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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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スパイダーマン アメリカの正義

アメリカン・ヒーロー

話を先に進める前に、このカテゴリの補足として、アメリカのヒーローものについて少し触れておきたい。

70年代の日本のヒーロー番組のほとんどは、まず「悪」ありきだったが、アメリカのヒーローは全くの逆で、まず「正義」ありきのようだ。それは当たり前と言えば当たり前のことで、そもそもアメリカという国は理念から生まれた人工国家なんだから、アメリカ人がアメリカ流・アメリカ式で生きること自体にアメリカの「正義」がある。それを具体的に言うにはぼくの知識が不足しているんだが、おそらく自由だとか平等だとか、いわゆる「民主的」とされることから思いつくことを挙げるだけでも、ある程度は十分なのではないかと思う。

ではそんなアメリカンヒーローが戦う「悪」とは何か?
ぼくが知っているアメリカンヒーロー(スーパーマン、バットマン、スパイダーマン等)を見る限り、それは犯罪者だ。特に、個人の力ではどうにもならない大きな力を持つ犯罪者が、ヒーローが戦う「悪」だ。

ただ、そんな犯罪者も、元を正せば普通のアメリカ人だった。
それが自分の欲望をどんどん肥大化させていった結果、巨大な力を得てしまった、というパターンが多い。これは「成功」自体を否定しないアメリカ流・アメリカ式の負の側面とも言えるものだろう。
つまり、アメリカンヒーローが戦う「悪」とは、アメリカ人が持つ内なる願望の悪しき現れ、という形をとっていると見ることもできる。

「正義」であるはずのアメリカ流・アメリカ式から「悪」が生まれたとき、ヒーローがそれを叩きに行く。その動機は、映画『スパイダーマン』に出てくる次の言葉が端的に表していると言われるようだ。

大いなる力には、大いなる責任が伴う (With great power comes great responsibility)

アメリカという国は、やたらと世界中にアメリカ式を押しつけたがるおせっかいな癖があるが、それを彼らは「大いなる責任」だと勘違いしているのかもしれない、と思いたくなるようなセリフだ・・・。

と言うような皮肉はともかくとして、アメリカンヒーローが「悪」と戦う動機は、彼らの「責任感」にこそあった。アメリカがアメリカであることによって生んでしまった「悪」(犯罪)を、アメリカ自身の責任によって討つ。
これはさかのぼれば、西部開拓時代から現代に続く保安官制度に見られるような、あるいは個人の銃保有に見られるような、自分の身は自分で守るというアメリカ人の自警的な思想が背景にあるのだろう。実際、『バットマン』はたった一人の自警団の物語であり、バットマンは彼の住むゴッサム・シティからほとんど外には出ていない、とか。


さて、そんなアメリカンヒーローの一人であるスパイダーマンは、1978年に日本の東映の手で特撮ヒーロー番組として制作・放映された。この日本版『スパイダーマン』は、ヒーローのルックスだけはアメリカ製と同等のものだったが、舞台設定その他ほとんどは日本流に改変されている。
この両者の違いは実に興味深いものだ。

まずアメリカ版では、普通の高校生ピーター・パーカーがたまたま運悪く(?)特殊なクモに噛まれてしまい、遺伝子に変化をおこして超人的な身体能力を手に入れてしまうことから物語が始まる。ピーターはその能力をくだらない私欲(2002年の映画ではプロレス)に使っていたが、ある事件をきっかけに自分の責任に目覚め、街にはびこる凶悪犯罪と戦う決意をする。

同じ頃、軍需産業での成功を目論むオズボーンは自らが開発したパワー増強剤の実験を自らに果たし、こちらも超人的な肉体を得ていた。やがてオズボーンの深層心理に潜んでいた凶悪な野心が彼を支配するようになり、オズボーンは怪物になっていく。オズボーンは目障りなスパイダーマンを仲間にしようとするが、ピーターは拒否。ふたりの激突が始まった・・・。

というようなアメリカンヒーローは、日本に輸入されると以下のように姿を変える。

スピードレーサーの山城拓也は、高名な科学者の父を研究成果の悪用を目論む異星人のモンスター教授に殺された。故郷を滅ぼされて教授を追って来たが力尽きたスパイダー星人・ガリアから、蜘蛛の能力を与えられて、超人・スパイダーマンとなり、仇である教授が率いる鉄十字団と戦う。(Wikipediaースパイダーマン(東映)から引用)


例によって、宇宙には「鉄十字団」という「悪」と、「スパイダー星人」という「正義」の戦いがあり、主人公の山城拓也はその「正義」によって特殊な力を与えられたエージェント、というスタイルをとっている。『仮面ライダー』以来の、東映王道パターンの踏襲だ。
「悪」も「正義」も、ぼくら民衆の中にはなく、その外部に存在する。そしてエージェントである主人公の動機は、「悪」への復讐だ。

アメリカ版ではいたって単刀直入に、市民の中にあるアメリカ流・アメリカ式という「正義」の味方だったスパイダーマンが、日本に来るやいなや「正義のヒーロー」となって世界征服を狙う悪の軍団と戦いはじめる・・・。

こうなってみれば、もはやこう結論づけるしかないだろう。
日本には、スパイダーマンが味方すべき民衆の「正義」が存在しないのだと。だからスパイダーマンは仮面ライダーたちと同じように自分自身が「正義」であると主張するしかなくなったのだと。

しかしここでスパイダーマンが元はアメリカ出身のヒーローであることを思い出すと、彼が日本に来るなり「正義のヒーロー」「正義のエージェント」に変化したことは、ごく自然な成り行きだったのかもしれないと思えてくる。
なぜなら、まさしく戦後日本の「正義」とは、アメリカの「正義」に他ならないからだ。スパイダーマンはアメリカの「正義」のエージェントとして来日し、アメリカ化した現代日本を守っている。そして彼の敵は、世界征服を企む「悪」の軍団、大日本帝国・・・。

