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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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アイアンキング 独立原野党(独立幻野党)

イスラムゲリラ?

不知火族に続く『アイアンキング』の敵役は、「独立原野党またの名を幻兵団」と名乗る「この日本を転覆させようという、とんでもない革命集団」(霧島五郎談)だった。

独立原野党の首領は言う。
「同志諸君、革命だ! おれたちの時代を作るべき革命の時が今来たのだ!」
しかし実のところ、この「とんでもない革命集団」がどういう思想や信条を持ち、どういう時代を目指しているのかは作中ではさっぱり分からない。彼らはひたすら「革命」を叫ぶのみで、手がかりといえるものは彼らが不知火族と同じように日本の自民党政府を「大和政府」と呼ぶことだけしかない。

ところが幸いなことに、原作者の佐々木守自身がこの件についてきちんと説明してくれている。

「アイアンキングのいささか異色な点の第二は、闘う相手が宇宙人ではないという点である。その最初の敵は『不知火族』を名乗る日本先住民で、渡来人である大和政権の打倒を目指して襲撃して来るのである。次なる敵は『独立幻野党』を名乗り、現代まで続く大和王朝の転覆を志す革命集団である」
「このころぼくが騎馬民族征服王朝説にひかれて、日本古代史などの歴史書を調べたり、また日本赤軍の行動に関心をもっていて、昭和四八年の暮れにはレバノンのベイルートへでかけたりしていた気持ちがストレートに現れているようである」(『戦後ヒーローの肖像


戦後ヒーローの肖像』は佐々木守の晩年である2003年に出版された本で、かなり物腰の柔らかな、ゆったりとした懐の深い文体で書かれている。上原正三が初めて佐々木守に出会ったころの「オレはこの世に恐いものは何もない。そんな顔である」(『金城哲夫ウルトラマン島唄』)といった威圧感はどこにも感じさせないものだ。
それにもかかわらず、佐々木守はここで何のカッコ書きもなく「渡来人である大和政権」と言い切っている。どうやら佐々木守は、晩年にいたるまで「騎馬民族征服王朝説」を確信していたということだろう。

騎馬民族征服王朝説(Wikipedia)

ぼくは歴史学には詳しくないが、簡単に言えば、現在の天皇家は大陸からの渡来人だという説だと理解している。作家の井沢元彦さんが常々指摘されるとおり、こんなことは宮内省が5世紀前後の古墳の発掘を認めれば瞬時に決着がつくことだと思うが、現在に至るまでその正誤が議論されているようだ。
ただ、戦後民主主義に限りない可能性を追い求め、そのためにも皇国史観を全面否定したい佐々木守にとっては、騎馬民族征服王朝説は、まさに渡りに船のような学説だったことだろう。


「今の日本の諸悪の根元は天皇制にあります」(Wikipediaより)

前回の記事に書いた通り、佐々木守は『アイアンキング』の主人公静弦太郎にヤマトタケルの旅路を再現させることで、ヒーローたちが訴える「正義」や「平和」の最深部にある天皇制をあぶり出そうとした。ヒーローたちはぼくら一人一人の味方ではなく、現在の国家体制を維持するために働いている、というのが佐々木守の本当の主張だろう。
そして不知火族が滅びると同時に登場した独立原野党を使って、佐々木守はさらなる刃をヒーローに突きつける。

第12話「東京非常事態宣言」。
独立原野党党員に恋人をもつ玲子は弦太郎にこういう。
「あなたとあの人は違うわ。あの人たちは革命のために戦っている。自分の思想のために戦ってるわ。でもあなたは命令されて戦っている。そう、あなたは戦うことが好きなだけよ」

第17話「アイアンキング殺害命令
独立原野党の党員だった弟の死について語る姉、真琴。
「弟は幸せものです。だって弟は自分の思想のために、自分の考えを貫いて死んだんですもの。(中略)あなたたちも、あなたたちの考えを貫いて戦ってらっしゃるんでしょう?」

言いたいことは明快だ。
お前が守っている「正義」や「平和」が本当に正しいものかどうか、お前は自分の頭で考えてから行動しているのか、と佐々木は弦太郎に問いかけている。お前はただ無批判に、無自覚に現状を維持しようとしているんじゃないか、と。
無論、「国家警備機構」も「独立原野党」も、それを指摘したいがために用意された装置だから、弦太郎が反論することはできない。したくても佐々木守がそれをさせない。


ここで断っておきたいが、佐々木守という人は相当な天才だとぼくは思っている。
番組の視聴率やら玩具の販促やら、うるさい営業サイドの要望に応えながら、ここまで自分の思想を子ども番組に織り込む力のある作家はそうそういないだろう。またその思想も、正義を平和をそして権力を疑え、と自分の頭で考えることを子どもたちに求めるという点においては、大きな意義があったと思う。

しかし、その佐々木作品は諸刃の刃でもあった。
佐々木守が死守したがった「戦後民主主義」は、何かと極端に走りがちな日本人社会にあっては個人の権利や個人の自由を過剰なまでに追求する方向に向かい、社会的モラルやマナーの破壊につながってしまった。
さらに、皇国史観を否定したいあまりか、佐々木は日本の過去を否定する自虐史観の持ち主でもあった。当然、佐々木作品には自虐史観につながる思考経路から成立しているものが多数ある。

その代表が、怪獣ジャミラの「故郷は地球」だろう。
「故郷は地球」をぼんやり観ていると、権力の犠牲になった人には、例えそれが狂った殺人鬼であっても我々は謝罪しなくてはならない、という気になってくる。
また、『ウルトラマン』という絶対的なヒーローの「正義」に疑問符をつけた、何やら高尚な作品にも思えてくる。

が、それは間違った認識だとぼくは思う。
これまで検討してきたように、佐々木(&実相寺)は一環してヒーローの破壊を行ってきた。「名作」の誉れ高い「故郷は地球」も、その破壊活動のひとつのパーツでしかない。
もしもそれがつい最近放映されて、まだ評価も定まっていないような新作なら話は別だ。しかし「故郷は地球」が放映されたのは、もう40年も昔のことなのだ。そして確かに、40年前には佐々木や実相寺の作品群には相応の意義もあった。

しかし、ヒーローを否定し、戦後民主主義的な価値観を追求するような時代はもう終わっているのではないか。ぼくらはそろそろ、完全に自虐史観から脱却すべき時が来ているんじゃないか。

そう思うとき、「故郷は地球」や「怪獣墓場」は単体の作品として捉えるのではなく、実相寺/佐々木によるヒーロー破壊活動の一環として捉えるべきではないかと、ぼくは思う。くどいが40年も前の作品だ。全体像を捉えることは難しいことではないだろう。そしてそれら「名作」がぼくらに植え付けた思想や感覚を明確に取り出して、過去の遺物として葬り去る必要があるとぼくは思う。

佐々木守は彼のヒーロー番組を通して、子どもたちに、大人が言うような「正義」や「平和」や「権力」を疑えと言った。しかしそのメッセージの受け手であるぼくらが、無批判に「故郷は地球」や「怪獣墓場」を「名作」だと信じ込むことは、果たして佐々木守の本意を理解していることになるだろうか。
むしろ佐々木守の本意を全く理解していないからこそ、それらを「名作」だと信じて疑わない態度がとれるのではないか、ともぼくには思える。


『アイアンキング』を佐々木守によるヒーロー破壊活動の一環として捉えたとき、第三の悪役タイタニアン編は、まさにその集大成とも言えるものだった。タイタニアン編の真意を初めて理解したときの、身震いするような悪意をぼくは忘れることができない。
佐々木守は間違いなく天才だった。

つづく
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アイアンキング タイタニアン(宇虫人)

タイアニアンの嫌がらせ

アイアンキング』の最後の敵は、宇宙からやってきた侵略者「タイタニアン(宇虫人)」だった。
タイアニアンについては『戦後ヒーローの肖像』のなかで佐々木守自身が自嘲気味にこう述べている。

ここまで進んだところで(※独立原野党を指す)やっぱり敵は宇宙人にしないとだめだという意見が強くなり、結局タイタニアンという宇宙怪人が出現することになってしまった。


が、そんな不肖の子タイタニアンにこそ、佐々木守の天才性が現れているとぼくは思う。

タイタニアンに先立つ不知火族と独立原野党との戦いを通して、佐々木守が考えた「アイアンキング」という物語の主人公像がわかった。静弦太郎は、自分の頭で考えてではなく、組織に命令されて戦う。弦太郎は国家を守るために戦っているので、一人二人の個人の犠牲は仕方のないことだと思っている。
こう聞いて、それは素晴らしい英雄だ、と感心するような人はいないだろう。自分も弦太郎のようになりたい、という子どももいないだろう。

そしてその一方で、霧島五郎が変身する正義の巨大ヒーロー、アイアンキングにも問題があった。アイアンキングは、とてつもなく弱っちいヒーローだったのだ。
まず1分間しかまともに戦えない。ウルトラマンの三分の一だ。
さらに18話までは光線技もなくて、蹴ったり殴ったりしかできなかった。

その結果、アイアンキングは全26話中、実に15話まで敵ロボットに一度も勝ったことがなかった。何のために登場したのかも良く分からないことすらある。一言でいえば、デカイだけが取り柄だった。


