいに光り、天空に「ゴルゴダ星に集まれ」というウルトラサインがあがる。二人はその場でウルトラマンAに変身して、ゴルゴダ星に向かう。するとそこには、他のウルトラ兄弟たちも集まっていたが、誰も呼び出しサインを発した覚えはないという。
それもそのはずで、このサインはヤプールが仕掛けた罠だった。ヤプールはウルトラ兄弟をゴルゴダ星に集めた上で、東京をバラバに襲わせる。泡を食って地球に戻ろうとするウルトラマンAだったが、ウルトラ一族が苦手とする冷気を浴びせられて、急激にエネルギーを消耗してしまう。
このときの、初代ウルトラマンとウルトラマンAの会話はこうだ。

「お前に兄さんたちのエネルギーを分けてやろう」(初代マン)
「いやいけない。そんなことをしたら、兄さんたちが死んでしまう」(A)
「A、お前の使命は地球を守ることだ。行くんだ、A」(初代)
「いやです」(A)
※ここで初代ウルトラマンがウルトラマンAをぶん殴る。
「聞くんだ、A。このままではウルトラ兄弟はここで死ぬ。だがA。お前は死ぬには余りにも若過ぎる。生きるんだA。兄さんたちのぶんまで活躍できるのは、お前だけなのだ」(初代)

こうしてウルトラマンAは兄たちに説得され、そのエネルギーをもらって地球に戻り、超獣バラバと戦う。しかしその途中でヤプールは、エネルギーを失ってゴルゴダ星で磔にされている4兄弟たちの映像を空中に投影する。そしてバラバの邪魔をしたら4兄弟を殺す、と脅迫する。結局ウルトラマンAは戦いを躊躇してしまい、バラバに敗れ去る・・・。


ウルトラマンAが地球と人間に対して、兄たちのような自然な母性を持っていなかったことは明らかだ。ウルトラマンAにとって地球は、彼の「正義」を発揮するための戦場でしかないんだから当然だった。ウルトラマンAが地球を守る動機は、それが彼の「使命」だったからに過ぎない、というわけだ。

その結果、ウルトラマンAは地球と兄弟を天秤にかけたとき、迷うことなく兄弟を選んだ。
当時幼稚園児だったぼくは、この後のウルトラ兄弟の磔シーンより、このときのウルトラマンAの選択にショックを受けたような記憶がある(神童だったもんで)。本当にウルトラマンAは「正義」なのか、友達の神童連中と熱く語り合ったような思い出がある。

が、冴えない中年になった今は、大声で断言できる。
ウルトラマンAは紛れもない「正義」だと。
それはウルトラマンAが、ヤプールという「絶対悪」と戦ったからだ。「悪」と戦う者は「正義」に決まっているのだ。

というわけで、この件についてはいずれ延々と長話をする予定だが、今はこの辺で置いておきたい。

それよりも今は、『ウルトラマンA』が迷い込んだ茨の城、「戦後民主主義」との関わりを先に検討するべきだろう。それは、上記「死刑!ウルトラ5兄弟」の後編、第14話「銀河に散った5つの星」の劇中に、TAC隊長、竜五郎の言動として現れる。

つづく

銀河に散った5つの星 ~謹慎TAC・脱出TAC

右フックでいってらっしゃい

戦後民主主義」とは、Wikipediaによれば「大正デモクラシー」の対比語ということになるらしい。いずれも「民主主義」ではあるが、その性質は180度異なるというわけだ。
その最たるものが、戦後民主主義では、とにかく「個人」が大切だ、という点だろう。
戦前は、個人の自由や権利が極度に抑圧された。個人はもっと解放されなくてはならない。と。

やがて、個人の自由や権利は学校や家庭でも叫ばれるようになり、父親像や教員像も変化した。
家父長的なカミナリ親父は抑圧的で差別的だと否定され、物わかりのいいフレンドリーな父親や先生が求められた。子どもにも人権はあるのだ。大人と子どもは(ある程度までは)平等でなくてはならない。

特に出典はないのだが、経験的に70年代はそんな時代だったように思う。

そして、新時代のウルトラを目指した『ウルトラマンA』は、モロにそんな風潮を取り入れた。
それまで典型的なカミナリオヤジだった防衛チームの隊長は、物わかりのいいフレンドリーな隊長に姿を変えた。それが「竜五郎(りゅう ごろう)」だ。
その人となりは、次のエピソードに顕著に表れている。