アメリカvs大日本帝国の戦いに、ぼくら現代日本の民衆が参加できるわけがない。なにしろ「悪」は日本の”過去”という亡霊だ。
いや、参加している日本人もいたな。アメリカ側に味方して、日本の過去を攻撃する人は大勢いた。日教組がそうだし、朝日新聞なんかもそうだ。要するに、東京裁判を起点とする自虐史観や戦後民主主義を支持する人たちはみんな、アメリカの「正義」の味方だった。

そしてこれまで散々見てきた通り、ぼくらが幼少時に熱中したヒーロー番組の多くも、やはり日教組や朝日新聞と同じ立ち位置から、日本の過去と戦う人々だった。とぼくは考えている。

つづく


なお、東映版『スパイダーマン』は作品を観るヒマがないので、すべてWikipediaの記述を元に書きました。1978年にもなると、もうヒーロー番組を観るような年齢でもなく、また今さらリアルタイムで観てなかった作品を観る気もなく、全体としていいかげんな記事である可能性があります。悪しからず。

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ここまでのまとめ

修身書

<お断り>以下の記事は、長いばかりで何も目新しい内容がありません。時間のない方はスルーしてください。


これまで見てきたように、『仮面ライダー』等の70年代ヒーローはいくら応援しても「正義」を愛する心が芽生えることはなく、むしろこの国の歴史を恥じ、愛国心を失わせるように機能する作品が多数を占めた。簡単に言えば、それらはぼくらに自虐史観を植え付ける洗脳装置として機能するケースが多々あった。

もう一度、そこらへんを整理しておくと、まず日本の70年代ヒーロー以外のヒーローについて言えば、

◎アメリカンヒーローの場合
 悪=人間の肥大化した欲望が生む犯罪(邪悪化したアメリカンドリーム)
 正義=アメリカの理念(アメリカ独立宣言など)
 ヒーロー=アメリカの理念の実行者、またはその味方

◎忠臣蔵の場合
 悪=腐敗した政治
 正義=武士道(江戸期の葉隠的な意味で)
 ヒーロー=武士道の実行者、またはその味方

◎大正生まれが作ったヒーロー(月光仮面、快傑ハリマオ)の場合
 悪=犯罪
 正義=「修身」的な倫理
 ヒーロー=修身的倫理の実行者、またはその味方

かなり大ざっぱだが、こんなかんじになると思う。
ポイントは、いずれも「正義」が明文化された倫理、理念、規範であって、人々に広く共有されているという点だ。そしてヒーローとはそれらの実行者であり、かつそれらの味方でもあった。
つまり、上記のどのケースであっても、まず「正義」が先にあり、そこから逸脱したものが「悪」だとされた。

それが1971年の『仮面ライダー』では、企画段階で市川森一によって、まず「悪」が規定された。

「正義のために戦うなんて言うのは止めましょう。ナチスだって正義を謳ったんだから、正義ってやつは判らない。悪者とは、どんなお題目を掲げていても人間の自由を奪う奴が悪者です。仮面ライダーは、我々人間の自由を奪う敵に対し人間の自由を守るために戦うのです」(『平山亨叢書1・仮面ライダー名人列伝』より)


これをまとめればこうなる。

◎仮面ライダーの場合
 悪=人間の自由を奪う奴(ショッカー)
 正義=人間の自由
 ヒーロー=人間の自由を守る者

また、同じく市川森一がメインライターを務めた『ウルトラマンA』ではこうなるだろう。

◎ウルトラマンAの場合
 悪=平和を乱す侵略者(ヤプール)
 正義=地球の平和
 ヒーロー=地球の平和を守る者

なんとなく上の方の3つのヒーロー像と似たような構造に見えるこれら70年代ヒーローだが、よく見ると「正義」の部分が全く異質であることが分かる。70年代ヒーローが「正義」だとする「自由」と「平和」は、単に人間や社会のおかれている「状態」のことであって、理念や倫理ではない。要するに、他者に拘束されていない状態が「自由」であり、戦闘の行われていない状態が「平和」だと言うだけのことだ。

これはおよそ「正義」とは程遠いものだとぼくは思う。
例えばWikipediaの「忠臣蔵」の項にはこのような記述がある。

「第二次世界大戦後の連合国占領下では、厳しい言論・思想統制が行われた。連合国軍最高司令官総司令部は日本国内での報復運動の高まりを恐れ、『忠臣蔵』事件を題材とした作品は封建制の道徳観が民主化の妨げになるとして(仇討ちという復讐の物語であるため)当事件を題材とした作品の公演、出版等を禁止した」


「忠臣蔵」の「正義」と、アメリカ建国以来の「正義」は互いに相容れることはない。
このように「正義」というのは本来激しくぶつかり合うもので、ばくぜんとした「状態」を指すものではないだろう。

さて、そう考えてみると、仮面ライダーやウルトラマンAの場合の「正義」は、実際には空欄ということになってしまう。彼らは「正義」と言い切れるだけの理念や倫理を何ら示すことはないのに、「正義のヒーロー」を自称していることになってしまう。

そこにメスを入れたのが、怪獣ジャミラが登場する「故郷は地球」などで有名な脚本家、佐々木守だろう。
1936年生まれの佐々木守は、戦後日本の「正義」を「戦後民主主義」に求めた。

「日本の敗北を体験した僕には『戦後民主主義』は明確な手ざわりとして残っている。それは『個人が、体制よりも社会よりも組織よりも、すべてに優先される』という考え方であり、そんな行動のことであった」(「佐々木守シナリオ集・怪獣墓場」あとがき)


個人が全てに優先されること。これが佐々木守の考える「正義」だった。
だから佐々木守が書いた『ウルトラマン』第23話「故郷は地球」では、ウルトラマンのほうが悪役に描かれた。

◎「故郷は地球」の場合
 悪=個人を抑圧し排除するもの(国家権力、科特隊、ウルトラマン)
 正義=個人が尊重されること
 ヒーロー=???