でも考えてみればそれも当然かもしれない。人間サイズのときの霧島五郎は平凡以下の格闘能力しかない。その五郎が大きくなったからといって、いきなり最強の格闘家になるというのもおかしな話だということもできる。
一方、弦太郎はといえば、人間としては最強クラス。変身後の仮面ライダー並みの戦闘能力を誇っている。さらにはアイアンベルトという武器を所持していて、このベルトは巨大なロボットにダメージを与えられるほどの破壊力を誇っていた。
ただ、いかんせんサイズが人間なので、大きな岩を投げつけられたり、踏みつぶされそうになると対抗しようがない。
「アイアンキング」を観る人は誰でも、ああ弦太郎がアイアンキングだったら、と思うだろう。

このはがゆい気持ち。これをさらに引き出すべく用意されたのが第三の敵、宇宙からの侵略者、タイターン星雲出身の「タイタニアン」だ。
名前をみれば一目瞭然だと思う。「巨大」「巨人」。

タイタニアンは普段は人間の姿をしているから、このサイズであれば、弦太郎は5人やそこら楽に相手ができる。しかし、戦いが劣勢とみるや、タイタニアンはあっさり巨大化してしまう。しかもご丁寧に、一度人間の姿のまま巨大になり、それからおもむろに怪獣に変身する。嫌がらせもここまでやると見事というほかはないだろう。

こうして弦太郎は一気に苦戦に陥る。すると五郎がアイアンキングに変身し、いつの間にか覚えたらしい光線技の一撃で怪獣を片付けてしまう。弦太郎はアイアンキングに深く感謝するのだった・・・。

そしてクライマックスがやってくる。
第25話「アイアンキング大ピンチ」、第26話最終回「東京大戦争」。
ここで霧島五郎すなわちアイアンキングはタイタニアンに催眠術をかけられ、からだを乗っ取られてしまう。アイアンキングはタイタニアンと一緒になって、東京の破壊を始めた。ちなみにこのときアイアンキングが破壊しつくした地名は大和町(大和朝)一帯だ。タイタニアン編にも、きっちりと佐々木守の反皇室(反大和朝廷)思想は生きているわけだ。
では、この東京最大のピンチに弦太郎はどうしたか?

・・・何もしなかった。
1分たてばアイアンキングが消えてしまうことを良く知っていたので、ただだまって見物していた。そして弦太郎が考えたとおりにアイアンキングは五郎に戻り、ちょっとしたハプニングでさらに強いアイアンキングに生まれ変わった。弦太郎とアイアンキングは協力してタイタニアンを見事に全滅させたのだった。
めでたしめでたし・・・・。


と言っても、めでたいのは佐々木守にとってのことだ。『アイアンキング』を通して、佐々木守はついに彼が目指した巨大ヒーローの破壊を完成させたといえるだろう。

一般に「巨大変身ヒーローもの」では、主人公とヒーローが一体になっている。
これは、それが子どもに必要な成長物語として想定されたものだからと考えていいだろう。子どもは巨大ヒーローに憧れる。しかし、いきなり巨大ヒーローにはなれない。まずは巨大ヒーローに変身する主人公になるべく、人間としての努力を重ねなくてはならない。だからその主人公こそが、大人が子どもに願う理想の姿でなければ意味がない。
この図式をそのままドラマにしてしまった作品としては『帰ってきたウルトラマン』などがあげられるだろう。

しかし『アイアンキング』はどうか。
主人公にもアイアンキングにも共感すべきものが存在しないうえ、この両者は別人で、そこには連続性がない。静弦太郎をとれば巨大な敵には手も足も出ず、アイアンキングをとれば水をガブガブ飲んでいるばかりの三枚目だ。

問題は、そういった状況にも関わらず『アイアンキング』が立派に「子ども向け特撮ヒーロー番組」のカテゴリーのなかに存在しているということだろう。侵略者がいて、その手先の怪獣やロボットがいて、颯爽とした主人公がいて、巨大ヒーローがいれば、それは十分に成立してしまう。たとえ、主人公がヒーローになる、という成長物語が欠落していてもだ。


実のところ、佐々木守が否定したかったヒーローとは、どうやらこの「変身」部分にあったように見受けられる。
戦後民主主義者である佐々木守にとって、何より大切なものは「個人」だった。個人の自由や権利こそが至上の価値だった。だったらヒーローはその「個人」を守るものでなければならない。

どこかで不幸に泣く人あれば
かならずともにやって来て
真心こもる愛の歌
しっかりしろよとなぐさめる
誰でも好きになれる人
夢を抱いた(いだいた)月の人
月光仮面は誰でしょう
月光仮面は誰でしょう


戦後ヒーローの肖像』のなかで、佐々木守は川内康範作詞の『月光仮面』主題歌を延々と引用しているが、月光仮面はいわゆる「変身ヒーロー」ではない。祝十郎は「変身」するのではなく、月光仮面に「変装」するだけだ。また、祝十郎は民間の私立探偵であって、科学特別捜査隊や国家警備機構に配属された公務員でもない。

この違い。

この祝十郎とハヤタや静弦太郎との違いにこそ、佐々木守は戦後ヒーロー像の変質を見た。そして後者を否定した。つまり、個人が個人の範疇で、個人の意思で、個人の力のみで、他の個人を悪の魔の手から守ることが佐々木守にとっての正義のヒーローだった。だから「公」に属し、現在の国家体制の維持・防衛をするハヤタや静弦太郎を「ヒーロー」と認めることはできなかったのだろう。

しかしかつてのヒーローたちは走った、飛んだ、蹴った、殴った、怒った、叫んだ、時には泣いた・・・。そこにはまぎれもなく人間がいた。見ている子どもたちの感情をそのままに引き受ける、生きた、血の通った人間がいた。(「『月光仮面』と初期のテレビ映画」)


「ヒーロー番組」は、子どもたちに正義を愛する心を教える・・・。
佐々木守はそういった制作側の大人の態度を、嘘であり欺瞞であると言いたかったのだろう。「ヒーロー番組」は正義を愛する心ではなく、現在の国家体制を正当化し、それを維持したがる心を植え付けるためのものだと。

だから佐々木守は、子ども~主人公~ヒーローという成長物語の構造そのものを破壊しようとした。ジャミラ、ガヴァドン、シーボーズなど「正義」の名の下に排除されるいのちを強調した。
佐々木守が紛れもなく天才だと言うのは、『ウルトラマン』にしても『アイアンキング』にしても、そのヒーロー番組としての基本構造に手を加えることなく、それらの破壊活動を実現させてしまったことに尽きると言ってもいいだろう。

がしかし、繰り返しになるが、そういった思想は何かと極端に走る日本人にとっては自虐史観の温床にしかならなかった。日本が抱える本当の問題の解決につながることはなく、むしろ解決を遠ざける結果になってしまった。
そのように、ぼくには思える。

では、本当の問題とは何か。ぼくはそれは、国家と民族の自立にあったのではないかと思う。
そして実のところ、ウルトラシリーズのメインストリーム、すなわち金城哲夫と上原正三は秘かにその問題に立ち向かっていたようにぼくは思っている。

つづく

遊星から来た兄弟/禁じられた言葉 〜在日米軍とウルトラマン

ザラブとメフィラス

そもそもウルトラマンには地球を守る理由はない。だから、地球を守りたいのはハヤタであって、ウルトラマンではない。つまりウルトラマンは、人間ハヤタの意志の実現として登場する。
金城哲夫がこのことを十分意識していたことは、1967年に発行された『怪獣大全集3/怪獣絵物語ウルトラマン』で読むことができる(現在は『小説ウルトラマン』ちくま文庫)。

ピカッ!
あたり一面に光がかがやいたかと思うとハヤタはいつのまにか自分が全長四十メートルのあの宇宙人になっていることに気がついた。S16号は小さく足元にころがっている。
(そうか、そうだったのか・・・あの宇宙人はあれからずっとぼくのからだの中にいたのだ。まさに一心同体なんだ。ぼくはハヤタでもあれば、あの宇宙人でもあるのだ。一つのいのちで二人が生きているのだ!)
いっしゅん、子供のころに読んだ「ガリバー旅行記」を思い出した。小人島に上陸したガリバーの気持みたいだった。
(よし、ベムラーに体当たりだ)
足を動かすと、きょだいな立木がまるで雑草のようにふみ倒されてゆく。まるで自分の体ではないみたいで、ハヤタの意志とは関係なしに、数歩でベムラーに接近した。ハヤタは消えて、M78星雲の宇宙人が生き返ったのだ。


以上はテレビ放送の第一話「ウルトラ作戦第一号」で、ハヤタが初めてウルトラマンに変身した直後の描写だが、ウルトラマンの体になったあともハヤタの意識がしばらくは残っていることが分かる。ウルトラマンはまさに、ハヤタの意志を引き継いで行動しているというわけだ。

こうしたハヤタとウルトラマンの関係は、これまで順に見てきたように、こと怪獣を相手にしているうちは何の問題もなくウマくいっていた。それは『ウルトラマン』の世界が、日本人の精神世界や宗教観といったものの内部だけで完結していたおかげとも言えるものだった。

八百万の神々が祟り、科特隊による祝詞の奏上といけにえの儀式が行われたのち、阿弥陀如来の慈悲による祟り神の鎮魂に至る。ケガレは宇宙に放出されてミソギが行われる。
そしてこの一連の物語の肝が、人間ハヤタの死をも恐れぬ精神力がウルトラマンを実現するという点において、まさに日本的世界観が完成するというわけだ。日本においては、人間の精神力は何ものにも勝るものなのだ。
聞くところによると、あれほど外国でも喝采を浴びた『ゴジラ』に比べて『ウルトラマン』はほとんど受け入れられなかったというが、それもこれも『ウルトラマン』があまりにも日本的だったせいもあるのだろう。

