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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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ジャミラは可哀想か?(ウルトラマン怪獣)

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ある国にジェイソンという科学者がいた。
彼の専門は宇宙工学にあり、彼はエリート中のエリートとして、志願して有人人工衛星のパイロットになって宇宙に飛び出していった。しかし思わぬ事故が発生し、ジェイソンの乗った人工衛星は軌道を離れてしまう。通信機能も故障してしまったらしく、その国の宇宙局はジェイソンと連絡が取れない。広大な宇宙では、ジェイソンの人工衛星を探すことは困難を極めた。宇宙局はジェイソンからの通信を待つしかなかったが、やがてはそれも諦め、ジェイソンは死んだものと判断した。ただし、宇宙開発に対する一部の世論の反発を怖れ、この事故については公表を差し控えた。

ところがジェイソンは生きていた。
彼は宇宙をただよった末に、ある惑星に漂着していたのだった。
ジェイソンは、どんなに困難であってもエリート中のエリートである自分を彼の国の宇宙局は探し出すべきだと考え、通信機能の回復をしなかった。しかし、いつまでたっても救援が来ないことに恨みを持ち、やがて彼の人工衛星を宇宙ロケットに改造しはじめた。彼はすでに発狂していて、宇宙局への恨みは、いつしか人間全体への恨みにすり替わっていたのだった。

十数年という年月をかけて宇宙ロケットを完成させたジェイソンは、恨みの心だけを持って地球に帰ってきた。
彼は地球に降り立つや否や、無差別に大量殺人を開始した。少なくとも2機の大型旅客機が爆破され、1隻の客船が沈没させられた。数百人から数千人に及ぶ、何の罪もない人々が殺害されていった。
捜査隊はジェイソンの宇宙ロケットを見つけ出して破壊するが、ジェイソンはなおも山中に逃げ込み、手近かな山村を焼き払った。ここでも、人々のささやかな幸せはジェイソンによって奪われていった。
そしてついに、ジェイソンを説得して逮捕することを諦めた捜査隊は、ジェイソンを殺害するに至ったのだった・・・。



以上は、『ウルトラマン』第23話『故郷は地球』を客観的にみた、あらすじだ。ただし、怪獣となった宇宙飛行士ジャミラの名前を、『13日の金曜日』の殺人鬼ジェイソンに代えて書いてみた。

そもそも「ジャミラ」というネーミングは、アルジェリアの独立運動家、ジャミラ・ブーパシャに由来するという。現実のジャミラさんは、爆弾テロ未遂事件の容疑者として逮捕され、フランス当局による凄惨な拷問を受けたそうだ。そしてこの事件は重大な人権問題として、時のフランス政府を揺るがすことになったとWikipediaに書いてある。

『故郷は地球』(監督・実相寺昭雄/脚本・佐々木守)は、怪獣にジャミラと言う名前を与えることで、現実のジャミラさんのイメージを付与しようとした作品だ。そうすることで彼らは、怪獣ジャミラの物語が人権問題を含んでいることを示唆している。要するに印象操作だ。
だからぼくも、ジャミラをジェイソンと呼ぶことで、殺人鬼のイメージを付与しようとしてみた。これもまた、印象操作だ。

実際のところ、年季の入ったおじさんの視点からみてみると、怪獣ジャミラは自分を捜索してくれない人間に恨みを持ち、無差別大量殺戮に走った幼稚なテロリストでしかない。そしてジャミラは全人類に対する恨みを持っているんだから、放置しておけば人類は滅亡してしまう。これは凶悪だ。

しかし、このような殺人鬼のストーリーが、長らく『ウルトラマン』シリーズ屈指の名作として高く評価されてきた。ためしにネットで検索してみると「悲劇」「不運」「かわいそう」と言った乙女チックな言葉が、怪獣ジャミラに添えられていることがわかる。
そして、実を言うとこのぼくも、小学生の時に『故郷は地球』を観たときにはジャミラは「かわいそう」だと思い、それを排除しようとする科特隊とウルトラマンに激しく憤慨した一人だったのだ。