第14話「銀河に散った5つの星
ウルトラ4兄弟をゴルゴダ星で磔にし、Aを倒したヤプールは地球人に降伏するよう迫ってくる。
その頃日本のTAC基地に、南太平洋上のTAC国際本部から高倉司令官が到着する。司令官はゴルゴダ星を爆破するための、超光速ミサイルの設計図を持参していた。作中では何も説明されないが、おそらくゴルゴダ星が地球に接近することは地球に多大な被害を及ぼすのだろう。しかし北斗は当然、ウルトラ4兄弟をも殺すことになるからと反対する。
これに対し司令官は
「今はなによりも地球の危機を救うことが先決だ」
と言って、ミサイルの製造を急がせる。

このミサイルは2段式有人ミサイルで、途中までは人間が操縦するものだった。そして司令官は、完成したミサイルのパイロットに北斗を指名する。それはTACのコンピュータが、TAC内でもっとも有能な人間を北斗だと計算したからだ。北斗はどうせウルトラ兄弟を殺すなら自分がやるべきだと考え、ミサイルに乗り込み、出発する。しかしここでアクシデントが発生。有人部分の第一ロケットが切り離せないことが発覚する。
このあとの高倉司令官と竜TAC隊長のやりとりはこうだ。

「残念ながら思わぬ事故が起こったようだ。しかしながら予定は変更できない。そのままスピードを超光速に切りかえてゴルゴダ星に突入してくれ」(高倉)
「北斗、その必要はない。ミサイルの方向を変えて、ただちに地球に帰還せよ」(竜)
「竜! 何を勝手なことを!」(高倉)
「計画の指揮官はあなただが、TAC隊員の命を預かっているのはこの私です。これから先は私が指揮を執る」(竜)
「君は! 本部の規律にそむく者は、たとえTACの隊長といえどもただではすまんぞ」(高倉)
「本部の計画はすでに失敗した。責任をとるべきはあなただ。あの欠陥ミサイルの設計図を持って早く本部にお帰りなさい」(竜)
「竜! 作戦は変更しない。北斗隊員、司令官命令だ。そのままゴルゴダ星に突入せよ!」(高倉)
ここでついに竜隊長の怒りの右フックが炸裂する。司令官はみっともなく床に転がる。
そのとき超獣出現の連絡が入った。竜隊長は「ようし、みんな出撃だ」とさっそうと飛び出していく・・・。


言うまでもないが、ゴルゴダ星の接近によって生じる地球の危機はまだ回避されていない。
しかし竜隊長は、何よりも尊重されるべき、北斗の自由と権利を守った。いいじゃないか、個人の自由と権利が守れるのなら、地球の一つや二つ、宇宙から消えたって・・・。

そして、こんな隊長が指揮するTACというチームは、実に「民主的」な集団だった。パーティーを開いてみたり、みんなで歌を歌ったり、和気あいあいとやっていた。
そして何よりも、TACでは自由な発言が尊重された。

例えば、北斗がいつものようにトンでもないミスを犯す。うなだれて帰隊する北斗を、真っ先に怒鳴りつけるのは(隊長ではなく)山中隊員だ。それを聞いた吉村隊員が「そうだそうだ」と言えば、美川隊員が責めるような目つきで北斗をにらみ、今野隊員が「南無阿弥陀仏」と茶化す。すると、オロオロする夕子を見かねたように、ようやく竜隊長が「まあまあ」となだめに入る。

・・・まるで小学校の学級会だ。面白いので、もう少し続けてみよう。

第3話「燃えろ!超獣地獄」には、こんなやりとりもあった。
パトロール中の夕子は、空が割れて超獣バキシムが姿を見せたのを目撃し、本部に連絡する。半信半疑の隊員たちだったが、竜隊長は言う。
「北斗からの報告にも、空が割れるというのがあった、単なる幻とは、どうしても思えないんだ」
すると山中隊員が即座に言う。
「隊長、私はそうは思いませんね。大体、空が割れるなんてこと、あるわけないでしょ」