しかしそんな『ウルトラマン』の世界は次第に亀裂が入るようになり、やがては完全に崩壊してしまった。
亀裂の一つは、すでに見てきた実相寺/佐々木守による内部からの破壊工作の結実だった。ウルトラマンは、何も悪事を働かない怪獣を、人間の都合にあわせて排除する公権力の尖兵だと彼らは糾弾した。いまだに「故郷は地球」や「怪獣墓場」が「名作」だと言われるんだから、彼らの試みは完全に成功したと言っていいだろう。

しかしそんな実相寺や佐々木の嫌がらせなどは、ほんの悪戯程度のものでしかなかった。
金城哲夫自らが入れてしまったもう一つの亀裂は、『ウルトラマン』世界の致命傷となる一撃だった。それは二人の侵略宇宙人、ザラブ星人とメフィラス星人によってもたらされたものだ。

第18話「遊星から来た兄弟
ウルトラマンとハヤタが一心同体であることを知っていたザラブ星人は、ハヤタを拉致したうえでニセウルトラマンに変身すると街を破壊した。ザラブ星人は言う。
「ウルトラマンこそ地球征服を狙う宇宙人ではないでしょうか」
再びニセウルトラマンが現れると、科特隊ムラマツ隊長は言う。
「たとえウルトラマンでも、この地球上で暴力をふるう者とは戦わなければならん」

第33話「禁じられた言葉
自らを「紳士的」だというメフィラス星人はフジ隊員の弟サトルに、地球をあなたにあげますと言えばサトルだけは最高の暮らしをさせてあげようと持ちかけるが、サトルに拒否されてしまう。これを聞いたハヤタが大笑いをすると
「だまれウルトラマン! きさまは宇宙人なのか、人間なのか!」
と激怒する。

この二人の侵略宇宙人から見ればウルトラマンはあくまで第三者であって、地球を守る理由が何もないのに人間に肩入れする厄介でおせっかいな存在でしかない。要は地球にとってウルトラマンは、赤の他人だということだ。
こうして宇宙という外部からの視線にさらされた時、ハヤタの意志の実現やら日本的世界観やらは一瞬にしてたわごとと化し、どこかへ吹き飛んでしまった。実相寺が「地上破壊工作」でやったような手の込んだことをする必要は全くなかった。ウルトラマンの過去を知る侵略宇宙人を登場させるだけで、簡単にハヤタとウルトラマンは分離してしまったのだった。

これは実相寺/佐々木の悪戯が所詮は金城の手の中で踊っていたことと比べて、あまりにすさまじい破壊力だったといえるだろう。ハヤタという人間の意志やら思いやら願いやらがウルトラマンという像を結ぶとぼくらは思っていたが、そのウルトラマンがハヤタと一心同体になる前の姿を知っている宇宙人がいる。もちろん彼らは、ウルトラマンがもともと地球を守るために地球にやってきたわけではないことも知っているだろう。

となると、彼ら侵略宇宙人から見たウルトラマンとは、地球人が(はっきり言えば日本人が)国防を依存している存在ということになる。
現実世界でそれと似た存在を探すなら、それは在日米軍以外に考えられない。

つづく

小さな英雄/さらばウルトラマン(最終回)

ジェロニモン

ぼくは約25年ぶりにオタク趣味を再開したおっさんなので詳しい顛末については知らないが、1980年代のウルトラファンの間では「ウルトラマン=安保構造」という説があったようだ。今ぼくの手元にある本では『ヒーローの修辞学』(平松洋)『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(佐藤健志)がそういった議論を展開している。いずれも発刊は1992年。

このウルトラマン=安保構造説を簡単に言うと以下の通り。

怪獣=テロや災害
宇宙人=ソ連・北朝鮮
科特隊=自衛隊
ウルトラマン=在日米軍

つまりは国防や治安維持を米軍に依存している日本人の甘え意識が『ウルトラマン』世界と一致したため、平均視聴率30%以上というあれだけの大ヒット作となったのだ、という理屈だ。
なるほど、それならアメリカやヨーロッパで『ウルトラマン』がヒットしなかった理由の説明にもなり、かなりの説得力がある・・・というような気がするが、実のところ金城哲夫はそんなことにはとっくに気がついていたようだ。

第37話「小さな英雄
最終回を2話後に控えたこの回は、多々良島でレッドキングに殺されたピグモンが復活して、日本の危機を伝えるためにはるばる来日してきたことから始まる。
ピグモンは言う。
「科学特捜隊とウルトラマンに倒された怪獣たちがジェロニモンの力で命を復活して、科学特捜隊に復讐するため総攻撃をかける。あと5時間で世界各地から60匹以上の怪獣が日本に終結する。今のうちにジェロニモンを倒せ。ジェロニモンは怪獣の酋長で、超能力を持っている。注意せよ」

ここで語られている最も重要な点とは何か。
それは怪獣たちが知性を持ち、明確な目的を持って行動し始めた、ということだ。これは明らかに『ウルトラQ』や初期の『ウルトラマン』に見られた、八百万の神としての怪獣というものの自己否定と言えるだろう。怪獣はついに侵略者となった。

ではその怪獣たちから見たウルトラマンとは何か。
第7話「バラージの青い石」では、ウルトラマンも怪獣と同じく「神」だと表現された。ここには怪獣=悪、ウルトラマン=善という単純な勧善懲悪を嫌った金城の感覚が見てとれる。ウルトラマンと怪獣には上下はない。ただウルトラマンは、人間ハヤタの意志の実現として怪獣と戦うのだということだろう。

しかし怪獣が組織的な侵略者になってしまえば事情は異なる。ウルトラマンはここでも怪獣対人間の戦いに割り込んでくる第三者のM78星雲人でしかない。
こうして金城哲夫自らの手で『ウルトラマン』の世界は完全に崩壊させられた。

そしてその理由こそが、上記ウルトラマン=安保構造説に金城自身が気がついていたからだとぼくは思う。
怪獣酋長ジェロニモン。
この名前が、北米大陸の先住民、インディアン・アパッチ族のジェロニモに由来していることは疑いがない。だからわざわざ怪獣の「王」ではなく「酋長」と呼んでいる。そしてかつてジェロニモが戦った相手と現在ジェロニモンが復讐を誓う相手をだぶらせている。
つまりウルトラマンは「アメリカ」だと、金城は言っているのだ。

沖縄出身であの沖縄戦を実体験した金城にとって、『ウルトラマン』が内在してしまったこの構造はあってはならないものだったことだろう。また、子どもたちが無邪気にウルトラマンをヒーローとして喝采することも許されざることだっただろう。それでは子どもたちは、当時なおも沖縄を占領し続けているアメリカ軍を応援していることになってしまう。

かくして最終回「さらばウルトラマン」では金城の手によるウルトラ殺しが実行された。
そしてウルトラマンを見送るムラマツ隊長は言う。
「地球の平和はわれわれ科学特捜隊の手で守り抜いていこう」



と言うと、なんだか不安に満ちてはいるが人類が自立していく船出の日、といった印象があるかもしれないが、実は金城自身はそうは思っていなかったようだ。果たして人類にとって、本当にウルトラマンとは必要な存在だったのか? 金城はそうではないと言っているようにぼくには思える。以下に最終回「さらばウルトラマン」で交わされたゾフィーとウルトラマンの対話を引用する。

「わたしはM78星雲の宇宙警備隊ゾフィー。さあ、わたしと一緒に光の国に帰ろう、ウルトラマン」
「ゾフィー、わたしのからだはわたしだけのものではない。わたしが帰ったら、一人の地球人が死んでしまうのだ」
「ウルトラマン、お前はもう十分に地球のために尽くしたのだ。地球人は許してくれるだろう」
「ハヤタは立派な人間だ。犠牲にはできない。わたしは地球に残る」
「地球の平和は人間の手でつかみとることに価値がある。ウルトラマン、いつまでも地球にいてはいかん」
「ゾフィー、それならばわたしの命をハヤタにあげて地球を去りたい」
「お前は死んでもいいのか?」
「構わない。わたしはもう2万年も生きたのだ。地球人の命は非常に短い。それにハヤタはまだ若い。彼を犠牲にはできない」
「ウルトラマン、そんなに地球人が好きになったのか。よろしい、わたしは命をふたつ持ってきた。そのひとつをハヤタにやろう」
「ありがとうゾフィー」
「じゃ、ハヤタと君のからだを分離するぞ」


この対話からは、仮にも「宇宙警備隊」を自称するゾフィーが、地球を警備する気など全くないことがはっきりと見てとれる。そしてゾフィーはまた、ウルトラマンが地球に残りたがっている理由を「そんなに地球人が好きになった」だけだと見ていることもわかる。要するに警備のプロフェッショナルであるゾフィーから見て、地球人には特別ウルトラマンの手助けは必要ないということだ。だから余計なおせっかいはやめろと、ゾフィーは言っているのだ。