怪獣ジャミラの断末魔の声には、人間の赤ちゃんの泣き声が使われているという。それは、普通の感覚を持った人間には、およそ無視できないものだ。誰しも必ず何かしらの感情がわき起こるように、赤ちゃんの泣き声はできている。
一事が万事なので、いちいち説明はしないが、『故郷は地球』における殺人鬼ジャミラが「かわいそう」に見えるのは、このような高度な演出の積み重ねによるものだ。極端に言えば、映像による印象操作、洗脳の結果、殺人鬼ジャミラが「かわいそう」に見えるように作られているということだ。だから純朴な美しい心を持つ人ほどジャミラが「かわいそう」に見える。

もちろん、脚本のほうも凶悪だ。
少なくとも科特隊は人々の平穏な暮らしを守るために怪獣ジャミラを排除した。それにもかかわらず、なぜ科特隊が悪いやつらに見えるのか。それは、怪獣ジャミラが元は人間だったという点が、ことさらに強調されているからだ。人間が人間を殺していいのか、という一見もっともな問いかけがここにはある。

しかしジャミラを巨大な怪獣ではなく、人間サイズのジェイソンだと考えてみたらどうだろう。おそらくジャミラに涙する乙女たちですら、即刻の射殺を要求するはずだ。ジェイソンのほうがジャミラより人間に近いにも関わらず。
つまりここでは、怪獣という形態じたいが、ジャミラの本質を隠蔽していると見ることができる。怪獣という形態が持つ、巨大であることの悲しさ、哀れさが、『故郷は地球』では悪用されているわけだ。

そして脚本は、ジャミラが「被害者」であることも強調する。ジャミラは「被害者」だから、無差別殺人にもジャミラなりの正当性があると主張する。ただし、この時、ジャミラに蹂躙された数千の人々の被害には言及されない。

こういった態度は、現実世界でもしばしば目にすることがある。一つは人権派を名乗る弁護士グループなどによる殺人鬼弁護の態度。もう一つが、朝日新聞や毎日新聞などによる特定アジア弁護の態度だ。
前者の異常さについては、普通の感覚を持った成人が惑わされるようなものではないだろう。問題は後者だ。(ホロコースト的な意味での)「南京大虐殺」や(軍の強制という意味での)「従軍慰安婦」に代表されるでっち上げを行い、繰り返し繰り返し特定アジア地域への謝罪を要求する左翼系マスコミの態度の根底には、それら特定アジアを「被害者」だとする見方がある。「被害者」は罪もない「善」であり、加害者は一方的な「悪」であるという単純な決めつけがある。ただしこのとき、「被害者」がどのように「善」であるかの検証はなされない。


ジャミラの「かわいそう」さを支える「善」。それはジャミラが「被害者」であるということだ。だからぼくたちは、被害者ジャミラの犯す罪については目をつぶらなければならない・・・というような感覚は、まさしく左翼系マスコミが主張する「かわいそうな」特定アジアに日本がとるべき態度というやつと一致する。一言で言ってしまえば「自虐史観」と呼ばれる思考と一致する。であれば『故郷は地球』は、自虐史観を子供たちの脳に植え付け、増幅させる装置として作られた作品であることは疑いがないだろう。

いくら『嫌韓流』や『戦争論』にうなずこうとも、ジャミラを「かわいそう」だと思う心がある限り、自虐史観から逃れることはできない。それは、純朴だった幼少期に心の奥底に秘かに埋め込まれたICチップであり、トラウマとなって「かわいそう」な感情には抗えないようにぼくたちを呪縛する。


