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竹波エーイチ

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『帰ってきたウルトラマン』は「人間ウルトラマン」か?

郷秀樹の反省と努力

帰ってきたウルトラマン』を語るとき、しばしば持ち出されるのが、メインライター上原正三の沖縄人としての「怨念」についてだ。いわく、沖縄人の被差別意識が作品に現れている、とか、上原がたびたび東京を廃墟にするのは沖縄の復讐だ、とかそういった感じの話だ。

なるほどそれも一理あるのだろうが、『帰ってきたウルトラマン』は上原正三がひとりで書き上げた小説ではないし、全てをその一点で説明するのは無理があるだろう。それに、聞けば上原正三は沖縄返還には立ち会うことなく東京で仕事をしていたということだ。そんな上原が、いつでも沖縄を念頭において脚本を書いていたのかには多少の疑問も残る。

また、『帰ってきたウルトラマン』は、主人公・郷秀樹の「成長物語」として語られることもある。
Wikipediaではこうだ。

『ウルトラマン』の主人公ハヤタが、変身前後で完全無欠の万能ヒーローであった事に対し、本作の主人公の郷秀樹は、元々レーサー志望の普通の勤労青年として設定され、ウルトラマンとしての能力のために、周囲と軋轢を生んだり、悩んだりを繰り返しながら困難を乗り越えていくという努力するヒーローであった。変身後のウルトラマンも、しばしば怪獣に対して苦戦し、時には敗北している。いわゆる「人間ウルトラマン」というテーマ設定である。

これまたなるほど、と思えなくもないが、実はよく考えてみると沸々と疑問が湧いてくる説明でもある。

こうした説明の根拠になるのは、第一には第2話「タッコング大逆襲」の衝撃のシーンだろう。
第1話でウルトラマンに命を預けられた郷秀樹は、入隊したMATで抜群の運動能力を披露することになる。自分がウルトラマンであることを確信した郷は、血気にはやって命令違反を犯したうえでウルトラマンに変身しようとするが、なんと何も起こらない。郷は命令違反を追求されてMATをクビになり、自分の思い上がりを反省する。再び怪獣タッコングが現れると郷は一民間人として命がけの人命救助に当たり、ついには絶体絶命のピンチに陥る。すると今度は郷をまばゆい光が包み、彼はウルトラマンに変身する・・・。
つまり、ウルトラマンは郷の思い上がりを諌めるために、彼の変身を許さなかったというわけだ。

あるいは第4話「必殺!流星キック」。
この回ウルトラマンは怪獣キングザウルス三世に敗れてしまう。そこで郷はウルトラマンの弱点をカバーすべく、一人で山に籠ると丸太を運んだりして、心と体を鍛え直そうとする。要は、スポ根マンガさながらの修行を行うのだった・・・。

あるいは第5話「二大怪獣東京を襲撃」。
工事現場で発掘された物体をめぐり、岸田隊員と対立する郷。そこへ怪獣出現の報が入り、二人は攻撃態勢に入るが、近くに少女の姿を見た郷は岸田の命令にそむいて攻撃を中止する。チームワークを乱した罪を問われ、郷は一週間の謹慎処分を受けてしまう・・・。

という具合に、郷はたしかに「周囲と軋轢を生んだり」することがあり、そのことについて「悩む」ことがある。が、問題はそんな郷秀樹は、実のところ、いつまでたってもそういう人間だったということだ。つまりそれは、もともと郷秀樹に設定された性格や人物像であって、彼の精神的な未熟さを表すものではなかったということだ。現に郷はシリーズ終盤になっても周囲に無条件で同調するようなことはなく、積極的に思いやりを示すようなこともなかった。

また、衝撃的なウルトラマンの変身拒否。これも第2話で1回あっただけだったし、厳しい修行によって自己を鍛錬することも第4話にしか見られなかった。
要は「人間ウルトラマン」や「郷の成長物語」の根拠となるものは、シリーズの序盤に若干見られただけで、その後は大々的に扱われるようなことはなかったというわけだ。

もちろん、『帰ってきたウルトラマン』が当初の設定としてそういった要素を含めていたことは確かなことだ。メインライターの上原正三とプロデューサーの橋本洋二が、彼らがその直前に手掛けていた『柔道一直線』のイメージをウルトラに被せていったということは、当の彼ら自身が証言していることだ。

しかし、それが本当に『帰ってきたウルトラマン』のテーマであるなら、最初の方でちょこちょこ出しただけで終わり、というのは納得のいく話ではない。
それにそもそも『帰ってきたウルトラマン』の視聴者は、幼稚園児からせいぜい10才くらいまでのものだろう。そんな小さな子どもたちに、23才の成人男性の「成長物語」をみせることにどんな意義があるというのか。


辰巳出版という会社から1999年に出版された『帰ってきた帰ってきたウルトラマン』というムック本のなかに、次のような一説がある。

ウルトラマンはもはや無敵の超人ではなくなっていた。これは偶然ではない。はっきりとした狙いをもって、こう描かれたのだ。ここに、『帰マン』を貫く思想がはっきりと現れている。それは、ウルトラマンを、我々と同じように悩み、苦しむ、人間として描こうという姿勢=「人間ウルトラマン」という大テーマなのだ。

これを読んでぼくが思うことは、ウルトラマンを「人間として描こうという姿勢」に一体どういう意義があるのか、ということだ。ウルトラマンを悩んだり苦しんだりする存在として描くのは結構なことだが、それを子どもたちに見せてどうなるんだ? ということだ。
ウルトラマンでさえ悩み苦しむんだから、君たちが悩み苦しむのも普通のことなんだよ。
それが『帰ってきたウルトラマン』の「大テーマ」なのだろうか?

つまりは上記引用文では、「人間ウルトラマン」自体が目的化していることになるが、本当にそれで全てなんだろうか? むしろ「人間ウルトラマン」は、何か他のテーマを伝えるための「手段」なんじゃないか? 

視聴者である幼児たちに何かを伝えるために、今度のウルトラマンは悩んだり苦しんだりするようになった。
そう考えるほうが自然なようにぼくには思える。

つづく
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怪獣使いと少年 その1 :帰ってきたウルトラマン

差別と迫害

『帰ってきたウルトラマン』で最も有名なエピソードは、何と言っても第33話「怪獣使いと少年」だろう。『帰ってきた帰ってきたウルトラマン』(辰巳出版)のなかでこの作品について訊ねられた上原正三は、やや自嘲ぎみにこう答えている。

これは、良い意味でも悪い意味でもずっと引きずってきましたね(中略)現在では、よくやってくれたという人はたくさんいますし、『帰ってきたウルトラマン』はこの作品さえあればいいという極端な人もいますよね


また、おそらくこの作品を一躍有名にした原動力となったであろう作家・切通理作さんの名著『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』のなかには、こんな一説もある。

TBSの橋本プロデューサーのもとには、この作品を社会科の教材にしているという中学校の先生などから今でも手紙が寄せられるという


ではそんな「怪獣使いと少年」とはどんな物語だったか。
一言で言ってしまえば、弱いものへの差別と、人間に潜む残虐心がこの作品のテーマだった。

どこかの河川敷でひとりの少年がもくもくと穴を掘っている。少年、佐久間良は、1年前にこの場所近辺で怪獣ムルチに襲われたが、それを救ってくれたのが「地球の風土・気候を調べるために」来訪し、宇宙船を地中に隠した直後のメイツ星人だった。それ以後、良とメイツ星人は奇妙な共同生活を続けていたが、やがてメイツ星人の体は汚染された地球の大気の影響で蝕まれていく。良はメイツ星人が隠したUFOを探し出して一緒にメイツ星に旅立つべく、あちこちに穴を掘っているのだった。

しかしそんな良にはいつしか、超能力を使う宇宙人が化けた子どもだという噂が立てられるようになる。不良中学生らによる苛烈なイジメが始まり、街ではパンすら売ってもらえない。郷秀樹は少年が宇宙人ではないことを証明しようと北海道にまで調査に向かうが、その留守の間に悲劇は起きた。中学生たちが良を襲わせようとけしかけた犬が、突然に爆死してしまったのだ。
そんな事件はつゆ知らず、帰隊した郷から佐久間良の不幸な境遇の報告を受けた伊吹隊長は言う。
「日本人は美しい花を作る手を持ちながら、一旦その手に刃を握るとどんな残忍きわまりない行為をすることか・・・」

そして伊吹隊長の予感は的中し、惨劇が起こる。
超能力で犬を爆死させられた中学生たちが街の人々をともなって良を捕まえにきたのだ。警官に連行されようとする良。郷は止めに入るが、恐怖に逆上した人々にその声はとどかない。そこに姿を現したのがボロボロにやつれた老人姿のメイツ星人だ。メイツ星人は超能力を使った宇宙人は自分だと告白する。人々の怒りはメイツ星人にむかい、ついには警官が発砲し、メイツ星人は死ぬ。
するとメイツ星人に封じ込められていた怪獣ムルチが出現し、工場や街の破壊を開始する。早く怪獣を退治しろとわめく民衆に、郷は心の中でつぶやく。
「勝手なことをいうな。怪獣をおびき出したのはあんたたちだ。まるで金山さん(メイツ星人)の怒りがのり移ったようだ・・・」


あらすじが長くなったが、情報量としてはこれでも足りない。この作品に込められた貧困と差別についての描写は、実際の映像を見ないことには始まらないだろう。特に、佐久間良の顔が問題だ。つりあがった一重の目は、メイツ星人の偽名「金山」とあわせて、彼らが在日朝鮮人の象徴であることを暗示している。と、いろんなところに書いてある。また、佐久間良の出身地、北海道・江差は少数民族「アイヌ」を表しているという説もある。さらには河川敷に住むということから、いわゆる「被差別部落」を読み取ることもできるそうな。

つまり「怪獣使いと少年」は、1971年当時では「タブー」とされていた「在日朝鮮人」や「被差別部落」や「少数民族」への差別問題に正面から取り組んだ作品として、今でも高い評価を受けているということだ。もちろんここには「沖縄」への差別も含まれていたのだろう。上記『怪獣使いと少年』の本のなかには

上原さんは沖縄人のイメージで書いたんだと思う。当時沖縄は日本に置換されていなかったですから


という東條監督の談話が掲載されている。

在日朝鮮人や、部落や、沖縄人を差別し、迫害する日本人・・・。しかもその日本人は、「一旦その手に刃を握るとどんな残忍きわまりない行為をすることか・・・」であり、その愚行の結果として封印されていた怪獣ムルチを復活させたあげく、早く退治しろと自分勝手な主張をわめき散らす・・・。

こうしてみると、たしかに『帰ってきたウルトラマン』随一の「名作」といわれるこの作品には、沖縄人上原正三の怨念が込められているように見える。しかも『怪獣使いと少年』には上原のこんな発言もある。

自分のなかに、どうしても虐げられた者に視点が向くものがある


・・・うう、なんだか日本人であることが嫌になってきたよ・・・・。
日本人は弱い者をみれば差別し、迫害するろくでもない民族なんだ。ぼくは日本人であることが恥ずかしい・・・。
子どもの頃、あんなに熱中し、声援を送ったウルトラマンを作った人は、実はぼくら日本人に差別されたという深い恨みを持っていたのか・・・なんてこった・・・。

・・・と思いたくなる気持ちは分かるが、実は上原正三は同じインタビューのなかで、こうも答えている。

よく、沖縄人が差別されてるっていうけど、沖縄人のなかにも差別はあるわけです。那覇があって、他の島々があって、那覇を中心に商売やってきたわけだから、僕の小さい頃ってのは、周りの(島の)連中をどんどんバカにしたもんですよ。言葉も全然違って、こっち(那覇)からするとすごい違和感があるんでそれを口真似してみたり。しかし自分たちがそれを日本人からやられると今度は『差別だ』って思うわけでしょ。(『怪獣使いと少年』)

実際、戦後の沖縄には有名な「差別」が存在した。
沖縄の奄美差別

あるいはお隣の韓国にはこんな「差別」が存在する。
韓国の地域対立

中国にもチベットやウイグル弾圧等の「差別」があるが、何と言ってもこの同民族内の階級差別が際立つ。
六四天安門事件

もちろんここでこれらを列挙することで、日本人だけが「差別」をするわけじゃないと言い逃れがしたいわけじゃない。
ぼくが言いたいのは、「差別」はどこにでもあり、ある場所では「差別」される人が、別の場所では「差別」する側に回ることなんて、ごくありふれた光景だということだ。
そして問題は、差別された人が「自分は差別されたのだ」と叫び回っても、それは何の解決にもならないということだ。だから上原は続けて言う。

「だから僕が本土に来ることじたい、ここで沖縄人として生きてみよう、自分の肌で感じる差別、それが何なのか突きとめてみようという決意の元でしたね」(『怪獣使いと少年』)


そんな上原が、果たして『帰ってきたウルトラマン』のグランドデザインを、沖縄人の怨念によってのみ構築していったのか、ぼくには疑わしいものであるように思える。

長いので、怪獣使いと少年その2へつづく

キミがめざす遠い星 (『怪獣使いと少年』その2)

メイツ星人とムルチ

前回の記事(怪獣使いと少年 その1)からの続き

ところで、『帰ってきたウルトラマン』第33話「怪獣使いと少年」について聞かれるとき、上原正三はいつもこんなふうに答えていたようだ。

あの作品は僕のなかの差別に対する反発がちょっと出すぎていて、自分としては気に入っていません。いつもはもうちょっと自分の本音は殺して書くんですけれども、あのときはナマ過ぎたというか」(『怪獣使いと少年』/切通理作著)

上原がこのような発言をする背景には「ファンがことさらにこの作品ばかりにこだわる傾向があった」(『24年目の復讐』脚本解説/会川昇)という点もあったようだが、さらにはそれが、上原の脚本からかなり逸脱したものとして放映されたせいもあるだろう。

実際、いま手元にある宇宙船文庫『24年目の復讐ー上原正三シナリオ傑作集』におさめられた元の脚本を読むと、「怪獣使いと少年」の一種異様な雰囲気が、実はそこには存在していないことに気がつく(なお、原題は「キミがめざす遠い星」という意外と軽い命名がされている)。

では「怪獣使いと少年」の特異性とは何かと言えば、なんといっても『帰ってきたウルトラマン』には不可欠なはずの、坂田家の風景とMAT隊員たちが一切出てこないことだろう。それがこの作品に、何だか今回はいつもと様子が違うぞ、という印象を与えているのだとぼくは思う。

ところが「キミがめざす遠い星」には、両方ともいつもどおり、いつもの姿で登場する。坂田健は毎度おなじみの昔話を始め、それを聞いた郷が何かを悟って飛び出していくのも、いつもの通りだ。
もちろん坂田アキも登場する。アキは、パン屋で食パンを売ってもらえなかった佐久間良少年に、にっこり笑って自分のパンを譲ってあげる役だ。アキの笑顔は良を癒し、視聴者の心に救いをもたらしたはずだった。

そしてもっとも決定的なのは、
「日本人は美しい花を作る手を持ちながら、一旦その手に刃を握るとどんな残忍きわまりない行為をすることか・・・」
という伊吹隊長のセリフは「キミがめざす遠い星」には全く存在しないということだ。
脚本ではこうだ。

ユリ子「良君はお父さんがほしかったのよ。お父さんを捜すために家出したんだわ」
南「うん、きっとそうだ」
伊吹「花の松前、紅葉の江差、開く函館菊の紋・・・(呟く)」
上野「なんです?(伊吹を見る)」
伊吹「なあに昔の唄さ。郷」
郷「ハイ」
伊吹「佐久間君に関しては君にまかせる。早く宇宙人説から解放してやり給え」
郷「わかりました!」

見てのとおり、いつものMAT基地の会話がそこにはあり、日本人批判のかけらもない。
さらにもう一つ付け加えるなら、脚本ではあのとき市民に襲われたのは、佐久間良とメイツ星人だけではなかった。それを制止しようとした郷秀樹も投石によって血を流し、さらには次郎くんまでもが木切れを投げつけられて倒れている。