ここで「ウルトラマン」を「在日米軍」と言いかえると、金城の真意がうかがえるようで思わず笑いがこみ上げてきてしまうが、それはさておき、実際のところ「怪獣酋長」などと何やら最強を臭わせるジェロニモンを倒したのはイデ隊員だったし、ウルトラマンを敗ったゼットンを倒したのも科特隊の新兵器だった。たしかにウルトラマンがいてくれれば科特隊の被害は最小で済むだろう。しかし絶対に必要かといえば実はそうでもない。そういったあたりが妥当な位置だろうとぼくは思う。

もしかしたら2万年もの間、怪獣墓場とM78星雲を往復してきたウルトラマンは、今の生活に飽き飽きしていたのかもしれない。それが誤って殺してしまったハヤタの残留思念に触れたとき、若き日のあの燃えたぎるような情熱を思い出したのかもしれない。よし、この若者に力を貸してやろう。
案外そんなところが、ウルトラマンが地球にとどまった理由だったのかもしれない。

と言うのも、続く『ウルトラセブン』がまさにそういったひとりの宇宙人と、人間たちとの友情を描いた物語だったからだ。

つづく

ウルトラセブンと西部劇(シェーン)

シェーンとモロボシダン

ウルトラセブン』にはその全49話を通して、ほとんど矛盾や破綻のようなものが見当たらない。登場人物の言動は首尾一貫していて、非常にリアリティがある。特に主人公であり巨大ヒーローであるモロボシダン(ウルトラセブン)の考え方や立ち位置には全くといっていいほどブレがない。

ではその理由は何かと考えたとき、『ウルトラセブン』にはモデルとなるストーリーが存在していることに気がつく。
それが1954年のアメリカ映画『シェーン』だ。

シェーン-wikipedia

聞くところによると『シェーン』は本国以上に日本人に受けた作品だそうだ。淀川長治のお気に入りで、昔は年に1度はテレビで放映していたらしい。ぼくらの世代なら、ドラえもんの映画『のび太の宇宙開拓史』で『シェーン』を観ていることになるだろう。

その『シェーン』のあらすじはこうだ。

開拓時代のアメリカ。高原のある村にひとりの旅人、シェーンが流れついてくる。その村には、先住の開拓民と新手の移住民との間の対立があった。シェーンは、移住民のスターレットが先住民ライカー一派に脅迫されている現場に居合わせることになる。そしてスターレットに頼まれて、彼の家に住み込むことになる。やがて街でシェーンとライカー一味の乱闘が起こり、シェーンはスターレットと協力して勝利する。するとライカーはプロの殺し屋を雇い、スターレットの仲間を殺してしまう。ライカーの圧力は強まる一方だ。同じころ、スターレットの妻がシェーンに好意を寄せていることが分かる。スターレットは妻をシェーンに任せ、自分はライカーと対決する決意をする。しかしシェーンはそれを阻止し、単身ライカーのもとに乗り込んでライカー一味を倒し、村を去っていく。なお、映画公開後、シェーンは死んだのではないか、という論争が起こる・・・。


一方『ウルトラセブン』はこう。

地球人と宇宙人が敵対している宇宙開拓時代の地球に、「ごらんの通りの風来坊」が「この先に危険がある」ことを知らせるところから始まる。彼、モロボシダンはその能力を買われ、ウルトラ警備隊の隊員になる。ダンは仲間を助けたり、自分も助けられたりしながら、地球防衛のために働く。しかしやがて侵略者は、ダン(セブン)を倒すことが地球征服の早道だと、ダン本人を狙うようになる。また、ダンと地球人アンヌの間にはいつしか恋愛感情が生まれる。結局ダンは地球を去っていくが、ソガ隊員は、ダンは死んだんだろうか、と嘆く・・・。


流れ者のヒーロー、男と男の友情、そして禁断の恋愛。
『ウルトラセブン』が子ども番組の枠組みを超え、現在でも大人の視聴に耐えると言われるのも当然のことだ。数ある西部劇の中でも、もっとも渋く深い作品をモデルにしているのだから。

ストーリーも似ているが、両者の政治的立場とでも言うべきものはもっと似ている。二人とも正当防衛の腕力はふるうが、それ以外では中立を維持している。「ダークゾーン」「ウルトラ警備隊西へ」「闇に光る目」「超兵器R1号」などにそれが顕著に出ている。ダンがもし自分の判断で最善の対策をとるという立場であれば、これらのエピソードは最初から成立しないはずだ。ダンはいつでも、ウルトラ警備隊の隊員としてできること以上のことはやらない。ウルトラセブンという宇宙における立場で相手を説得することはあっても、いきなりセブンの武力を行使することはない。

ただ、ここで言いたいことが『ウルトラセブン』が『シェーン』のパクリだということではない。金城哲夫が求めたのは、その日本人好みのヒーロー像だったんだと思う。寡黙で義理堅く忍耐強い。ふだんは控えめだが、いざ銃をとれば超人に変身する。なにより、何の得にもならないのに、他人のために命を投げ出せる。こういう男を、男の中の男として日本人は好んできた。金城は『ウルトラセブン』では、そういう男の姿を子どもたちに知って欲しかったのだろうと思う。

そして「シェーン」のストーリーをなぞったことで、『ウルトラセブン』は『ウルトラマン』で金城がぶち当たってしまった壁を、いとも易々と乗りこえてしまった。
まず主人公のモロボシダンとヒーローのウルトラセブンが同一人物になった。彼らが分離することはあり得ない。
さらに、ウルトラ警備隊が自衛力のある軍隊になった。ウルトラ警備隊はセブンの協力に感謝はしているが、依存はしていない。

そしてここで、そもそもなぜセブンが地球人に肩入れすることにしたのかの理由を考える必要は全くなくなった。それは、セブン(ダン)がシェーンのような、男のなかの男だからだ。シェーンのような男の中の男なら、困っている人がいたら手を貸さないことはない。それだけでもう説明はいらないだろう。それ以上聞くのは「無粋」であり、男のロマンを知らぬ者と見下されるから止めておいたほうがいい。

というわけで『ウルトラセブン』はこれで終わり。

と言いたいところだが、これだけだと『ウルトラセブン』を軽く見ているように思われても困るので、次回からいくつか重要と思われるエピソードを紹介したい。
ただ『ウルトラセブン』にはすでに素晴らしいサイトが存在しているので、ぼくの駄文よりそっちを読んだほうが面白いだろう。

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※『シェーン』がいかに日本人に好まれたかについて調べてみたが、資料性の高いサイトが見つからなかった。それでもこの文章は参考になった。
みんなのシネマレビュー

つづく

ウルトラセブン 姿なき挑戦者/地底GO!GO!GO!

モロボシダン誕生

モロボシダンが、炭坑夫の薩摩次郎をモデルにして誕生したことは、ぼくらの世代では知らぬものはないだろう。

第17話「地底GO!GO!GO!」(脚本:上原正三)
仲間と登山をしていた薩摩次郎は、そのときザイル一本で宙づりの状態になっていた。次郎は仲間を生かすためにザイルを切り、谷へ墜落していく。それを間一髪で救出したのがウルトラセブンだった。

「仲間を救うためにザイルを切った。なんて勇気ある青年だ。そうだ、この男の魂と姿をモデルにしよう」

こうしてぼくらの知る「モロボシダン」は誕生したわけだが、ここでの要点は「そうだ」の部分にある。
まずセブンには人間の姿を借りなければ実行不可能な目的があり、そのためにモデルとなる人間を探していた。そのタイミングで薩摩次郎の行為を目撃することになり、その「魂と姿」が気に入った。というのが一連の流れだ。

ではセブンの目的とは何だったか。
第1話「姿なき挑戦者」(脚本:金城哲夫)
謎の人間消失事件を捜査していたウルトラ警備隊のフルハシとソガは、パトロール中に防衛隊員が自動車ごと消された地点にむけてポインターを走らせていた。それを道に立ちふさがって妨害しようとしたのがモロボシダンだった。
ダンのこのときの服装が、薩摩次郎の姿を借りたあの瞬間の服装であるところから見て、ダンの目的がこの妨害行為であると考えて間違いないところだろう。
ダンは言う。
「あなたたちの命を助けてあげようと思って、さっきからここで待っていたんです」
「笑いごとではありません。命が惜しかったら、これから先に行ってはいけません」
ダンの助言に耳を貸さず、ポインターを追い抜いていった県警のパトカーが消失する・・・。


セブンがもしも最初から人類の平和を守るためにやってきたのなら、フルハシやソガに忠告するのではなく、さっさと犯人のクール星人を倒してしまえばいいことだ。しかしダンはそれをせず、道の先にある危険を報せただけだった。
これがウルトラセブン=モロボシダンの一貫した立ち位置だ。
セブンはあくまで地球人に協力するものであって、庇護したり保護したりするつもりはない。

これはおそらく『ウルトラマン』の反省から生まれた基本設定だろう。
『ウルトラマン』では人間が(はっきりいえば日本人が)国防をウルトラマンに依存してしまっている問題が露呈された。それはウルトラマン本人には人類の平和を守る理由が全くないことから発生した問題だった。理由もなく人類を守っているウルトラマンは、ただの戦闘代行者と見られても仕方がなかった。