もちろん、ウルトラマンがいつでも「悪」だと言うのではない。時と場合によっては「正義のヒーロー」は国家を守るために個人を見捨てる可能性があり得る、という極端な一例が「故郷は地球」だということだ。
となれば、70年代的な「正義のヒーロー」とは、「戦後民主主義」の実行者でもなければ味方でもないことになり、依然として「正義」の空欄は埋まらない。
しかも「自由」や「平和」はたんなる「状態」を指すもので、倫理や規範ではない。自分がいくら努力をしたところで、北朝鮮の工作員に拉致されれば自由を失うし、ミサイルを撃ち込まれれば平和も失う。
つまりは、自由も平和も相手のあることで、その相手の行為が問題になる。すなわち「侵略」という行為だ。

結論としてはこうだ。

◎仮面ライダー、ウルトラマンAの場合
 悪=侵略
 正義=???
 ヒーロー=悪と戦うこと

そして、ここから無理矢理に「正義」を導き出すなら、それは侵略という「悪」を憎む心、ということになるだろう。

それにしても、なぜこうも「世界征服を狙う悪の侵略者」ばかりと70年代ヒーローたちは戦うのか?
ヤプール人、ショッカー、デストロン、ドルゲ、血車党、ファントム軍団、インベーダー、超能力者ヨミ、デーモン族、黒十字軍・・・・。
繰り返しになるが、アメリカンヒーローも月光仮面もハリマオも、主に戦った相手は犯罪者だ。悪党どもは、自分の金銭欲や所有欲のために殺人や破壊を行うのが常だった。ここにはそれなりのリアリティがある。

が、「世界征服」のリアリティのなさはどうだろう。
「世界」にはアメリカやソ連だって含まれるのに、そんな国々までがまったくの無防備にショッカーやデストロンの侵略を受けるなどとは、子どもでも思わないだろう。アメリカやソ連はもちろん、ドイツにだって外敵と向かい合うための軍隊があり、諜報機関もある。だから結局のところ「世界征服」とは言いつつも、それは日本の中だけの話でしかない。

戦後の日本社会にだけ存在する、この「世界征服」のリアリティ・・・。

その根底には、かつての日本が侵略戦争を起こした犯罪国家だという自虐的な歴史観があると思う。この大日本帝国の「悪」を憎む心、それこそが70年代ヒーローの「正義」だ。70年代ヒーロー番組とは、「悪」の大日本帝国の野望を「正義のヒーロー」が叩きのめすという、一種の歴史再現劇だったのだ。
と、ぼくは思う。

だから『仮面ライダー』等の70年代ヒーロー番組は、観れば観るほど自虐史観の思考回路に同調するように機能するし、本当の意味での「正義」を愛する心が芽生えるわけじゃない。そこに、人はこう生きるべきだ、という倫理や規範、理念は存在しない。自由でありたい、平和でありたい、という他力本願の(憲法9条的な)願望があるだけだ。

そして、自分は願望を持つだけで実際に「悪」と戦う主体ではない、という日本人の変テコな発想が生み出したものが、超人バロム・1に代表される「正義のエージェント」というヒーロー像だろう。バロム・1は二人の日本人少年が合体して変身し、事実上日本だけを守っているヒーローであるにも関わらず、正義の「代理人」であると言う。

この設定は、原作者さいとう・たかをの慧眼だとぼくは思う。
さいとう・たかをは、おそらく戦後の日本の「正義」が、ぼくらの生きる日本の外部に存在することを見抜いていたのだろう。バロム・1はその外部にある「正義」から「正義」を委託されたヒーローなのだ、と。
もちろんその「正義」とは、大日本帝国を滅ぼしたアメリカの「正義」だ。

そして1970年代前半というのは、そのアメリカの「正義」が揺らいだ時代だった。
泥沼化するベトナム戦争と、ドルショック。
アメリカの「正義」の担保であった軍事力とドルが、まさに敗れ去ろうとする時代だったからこそ、アメリカと「正義」を共有する(させられている)日本で、あれほど沢山の「正義のヒーロー」が生まれた可能性がある、とぼくは考えている。
が、その話題はまたいずれ別の作品を取り上げる時に、もう少し詳しく考えてみたいと思う。



まとめ、と言いつつダラダラと長話になってしまったが、話を元に戻すと、70年代ヒーロー番組が我知らずに持ってしまった自虐史観増幅装置という側面は、実のところ「世界征服を企む軍団」という悪役を、あいまいな「悪」のイメージとして設定してしまったことに起因する。だからそれらは、実際の歴史に実在した大日本帝国の物語と容易に結びついてしまった。
もちろん、作り手にそういう意図があったわけではないだろう。平山亨プロデューサーの自伝を読んでも、「正義のヒーロー」像の構築にかけた情熱は伝わってくるが、悪の軍団についての言及は驚くほど少ない。

これは勝手な想像だが、悪はショッカー的な侵略者ってことでいいでしょ、子どもにも分かりやすいし、シリーズ化が楽だしね! てなところだったのではないか。それが子どもたちに、本当の意味での「正義」を見失わせ、国を愛する心を捨てさせる効果に繋がる可能性があるなど、考えもしなかったことだろう。

つまり、問題は「悪」の設定にこそある。
ここをちょっといじるだけで、『仮面ライダー』は自虐装置ではなくなる。
それを実証したのが、『仮面ライダーX』(1974)だ。

つづく


ちなみにWikipediaによれば「戦後民主主義」の根幹である(とぼくが思っている)憲法13条には、アメリカ独立宣言の影響が見られるとのことだ。

「第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」


仮面ライダーX ~米ソの陰謀 GOD機関

Xライダー

仮面ライダーX』(1974)の「悪」は、”世界征服をたくらむ悪の秘密結社”ではなかった。「悪」はもっとリアルで恐ろしい設定がなされていた。その名も「GOD機関」。

「GOD機関とは、世界の対立する大国同士が秘かに手を握り、改造人間を使って日本全滅を狙う、恐怖の秘密組織である」「日本を滅亡させるため、巨大な悪の組織GODは、不気味な活動を始めた」(第1話ナレーション)