つまり上原の準備稿にはあったはずの、坂田家の人々だけは良少年とメイツ星人の味方であろうとした、という部分は映像では全てカットされているわけだ。

となれば「怪獣使いと少年」の癒し難さや救い難さは、上原正三本人が当初から意図したものではなかったことが分かる。上原正三の「キミがめざす遠い星」から、癒しや救いを取り除いたものが「怪獣使いと少年」だということだ。

この点については『24年目の復讐』の解説で会川昇さんが書いていることが正鵠を射ているだろう。

上原氏がためらいつつも本音として沖縄等の問題を強く描いた事実上最後の作品であり、その意味をくみあげて自分なりの映像で作りあげたのが東條昭平監督であったことをふまえて(※脚本を)読んでいただきたい。脚本と映像は必ずしも同一でなくてもよいのだ、という事実も。

ついでに書いておくなら、「怪獣使いと少年」には結構見落とされがちな問題点がいくつかあると思う。まず第一点は、舞台となっている日本は「平時」の日本ではないということ。あちらこちらで怪獣が出現し、宇宙人がひんぱんに侵略にやって来る状況というのは平時とは言えず、むしろ「戦時」と言っていいだろう。そのような状況で、人々が疑心暗鬼に苛まれることは理解できなくはないことだ。そしてそんな状況で「地球の風土、気候を調べていた」というメイツ星人。彼の目的は何だったのだろうか。彼は何のために地球の調査をしていたのだろう・・・。


・・・いや、つまらぬ揚げ足取りはこんなところにしておこう。
ぼくが言いたいのは「怪獣使いと少年」という物語が、日本人の沖縄差別を告発してやろうという上原正三のドロドロとした怨念からだけ生まれたものではない、ということだけだ。本来はそこには、坂田家の人々のやさしさや、MATの人々の人間理解なども含まれていた。ただ、最終的な映像を作った東條監督が、上原脚本からそういった要素を取り除いてしまったから、やたらとネガティブな面だけが強調される作品となってしまった。

では、そうやって上原作品のモチベーションから沖縄人としての日本本土への怨念や遺恨を除外してみたとき、そこに見えてくるテーマは何だろう? 
とは言え、そこに上原正三が体験してきた沖縄と日本のありようといったものが、全く反映されていないということも考えにくい。
そこでまず、切通理作さんの名著『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』から、上原正三が「沖縄」「日本」「戦後」について語った部分を、時系列的に引用してみることにしたい。

「僕にとってアメリカ軍は解放軍に思えました。なにしろ空爆に怯えないですむし、沖縄が戦場ではなくなった。そして食べ物や物資を配ってくれるアメリカはニライカナイの神々に匹敵したんじゃないかな」

「なんで沖縄でのみ地上戦が行われたかといえば、沖縄が日本じゃないからですよ。戦後、日本のアメリカ軍の軍事基地の七四%は沖縄にあるけど、そんなこと、日本人が本当に沖縄のことを日本だと思っていたら許しておくはずがないでしょう。あなたも含めて。沖縄が遠くにあるから自分たちは安心だという日本人。東シナ海の海溝はやはり相当に深いと思います」

「結局人は殺し合って滅びていくんじゃないかという予感はありますね。僕のなかには常に戦時状態があるような気がします。もちろん平和にこしたことはないんだけど、平和ってのが本当にこの世に存在してるのかっていう疑問があるんですね。思い込んでいるだけなんじゃないか。だって沖縄は今、平和じゃないですよ。アメリカ軍の精鋭部隊が常駐しているわけでしょう」

「沖縄は日本の植民地なんだ・・・。そのことをまずハッキリさせて、(沖縄人は)そういうものにめげない異民族としてのアイデンティティを確立しないと・・・。日本と一緒になれば何もかも良くなるんだと思うと必ずしっぺ返しを食らう。日本に復帰して二十年になるけど、今でも僕のなかには常に『沖縄は日本か?』という疑問がある。強引に日本国に組み込まれた植民地ではないのか、というね。
だから僕は日本復帰のときなんかなんの感動もなかったね。砂川の基地闘争のデモには行っても、本土復帰運動には一切参加しなかった」

何となく読むと、日本人にもアメリカ人にも、さらには沖縄人にまでも腹を立てて悪態をついている、ただの恨みがましいオッサンのようにも見えるが、要点はこうだろう。

沖縄は平和ではない。沖縄は植民地である。と。
しかし前回の記事で引用したように、上原はこうも言っているわけだ。

だから僕が本土に来ることじたい、ここで沖縄人として生きてみよう、自分の肌で感じる差別、それが何なのか突きとめてみようという決意の元でしたね。

つまり、上原正三はずっと日本本土で生きてきた人間だった。ただしその人間は、沖縄人の目を持っていた。そして沖縄人の目は、ふるさと沖縄が平和と呼べる状態ではなく、一種の植民地であることを見抜いていた。

ではその沖縄の目は、彼が暮らす日本本土を、どのように見抜いたというのだろうか?

【関連記事】「怪獣使いの遺産」ーウルトラマンメビウス

つづく


タッコング大逆襲 〜橋本洋二VS上原正三

変身ポーズ

『帰ってきたウルトラマン』のグランドデザインは、メインライターの上原正三と、TBSの担当プロデューサーの橋本洋二によって描かれた。上原の橋本への第一印象は「小柄ながらきかん気が顔に出ている。テレビ局の人間というより官僚を思わせるスキのなさ」というものだった。

「隊長は出動しか言わないのですか?」
いきなりの先制パンチだ。
「はあ?」
金城もとまどいを見せる。局のプロデューサーがセリフにまで口出しすることはこれまであまりないことであった。
「キリヤマ隊長のセリフ、出動だけですかね」
「え?」
金城も、橋本が何をいってるかよくよく呑み込めない様子だ。
「シナリオに登場するからには、例え通行人であろうとも、その人物なりの人生を背負って登場するわけでしょう」橋本が切り出す。
「ああ、そりゃ、そうです」と金城。
「ですから、その時、その場所、その瞬間、その人物にしか言えないセリフがあるはずです」
ウルトラ警備隊の隊長といえども、個人としての人生観や価値観をきちっと持っているはず。毎回、出動! 撃て! それだけ言うのであればロボットと同じではないかと言うのだ(『金城哲夫ウルトラマン島唄』上原正三著)。

引用のとおりで、橋本プロデューサーが『ウルトラセブン』に持ち込んだものを一言でいえば、それは「リアリティ」と呼ばれるものだった。人物の状況や心理を現実的に描くこと。そうして生まれた作品として、キリヤマ隊長の心の動きを丹念に追った第23話「明日を捜せ」や、同じくフルハシ隊員の心理描写に優れる第24話「北へ還れ」などが挙げられるだろう。いずれも『ウルトラマン』には見られなかった、やや大人向きのドラマだ。

こうした変化は、端的に言えば「マンガ」から「劇画」への変化だと見ることができる。
評論家の夏目房之介さんが指摘するとおり、梶原一騎の『巨人の星』は、ちばてつやの『ちかいの魔球』の「いただき」、要はパクリだった。片親の主人公が魔球を駆使して巨人のエースになるが、肩を壊して引退する。基本的なストーリーは同じだ。

が、正直に告白すれば『ちかいの魔球』を最後まで読むことは、ぼくにとって苦痛以外の何者でもなかった。人物が生きていないので、迫ってくるものが何もない。表情やセリフもいくつかのパターンの組み合わせなので、次の展開が(セリフでさえも)簡単に予想できてしまう。面白いわけがない。
ところがこの古くさい『ちかいの魔球』が書かれたのは1961ー1962年だと言う。『巨人の星』の連載が始まるまで4年も待たないのだ。これは対象年齢の問題ではない。両者はいずれも『週刊少年マガジン』に連載された作品だ。

言うまでもないが、この劇的な変化を「マンガ」に持ち込んだのは梶原一騎だ。wikipediaによれば「手塚治虫は梶原一騎の世界をなかなか理解できなかったようで、スタッフに『巨人の星』を見せ、『これのどこが面白いのか教えてくれ』と頼んだらしい」とある。『ウルトラセブン』放映中に現れた橋本洋二プロデューサーと対峙したときに金城がみせた戸惑いは、この手塚治虫の『巨人の星』への反応に案外近いものだったのかもしれない。

古典的な子ども番組だった『ウルトラマン』という「マンガ」は、人間を描く『ウルトラセブン』という「劇画」に変化していった。そう見ることもできるだろう。


という具合で、『帰ってきたウルトラマン』のグランドデザインには橋本洋二が持ち込んだ「リアリズム」があった。
ではもう一人の上原正三にとっての『帰ってきたウルトラマン』とは何だったか。

そもそも子ども番組の脚本を書くことに難色を示していた上原を、強引に円谷プロに引っ張り込んだのは金城哲夫だった。入社後もあくまで沖縄を題材にした本格脚本に固執する上原だったが、やがて金城の情熱が乗り移っていくように、一本、また一本を作品を仕上げていくようになる。そして『ウルトラセブン』の後半になると、新番組の立ち上げのために脚本を書けない金城に代わって、実質的なメインライターとして筆をふるうまでになる。最終回に向かう43話から47話までの5本の脚本には、すべて上原正三の名がクレジットされているほどだ。

ところがそんな上原は金城が円谷プロを退社すると、自分もあっさりと後を追うように辞めてしまう。
「オレ、金城を手伝うためにここにいたんです。金城がいなくなると、ここにいる理由もなくなるわけで」(『金城哲夫ウルトラマン島唄』上原正三)

そうしてフリーになっていた上原だったが、円谷プロ社長、円谷一によって『帰ってきたウルトラマン』のメインライターに指名されることになる。この時の気持ちを上原はこう述べている。
「すでに『ウルトラマン』『ウルトラセブン』という金城哲夫が作り上げた完成された世界がある。凌駕するのは至難の業だ。課題は、ウルトラマンを登場させながらどれだけ新しい要素を付加できるかだ」(同)

金城を「手伝うため」に『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に参加したと言い切る上原正三の目には、それらの作品は「完成された世界」だと映っていた。だとすれば、金城ウルトラの続編を作る以上、上原が積極的に金城の世界を壊そうと考えるはずはない。「どれだけ新しい要素を付加できるか」がせいぜいだと、上原自身も言っているのだ。

ここに橋本の持ち込んだ「リアリズム」を加えると『帰ってきたウルトラマン』の全体像が見えてくる。それは金城のウルトラの、リアリズムによる再構築だった。金城ウルトラの劇画的な解釈だと言ってもいいだろう。

例えば、しばしば『帰ってきたウルトラマン』の独自性と言われる第2話「タッコング大逆襲」での郷秀樹の変身不能シーン。あれもリアリズムによる再構築の一端だと見ることができる。

『ウルトラマン』ではあまりに簡単にハヤタがウルトラマンに変身するせいで、まるでハヤタが自由自在にウルトラマンを「呼ぶ」人であるかのように見えた。要は、ハヤタは「ウルトラマン使いの青年」だと思われた。そのため後にウルトラマンが、戦闘代行業者=在日米軍のように語られたことは、すでに散々見てきたとおりだ。
しかし、実際にはハヤタはウルトラマンを「呼ぶ」人ではなく、ウルトラマンに「なる」人だった。ハヤタの平和への意志と、死をも恐れぬ勇気がなければ、ウルトラマンは地球上に存在しないも同然だった。

「タッコング大逆襲」で表されていたのは、まさにこの一点だ。
郷秀樹は便利にウルトラマンを「呼ぶ」のではなく、自身がウルトラマンに「なる」。これを強調するために、一度は郷が自由自在に変身できるわけではないことを表現しておく必要があったということだ。そうすることで、ウルトラマンの戦いが、人間郷秀樹の戦いの延長にあることをハッキリと伝えることができる。
だからこの回での郷の変身不能は、何も奇を衒った表現ではない。金城がなんとなくお約束事にしてしまった部分を、正確かつ現実的に組み立て直しただけのことだ。

では『ウルトラセブン』はどう再構築されたのか。
すでに見てきた通り、セブン=ダンは、人間を保護したり庇護したりする存在ではなく、彼らの戦いに協力や助言をする者だった。しかしそうしたセブンのあり方には絶対に欠くべからざる前提があって、それはあの世界の日本人が自主独立心と自衛力を持っているということだった。

しかしこの表現はかなりアイロニカルに過ぎた面もあるだろう。実際にはぼくらの日本には自主独立心も自衛力もない。だからセブン=ダンがぼくらの地球にとどまる理由はどこにもない。一見ハードなリアル路線に見える『ウルトラセブン』は、ありもしないものを前提にした丸っきりのメルヘン、妄想の産物だったということだ。

しかしもしもこの日本に、自主独立と自衛力を求める人々の戦いがあるとしたらどうだろう。無論、彼らはまだそれを掴みとってはいない。だからウルトラマンは、彼らのそんな戦いに協力するために「帰ってきた」のだとしたら・・・。

もしも『帰ってきたウルトラマン』の根底にそんな見えざる意図があったとしたら、それは『ウルトラセブン』の世界を180度ひっくり返してみたものだと見ることもできる。
セブンでは空想上の前提だったものを、現実の世界で実際に掴みとろうとする人々の物語。それはちょうど、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の二人の隊長がそれぞれの最終回に叫んだ誓いと一致する。
すなわち、地球の平和はわれわれ人類の手で守り抜かなければならない、という誓いだ。

そうしてみると、『帰ってきたウルトラマン』とは『ウルトラマン』『ウルトラセブン』での最後の誓いを、シリーズ全体で表現したものだと考えることができる。そしてそれこそが、『帰ってきたウルトラマン』が金城の『マン』『セブン』の再構築であることの証明に他ならないだろう。

つづく

必殺!流星キック ~郷秀樹と坂田次郎くん

次郎

『帰ってきたウルトラマン』のメインライター上原正三は『金城哲夫ウルトラマン島唄』(筑摩書房)のなかで、彼の新番組に付加しようとした「新しい要素」について次のように述べている。

私達は『柔道一直線』の要素を取り入れることにした。主人公の郷秀樹の人間的な成長ドラマをタテ軸にすることになった。郷を坂田自動車で働く若者という設定にし、工場を経営する坂田兄妹とのふれあいを大事にした。主人公をエリートではなく、隣のお兄ちゃんにすることで視聴者の目線にヒーローを引き寄せることが出来るのではないかと考えたのである。

言うまでもないが、これは番組当初の「プラン」だ。番組は生き物だから、時間が経つにつれて制作者の手を離れて一人歩きしてしまうことは往々にある。『帰ってきたウルトラマン』でそれが顕著に出てしまったのが、上記引用で語られていない坂田家の次男、11才の小学生、次郎くんだ。

実のところ、坂田自動車の従業員だった郷秀樹がMATに入ることは、次郎くん以外の二人にとってはあまり歓迎できるようなことではなかった。兄の坂田健(28才)には、事故で足を悪くしてしまった自分の代わりに、郷に自動車レースで優勝してもらいたいという夢があった。また姉の坂田アキ(18才)には、ハンサムで長身の郷との幸せな結婚の夢があった。
が、いずれの夢も郷がMAT隊員になったことで、不可能ではないものの時間的には遠のいてしまった。

一方、次郎くんはと言えば、その夢はそのものズバリ、MATに入ることだった。
・・・郷秀樹。ここに、そんな次郎くんの夢を実現した男がいる。しかもその郷はエリートでも何でもなく、ただその無私で勇敢な行為がたまたまMAT加藤隊長の目にとまり、一度は死んだはずの肉体が(ウルトラマンとの同化によって)奇跡の復活を遂げたことで、そのチャンスを掴んだ普通の男だった。
だから次郎くんにはこの時、労せずして自分の人生の夢のお手本が誕生してしまった。郷さんのように生きれば、自分も憧れのMATに入れることを知った(※)。