こんなのはどうだろう?
第7話「怪獣対超獣対宇宙人」。
地球侵略を狙うメトロン星人は、山中隊員の婚約者マヤを殺すと、その体に乗り移った。マヤの正体を見破った北斗は、そのことを他の隊員たちに伝えるが、今野隊員が怒り出す。
「悪い冗談はやめろ! おまえ、山中隊員がどんな思いをしてあの炎の中から彼女を救い出したか、わかってんのか? 九死に一生を得て、やっとの思いで助け出された彼女をつかまえて、宇宙人とは・・・宇宙人とは何だ!」

この今野という隊員は、たしか『帰ってきたウルトラマン』ではコーヒーショップの店員か何かで出演していたと思うが、そのままコーヒーを沸かしていたほうが日本のためだっただろう。
科特隊、ウルトラ警備隊はむろんのこと、何かと解散を迫られるMATであっても、隊員たちは私情は殺し、公私混同は避けてきた。が、このときの今野隊員の発言が、TAC隊員今野のものではなく、私人今野のものであることは明らかだ。TACという組織は、「公」であるはずの基地内部で、平気で私的な感情を元にした議論が行われる場所だった、という一例だ。


このように個人の自由や権利を尊重し、メンバー間の平等を重んじるTACというチーム。
しかしその本質は、実は早くも第2話「大超獣を超えてゆけ!」に現れていた。
この回、超獣カメレキングに手を焼いた竜隊長は、カメレキングに極限まで接近したうえで、その舌を直接攻撃する「決死のワンポイント作戦」を発案する。そして、自らがその危険な任務を行うと言い出す。
「危険です!隊長」
と、いったんは制止する隊員たち(※北斗と夕子はそこにはいない)だったが、隊長の
「危険だから、私がやるんだ」
の言葉に、ビシッと最敬礼をすると
「ご成功を祈ります!」
だってさ。

もう、笑うしかないだろう。要するに、それによって軍の命ともいえる指揮系統を失おうが、TAC隊員にはどうでもいいことなのだ。隊長も、おれら下っ端も、一個の命の重さや、個人の自由や権利の量は同じだ。だったら誰がやったっていいじゃないか。それが平等というものだろう。
全く理解に苦しむところだが、彼らはそんな風に考えているのだろう。

・・・いや、竜五郎隊長自身、彼ら隊員たちと同じように考えていたフシがある。
そしてそれは、光の国の最高司令官、ウルトラの父も同様だった。

つづく

奇跡!ウルトラの父 〜ウルトラマンの父性

ふたりの「父」

北斗星司が、視聴者の子どもたちに「父性」を示せていない状況は、これまで見てきたとおりだ。
しかし作品中で「父性」を示すのは、何も主人公に限る必要はない。隊長でもいいし、隊員でもいいし、街の普通の人たちでもいい。女性が示すのも大いに結構だ。
要は、子どもたちに「こう生きよ」という人生の普遍的な規範となるものを示せばいい。

そして、ここに登場してくるのが、光の国の最高司令官、ウルトラの父だ。
なにしろ、ウルトラファミリーの頂点にいる人だ。きっとその父性もウルトラ級に違いない。
そしてTACチームの「父」とも言える、竜五郎隊長が主役を張る。
物語は、侵略宇宙人によって実の「父」を殺されたヒロシ少年を中心して進んでいく。彼らふたりの「父」は、果たしてヒロシ少年に何を伝えることができるのか。

ということを念頭に、以下の(長い)あらすじをどうぞ。


第26話「全滅!ウルトラ5兄弟」、第27話「奇跡!ウルトラの父」。
東京に突然ヒッポリト星人が現れ「ウルトラマンAを引き渡せ」と言って暴れまくる。すぐTACが攻撃に向かうが、ヒッポリト星人の体はミサイルやビームを素通ししてしまい、効果がない。ヒッポリトは高笑いで手に持ったウルトラマンAの人形の首をへし折ると、虚空に消える。
星人を探してパトロールを続けた北斗と夕子は、山中で炎上している車を発見する。そこにはヒロシ少年の父が瀕死の状態で倒れていた。彼は、さっきまでそこにいた星人にぶつかったと言って息絶える。そのそばには、彼がヒロシにプレゼントしようとしたウルトラマンAの人形が、首を折られた状態で転がっていた。