誰が聞いたって「対立する大国」とはアメリカとソ連を指していると思うはず。その両大国が裏で手を結び、再び日本を滅ぼしにやってきた。それがGOD。
それに対抗するのが、神敬介が変身する仮面ライダーXだ。神敬介はGODによって殺害されたが、人間工学の権威である父、神啓太郎博士の手でサイボーグとして復活した。

要するに『仮面ライダーX』の世界観は、GOD対神、米ソ対日本。
これは、1974年当時の朝鮮半島や中国の経済状況を考えれば、リアルに導かれる結論というものだろう。米ソ以外のどこの誰が、大金をかけてわざわざ日本を滅亡させるための闇の組織を作ったりするものか。
常識的かつ自然な思考から、GOD機関は設定されているとぼくは思う。

では、このGODの設定は誰が考え出したものなのか?
ぼくなりに何冊か『仮面ライダーX』について書いてある本を読んでみたのだが、はっきりとは分からなかった。
ただ一つだけ確かなことは、『仮面ライダーX』ではメインライターの交代が行われたということだ。それまでの伊上勝に代わって登用されたのは、長坂秀佳。『日本沈没』や『特捜最前線』などで知られる脚本家だ。

『KODANSHA Official File Magazine仮面ライダーVol.5』に掲載されている長坂秀佳へのインタビュー記事によると、『キカイダー』や『アクマイザー3』等では連日のように行われた石森章太郎邸での打ち合わせが、『仮面ライダーX』では全くなかったらしい。

「だからたぶん、平山さんって人は『こういうのをやってくれ』って具体的な打ち合わせをするより、『とにかくまあ書いてみてよ』ってところがあったから、『X』もそういう流れだったんじゃないかと思う。出来ているのは石ノ森さんのデザイン。あとはタイトルと役名くらいかな(笑)」(上記ムック本から引用)


という本人の談話からしても、GODの設定が長坂秀佳のアイデアによるものである可能性はかなり高いようにぼくは思う。と言うのも、長坂秀佳が関わると、その作品世界が隠し持っていた真相とでも言いたくなる別の顔が現れることが多々あるからだ。

例えば『ウルトラマンA』に初めて梅津ダン少年が登場した、第29話『ウルトラ6番目の弟』を書いたのが長坂秀佳だ。あの回では、梅津ダンの父親の言葉として北斗星司が目指すべき「父性」が具体的に示される一方、その本質を見誤って「ウルトラの星」の実在に「父性」を預けてしまった北斗の姿も描かれた。それによって、ウルトラはウルトラ、人間は人間、という永遠の平行線が引かれ、宇宙のエリートとして一段高い位置から人間を保護しているウルトラの真実が露呈した。

この長坂の脚本はぼくの見るところ、ウルトラという異星人ヒーローの息の根を止めてしまう性質のものだったが、一方でそれは、素直に見たままを誤魔化さずに書いただけのものでもあった。無償の弱者保護に励むウルトラに、何らかのエリート意識がないと言ったらウソになるだろう。あって当然だと思うし、そんなウルトラに偽善を感じるのであれば、ウルトラを卒業する日が来ているだけのことだ。

そんな長坂のストレートな視線は『人造人間キカイダー』でいよいよその冴えを増す。
元々は、石森章太郎ー平山亨ー伊上勝の『仮面ライダー』トリオの手で、『仮面ライダー』的世界の亜流として始まった『人造人間キカイダー』が異様な輝きを放ち始めるのは、長坂がメインライターに居座った終盤に入ってからだ。
言わずとしれた、ハカイダーの登場。

ハカイダー自体は石森章太郎の原作漫画にも登場するが、ぼくの見るところ、テレビ版のほうが数段深い。「まず、設定ありき」を旨とする長坂が、石森章太郎の設定を極限まで拡大した成果がハカイダーだろう。そこには石森と長坂の持つ、それぞれのテーマの違いも見られるように思うが、それはまたいずれ。


話を戻すと、とにかく長坂秀佳の手で書かれた『仮面ライダーX』は、現代日本に生きる日本人が現代日本を守るために戦うという、普通に考えればごく当たり前のヒーロー番組としてスタートした。Xは声高に「正義」を叫んだり、どこかの誰かの「エージェント」であったりはしない。日本を滅ぼそうとする米ソの陰謀から、この国を守ろうとしているだけだ。

が、残念ながら、長坂はたった4本の脚本を残しただけで『仮面ライダーX』を降板させられてしまう。
その原因は上記ムック本等によれば、主人公を裏切ってGODに走った恋人・涼子と、涼子に瓜二つの謎の女・霧子の登場、といったサスペンス要素や、ギリシア神話をモチーフにしたGOD怪人の親しみにくさなどが局サイドに嫌われたからだということだ。長坂自身はインタビュー記事のなかで、自分の態度が悪かったのだろう、と今ひとつ意味不明なことを言っている。

いずれにしても長坂降板後の『仮面ライダーX』の悪役GODは、いつの間にか”世界征服をたくらむ悪の秘密結社”に戻っていったのだった。

つづく

サイボーグ009 超銀河伝説

悪の帝王ゾア

話が前後してしまうが、『仮面ライダー』から始まる70年代ヒーロー番組の源流がどこにあるかと言えば、それは石森章太郎のライフワーク『サイボーグ009』だろう。
1966年に公開された劇場用アニメ『サイボーグ009』の序盤部分は、『仮面ライダー』のそれと極めて酷似している。

まずショッカーならぬブラックゴースト団という悪の秘密結社があり、だまされてその組織の人体改造に協力してしまうギルモア博士(ライダーでは緑川博士)がいる。主人公の島村ジョーは抜群の運動能力を誇るカーレーサーだったが(本郷猛はオートバイのレーサー)、その能力に目を付けられてサイボーグにされてしまう。島村ジョーは博士とともに組織から逃亡し、組織と戦うことを誓うが、人間でなくなってしまった悲しみは時として彼を苦悩させるのだった・・・。

