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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
一つの 「カテゴリ」 で一つの記事となってます(記事は古い順に並んでます)。同世代のおっさん向け。

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私と自虐史観 〜『アニメの醒めない魔法』

3人ライダー

個人的な話から始めたい。

このブログは同世代のおっさん向けに書いているものなので、恥をさらして告白するが、ぼくはつい6年半前までは、いわゆる自虐史観の持ち主だった。日本は過去にアジア諸国を侵略した犯罪国家であり、迷惑をかけたアジア諸国には積極的に贖罪すべきだろう、と感じていた。また、いつまでも「日本」という国家に縛られているのは古臭く、世界は人種や民族を超えて一つになるべきだ、とも感じていた。

考えていた、のではなく、感じていた、というのは、その頃までのぼくは、自分の仕事や自分の研究、自分の家族や生活のことで頭がいっぱいで、それ以外のことを真剣に考えることが殆どなかったからだ。

そんなB層スレスレのぼくが、自分のこと以外に目を向けるきっかけになったのは、2002年のサッカーワールドカップだった。この時、韓国チームの非道に憤ったぼくは、導かれるようにあちこちのウェブサイト(2ちゃんねる含む)を読み漁り、アジアの真実のようなものを知った。自然、その先にある日本の近現代史に興味は進み、その過程でぼくのなかの自虐史観はほぼ消えていった。
おそらく同じようなきっかけと経緯で、自虐史観を脱した同世代は多いことだと思う。

それにしても、いったい何故ぼくは自虐史観を持つ人間だったのか。
ぼくの両親は、祝日には必ず国旗を掲げる人間だった。
また幸いにして、ぼくが受けた教育の場では日教組の人間が幅をきかせていることもなかった。大学時代には左翼運動家の知人もいたが、彼らが自分たちの思想をぼくら「ノンポリ」に押しつけてくることはなかった。
久米宏や筑紫哲也の番組は常々、偏っていると感じていた。

にも関わらず、ぼくは2002年まで自虐史観を持っていた。
では、家庭でも学校でも教わらなかった自虐史観を、ぼくは一体何ものから学んだというのか。

そんな漠然とした疑問を抱えていたぼくに、あるヒントを与えてくれたのは高田明典という先生が書いた『アニメの醒めない魔法』(1995年PHP)という本のなかの一説だった。
1961年生まれの高田さんは「ウルトラマン世代」であり、成人してからは「新人類」と呼ばれた世代。高田さんは、ウルトラマンを「欲望という魔物」を「調伏する」存在だと定義したうえで、自らが属するこの世代をこう評している。

「これ(ウルトラマン)に熱狂した視聴者は、常に自らの内部に『ウルトラマン』を飼っていると言えるでしょう」
「この世代は、したがって『欲望があっても、それを表に出さない』『自分の考えを表明しない』『元気・覇気がない』『何を考えているのかわからない』、等という風に言われます」
「ウルトラマンという超自我を内部に持ってしまった彼らは『自己規制』の権化となってしまったのです」


簡単に言うと、出る杭になりかけると心の中のウルトラマンがそれを叩きに来る、ということだろう。
ここで高田さんの言う世代論自体が当たっているのかどうかは、それより若干若い「仮面ライダー世代」であるぼくには定かでないが、とにかくぼくはこの文章を読んでぶったまげてしまった。
自我形成期に「ウルトラマン」を観て育った子どもたちは、自らがウルトラマンになろうとはしない。むしろ、ウルトラマンになろうという欲望を、心の中のウルトラマンが規制してしまう・・・。

これはぼくの中のヒーロー観が、180度転回してしまうような衝撃だった。

では、ではぼくら「仮面ライダー世代」はどうなのだろう。
ぼくらは幼少時にライダーベルトを腰に巻き、塀から飛び降りては骨折してきた世代だ。仮面ライダーの「正義」を愛し、ショッカーの「悪」を憎んできたぼくら。

そのぼくらの中の仮面ライダーとは、一体ぼくらにどう作用するというのだろう。

つづく
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仮面ライダー 本郷猛が戦う動機

本郷

『仮面ライダー』は「正義のヒーロー」による勧善懲悪の物語ではなかった。
それは反対に、本来は「正義のヒーロー」を否定するところから始まった、らしい。平山亨プロデューサーの述懐によれば、それを言い出したのは『ウルトラマンA』メインライターの市川森一だったそうだ。

正義のために戦うなんて言うのは止めましょう。ナチスだって正義を謳ったんだから、正義ってやつは判らない。悪者とは、どんなお題目を掲げていても人間の自由を奪う奴が悪者です。仮面ライダーは、我々人間の自由を奪う敵に対し人間の自由を守るために戦うのです。(『平山亨叢書1・仮面ライダー名人列伝』より)


そうして生まれたのが、おなじみのオープニングのナレーションだろう。
「仮面ライダー本郷猛は改造人間である。彼を改造したショッカーは、世界制覇をたくらむ悪の秘密結社である。仮面ライダーは人間の自由のために、ショッカーと戦うのだ」(※5秒以内で言うべし)

そしてそれは、作中でもはっきりと見ることができる。
もう忘れたよーという声も聞こえるので、一応、第一話「怪奇蜘蛛男」のあらすじを。

本郷猛は「城南大学生化学研究室」きっての秀才(IQ600!)で、趣味のオートバイのライダーとしても抜群の能力を誇っていた。性格は「全く子どものようなやつだ」とオートバイのトレーナー、立花藤兵衛氏に言われるくらい、素直で前向きな好青年だった。
しかしその優れた能力が仇となり、本郷はショッカーに拉致され、人体改造の手術をされてしまう。本郷の肉体は、常人離れした身体能力のサイボーグになってしまった。あとは脳を含めた頭部の改造が終われば、本郷はショッカーの手先になる。
そんな本郷を助けてくれたのは、同じくショッカーに拉致され人間改造の協力をさせられていた恩師、緑川博士だった。かろうじてショッカー基地を脱出した本郷は、一緒に逃げ延びた緑川博士にショッカーの陰謀を暴露すべきだと提案する。
「およばずながら、私も全力を尽くして人間の自由のために戦います」
しかしその直後、緑川博士は怪人蜘蛛男によって殺害され、その現場を目撃した娘の緑川ルリ子は、本郷が父を殺した犯人だと勘違いしてしまう・・・・。


他ならぬ本郷猛が、ショッカーによって「人間の自由」を奪われてしまった人間だった。だから本郷がショッカーと戦う動機のひとつには、ショッカーへの個人的な「復讐」があった。
それとルリ子に持たれてしまった殺人犯の嫌疑を解くことも、動機たりえるだろう。
さらには、本郷の脳手術を完成させて怪奇バッタ男にしようと付け狙うショッカーから、自己を防衛する必要もあった。

第2話「恐怖蝙蝠男」はマンション一棟が丸ごとショッカーの人体実験場にされるというエピソードだ。怪しいマンションを調べている本郷を尾行してきたルリ子はショッカーに捕らえられ、人間を狂わせるウィルスを打たれてしまう。この事件自体は本郷の活躍で解決し、ルリ子の本郷への疑いは晴れる。
しかし本郷は嘆く。
「立花さん、おれは戦う。ショッカーの被害者はおれを最後にしたいんだ」
「立花さん、ルリ子さんの心は溶けたかもしれないが、おれの体は・・・おれの体は同じことなんだ」

第4話「人喰いサラセニアン」。
姉をショッカーにさらわれた弟を励まそうとその手を握ってやった本郷だったが、力をセーブすることを忘れていて、あざができるほど強く握ってしまった。
「おれはショッカーによって、子どもをもあやせられない体になっていたのだ・・・」

第5話「怪人かまきり男」。
ショッカーに拉致されていた幼なじみの雨宮博士を救出した本郷は、博士が子どものころ鬼ごっこの名人だったことを引き合いに出してこう言う。
「ところが今は、二人ともショッカーの鬼に追われる仲になっちゃった・・・」

第8話「怪異! 蜂女」。
本郷のセリフ。
「おれが改造された部分を持っていることをルリ子さんには知られたくない。おれが普通の人間に戻るまでは・・・。」

以上、仮面ライダー1号が藤岡弘の事故で一時的に降板する13話までのエピソードから、本郷の戦う動機が垣間見える箇所を抜粋してみた。仮面ライダー本郷猛が、たしかに「正義の旗印」を掲げてはいなかったことが分かると思う。

繰り返しになるが、これは市川森一の提案を受けて、平山亨プロデューサーが実行した『仮面ライダー』の「肝」と言っても過言ではない重要な設定だった。
同書のなかで、平山プロデューサーは誇らしげに書いている。

「これは『仮面ライダー』をただのヒーローアクション物から一大跳躍させた大変な提案だったのだ」
「敵がショッカーだから戦うのではない。ショッカーが健気に生きる庶民の自由を奪い、悲しみに突き落とすから、その暴挙に対して怒りを燃やして、人間の自由を守るために戦う仮面ライダーの基本を(※市川森一は)作ってくれたのだ」