北斗と竜隊長は新品のA人形を買ってヒロシの父の葬儀に出向く。ヒロシは人形を受け取るとそれを投げ捨てて「Aを早く星人に渡しちまえばいいんだ。そうすれば星人はおとなしくなるのに」と言う。
再び星人が現れる。変身したウルトラマンAはヒロシの父が死んだ山中に飛ぶ。そこにはヒッポリト星人の本体がいた。東京に現れた星人は幻影だったのだ。すぐにウルトラマンAと星人の戦いが始まった。しかしウルトラマンAは隙をつかれ、カプセルの中に閉じ込められてしまう。するとそこにウルトラ4兄弟が救援に来るが、彼らも同様にカプセルに閉じ込められ、ついには全員ブロンズ像にされてしまう。

いったん本部に引き上げようとするTACのクルマを市民が取り囲む。彼らは言う。
「星人を攻撃するのはやめろ。俺たちの町が焼かれるのはもういやだ。地球を渡すことと我々が奴隷になることは別のことだ」
ヒロシも竜隊長に言う。
「TACが星人と戦ったからいけないんだ。星人の言うことを最初から聞いておけば、父ちゃんもAも死ななくてすんだんだよ」
これを聞いた竜隊長はヒロシにこう言う。
「ヒロシくん、誰かが君の大切にしているものを黙って持って行こうとしたら、君は怒るだろう? いま、星人は、人間たちの宝物である地球を黙って自分の物にしようとしているんだ。私たちは、怒らなければいけない」

TACはヒッポリト星人攻撃用に「携帯用細胞破壊ミサイル」を開発するが、エネルギーが半分しか入っておらず、そのぶん星人に接近する必要があることがわかる。この危険な任務は竜隊長の決定により、竜自身が行うことになった。隊員たちに命じた陽動作戦も成功し、星人に接近した竜は見事にミサイルを命中させる。しかし効果はなく、竜はたちまちピンチに陥る。

するとそこにウルトラの父が現れる。しかし、長い旅のあいだにエネルギーを使い果たしてしまったウルトラの父は、ヒッポリト星人に敵わない。ウルトラの父は全てのエネルギーをウルトラマンAに与え、自分は死ぬ。エネルギーの回復したウルトラマンAは星人を倒し、兄弟たちをブロンズ像状態から救出する。兄弟たちは父の亡がらをM78星雲に運んでいくのだった・・・。


くどくどとした説明は不要だろう。
今回、竜隊長はおろか、ウルトラの父でさえ、ヒロシ少年に与えられるべき父性は何も示せていない。竜隊長は、隊員たちの命を守るために彼らには安全な陽動作戦を命じ、自らが危険な任務についた。ウルトラの父も、「息子」たちを助けるために自分の命を犠牲にして駆けつけた。
どちらの「父」も、そこに示したのは「身内を守る」ための母性だった。実父を失った悲しみに暮れるヒロシに、彼らが与えたメッセージは何もなかった。ヒロシにはもう父がいないという現実を、改めて突きつけ直しただけのことだった。

理由は簡単だ。
それは、竜五郎とウルトラの父が、この時代に求められた、物わかりのいいフレンドリーな父親像から導き出されたキャラクターだからだ。それは、ヒッポリト星人の言うとおりにウルトラマンAを引き渡せ、と言ってTACのクルマを取り囲んだ市民と同じ姿だ。彼ら市民も、自分の身内の安全だけを求めてきた。それに応えるように、竜五郎もウルトラの父も、自分の身内の安全を第一に行動した。全員、同じ穴のムジナだった。

だから、ヒロシの心は何も変わることがない。ヒロシはいつか成長し、大人になり、星人の言うとおりにしろ!と喚きながらTACのクルマを取り囲む新たな一人になるだろう。


ぼくに言わせれば、ウルトラシリーズではこの「奇跡!ウルトラの父」ほど救いのないエピソードはないと思う。これに比べたら「故郷は地球」や「怪獣使いと少年」など可愛いもんだ。
『帰ってきたウルトラマン』では、郷秀樹の父性が幼い次郎くんを導いていくという、強烈な父性の移転が予感された。しかしこのエピソードはまるで反対だ。父性なき大人たちの再生産が、今まさに目の前で完成したのだ。そして究極の「父」までが登場した今、もはやヒロシを救えるものはどこにもいない・・・。