もちろん、当時の視聴者だったぼくら子どもたちだって同じだ。

・・・と言いたいところだが、おそらくそうではなかった。それは、次郎くんの家庭環境の特殊さのためだ。
見ての通りで次郎くんには歳の離れた兄と姉しかいない。しかも兄の健は足が悪くて全力疾走もままならない。姉のアキはお年頃の娘さんで、しばしば郷の取り合いになる。つまりこの二人は次郎くんの両親の代わりを完全に務めることはできない。
もちろん二人とも次郎くんを愛しているので「母性」は足りている。問題は「父性」だ。時として、体で示さなければならない父性を、健は次郎くんに与えることが難しい。結果、次郎くんはそれを郷に求める局面が増えてくるというわけだ。

第4話「必殺!流星キック」(脚本:上原正三)
この回、キングザウルス三世に敗れた郷は、かつてレーサーとなるために厳しい特訓を行った平井峠で、キングザウルス三世のバリアを飛び越す勇気を得ようとしていた。もちろん郷がいかに激しいトレーニングをしようとウルトラマンの能力が上がるとは思えないが、おそらく郷は、自分の未熟な精神力がウルトラマンに悪影響を及ぼしている可能性があると考えたのだろう。つまりトレーニング自体は、気休めのようなものだった。
ところがこの様子を次郎くんが見ていたことで、このトレーニングには別の意味が付加されてしまった。

兄の健は足が悪い。しかしこの時、同じように郷秀樹も足を負傷していた。だが郷は、強大な怪獣と戦うために、自らの力でその負傷を乗り越えていった。次郎くんが見たのはその姿だった。そしてこの瞬間、まだ幼い次郎くんに与えられるべき「父性」は、兄の健から郷秀樹に移動した。
これがこの回の「肝」だ。

ただ、この時点では上原自身もこのエピソードが生んだ意味を、あまり深くは把握していなかったようだ。次郎くんはアキに、なぜ郷があんなことをしているのかと聞いているくらいだからだ。
しかし回が進むにつれ、ややマンネリ化していった「坂田兄妹とのふれあい」とは反比例するかのように、郷と次郎くんのふれあい(と、ぶつかり合い)は深まっていく。

第19話「宇宙から来た透明怪獣」(脚本:上原正三)
宇宙から飛来した隕石は、次郎くんの通う学校で巨大な怪獣サータンに変化した。校舎が崩落し、瓦礫が降り注ぐなか、次郎くんは飼育小屋のウサギを助けるために走っていく。このシーンが、第1話「怪獣総進撃」で、郷秀樹が子どもと子犬を助けようとして死んでいったあの光景とダブらされていることは言うまでもないだろう。
入院先の病院では軽症と診断された次郎くんだったが、MATがサータンに敗れたことを知ると、意識不明の重体に陥ってしまう。次郎くんを看た医者は言う。
「この子の場合、MATと一緒になって一生懸命、怪獣と戦ったんじゃないかな。そしてMATが敗れたと知ったとき、精魂尽き果てたんだ」
サータンの打倒策が見つからず、弱気になる郷に健はこう言う。

「次郎の机の上にはね、お前の写真が飾ってあるんだよ。学校に出かけるときは、行って参ります。帰ってくれば、ただいまと挨拶をおくっている。次郎にとってお前は、心の支えなんだ。夢なんだ」

いくら郷を励ますためとは言え、こんなことを白状しなければならない健も気の毒な人だが、次郎くんの思いを知った郷は奮起して再びサータンに立ち向かっていく。
そしてウルトラマンがサータンを倒したころ、次郎くんは夢を見ていた。それはウルトラマンにおぶさって、空を飛んでいる夢だった。やがて次郎くんが目を覚ますと、病室にボロボロになった郷が戻ってくる。
「勝ったぞ」
がっちり握手を交わす二人だった。

もちろん、この夢が表すものが、次郎くんが郷がウルトラマンであると知っていたという意味ではないだろう。次郎くんが憧れていたのは、あくまでMAT隊員の人間郷秀樹だ。しかし混濁する意識が、それをウルトラマンに見せた。

さて、こんな感じで進んでいく郷と次郎くんの物語だったが、第37話「ウルトラマン夕陽に死す」で大転換を向かえることになる。肉親の健とアキが、ナックル星人によってあっさりと殺害されてしまうのだ。天涯孤独になった次郎くんは、いよいよ郷のマンションで二人で暮らすようになる。そしてこの時、郷と次郎くんの間で、ある誓いが交わされる。それが最終回のタイトルでもある「ウルトラ5つの誓い」だ。
そしてこのときから次郎くんは、その誓いを規範として日々の生活を送っていくことになるわけだが、次郎くんの物語には最終回までこれといった大きな変化はない。

というわけで『帰ってきたウルトラマン』のもう一つの舞台に話を移したい。
MATの物語だ。

つづく



(※)死からの生還についてはどのみち誰にも理由は分からなかったわけだし、おそらく郷が死なずに重傷からの回復であったとしても、加藤隊長は郷をMATに勧誘しただろうと思う。

この怪獣は俺が殺る ~解散MAT

二人の隊長

『帰ってきたウルトラマン』のMATと、それ以前の科特隊・ウルトラ警備隊との最大の違いは、MATが常に解散の危機にさらされていたということにあるだろう。WikipediaにはMATについて次のような記述がある。

MAT(マット)とは Monster Attack Team すなわち「怪獣攻撃部隊」である。国際平和機構の地球防衛組織に属し、本部はニューヨークに置かれ、世界各国に支部がある。MAT日本支部は国家組織「地球防衛庁」に属し、東京湾の海底に原子炉を動力源とする基地を持ち、コールサインは「マットJ」。他に海岸沿いの地上発信口や地上オフィス(中央区神田錦二丁目・架空の場所)があり、宇宙ステーションも持つ。上層部から事ある毎に解散の圧力をかけられていたため、ファンの間では「解散MAT」の異名で呼ばれる事がある。


具体的に挙げればこうなる。

まず第6話「決戦!怪獣対マット
怪獣グドンとツインテールが出現し、東京で暴れ回る。この事態に防衛庁の長官は、水爆同等の威力を持つスパイナーという兵器の使用をMATに命じてくる。しかしスパイナーを使えば東京は廃墟になってしまう、と言って加藤隊長は反対し、代わりに至近距離から麻酔弾を打ち込む決死の作戦を提案する。このときの加藤隊長の気迫に、長官もその作戦をのんでくる。ただし「失敗したらMATは解散」という条件がつけられてしまう。

第14話「二大怪獣の恐怖 東京大龍巻
怪獣シーモンスは産卵のため東京に上陸する。このシーモンスを自衛隊が攻撃したため、怒った旦那のシーゴラスまでもが東京にやってきてしまう。「東京は二大怪獣に占領された」というナレーションが入る。このときの長官の言い草はこうだ。
「都民の間では、MAT不要論すらささやかれている」

第20話「怪獣は宇宙の流れ星
マグネドン退治に手こずるMATに対し、今度は防衛庁参謀のセリフ。
「あと一日だな? それでだめな時はMATは即時解散」。

第50話「地獄からの誘い
上野隊員が射殺した相手は、地底科学の権威、小泉博士だった。
「政府部内にはすでにMATを廃止すべしという声が高まっておる。今度の事件が明るみに出れば、MAT解散は時間の問題となろう」

以上、ぼくのメモでは4回記録されているが、もっとあったかもしれない。
とにかくこんな感じで、政府部内、東京都民はおろか、国防の中枢である「地球防衛庁」でさえMATを解散させたがっていることは明らかだった。だが、ここで注意すべきことは、実は実際に怪獣たちが一斉に出現するようになる以前から、日本にMATは存在していたということだ。
第1話冒頭のナレーションにあるように
「世界各地が異常気象に覆われている。日本列島でも毎日のように起こる小地震が不気味な地殻の変動を告げ、そしてついに怪獣たちが一斉に目を覚ました」
というような事態に備えて、MATはあらかじめ準備されていたというわけだ。

それにも関わらず、いよいよ怪獣が出現してみたらMATは不要だ解散しろ、とは一体どういうことか。
自衛隊が役に立たないことは第6話で証明済みだ。怪獣についての知識のない自衛隊は、ただただ大砲をぶっ放すだけで、ますます事態を悪化させてしまっただけじゃないか。
なのにMATは不要だからと解散させ、自衛隊は怪獣には全くの無力という状態で、一体どこの誰が都民の安全を守るというのか。

簡単なことだ。
都民も政府部会も地球防衛庁も、アメリカMAT本部に日本を守ってもらえばいいと考えているのだ。

第22話「この怪獣は俺が殺る
この回は、加藤隊長の宇宙ステーションへの転任から始まる。つまり左遷だ。残念がる郷に、加藤隊長はこういう。
「これでMATも大きくなるんじゃないか。本部からあれだけの人物が隊長として来るということは、それだけMATの地位が高く評価されている証拠じゃないか」
加藤に代わる新任隊長は伊吹。しかし彼はそのころ、”ニューヨークMATの一員として”、ニューヨークの巨大ゴミ処理場に現れた怪獣ゴキネズラと戦っていたのだった。やがてゴキネズラをMSミサイルで倒した伊吹はそのまま東京へ向かう。
ところが、今度は東京の巨大ゴミ処理場「夢の島」に、ニューヨークに現れたのと同じ怪獣ゴキネズラが出現してしまう・・・。

(この脚本を書いたのは市川森一。市川は『セブン』では上原と共同して2本の脚本を仕上げているくらいで、気心も知れた仲だったことだろう。もしかしたら、上原の謎掛けに対する、市川なりの解答だったのかもしれない)

東京とニューヨークの二つの巨大ゴミ処理場に、二頭の同じ怪獣が出現する。そしてこの両者を結んだ線上を、ニューヨーク本部で「あれほどの人物」として名を馳せた伊吹新隊長がフライトしてくる。
すると、そのとたん、あれほど解散を騒いでいた連中の声がぱたりと止んでしまった。実に22話から49話まで、シリーズ全体の半分以上だ。これは、「伊吹効果」以外の何ものでもないだろう。

邪推をするなら、ニューヨークMAT出身の伊吹がいれば、いざとなればニューヨークMATが救援に来てくれるだろう、と誰もが考えた。しかし待てど暮らせどニューヨークMATが来る気配がないので、シリーズ最後のころには再びMAT東京支部の不要論が叫ばれだした、といったところか。

いずれにしても、この「MAT不要論」の背景に、現実の日本社会で叫ばれる「自衛隊不要論」があることは言うまでもない。自衛隊以上に目立って派手な軍事活動を行うMATが存在するから、自衛隊のほうは一時的に忘れられているだけのことだ。
おそらく「国際平和機構の地球防衛組織」が世界各地にMATを設立していったときも、基地の置かれる東京はもちろん、日本中で反対運動が起きたに違いない。しかしあくまで「備え」だからと「国際平和機構」に説得されるかたちで、最低限の人員と装備で東京MATも創設されたのだろう。

だから実際に怪獣が現れて東京MATが活動を始めるや否や、解散、不要、の声がわき上がった。
日本人が戦う必要はない。ニューヨークMATに守ってもらえばいいじゃないか、と。

念を押すが、東京MATが弱いから不要で即時解散なのではない。
そもそもの初めから、「不要な存在」として東京MATは設立されたのだ。

長いのでつづく

二大怪獣東京を襲撃/大怪鳥テロチルスの謎

東京大空襲

金城哲夫の没後30周年にあわせて2005年に発売された『金城哲夫西へ!』というDVDがあるが、そのなかで市川森一がインタビューに答えて、上原正三が東京都町田市にはじめて家を建てた時の様子をこんなふうに話している。
「沖縄人である上原正三がですね、ついに日本の土地の一画を占領したと。沖縄人が日本の50坪くらいの土地を、ついにわがものにしたと、不思議な喜び方をしていましたね」

上原にとって日本の土地を買うことは、日本の一部を「占領」することだった。
そして上原は彼の作品のなかでも何度となく東京を占領しようとした。

第5話「二大怪獣東京を襲撃」第6話「決戦!怪獣対マット
怪獣グドンとツインテールの出現によって東京の首都機能は大混乱に陥った。ウルトラマンも敗れ、MATのMN爆弾も効果がない。この事態に防衛庁長官は小型水爆同等の威力を持つ「スパイナー」の使用を決断し、東京都民に5時間以内の避難命令が出される。
「こうなれば東京決戦あるのみだ」
それは、核兵器の投下によって東京ごと怪獣を吹き飛ばしてしまう作戦だった。

第13話「津波怪獣の恐怖 東京大ピンチ!」第14話「二大怪獣の恐怖 東京大龍巻
産卵のために東京に上陸した怪獣シーモンスが自衛隊による砲撃を受けると、怒った旦那のシーゴラスが東京にむかって大津波を起こす。このピンチはウルトラマンの特殊能力で防いだものの、ウルトラマンのエネルギーは尽き果ててしまう。ナレーションが言う。
「東京は二大怪獣に占領された。都民は避難し、大都会は死の街と化した」
さらにはシーゴラスとシーモンスの合わせ技によって、今度は東京を巨大な竜巻が襲う。

第16話「大怪鳥テロチルスの謎」第17話「怪鳥テロチルス 東京大空爆
怪獣テロチルスが東京に作った巣から出る雪は、排気ガスに反応すると猛毒性のガスに変化した。東京は空気すら吸えない街になってしまったのだ。

という具合で、核兵器が、津波が、竜巻が、毒ガスが、次々に東京を襲う。第6話では、ご丁寧にもスパイナーを使用した場合のイメージとして、東京大空襲と原爆の写真が挿入されている。
とにかく執拗きわまりないこの上原の東京攻撃には、むかしから沖縄人上原正三の本土への怨念があると指摘されてきた。大東亜戦争で防波堤にされ、戦後も捨て石にされたままの沖縄人の恨みがそこにあると。

もちろん、ぼくもそういった見方を否定するものではない。
しかし本当にそこには怨念や遺恨しかなかったのかというと、疑問もある。上原正三とはそんなに矮小な人間だったのか。未来ある子ども達がみるテレビ番組に、個人的な感情をぶちまけるだけの人だったのか、と。

それに、それではなぜ、上原は東京を破壊すると同時に、MATに解散をせまったのだろう。
なぜ、防衛庁長官には「いざとなれば必ずウルトラマンが来てくれるさ」と言わせ、市民には「いざというとき我々には強い正義の味方がついている」と言わせておきながら、その彼らの面前でウルトラマンをみじめに敗北させたのだろう。
ウルトラマンが敗れ、MATが解散してしまったら、東京はどこの誰が守るというのだろう。

前回の記事に書いたように、それに対する市川森一の答えは、アメリカMATが日本を守るということだった。それ以外に怪獣に対抗できる組織は存在しないんだから、当然の結論だろう。都民が、政府部会が、そして防衛庁までが望んだことは、つまりはそういうことだった。怪獣退治の名目で、アメリカMATが東京湾の基地を使い、中央区神田にある地上オフィスを使うということだった。そして、怪獣が出現する度にアメリカ人の乗ったマットアローが東京上空を飛び、ミサイルやレーザービームを撃ちまくるということだった。

これは要するに、沖縄とまったく同じ状況が東京に生まれるということだ。


ここでもう一度、切通理作さんの名著『怪獣使いと少年』から、上原本人の談話を引用したい。

戦後、日本のアメリカ軍の軍事基地の七四%は沖縄にあるけど、そんなこと、日本人が本当に沖縄のことを日本だと思っていたら許しておくはずがないでしょう。あなたも含めて。沖縄が遠くにあるから自分たちは安心だという日本人。東シナ海の海溝はやはり相当に深いと思います。

上原はその「遠くにある」はずの「軍事基地」を、東京に引き寄せてみたのではないか、とぼくは思う。
もちろん、実際にアメリカMATが東京に上陸して、東京を「占領」する映像なんか作ることはできない。それは言葉に発することすら憚られることだ。だから、視聴者の想像力に託すしかない。