しかし現実には、そういった市川森一や平山亨の高邁な理想は実現せず、ぼくら子どもたちはごく自然に仮面ライダーを「正義のヒーロー」だと理解していたように思う。それは、結局のところでは仮面ライダーが、ひたすらショッカーとだけ戦ってしまったことによるのだろう。たまには泥棒を捕まえてみたり、汚職政治家に天誅を食らわしてみれば良かったのかもしれないが、番組の枠組み上、そうもいかない。

となれば、ぼくら子どもたちが仮面ライダー本郷猛を「正義」だと思った理由は、そうやって彼がひたすらショッカーと戦い続けたことにあるように思える。

つづく

仮面ライダー ショッカーとナチスドイツ

ヒトラーの秘宝

『仮面ライダー』の悪の組織ショッカーは、一般的に「ナチスドイツの残党」だと見なされている。

ショッカーの起源は、ナチス・ドイツに遡ると言われる。秘かに生き延びたその残党が、世界の覇権を握る夢をかなえるべく、組織したのがショッカーであった。かつてナチス・ドイツがドイツ民族の優越と反ユダヤ主義を綱領として採り入れたように、ショッカーはそうした選民思想を世界規模に拡大し、一部のエリート=改造人間による全世界の支配を企むのだ。(『Kodansha Official File Magazine 仮面ライダー 特別版 vol.1』より」


作中から拾うなら、こんなかんじだ。

第1話「怪奇蜘蛛男」では、他ならぬ本郷猛が「人体改造」を施され、秘密基地から逃走した緑川博士は暗殺された。
「ショッカーの狙いは世界各国の人間を改造し、その意のままに動かして世界征服を計画する、おそるべき団体なのである」(第1話ナレーション)
「改造人間が世界を動かし、その改造人間を支配するのが私だ。世界が私の意のままになる」(第1話ショッカー首領のセリフ)

第2話「恐怖蝙蝠男」ではマンション1棟が丸ごと「人体実験場」にされてしまった。

第3話「怪人さそり男」では、捕らえられた人々が「強制労働」をさせられていて、そのうちの10数名が集められると首領にこう言われる。
「ショッカー組織にあって、君たちは選ばれた改造人間にもなれず、また、戦闘員、技術員などに適応しない人間として死刑囚になった」
この人たちは、この後人体実験の対象にされて殺された。

第4話「人喰いサラセニアン」は、やはり人間を捕らえては改造しているという事件。

第5話「怪人かまきり男」は人工的に東京に大地震を起こそうとする陰謀。

第8話「怪異! 蜂女」では、「毒ガス」工場で働かされている人々に怪人ハチ女が言う。
「お前たちの中で優秀なものは改造し、このようにショッカーの戦闘員となって働いているのだ」

第9話「恐怖コブラ男」、第10話「よみがえるコブラ男」は日本政府が貯蔵する金塊を強奪しようとする話。

第11話「吸血怪人ゲバコンドル」、第12話「殺人ヤモゲラス」はまたも改造人間製造にかかわる「人体実験」に加え、「大量殺戮兵器」の製造も明かされる。

第13話「トカゲロンと怪人大軍団」では原子力発電所の破壊による東京の壊滅を目論む・・・。

という感じで、ショッカーを「悪」たらしめているキーワードをまとめれば、次の3点になるだろう。
・選民思想
・人体実験
・大量殺戮
いかにもナチスドイツでござい、というショッカーだが、番組自体、そのことを隠そうとはしない。
第3話にはこんなナレーションも入る。
「ショッカーはナチスドイツで研究されたという移植手術などの手法で、昆虫や動物の機能をもつ改造人間をつくっていた」


なるほど、悪のショッカーはナチス・ドイツの残党だった。ショッカーの「悪」は、ナチスドイツの行った「悪」の再現だった。仮面ライダーはよみがえったナチスドイツと戦っているのだ・・・。
と、素直に納得したくなるところだが、実はそうもいかなかったりする。

第6話「死神カメレオン」第7話「死神カメレオン・決斗! 万博跡」。
この2話にまたがる大作は、「ヒットラーの秘宝」にまつわるエピソードだった。ベルリンの陥落が間近に迫ったあるとき、ヒトラーは何兆円にものぼる秘宝の運び出しを命じた。いずれは自分も亡命し、第三帝国の再起を図るつもりだったのだ。

では、このときのヒトラーの亡命先とはどこだったか。
言うまでもないだろう。同盟国、大日本帝国だ。
秘宝は伊号155潜水艦に積まれ、砂田海軍少佐の手で日本に運び込まれた。ショッカーは元ナチスの党員、ハインリッヒ博士からその情報を得て、砂田を襲い、秘宝の隠し場所を吐かせようとした・・・。

このエピソードからは、ショッカー=ナチスではないことが分かると同時に、ナチスと大日本帝国の深い結びつきをうかがい知ることができるようになっている。日本という国は、「悪」の権化のようなナチスドイツの総統ヒトラーが、再起のための亡命先に選ぶような国だった。
それまで「悪」をナチスドイツに押しつけて安心して番組を楽しんでいたぼくらの上に、思いもよらない暗雲が垂れ込めてきた瞬間と言っていいだろう。ショッカーと過去の日本は、決して無縁な存在ではなかったのだ。

興味深い事実もある。
『仮面ライダー』のもっとも古い企画は、平山プロデューサーが提案した『マスクマンK』というものだったそうだ。ここにはすでに、悪の組織ショッカーの原型が構想されているのだが、なんとその首領は「クロード黒原」という日本人だった。

主人公・九条剛は私立中学・平和学園の新任体育教師である。彼の父・巌平は戦前に日本を離れ南米に移民した人物だが、共に現地で働いていた仲間のクロード・黒原が築いた富を元に秘密結社ショッカーを作り、現在の日本を食いものにしようとしている事実を知って急遽帰国。巌平は邸宅の地下の訓練所で息子の剛に特訓を施し、その結果剛は世界中の格闘技を身に付けた超人となった。ショッカーと戦う際に仮面に仮面を付けた彼こそがマスクマンKだった。(『仮面ライダー=本郷猛』より堤哲哉氏による要約)


ショッカーと日本は無縁な存在ではなく、それどころかそのオリジナルは日本人による日本破壊の組織でさえあった。結局はその「悪」をナチスドイツに押しつけはしたものの、そこには日本の「戦前」の陰が、確かに見え隠れしている。

ではそんな「悪」、ショッカーと戦った仮面ライダーの「正義」とは、何だったのだろう。

つづく

『仮面ライダー』と自虐史観 〜平山亨

ゲルショッカー

繰り返しになるが、『仮面ライダー』は「正義のヒーロー」による勧善懲悪の物語としては構想されなかった。重要な点だと思うので、もう一度、市川森一の提案を『平山亨叢書1・仮面ライダー名人列伝』から引用する。

正義のために戦うなんて言うのは止めましょう。ナチスだって正義を謳ったんだから、正義ってやつは判らない。悪者とは、どんなお題目を掲げていても人間の自由を奪う奴が悪者です。仮面ライダーは、我々人間の自由を奪う敵に対し人間の自由を守るために戦うのです。


とにかく、『仮面ライダー』における「悪」とは、人間の自由を奪う者、として定義されたということだ。

ところでその「悪」の反対語・反義語とは何かと言えば、これは「正義」というよりも「善」ということになるだろう。辞書によっては「正義」も「悪」の反義語であると書いてあるものもあるが、一方で「正義」の反義語は「不義」であると書いてあるものもある。いずれにしても「悪」と「善」が反対語であることだけは一致しているようだ。

というところで我らが主人公、本郷猛だが、作品を観る限りにおいては、彼はお世辞にも「善」とは言いにくい面が多々ある。本郷はショッカーを追うためには改造バイクでスピード違反も犯すし、他人の家に勝手に入るし、公共物を壊したりもする。ボランティア活動に励んでいるわけではないし、礼儀正しいわけでもない。
はっきり言って、子どもに本郷さんのマネをしなさい、と奨励する親はまずいないだろう。

そんな本郷猛=仮面ライダーは、それでも「正義のヒーロー」と呼ばれる。
その根拠となるものは何か。それはおそらく、本郷猛が「悪」のショッカーと戦っていること。この一点にあるのではないかとぼくは思う。「悪」と対抗しているのだから「善」であり「正義」である。
反対語、反義語的に、本郷は「正義」となった。
つまりは本郷の「正義」を担保しているのは「悪」のショッカーの存在にしかなく、もしショッカーが消滅したなら、その時点で本郷の「正義」の称号も消える・・・。

と考えた場合、ここでも(『ウルトラマンA』同様に)まず「悪」ありきの構図が見てとれる。
そしてその「悪」のショッカーは『仮面ライダー』においては「人間の自由を奪うもの」ときっちり定義された上で、戦前の大日本帝国の陰が見え隠れしている・・・。

そして『仮面ライダー』とは、言ってみれば「父殺し」の物語でもあった。
仮面ライダーは自らを生み出したショッカーを否定し、戦い、復讐する・・・。


いいかげんクドいのでサラッと言ってしまえば、『仮面ライダー』における「正義」、すなわちショッカーとの戦いとは、この国の過去を恥じて否定しようとする、自虐史観の「正義」と一致しているのではないか、ということだ。
まず、絶対的な「悪」を規定し、それと戦う者を「正義」だとする構図。このとき「悪」の側の言い分は認めない、というか表明されない。それは、ただただ「侵略」し、人間から自由を奪うものだとされる。