が、『ウルトラセブン』は違う。セブンにはセブン本人に、地球の平和を守りたい理由があった。
それは「地球が美しい星」だからだった。

フルハシとソガを救出して防衛軍基地にやってきたダンは、アンヌに二人を助けてくれたお礼に何かプレゼントしたいと言われ、即座に「地球!」と答えている。

「そうです。僕が闘ったのは、ウルトラ警備隊のためだけではない。この美しい地球のためだ」
「さすがは風来坊さんね。スケールがあっていいわ。お望み通り、青く美しいこの地球を心をこめてあなたに差し上げるわ」
「ありがとう。宇宙広しといえども、こんなすばらしい星はないからね。僕はいのちをかけて地球を守るよ。悪魔のようなヒレツな手段で地球を盗もうとする宇宙人がウヨウヨしているからね」


どういうわけか以上の会話は放映された本編からカットされているので、宇宙船文庫『ノンマルトの使者 金城哲夫シナリオ傑作集』から引用してみた。
が、この会話がなくても本編にも採用されたアンヌのセリフ
「ダン、あなたの地球がピンチにたたされているのよ。何か敵を倒す方法はないの?」
だけでも十分だったのかもしれない。

とにかくセブンはまず、地球という星が好きになった。それから、そこに住む人間も(薩摩次郎の行為などを通して)好きになっていった。これはセブン個人の意思なので、周りがとやかく言えることではない。『ウルトラマン』が抱えてしまった問題は『ウルトラセブン』には最初から存在しないと言うわけだ。


セブン=ダンが協力者であって保護者ではないという描写は、続く第2話「緑の恐怖」ではかなり執拗に描かれている。金城哲夫はどうしても、まずその点を視聴者に理解しておいてほしかったのだろう。

石黒邸であやしげな金属の塊を見つけたダン。さっそく超能力で分析しようとするが
「おかしいぞ、透視できない。まてよ、この物質はどこかで見たことがある。そうだ、チルソナイト808。たしかワイアール星から産出される金属だ。地球には存在しないはずのチルソナイト808が何故こんなところに・・・」
と言いつつ放置するダン。
夜になってまたその金属の前を通るダン。
「まだある・・・。警察は一体どうしたんだ。多分、普通の金属だと思って気にも止めてないのだ。しかし、このまま放っておくわけにはいかん・・・」
と言いつつ、やはり放置するダン(笑)。

このように、ダンはウルトラセブンとしての力を使って人知れず事件の芽を摘んでいくようなことはしない。できるかぎり人間モロボシダンとして、ウルトラ警備隊隊員の行動範囲内で動こうとしている。
そうしたダンのスタンスは、事件がどんなに大きくなっても一貫したものだった。


つづく

ダークゾーン/ウルトラ警備隊西へ

ペガッサ市

西部劇『シェーン』は、対立する開拓民と移住民の双方に言い分があり、いずれかが「善」でいずれかかが「悪」であるというような単純な舞台設定ではなかった。問題となったのは、武力に頼ろうとする解決方法だと描かれた。シェーンはスターレットに雇われた助っ人ではなかったが、相手はそうは見ず、自分たちも殺しのプロを抱え込んで対抗しようとした。相手への不信感と誤解が、問題をどんどん深刻化させていったのだった。

『シェーン』をモデルにしたと思われる『ウルトラセブン』でも同様のストーリーをみることができる。

まず第6話「ダークゾーン」(脚本:若槻文三)
宇宙を浮遊する巨大宇宙都市ペガッサ市は「動力系統に重大な故障をきたし」「今から80時間のあいだ地球の軌道変更を要請」してきた。このままではペガッサ市と地球が衝突すると見た地球防衛軍は、ペガッサ市の破壊を計画する。
ダンは
「ペガッサを破壊する前にペガッサの市民たちをこの地球に迎え入れてやりましょう」
と提言するが、無情にもウルトラホークによるペガッサ爆破指令が下される。
ペガッサに向かうウルトラホークだったが、そこに新たな指令が舞い込む。
「ホーク1号に搭載せる爆弾ではペガッサの破壊は不可能なり。新爆弾を搭載せる宇宙爆撃艇はすでに北極基地を発信せり」
さらに
「ウルトラ警備隊はペガッサ市に危険を通告し市民の脱出を援助。安全に地球まで誘導せよ」
ダンの提言を防衛軍は受け入れた。狂喜乱舞してペガッサ市に避難を訴えるダン。
しかしペガッサ市からは何の反応もなく、やがて防衛軍のミサイルによって木っ端みじんに爆発してしまった。どうやらペガッサ市は地球の軌道すら変更できない地球人類を侮っていたようだった。
一方そのころ地球では、あらかじめ地上に侵入していたペガッサ星人が、地球を中心から破壊すべくミサイルを発射していた。ダンはセブンに変身すると地中を掘り進むミサイルを回収し、宇宙のかなたに捨ててくるのだった。


地球人は地球を守るためにペガッサ市を破壊したが、同じようにペガッサ市も地球を破壊しようとしていた。ここに、いずれかを「善」と見ていずれかを「悪」と見るような視点はない。強いて言うなら高度な科学力を誇るペガッサ人たちが、ついに未熟な地球人を信用することができなかったことが、この悲劇の全てだった。

が、もしかしたらモロボシダンではなく、ウルトラセブンとして説得に当たったなら、ペガッサ人たちも聞く耳を持ったかもしれない。
そうしたダンの反省が現れている作品もある。

第16話「闇に光る目」(脚本:藤川桂介)
「アンノン星調査のため打ち上げられ、消息を絶っていた無人宇宙船さくら9号は、突然帰ってきた」
そこには
「我々のアンノン星を攻撃してきた地球を破滅」させるためにアンノン星人が搭乗してきたのだった。
キリヤマ隊長は
「攻撃だって? それは違う! 我々が宇宙船を打ち上げたのは、宇宙の平和利用のためだったんだ」
と言うが、アンノン星人は
「地球人の言うことは信じられない」
そこにウルトラセブンが現れ
「キリヤマが言ったことはウソではない。地球人は決して君の星を侵略したのではないのだ」
と説得すると
「ようし、セブンの言うことは信用しよう。しかしアンノン星は、いかなる星からの侵略目標にもさせない」
と言い残し、アンノン星人は去っていった。


もちろん金城哲夫も書いている。が、そこではウルトラセブンが欺かれてしまう。

第14話、第15話「ウルトラ警備隊西へ
地球人に観測ロケットを打ち込まれたペダン星人が報復にやってくる。
ダンはペダン星人に事情を話し、和解を図ろうとする。
「地球人はペダン星を侵略するつもりはないんだ。あのロケットは単なる観測ロケットだったんだ」
「観測? いかにも立派な名目だわ。でも何のための観測なの? それはいずれ自分たちが利用するためにやっていること。その手には乗らないわ」
「そうじゃない。われわれ地球防衛軍の本当の目的は、宇宙全体の平和なのだ」
「そう考えているのはウルトラセブン、あなただけよ。人間はずるくて欲張りで、とんだ食わせ者だわ。その証拠に防衛センターではペダン星を攻撃するために秘かに武器を作っている」
「それはお前たちが地球の平和を乱すからだ」
「それはこっちの言うことよ。他人の家をのぞいたり、石を投げたりするのは、ルールに反することだわ」
「なるほど、地球人もたしかに悪かった。こうしよう、ぼくは今度の事件を平和に解決したい。ウルトラ警備隊はペダン星人と戦うための武器の研究を中止する。そのかわりペダン星人も地球から退却してほしい」
「宇宙人どうしの約束ね」
防衛センターに戻ったダンは、約束通り人間側に訴える。
「みんな何を疑ってるんだ。まず相手を信じることです。そうでなければ、人間は永遠に平和を掴むことなんかできっこないんだ」
が、その直後だった。ペダン星人の大船団が地球侵略に向かっている様子がキャッチされたのは。
「裏切ったな」と憤るダン。
そしてセブンをも苦戦に陥れたペダン星人の戦闘ロボット・キングジョーを破壊したのは、防衛センターで開発された新型兵器だった。


繰り返しになるが、ダンはいつだって人類の協力者であって保護者ではない。人類が自分の力で平和を勝ち取るための手助けをしているだけで、それ以上のことはしないように心がけている。ただ人類はまだまだ未熟な新米で宇宙のルールを知らず、その無邪気な宇宙開発がどのような結果を招くかへの配慮がない。

そうした人類の未熟さが、最悪の結果を招いてしまったエピソードが第26話「超兵器R1号」だ。

長いのでつづく

超兵器R1号/セブン暗殺計画

ポール星人

人類(実際には日本人)を保護し、その国防と治安維持を代行したウルトラマンは、のちに在日アメリカ軍のメタファーだと指摘された。そして金城哲夫自身にも、その隠された構造を自覚していたフシがあった(※参考記事)。
が、『ウルトラセブン』にはそういったネガティブな構造は存在しなかった。
それは、日本人が「核」を持てる世界の話だったからだ。

第26話「超兵器R1号」(脚本:若槻文三)
日本人、瀬川博士と前野博士は、新型水爆8000個の爆発力を誇る惑星攻撃用ミサイル「R1号」を完成させた。彼らは半年に及ぶ調査を経て、その実験対象に生物の存在しないギエロン星を選んだ。
ダンは「地球を守るためなら何をしてもいいのですか」と実験の中止を進言しようとする。核による惑星間戦争の抑止力については
「血を吐きながら続ける悲しいマラソンですよ」
と嘆く。結局実験は行われ、ダンはさらに嘆く。
「ぼくは絶対にR1号の実験を妨害すべきだった、本当に地球のことを愛していたのなら・・・地球防衛という目的のために・・・。それができたのは、ぼくだけだったのに・・・」
実験は成功し、ギエロン星は宇宙から消滅した。しかし事前調査には誤りがあって、ギエロン星には生物がいた。その「ギエロン星獣」は復讐のために地球に飛来する。ギエロン星獣が異常に強いのも困りものだったが、問題はそれが被爆による核汚染を受けていたことだった。ギエロン星獣は放射能をまき散らしながら東京を目指すのだった。