と、ごらんの通りで、基本的なストーリーはほどんど同じ。『サイボーグ009』の9人のサイボーグを1人にし、実写の特撮シリーズらしくリアリティを持たせたものが『仮面ライダー』だと言って、ほぼ差し支えがないように思う。

となると、このブログでいま問題にしている、自虐史観につながる世界観をヒーロー番組に持ち込んだ張本人は、実は石森章太郎その人だったということになるが、おそらくそれもほぼ断言して差し支えがないように思う。
その根拠はやはり『サイボーグ009』にある。

1966、1967年に相次いで劇場用アニメとして制作された『サイボーグ009』は、それから十数年たった1980年に『サイボーグ009 超銀河伝説』として銀幕にかけられた。原作・総指揮は石森章太郎。

新聞広告には『宇宙戦艦ヤマト、銀河鉄道999に続く壮大なスケールの娯楽超大作』と当時ヒットしていた宇宙を舞台にしたSFアニメを意識したコピーが打たれていた」(Wikipediaより)

1980年といえば、アニメブームのひとつの頂点とも言えるような時期だった。2年前の1978年には社会現象として騒がれた『さらば宇宙戦艦ヤマト』の公開があり、翌1979年には『銀河鉄道999』が大ヒット、テレビでは『機動戦士ガンダム』が始まった。書店には何種類ものアニメ雑誌がうずたかく平積みされていた記憶がある。

その一方で、70年代前半を席巻した特撮ヒーロー番組はもはや虫の息で、1980年だと『ウルトラマン80』『仮面ライダースーパー1』『電子戦隊デンジマン』といった定番ものがいくつかある程度・・・。しかしぼくらの世代で、これらの特撮番組を観ていた人はそう多くはないだろう。

すでに「正義」は相対化されて、一つではなくなっていた。悪役には悪役の主張があり、「正義」があった。主人公たちの「正義」が無条件に保証されることはなくなり、複数の「正義」の激突こそが、物語の根幹をなすようになった。主人公たちは、しばしば自らの「正義」の崩壊に直面し、そこから様々な問いかけが生まれていくような、重層的な構造を持った物語が多数誕生した。
『サイボーグ009 超銀河伝説』はそんな時代に投入された、130分の大作だった。

ストーリーはこうだ。
コズモ博士は宇宙を生んだ母源の存在を発見し、それをボルテックスと命名した。ボルテックスが実用化できれば、地球上のエネルギー問題は全て解決する大発見だ。しかし、宇宙征服を企む悪の帝王ゾアがその研究を狙っていることが発覚。コズモ博士と001はゾアの手で拉致されてしまう。残るサイボーグたちはゾアの野望を粉砕するため、宇宙への旅に出発するのだった・・・・。

『サイボーグ009 超銀河伝説』goo映画によるあらすじ

・・・これは逆の意味で、恐るべきストーリーだと言っていい。。
何と1980年になってなお、『サイボーグ009』は勧善懲悪の物語だったのだ。

もちろん『サイボーグ009』がいつでも”悪の軍団の侵略”と戦ってきたというわけではないんだが、仮にも2時間を超える劇場用作品ともなれば、『サイボーグ009』の集大成と見なされて然るべき存在だろう。キャッチコピーにあるように、この『超銀河伝説』は『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』に比肩する作品として制作されたのだ。

ちなみに1980年のアニメ映画というと『地球へ・・・』があるが、あらすじを読んだだけではストーリーや人間関係を把握するのが困難なほど、複雑かつ重層的な世界観がある。もちろん「正義」がどこにあるのか、あるいはそんなものは最初から存在しないのか、相当な熟考を要する。誰も、自分から自分が「悪」だとは言ってくれないからだ。

『地球へ・・・』goo映画によるあらすじ


もしかすると石森章太郎にとっては、ヒーローが戦う悪役の設定など、どうでもいいことだったのかもしれない。
問題なのは「悪」によって作られた身体を持つヒーローが、いかにして「善」の心を維持するかの内面の葛藤にあるのだろう。だから石森章太郎のヒーローたちは、やたらと悩む。島村ジョーも、本郷猛も、光明寺ジローも、とにかく悩む。自分が人間ではないことが、彼らを悩ませる・・・。

だが、ストーリーを吟味してみると、実はこの”人間ではない身体”にしか、彼らの戦いの動機が存在していないことに気がつく。島村ジョーも本郷猛も、もしも改造手術を受けることがなければ、好んで「悪」と戦うつもりなどサラサラなかっただろう。彼らは言わば、仕方なく、やむを得ず「悪」と戦った。「悪」と戦わなければ、「悪」の身体をもつ自分自身の「善」を証明できないからだ。戦わないジョーや本郷は、”今のところは”悪事を働いていない「悪」に過ぎない。

結局のところ、石森章太郎は彼のヒーローたちに「悪」と戦う積極的な動機を与えることがなかった。その結果、彼のヒーローたちの「正義」を担保するものが、彼らが「悪」と戦っていることの1点にしかないという事態に繋がってしまった。要は、「悪」が消えた瞬間に「正義」も消えてしまうという異常事態だ。

皮肉なことに、そんな石森ヒーローの異様な在りようが如実に表されたのが、石森的世界をその身体そのものに持った存在、キカイダーだった。

つづく

二つの『人造人間キカイダー』

良心回路の発動

1970年代には2種類の『人造人間キカイダー』が存在した。一つは、石ノ森章太郎が全てのストーリーを作ったマンガ版。もう一つは石ノ森のアイデアを元に1973ー1974年に制作されたテレビ版。この両作は、ともに石ノ森章太郎がキャラクター設定と基本的なストーリーを考え、同じタイトルを共有する作品だが、実際には核心部分がまったく異なっていて、いわゆる「原作」ー「テレビドラマ化」の関係ではない。一つのアイデアから平行して作られていった、別の作品と見ていったほうが話が早いだろう。