「MAT不要論」が、現実世界の自衛隊不要論を背景にしていることは言うまでもない。
平和憲法のおかげで武力を使わずに日本は平和を成し遂げた、と本土の人は誇らしげに言うが、それが国防をアメリカに依存し、武力を沖縄に押し付けた結果の「平和」であることは元より疑いようがない。
そして本土の人がそんな空虚なセリフを吐けるのは、結局のところ国防と、それを担わされている沖縄への無関心でしかないのだ。

だから上原が東京を虐め抜いた理由は、沖縄人としての本土への復讐心や怨念のような負の感情からだけではなかったと、ぼくは思う。そこには真の「平和」に対する問いかけがあった。いま目の前で怪獣が暴れている状態でMATを解散させる。頼みのウルトラマンも敗れ去る。テレビの前の子どもたちは、パパにこう聞くことだろう。
「じゃあ誰がぼくたちを守ってくれるの?」
そこからパパとその子が一緒になって、本当のこの国の「平和」について考え始めるきっかけとなるものを、上原は提示したんじゃないかとぼくは思う。なにしろ改めてよく考えてみなくても、日本の安全を保障している在日米軍の本部は、沖縄ではなく東京都内にあるのだから・・・。


などと書いてはみたものの、実際には誰も上原の期待通りの反応を見せる人はいなかったのだろう。
ウルトラマンがたびたび怪獣に負けるだけでは効果がない。そう思ったかどうかは知らないが、上原はついにシリーズ途中での暴挙に出る。

ウルトラマンの殺害だ。

つづく

ウルトラマン夕陽に死す/ウルトラの星光る時

ウルトラマン獄門のうえ市中引き回しの刑

例によってダラダラと雑談のような話が続いているが、いま問題にしているのは、ぼくたちが幼児期に熱中した『帰ってきたウルトラマン』のテーマとは何だったのかということだ。
それでAmazon等で入手できる範囲内で書籍にあたり、インターネットでもあれこれ検索してみたところ、『帰ってきたウルトラマン』といえば「人間ウルトラマン」であり、第33話「怪獣使いと少年」に見られる沖縄人上原正三の怨念や差別の告発を中心に語られているということがわかった。

しかしぼくがそういった言説を認めながらも受け容れがたいのは、23歳の成人男性の苦悩や成長、あるいは被差別民の怨念を、当時まだ幼児や児童だったぼくらに見せて、いったい何になるんだという疑問があるからだ。そんなものは大人になるにつれて勝手に理解していけばいいことで、頭の柔軟な幼児期にむりやり押しつけるようなことではない。

「怪獣使いと少年」を「深い」などと言う人もいるが、民族差別の告発であれば『絞死刑』(大島渚/佐々木守)でも観た方がよっぽど深刻で心に迫るわけで、実はそこには(ウルトラマンにしては・・・)とか(ウルトラマンのくせに・・・)といったカッコ書きがついているような気がしてならない。要は「怪獣使いと少年」ばかりを取り上げることは、内心ではウルトラマンをバカにしていることの裏返しの現れである可能性だってあるのだ。

『帰ってきたウルトラマン』は所詮は「ジャリ番」だ。そこから大人の視聴に耐える作品を探そうなんてのは、どだい無茶な話だろう。しかしぼくらは確かに子どもの頃にこの番組に熱中し、何かを受け取った。だから、いま大人の目でこの作品を見直すなら、個々の作品の優劣とかではなく、作品全体からぼくらが何を受け取ったのか、あるいは受け取るべきだったのかを見つめることが求められるようにぼくは思う。

と言ったところで、それでは『帰ってきたウルトラマン』のテーマとは何だったのか。
テーマというのは、要は繰り返し繰り返し強調して語られるものを言う。『帰ってきたウルトラマン』でいえば、それはウルトラマンが大事なところで怪獣に負けてしまったり、MATがやたらと解散を迫られたり、何かと東京ばかりが大惨事に見舞われることなどが上げられるだろう。ならばそれらが「全体として」伝えようとしていることこそが、『帰ってきたウルトラマン』のテーマだと考えていいはずだ。


現在発売されているDVD『帰ってきたウルトラマン』第9巻のライナーノーツには、すっかりおじいちゃんになった上原正三のインタビューが掲載されている。
副題はズバリ「子どもたちに伝えたかった『本当』のテーマ」だ。

「『帰ってきたウルトラマン』でひとつ言えるのは、子供たちに『自分で考えて行動しなくちゃいけないんだ』ということを伝えたかったんですね」
「親に言われたことを、先生に言われたことをそのまま鵜呑みにするんじゃなくて、自分の価値観で反芻して、自分の足で立って、自分の目で見ることができるような子供になって欲しいという思いがありました」

以上、本文中から「子供」が含まれる文章を引用させていただいた。
さて、それではこれからあげる作品を通して、上原正三は当時の子供だったぼくらに何を自分の頭で考えて欲しかったのだろう。そして、どう行動して欲しかったのだろう。

第37話「ウルトラマン 夕陽に死す
地球侵略を狙うナックル星人は、郷秀樹の心理をかく乱することで、ウルトラマンの精神状態にも悪影響を与えられると考えた。そこで郷の恋人である坂田アキをクルマで誘拐し、それを制止しようとした坂田健をはね飛ばして殺し、逃げようとしたアキもそのまま引きずり回して殺害してしまった。このナックル星人の計略は的中し、怒り狂う郷の心理の影響を受けたウルトラマンは冷静さを失い、ついには怪獣ブラックキングの前に敗れ去る。ナックル星人はUFOを呼び寄せるとウルトラマンをはりつけにし、東京上空を引き回す。多くの都民が、そして次郎くんが、この無惨な光景を目撃した。ウルトラマンは完全に敗北し、いま宇宙の処刑場に連行されようとしている。

さらに続く第38話「ウルトラの星 光る時
ウルトラマンを連れ去ったナックル星人は、MATに対し「12時間以内に無条件降伏せよ」と通達してくる。それに対しMATはナックル星人の地上基地を襲撃しようとするが、罠にはまった隊員たちは次々にナックル星人に捕まってしまい、そのリモートコントロールを受けてしまう。ウルトラマンに続いて、今度はMATまで敵の手に落ちてしまったのだった・・・。


東京都民が、政府部会が、そして地球防衛庁が願った「MAT解散」はこうして実現した。
しかしナックル星人の侵略はこれからだ。その大船団は刻一刻と地球に近づいてきているのだ。さあ、急いでアメリカMATに救援を頼むんだ! ぼくらを救ってくれるのはアメリカMATしかいない!!
早く来てくれ、正義のヒーロー、アメリカMATよ!!!


・・・・・・来るわけがない。
アメリカMATは、アメリカを守るためのMATだ。アメリカだって侵略の危機にさらされている時、どこに本国を差し置いてヨソの国を守るバカがいるものか。在日米軍だって第7艦隊だって、あわてて帰国の途についているに決まっているじゃないか。
だから加藤隊長は、どんなに罵倒されても、嘲笑されても、ひたすら屈辱をこらえてMAT解散に抵抗した。唇をかみしめて、MAT存続を主張した。最後の最後まで日本を守るために戦えるのは、結局のところ日本人しかいないのだ。

そう考え直したとき、ここに『帰ってきたウルトラマン』の根本問題が姿を現す。

それは、そもそも何故ウルトラマンは帰ってきたのか、ということだ。

長いのでつづく

怪獣総進撃 :ウルトラマンはなぜ帰ってきたか?

タッコング対ザザーン

ウルトラマンはなぜ帰ってきたのか?
これを、異常気象による地殻の変動によって怪獣たちが一斉に目を覚ましたから、で片付けてしまうことは、金城哲夫や上原正三、さらには橋本洋二をバカにした態度ともいえるだろう。

金城哲夫は『ウルトラマン』の最終回で現れたゾフィーにこう言わせた。
「地球の平和は人間の手でつかみとることに価値がある。ウルトラマン、いつまでも地球にいてはいかん」
その言葉に呼応するように、科特隊のムラマツ隊長も、ウルトラ警備隊のキリヤマ隊長も、地球は我々人類自らの手で守らねばならんのだと叫んだ。
この叫び、彼らの誓いを、金城の後を受け継いだ盟友・上原正三が覚えていないはずはない。
ならば怪獣が現れたくらいでホイホイとウルトラマンが帰ってきてしまっては、彼らの誓いはただの口先だけのものになり下がる。

一方、『帰ってきたウルトラマン』のプロデューサー、橋本洋二は、子ども番組に劇画的リアリズムを持ち込んだ人だと言われている。橋本の参加によって、それまでややステレオタイプだった登場人物たちに命が吹き込まれ、複雑で生き生きとした人間模様が表現されるようになった。

ではそんなリアリズムが、怪獣が出たからウルトラマンが帰ってきた、などという投げやりな説明を由とするものだろうか。地球にむかう時のウルトラマンはどういう気持ちだったの、とか、ウルトラマンは朝食は何を食べてきたの、とか聞きそうなものじゃないか。

じゃあウルトラマンはなぜ帰ってきたというのか。
それにはウルトラマンが帰ってきた、まさにその瞬間を捉えればいいはずだ。

『帰ってきたウルトラマン』第1話「怪獣総進撃
この記念すべき第1話は、いきなり怪獣タッコングとザザーンが勝鬨橋近辺で格闘しているシーンから始まる(ということは第33話「怪獣使いと少年」の舞台は本当は隅田川ということになるが、まあどうでもいいか)。で、この時点ではウルトラマンがどこで何をしているかはわからない。

カメラは坂田家に移り、次郎くんが怪獣を倒すと言って走っていくのを、郷が追いかけていく。郷はなんとか次郎くんに追いつく。するとそこへ、団地に残された子どもを助けるために、MATの加藤隊長が駆けつけてくる。郷は次郎くんを加藤隊長に預けると、自分が団地に残された子どもを助けにいく。そして子どもと犬をかばって、自分が落石を受けてしまう。
その一部始終を加藤隊長が見ていた・・・。

その瞬間だ。
まばゆい光が走り、何かを恐れたようにタッコングが海に逃げていったこの瞬間、ウルトラマンは「帰ってきた」。

結局、郷は加藤隊長が見守る中、息を引き取る。しかしその夜、郷とウルトラマンは一心同体になり、郷は生き返る。翌日、郷の蘇生を聞いた加藤隊長は、郷をMATに迎え入れようと坂田家におもむく。加藤隊長の、突然かつ一方的な申し出を思わず断りそうになる郷。すると郷の耳に、ふいに怪獣の鳴き声が聴こえてくる。郷は「誰かが俺を呼んでいる」とつぶやくと、車に乗り込んで時速150キロで疾走し、怪獣アーストロンが暴れている現場に向かう。
アーストロンは無事ウルトラマンに退治され、郷はその現場近くの河原で倒れている。そこへ加藤隊長らMAT隊員がやってきて郷を発見する。加藤隊長は郷をメンバーに紹介し、否応無しに郷はMATの隊員になったのだった・・・。

以上が「怪獣総進撃」で語られた、郷がウルトラマンと一心同体になり、MATに入隊するまでのあらましだ。
ここで明らかなことは、いつでも加藤隊長がキーマンになっているということだ。郷秀樹が無私で勇敢だったから、ウルトラマンが彼を選んだのではない。その様子を加藤隊長が見ていたから、さらには加藤隊長が郷をMATに欲しがることが予測できたから、ウルトラマンは郷を選んだ。だから郷が加藤隊長の勧誘を断りそうになったときも、ウルトラマンは慌てて干渉してそれを遮っている。

リアリズムで考えれば、あのとき勝鬨橋近辺で無私で勇敢な行動をとったのは、何も郷秀樹一人だけではないだろう。そしてそのなかには、同じように尊い命を落とした人もいただろう。では、そんな名もなき勇者たちと郷秀樹の差は何か。
その答えは、郷がきわめて自然な成り行きでMATに勧誘されそうな唯一の人間だったから、以外には考えにくい。

それでは何故、ウルトラマンはMATに入る必要があったのか。それは、
地球の平和は人間の手でつかみとることに価値がある
というゾフィーの言葉、そして、それに応えたムラマツとキリヤマ両隊長の誓いを実現させるためだ。

彼らには科特隊、ウルトラ警備隊という自衛力の器があった。しかし、MATはこれまでさんざん見てきたように、今まさにその手から地球(はっきり言えば日本)を守るために必要な自衛力を取り上げられようとしていた。

だからウルトラマンは、MATの一部となって勝利を収めなければならなかった。そのために郷という追加の戦力となり、ウルトラマンという最終兵器になる必要があった。すべてはMATを存続させ、日本人の手で日本という国を守っていくために、だ。
そう考えることが、金城の思いと橋本のリアリズムという背景から、自然に導かれる結論であるようにぼくは思う。

一説によると、加藤の後任の伊吹隊長は郷秀樹がウルトラマンであることを知っていた、という噂がある。
その伊吹は最終回、戦死した郷秀樹の墓標にむかってこう言った。
「さあ、我々はいつまでも悲しんでばかりはおれんぞ。破壊されたMAT基地の再建をはかること。おそらく郷も、それを一番望んでいるであろう」
ぼくには伊吹には、ウルトラマンの願いすら分かっていたようにも思える。


さて、ここまでの長話で、ようやく『帰ってきたウルトラマン』の全体像の、ぼくなりの説明は終わった。
ウルトラマンが帰ってきた理由、解散MAT、次郎くんの物語。
それらのパーツにどんな意味があったのか。

最終回、その全てはある一点に収斂する。



切通理作さんの名著『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』によれば、第33話「怪獣使いと少年」のTBS内での受けは非常に悪く、上原正三は第38話を最後に「干されて」しまったそうだ。だから上原の復帰は最終回を待たなければならなかったのだが、本当に悔やまれることだ。もしも上原が第39話以降もメインライターとして活躍していたなら、『帰ってきたウルトラマン』はどれほどの名作になったものやら。
たった1本の異端作が、作品全体を台無しにしてしまった悪例の最たるものといえるだろう。

つづく

ウルトラ5つの誓い ~『帰ってきたウルトラマン』最終回

ウルトラ5つの誓い

『帰ってきたウルトラマン』第51話「ウルトラ5つの誓い」(脚本:上原正三 監督:本多猪四郎)

バット星人による「ウルトラ抹殺計画」が発動した。M78星雲に総攻撃をかけるバット星の大艦隊が発進する。
その一方、東京にはバット星人に連れられた宇宙怪獣ゼットンが出現する。バット星人はゼットンにMATの注意を引きつけておくと、その間にMAT基地を破壊してしまう。基地は浸水し、一切の武器弾薬は使用不能になる。
MATはただ一機、不時着して残されていたアローを修理するものの、燃料不足でせいぜい10分の飛行しかできない。この危険な任務に志願したのは、郷だった。郷は隊員ひとりひとりと握手を交わすと、出撃していく。誰かが言う。
「あいつ、まるで死にに行くみたいだな」

郷は単機ゼットンに挑むがアローは炎上、ウルトラマンに変身する。ウルトラマンは強敵相手に苦戦するが、ウルトラブレスレットでバット星人を倒すと、コントロールを失ったゼットンをウルトラハリケーン+スペシウム光線で倒したのだった。
戦いは終わった。

しかし、郷はついに帰ってこなかった。夕暮れの浜辺で、郷に黙祷を捧げるMATの隊員たち。
伊吹隊長はいう。
「さあ、我々はいつまでも悲しんでばかりはおれんぞ。破壊されたMAT基地の再建をはかること。おそらく郷も、それを一番望んでいるであろう」
やがてMAT隊員が去っていった後も、なおも墓標の前にたたずむ次郎くんとルミ子(郷のマンションの隣人)。すると、そこにいつものように笑顔で現れる郷秀樹だ。
郷はルミ子にいう。
「旅に出るんです。平和なふるさとを戦争に巻き込もうとしているやつらがいる。だから手助けにいくんだ」
郷は次郎くんの今後をルミ子に託すと、今度は次郎くんにいう。
「ウルトラ5つの誓いを言ってみろ」
次郎くんは「いやだ」という。郷との別れを受け入れられなかったのだろう。
すると郷はいう。
「言いたくなければいい。だが次郎、大きくなったらMATに入れ。MATの隊員はみな勇気ある立派な人たちだ。君も、嫌なもの、許せないものと戦える、勇気ある男になるといい」
今度はうなずく次郎くんだ。