そしてこの構図は、同時に戦後民主主義の構図とも一致する。
『ウルトラマン』の「故郷は地球」などで有名な脚本家、佐々木守は戦後民主主義について、こんなことを書いている。

「日本の敗北を体験した僕には『戦後民主主義』は明確な手ざわりとして残っている。それは『個人が、体制よりも社会よりも組織よりも、すべてに優先される』という考え方であり、そんな行動のことであった」(『佐々木守シナリオ集・怪獣墓場』あとがきより)


これを逆に読めば、戦前の日本では、体制や社会や組織が、個人よりも優先されていた、ということになる。そんなところに、市川森一の言うような「人間の自由」があるとは到底思えない。
つまりは戦後民主主義と自虐史観は、いずれも戦前の日本を「悪」だと規定して、完全否定するところからスタートしたと考えていいように思う。
そしてぼくらが熱狂した『仮面ライダー』も、内部にそれらと同じ構図を持っていたと見ることができると思う。

その結果、そんなヒーロー番組をみて育ったぼくの中に、いつしか自虐史観や戦後民主主義を受け容れる土壌ができていたのではないか、とぼくは怪しんでいる。「悪」とは侵略し、人間の自由を奪うものであり、「正義」とはそれと戦うものである。思考の中枢にこの単純だが大仰な様式だけが刷り込まれ、まとまった教育(洗脳?)を受けた覚えが全くないにも関わらず、自虐史観的な考えに染まっていった。
今はそんなふうに考えている。

とは言っても、『仮面ライダー』を作った人々が、そういった効果を狙ってこの作品を制作したということではない。彼らがぼくら子どもたちを喜ばせ、正義を愛する心を育んでもらおうという明朗な意図を持っていたのは疑いがない。
だから、同じようなスタッフが集まっても、上述のような構図を持った作品もあれば、反対にむしろ戦後民主主義や自虐史観を乗り越えようとするような作品もあって、一貫性はない。

問題は、それらを無邪気に楽しんでしまったぼくらの中にあるのだろう。
受け手のぼくら自身が、今こそ冷静にヒーロー番組から受けた心理的な影響などを点検し、そこに自虐史観的な発想の元があるのならば心を鬼にして否定する、そういった気構えが必要な気がしている。

というわけで、次回からはぼくらの世代が4歳から8歳くらいの間に親しんだヒーロー番組の、それぞれの世界観について検討したいと思う。ただ、ぼく自身も一応働き盛りの中年のおっさんで自分の仕事もアレコレ抱えている身分なので、全てのエピソードを観るなんて余裕はない。それでほとんどはDVDの最初の1枚を観るくらいで済ませることになってしまうが、あらかじめご容赦いただきたい(って、ろくに読んでる人もいないくせにな)。

つづく


なお、このカテゴリの冒頭に書いたとおり、以上の考察はあくまで個人的な感慨のようなもので、一般性・普遍性があるとは微塵とも考えていません。ヒーロー番組が大好きで、好きがこうじて防衛大から陸自への道を歩んだ人もいるでしょうし、ヒーロー番組とは全く無縁なまま、現在日教組で自虐史観をまき散らしている輩もいることでしょう。

月光仮面 祝十郎の正義

月光仮面

『仮面ライダー』がいわゆる「正義のヒーロー」を否定するかたちで構想されたことはすでに書いたとおりだが、実はその大先輩ともいえる『月光仮面』も、「正義のヒーロー」ではなかった。それは、「正義の味方」と明確に定義された存在だった。

月光仮面第二部「バラダイ王国の秘宝」から、第二回「黄金の鍵」。

あるとき、探偵事務所を開いている主人公、祝十郎のもとに浅香と名乗る男が訪ねてくる。浅香は1本の鍵を出し、これを日本に亡命中のシャバナン殿下に渡して欲しいと言う。それは600年前に滅びたバラダイ国の秘宝につながる鍵で、彼が終戦直後の仏印である老人から託されたものだった。しかし浅香は帰国後ずっと北海道の炭坑で働いていたため、今回転勤してくるまでシャバナン殿下が東京にいることを知らなかった。そして、すでにこの秘宝をめぐる事件に関わっている祝十郎には、浅香の申し出を断る理由はなかった。しかし祝はあえてこう聞く。
「失礼ですが、これまでに生活にお困りになって、この鍵を売ろうというお気持ちを・・・?」
すると浅香ははじめは苦笑したものの、真顔になってこう答える。
「いやありません。むろん純金の鍵だということは分かってました。また、売れば2万や3万になったかもしれません。しかし私は日本人です。まして外国の人から命がけで頼まれた品物を・・・。いや、とてもそんな気持ちにはなれませんでした。」
ここでようやく祝は笑顔で手を差し伸べる。
「握手してください。祝十郎、あなたに敬服しました。喜んでお力になりましょう」


このエピソードには、月光仮面と「正義」との関わりが極めて端的に表されていると思う。このときの「正義」は祝十郎にではなく、浅香の方にあった。祝はその浅香の「正義」に「味方」する者だった。

この件については、ぼくがゴチャゴチャ説明するより、『月光仮面』の原作者であり、脚本も書いた川内康範ご自身に解説していただいたほうが手っ取り早いだろう。『篦棒な人々・戦後サブカルチャー偉人伝』(竹熊健太郎/河出文庫)の中の、川内康範インタビューから引用する。

月光仮面は月光菩薩に由来しているんだけれど、月光菩薩は本来、脇仏なんだよね。脇役で人を助ける。月光仮面もけっして主役じゃない。裏方なんだな。だから「正義の味方」なんだよ。けっして正義そのものではない。この世に真の正義があるとすれば、それは神や仏だよな。月光仮面は神でも仏でもない、まさに人間なんだよ

レインボーマンや月光仮面が必要とされる世の中はけっしていい時代ではないんです。正義の味方はあくまで味方で、正義そのものではない。でもね、せめてみんなが正義の味方になれば、この国は間違った方向に行かなくてもすむんだよ


以上、けっこう長いインタビューの中から「正義の味方」について触れられている部分を引用した。『仮面ライダー』に始まるヒーローブームの作品群と『月光仮面』とでは、そもそもの前提が異なっていることがお分かりいただけたことだろう。
『仮面ライダー』や『ウルトラマンA』では、まず「悪」のショッカーやヤプールが存在し、それに対抗する者が「正義のヒーロー」を自称した。しかし『月光仮面』では、まず日本人の中にある「正義」という倫理が先行して問われ、それが「悪」に脅かされる時、はじめて月光仮面が登場する。

要は、ぶっちゃけ月光仮面は正しくない者の味方はしないわけで、視聴者である子どもたちは、いつでも自分の中の正義を確かめながら、この番組を観なければならない。これぞまさしく宮内洋の言う「特撮ヒーロー番組とは子供達に正義の心を教える教育番組に外ならない」(Wikipediaー宮内洋より)に他ならないだろう。

しかし残念ながら、その宮内洋自身が演じた仮面ライダーV3は、ただただ「悪」の侵略者デストロンと戦うだけのヒーローだった。人々はただただデストロンに「人間の自由」を奪われるだけの善良な子羊で、そこに人々の中の「正義」への問いかけはなかった。人々は、仮面ライダーV3の「正義」によって、保護されるだけの存在だった。


さてそんな『月光仮面』の放映が始まったのは昭和33年(1958年)だったが、その2年後に同じく宣弘社が制作したヒーローも「正義の味方」だった。『快傑ハリマオ』だ。

つづく

快傑ハリマオ 大東亜共栄圏ヒーロー

快傑ハリマオ

快傑ハリマオ』第一部「魔の城篇」の舞台は、白人による圧政が続くインドネシアだ。白人たちはインドネシアの人々を「土民」と呼び、ムチで打つ。東南アジアの人々は、奴隷として売買されるような存在だった。

そんな白人支配に真っ向から立ち向かい、奴隷の解放のために戦うのが我らがヒーロー、ハリマオだ。ハリマオの正体についてはジャワ統治庁のコバール長官でさえ掴みかねていたが、ただ一つ判明していたのが、ハリマオが日本人であることだった・・・。

Wikipediaによれば『快傑ハリマオ』は、「太平洋戦争直前前後にマレー半島で日本軍に協力したマレーの虎と言われた谷豊をモデルに山田克郎の『魔の城』を原作として制作された」とのことだが、敗戦国である日本で、ここまで露骨なアンチ白人支配を織り込んだ作品を放映できた事実は驚くばかりだ。

『快傑ハリマオ』が放映された1960年といえば、日本では安保闘争が盛り上がっていた時期に当たる。言うまでもなくインドネシアを占領支配していたのはアメリカではなくオランダではあるわけだが、当時の日本国内の反米的気運の後押しでもあったのかもしれない。

ところで、「ウルトラマン」の『故郷は地球』などで有名な脚本家、佐々木守は『豹の眼』や『快傑ハリマオ』といった宣弘社ヒーローについて、こんなことを書いているようだ。

「しかしぼくは宣弘社ヒーローたちの持つ東アジア、あるいは東南アジア的世界は『少年倶楽部』的アジアン・ドリームというよりも、むしろ「大東亜共栄圏」のイメージであると思う」(『月光仮面を創った男たち』樋口尚文/平凡社新書)