このエピソードが当時の米ソの軍拡を強烈に批判したものであることは確かだろう。
が、貧国北朝鮮までが核兵器を保有している現在に、そんな点を議論していても意味はない。核を持たぬ日本に、軍拡による悲しいマラソンもへったくれもない。

注目すべきは、ダン=セブンが(保護者・庇護者でなく)協力者・助言者というスタンスを維持できた背景には、地球人(実際には日本人)の自衛力があるという点だろう。
同じく若槻脚本の「ダークゾーン」では、地球人は宇宙最高レベルの科学力で建設されたペガッサ市を易々と破壊した。セブンを一度は敗ったキングジョーを爆破したのも、防衛センターが開発した新兵器だった。

『ウルトラセブン』では、こうした地球人類(実際には日本人)の強大な自衛力の存在によって、ダン=セブンを保護者や庇護者の立場から解放した。そこに『ウルトラマン』で指摘されたような、安保依存の構造はない。
それどころか、人間にとって本当にウルトラセブンは必要なのか? といったエピソードも存在した。

第25話「零下140度の対決」(脚本:金城哲夫)
ポール星人による地球第三氷河時代作戦が始まった。彼らは手始めに地球防衛軍基地を氷結させたが、パトロール中だったダンは雪にはばまれ基地に戻れない。低温に弱いM78星雲人の体は次第に衰弱していく。基地では多くの凍死者を出しながら粘り強く復興作業を続け、あわや完全撤退かというところでついに原子炉の回復にこぎつける。怪獣ガンダーを倒したセブンにポール星人は言う。
「ウルトラセブン、どうやら我々の負けらしい。第三氷河時代は諦めることにする。しかし我々が敗北したのはセブン、君に対してではない。地球人の忍耐だ。人間のもつ使命感だ。そのことをよく知っておくがいい」
実際ダンは話のほとんどを雪上に落としてしまったウルトラアイを探すことに費やしていて、基地の復興には何も貢献していない。

第39話、第40話「セブン暗殺計画」(脚本:藤川桂介)
地球人を降伏させるにはセブンを倒してしまうのが先決だと考えたガッツ星人は、怪獣アロンを使ってセブンの能力を徹底的に研究し、見事セブンを捕獲することに成功する。ガッツ星人は夜明けとともにセブンを処刑すると防衛軍に通告してくる。タケナカ参謀は言う。
「やつらはわれわれの目前でセブンを処刑し、地球人に心の拠り所を失わせようとしているのかもしれない。そうすることによって地球人は彼らと戦う勇気を失い、服従を認めてしまうようになるだろう」
しかしそれは杞憂だった。ウルトラ警備隊は誰一人諦めることなく最後の最後まで行動し、ついに囚われの身となっていたセブンを救出したのだった。


こちらのエピソードでは、ウルトラセブンという大き過ぎる存在が、人間にとってはむしろ急所になってしまっていることが描かれている。これは、シェーンという存在が人々の抗争をより一層深刻にしてしまった『シェーン』の展開と同じものだ。
そして、当時0才だったぼくには知る由もないが、当時の大人たちにはいよいよ『ウルトラセブン』の物語が終末に近づいていることを感じることができたに違いない。
『ウルトラセブン』が『シェーン』であるなら、シェーン自身を狙ってくる敵の登場の次に来るものは、第一に許されざる男女の愛。そして男たちの悲しいまでに深い友情。

もちろん『ウルトラセブン』最終回「史上最大の侵略」にはそのどちらもある。

が、それをみる前に、このブログのテーマである「ヒーロー番組に仕込まれた自虐史観」が『ウルトラセブン』にも存在するのかを検討しておく必要があるだろう。

つづく

ノンマルトの使者 ~金城哲夫 西へ!

金城哲夫西へ!

『ウルトラマン』には、確かに子どもたちに自虐史観(東京裁判史観)を植え付けようという意図のある作品があった。が、それは(これまでさんざん検討してきたように)佐々木守と実相寺昭雄コンビが作ったもので、金城哲夫は全く関与していない。むしろ金城は、佐々木/実相寺のそうした動きに、秘かな反撃を加えていた痕跡があることもすでに見てきた通りだ。

では『ウルトラセブン』はどうだろうか?
『ウルトラセブン』にも、自虐史観につながる作品はあったのだろうか?

自虐史観というのは簡単に言えば、かつて侵略戦争をおこした日本は愚かな犯罪国家だ、という歴史観のことだ。現在の日本政府はこれを肯定する「村山談話」を認めているので、日本は国として自虐史観を持っていることになる。

日本は侵略国家・・・。
そう聞いて、『ウルトラセブン』を一通りみたことがある人が真っ先に思い浮かべるのが第42話「ノンマルトの使者」だろう。

劇中で、ノンマルトは地球の海底に住んでいる民族だということになっている。彼らは地表の人類の海底開発に抗議して、攻撃を加えてくる。しかも彼らが言うには、実は彼らこそが地球の先住民で、現在の人類は彼らを侵略して海底に追いやった民族だそうな。
これをノンマルトの使者である真市少年から聞いたダンは、こう迷う。
「ぼくのふるさとM78星雲では、地球人のことをノンマルトと呼んでいる。ノンマルトとは人間のことだ。だがたしかに少年はノンマルトと言った。それはどういうことだろうか。人間でないノンマルトがいると言うのだろうか」
しかし結局ダンはセブンに変身してノンマルトが送り出した怪獣ガイロスを倒し、ウルトラ警備隊はノンマルトの海底都市を粉砕したのだった・・・。


このエピソードは金城哲夫が沖縄出身であることから、かつて琉球王朝を侵略した日本本土への怨念の発露だと言われることが多い。また、当時沖縄を占領していたアメリカを侵略者だと告発している内容だとも言われる。
で、後者はともかくとして、前者のほうは一見すると自虐史観そのものであるようにも思える。つまりは中国や韓国の言い分と同じで、日本はかつて沖縄を侵略した犯罪国家だ、と主張しているように見える。

だとすれば、日本人に加担してノンマルト(=沖縄)を滅ぼしたウルトラセブンもまた、(日本人と)同じく犯罪者なんじゃないか?
あるいはセブンは、日本を守るという名目で沖縄を占領している在日アメリカ軍のメタファーではないのか?
・・・という具合に、「ノンマルトの使者」をめぐる自虐史観的解釈は延々と拡大としていくというわけだ。

金城哲夫が没してしまった今となっては、果たして金城の真意がどこにあったのかは誰にも分からない。
しかし、金城が残した『ウルトラマン』『ウルトラセブン』をトータルで捉えたとき、ぼくには金城が被征服民・沖縄人のドロドロした怨念をいつでも心の奥底に秘めていたようには、どうにも思えない。
それで、あれこれ援護射撃になりうるものを探してみたところ、意外なところにそれはあった。


2005年に金城哲夫の没後30周年にあわせて発売されたドキュメンタリーDVD『金城哲夫 西へ!』では「地球人が知的生命体である宇宙人を倒していいのだろうか」というナレーションに続けて、「金城哲夫の迷走がセブンと共に始まる」というテロップを入れている。怪獣を単なる悪役としない金城の立場が、相手を宇宙人に代えたことでますます混乱し、その宇宙人を倒すセブンの正義からして揺らいでしまった、という主張のようだ。
金城哲夫は「迷走」し、「葛藤」した・・・。

このDVDがモロに、金城=怨念の人、というところをスタートラインに置いていることは疑いがない。

ところがこのDVDの面白いところは、こうした制作サイドの狙いを、続くインタビューが見事に否定していってしまうことだ。おそらくインタビュアーは「金城さんには宇宙人を殺すことへの葛藤があったと思いますか?」と聞いたのだろう。これに対し『ウルトラQ』以来、多くの金城脚本を映像にした満田かずほ監督は
それはあくまでもね、いわゆる物語を展開する上での、話を作る上での葛藤だと思う
とあっさり否定してしまっている。
それは単に「物語を展開する上での悩み」であると。

満田監督は金城哲夫の飲み友だちでもあった。酒の飲めなかった上原正三以上に、金城の本音・本性を知っていたことだろう。そんな人に、金城には作劇上の葛藤しかなかったと言われて、それでもそのまま収録した制作サイドは立派なものだ。

DVDはさらに「ペガッサ星人との出会いからセブンの迷走が始まった。そして両者の心を持つダンが苦悩し始める」
と続けるが、これも満田監督に軽くあしらわれる。
「SF的にモノを考えるやつなんだよね」
現在販売中のDVDソフトなので過度な引用な控えるが、要はSFとして面白いかどうかが金城にとって重要だったということだ。

そして「ノンマルトの使者」。
これは実は満田監督のアイデアだったそうだ。金城との酒の席で満田監督が
「現在の人間、地球人ってのは本当に一番最初から地球にいた人間なのかね? 人類なのかね?」
と言ったところ
「それ、ちょっと話のネタになりそうだぞ」
と金城が反応した、とのことだ。酔っぱらいの雑談から生まれたのが「ノンマルトの使者」だったということだ。
もちろん、満田監督のひとことに、金城が沖縄人ならではの情念を込めた可能性は否定できない。が、金城哲夫が日頃から何としても沖縄の悲惨な歴史を『ウルトラセブン』で告発してやろうと思ってはいなかったことも確かだ。