・・・ど、どうして、こんなことになってしまったのか・・・、と頭を抱えるような人は、こんな長文ばかりの頭のイカレたブログを平気で読むような人にはいないだろう。
個人の自由や権利を追求することと、規範や倫理を示す父性とが、そもそも最初から相容れない存在だなんて、分かりきったことだからだ。

例えば、個人の自由だと称して国歌斉唱で起立しない教員がいたとしよう。この教員のクラスの子どもたちは、個人の自由だとして授業中にケータイを使い、早弁したり昼寝をしたり、自由に過ごせばよいだろう。
例えば、夜の10時頃、「これは深刻な人権問題ではないでしょうか」などと、したり顔で抜かすニュースキャスターがいたとしよう。この人物が、汚職政治家や公務員を責めることはできないだろう。それは彼らの自由だからだ。
要するに、戦後民主主義のもとでは、法に触れさえしなければ何をしようと個人の自由だ。

しかし、一神教の国々では違う。程度の違いこそあれ、どこも「神」のもとの自由であり、「神」のもとの人権であり、「神」のもとの平等だ。絶対的な父性が、そこには存在する。だからそんな国々では、最初から「ヒーロー」など必要ない。子どもたちに与える規範も倫理も、すでに存在しているというわけだ。

ただ、日本にも実はハッキリとは見えにくいが「神」は存在する。その「神」のもとの規範も倫理も存在する。
それはアメリカ合衆国だが、ここは政治ブログじゃないので、今はさらっと流してしまおう。

話を戻すと、この「奇跡!ウルトラの父」に続くエピソードが「さようなら夕子よ、月の妹よ」であることは余りにも暗示的だ。物語は命じている。一人になった北斗は、今度こそ彼自身の行動で、ウルトラに父性を取り戻さなければならない、と。もちろん、北斗もそれを自覚したのか、必死になって子どもたちに語りかけていく。

しかし、今度もまた、北斗星司=ウルトラマンAは、時代の渦の前に敗れ去っていったのだった。

つづく

ウルトラ6番目の弟/きみにも見えるウルトラの星

梅津ダンとウルトラの星

夕子と別れ、一人になった北斗がやるべきことはただ一つ。
それは、ウルトラに父性を取り戻すことだった。

北斗は頑張った。
第29話からはまさに子ども、子ども、子ども。北斗は積極的に子どもたちに中に飛び込んでいき、彼らの悩みや苦しみと一緒にあろうとした。ときにはTACの命令を無視してまで、北斗は子どもたちを救おうと奮闘した。

が、それらの試みはすべて失敗に終わった。
なぜなら北斗は、その最初からつまづいてしまったからだ。

第29話「ウルトラ6番目の弟」。
夕子と入れ替わるように登場した「梅津ダン」という少年には、昼間から空に星が見えるという。そのせいでダン少年は、友達からウソつき呼ばわりされ、苛められていた。
ダンは1年前に父親を亡くし、今は姉の香代子と二人暮らし。ダンの父は「決断の断、断固としての断」という意味で、我が子にダンという名を付けた。そんな父を、ダンはずっと尊敬していた。
香代子は北斗に、父の口癖はこうだったと言う。
「ダンって名前に負けるな。男らしく生きろ。正しい者は必ず勝つ。自分のためのウソはつくな・・・。だからダンは嘘つきって言われることが大嫌い」

ダンは尊敬する父の言葉を守り、勇敢で信念を持ったやさしい子どもに成長した。
言うまでもない、これこそが北斗が求める「父性」の、最良の表れというものだろう。しかし、今、ダンの中の信念は揺らいでしまっている。

北斗はダンを励まそうとして、星の正体を明かしてやる。
「あの星はウルトラの星だ。どんな時にもへこたれず、負けるもんか、負けるもんかって頑張れば、ウルトラの星は君にもずっと見えるようになるよ」
ダンは立ち直り、自分を信じる心を取り戻す。そして、一度は見えなくなっていたウルトラの星がいつでも見えるようになり、自分は「ウルトラ6番目の弟なんだ」と明るく笑うのだった・・・。