いきなり凄い話になってきたが、実際、「大東亜共栄圏」構想には、アジアの白人支配を打倒する意図もあった。なぜそう断言できるのかと言えば、敗戦後もそのまま東南アジアの地に留まり、アジア諸国の独立運動に協力した日本人が、多数いたからだ。もしも日本が、本当に侵略目的だけで大東亜戦争を起こしたというのなら、彼らが敗戦後も東南アジアの人々のために血を流し、死んでいった理由がない。

インドネシアの侍」(YouTube)
大東亜戦争 ビルマ独立と日本の関係」(YouTube)


という感じで、オランダによるインドネシア支配と、日本人によるアジアの解放、という史実を織り込みながら制作された『快傑ハリマオ』に、後の70年代ヒーローのような自虐史観洗脳装置としての要素は全くない。たしかに、弱者を救い保護する、という点では似たような構図を感じるかもしれないが、こちらは具体的に「敵」を設定している点が異なる。どうとでも解釈可能な漠然とした「悪」ではない。

そしてやはりハリマオも、月光仮面同様に、正義の「味方」だった。

「魔の城篇」は、両親を亡くした太郎少年が、叔父を頼ってシンガポールからジャカルタにやってくる場面から始まるのだが、太郎くんはそのピストルの腕前を見込まれて、中国人の人身売買組織からの勧誘を受けてしまう。最初はその首領の中国人を善人だと勘違いしてハリマオを狙撃してしまった太郎くんだったが、やがてその本性を知ると、組織への協力を拒むようになる。太郎くんは奴隷船に乗せられ、反逆を問われて激しくムチで打たれる。その様子を見ていた「キャプテン」と呼ばれるジャワ統治庁がらみで同船してきた男が言う。
「だが見給え。あの小僧、さすがに日本の少年だ。覚悟を決めて、びくともしない」
幼い太郎くんは、彼の正義を貫いた。
そしてハリマオが再びブラウン管の中に登場してくるのは、まさにこの直後のことだった。
さあ、ハリマオはどこから現れたか!?・・・。続きはDVDでどうぞ(1枚たったの500円!)。


というわけで、『月光仮面』『快傑ハリマオ』という昭和30年代を代表するテレビヒーロー番組に見られる「正義」について、少し書いてみた。
いずれの作品でもハッキリしていることは、ヒーローが守ろうとしているのが「世界の平和」だの「人間の自由」だのと言った、大げさで観念的なスローガンだけではない、ということだろう。彼らはそういったお題目の前に、まず日本人の心の中にある「正義心」、それを守ろうとした。その味方であろうとした。

おそらくそこには、敗戦によって揺らいでしまった日本の「正義」を取り戻そうという意図もあったのだろう。
川内康範は、『篦棒な人々・戦後サブカルチャー偉人伝』(竹熊健太郎/河出文庫)の中で、こんな話をしている。

なぜ僕が特攻隊の遺書を発表しようとしたかというと、戦後の日本の文壇には新日本文学会をはじめとして、「太平洋戦争は侵略であって、戦死した者はすべて犬死にだ。この国のこれまでの歴史はすべて否定されなければいけない」という論調が広まっていたんです。羽仁五郎とかはその最たる者だ。ぼくはそんな考えには同調できなくてね、読売新聞で反論した


『月光仮面』そして『快傑ハリマオ』とは、そんな戦後の自虐史観にキッパリとNO!を突きつけた作品だったのだと、ぼくは思う。

つづく

超人バロム・1 正義のエージェント

マッハロッド

ここまでで見てきた通り、昭和30年代のヒーロー番組の「正義」とは、実は視聴者であるぼくらの中に存在するものだった。月光仮面ハリマオは、そのぼくらの中の「正義」に「味方」する者だった。
と、十分な確認をした上で、いよいよぼくらが自己形成期に楽しんだ70年代ヒーロー番組の検証をしていきたい。
すなわち、70年代ヒーローの「正義」とは一体どのようなものだったのか、だ。

『仮面ライダー』を大ヒットさせた平山亨プロデューサーのグループ。彼らが次に手がけた作品は、さいとう・たかを原作の『<超人バロム・1』だった。
『超人バロム・1』は次のようなナレーションで幕を開ける。

大宇宙・・・。その中で、何千年もの長い間、二つの力が戦い続けていた。一つの力は平和と正義を代表するコプーと言い、今ひとつは悪とのろいの力であるドルゲ! 
激しい戦いは続く・・・。そして悪の力ドルゲはついに地球に達した。ドルゲは地球の地底奥深く住み処を求めて、人間では行くことのできない地下にその根城を作り上げた。
そしてある日・・・悪の力ドルゲは、地上に向けて行動を開始した!


そうして地上に現れたドルゲは、「正義を憎み、愛を呪い、善なるものをあざける悪!ドルゲ」と自己紹介すると、木崎という学者を捕まえて「悪のエージェント」オコゼルゲに仕立て上げる。
一方、同じく地球に降りてきたコプーは、白鳥健太郎、木戸猛という二人の小学生に「わがコプーの力」を与えて「正義のエージェント」バロム・1にすると、「悪なるドルゲと戦うのだ」と命じるのだった・・・。


この『超人バロム・1』が、同じく1972年4月に5日遅れでスタートした『ウルトラマンA』と、極めてよく似た世界観を持つことは一目瞭然だろう。
地球人類には与り知らぬ領域で展開されている「善」と「悪」の長い戦闘の歴史があり、その「悪」を追って「善」が地球に来訪する。「善」は特に根拠らしき根拠も示さないまま、二人の人間を選んでその力を分け与え、合体変身をさせる。なお、「善」がどのように「善」であり、「悪」がどのように「悪」なのかの説明は特になされることはない。いずれも「絶対善」であり「絶対悪」の存在だ。

そしてこの世界観の中では、ヒーローは「正義のエージェント」と呼ばれる。彼らは「善」or「正義」そのものであるウルトラやコプーの代理人となって、「悪のエージェント」のヤプール超獣やドルゲ怪人と戦う。

それでは、この時「正義」は一体どこにあるというのか。
言うまでもなくそれはウルトラやコプーにあるのであって、ぼくらの中にあるものではない。
ぼくら民衆は言ってみれば、子どものように無垢で純粋な存在だ。前提として「善」であり、弱者でもある。
戦闘はぼくら民衆の外部で行われており、ぼくら民衆自身が「悪」と戦うわけではない。
つまり、ぼくら民衆にとっては、ウルトラやコプーの戦いは「他人事」だということだ。

この民衆のあり方は、よく考えてみるとかなり異様だ。
脅威にさらされている当の本人たちは何もせず、まるで無防備な赤ちゃんであるかのように自分たちを捉えている。そして「正義」も「悪」も、自分たちとは別の場所に置いたまま、一切関与しようとはしない。まるで、純粋無垢な自分たちが「悪」に染まらないように「正義」が保護するべきだ、と言わんばかりだ。

この異様な発想はどこから来るものなのか。
戦闘とは自分たちの外部にあるもので、自分たちが関与するものではない。これはおそらく、憲法9条に基づく発想だろう。日本人にとっては、朝鮮戦争もベトナム戦争も「他人事」だった。朝鮮やベトナムでどれほど人が死のうが、日本が平和ならそれでいいじゃないか。
そして民衆とは純粋無垢で善なる者だ。だから悪しき軍部によって民衆はだまされて、あの戦争に参加させられてしまった。民衆は悪くない。だました軍部が「悪」なのだ・・・。

・・・というような朝日新聞的な発想が、「正義」と「悪」を民衆から切り離し、それぞれのエージェントに代理戦争をさせるという異様な物語を生んだようにぼくは思う。もちろん、もともとの朝日新聞的発想では、民衆から「悪」だけを切り離したかったのだろうが、そうなるとあの戦争での民衆こそが「悪のエージェント」だったことになってしまう。ならば、いっそのこと「正義」さえも民衆から取り上げて、純粋無垢な赤ん坊にしてしまえばいい。ぼくらはただ、「正義」の勝利を願ってだけいればいいのだ。

昭和30年代にはまだ民衆の中に民衆とともにあった「正義」は、1972年の『バロム・1』『ウルトラマンA』の頃には「正義のエージェント」のものになっていた。民衆は「正義」の主体ではなく、「正義」の代理人を応援する観客に成り下がっていた、ということになるだろう。

あるいは、それぞれのエージェントによるこの闘争を、当時の二つの超大国による冷戦のメタファーであると見る向きもあるかもしれない。そして、その場合の「正義」がアメリカ合衆国側であることに異論を唱える人はまずいないだろう。

実は、そうして「正義」をアメリカだと考えたとき、上述の話はいくらかでも説得力が増してくる。
というのも、敗戦後の日本で、真っ先に軍部と民衆を切り離していったのが、他ならぬアメリカ(GHQ)だったからだ。