このブログでは、幼少時にぼくらが観てきた作品を、中年になったおじさんの視点からアレコレ考えてみたいと思う。そこにはまず、ぼくらを自虐史観の暗黒に引きずりこもうとする作品群がある。それは『ウルトラマン』における佐々木守作品であり、『仮面ライダー』等の東映ヒーローであり、『巨人の星』も含まれるだろう。
しかし一方で、日本人を自虐史観の呪縛から解き放とうとした作品群もある。『レインボーマン』や『宇宙戦艦ヤマト』は言うまでもなく、実は『ゴジラ』シリーズもその一つだったとぼくは考えている。

つづく

関連記事:『故郷は地球』は名作か
    :故郷は地球vsまぼろしの雪山



【追記】
『ウルトラマン』制作当時の実相寺昭雄氏への周りの評価は

「空の贈り物」http://takenami1967.blog64.fc2.com/blog-entry-27.html
実相寺氏の、怪獣やウルトラマンへの考え方は
「故郷は地球vsまぼろしの雪山」http://takenami1967.blog64.fc2.com/blog-entry-29.html
「地上破壊工作vs怪獣殿下」http://takenami1967.blog64.fc2.com/blog-entry-30.html
にお回りください。

佐々木守氏のヒーロー観はこちら。
「怪獣墓場<シーボーズ>」http://takenami1967.blog64.fc2.com/blog-entry-31.html
「アイアンキング」http://takenami1967.blog64.fc2.com/blog-category-5.html

ゴジラ映画は2度終わる ~『怪獣総進撃』から『ゴジラ対メカゴジラ』へ

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それは、時間を作っては少しずつ、年代順に昭和のゴジラ映画(東宝怪獣映画)をみていた時期のことだ。『ゴジラ対ガイガン』を観ていたぼくは、ふいにこんな疑問に取り憑かれてしまった。
「一体なぜ、ゴジラは戦い続けているのか?」

劇中でゴジラは、鮮血を噴き出し、片目をつぶされながら尚も強敵ガイガンとキングギドラのコンビに立ち向かっていった。一体どこに、そこまでしてゴジラが戦い続ける理由があったのか。あるいはゴジラを「戦わせる」理由があったのか。


昭和ゴジラシリーズについて多少なりとも調べたなら、それが本来は1968年の『怪獣総進撃』で完結する予定であったことがわかる。

11大怪獣が登場するという、東宝怪獣映画の総決算的作品である」「ところが、この映画が興行的に好成績を残したため、怪獣路線は存続されることになった(『ゴジラ大辞典』

だからゴジラは戦い続けた、というわけだ。

このような説明は一見明快で何となく納得してしまうものだが、実際にはぼくの疑問への答えにはなっていない。なぜならそれは、ゴジラ映画がその後も続いたことを知らなければ不可能な説明だからだ。
1968年、『怪獣総進撃』が制作されている期間においては、その後のことは分からなかった。そして、制作者たちは『怪獣総進撃』をもってゴジラ映画を完結させたつもりだった。かつて日本中で暴れ回った怪獣たちは、小笠原の怪獣ランドで平和に暮らしていくことになっていた。

しかしゴジラ映画はその後も作られ、ゴジラは血を流し続けた。つまり制作側の意に反して、『怪獣総進撃』ではゴジラ映画は完結してはいなかったということだ。
ゴジラシリーズを完成させるためには、いくつかのピースが欠けていた。そう考えることもできるはずだ。

そして結局は1974年の『ゴジラ対メカゴジラ』でゴジラ映画はようやく完結した。
あ、いや、もちろん翌1975年の『メカゴジラの逆襲」という映画があることは知っている。しかし、この映画のタイトルを見てほしい。この作品の主役はメカゴジラだ。前作で完成したゴジラに、メカゴジラがリターンマッチを挑んだのが『メカゴジラの逆襲』だったとぼくは思う。


『怪獣総進撃』から『ゴジラ対メカゴジラ』へ。
この間にゴジラは、ヘドラと戦い、ガイガンと戦い、メガロと戦った。しかしここに、第1作『ゴジラ』から『怪獣総進撃』に至るまでのような、シリーズとしての連続性はない。おそらく、戦う順番を入れ替えても特に支障はないだろう。
ではなぜ、ゴジラはこんな不毛な戦いを続けたのか。