両者を別の作品にしてしまった核心部分を「良心回路」という。
キカイダーは、光明寺博士という天才ロボット科学者が作った人造人間だが、博士は自分の作ったロボットが依頼主によって悪用されていることを知り、秘かにそれらと対抗するためのロボットの製作を進めていた。そのコアパーツが博士が「良心回路」と呼ぶ装置で、博士は「キカイダー」にそれを内蔵したが、完成寸前に依頼主の手下に襲撃されてしまい、良心回路が未完成なまま、キカイダーは世に出てしまった。

依頼主はプロフェッサー・ギルと呼ばれる科学者で、ギルは光明寺博士が作ったロボットを操って犯罪を行い、その資金を元にした世界征服を企んでいた。ギルは手下のロボットを「超音波笛(悪魔笛)」と呼ぶ道具で操作していたが、その指令は良心回路が不完全なキカイダーにも有効だった。キカイダーはギルに笛を吹かれると、ギルの命令と良心回路の命令に引き裂かれて激しく葛藤する。

この葛藤を象徴するのが、左右が非対称であるキカイダーの姿だ。テレビ版の主題歌でも「正義と悪との青と赤」と歌われる通り、体の半分は完成しているが、もう半分は内部のメカが見えてしまっている。歌では青い方が「正義」とされているようだが、未完成の良心回路がこの姿を作り出したとすれば、青は「悪」である気もするが、そんな細かいことはどうでもいいか。

とにかく、以上のように『人造人間キカイダー』の核心部分は、彼に内蔵された良心回路という部品にある。当然、物語は、マンガにしろテレビにしろ、この良心回路をめぐって進行していく。プロフェッサー・ギルが手下のロボットに悪事を働かせようとすれば、そのたびにキカイダー(人間体は光明寺ジローという)にも影響が及び、「正義のヒーロー」が「狂って」しまう。キカイダーは「悪」のロボットと戦う前に、まず自分自身の内面の戦いに打ち克たなくてはならない・・・。

と、まあ何とも興味深い設定だが、これを「仮面ライダーよりも叙情的なものを」という平山亨の漠然とした要望を聞きながら、その場でサラサラとキャラクターデザインと初期設定を考えてしまったというんだから、石ノ森章太郎の天才ぶりには恐るべきものがある。石ノ森ファンの中には『人造人間キカイダー』を石ノ森の最高傑作だと考える人も多いと聞くが、少なくとも彼が生み出した変身ヒーローものの分野に限って言えば、ぼくも完全に同意できる。

と言うのも、まさに『人造人間キカイダー』を傑作たらしめた「良心回路」にこそ、石ノ森章太郎が考える「善(正義)」と「悪」が、いたって明快に表れていると思うからだ。
しかも幸いなことには、テレビ版の方の『人造人間キカイダー』も傑作だった。脚本家・長坂秀佳は、石ノ森の「良心回路」というアイデアを独自に発展させ、全く異なる世界を構築してしまった。そしてそれは、皮肉にも石ノ森ヒーローの持つ欠陥を暴露してしまう結果に繋がってしまったのだった。

というわけで前置きが長くなったが、次回から『人造人間キカイダー』という2つの傑作を順に見ていきたいと思う。
まずは石ノ森章太郎のマンガ版から。

つづく

人造人間キカイダー ~良心回路と服従回路

キカイダー表紙

人造人間キカイダー』の概略については、すでに書いたとおり。
では、石森章太郎のマンガ版に見られる「善」と「悪」とはどういったものだったか。それを知るには、マンガ版『人造人間キカイダー』で「良心回路」がどのように語られたかを見ればいいと思う。

◎まず、製造者である光明寺博士はこう言った。
「わるい命令にはぜったいにしたがわないロボットの『心』をつくるのだ!!」

◎キカイダー=ジローの誕生を知ったプロフェッサー・ギルはこう。
「ばかめが! 人造人間はロボットだ! 自分で善悪の判断などはじめられては・・・」

◎光明寺博士とプロフェッサー・ギルを「同じ穴のムジナ」だと言われたキカイダー=ジローの反応。
「光明寺博士はちがう!!それじゃなぜ・・・ぼくの”心”に悪いことはいけないと・・・おしえてあるんだ!?」

◎同じく「良心回路」を搭載されたが、自力でその効力を封じ込めてしまったダークロボット(ゴールデンバット)は、光明寺博士の娘ミツコにこう言った。
「人造人間には命令の拒否権などないんだよ!!」
「ところが・・・だ。おまえのおやじ光明寺博士は・・・あいつ、ジロー・・・キカイダーにその拒否権・・・命令の選択権を与えてしまった!! 光明寺がジローに不完全な『良心回路』をつけたことは皮肉にも、もっとも人間に近い人造人間をつくったということにほかならない」

◎「良心回路」を完成させてくれるという黒川博士(ギルの変装)に対してのジローの結論。
「不完全な『良心』を持っていたほうが人間らしいと思うんです」
「ぼくはひとりで・・・人間と同じように自然に・・・『良心回路』を完全なものに近づけていきます。そう”成長”するように努力がしたいんです」


『人造人間キカイダー』のマンガ版はイタリアの童話『ピノキオ』の引用からスタートするわけだが、テーマもだいたい同じで、要は人工の心がいかにして本物の人間の心に近づいていくのかが物語の中心にある。そして、ジローが近づこうと目指した”人間の心”が、実は彼の持つ”不完全な良心回路”そのものであったという「毒」は、石ノ森章太郎ならではの発想だろう。ジローは実は、最初から”人間の心”を持っていたんだという、一種のどんでん返しだ。

この発想自体は秀逸なもんがあると、ぼくも思う。

ところがこの物語は、中盤を過ぎてジロー=キカイダーの兄、イチロー=キカイダー01が登場してくる辺りから、なにやら混乱の様相を呈してきてしまう。
キカイダー01を作ったのも光明寺博士だ。博士はまだプロフェッサー・ギルと知り合う前に、事故死を装って殺害された長男・光明寺一郎の身代わりとして人工知能を装備したロボットの開発をはじめた。そうして完成したキカイダー01だったが、その悪用を恐れた光明寺の師匠・風天和尚の手で仏像の中に封印された。
しかしジローの前に新たな敵が現れたことを知った光明寺は、ジローにキカイダー01の存在を教える。二人は共鳴し、01は仏像を割って出現する・・・。