その集大成ともいえるのが、いわゆる東京裁判。
すなわち、自虐史観(東京裁判史観)の根源だ。

つづく


似たもの同士の『バロム・1』と『ウルトラマンA』だが、どちらが先かと言えば、1970年に原作劇画が発表された『バロム・1』の方だ。『ウルトラマンA』には、ヤプールが人間の邪悪な心につけ込んで超獣を出現させるエピソードがあるが、『バロム・1』にも強盗殺人犯の凶悪な心をドルゲが利用するストーリーがある。考えることはみんな一緒、というところだろう。

なお、さいとう・たかをの原作では、二人の少年が合体すると、一人のおじさんになる。
かぶり物ヒーローに飽き飽きという人は是非ご一読を(新鮮かつ笑えます)。

変身忍者 嵐 焼け跡世代とヒーロー

変身忍者嵐

変身忍者 嵐』(1972~1973)も、『仮面ライダー』同様、悪から生まれて悪と戦うタイプの作品だ。

舞台は江戸時代。1000年の歴史をもつ忍者集団「血車党」は首領・魔神斎の指令のもと、日本征服に乗り出した。血車党の谷の鬼十は、魔神斎に命じられてその秘伝の術によって「化身忍者」と呼ばれる怪人を製造してきたが、魔神斎の野望を知ると、息子のハヤテを「変身忍者」に改造した。しかし谷の鬼十の「秘伝書」は血車党に奪われ、鬼十も殺されてしまった。ハヤテは日本中に散った血車党を追って、討伐の旅に出るのだった・・・。


ショッカーから生まれた仮面ライダーがショッカーと戦うように、血車党から生まれた変身忍者嵐は血車党と戦う。異なるのは、嵐を生み出したのが嵐(ハヤテ)の実の父だということだ。
だから、オープニングのナレーションではこうなる。

「変身忍者嵐は元血車党の忍者、ハヤテだ。血車党はハヤテの父が作った化身忍者を操り、日本征服をたくらむ。ハヤテは父のあやまちを償い、日本の平和のため、自ら変身忍者嵐となり血車党と戦うのだ」

この時代のヒーロー番組には、悪から生まれて悪と戦うという、いわば「父殺し」とでも言うような構図が結構ある。『仮面ライダー』『変身忍者嵐』以外でも『人造人間キカイダー』『デビルマン』などがすぐ思い浮かぶことだろう。
ではなぜ彼らは一様に、その「父」と戦うのか?

『変身忍者嵐』では、それは嵐(ハヤテ)の実父が「あやまち」を犯したから、息子のハヤテがその「償い」をする、と説明されている。そしてその「償い」は実父だけに及ぶものではなかった。
ハヤテは言う。
「わたしは今でも血車党を愛している」(第3話「呪いの妖気! オニビマムシ!!」)
つまりハヤテから見ると「悪」に染まった血車党とは一時的な姿であって、魔神斎一派さえ打倒すれば血車党はまた元の平和な集団に戻れる、と彼は確信している。「あやまち」の「償い」は、血車党全体をも指しているというわけだ。

元は平和な集団だった血車党が、魔神斎によって狂わされ「悪」になった・・・・。
血車党自体は「悪」ではなく、罪があるのは魔神斎一派だけ・・・。

このハヤテの発想は、いかにも自虐史観的だとは言えないだろうか。
日本の民衆は、軍部にだまされてあの戦争をさせられた。裁かれるべきは戦争指導者たちであって、民衆には罪はない。
そういった東京裁判の根底にある思想と、『変身忍者 嵐』のハヤテの発想は限りなく近いものであるように、ぼくには思える。


それでは、どうしてこの時期「父殺し」のヒーローが乱立したのか?
その理由の一つとして、当時の番組の作り手の世代論が有効になると、ぼくは思う。

当時、子ども番組を作っていたのは戦争を幼少期に体験した人々だった。具体的には1935~1939年生まれの「焼け跡世代」を中心にした世代を指す。
ざっと列挙してみると、『仮面ライダー』系では平山亨プロデューサー(1929)を始め、石森章太郎(1938)、伊上勝(1931)、長坂秀佳(1941)、『ウルトラマン』系では金城哲夫(1938)、上原正三(1937)、佐々木守(1936)、市川森一(1941)・・・・。
他にも、梶原一騎(1936)、富野喜幸(1941)、宮崎駿(1941)、松本零士(1938)など、そうそうたる面々だ。

そんな彼らは、二つの「正義」を見てしまった世代だと言えるだろう。
言うまでもなく、日本(大日本帝国)の「正義」と、アメリカの「正義」だ。そして敗れた日本の正義は「悪」だとされたのも見た。彼らの父親世代は「悪」に騙された世代だとされた。

「正義」だと信じていたものが「悪」に変わり、新たな「正義」が外からやってくる。
こんな体験をしたのは、この世代くらいなもんだろう。
だから、彼らの作る物語では「正義」も「悪」も、民衆の外部にあることが多いのだとぼくは思う。

これは、戦争を成人で迎えた大正生まれの川内康範や小林利雄が、『月光仮面』や『快傑ハリマオ>』の中で「正義」を民衆一人一人の中に置いたことと比べると、明らかな違いが浮き彫りになるだろう。
あるいは1945年生まれの永井豪作品の、無邪気なまでの勧善懲悪思想も参考になるかもしれない。

かくして、昭和一桁や焼け跡世代が作るヒーロー番組には「父殺し」すなわち大日本帝国を殺す(否定する)物語が乱立した、とぼくは考えている。そしてそれは、アメリカを「正義」とする戦後民主主義、さらには自虐史観のストーリーと一致する。

『変身忍者嵐』の「あやまち」の「償い」には、そういう意味が隠されているのだと、ぼくは思う。

つづく

イナズマン ミラーマン

イツツバンバラとキティファイヤー

実写ものを二つ。

まず東映の『イナズマン』(1973ー1974)。
原作は石森章太郎、メインプロデューサー平山亨、メインライター伊上勝・・・と、『仮面ライダー』以来の東映変身ヒーロー番組の主力による作品のひとつ。

『イナズマン』の「悪」は、バンバという超能力者。バンバは超能力者(ミュータント)こそが優秀な人間=新人類であると考えて「新人類帝国ファントム軍団」を興すと、超能力者以外の人間の奴隷化(場合によっては殺害)を目論んだ。
これに対抗すべく、同じく超能力者(と思われる)キャプテン・サラーは、超能力を持った少年少女を集めると「少年同盟」を結成する。
主人公、渡五郎はたまたま新人類帝国と少年同盟の争いの現場に遭遇し、少年同盟に加担する。そしてキャプテン・サラーにその潜在的な超能力を見抜かれ、志願してイナズマンへの変身能力を得ることになる・・・。


ここでも、ぼくら民衆は戦闘の外部にある存在だ。
「悪」の超能力者バンバと戦うのは、「正義」の超能力者の集団であって、ぼくらではない。ぼくらは彼らの戦闘を見守り、自分に被害が及ばないことを願うのみだ。
だから『イナズマン』をいくら応援しても、正義を愛する心が育まれるわけじゃない。

ただし、「悪」を憎む心のほうは得ることができるだろう。
その「悪」とは、選民思想を持ち、人間の奴隷化を企む「侵略者」だ。


『ミラーマン』(1971ー1972)は円谷プロ制作。

この作品での「悪」はそのものズバリ、宇宙からの侵略者「インベーダー」という連中。
彼らは「地球の侵略および地球人類の抹殺等を目的に」している(Wikipediaより)。
これに対抗したのが、異次元世界(2次元)からやってきた先代ミラーマンだったが、ミラーマンはインベーダーの手で殺されてしまう。この間、何らかのかたちでミラーマンに協力していたと思われる御手洗博士は、ミラーマンと地球人の女の間に生まれた子どもを引き取り、養育する。
その子ども、鏡京太郎が成人して新聞社のカメラマンとして働き出した頃、再びインベーダーによる地球侵略が始められる。御手洗博士はそのことを予期してSGMという調査組織を結成していたが、事ここにいたるに及んで、ついに京太郎に彼の出生の秘密を打ち明ける。自分が普通の人間ではないことにショックを受ける京太郎だったが、巨大な怪獣に街が破壊されるのを見ると、父の意志をついで、ミラーマンへと変身する・・・。


インベーダーの侵略に対する人間の力はあまりにも無力であり、それを補うために2次元人のミラーマンが助太刀する、という話。東映系に比べてまだ救いがあるのは、『ミラーマン』にはSGMという人間の組織が存在し、とりあえずは侵略者vs人間の構図が維持されていることだろう。
ただしこのSGMは初期設定ではまともな軍事力を持たない民間の調査機関で、怪奇事件の犯人がインベーダーであることを証明するために存在するようなものだった。あくまで戦闘の中心はインベーダーvsミラーマンにあって、人間は無力な傍観者であることが大半だった。


以上、自分が幼児期に観ていた記憶が残っているヒーロー番組から2作品の、大ざっぱな世界観のようなものを書いてみた。いずれの作品でも、戦闘の当事者は特別な超能力を持った人物であり、「正義」の主体も彼らにある。ぼくらはそんな彼らの戦いの傍観者であって、彼らの「正義」を見物している立場にしかない。