理由があるとすれば、それは時間の経過ということではないだろうか。
『ゴジラ』が完結するためには、1974年という時が来るのを待たなければならなかった。ヘドラもガイガンもメガロも、時が満ちるまでの時間稼ぎに過ぎなかった。
それは、ゴジラに同時にふたつの出会いをさせるためだった。ひとつはメカゴジラ。もうひとつはキングシーサー。

このふたつの出会いは同時でなければ意味がなかった。ゴジラ本人の完成とゴジラシリーズの完結は、一つのストーリー上でしか達成できなかった。
だから『怪獣総進撃』の後も、ゴジラは戦い続けた。
そんなふうに、ぼくは今考えている。

では、ゴジラ本人の完成とは何か。
高橋敏夫という早大の先生が『ゴジラが来る夜に』という本のなかで、こう書いている。

ゴジラは、ゴジラじしんの力を、ゴジラじしんの強さを、ゴジラじしんの存在そのものを、そして、いうまでもなく、ゴジラじしんの意味を、確認し、反芻するためにだけ、メカゴジラとむかいあうのである。


高橋先生の言う「ゴジラじしんの意味」とは一体何だったのだろう。

ウルトラマンは第18話『遊星から来た兄弟』のなかで、ザラブ星人が変身した「ニセウルトラマン」と向かい合った。この時ウルトラマンが知ったこと。それは地球人から見れば、ウルトラマン=ザラブ星人であって、どちらも地球人類とは無関係な、赤の他人であるということだ。ザラブ星人は人間に問う。
「ウルトラマンこそ地球征服を狙う宇宙人ではないでしょうか?」
ウルトラマン(ニセ)が街を破壊していることを聞いた科特隊のムラマツ隊長は言う。
「たとえウルトラマンでも、この地球上で暴力をふるう者とは戦わなければならん」

ジャイアントロボは第22話『殺人兵器カラミティ』で、メルカ共和国が製造しBF団によって操られる自分のコピー品ロボット「カラミティ」と向かい合った。ロボの攻撃はすべて180度はねかえされ、ロボ自身を襲った。ロボは自ら放ったレーザー光線によって、視力を失った。しかし操縦者、大作少年の声に励まされ、ロボは立ち上がった。
この時ジャイアントロボが知ったこと。それは全く同じ性能として、全く同じ部品で作られたカラミティのコンピュータには存在しない、「こころ」を自分が持ち始めているということだった。


ゴジラが向かい合ったメカゴジラ。手当り次第に人間の文明を破壊し尽くそうというその姿は、20年前、初めて東京を襲った時の過去のゴジラ自身の姿に他ならなかった。メカゴジラは問いかけている。本来お前は文明の破壊者ではなかったのかと。

南海の孤島で、ゴジラは自ら吹きすさぶ嵐の中に身を投じると、何度も何度も落雷を受ける。じっと身を固めて、激しい電気ショックを耐え忍ぶ。それは、自分が今でも大自然の中にある者であることを確認するための作業のようだった。

ゴジラは再びメカゴジラに挑む。今度のメカゴジラは、最初から科学文明の粋ともいえるチタニウム合金の皮膚をさらしている。メカゴジラはまたもゴジラに問いかけているようだ。お前もまた俺同様に、人間のために戦う兵器ではないのかと。

メカゴジラの繰り出すフィンガーミサイルを受けて、ゴジラの全身から真っ赤な血が噴き出す。しかしこの時のゴジラは、まるでその痛みを楽しんでいるかのようだった。
そしてついに、ゴジラの本当の力が発現する。それは落雷という大自然がくれたエネルギーによって、ゴジラの肉体に宿った強大な磁力だった。ゴジラはその力でメカゴジラを引き寄せると、その首をへし折った。
ゴジラはメカゴジラとの戦いの中で、「ゴジラじしんの意味」を知っていったのだろう。