まだ試作機であったイチロー=01には、当然のことながら「良心回路」は組み込まれていない。と、同時にダークロボットでもないので、本来的に「悪」の出身だというわけでもない。つまりは「善」とも「悪」とも設定されていない。
そして復活したイチロー=01は、誰の命令も受けることなく、自分の意思で自由に行動する・・・。

・・・何のことはない。イチロー=01は、まさに人間そのものであって、ロボットをロボットたらしめる特徴を何一つ持っていない。ところがそんなイチロー=01について、ジローは、自分が「良心回路」を持たないイチローの「良心回路」になってやる必要があると言う。そのために、一緒にヨーロッパで静養しようと言う光明寺家の申し出も断った。

だが、マンガを何度熟読しても、いったいイチロー=01のどこに、「良心回路」がないことによる弊害が出ているのかはサッパリ分からない。たしかにイチローは粗暴で口が悪く、短気で思慮がなく、思いやりややさしさに欠ける困ったヤツだ。しかし決して悪事を働くわけでもないし、ジローが襲われれば助けてくれる。
要は、世間にいくらでもいる、そういう性格の持ち主であるだけだ。

となると、ジローが持ち、イチローが持たないという「良心回路」とは、一体何なのか? 

ここでもう一度、上に列記した「良心回路」についての作中の記述を見ると、実はそこに面白い事実があることに気がつく。それは、散々「良心」について語られていながら、一度も「良」や「善」あるいは「正義」そのものについて直接語られることがない、という事実だ。「良心」は、いつだって「悪」との対比で語られる。
すなわち、『人造人間キカイダー』における「善」「良」「正義」の定義とは、「悪」ではないこと、にしかない。
だから実際に作品を読むと分かるが、キカイダー=ジローは特に善行を積むわけでもないし、積極的に「悪」を探して叩いたりもしない。彼の「良心回路」が命じる「善」とは、ただただ自分自身が悪事をしないことに向けられているというわけだ。

では反対にジロー=キカイダーにとっての「悪」とは何か?
これも詳しくは作品で、と言いたいところだが、簡単に言ってしまえば、それは「悪」の命令に従ってしまうこと、だ。ただし、「悪」そのものについて『人造人間キカイダー』で直接語られることは、まったくない。

まとめればこうだ。
「善」とは、悪に従わないこと。
「悪」とは、悪に従ってしまうこと。

このことは、マンガ版『人造人間キカイダー』のクライマックスで、「良心回路」の動作を打ち消すためにキカイダー=ジローに取り付けられた装置を知れば、ますます理解が深まるだろう。
「良心回路」の対極にあるもの、それは「服従回路」と呼ばれるパーツだった。すなわち「悪」に従わせる回路だ。
キカイダー=ジローはこの装置によって「悪の心」を知り、仲間を「だまし」兄弟を「ころす」。
ジローは言う。
「・・・おれはこれで・・・人間と同じになった・・・!!」

しかしそれは、言ってみれば「良心回路」自体を否定していることに他ならないだろう。「良心回路」を”成長”させるだけでは、「人間と同じ」にはならないことの証明になるからだ。
その混乱が、イチロー=01の登場によるものであることは、すでに書いたとおり。「良心回路」を持たないイチロー=01を「善」とも「悪」とも設定できなかった時点で、「良心回路」は『ピノキオ』でのコオロギ(作中での「良心」)の位置から逸脱してしまった。ギルの悪魔笛という「悪」が消滅したとき、ジロー=キカイダーの「良心回路」も実質的に消滅していたというわけだ。


以上、『人造人間キカイダー』における「善」と「悪」をざっと見てみたが、「善」自体はもともとは存在せず、「悪」の出現によってそれは現れ、「悪」の消滅によって同じく消滅する、というこのパターンは、これまで見てきた石森ヒーロー作品の大半に共通する展開だ。もともと存在しないんだから、石森ヒーロー作品において「善」「良」「正義」といった概念が積極的に定義されることはない。それはいつでも、「悪」に従わないこと、「悪」と戦うこと、という具合に、逆説的にしか提示されない。

この石森ヒーローの立脚点の危うさを、知って知らずか白昼のもとに晒したのは、実は同じ『人造人間キカイダー』をタイトルにするテレビ版のほうだった。

つづく

人造人間キカイダー ジローの目的

光明寺家の人々

マンガ版の『人造人間キカイダー』は、要するに人造人間であるジロー=キカイダーの「自分探し」の物語だったので、ジロー以外の登場人物が描き込まれることはほとんどなかった。
と言っても、このマンガを読んだことがある人はそう多いとは思えないので、ざっとあらすじを・・・。


まず光明寺博士の自宅に近い研究所で生まれたジローは、襲い来るダークロボットと戦ってこれに勝った。しかし研究所は破壊され、博士の行方は分からない。続いて光明寺家がダークロボットに襲われ、これもジローが撃退するが、博士が残したメッセージのなかに、「良心回路」が完成できない場合はジローを破壊するように、という一文があることを聞いたジローは光明寺家から逃げ出してしまう。

あてもなく街をふらつくジローだったが、ミツコが依頼した服部半平という私立探偵に連れられて帰宅する。すると再び光明寺家がダークロボットに襲われ、ミツコが誘拐される。ジローはダークの手からミツコを取り戻したものの、自分がロボットであることに反発し、またもやミツコの前から逃げ出してしまう。

ジローが帰宅すると、ミツコと弟マサルはジローを探しに北海道に旅立っていた。ジローも後を追って北海道へ向かい、ミツコらと一緒にいたダークロボットを倒した。ところがミツコがそのダークロボットをかばうような発言をしたので、嫌気がさしたジローはアメリカに渡ってしまう。