つづく

デビルマン バビル2世

デビルとバビル

続いてアニメをふたつ。

『バビル2世』(1973)は、世界征服を企む超能力者ヨミの陰謀を、同じく超能力者のバビル2世が防いでいくという話。

5000年の昔、宇宙船の故障で地球に不時着した宇宙人バビルは、仲間への目印として巨大なバベルの塔を建設した。しかし、地球人の操作ミスで塔は爆発。宇宙人バビルは地球への永住を決意し、人間の女性との間に子どもをもうけた。バビルは、いつの日か自分と全く同じ体質を持つ子孫が誕生した場合に限り、自分の遺産の全てを譲ることを考え、特殊な音波発生器をセットした。
その音波をキャッチしたのが、主人公の浩一少年だった。浩一はある晩、育ての親たちに別れを告げるとバビルの塔からの迎えの使者ロプロスに乗り込む。バビルの塔で全ての事情を知った浩一は、コンピュータによる100日間の教育を受け、その超能力を開花させる。続いてコンピュータが命じたのは、ヒマラヤに住むヨミに会うことだった。浩一はヨミが世界征服の野望を抱き、すでに行動を開始していることを知ると、ヨミと対決する決心をするのだった・・・。


「悪」の超能力者による世界征服を、別の「正義」の超能力者が阻止する、という点で『バビル2世』と『イナズマン』は似たような世界観を持っていると言うことができる。
が、実はそれはテレビアニメ版だけの話で、横山光輝の原作漫画には『バビル2世』と『イナズマン』を隔てる大きな違いがきっちりと描かれている。
テレビアニメ版には存在しないその違いとは、宇宙人バビルが遠い未来に生まれるであろう自分と全く同じ体質を持った子孫に宛てた、次のセリフだ。

「わたしはきみにこの塔のすべてを与えよう。
それらを使いこの地球を征服するも地球人のために使うもそれはきみの自由だ」

バビルの遺産とは、リモコンの操縦者次第で善悪いずれにも働くロボット、鉄人28号と同じものだった。
ここには視聴者への倫理の問いかけが存在する。最初から「正義」であることを主張する『イナズマン』とは大きく違う点だ。宇宙人バビルは、「正義」のために浩一に彼の遺産を与えたわけではなかった。どのように使ってもいいバビルの遺産を、ヨミの陰謀を阻止するために使うことを選んだのは浩一自身だった。

横山光輝は昭和9年(1934年)生まれ。
その作品からは、「正義」はそれぞれの心の中にあるのだ、という主張が感じられるように思う。


一方、戦争を知らない世代のトップランナー的存在が、1945年9月生まれの永井豪だろう。
その作品『デビルマン』(1972ー1973)には、なんと「正義」自体が存在しない。

ヒマラヤの氷に封じ込められていたデーモン族が復活し、地球征服を目指して活動を開始した。その先兵デビルマンは、登山客の不動明の体に乗り移ると、人間世界にやってくる。しかし、デビルマンは不動明の下宿先の娘、牧村美樹に一目惚れしてしまい、魔王ゼノンの命令に従わない。デーモン族はデビルマンを裏切り者とみなし、次々と刺客を送り込んでくる。デビルマンは愛する美樹を守るため、それらデーモン族と戦うのだった・・・。

この物語のどこにも、いわゆる「正義」が存在していないことの説明は不要だろう。いや、強いて言うなら「愛こそ正義」ということか? デビルマンにとって大切なのは牧村美樹(とその家族)だけなので、戦闘中に民家を踏みつぶしたり、無関係な人がデーモン族に襲われても、彼は何とも思わない。たまにはヒーローっぽい行動もするが、それは何もしないと美樹が悲しむ結果になりそうな場合だけに限られる。そんなデビルマンにとっての目下の悩みは、自分がそばにいるから美樹までもがデーモンに襲われてしまうという点だけだ。それだけが彼を苦悩させる。

どこにも「正義」が存在しない、不思議なヒーロー番組『デビルマン』。
この件について何かヒントはないかと探したところ、Wikipediaに「中国大陸で脱走した日本兵が、娘を守って日本軍をやっつける話」という興味深い一説があったので、引用元の本を買ってみた。

メインライター辻真先の談話。

「デビルマンってのは、けしからんヤツなんですよ。これ、例えるなら、中国大陸で脱走した日本兵が、娘を守って日本軍をやっつけるって話でしょう(笑)。ただ、正義ってのがひとつじゃないことが、五十年前によくわかりましたから、正義正義って偉そうにいうよりも、好きな女のコのために一生懸命になるほうが、よほど上等じゃないかな、という気はするんですよ(笑)」(『懐かしのTVアニメ ベストエピソード99<東映動画編>/二見書房より)


Wikipediaによると、『デビルマン』の漫画版とテレビ版の関係は「同一の基礎設定を使用して描かれた2つの作品」というものらしい。「悪魔をヒーローとした作品」という基本設定を元に、漫画を永井豪が、テレビを辻真先がと、別々に進行していったそうだ。
一回り年齢の違うふたりの作家が、基本設定は同一とはいえ、それぞれに「正義」の存在しないストーリーを作っていった過程は非常に興味深い。

※ここらへんは、またいずれ機会があれば掘り下げたいところ。

つづく

秘密戦隊ゴレンジャー 国連の正義

ゴレンジャーのお馬鹿な怪人ども

これまで見てきた通り、1970年代のヒーロー番組の「正義」とは、ぼくら民衆の中に存在する倫理や規範ではなかった。それは「正義」の代理人に指定された人のものであったり、特殊な能力を持った人のものであって、ぼくら民衆の外部に存在するものだった。
そして、そんな「正義」が戦う「悪」もまた、ぼくらの中にはなかった。「悪」もやはり、どこかぼくらの外部に存在するものであり、それは一様に「侵略」するものだった。

と、まとめてはみたものの、以上の説明で1970年代ヒーロー番組の「正義」と「悪」の正体がすべて理解できた、という人は皆無だろう。何かモヤモヤしていて、視界明瞭とは言い難い。

それがハッキリと姿を現すのは、特撮ヒーローブームがぼちぼち終焉しつつある1975年のことだ。
作品名は『秘密戦隊ゴレンジャー』。
原作は石森章太郎、プロデューサーは平山亨、メインライターは「怪獣使いと少年」の上原正三。

この『秘密戦隊ゴレンジャー』は正直言って、かなーり幼稚な作品だと断言してしまってもいいと思う。それは、上の方に貼っておいた怪人の写真が雄弁に物語っているだろう。Wikipediaによれば、当初スパイアクションものとして雑誌連載されていた石森章太郎の漫画は、やがてテレビ版を反映してギャグマンガに変更され、最終的には『ひみつ戦隊ゴレンジャーごっこ』に改題されたそうな。

ところが、その幼稚なギャグアクション『秘密戦隊ゴレンジャー』は分かりやすさを追求して制作された結果、1970年代ヒーロー番組が何となく口ごもってウヤムヤにしてきた「正義」と「悪」の正体を分かりやすく暴露してしまうことになった。

『秘密戦隊ゴレンジャー』のスタートはこうだ。
まず悪の侵略者「黒十字軍」が蜂起し、それに対抗すべく国連が世界各地に結成させたチームが「イーグル」だった。日本には5つの「イーグル支部」が誕生したが、ある時、黒十字軍の同時多発的な奇襲を受け、5つの支部はほぼ全滅してしまう。しかし、各支部には偶然一人ずつの生存者があった。イーグルはこの5人の幸運な若者に特殊訓練を施すと「ゴレンジャー」を結成、黒十字軍の野望を粉砕するために戦わせるのだった・・・。


ゴレンジャーというのは、要するに国連の5人の職員による特殊部隊だ。ゴレンジャーの「正義」とは、国連の掲げる「正義」だということだ。これはヒーローの「正義」を担保するものを追求していけば、自然と辿り着いてしまう結論だろう。なにより、幼稚園児にだって理解できる分かりやすい「正義」だ。

が、ぼくらはもう幼稚園児ではないので、もう少し具体的にその中味を考えなくてはならないだろう。
では、国連の「正義」をもう少し具体的に言えばどうなるか?
それは要するに、第二次世界大戦の戦勝国の正義、すなわち、アメリカ、ソ連、中国、イギリス、フランスという5つの常任理事国を中心にした「正義」だ。

仮にこの5つの常任理事国を「ゴレンジャー」と呼んだとしよう(笑)。
では、この「正義」のゴレンジャーが寄ってたかってボコボコにする「悪」の「侵略者」とは何を指すのだろうか?
言うまでもない。
現在においてなお「国連憲章」の中で「敵国」という表現で示される、かつての枢軸国だ。その中でも、一番最後まで抵抗を続けた大日本帝国など、「悪」の最たる者だろう。ショッカーにしろ黒十字軍にしろ、首領というのは最後の最後に殺されるものだ。

敵国条項ーWikipedia

「悪」のショッカーから生まれた仮面ライダーは、ひたすらショッカーを倒すために戦った。変身忍者嵐のハヤテは、「悪」の血車党に加担してしまった実父の「あやまち」を償おうとした。バロム・1は「悪」の侵略者と戦う「正義」のエージェント(代理人)だった。