このときの北斗の言動が、どれほどの大問題だったかは、大人になってしまってからは分からないことだろう。大人はウルトラマンが中に人が入った着ぐるみであることも知っているし、ウルトラの星なんてホリゾントに取り付けられた豆電球だろうと思っている。
が、当時の子どもたちはどうか?
「負けるもんか」と歯を食いしばって涙をこらえれば、そこにウルトラの星は見えただろうか。

・・・見えるわけがない。
しかし北斗隊員は見えるといい、梅津ダン少年にも見えるという。ダンはともかく、ウルトラマンが嘘をつくわけがない。だったら、ダン以外の少年少女は、いくら「負けるもんか」と頑張ってみたところで将来ウルトラマンになることはできない。「ウルトラ5つの誓い」を守ったって、人間はいつまでたっても人間じゃないか。ウルトラマンになれるのは、梅津ダンだけじゃないか・・・。

当時、幼稚園児だったぼくらの受けた衝撃は計り知れない。
北斗はここで、ウルトラと人間の間に明確な線引きをしてしまった。ウルトラはウルトラ、人間は人間。ただし、北斗やダン少年のように、ごく少数の「選ばれた」人間もいる。
これはもはや、一種の選民思想(エリート思想)だと言っていいだろう。

なぜ、北斗やダンはウルトラに「選ばれた」のか? 
本当はそこにこそ、北斗が子どもたちに示すべき父性があったのに、北斗はそれに気づかず、実際にウルトラの星が見えるかどうかに父性を預けてしまった。
それによって梅津ダン少年ただ一人は救われたが、ダン以外のすべての子どもはウルトラとは無関係な存在に、ふるい落とされてしまった。
ダン以外のぼくら雑魚は、ただウルトラに救いを求め、その登場を懇願するだけの、哀れな子羊なのだ。


このダンとの出会いの後も、北斗は必死になって子どもたちを助けようと頑張った。
しかし、選民思想を持ち、地球と人間への自然な母性を失ってしまったウルトラマンAが、本当の意味で子どもたちを救えることはなかった。
なぜなら北斗は(ダンとのやりとりを見れば分かるように)個別の問題を解決することばかりに執心してしまったからだ。

子どもたちに必要だったのは普遍的な規範となる父性だったのに、北斗は子ども個人の問題にばかり関わってしまった。だが、少女の死んだ母親のお誕生日プレゼントの自転車を命がけで拾いに行っても、動物園で射殺されかかっているバクを助けても、おねしょに悩む少年に自分もそうだったと励ましても、それらはその当事者の問題でしかないのだ。
『3年B組金八先生』がいくら桜中学の廊下を走り回ろうとも、他の学校では校内暴力もイジメも一向になくならないのと同じことだ。

個人の、個別の問題を解決するのがヒーローの仕事ではない。
北斗にはそれがついに理解できなかった。「個」を重要視するあまり、「公」を見失ってしまった。
「公」というのは何も難しいことではないだろう。北斗はあのとき、ウルトラの星の実在を否定すれば良かっただけだ。
それは心の中に輝く、規範なのだと。正しい行いをしているとき、まぶたの裏側に見える星なんだと。


ウルトラの星を、実際に肉眼で確認できるものだと言ってしまった北斗星司。
その破局は、実際に肉眼で確認できるように、人々の目の前でウルトラマンAに変身してみせることだった。

つづく

ウルトラマンA 明日のエースは君だ!

最後の変身

『ウルトラマンA』最終回「明日のエースは君だ!」。
この回を極限まで要約してしまえばこうなる。

ウルトラマンのお面をつけて宇宙人の子どもをいじめていた人間の子どもに対して、ウルトラマンAがこう言い残して地球を去っていった。
「やさしさを失わないでくれ。
 弱いものをいたわり、
 互いに助け合い、
 どこの国の人たちとも友だちになろうとする気持ちを失わないでくれ。
 たとえ、その気持ちが何百回裏切られようと。
 それがわたしの最後の願いだ」


この「明日のエースは君だ!」が世間で言われているような「名作」ではないことは、ついウッカリとこんなブログを延々と読んでしまった運の悪い方々には、もう明白なことだと思う。
「やさしさを失」っていたのは、子どもたちではなくウルトラマンAのほうだった。
「裏切られ」たのも、ウルトラマンAではなくて、子どもたちの方だった。
だからこそ、彼らはあえてウルトラマンのお面をつけて、宇宙人をイジメた。これは子どもたちによる、ウルトラへの復讐だったのだ。