夕陽に照らされる波打ち際を、ゆっくりと歩いていく郷のシルエット。やがてそれは立ち止まり、静かに両手を上げる。郷がはじめて次郎くんに見せた、ウルトラマンへの変身。しかし、次郎くんはウルトラマンにむかって「郷さーん」と呼びかける。次郎くんにとって、ウルトラマンの姿になってもなお、その人は郷秀樹という人間だった。
飛び去るウルトラマンを追って、次郎くんも砂浜を駆け出す。そして泣きながらウルトラ5つの誓いを叫ぶ。

「ウルトラ5つの誓い!
 一つ、腹ぺこのまま学校に行かぬこと!
 一つ、天気のいい日に布団を干すこと!
 一つ、道を歩くときにはクルマに気をつけること!
 一つ、他人の力を頼りにしないこと!
 一つ、土の上を裸足で走り回って遊ぶこと!
 聞こえるかい? 郷さーん。」



ウルトラ5つの誓い」とは何か。
それは「自立」ということだ。親を頼らず、自分の身は自分で守り、そのための頑健な体を作る。全ては子どもが「自立」した人間に育っていくための基本中の基本だろう。
兄の健、姉のアキを殺され、天涯孤独になってしまった次郎くんは、テレビの前のぼくらよりも早く自立しなくては生きてはいけなかった。だからウルトラマンは「ウルトラ5つの誓い」を残して、次郎くんの元を去っていった。
『帰ってきたウルトラマン』の次郎くんの物語とは、とどのつまり、次郎くんが自立していくための物語だった。

では、『帰ってきたウルトラマン』のもう一つの物語、MATの物語とは何だったのか。
それは、自分の国は自分たちの力で守るんだという、「国」の「自立」の物語だった。日本人が自衛力を維持していくための、内なる戦いのドラマだった。

「人」の自立と「国」の自立。
『帰ってきたウルトラマン』の二つの物語はこうして一つに結合し、今、ウルトラマンは本当に地球を去っていく。彼にもまた、彼自身の手で守らなければならない故郷があった。
だから日本の平和は日本人が守らねばならず、まだ幼い次郎くんはいつの日か、自立した一人の勇者としてMATに入隊することだろう。心にいつも、郷秀樹の思い出を抱きながら・・・。
ウルトラマンはそのための道筋を残して、ついに完全に地球を去っていくのだった。

この『帰ってきたウルトラマン』の最終回までの道程が、金城哲夫が語り尽くせなかった『ウルトラマン』『ウルトラセブン』のメッセージの再構築であることは疑いがないように思える。次郎くんという視聴者に近い存在を登場させることで、上原は金城のメッセージの全てを語り尽くした。
そのように、ぼくは思う。


しかしなぜ、「自立」なんだろう。

人の自立。それは、人が「自分の価値観で反芻して、自分の足で立って、自分の目で見る」ことに他ならない。そこに、後天的に得た属性、たとえば「日本人」か「沖縄人」か、といった価値判断は存在しない。自分がイジメられないために、イジメっこグループに帰属しようといった行動も存在しない。それらはすべて、他の誰かが決めた幻想の集団への「依存」から始まることだからだ。そこに人の「自立」がないから、差別はなくならず、イジメもなくならない。

そして国の自立。
沖縄にアメリカの軍事基地を押しつけておいて、素知らぬ顔で平和憲法をありがたがる日本人。そこにもまた、「自立」はない。
ウルトラマンだって、彼の故郷を守るためには地球を後にしたのだ。アメリカ人が本当に最後の最後まで、ぼくらの日本を守ってくれるという保証はどこにもない。

上原正三は「沖縄は植民地」だと言ったが、本当は「日本は植民地」だと言いたかったのかもしれない。戦後60年を経過した今なお、この国は国民の生命と安全をアメリカに「依存」し、そのために莫大なカネをアメリカに支払っている。「年次改革要望書」を突きつけられ、国民の財産をせっせとアメリカに貢いでいる・・・。

沖縄の基地問題を解決したいなら、国が自立しなくてはならない。
あらゆる差別をなくしたいなら、それぞれの人が自立しなくてはならない。
東京で生きた沖縄人、上原正三は、そんな願いをまだ幼かったぼくらに託したのだと、ぼくは考えている。


こうして幕を閉じた『帰ってきたウルトラマン』。
いま、改めておっさんになった目でこの作品を観るとき、ぼくは心の奥から沸々とわき上がってくるような喜びをそこに感じる。多分にぼくの妄想的解釈が入り込んでいることは認めつつも、幼児期にこのようなメッセージをもった番組に触れていた自分に誇りを感じる。

しかしその一方で、いまだに「自立」できていない自分とこの国を、恥じる。

つづく

雑誌

特撮ニュータイプ

角川書店から発行されている『特撮ニュータイプ』という雑誌に、切通理作さんによる田口成光へのロングインタビューが載っているという話があったので、早速買って読んでみた。
田口成光はウルトラシリーズの脚本家で、『タロウ』『レオ』のメインライターだった人。しかし実は『ウルトラマンA』でもエースキラーやヒッポリト星人のエピソードを書き、実質的なメインライターだったとぼくは思っている。
ちょうど次は『ウルトラマンA』について触れる予定だったぼくとしては、是非とも知っておきたい人物だったのだが・・・。

残念ながら今回は助監督時代の撮影裏話が中心で、脚本については次号にて、とのこと。
拍子抜けしてしまったが、雑誌連載だし、やむなし。

ただ、問題は1500円のこの雑誌、他に読みたい記事が全くないこと!
切通さんの記事は3ページなので、1ページ500円か・・・。
しかもこの表紙・・・。
店じゃ絶対レジに持っていけんだろうなあ、41歳のおっさんとしては(こういうときAmazonは便利だ)。


<1/18追記>
次号の田口成光インタビューはかなり充実したものであるようです。
詳しくはこのエントリーのコメント欄を。



<知人への業務連絡>
本業が忙しくなってきたので、しばらくブログは休む。
糖尿で入院とかじゃないので心配なく。

ウルトラマンA最終回 最後の言葉は名言か?

エースの願い

『ウルトラマンA』最終回、第52話「明日のエースは君だ!」は、次のような言葉で締めくくられる。

やさしさを失わないでくれ。
弱いものをいたわり、
互いに助け合い、
どこの国の人たちとも友だちになろうとする気持ちを失わないでくれ。
たとえ、その気持ちが何百回裏切られようと。
それがわたしの最後の願いだ


現在発売中の『ウルトラマンA』DVD13巻のパッケージに「今なお色褪せない感動のメッセージが再び」とあるように、このウルトラマンA最後のセリフは、一般的には「名言」だと言われている。
もちろんぼくも、このセリフだけをとれば「名言」だと思う。

しかし、『ウルトラマンA』はこの最終回だけが単独であるのではなく、52回も続いたシリーズ作品だ。
それで『ウルトラマンA』を第1話から順番に見ていくと、実はこの「最後のセリフ」が「名言」でも何でもなく、ウルトラマンAの「敗北宣言」に他ならないことが分かる。

敗北宣言・・・。
それではウルトラマンAは何に敗北したのか?

そもそも『ウルトラマンA』が他のウルトラマンたちと決定的に違うのは、それが元々は「男女の合体による変身」というスタイルをとったことだ。普通に考えればこのスタイルの根源には、男性である北斗星司の「勇気」と、女性である南夕子の「やさしさ」の融合、という発想があると見ることができるだろう。
あるいはそれらを、「父性」と「母性」の融合、と考えることも可能だろう。

このうち、「父性」については前作『帰ってきたウルトラマン』が絶好のお手本となる。
11歳の少年、坂田次郎くんはMAT隊員・郷秀樹の生き様を間近に目撃し続け、郷に憧れ、郷のようになりたいと願った。郷はそんな次郎くんに「ウルトラ5つの誓い」という生活規範を与えた。
この郷秀樹の一連の行動の全てを一言で言えば「父性」ということになる。

一応、Wikipediaから「父性」を引用すれば、こうなる。

「子供を社会化していくように作動する能力と機能」
「子供に我慢・規範を教え、責任主体とし、理想を示すもの」
「善と悪を区別して指導する傾向」


『仮面ライダーV3』や『快傑ズバット』で主役を演じた宮内洋は常々「特撮ヒーロー番組とは子供達に正義の心を教える教育番組に外ならない」というポリシーを表明していたそうだが、ヒーロー番組の「父性」を分かり易く言えばそういうことになるだろう。

一方「母性」のほうを、同じくWikipediaから引用すれば、こうなる。

「子供の欲求を受け止め満たして子供を包み込んでいくことを指す」
「善悪の分け隔てなくすべてを包み込む傾向のこと」


もしもヒーロー番組が宮内の言うように「教育番組」であるのなら、「父性」だけでは「教育」の半面しか伝えられないことも確かなことだ。子どもにとって「父性」と「母性」はいずれも必要不可欠なものであり、また、それらは往々にして相互補完的な関係にある。

前作『帰ってきたウルトラマン』で完全とも言える「父性型ヒーロー像」を提示してしまったウルトラシリーズが、並み居るライバル番組に打ち勝って視聴率をとるには、前作の焼き直しというわけにはいかなかったのだろう。さらにはヒーロー番組の王者として新境地を切り開くには、より完全なる「教育番組」の高みを目指すことも求められたことだろう。

かくして『ウルトラマンA』は、「父性(勇気)」と「母性(やさしさ)」が融合した、最強のヒーロー像を模索することになった。
と、ぼくは想像する。
しかし、そんなウルトラマンAが最終回で目にしたものは、全くもって彼の当初の意に反した、子どもたちの行為だった。

この回、ウルトラマンA=北斗星司は、地上に不時着したサイモン星人の子どもを、人間の子どもたちが寄ってたかってイジメている光景を目撃する。この子どもたちは、それぞれ大好きなウルトラ兄弟のお面をかぶり「ウルトラ兄弟でーす」と言う。北斗は
「ウルトラ兄弟は弱いものイジメはしない」
と叱り、子どもたちは反省する。が、実はこのサイモン星人は、かつてウルトラマンAに滅ぼされたヤプール人の変装だった。テレパシーを使ってそのことを知った北斗は、サイモン星人に化けたヤプール人を射殺するが、その様子を子どもたちに見られ、責められてしまう。そして
「もうやさしさなんか信じないぞ」
と言われるにいたり、ついに
「ぼくがやつのテレパシーがわかったのは、それはぼくがウルトラマンAだからだ」
と言って、子どもたちの目の前でウルトラマンAに変身する。
超獣を無事に倒したウルトラマンAだったが、ウルトラの掟によって、地球を後にすることになる。
このとき、ウルトラマンAが子どもたちに残した言葉が、上述の「やさしさを忘れないでくれ」だった・・・。


つまり『ウルトラマンA』は、その全52話をかけても、ついにこどもたちに「やさしさ」を伝えることが丸っきりできなかった。だから遺言のように、今更ながら具体的に言葉に発して訴えるしか手がなかった。
(中年特有の嫌味な見方をするならば)「名言」と言われる「エースの言葉」の正体は、実のところ負け犬の捨て台詞のようなものだったのだ。

という具合で、ぼくはウルトラマンAの「最後の言葉」は、彼の事実上の「敗北宣言」だったと考えている。
しかしそれは決してウルトラマンAが無能なウルトラマンだったからではない、とも考えている。『ウルトラマンA』はあの時代、すなわち1972年当時の日本社会の風潮にマッチした「教育番組」であろうとした。現実世界に生きている子どもたちにとって、良かれと思うことを貪欲に作中に取り込んでいった。
ところがその結果、『ウルトラマンA』は一種の自家中毒を起こしてしまった。
ぼくはそう考えている。


それでは『ウルトラマンA』は何を作品に取り込み、何に中毒し、何に敗れ去っていったのだろうか?
ウルトラマンAが子どもたちに伝えたかった「やさしさ」は、なぜ失われていたのだろう?

ぼくはその原因を、「戦後民主主義」と言われる当時の社会思潮にあったと思っている。

つづく

輝け!ウルトラ五兄弟  ~第二期ウルトラの幕開け

ウルトラ兄弟

一般的な分類としては、『ウルトラQ』から『ウルトラセブン』までを「第一期ウルトラ」といい、『帰ってきたウルトラマン』から『ウルトラマンレオ』までを「第二期ウルトラ」と言うそうだ。この区分けが、『セブン』から『新マン』の間に数年のブランクがあったことによるものであることは今更言うまでもない。

しかし実際に作品を見てみると、この線引きには単なる時間の断裂という以外に、ほとんど意味がないことが分かる。
作品の内容で見れば、『帰ってきたウルトラマン』が先輩である『ウルトラマン』『ウルトラセブン』の流れを完全に受け継いでいるのに対し、『ウルトラマンA』はそれらとは全く異なる世界観からスタートしている。それはもう、全く別の構想から始まった、全く別のテレビシリーズのスタートと言っても過言ではないくらいの違いだ。
だから「第二期ウルトラ」は、『ウルトラマンA』を中興の祖とする、というのがぼくの見方だ。

簡単に説明すると、『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』におけるM78星雲人は、人間への友情をベースに、人間の人間による人間のための自衛の戦いに、協力・助力をする者だった。彼らはできる限り人間として戦いに参加し、やむにやまれぬ状況に陥った時はじめて、ウルトラマンとしての力を使った。そこには、人間の平和は人間自身の手で掴み取らなくてはならない、というメッセージが込められていた。
強引にまとめてしまえば、異星人どうしに芽生えた友情と、人間の自立が、前3作のテーマだった。

では『ウルトラマンA』はどうか?

第1話「輝け!ウルトラ五兄弟」は、超獣ベロクロンが突然現れて、広島県福山市を襲撃する場面から始まる。異次元人ヤプールによる地球侵略の幕開けだ。地球防衛軍がこれを迎え撃つが、あっさりと全滅。主人公の北斗星司と南夕子もベロクロンに襲われて死んでしまう。

すると宇宙からウルトラ5兄弟が現れて、中央に陣取るウルトラマンAが二人に指輪を与えた上で、こういう。
「銀河連邦の一員たるを示すウルトラリングを今おまえたちに与えた。そのリングの光る時、おまえたちは私の与えた大いなる力を知るだろう」
ウルトラマンAの力で生き返った北斗と夕子は、全滅した地球防衛軍に代わって新しく組織された防衛チーム、TACに入隊するのだった・・・。


以上はごく簡単なあらすじだが、『ウルトラマンA』が前3作と全く異なる世界観に基づく作品であることは、容易に理解されたことと思う。

まず、この世界には「善」であるウルトラ兄弟と「悪」であるヤプールの間の戦いの構図が、先行して存在する。で、そのヤプールが今度は地球を狙ってきた。だから、ウルトラマンAも地球にやってきた。
つまり、前3作では「善意の第三者」であったウルトラマンは今作では「当事者」であり、これまでは「当事者」だった地球の人間のほうが「善意の第三者」に置かれた。ここには、M78星雲人と地球人の友情、というような概念は最初から存在しない。ウルトラマンはウルトラマン、人間どもは人間ども、と明確に区分されている。

さらに、ウルトラマンAにとって重要なことはヤプールを全滅させることであって、地球の人間を守ることではない、という点も見逃せない。現れたヤプールを倒すためにウルトラマンAは現れ、それが結果的に地球の人間を守ったように見える、というのが『ウルトラマンA』の戦いだ。
これが前3作と全く違うというのは、初代ウルトラマンやウルトラセブンにはなかった「正義の御旗」を、ウルトラマンAは掲げているというところにある。言ってみれば、ウルトラマンAから見れば、地球なんぞは彼らの聖なる戦いの戦場でしかない。

だからウルトラマンAは、一貫して地球の人間を「保護」してしまう。
ヤプールさえ滅びればウルトラマンAの目的は達成されるんだから、別に地球の人間が「自立」しようがしまいが、ウルトラマンAにとっては関係ない話というわけだ(そのせいか、今作の防衛チームTACは、ちょっと機体に火がつくとすぐに脱出して戦線を放棄してしまう)。

という具合で、とにかく『ウルトラマンA』と前3作では、共通点を見つけるほうが困難なほど、その本質が全く異なる。『ウルトラマンA』を『帰ってきたウルトラマン』の続編だというのは、『キャプテン・ウルトラ』を「ウルトラシリーズ」だと言い張るくらい無理があるようにさえ思える。


と言っても、その世界観の違いをあげることで、ぼくが『ウルトラマンA』を非難しているということではない。『帰ってきたウルトラマン』は金城的ウルトラ世界の完成形で、もはやその続編を作ることは、しつこい焼き直しにしかならないだろう。『ウルトラマンA』が根本から設定を練り直すのは必然的な作業だ。

問題は、その新しい設定には、元々の無理があったのではないかということだ。
上述したように『ウルトラマンA』の世界観には、ウルトラはウルトラ、人間は人間、という分離がはじめから存在した。ウルトラは、「大いなる力」を人間に「与え」る存在だった。
ところが『ウルトラマンA』の売り物の一つは、男女の合体による変身だった。人間の男女が合体することで「性差を超えた超人」が出現する、ということになっていた。

人間とウルトラは分離しているのに、人間の男女が合体するとウルトラになる・・・。
これは明らかな無理であり、完全に矛盾した設定だといえるだろう。

また、『ウルトラマンA』では、「ウルトラ兄弟」という集団の存在が、その第1話から前面に押し出された。第27話からは「ウルトラの父」までが登場してくることになる。
しかし、立ち返ればどこまで行ってもウルトラはウルトラ、人間は人間、と言うのが『ウルトラマンA』の世界だ。果たしてそこに、ぼくら人間の子どもたちに伝えられる何かは、存在するものなのだろうか?