それでは、1974年のゴジラのもうひとつの出会いとは何だったのか。
それこそが『怪獣総進撃』に欠けていた最後のピースだったということになるが、それを考えるには1954年の『ゴジラ』にまでさかのぼる必要があるだろう。

つづく

ゴジラは反戦映画か? ~東京大空襲と原爆

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ゴジラ』(1954年)には、たいていの場合「反戦」「反核」という単語がセットになって添えられることが多い。
このとき、たしかに『ゴジラ』が「反核」であることには疑いがない。もしも南太平洋で水爆実験が行われていなかったなら、ゴジラがこの世に誕生することはなかったからだ。

しかし「反戦」のほうはどうだろう。『ゴジラ』は怪獣映画であって戦争映画ではない。なのに『ゴジラ』のどこに、人は「反戦」を見るのだろう。
それを探るには、『ゴジラ』のなかでゴジラに与えられたイメージを、順番に追っていく作業が必要になるだろう。


『ゴジラ』において、ゴジラはまず「荒ぶる神」として語られる。
ゴジラが初めて日本の領土に現れたのは、伊豆諸島にある大戸島(おおどしま)だったが、その地には「ゴジラ伝説」とでも言うべき古くからの言い伝えがあった。

島の古老は言う。
「おそろしくでけえ怪物でしてね。海の魚を食いつくすと、今度は陸へ上がってきて人間までも食うそうだ。むかしは長く時化の続くときには、若え娘っ子をいけにえにして、遠い沖に流したもんだ。今じゃそんときの神楽がこうやって厄払いで残っているだ」

ここで古老の語る怪物のイメージの元祖は、日本神話のヤマタノオロチにさかのぼることができるだろう。Wikipediaにはヤマタノオロチについて、次のような記述がある。

オロチは水を支配する竜神を、クシナダヒメは稲田を表しているとみられている。すなわち、毎年娘をさらうのは河川の氾濫の象徴であり、それが退治されたことは、治水を表しているとする。


ヤマタノオロチが「洪水」の象徴であるように、ゴジラの大戸島への上陸は「台風」の象徴として行われる。激しい暴風雨の中で起こった惨劇は、それが本当にゴジラによるものなのか、それとも例年より台風の威力が増しただけなのか、現場に居合わせた東京の新聞記者にも断定できないギリギリの映像表現で表される。

しかし、『ゴジラ』はいつまでもゴジラに「荒ぶる神」のイメージにとどまることを許さない。「厄払い」であるはずの「ゴジラ神楽」に何の効用もなかった時点で、ゴジラから「荒ぶる神」のイメージは剥奪された。


続いて『ゴジラ』が語るゴジラは、それが山根博士言うところの「あの水爆の被害によって安住の地を追い出された」水爆の被害者であるということだ。
大戸島の調査を依頼された山根博士は、国会の特別委員会の求めに応じて次のように言う。
「(ゴジラは)おそらく海底の洞窟にでもひそんでいて、彼らだけの生存を全うして今日まで生きながらえておった。それが度重なる水爆実験によって、彼らの生活環境を完全に破壊された」

ここでは、破壊家屋17、死者9名(ついでに牛12、豚8の損害)という惨劇への恐怖よりも、「彼らの生活環境を完全に破壊された」ゴジラへの、山根博士の同情の念のほうが強く表現されていることがわかる。
「荒ぶる神」であったゴジラは、あっさりと「水爆の被害者」にイメージを変えている。


次のゴジラのイメージは何か。
ゴジラによる日本近海での被害状況を報じる新聞記事をめぐる三人の男女の会話は、わずかな言葉のやり取りの中で、ゴジラのイメージを二転させる。
「嫌ぁね、原子マグロだ、放射能雨だ、そのうえ今度はゴジラと来たわ。もし東京へでも上がりこんで来たら、一体どうなるの」「せっかく長崎の原爆から命拾いしてきた大切な体なんだもの」と若い女。
「そろそろ疎開先でも探すとするかな」と若い男。
「あーあ、また疎開か」と年配の男。