では、このDVDの言うところの金城の「葛藤」「苦悩」「迷走」はどうなってしまうのだろうか。それらは作中で、モロボシダンの姿となって表されているのではなかったのか。

「ペガッサを破壊する前にペガッサの市民たちをこの地球に迎え入れてやりましょう」(ダークゾーン/若槻文三脚本)
「みんな何を疑ってるんだ。まず相手を信じることです。そうでなければ、人間は永遠に平和を掴むことなんかできっこないんだ」(ウルトラ警備隊西へ/金城哲夫脚本)
「それは、血を吐きながら続ける悲しいマラソンですよ」(超兵器R1号/若槻文三脚本)


DVDはモロボシダンの吐く宇宙の平和と共存への思いを、あたかも金城の思いであるかのように重ねていく。だが、ダンは本当にその思いを叶えるために働いていただろうか?
そうだと言うのなら、ダンの行動には矛盾がある。

と言うのは、本当にダンが宇宙の平和と共存共栄を目指すなら、彼はウルトラ警備隊になど入らず、いつでもウルトラセブンとして事に当たるべきだったからだ。そのほうが問題の解決も、理想の実現も早かっただろう。
しかしダンはそれをせず、人間モロボシダンとしての限界に「苦悩」しているだけだった。
この様子を「葛藤」「迷走」とは言えないだろう。
ダンは自らそのあり方を選んだのだから。

そしてダンは、ついに地球を去るその日まで、人間モロボシダンとしての立ち位置にとどまった。ダンの、人類への協力者・助言者としての立ち位置は、最後まで一貫していた。

ぼくはこのダンの姿にこそ、青春の日に「沖縄と本土の架け橋」を志した金城哲夫自身の姿を見る。
怪獣と人間、宇宙人と人間との架け橋であること。
そこに「苦悩」も「葛藤」も「迷走」もない。沖縄人の情念も、怨念もない。
一個の人間としての、果てしない挑戦と努力があるだけだ。



てな感じで考えたとき、金城哲夫の人生をことさらにウルトラシリーズに重ねていくことは、一種の下司の勘ぐりではないかと思えてくる。表向きでは「架け橋」などと調子のいいことを言いながら、内心ではドロドロとした怨念に取り憑かれていた金城哲夫、というふうにはぼくは感じることができない。『ウルトラマン』にも『ウルトラセブン』にも、そういった人間の二面性といったものは描かれてはいないからだ。イデ隊員はちょっと微妙な面もあるが、あれは金城ではなく佐々木守が仕掛けたことだ。

つまるところ「ノンマルトの使者」等に自虐史観をみるのは、それを見る側が求めた結果なのではないか、と思える。つまり、元々自虐史観を持っていて、それを広めたい人にとっては、格好のストーリーが有名な『ウルトラセブン』にあった。だから「ノンマルトの使者」は、しばしば『ウルトラセブン』の全体像から切り離された状態で、語られた。
その結果、上記のDVDなどは「ノンマルトの使者」を金城哲夫論のスタート地点に置いたため、総論としては完全に破綻してしまった、と。

さらに突き詰めるなら、こうだ。
金城はあくまで「SF的にモノを考え」た。その時点では金城には新番組もあったし円谷プロでの安定した地位もあった。
が、その後金城が新番組に失敗し、会社を追われて沖縄に都落ちしたことで、さかのぼって「葛藤」やら「怨念」やらが付与されていったんじゃないか?
もしも金城が『マイティジャック』や『怪奇大作戦』に成功し、契約社員への降格がなかったとしたら、彼は沖縄に帰ることもなく、アル中になって精神病院に入れられることもなかっただろう。それでも人は、金城哲夫の作品に「沖縄」を見たのだろうか。

DVDのなかで、金城が沖縄返還に立ち会うために帰郷したという説を、盟友上原正三がきっぱりと否定している。

ボロボロになって帰っていったというのが正解で、彼が沖縄復帰に立ち会うためって言ったら余りにもこれ、カッコ良過ぎ。彼はそういう男じゃないですよ。もっと生身の、本当にやさしい傷つきやすい夢見る男ですよ


沖縄は日本の縮図というが、おそらく金城には本土の日本人よりクリアーに「日本」が見えただけなのだろう。平和憲法を尊び、二度と戦争はしないと「日本」は言うが、その実は沖縄のように今なおアメリカに占領されているだけなのではないか? この日本の「平和」は本物なのか? と。


※ついでになるが、いわゆる「作家論」の危険性についても書いておきたい。

DVDでは金城の二面性を強調しようとしてか、第8話「狙われた街」についても触れている。
メトロン星人は言う。

われわれは人類がお互いにルールを守り、信頼しあって生きていることに目をつけたのだ。地球を壊滅させるのに暴力をふるう必要はない。人間同士の信頼感をなくすればいい。互いに敵視し、傷つけ合い、やがて自滅していく

ところがこの「人間同士の信頼感」はエンディングのナレーションでは一転してこう語られることになる。

メトロン星人の地球侵略計画はこうして終わったのです。人間同士の信頼感を利用するとは恐るべき宇宙人です。でもご安心下さい。このお話は遠い遠い未来の物語なのです。え、何故ですって? われわれ人類は今、宇宙人に狙われるほどお互いを信頼してはいませんから


DVDではここに、金城が抱えていた内面の「葛藤」を見ようとしているわけだが、実際にはこのナレーションは金城哲夫が書いたものではない。
これを書き加えたのは監督の実相寺昭雄だいうことだ。

実相寺昭雄なら納得だ。彼は他人を信頼できない人間だったのだろう。
しかし金城哲夫が書いてもいないものを元に、金城哲夫を語ることの危なさはどうだろう。
「迷走」していたのは果たして金城哲夫だったのだろうか?

つづく


さらについでに書いておくが、上述の

>DVDのなかで、金城が沖縄返還に立ち会うために帰郷したという説を、盟友上原正三がきっぱりと否定している。

この「説」の元は、1993年に出版され、NHKでテレビドラマにもなった小説、『私が愛したウルトラセブン』(市川森一著)にあるように思われる。
あの小説では、金城哲夫は『ウルトラセブン』放映中から沖縄帰郷を考え始めており、『セブン』終了を待たずに帰郷したことになっているが、言うまでもなくこれは市川の創作だ。
金城は『セブン』の途中から新番組の立ち上げに夢中になっていて、本気で帰郷を考えるのはその新番組の失敗によって正社員から契約社員に降格されてから、だそうだ。
きわめて資料性の高いノンフィクション『金城哲夫ウルトラマン島唄』(上原正三著/1999年刊)と違って、『私が愛したウルトラセブン』のほうは完全なるフィクション、単なる小説なので、ご注意を。

魔の山へ飛べ/史上最大の侵略(ウルトラセブン最終回)

さようならモロボシダン

1990年代のウルトラファンの間には、こんな議論があったようだ。もしもウルトラセブンが宇宙全体の平和を考える博愛主義者で、なおかつ絶対的な正義のヒーローであるとしたなら、地球防衛のことだけを考える「地球ナショナリズム」に与することは重大な矛盾になるのではないか? と。

たしかにダンはしばしば「宇宙全体の平和」については口にした。が、彼は自分が「正義」だなどとは一度も言っていない。ダンはそんなことは全く考えてはいない。つまり博愛主義者ではあるが、正義のヒーローではない。このことは、もう一度『ウルトラセブン』の全体像を整理すれば容易に分かることだろう。


そもそもウルトラセブンがどうして地球に飛来したのかの理由は明確には描かれていない。が、彼はまず地球という美しい「天体」自体が好きになった。次にそこに住む地球人類が、クール星人の侵略を受けつつあることを知った。そこで彼は地球人類に助言をしてやろうと考え、たまたま遭遇した薩摩次郎の勇敢な姿に感銘するとその容姿を借り、ウルトラ警備隊に接近して助言を行った。結果的にフルハシとソガを助けることになったダンは防衛軍基地におもむくと、そこでも助言を行い、請われてウルトラ警備隊の隊員となった。ただしダンはあくまで協力者・助言者の立場を逸脱しないように心がけ、いきなりセブンに変身して問題解決を早めるようなことはなかった。

そんな折り、ダンにとって忘れ得ぬ事件が起こる。
第11話「魔の山へ飛べ」(脚本:金城哲夫)
この回ダンは、ワイルド星人の「生命カメラ」で狙撃され、命を吸い取られてしまう。ダンの肉体は完全に死亡した。しかしアマギ隊員の尽力で、ダンの命は肉体へと復帰する。
「おかげで命をとりとめることができました。アマギ隊員、まさに命の恩人です。ありがとう」