つづく

『ウルトラマンA』とキリスト教

Amazon

※本題とは関係ない話だが、先に書いておきたいので。


『ウルトラマンA』は、メインライターの市川森一がクリスチャンであることから、しばしばキリスト教的な世界観との関係が取り沙汰されるようだ。
ぼくが目にした範囲では、「ゴルゴタの丘」が出てくるとか、天使と悪魔の戦いだとか、北斗と夕子の合体変身にはアダムとイブが重ねられているとか、そんな話が根拠になっているらしい。

が、それはとんだ勘違いだ、と断言していいと思う。
なぜなら、市川森一がクリスチャンだからだ(笑。

クリスチャンにとっては「聖書」は絶対のものだ。「神」と呼んでいいのはGodとイエスだけで、他にはないはずだ。ならば、ウルトラマンのように中に人が入っている着ぐるみを「神」扱いすることは、Godの冒涜でしかない。
また、彼らにとってはアダムとイブは歴史上に「実在した」人類の始祖であって、日本神話のイザナギ・イザナミとは訳が違う。ましてや日本人のパン屋と看護師をアダムとイブに例えるなど、絶句以外の何ものでもないだろう。
「ゴルゴタの丘」だって、着ぐるみが張り付けられていいような場所ではない。

あるいは最終回の「エースの言葉」に見られるという「博愛主義」。
これもキリスト教的にはおかしな話だろう。クリスチャンが隣人愛を示すのはクリスチャンにであって、異教徒にではない。だからクリスチャンは過去の歴史で何度となく異教徒を皆殺しにできた。クリスチャンにとっては、異教徒は「隣人」ではないからだ。
だからキリスト教的な観点からすれば、異教徒である日本人の子どもに隣人愛や博愛精神を説くような必要はどこにもない。

それに、そもそもクリスチャンから見れば、M78星雲のウルトラマンだって、彼らが信じるGodが創ったものだ。そんなもんが「銀河連邦」を語り「大いなる力」を人間に与えるなど、抱腹絶倒のジョークだろう。バベルの塔や、ソドムとゴモラを思い出していただきたいところだ。

だから欧米圏には「神」のイメージに繋がりかねない巨大ヒーローはいない。
それはスーパーマンとウルトラマンの違いを見れば明白なことだ。スーパーマンは、基本的には「人間」だ。空を飛べるくらいなら、ピーターパンと同じ妄想の世界の住人ということで話は片付く。


まとめてしまえば、『ウルトラマンA』にキリスト教を見るなんて暴挙は、宗教音痴な日本人ならではの発想だということだ。本当の宗教はもっと厳格で、真剣で、恐ろしい存在だ。

※キリスト教について詳しく知りたい方は、上掲の本をどうぞ(ただし、ウルトラマンの話題はありません)。

関連記事:ウルトラマンと宗教

ウルトラマンA 男女合体変身その1

男女合体変身

『ウルトラマンA』で打ち出された新機軸といわれる要素は3点。
・男女合体変身
・ウルトラファミリー
・ヤプール人という組織的侵略者

まずはこのうちの「男女合体変身」から見ていきたい。


前回の記事でぼくは、『ウルトラマンA』は「戦後民主主義」と呼ばれる思潮を積極的に取り入れていった結果、自家中毒をおこして敗北に至った、と書いた。
それでは「戦後民主主義」とは何かというと、その名の通り「戦後」の日本に広められた民主主義を指し、戦前の「大正デモクラシー」と対をなす。「日本国憲法」「教育基本法」が根幹にあり、国民主権、平和主義、人権主義を三本柱とする。
と、Wikipediaには書いてある。

簡単に言えば、とにかく何が何でも「個人」が重要だ、とする思潮だ。個人の自由と権利は、何ものにも代え難い最高の価値だ、とする考え方だ。
となれば、ここから次に派生してくる「主義」は簡単に想像がつく。
平等主義、特に、男女の平等だ。

当時まだ幼児だったぼくには知る由もないことだが、ぼくが生まれた1967年頃は、日本にはまだ「男女平等」という意識は乏しかったらしい。それが現在のような意識に変わったきっかけは、1960年代後半の「ウーマンリブ運動」だった。

ウーマンリブ運動_Wikipedia

つまり『ウルトラマンA』の放送が始まった1971年ごろと言うのは、まさにこのウーマンリブ運動まっさかりの時代だったということだ。実際、同じ頃に円谷プロが制作した『トリプルファイター』という特撮番組も、3人のヒーローのうち1人は女の子だった。

『ウルトラマンA』や『トリプルファイター』が、急速に社会に広まりつつあるこの「最新の」思想を取り入れたことは間違いないだろう。男女平等の意識もないところに、女性がヒーローの一角を占める番組を作ったところで受け容れられるわけがないからだ。

※以上、中年には当たり前の知識だが、もしかしたら若い人もこの記事を読むかもしれないと思い、老婆心ながら説明した。

さて、こうして男女平等の社会風潮を背景に、北斗星司と南夕子による男女合体変身を売り物にしてスタートした『ウルトラマンA』だが、それが単に目先の新しさだけを追ったものではないことはすでに見てきたとおり。
そこにはヒーローが子どもたちに示すべきものは、勇気や強さだけではなく、やさしさも必要だ、という主張があった。これを児童教育の側面から捉えれば「父性」と「母性」と言い換えることができるだろう。

『ウルトラマンA』はこの両面を同時に具有することで、全く新しいヒーロー像を目指したのではないか、というのが前回までの話の流れだ。


ということは、逆に考えれば、これまでのウルトラマンたちは父性一辺倒で、母性を示してはいなかった、ということになるが、果たしてそれは正しい評価だったのだろうか?

高田明典という先生は『アニメの醒めない魔法』(PHP/1995年)という本のなかで「ウルトラマンは、子供の内に存在する原始的衝動(=怪獣)を抑える規範そのもの」と書いている。
子どもはまず、ビルや家屋を破壊する怪獣に自己を投影して興奮するが、やがて「こんなことをしていては叱られる」と葛藤する。そこへウルトラマンが現れると、今度は子どもはウルトラマンに自己を投影をするようになり、葛藤は解消する。そのときウルトラマンは、子どもにとって「超自我」として機能している、ということらしい。

この説明は大変分かりやすい。
ウルトラマンは、泣きわめいたり駄々をこねて暴れる子ども(怪獣)に、禁止事項を教える存在だということだ。

が、問題なのは、このときウルトラマンは「直接には」子どもたちに父性を示しているわけではない、ということだ。ウルトラマンが父性を示しているのは怪獣に対してであって、人間の子どもたちはそれを間接的に受け取るしかない。
しかし、人間にとっては巨大で手に負えない怪獣どもも、ウルトラマンにとっては巨大でも強大でもない。完全武装したプロのコマンドが、熊やら大蛇やらを退治しにいくくらいの危険度だろう。
だからウルトラマンの戦闘自体から、子どもが学べることはほとんどない。

つまりウルトラマンは、実際には子どもたちに「父性」を示しているとは言い難い。
ウルトラマンは禁止事項を教えるだけで、子どもを社会化したり、理想を示したりする効果はない。
それができるのは、ハヤタでありモロボシダンであり郷秀樹といった変身前の人間の姿だ。彼らがウルトラマンになるまでの過程にこそ、子どもたちが学ぶべき父性が存在する。

ところが、ここでウルトラマンの行動について改めて考え直したとき、面白い事実が見つかる。
それは、ウルトラマンは人間の善悪を問わず、全てを救済する、という点だ。
たとえば「まぼろしの雪山」では、村民が雪ん子を虐めたからウーが出た。しかしウルトラマンは村民に、おまえらが悪いから自業自得だ、とは言わない。
たとえば「恐怖のルート87」では、子どもをひき逃げしたクルマに怒ってヒドラが出た。しかしウルトラマンは犯人を捕まえて、ヒドラに引き渡したりはしない。

こんなのは一例で、ウルトラマンはいかなる場合であっても、人間の善悪や賢愚は問題にしない。
どんな場合でも、そこにいる全ての人間を助けようとする。
ここでもう一度Wikipediaから引用すると、父性は「善と悪を区別して指導する傾向」とあり、母性は「善悪の分け隔てなくすべてを包み込む傾向のこと」とある。

ならば、ウルトラマン自身が人間に対して示すもの。
それは「母性」だ。


半分以上前置きで終わったが、つづく



この1年でゴジラやウルトラに関する本を50冊ほど読んだのだが、そのうち「こりゃスゲー」と感動した本は

・「怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち」(切通理作)
・「ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義」(佐藤健志)
・「アニメの醒めない魔法」(高田明典)

の3冊。上から、作家論、構造分析、児童心理学の本。

しかし、いずれも絶版で古本でしか手に入らないとは・・・。
しかも全部10年以上前の本だ・・・。


ウルトラマンA 男女合体変身その2 ~さようなら夕子よ、月の妹よ 

夕子

前回の続き

ウルトラマンが人間に示すものは「母性」。ウルトラマンの「父性」は怪獣に対して示される・・・。
そうだとすると、話は急にややこしくなってくる。

『ウルトラマンA』では、男性の北斗星司と女性の南夕子が合体して変身することで、父性と母性を兼ね備えた新時代のヒーローを表すはずだった。
整理すれば、父性+母性=ウルトラマンA、であり、北斗+夕子=ウルトラマンA、のはずだった。

ところが実際には、ウルトラマンは人間の子どもに父性を示すことはなく、それは変身前の北斗が担うものだった。北斗の父性と、ウルトラマンの母性が合わさって、ウルトラマンAになる。

・・・じゃあ、夕子はどうなるんだ?
夕子が人間への母性を示すことは、ウルトラマンのもつ母性と重複してしまうことになる。
そしてその一方で、夕子の母性との合体がなければウルトラマンAになれない北斗がいる。

かくして、まるでポッカリと空いた空間を埋めるように、南夕子の母性は北斗星司にだけ向かうことになる。それ以外に夕子に与えられた母性を発揮する場所はなかった。

そういった状況が究極の形で現れているのが、第20話「青春の星 ふたりの星」だ。
この回、北斗は休暇をとって個人的に不審な船舶の調査をしている。そこに超獣が現れる。これまでのウルトラマンだったら迷うことなく変身して、近隣の人々を守ろうとしただろう。しかし、北斗は現場にいるのに何もできない。そこへようやくTACの航空隊がやってくる。夕子は「星司さんが危ない」と乗っているタックアローで超獣に接近し、(故意に)海に落とされる。そしてようやく海中で合体変身にこぎつけることができた・・・。

はっきり言えば、『ウルトラマンA』はこのパターンの繰り返しだった。
最前線で戦う北斗は一刻も早くウルトラマンAになりたい。だが、そこに夕子はいない。ひたすら夕子の到着を待ち、ますますピンチに陥る北斗。
一方、夕子の方も早く北斗を変身させたい。もう頭の中はそのことで一杯で、北斗以外は目に入らない。だからいかにこの夕子の突撃が勇敢な行いであっても、そこには北斗への母性しか存在せず、視聴者の子どもたちに示すべき父性はない。
もちろん、夕子を待つだけの北斗にも、父性はない。

結局、最終的に北斗星司が父性を発揮できるためには、南夕子がウルトラマンAであることを辞める以外にはなかったわけだが、その別れ際の会話には男女合体変身の矛盾が完全に表れている。

第28話「さようなら夕子よ、月の妹よ」。
実は夕子は、かつて超獣ルナチクスにふるさとを廃墟にされた、月の住人の末裔だった。そして今、そのルナチクスをウルトラマンAは倒した。夕子はふるさとの再建のため、仲間の元に帰らなくてはならない。
夕子は、指にはめられたウルトラマンAの証し、ウルトラリングを抜いて北斗に渡す。

「これからは、あなた一人でウルトラマンAになるのよ」(夕子)
「おれ一人でウルトラマンAになれるだろうか?」(北斗)
「なれるわ」(夕子)

ここには、ウルトラマンAが出現するか否かの主導権は、実は夕子のほうが握っていたことがハッキリと見て取れる。
北斗はただ待っているだけで、そこに夕子が命がけで駆けつけてくる。かつてハヤタが、モロボシダンが、郷秀樹が子どもたちに示した勇気や強さは、『ウルトラマンA』では実は南夕子が示していたというわけだ。

ただし、夕子の勇気や強さがハヤタら先輩たちと違う点は、それが北斗星司ただ一人を助けたいがための勇気であり強さだった、ということだ。
残念ながら、それは父性ではない。そこには子どもたちが普遍的に学び取れる規範はない。


こうして、当時の最新の思潮である「男女平等」を取り入れた『ウルトラマンA』の第一の新機軸、男女合体変身は破綻した。もちろん、男女平等という考え方自体が悪いというわけではない。
ただ、『ウルトラマンA』においては、それは規範たるべき主人公から父性を奪い取る結果になった、というだけだ。

しかし実のところ、『ウルトラマンA』で父性を奪われたのは北斗星司だけではなかった。
それどころか、歴代ウルトラマンたちが示してきた地球人類への「母性」さえ、ウルトラマンAからは消失してしまったのだ。

つづく 

死刑!ウルトラ5兄弟 〜絶対悪=侵略者ヤプール

4兄弟の磔

『ウルトラマンA』が、前作『帰ってきたウルトラマン』までとは、全く異なる世界観から成る作品であることはすでに書いたとおりだが、重要なことなので、ここでもう一度繰り返したい(これがブログの面倒なところ)。

まず初代のウルトラマン。
あるとき彼は全くの偶然で、地球人ハヤタを殺害してしまった。すでに2万年も生きている彼は、光の国から代わりの「いのち」が届くまでのわずかな間、ハヤタに自分の命を貸してやることを思いついた。続いて彼は、ハヤタの死体に残留する思念を読んだ。すると、どうやらハヤタは地球の平和を守るために働く青年だと分かった。幸い、自分も同じような仕事をしている。では、二人で協力して、君(ハヤタ)の願いを叶えようじゃないか。
こうして『ウルトラマン』の物語はスタートした。