「原子マグロ」「放射能雨」が、「長崎の原爆」につながり、最終的には「疎開」で締めくくられている。
ここで行われたことは昭和の時間の巻き戻しだ。「原子マグロ」に表される1954年という『ゴジラ』世界の時間は、1945年の原爆を経て、1944年の学童疎開にまで引き戻された。

そして、そうやって1954年に1944年がオーバーラップさせられた状況のなか、ゴジラの一回目の東京上陸が行われるが、このときのゴジラは沿岸地域の鉄道や橋を壊しただけで海に帰っていく。いわゆる威力偵察というものだろう。


続くゴジラの本格的な上陸に備える東京で、主人公の尾形は夜空を見上げ、今日こそ山根博士に娘の恵美子との結婚を許してもらおうと場違いな決意を固めている。
その尾形が何気なく見ている東京の夜景。しかしここには違和感がある。何本ものサーチライトが照らしているのはゴジラが来る海ではなく、何も来ないはずの夜空だからだ。

そしてついにゴジラによる東京の破壊が始まるわけだが、このときのゴジラの進撃ルートについて、木原浩勝さんという作家が『ゴジラ映画はいかに演出されたか』(『文藝別冊 円谷英二』)という文章の中で次のように語っている。

それは東京大空襲の再現(リプレイ)だったはずです。

東京大空襲であるならこう撮るはずだという仮説を立てて映像を見ていくと、その仮説通りに見える。

このとき、「疎開」という言葉によって1944年に巻き戻された時間が、「東京大空襲」のリプレイを通じ、再び1954年に向けて正転を始めている。

ゴジラの二回目の上陸によって焦土とされた東京の映像は、やがて被災者を収容する病院の映像に移っていく。カメラは次々と負傷した人々の痛ましい有様を映していくが、そのなかでも一番胸を締め付けられるのは、放射能に汚染されてしまったまだ幼い女の子の映像だろう。放射能反応を示すガイガーカウンターに静かに首を振る医師の姿を見れば、この後この少女がどのような運命をたどったかは、日本人であれば容易に想像がつく。
B29による東京大空襲のあとに日本人が体験する歴史は、核による被爆以外にはなかった。


最後にゴジラは芹沢博士の開発したオキシジェン・デストロイヤーによって滅ぼされるが、山根博士は弟子の死を悼みつつ、こう言う。
「もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類が、また世界のどこかへ現れてくるかもしれない」
過去に巻き戻された時間はここで完全に現在に復帰し、『ゴジラ』は終幕する。



さて、劇中で語られたゴジラについてのイメージはだいたいこんなところだと思うが、それではぼくらは『ゴジラ』のどこに「反戦」を見るべきなのだろうか。見ての通り『ゴジラ』には、ゴジラ自身が「反戦」を直接に訴えているようなシーンはどこにもない。
しかしその一方で『ゴジラ』が、1954年当時の日本人に、もう一度あの戦争を追体験させてしまう映画であったことも間違いない。ただしここで注意すべきは、そこには「日本人がアメリカ人にやられたこと」だけしか描かれていないという点だ。日本がアメリカにやったことには一切触れられることはない。
戦争というのはある程度までお互い様であるのに、これはあまりに一方的な表現だと言えるだろう。

この件については佐藤健志という作家が『ゴジラはなぜ日本を襲うのか』(『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』)という文章のなかでこう書いている。

太平洋戦争のイメージを、コンテキストを無視して(つまり日本人が被害者となった部分だけを)取りこむことによって、これらの作品は暗黙のうちに日本の戦争責任を免罪し、日本人の被害者意識を正当化してしまうのだ。