繰り返しになるが、彼ら70年代ヒーローはぼくらに「正義」であれ、とは言わなかった。
ぼくらは彼らの「正義」によって保護されるだけの存在だった。
そしてその「正義」とは、ついに『秘密戦隊ゴレンジャー』が暴露してしまったように、国連(第二次大戦の戦勝国のグループ)の「正義」に他ならず、倒されるべき「悪」は戦前の大日本帝国の「悪」だった。

もはやクドクドした説明は不要だろう。
この70年代ヒーロー番組の「正義」と「悪」の構図は、戦後民主主義の「正義」と「悪」の構図であり、自虐史観(東京裁判史観)の「正義」と「悪」の構図とも完全に一致する。ぼくらが熱中したヒーロー番組とは、戦後民主主義と自虐史観の「正義」をサポートし、この国の過去を全否定しようとする物語群だったのだ。

と、ぼくは考えている。

かくしてこのカテゴリの冒頭で書いたように、幼少期をこれらヒーロー番組とともに過ごしたぼくは、戦後民主主義と自虐史観の物語をごく自然なうちに受け容れ、あたかも自分自身の自明な思考であるかのように思い込んでいたのだった。

とは言うものの、実は70年代のヒーロー番組にも自虐史観洗脳装置ではないものも存在した。
ただし、それはごく限られた作家が担当した作品において、であった。

つづく

スパイダーマン アメリカの正義

アメリカン・ヒーロー

話を先に進める前に、このカテゴリの補足として、アメリカのヒーローものについて少し触れておきたい。

70年代の日本のヒーロー番組のほとんどは、まず「悪」ありきだったが、アメリカのヒーローは全くの逆で、まず「正義」ありきのようだ。それは当たり前と言えば当たり前のことで、そもそもアメリカという国は理念から生まれた人工国家なんだから、アメリカ人がアメリカ流・アメリカ式で生きること自体にアメリカの「正義」がある。それを具体的に言うにはぼくの知識が不足しているんだが、おそらく自由だとか平等だとか、いわゆる「民主的」とされることから思いつくことを挙げるだけでも、ある程度は十分なのではないかと思う。

ではそんなアメリカンヒーローが戦う「悪」とは何か?
ぼくが知っているアメリカンヒーロー(スーパーマン、バットマン、スパイダーマン等)を見る限り、それは犯罪者だ。特に、個人の力ではどうにもならない大きな力を持つ犯罪者が、ヒーローが戦う「悪」だ。

ただ、そんな犯罪者も、元を正せば普通のアメリカ人だった。
それが自分の欲望をどんどん肥大化させていった結果、巨大な力を得てしまった、というパターンが多い。これは「成功」自体を否定しないアメリカ流・アメリカ式の負の側面とも言えるものだろう。
つまり、アメリカンヒーローが戦う「悪」とは、アメリカ人が持つ内なる願望の悪しき現れ、という形をとっていると見ることもできる。

「正義」であるはずのアメリカ流・アメリカ式から「悪」が生まれたとき、ヒーローがそれを叩きに行く。その動機は、映画『スパイダーマン』に出てくる次の言葉が端的に表していると言われるようだ。

大いなる力には、大いなる責任が伴う (With great power comes great responsibility)

アメリカという国は、やたらと世界中にアメリカ式を押しつけたがるおせっかいな癖があるが、それを彼らは「大いなる責任」だと勘違いしているのかもしれない、と思いたくなるようなセリフだ・・・。

と言うような皮肉はともかくとして、アメリカンヒーローが「悪」と戦う動機は、彼らの「責任感」にこそあった。アメリカがアメリカであることによって生んでしまった「悪」(犯罪)を、アメリカ自身の責任によって討つ。
これはさかのぼれば、西部開拓時代から現代に続く保安官制度に見られるような、あるいは個人の銃保有に見られるような、自分の身は自分で守るというアメリカ人の自警的な思想が背景にあるのだろう。実際、『バットマン』はたった一人の自警団の物語であり、バットマンは彼の住むゴッサム・シティからほとんど外には出ていない、とか。


さて、そんなアメリカンヒーローの一人であるスパイダーマンは、1978年に日本の東映の手で特撮ヒーロー番組として制作・放映された。この日本版『スパイダーマン』は、ヒーローのルックスだけはアメリカ製と同等のものだったが、舞台設定その他ほとんどは日本流に改変されている。
この両者の違いは実に興味深いものだ。

まずアメリカ版では、普通の高校生ピーター・パーカーがたまたま運悪く(?)特殊なクモに噛まれてしまい、遺伝子に変化をおこして超人的な身体能力を手に入れてしまうことから物語が始まる。ピーターはその能力をくだらない私欲(2002年の映画ではプロレス)に使っていたが、ある事件をきっかけに自分の責任に目覚め、街にはびこる凶悪犯罪と戦う決意をする。

同じ頃、軍需産業での成功を目論むオズボーンは自らが開発したパワー増強剤の実験を自らに果たし、こちらも超人的な肉体を得ていた。やがてオズボーンの深層心理に潜んでいた凶悪な野心が彼を支配するようになり、オズボーンは怪物になっていく。オズボーンは目障りなスパイダーマンを仲間にしようとするが、ピーターは拒否。ふたりの激突が始まった・・・。

というようなアメリカンヒーローは、日本に輸入されると以下のように姿を変える。

スピードレーサーの山城拓也は、高名な科学者の父を研究成果の悪用を目論む異星人のモンスター教授に殺された。故郷を滅ぼされて教授を追って来たが力尽きたスパイダー星人・ガリアから、蜘蛛の能力を与えられて、超人・スパイダーマンとなり、仇である教授が率いる鉄十字団と戦う。(Wikipediaースパイダーマン(東映)から引用)


例によって、宇宙には「鉄十字団」という「悪」と、「スパイダー星人」という「正義」の戦いがあり、主人公の山城拓也はその「正義」によって特殊な力を与えられたエージェント、というスタイルをとっている。『仮面ライダー』以来の、東映王道パターンの踏襲だ。
「悪」も「正義」も、ぼくら民衆の中にはなく、その外部に存在する。そしてエージェントである主人公の動機は、「悪」への復讐だ。

アメリカ版ではいたって単刀直入に、市民の中にあるアメリカ流・アメリカ式という「正義」の味方だったスパイダーマンが、日本に来るやいなや「正義のヒーロー」となって世界征服を狙う悪の軍団と戦いはじめる・・・。

こうなってみれば、もはやこう結論づけるしかないだろう。
日本には、スパイダーマンが味方すべき民衆の「正義」が存在しないのだと。だからスパイダーマンは仮面ライダーたちと同じように自分自身が「正義」であると主張するしかなくなったのだと。

しかしここでスパイダーマンが元はアメリカ出身のヒーローであることを思い出すと、彼が日本に来るなり「正義のヒーロー」「正義のエージェント」に変化したことは、ごく自然な成り行きだったのかもしれないと思えてくる。
なぜなら、まさしく戦後日本の「正義」とは、アメリカの「正義」に他ならないからだ。スパイダーマンはアメリカの「正義」のエージェントとして来日し、アメリカ化した現代日本を守っている。そして彼の敵は、世界征服を企む「悪」の軍団、大日本帝国・・・。

アメリカvs大日本帝国の戦いに、ぼくら現代日本の民衆が参加できるわけがない。なにしろ「悪」は日本の”過去”という亡霊だ。
いや、参加している日本人もいたな。アメリカ側に味方して、日本の過去を攻撃する人は大勢いた。日教組がそうだし、朝日新聞なんかもそうだ。要するに、東京裁判を起点とする自虐史観や戦後民主主義を支持する人たちはみんな、アメリカの「正義」の味方だった。

そしてこれまで散々見てきた通り、ぼくらが幼少時に熱中したヒーロー番組の多くも、やはり日教組や朝日新聞と同じ立ち位置から、日本の過去と戦う人々だった。とぼくは考えている。

つづく


なお、東映版『スパイダーマン』は作品を観るヒマがないので、すべてWikipediaの記述を元に書きました。1978年にもなると、もうヒーロー番組を観るような年齢でもなく、また今さらリアルタイムで観てなかった作品を観る気もなく、全体としていいかげんな記事である可能性があります。悪しからず。

ここまでのまとめ

修身書

<お断り>以下の記事は、長いばかりで何も目新しい内容がありません。時間のない方はスルーしてください。


これまで見てきたように、『仮面ライダー』等の70年代ヒーローはいくら応援しても「正義」を愛する心が芽生えることはなく、むしろこの国の歴史を恥じ、愛国心を失わせるように機能する作品が多数を占めた。簡単に言えば、それらはぼくらに自虐史観を植え付ける洗脳装置として機能するケースが多々あった。

もう一度、そこらへんを整理しておくと、まず日本の70年代ヒーロー以外のヒーローについて言えば、

◎アメリカンヒーローの場合
 悪=人間の肥大化した欲望が生む犯罪(邪悪化したアメリカンドリーム)
 正義=アメリカの理念(アメリカ独立宣言など)
 ヒーロー=アメリカの理念の実行者、またはその味方