続いてウルトラセブン。
仕事の関係か、ただの寄り道かは不明だが、あるとき地球を訪れたウルトラセブンは、この美しい天体がとても好きになった。ところがこの惑星は、凶悪な侵略者、クール星人に狙われているじゃないか。セブンは薩摩次郎の姿を借りるとウルトラ警備隊に近づき、危険を忠告する。このとき結果的に隊員を助けることになったセブンは、請われてウルトラ警備隊の隊員となり、大好きな地球と警備隊の友人たちのために働くようになったのだった。

が、そんな彼らは、ゾフィーやセブン上司に「地球の平和は地球人の手で守るべきだ」と促されると、後ろ髪を引かれるような思いを残してM78星雲に帰って行った。

ところがそれからしばらく経つと、かつて「自分の手で守る」と誓ったはずの日本人が、MATチームを解散させ、国防を他人に頼ろうとしている雰囲気があることが分かった。そこで、新ウルトラマンは日本にやってくると、MAT存続と日本人の自立のために働いた。しかし、バット星人によるウルトラの星侵略作戦が始まったため、やむなくM78星雲に帰還することとなった。

この3人のウルトラマンの立場は明確で、彼らはいつでも人間の手助けをする者だった。その根底にあるものは人間への限りない友情の心で、彼らはできる限り人間の姿で怪獣や宇宙人と戦い、ウルトラマンの力を使うのは本当に事態が悪化してからだった。
そしてウルトラマンたちは人間の賢愚や善悪は問わず、そこにいる全ての人を救済しようとした。これは言い換えると、ウルトラマンは地球と人類に「母性」を示している、ということだった。

こんなところが前3作の概略なわけだが、要点としては、彼らは一様に人間に助力・協力をする存在だということと、彼らは地球と人間に「母性」を与えていたという2点になるだろう。

しかしすでに見たとおり『ウルトラマンA』にとっては、地球は彼とヤプールの戦いの「戦場」でしかなかった。
それは、そもそもの彼の地球来訪のきっかけが、地球にヤプールが侵略をかけたことにあったからだ。もしヤプールが地球を狙わなかったら、ウルトラマンAが地球にやってくることはなかった。

つまり、まず「悪」ありき。
「絶対悪」ヤプールがあって、それを追うように「正義」が誕生した。ウルトラマンAは、ウルトラ史上初めて、「正義」のために「悪」と戦うウルトラマンだった、ということだ。

そんなウルトラマンAが、他のウルトラマンと全く違うウルトラマンであることを更にハッキリと表しているのが次のエピソードだ。

『ウルトラマンA』第13話「死刑!ウルトラ5兄弟」。
このエピソードは、「兄弟愛」をテーマにした作品だ。
新聞配達の少年が、突然現れた超獣バラバに襲われる。少年はそのとき弟と一緒だったが、弟をかばって自分だけが殺される。弟は兄を殺した超獣に復讐を誓う・・・。
こうした伏線が張られた上で、今度はウルトラ兄弟の兄弟愛に話は進んでいく。

パトロール中の北斗と夕子のウルトラリングがふいに光り、天空に「ゴルゴダ星に集まれ」というウルトラサインがあがる。二人はその場でウルトラマンAに変身して、ゴルゴダ星に向かう。するとそこには、他のウルトラ兄弟たちも集まっていたが、誰も呼び出しサインを発した覚えはないという。
それもそのはずで、このサインはヤプールが仕掛けた罠だった。ヤプールはウルトラ兄弟をゴルゴダ星に集めた上で、東京をバラバに襲わせる。泡を食って地球に戻ろうとするウルトラマンAだったが、ウルトラ一族が苦手とする冷気を浴びせられて、急激にエネルギーを消耗してしまう。
このときの、初代ウルトラマンとウルトラマンAの会話はこうだ。

「お前に兄さんたちのエネルギーを分けてやろう」(初代マン)
「いやいけない。そんなことをしたら、兄さんたちが死んでしまう」(A)
「A、お前の使命は地球を守ることだ。行くんだ、A」(初代)
「いやです」(A)
※ここで初代ウルトラマンがウルトラマンAをぶん殴る。
「聞くんだ、A。このままではウルトラ兄弟はここで死ぬ。だがA。お前は死ぬには余りにも若過ぎる。生きるんだA。兄さんたちのぶんまで活躍できるのは、お前だけなのだ」(初代)

こうしてウルトラマンAは兄たちに説得され、そのエネルギーをもらって地球に戻り、超獣バラバと戦う。しかしその途中でヤプールは、エネルギーを失ってゴルゴダ星で磔にされている4兄弟たちの映像を空中に投影する。そしてバラバの邪魔をしたら4兄弟を殺す、と脅迫する。結局ウルトラマンAは戦いを躊躇してしまい、バラバに敗れ去る・・・。


ウルトラマンAが地球と人間に対して、兄たちのような自然な母性を持っていなかったことは明らかだ。ウルトラマンAにとって地球は、彼の「正義」を発揮するための戦場でしかないんだから当然だった。ウルトラマンAが地球を守る動機は、それが彼の「使命」だったからに過ぎない、というわけだ。

その結果、ウルトラマンAは地球と兄弟を天秤にかけたとき、迷うことなく兄弟を選んだ。
当時幼稚園児だったぼくは、この後のウルトラ兄弟の磔シーンより、このときのウルトラマンAの選択にショックを受けたような記憶がある(神童だったもんで)。本当にウルトラマンAは「正義」なのか、友達の神童連中と熱く語り合ったような思い出がある。

が、冴えない中年になった今は、大声で断言できる。
ウルトラマンAは紛れもない「正義」だと。
それはウルトラマンAが、ヤプールという「絶対悪」と戦ったからだ。「悪」と戦う者は「正義」に決まっているのだ。

というわけで、この件についてはいずれ延々と長話をする予定だが、今はこの辺で置いておきたい。

それよりも今は、『ウルトラマンA』が迷い込んだ茨の城、「戦後民主主義」との関わりを先に検討するべきだろう。それは、上記「死刑!ウルトラ5兄弟」の後編、第14話「銀河に散った5つの星」の劇中に、TAC隊長、竜五郎の言動として現れる。

つづく

銀河に散った5つの星 ~謹慎TAC・脱出TAC

右フックでいってらっしゃい

戦後民主主義」とは、Wikipediaによれば「大正デモクラシー」の対比語ということになるらしい。いずれも「民主主義」ではあるが、その性質は180度異なるというわけだ。
その最たるものが、戦後民主主義では、とにかく「個人」が大切だ、という点だろう。
戦前は、個人の自由や権利が極度に抑圧された。個人はもっと解放されなくてはならない。と。

やがて、個人の自由や権利は学校や家庭でも叫ばれるようになり、父親像や教員像も変化した。
家父長的なカミナリ親父は抑圧的で差別的だと否定され、物わかりのいいフレンドリーな父親や先生が求められた。子どもにも人権はあるのだ。大人と子どもは(ある程度までは)平等でなくてはならない。

特に出典はないのだが、経験的に70年代はそんな時代だったように思う。

そして、新時代のウルトラを目指した『ウルトラマンA』は、モロにそんな風潮を取り入れた。
それまで典型的なカミナリオヤジだった防衛チームの隊長は、物わかりのいいフレンドリーな隊長に姿を変えた。それが「竜五郎(りゅう ごろう)」だ。
その人となりは、次のエピソードに顕著に表れている。


第14話「銀河に散った5つの星
ウルトラ4兄弟をゴルゴダ星で磔にし、Aを倒したヤプールは地球人に降伏するよう迫ってくる。
その頃日本のTAC基地に、南太平洋上のTAC国際本部から高倉司令官が到着する。司令官はゴルゴダ星を爆破するための、超光速ミサイルの設計図を持参していた。作中では何も説明されないが、おそらくゴルゴダ星が地球に接近することは地球に多大な被害を及ぼすのだろう。しかし北斗は当然、ウルトラ4兄弟をも殺すことになるからと反対する。
これに対し司令官は
「今はなによりも地球の危機を救うことが先決だ」
と言って、ミサイルの製造を急がせる。

このミサイルは2段式有人ミサイルで、途中までは人間が操縦するものだった。そして司令官は、完成したミサイルのパイロットに北斗を指名する。それはTACのコンピュータが、TAC内でもっとも有能な人間を北斗だと計算したからだ。北斗はどうせウルトラ兄弟を殺すなら自分がやるべきだと考え、ミサイルに乗り込み、出発する。しかしここでアクシデントが発生。有人部分の第一ロケットが切り離せないことが発覚する。
このあとの高倉司令官と竜TAC隊長のやりとりはこうだ。

「残念ながら思わぬ事故が起こったようだ。しかしながら予定は変更できない。そのままスピードを超光速に切りかえてゴルゴダ星に突入してくれ」(高倉)
「北斗、その必要はない。ミサイルの方向を変えて、ただちに地球に帰還せよ」(竜)
「竜! 何を勝手なことを!」(高倉)
「計画の指揮官はあなただが、TAC隊員の命を預かっているのはこの私です。これから先は私が指揮を執る」(竜)
「君は! 本部の規律にそむく者は、たとえTACの隊長といえどもただではすまんぞ」(高倉)
「本部の計画はすでに失敗した。責任をとるべきはあなただ。あの欠陥ミサイルの設計図を持って早く本部にお帰りなさい」(竜)
「竜! 作戦は変更しない。北斗隊員、司令官命令だ。そのままゴルゴダ星に突入せよ!」(高倉)
ここでついに竜隊長の怒りの右フックが炸裂する。司令官はみっともなく床に転がる。
そのとき超獣出現の連絡が入った。竜隊長は「ようし、みんな出撃だ」とさっそうと飛び出していく・・・。


言うまでもないが、ゴルゴダ星の接近によって生じる地球の危機はまだ回避されていない。
しかし竜隊長は、何よりも尊重されるべき、北斗の自由と権利を守った。いいじゃないか、個人の自由と権利が守れるのなら、地球の一つや二つ、宇宙から消えたって・・・。

そして、こんな隊長が指揮するTACというチームは、実に「民主的」な集団だった。パーティーを開いてみたり、みんなで歌を歌ったり、和気あいあいとやっていた。
そして何よりも、TACでは自由な発言が尊重された。

例えば、北斗がいつものようにトンでもないミスを犯す。うなだれて帰隊する北斗を、真っ先に怒鳴りつけるのは(隊長ではなく)山中隊員だ。それを聞いた吉村隊員が「そうだそうだ」と言えば、美川隊員が責めるような目つきで北斗をにらみ、今野隊員が「南無阿弥陀仏」と茶化す。すると、オロオロする夕子を見かねたように、ようやく竜隊長が「まあまあ」となだめに入る。

・・・まるで小学校の学級会だ。面白いので、もう少し続けてみよう。

第3話「燃えろ!超獣地獄」には、こんなやりとりもあった。
パトロール中の夕子は、空が割れて超獣バキシムが姿を見せたのを目撃し、本部に連絡する。半信半疑の隊員たちだったが、竜隊長は言う。
「北斗からの報告にも、空が割れるというのがあった、単なる幻とは、どうしても思えないんだ」
すると山中隊員が即座に言う。
「隊長、私はそうは思いませんね。大体、空が割れるなんてこと、あるわけないでしょ」

こんなのはどうだろう?
第7話「怪獣対超獣対宇宙人」。
地球侵略を狙うメトロン星人は、山中隊員の婚約者マヤを殺すと、その体に乗り移った。マヤの正体を見破った北斗は、そのことを他の隊員たちに伝えるが、今野隊員が怒り出す。
「悪い冗談はやめろ! おまえ、山中隊員がどんな思いをしてあの炎の中から彼女を救い出したか、わかってんのか? 九死に一生を得て、やっとの思いで助け出された彼女をつかまえて、宇宙人とは・・・宇宙人とは何だ!」

この今野という隊員は、たしか『帰ってきたウルトラマン』ではコーヒーショップの店員か何かで出演していたと思うが、そのままコーヒーを沸かしていたほうが日本のためだっただろう。
科特隊、ウルトラ警備隊はむろんのこと、何かと解散を迫られるMATであっても、隊員たちは私情は殺し、公私混同は避けてきた。が、このときの今野隊員の発言が、TAC隊員今野のものではなく、私人今野のものであることは明らかだ。TACという組織は、「公」であるはずの基地内部で、平気で私的な感情を元にした議論が行われる場所だった、という一例だ。


このように個人の自由や権利を尊重し、メンバー間の平等を重んじるTACというチーム。
しかしその本質は、実は早くも第2話「大超獣を超えてゆけ!」に現れていた。
この回、超獣カメレキングに手を焼いた竜隊長は、カメレキングに極限まで接近したうえで、その舌を直接攻撃する「決死のワンポイント作戦」を発案する。そして、自らがその危険な任務を行うと言い出す。
「危険です!隊長」
と、いったんは制止する隊員たち(※北斗と夕子はそこにはいない)だったが、隊長の
「危険だから、私がやるんだ」
の言葉に、ビシッと最敬礼をすると
「ご成功を祈ります!」
だってさ。

もう、笑うしかないだろう。要するに、それによって軍の命ともいえる指揮系統を失おうが、TAC隊員にはどうでもいいことなのだ。隊長も、おれら下っ端も、一個の命の重さや、個人の自由や権利の量は同じだ。だったら誰がやったっていいじゃないか。それが平等というものだろう。
全く理解に苦しむところだが、彼らはそんな風に考えているのだろう。

・・・いや、竜五郎隊長自身、彼ら隊員たちと同じように考えていたフシがある。
そしてそれは、光の国の最高司令官、ウルトラの父も同様だった。

つづく

奇跡!ウルトラの父 〜ウルトラマンの父性

ふたりの「父」

北斗星司が、視聴者の子どもたちに「父性」を示せていない状況は、これまで見てきたとおりだ。
しかし作品中で「父性」を示すのは、何も主人公に限る必要はない。隊長でもいいし、隊員でもいいし、街の普通の人たちでもいい。女性が示すのも大いに結構だ。
要は、子どもたちに「こう生きよ」という人生の普遍的な規範となるものを示せばいい。

そして、ここに登場してくるのが、光の国の最高司令官、ウルトラの父だ。
なにしろ、ウルトラファミリーの頂点にいる人だ。きっとその父性もウルトラ級に違いない。
そしてTACチームの「父」とも言える、竜五郎隊長が主役を張る。
物語は、侵略宇宙人によって実の「父」を殺されたヒロシ少年を中心して進んでいく。彼らふたりの「父」は、果たしてヒロシ少年に何を伝えることができるのか。

ということを念頭に、以下の(長い)あらすじをどうぞ。


第26話「全滅!ウルトラ5兄弟」、第27話「奇跡!ウルトラの父」。
東京に突然ヒッポリト星人が現れ「ウルトラマンAを引き渡せ」と言って暴れまくる。すぐTACが攻撃に向かうが、ヒッポリト星人の体はミサイルやビームを素通ししてしまい、効果がない。ヒッポリトは高笑いで手に持ったウルトラマンAの人形の首をへし折ると、虚空に消える。
星人を探してパトロールを続けた北斗と夕子は、山中で炎上している車を発見する。そこにはヒロシ少年の父が瀕死の状態で倒れていた。彼は、さっきまでそこにいた星人にぶつかったと言って息絶える。そのそばには、彼がヒロシにプレゼントしようとしたウルトラマンAの人形が、首を折られた状態で転がっていた。

北斗と竜隊長は新品のA人形を買ってヒロシの父の葬儀に出向く。ヒロシは人形を受け取るとそれを投げ捨てて「Aを早く星人に渡しちまえばいいんだ。そうすれば星人はおとなしくなるのに」と言う。
再び星人が現れる。変身したウルトラマンAはヒロシの父が死んだ山中に飛ぶ。そこにはヒッポリト星人の本体がいた。東京に現れた星人は幻影だったのだ。すぐにウルトラマンAと星人の戦いが始まった。しかしウルトラマンAは隙をつかれ、カプセルの中に閉じ込められてしまう。するとそこにウルトラ4兄弟が救援に来るが、彼らも同様にカプセルに閉じ込められ、ついには全員ブロンズ像にされてしまう。