この説は、1954年当時の日本人のメンタリティーについての指摘という意味では正しいように思える。しかし、その「被害者意識」が、どうして「反戦」に結びついていったのか。
初めに言ったように、ゴジラが「反核」映画であることは疑いがない。ゴジラ映画に最も詳しい人間の一人である竹内博さんは、香山滋の原作を子どもむけに編集した『ゴジラ、東京にあらわる』の巻末の解説のなかで

この作品のテーマは、今なお世界各国で続けられている核兵器実験に対する反対と抗議です。


と書いている。
『ゴジラ』のテーマは「反核」であると、子どもたちに向かって断言している。
しかし、どこにも「反戦」だとは書いていない。もちろん、ちくま文庫『ゴジラ』に収められた香山滋自身による『トーク&エッセイ』を見ても、「反戦」という単語はみつからない。


では、原作者すら意識していなかった「反戦」が、どうして『ゴジラ』と結びついていったのか。
それは、佐藤健志の言う「被害者意識」の「薄れ」にあったとぼくは思う。
1954年当時の日本人、つまり戦中派の人々には、『ゴジラ』によって正当化された「被害者意識」と同時に、「加害者意識」もあった。戦争をしてしまったという罪の意識だ。
しかしこのとき注意しなくてはならないことは、戦中派の人々は、日本がどうして欧米相手の戦争に踏み切らなくてはならなかったかの理由を知っていたということだ。一般大衆にはそれすら知らされなかった、と広く喧伝されていることが事実無根のでっちあげであることは、佐藤優氏の『日米開戦の真実』などで完全に論破されている。

だからこのときの罪の意識とは、戦争に負けてしまったという結果に始まる。勝ってさえいれば「尊い犠牲」だったものが、全部まるっきりの無駄になってしまったという後悔だ。
つまり、戦中派の「加害者意識」とは、あくまで内向きのものだった。

しかし時が流れるにつれて戦争の記憶も遠いものになり、やがて戦中派も黙して語らなくなった。『ゴジラ』を観る者は、戦争を知らないこどもたちになった。そして、そんな戦後に生まれた子どもたちには、いわゆる戦後教育が施され、戦前の日本は丸ごと「悪」であると教えられた。同時に国民のアメリカ化も行われ、アメリカこそ戦前の「悪」の支配者から日本を解放した「正義」だとも教えられた。

では、そのような教育を受けた目には、『ゴジラ』はどのように映ったのだろう。

戦後生まれには、戦中派が欲した”被害者意識の正当化”という渇望はない。だから『ゴジラ』に癒しを求めているわけではない。戦後生まれにとっては、あの戦争は「他人事」でしかない。
しかし『ゴジラ』は、あの戦争で日本がアメリカにやられたことの再現劇だ。そこには今なお、ありありと空襲や被爆の恐怖だけが残されている。それだけを『ゴジラ』は繰り返し繰り返し、新しい世代に見せ続けていく。

ここに、戦前を「悪」だとして全否定する戦後教育を足してみれば答えはこうなる。
学校の先生は言うだろう。
「戦争の悲惨さを訴えているのが『ゴジラ』なんだよ。あんなバカな戦争をしたせいで、日本は焼け野原にされたうえ、原爆まで落とされてしまった。全部、むかしの日本人が招いた自業自得なんだよ」


『ゴジラ』を語る時、往々にして「反核」とセットにされる「反戦」。
それは要するに、アメリカと戦争をしたことの愚かさを指している。アメリカに逆らったから、あんなひどい目に遭わされた。だから日本はアメリカの言うとおりにすればいい。
『ゴジラ』が伝える「反戦」とは、結局のところ、そういうことだろう。

もう一度言うが、香山滋も円谷英二も『ゴジラ』に「反戦」のメッセージなど込めてはない。むしろそれは「反核」すなわち、アメリカに対する抗議だった。
ならば『ゴジラ』の「反戦」とは、何者かによって故意にねじまげられ、付け加えられた解釈だと言えるだろう。

『ゴジラ』は今も、日本人が自虐的であることを望む、ある人々によって利用されている。

つづく