その後も、ダンとウルトラ警備隊は互いに助け合う持ちつ持たれつの関係が続き、やがて最終回を迎える。
第48話、第49話「史上最大の侵略」(脚本:金城哲夫)
ダン(セブン)の体はこれまでの激闘がたたってボロボロだ。そこへ「セブン上司」がやってきて、変身して戦闘すればM78星雲に帰れないぞ、と忠告する。しかし、時悪くゴース星人による過去に例を見ない大規模な侵略が開始されてしまった。ゴース星人はアマギ隊員を人質にとったうえで、地底ミサイルでモスクワ、ニューヨーク、ロンドン、パリと破壊していく。東京攻撃が30分後に迫る。ここでウルトラ警備隊はようやくゴース星人の基地を発見し、自動操縦のマグマライザーに時限爆弾を積んで突入させる作戦を立てる。この様子をビデオシーバーで見ていたダンは人質のアマギを助けるため、制止するアンヌを振り切ると、ついにセブンに変身する・・・。



「地球ナショナリズム」どころではない。ダンは、モスクワやニューヨークなどはあっさりと見捨ててしまった。ダンはそんなものを守るためには変身しなかった。ダンにとってはたった一つ、アマギ隊員の命だけが、自分の命と引き換えにしても惜しくはないものだったのだ。おそらくアマギ隊員が人質になっていなかったら、ダンは東京さえ見捨ててしまったことだろう。

このようにダンが「正義のヒーロー」でも「地球ナショナリスト」でもないことは明白だ。
彼は、自分を受け入れ、必要としてくれた(そして第11話ではその肉体の死に泣いてくれた)ウルトラ警備隊の仲間のために戦ってきただけだ。
つまり『ウルトラセブン』とは、宇宙人と地球人のあいだに芽生えた「友情」の物語だった。それだけが『ウルトラセブン』の本質であって、あとの要素は作劇上の装飾に過ぎないと言ってもいいだろう。

そしてそのことは、もしもモロボシダンに「金城哲夫」が投影されているとするならば、より一層理解できることだろう。「ノンマルトの使者」に沖縄人の怨念を込めたところで、何一つ問題は解決しないのだ。本当に「本土と沖縄の架け橋」であることを目指すなら、まず自ら本土の人の中に飛び込んでいき、真の友情を築き上げることが先決だろう。本土の人の気持ちを理解し、本土の人の立場から、あらためて沖縄を見つめ直すことが求められるだろう。

こざかしい理屈なんて金城哲夫には必要なかった。
彼がそれまでの28年間の人生でやってきたことを、ただストレートに主人公モロボシダンに投影した作品が『ウルトラセブン』だった。
そのように、ぼくには思える。



それにしても、「ノンマルトの使者」に沖縄人の怨念がどうしたこうしたと言う前に、ぼくらは『ウルトラセブン』に秘められたもう一つのメッセージを感じ取る必要があるんじゃないだろうか。
それは、この美しい宇宙人と地球人の友情を下支えし、担保しているものの存在についてだ。

今さら強調するまでもない。それは地球人(実際には日本人)の自主独立心と自衛力のことだ。
セブンは協力する者、助言する者であって、保護や庇護をする者ではない。だとしたら、本当の1967年にセブンが現れたとしても、彼はぼくらの日本にとどまることはなかっただろう。あの虚構の世界の日本人に自主独立心と自衛力があったからこそ、彼は協力と助言を惜しまなかったのだ。

聞けば『ウルトラセブン』の舞台は1987年に設定されていたという。
それからもう20年。ぼくらの国は、いまもなお他国からの保護と庇護を必要としている・・・・。
そんなぼくらに『ウルトラセブン』やモロボシダンについて語る資格はあるのだろうか。

つづく

勇気ある戦い ~ウルトラセブンと佐々木守

クレージーゴン

繰り返しになるが『ウルトラセブン』というのは極めて単純なストーリーだったと思う。地球という天体が好きになった宇宙人がそこに住む人間も好きになり、地球を守ろうと働いている人々を助けていく。具体的に言えば、宇宙人ウルトラセブンと人間ウルトラ警備隊の「友情」が、『ウルトラセブン』のメインテーマだった。

だからモロボシダンはいつでも出過ぎたマネはせず、助言や協力をすることにとどまった。彼がもしも本当に「宇宙全体の平和」のために働くというのなら、彼は人間の姿になどならずウルトラセブンとして行動すればよかったが、ダンはそうはしなかった。

言うまでもなくこのダンのあり方には、「沖縄と本土の架け橋」になろうと志した金城哲夫自身の姿が投影されていると見ることができる。玉川学園時代、金城はまだアメリカ軍占領下にあった沖縄に学友たちを連れて行っているが、これは一人の沖縄人が、本土の日本人と「友情」を結んだ結果だと言えるだろう。

そんなダンは、劇中でしばしば「苦悩」する。しかしその苦悩は、地球の友人たちがまだ未熟で宇宙のルールを知らないことから起こるものだった。あるいは異星人同士の不信感や無理解が起こすものだった。
ただしそんな場合でもダンは人間に「善悪」や「正義」を押し付けるようなことはしなかった。彼は人間を裁くものではなかった。彼が欲していたのは人間との「友情」だけだった。


と、それだけの話だと思われる『ウルトラセブン』だが、どういうわけか必要以上に重く暗いテーマをもった作品だと語られることが多い。いわく、地球だけに味方する「正義」の矛盾だとか、弱者を排斥する「正義」の矛盾だとか。このとき「ダークゾーン」「超兵器R1号」「ノンマルトの使者」あたりが題材として多く使われるようだ。

で、こうした論調の根拠となるものを探していくと、そこにはいつでも「沖縄人」という金城哲夫のアイデンティティに行き着くことが分かる。沖縄人でありながら本土で活動する金城、とか、沖縄という弱者をノンマルトに投影した金城、とかだ。

しかし、そうした論調にぼくがどうも納得がいかないのは、それらが金城の後半生、すなわち円谷プロを半ばクビ同然に退社し、帰郷した沖縄でも失意の連続だった金城の後半生から、さかのぼって構想された議論であるように思えるからだ。

たしかに金城の晩年は、本土の人間でもなければ沖縄の人間でもない金城のアイデンティティの崩壊があった。しかし『ウルトラセブン』の企画を練っていたころの金城は、まさしく向かうところ敵なしの快進撃中で、アイデンティティがどうのこうのなど考えるヒマすらなかっただろう。それにそもそも金城哲夫は常に前向きのブルドーザー型で、内に籠ることがほとんどなかったというのは当時を知る多くの人々が証言していることだ(『金城哲夫ウルトラマン島唄』など)。

言いかえるならこうだ。
もしも金城が『ウルトラセブン』のあとの『マイティジャック』『怪奇大作戦』もヒットさせ、念願だった直木賞を沖縄をテーマにした作品で受賞し、その後も本土と沖縄をまたにかけて活躍し、今でも幸せな余生を送っていたとしたなら、それでも人は金城の『ウルトラセブン』に彼の「苦悩」を見たのだろうか、という疑問だ。金城の不幸な晩年から恣意的に遡って、ありもしない心の暗部を創造してはいないのか、という疑問だ。
ぼくにはやはり、金城はただ異邦人どうしの間に芽生えた友情物語を描いたようにしか思えない。


その証拠になるかどうかはわからないが、金城哲夫が自身を投影させたモロボシダンがいかに一貫した人物像をもち、彼がグランドデザインを描いた『ウルトラセブン』がいかに破綻がないかを表す絶好の素材がある。

第38話「勇気ある戦い
この脚本は、あの佐々木守だ。佐々木守がウルトラシリーズで何をやってきたかについては散々書いてきた通りだが、その主張を要約すれば、ヒーローは「国家」を守っているのであって、弱い「個人」はしばしばその犠牲にされる、ということになるだろう。怪獣ジャミラ「故郷は地球」などがその代表格だ。

「勇気ある戦い」は、「心臓欠損症」で入院している少年の話だ。この少年は明日に手術を控えていたが、怖くて怖くて仕方がない。それで姉の友人であるアンヌ隊員に頼んで、憧れのダン隊員に会えれば手術を受けてもいいと言いだす。ダンは快く少年に会い、翌日の手術に立ち会う約束をする。しかし侵略宇宙人のロボット・クレージーゴンが現れ、戦闘中のダンは約束の時間になっても病院には行けない。執刀医のユグレン博士は、その日のうちに次の手術のためシンガポールにフライトする必要があるため、手術の延期もできない。少年はダンのことを「うそつき、うそつき」と呪い続ける・・・。


例によって病人という「弱者」が登場する。「国家」の任務のために約束を果たせない主人公のダンがいる。佐々木守のお得意のシチュエーションと言っていいだろう。でも一体だれがこの少年に同情し、ダンを薄情だと言えるだろう。むしろこの少年の身勝手さに腹を立てる人の方が多いのではないか。
それは、ダンには地球を守る理由なんて何もないのに、血を流し、命をかけて戦ってくれていることをぼくらが知っているからだ。この少年のわがままにダンがうんざりし、ジュワとM78星雲に帰ってしまっても誰も文句は言えないのだ。

このように『ウルトラマン』では通用した佐々木の手法は、『ウルトラセブン』には全く通用しない。
それは、セブン=ダンは決して「正義」のために働いているわけじゃないからだ。自分を受け入れ、信頼してくれる仲間のために彼は戦っている。そこには、ダン同様にかつては異邦人だった金城哲夫自身の姿が投影されている。そしてそののち本土の人々と多くの友情を結び、絶好調の人生を送っていた1967年当時の金城の姿がそこにある。

だからモロボシダンにも『ウルトラセブン』にもブレはない。
金城が再び沖縄に思いを馳せるようになるのは、それからしばらく経ってからの話というわけだ。

つづく

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