いったん本部に引き上げようとするTACのクルマを市民が取り囲む。彼らは言う。
「星人を攻撃するのはやめろ。俺たちの町が焼かれるのはもういやだ。地球を渡すことと我々が奴隷になることは別のことだ」
ヒロシも竜隊長に言う。
「TACが星人と戦ったからいけないんだ。星人の言うことを最初から聞いておけば、父ちゃんもAも死ななくてすんだんだよ」
これを聞いた竜隊長はヒロシにこう言う。
「ヒロシくん、誰かが君の大切にしているものを黙って持って行こうとしたら、君は怒るだろう? いま、星人は、人間たちの宝物である地球を黙って自分の物にしようとしているんだ。私たちは、怒らなければいけない」

TACはヒッポリト星人攻撃用に「携帯用細胞破壊ミサイル」を開発するが、エネルギーが半分しか入っておらず、そのぶん星人に接近する必要があることがわかる。この危険な任務は竜隊長の決定により、竜自身が行うことになった。隊員たちに命じた陽動作戦も成功し、星人に接近した竜は見事にミサイルを命中させる。しかし効果はなく、竜はたちまちピンチに陥る。

するとそこにウルトラの父が現れる。しかし、長い旅のあいだにエネルギーを使い果たしてしまったウルトラの父は、ヒッポリト星人に敵わない。ウルトラの父は全てのエネルギーをウルトラマンAに与え、自分は死ぬ。エネルギーの回復したウルトラマンAは星人を倒し、兄弟たちをブロンズ像状態から救出する。兄弟たちは父の亡がらをM78星雲に運んでいくのだった・・・。


くどくどとした説明は不要だろう。
今回、竜隊長はおろか、ウルトラの父でさえ、ヒロシ少年に与えられるべき父性は何も示せていない。竜隊長は、隊員たちの命を守るために彼らには安全な陽動作戦を命じ、自らが危険な任務についた。ウルトラの父も、「息子」たちを助けるために自分の命を犠牲にして駆けつけた。
どちらの「父」も、そこに示したのは「身内を守る」ための母性だった。実父を失った悲しみに暮れるヒロシに、彼らが与えたメッセージは何もなかった。ヒロシにはもう父がいないという現実を、改めて突きつけ直しただけのことだった。

理由は簡単だ。
それは、竜五郎とウルトラの父が、この時代に求められた、物わかりのいいフレンドリーな父親像から導き出されたキャラクターだからだ。それは、ヒッポリト星人の言うとおりにウルトラマンAを引き渡せ、と言ってTACのクルマを取り囲んだ市民と同じ姿だ。彼ら市民も、自分の身内の安全だけを求めてきた。それに応えるように、竜五郎もウルトラの父も、自分の身内の安全を第一に行動した。全員、同じ穴のムジナだった。

だから、ヒロシの心は何も変わることがない。ヒロシはいつか成長し、大人になり、星人の言うとおりにしろ!と喚きながらTACのクルマを取り囲む新たな一人になるだろう。


ぼくに言わせれば、ウルトラシリーズではこの「奇跡!ウルトラの父」ほど救いのないエピソードはないと思う。これに比べたら「故郷は地球」や「怪獣使いと少年」など可愛いもんだ。
『帰ってきたウルトラマン』では、郷秀樹の父性が幼い次郎くんを導いていくという、強烈な父性の移転が予感された。しかしこのエピソードはまるで反対だ。父性なき大人たちの再生産が、今まさに目の前で完成したのだ。そして究極の「父」までが登場した今、もはやヒロシを救えるものはどこにもいない・・・。


・・・ど、どうして、こんなことになってしまったのか・・・、と頭を抱えるような人は、こんな長文ばかりの頭のイカレたブログを平気で読むような人にはいないだろう。
個人の自由や権利を追求することと、規範や倫理を示す父性とが、そもそも最初から相容れない存在だなんて、分かりきったことだからだ。

例えば、個人の自由だと称して国歌斉唱で起立しない教員がいたとしよう。この教員のクラスの子どもたちは、個人の自由だとして授業中にケータイを使い、早弁したり昼寝をしたり、自由に過ごせばよいだろう。
例えば、夜の10時頃、「これは深刻な人権問題ではないでしょうか」などと、したり顔で抜かすニュースキャスターがいたとしよう。この人物が、汚職政治家や公務員を責めることはできないだろう。それは彼らの自由だからだ。
要するに、戦後民主主義のもとでは、法に触れさえしなければ何をしようと個人の自由だ。

しかし、一神教の国々では違う。程度の違いこそあれ、どこも「神」のもとの自由であり、「神」のもとの人権であり、「神」のもとの平等だ。絶対的な父性が、そこには存在する。だからそんな国々では、最初から「ヒーロー」など必要ない。子どもたちに与える規範も倫理も、すでに存在しているというわけだ。

ただ、日本にも実はハッキリとは見えにくいが「神」は存在する。その「神」のもとの規範も倫理も存在する。
それはアメリカ合衆国だが、ここは政治ブログじゃないので、今はさらっと流してしまおう。

話を戻すと、この「奇跡!ウルトラの父」に続くエピソードが「さようなら夕子よ、月の妹よ」であることは余りにも暗示的だ。物語は命じている。一人になった北斗は、今度こそ彼自身の行動で、ウルトラに父性を取り戻さなければならない、と。もちろん、北斗もそれを自覚したのか、必死になって子どもたちに語りかけていく。

しかし、今度もまた、北斗星司=ウルトラマンAは、時代の渦の前に敗れ去っていったのだった。

つづく

ウルトラ6番目の弟/きみにも見えるウルトラの星

梅津ダンとウルトラの星

夕子と別れ、一人になった北斗がやるべきことはただ一つ。
それは、ウルトラに父性を取り戻すことだった。

北斗は頑張った。
第29話からはまさに子ども、子ども、子ども。北斗は積極的に子どもたちに中に飛び込んでいき、彼らの悩みや苦しみと一緒にあろうとした。ときにはTACの命令を無視してまで、北斗は子どもたちを救おうと奮闘した。

が、それらの試みはすべて失敗に終わった。
なぜなら北斗は、その最初からつまづいてしまったからだ。

第29話「ウルトラ6番目の弟」。
夕子と入れ替わるように登場した「梅津ダン」という少年には、昼間から空に星が見えるという。そのせいでダン少年は、友達からウソつき呼ばわりされ、苛められていた。
ダンは1年前に父親を亡くし、今は姉の香代子と二人暮らし。ダンの父は「決断の断、断固としての断」という意味で、我が子にダンという名を付けた。そんな父を、ダンはずっと尊敬していた。
香代子は北斗に、父の口癖はこうだったと言う。
「ダンって名前に負けるな。男らしく生きろ。正しい者は必ず勝つ。自分のためのウソはつくな・・・。だからダンは嘘つきって言われることが大嫌い」

ダンは尊敬する父の言葉を守り、勇敢で信念を持ったやさしい子どもに成長した。
言うまでもない、これこそが北斗が求める「父性」の、最良の表れというものだろう。しかし、今、ダンの中の信念は揺らいでしまっている。

北斗はダンを励まそうとして、星の正体を明かしてやる。
「あの星はウルトラの星だ。どんな時にもへこたれず、負けるもんか、負けるもんかって頑張れば、ウルトラの星は君にもずっと見えるようになるよ」
ダンは立ち直り、自分を信じる心を取り戻す。そして、一度は見えなくなっていたウルトラの星がいつでも見えるようになり、自分は「ウルトラ6番目の弟なんだ」と明るく笑うのだった・・・。


このときの北斗の言動が、どれほどの大問題だったかは、大人になってしまってからは分からないことだろう。大人はウルトラマンが中に人が入った着ぐるみであることも知っているし、ウルトラの星なんてホリゾントに取り付けられた豆電球だろうと思っている。
が、当時の子どもたちはどうか?
「負けるもんか」と歯を食いしばって涙をこらえれば、そこにウルトラの星は見えただろうか。

・・・見えるわけがない。
しかし北斗隊員は見えるといい、梅津ダン少年にも見えるという。ダンはともかく、ウルトラマンが嘘をつくわけがない。だったら、ダン以外の少年少女は、いくら「負けるもんか」と頑張ってみたところで将来ウルトラマンになることはできない。「ウルトラ5つの誓い」を守ったって、人間はいつまでたっても人間じゃないか。ウルトラマンになれるのは、梅津ダンだけじゃないか・・・。

当時、幼稚園児だったぼくらの受けた衝撃は計り知れない。
北斗はここで、ウルトラと人間の間に明確な線引きをしてしまった。ウルトラはウルトラ、人間は人間。ただし、北斗やダン少年のように、ごく少数の「選ばれた」人間もいる。
これはもはや、一種の選民思想(エリート思想)だと言っていいだろう。

なぜ、北斗やダンはウルトラに「選ばれた」のか? 
本当はそこにこそ、北斗が子どもたちに示すべき父性があったのに、北斗はそれに気づかず、実際にウルトラの星が見えるかどうかに父性を預けてしまった。
それによって梅津ダン少年ただ一人は救われたが、ダン以外のすべての子どもはウルトラとは無関係な存在に、ふるい落とされてしまった。
ダン以外のぼくら雑魚は、ただウルトラに救いを求め、その登場を懇願するだけの、哀れな子羊なのだ。


このダンとの出会いの後も、北斗は必死になって子どもたちを助けようと頑張った。
しかし、選民思想を持ち、地球と人間への自然な母性を失ってしまったウルトラマンAが、本当の意味で子どもたちを救えることはなかった。
なぜなら北斗は(ダンとのやりとりを見れば分かるように)個別の問題を解決することばかりに執心してしまったからだ。

子どもたちに必要だったのは普遍的な規範となる父性だったのに、北斗は子ども個人の問題にばかり関わってしまった。だが、少女の死んだ母親のお誕生日プレゼントの自転車を命がけで拾いに行っても、動物園で射殺されかかっているバクを助けても、おねしょに悩む少年に自分もそうだったと励ましても、それらはその当事者の問題でしかないのだ。
『3年B組金八先生』がいくら桜中学の廊下を走り回ろうとも、他の学校では校内暴力もイジメも一向になくならないのと同じことだ。

個人の、個別の問題を解決するのがヒーローの仕事ではない。
北斗にはそれがついに理解できなかった。「個」を重要視するあまり、「公」を見失ってしまった。
「公」というのは何も難しいことではないだろう。北斗はあのとき、ウルトラの星の実在を否定すれば良かっただけだ。
それは心の中に輝く、規範なのだと。正しい行いをしているとき、まぶたの裏側に見える星なんだと。


ウルトラの星を、実際に肉眼で確認できるものだと言ってしまった北斗星司。
その破局は、実際に肉眼で確認できるように、人々の目の前でウルトラマンAに変身してみせることだった。

つづく

ウルトラマンA 明日のエースは君だ!

最後の変身

『ウルトラマンA』最終回「明日のエースは君だ!」。
この回を極限まで要約してしまえばこうなる。

ウルトラマンのお面をつけて宇宙人の子どもをいじめていた人間の子どもに対して、ウルトラマンAがこう言い残して地球を去っていった。
「やさしさを失わないでくれ。
 弱いものをいたわり、
 互いに助け合い、
 どこの国の人たちとも友だちになろうとする気持ちを失わないでくれ。
 たとえ、その気持ちが何百回裏切られようと。
 それがわたしの最後の願いだ」


この「明日のエースは君だ!」が世間で言われているような「名作」ではないことは、ついウッカリとこんなブログを延々と読んでしまった運の悪い方々には、もう明白なことだと思う。
「やさしさを失」っていたのは、子どもたちではなくウルトラマンAのほうだった。
「裏切られ」たのも、ウルトラマンAではなくて、子どもたちの方だった。
だからこそ、彼らはあえてウルトラマンのお面をつけて、宇宙人をイジメた。これは子どもたちによる、ウルトラへの復讐だったのだ。

面倒くさいがもう一度整理しておこう。
まず、ウルトラマンの父性は、人間に対して直接には示されることはない。それは、怪獣に対して示されるものだ。
一方、ウルトラマンは善悪賢愚を問わずに人間を救済する点において、人間への母性を示していると言える。
では、人間への父性は誰が示すかと言えば、それはウルトラに変身する前の主人公だった。
※言うまでもないが、怪獣への母性は誰も示す必要がない。

ところがウルトラマンAは、最初から人間に対する母性を持っていなかった。彼は、ヤプール人と戦って勝つ、という「使命」のために地球に来た。だからウルトラマンAは、ウルトラ兄弟の命をとるか、地球のピンチを救いに行くかの選択を迫られたとき、迷わずウルトラ兄弟の命を選んだ。

では、もともと人間に父性を示さないウルトラが、地球と人間への母性まで失ったとき、そこに残るものは何か。
無論それは、怪獣に対する父性だ。
だから子どもたちは忠実にウルトラマンAを模倣し、宇宙人をイジメた。

さらにウルトラマンAは、地球の人間を「ウルトラの星」が実際に”目に見える”かどうかで選別した。北斗星司と梅津ダンはウルトラ側の人、それ以外は地球人、というように線引きし、ウルトラマンになれるのは選ばれたエリートだけであることを認めてしまった。

だから最終回で、イジメられていた宇宙人の子どもが、実はヤプール人の変装であることを北斗が彼の超能力で見破ったと言ったとき、子どもたちは”目に見える”「証拠を見せろ」と北斗に詰め寄った。
これは「ウルトラの星」が見えない子どもたちによる、ウルトラへの痛烈な反撃だったのだ。

やさしさを失い、子どもたちを裏切り続けたのは、ウルトラマンAだった。
だから見よ。
今まさに去りゆくウルトラマンAに向かって、子どもたちは「さようなら」とは言ったが、誰一人として「ありがとう」とは言わなかったじゃないか・・・。


だが、どうしてこんなことになってしまったのか。
それは皮肉なことに、ウルトラマンAが「やさしい」ウルトラマンだったからだ。ウルトラマンAは自分の主義主張を押しつけることなく、当時の日本の社会風潮を積極的に取り入れた。
それが戦後民主主義だ。

ところが、良かれと思ったその風潮は、北斗星司から子どもたちに示すべき父性を奪い取るものだった。
ウルトラマンAは自家中毒を起こし、全てを失った。ウルトラマンAは敗北した。


しかし、改めてよく考え直してみれば、そもそもの問題はウルトラマンAが地球と人間への母性を持っていなかったことにあることに気づく。ウルトラマンAは、ヤプールという「悪」を倒す「正義」として来訪した。ウルトラマンAは、ウルトラ史上初めての「正義のヒーロー」だった。

しかしなぜ、ヤプールは「悪」なんだ?
ぼくはざっと2回『ウルトラマンA』全話を観たが、ヤプールが何の目的で地球を侵略しに来たのかを思い出すことができない。つまりヤプールとは「絶対悪」だった。

そして、残念ながらウルトラマンAは、ヤプールを「絶対悪」だと見なすことこそが、まさに戦後民主主義にどっぷりと浸かる陥穽であることに気がついていなかった。「絶対悪」と戦うことと、個人の自由や権利を最重要視することは、実は根っ子を同じくすることなのに、だ。
つまり、たしかに北斗星司から父性を奪い取ったのは戦後民主主義だったが、それ以前に、ウルトラマンAは最初から戦後民主主義者として登場したと言えるのだ。


Wikipediaには、こんな記述がある。

ウルトラマンシリーズにおいては、異次元人ヤプールのようなレギュラーの敵組織という試みは初めてのことであった。この点は、『仮面ライダー』においては「ショッカー」というレギュラーの敵組織が存在することから触発されたもの、としばしば解釈されている


ヤプールという敵組織は、実は『仮面ライダー』の「ショッカー」から触発されたものだった・・・。
ならば、ぼくたちは、みじめに敗北していったウルトラマンAの鎮魂のためにも、今度はショッカーを追って『仮面ライダー』の世界に入っていかなければならないだろう。


つづく

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