面倒くさいがもう一度整理しておこう。
まず、ウルトラマンの父性は、人間に対して直接には示されることはない。それは、怪獣に対して示されるものだ。
一方、ウルトラマンは善悪賢愚を問わずに人間を救済する点において、人間への母性を示していると言える。
では、人間への父性は誰が示すかと言えば、それはウルトラに変身する前の主人公だった。
※言うまでもないが、怪獣への母性は誰も示す必要がない。

ところがウルトラマンAは、最初から人間に対する母性を持っていなかった。彼は、ヤプール人と戦って勝つ、という「使命」のために地球に来た。だからウルトラマンAは、ウルトラ兄弟の命をとるか、地球のピンチを救いに行くかの選択を迫られたとき、迷わずウルトラ兄弟の命を選んだ。

では、もともと人間に父性を示さないウルトラが、地球と人間への母性まで失ったとき、そこに残るものは何か。
無論それは、怪獣に対する父性だ。
だから子どもたちは忠実にウルトラマンAを模倣し、宇宙人をイジメた。

さらにウルトラマンAは、地球の人間を「ウルトラの星」が実際に”目に見える”かどうかで選別した。北斗星司と梅津ダンはウルトラ側の人、それ以外は地球人、というように線引きし、ウルトラマンになれるのは選ばれたエリートだけであることを認めてしまった。

だから最終回で、イジメられていた宇宙人の子どもが、実はヤプール人の変装であることを北斗が彼の超能力で見破ったと言ったとき、子どもたちは”目に見える”「証拠を見せろ」と北斗に詰め寄った。
これは「ウルトラの星」が見えない子どもたちによる、ウルトラへの痛烈な反撃だったのだ。

やさしさを失い、子どもたちを裏切り続けたのは、ウルトラマンAだった。
だから見よ。
今まさに去りゆくウルトラマンAに向かって、子どもたちは「さようなら」とは言ったが、誰一人として「ありがとう」とは言わなかったじゃないか・・・。


だが、どうしてこんなことになってしまったのか。
それは皮肉なことに、ウルトラマンAが「やさしい」ウルトラマンだったからだ。ウルトラマンAは自分の主義主張を押しつけることなく、当時の日本の社会風潮を積極的に取り入れた。
それが戦後民主主義だ。

ところが、良かれと思ったその風潮は、北斗星司から子どもたちに示すべき父性を奪い取るものだった。
ウルトラマンAは自家中毒を起こし、全てを失った。ウルトラマンAは敗北した。


しかし、改めてよく考え直してみれば、そもそもの問題はウルトラマンAが地球と人間への母性を持っていなかったことにあることに気づく。ウルトラマンAは、ヤプールという「悪」を倒す「正義」として来訪した。ウルトラマンAは、ウルトラ史上初めての「正義のヒーロー」だった。

しかしなぜ、ヤプールは「悪」なんだ?
ぼくはざっと2回『ウルトラマンA』全話を観たが、ヤプールが何の目的で地球を侵略しに来たのかを思い出すことができない。つまりヤプールとは「絶対悪」だった。

そして、残念ながらウルトラマンAは、ヤプールを「絶対悪」だと見なすことこそが、まさに戦後民主主義にどっぷりと浸かる陥穽であることに気がついていなかった。「絶対悪」と戦うことと、個人の自由や権利を最重要視することは、実は根っ子を同じくすることなのに、だ。
つまり、たしかに北斗星司から父性を奪い取ったのは戦後民主主義だったが、それ以前に、ウルトラマンAは最初から戦後民主主義者として登場したと言えるのだ。


Wikipediaには、こんな記述がある。

ウルトラマンシリーズにおいては、異次元人ヤプールのようなレギュラーの敵組織という試みは初めてのことであった。この点は、『仮面ライダー』においては「ショッカー」というレギュラーの敵組織が存在することから触発されたもの、としばしば解釈されている


ヤプールという敵組織は、実は『仮面ライダー』の「ショッカー」から触発されたものだった・・・。
ならば、ぼくたちは、みじめに敗北していったウルトラマンAの鎮魂のためにも、今度はショッカーを追って『仮面ライダー』の世界に入っていかなければならないだろう。


つづく