◎忠臣蔵の場合
 悪=腐敗した政治
 正義=武士道(江戸期の葉隠的な意味で)
 ヒーロー=武士道の実行者、またはその味方

◎大正生まれが作ったヒーロー(月光仮面、快傑ハリマオ)の場合
 悪=犯罪
 正義=「修身」的な倫理
 ヒーロー=修身的倫理の実行者、またはその味方

かなり大ざっぱだが、こんなかんじになると思う。
ポイントは、いずれも「正義」が明文化された倫理、理念、規範であって、人々に広く共有されているという点だ。そしてヒーローとはそれらの実行者であり、かつそれらの味方でもあった。
つまり、上記のどのケースであっても、まず「正義」が先にあり、そこから逸脱したものが「悪」だとされた。

それが1971年の『仮面ライダー』では、企画段階で市川森一によって、まず「悪」が規定された。

「正義のために戦うなんて言うのは止めましょう。ナチスだって正義を謳ったんだから、正義ってやつは判らない。悪者とは、どんなお題目を掲げていても人間の自由を奪う奴が悪者です。仮面ライダーは、我々人間の自由を奪う敵に対し人間の自由を守るために戦うのです」(『平山亨叢書1・仮面ライダー名人列伝』より)


これをまとめればこうなる。

◎仮面ライダーの場合
 悪=人間の自由を奪う奴(ショッカー)
 正義=人間の自由
 ヒーロー=人間の自由を守る者

また、同じく市川森一がメインライターを務めた『ウルトラマンA』ではこうなるだろう。

◎ウルトラマンAの場合
 悪=平和を乱す侵略者(ヤプール)
 正義=地球の平和
 ヒーロー=地球の平和を守る者

なんとなく上の方の3つのヒーロー像と似たような構造に見えるこれら70年代ヒーローだが、よく見ると「正義」の部分が全く異質であることが分かる。70年代ヒーローが「正義」だとする「自由」と「平和」は、単に人間や社会のおかれている「状態」のことであって、理念や倫理ではない。要するに、他者に拘束されていない状態が「自由」であり、戦闘の行われていない状態が「平和」だと言うだけのことだ。

これはおよそ「正義」とは程遠いものだとぼくは思う。
例えばWikipediaの「忠臣蔵」の項にはこのような記述がある。

「第二次世界大戦後の連合国占領下では、厳しい言論・思想統制が行われた。連合国軍最高司令官総司令部は日本国内での報復運動の高まりを恐れ、『忠臣蔵』事件を題材とした作品は封建制の道徳観が民主化の妨げになるとして(仇討ちという復讐の物語であるため)当事件を題材とした作品の公演、出版等を禁止した」


「忠臣蔵」の「正義」と、アメリカ建国以来の「正義」は互いに相容れることはない。
このように「正義」というのは本来激しくぶつかり合うもので、ばくぜんとした「状態」を指すものではないだろう。

さて、そう考えてみると、仮面ライダーやウルトラマンAの場合の「正義」は、実際には空欄ということになってしまう。彼らは「正義」と言い切れるだけの理念や倫理を何ら示すことはないのに、「正義のヒーロー」を自称していることになってしまう。

そこにメスを入れたのが、怪獣ジャミラが登場する「故郷は地球」などで有名な脚本家、佐々木守だろう。
1936年生まれの佐々木守は、戦後日本の「正義」を「戦後民主主義」に求めた。

「日本の敗北を体験した僕には『戦後民主主義』は明確な手ざわりとして残っている。それは『個人が、体制よりも社会よりも組織よりも、すべてに優先される』という考え方であり、そんな行動のことであった」(「佐々木守シナリオ集・怪獣墓場」あとがき)


個人が全てに優先されること。これが佐々木守の考える「正義」だった。
だから佐々木守が書いた『ウルトラマン』第23話「故郷は地球」では、ウルトラマンのほうが悪役に描かれた。

◎「故郷は地球」の場合
 悪=個人を抑圧し排除するもの(国家権力、科特隊、ウルトラマン)
 正義=個人が尊重されること
 ヒーロー=???

もちろん、ウルトラマンがいつでも「悪」だと言うのではない。時と場合によっては「正義のヒーロー」は国家を守るために個人を見捨てる可能性があり得る、という極端な一例が「故郷は地球」だということだ。
となれば、70年代的な「正義のヒーロー」とは、「戦後民主主義」の実行者でもなければ味方でもないことになり、依然として「正義」の空欄は埋まらない。
しかも「自由」や「平和」はたんなる「状態」を指すもので、倫理や規範ではない。自分がいくら努力をしたところで、北朝鮮の工作員に拉致されれば自由を失うし、ミサイルを撃ち込まれれば平和も失う。
つまりは、自由も平和も相手のあることで、その相手の行為が問題になる。すなわち「侵略」という行為だ。

結論としてはこうだ。

◎仮面ライダー、ウルトラマンAの場合
 悪=侵略
 正義=???
 ヒーロー=悪と戦うこと

そして、ここから無理矢理に「正義」を導き出すなら、それは侵略という「悪」を憎む心、ということになるだろう。

それにしても、なぜこうも「世界征服を狙う悪の侵略者」ばかりと70年代ヒーローたちは戦うのか?
ヤプール人、ショッカー、デストロン、ドルゲ、血車党、ファントム軍団、インベーダー、超能力者ヨミ、デーモン族、黒十字軍・・・・。
繰り返しになるが、アメリカンヒーローも月光仮面もハリマオも、主に戦った相手は犯罪者だ。悪党どもは、自分の金銭欲や所有欲のために殺人や破壊を行うのが常だった。ここにはそれなりのリアリティがある。

が、「世界征服」のリアリティのなさはどうだろう。
「世界」にはアメリカやソ連だって含まれるのに、そんな国々までがまったくの無防備にショッカーやデストロンの侵略を受けるなどとは、子どもでも思わないだろう。アメリカやソ連はもちろん、ドイツにだって外敵と向かい合うための軍隊があり、諜報機関もある。だから結局のところ「世界征服」とは言いつつも、それは日本の中だけの話でしかない。

戦後の日本社会にだけ存在する、この「世界征服」のリアリティ・・・。

その根底には、かつての日本が侵略戦争を起こした犯罪国家だという自虐的な歴史観があると思う。この大日本帝国の「悪」を憎む心、それこそが70年代ヒーローの「正義」だ。70年代ヒーロー番組とは、「悪」の大日本帝国の野望を「正義のヒーロー」が叩きのめすという、一種の歴史再現劇だったのだ。
と、ぼくは思う。

だから『仮面ライダー』等の70年代ヒーロー番組は、観れば観るほど自虐史観の思考回路に同調するように機能するし、本当の意味での「正義」を愛する心が芽生えるわけじゃない。そこに、人はこう生きるべきだ、という倫理や規範、理念は存在しない。自由でありたい、平和でありたい、という他力本願の(憲法9条的な)願望があるだけだ。

そして、自分は願望を持つだけで実際に「悪」と戦う主体ではない、という日本人の変テコな発想が生み出したものが、超人バロム・1に代表される「正義のエージェント」というヒーロー像だろう。バロム・1は二人の日本人少年が合体して変身し、事実上日本だけを守っているヒーローであるにも関わらず、正義の「代理人」であると言う。

この設定は、原作者さいとう・たかをの慧眼だとぼくは思う。
さいとう・たかをは、おそらく戦後の日本の「正義」が、ぼくらの生きる日本の外部に存在することを見抜いていたのだろう。バロム・1はその外部にある「正義」から「正義」を委託されたヒーローなのだ、と。
もちろんその「正義」とは、大日本帝国を滅ぼしたアメリカの「正義」だ。

そして1970年代前半というのは、そのアメリカの「正義」が揺らいだ時代だった。
泥沼化するベトナム戦争と、ドルショック。
アメリカの「正義」の担保であった軍事力とドルが、まさに敗れ去ろうとする時代だったからこそ、アメリカと「正義」を共有する(させられている)日本で、あれほど沢山の「正義のヒーロー」が生まれた可能性がある、とぼくは考えている。
が、その話題はまたいずれ別の作品を取り上げる時に、もう少し詳しく考えてみたいと思う。



まとめ、と言いつつダラダラと長話になってしまったが、話を元に戻すと、70年代ヒーロー番組が我知らずに持ってしまった自虐史観増幅装置という側面は、実のところ「世界征服を企む軍団」という悪役を、あいまいな「悪」のイメージとして設定してしまったことに起因する。だからそれらは、実際の歴史に実在した大日本帝国の物語と容易に結びついてしまった。
もちろん、作り手にそういう意図があったわけではないだろう。平山亨プロデューサーの自伝を読んでも、「正義のヒーロー」像の構築にかけた情熱は伝わってくるが、悪の軍団についての言及は驚くほど少ない。

これは勝手な想像だが、悪はショッカー的な侵略者ってことでいいでしょ、子どもにも分かりやすいし、シリーズ化が楽だしね! てなところだったのではないか。それが子どもたちに、本当の意味での「正義」を見失わせ、国を愛する心を捨てさせる効果に繋がる可能性があるなど、考えもしなかったことだろう。

つまり、問題は「悪」の設定にこそある。
ここをちょっといじるだけで、『仮面ライダー』は自虐装置ではなくなる。
それを実証したのが、『仮面ライダーX』(1974)だ。

つづく


ちなみにWikipediaによれば「戦後民主主義」の根幹である(とぼくが思っている)憲法13条には、アメリカ独立宣言の影響が見られるとのことだ。

「第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」



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