ジローが帰宅すると、光明寺家がダークロボットに囲まれていたので、それらと戦闘。その途中、光明寺博士を目撃したジローは、連れ去られる博士を追ってダーク基地に。この後何があったのかは不明だが、またもや街をウロウロしているジローの前に、サブロー=ハカイダーが現れる。ハカイダーに悪魔笛を吹かれたジローは宝石店を襲った上に警官と乱闘、「良心回路」を完成してくれ~と騒ぎながら帰宅するが、そこでも悪魔笛を吹かれ、ミツコを襲ってしまう。ジローはハカイダーには歯が立たず、あっさり破壊されるとダーク基地に連行され、修理を受ける。が、この親切な措置は、ハカイダーの頭部に内蔵された光明寺博士の脳髄の意思によるものだった。これに怒ったギルはハカイダーを倒すが、復活したキカイダーの手でギルは殺され、博士の脳は元の体に戻される。意識不明の博士とともに、爆破炎上するダーク基地を脱出するキカイダーだった・・・。


と、このダーク基地全滅までがテレビ版の『人造人間キカイダー』と平行して描かれた前半部で、マンガ版はこのあとテレビ版の『キカイダー01』パートへとシームレスに続いていくわけだが、とりあえずここでは後半部分については触れないことにする。

とにかく言えることは、マンガ版はロボットアクションものにメロドラマを加えたもので、ジローがミツコに反発して家を飛び出していくことが物語展開の原動力になっている。また、そもそもジローはプロフェッサー・ギル率いるダークと戦うつもりはサラサラなく、自己防衛のための戦闘しか行っていない。

これはジローに搭載された(不完全な)「良心回路」の性質を考えれば当然の行動であって、「良心回路」は結局のところ、”悪魔笛の命令を聞かないこと”、以外の命令をジローに与えることはない。だから、人間の手で作られたロボットであるにも関わらず、ジローには生きる意味や目的がない。事ある毎に何かと街をフラフラとうろつくジローだが、まさにその姿こそが、この人造人間のデフォルトの姿だと言えるだろう。

で、マンガ版は要は現代風『ピノキオ』なので、これはこれで面白いんだが、テレビ版はそうもいかない。主人公が自分探し人間で自分にしか興味がなく、自己中心的かつ僻みっぽい、というのでは「正義のヒーロー」としてはふさわしいとは言えない。と言って、天才・石ノ森章太郎の初期設定を安易に変更することも、なかなか許されないことだろう。

それではその初期設定の中に何かテレビ向けに生かせるものはないか、と見ると、一つある。
ダークに研究所を襲われて行方不明になった光明寺博士・・・。
これは使える。

よく考えてみれば、ミツコとマサルの姉弟が父の行方を気にしないのは不自然だ。何とか探し出そうとするのが普通だろう。となれば、同じく光明寺博士の「息子」であるジローも彼らと一緒に「父」を探すことになり、ごく自然な展開として、光明寺をダークに連れ戻そうとするプロフェッサー・ギルとの激突が起こる。
しかもマンガ版には光明寺博士の現状についての記述はない。自由な設定が許されるだろう。

かくして、”記憶を失った”光明寺博士のダークからの本能的な逃走劇が始まり、それを追う子どもたちと、彼らを守ろうとするジローの旅が始まった。それはまた、プロフェッサー・ギルとキカイダーの激闘の始まりでもあった。
そしてテレビ版ではじめてジローに与えられることになった、彼の「目的」。この設定によって、『人造人間キカイダー』の核心である「良心回路」は、マンガ版とは全くことなる地平へと向かうことになるのだった。

つづく

人造人間キカイダー ~テレビ版の良心回路

ジロー誕生

うっかり調子に乗って、マンガ版にまで話を広げてしまった結果、いったい何の話を書いているのか自分でも訳が分からなくなっているこのブログだが、ここでもう一度テーマらしきものに立ち返ると、元々は『仮面ライダー』の亜流として始まったはずの『人造人間キカイダー』は、中盤から長坂秀佳という独特の眼力をもつ作家がメインライターに座ったことで『仮面ライダー』の世界から完全に逸脱したのみならず、『仮面ライダー』的なヒーロー像への痛烈な批評にまで達してしまった、という話だった。

それで強引に話を戻すが、その長坂秀佳ご本人は『人造人間キカイダー』について、次のように振り返っている。

「まず、設定ありき。そこにある設定を最大限に活かすというのが、オレの姿勢なんだよ。与えられた設定の、他人が気づいてない特色を膨らませるというか。
『キカイダー』って(主人公が)半分正義で半分悪で悩む、これが唯一の特色なのに、オレが入る前は、その設定がほとんど活かされてなかったんだ。正直”何なんだよ、これは”と思ったね」(KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.5/2004年刊)


ここで”何なんだよ”と言われているのは、常識的に考えれば『人造人間キカイダー』の当初のメインライターであった伊上勝だろう。伊上勝は『仮面ライダー』『超人バロム・1』『変身忍者嵐』に続いて、『人造人間キカイダー』でもメインライターを務めたが、『キカイダー』からは途中で完全に手を引いている。
一方、長坂秀佳のほうは、初めのうちは5回に1回くらいのペースの参加だったが、次第にピッチを上げ、終盤のハカイダー登場以降は、最終回までの全脚本を担当した。

またあとで詳しく書きたいが、石ノ森マンガ版でのハカイダーというのは、それほど重要な意味を持っていない。頭部に光明寺博士の脳髄が移植されているので、キカイダーが戦うことができない相手、というだけの存在だ。その設定を「最大限に活か」して、特撮テレビドラマ史上、もっとも有名な悪役に仕立て上げたのは長坂秀佳だ。

と書くと、いかにも伊上勝が凡庸な作家であるかのようだが、そんなことはない。
『人造人間キカイダー』でいえば、石ノ森は、ジローであろうとキカイダーであろうとプロフェッサー・ギルに超音波笛(悪魔笛)を吹かれると良心回路は無力だ、と設定したが、テレビ版ではキカイダーの姿であれば良心回路は完全に作動する、と変更した。笛を吹かれて苦痛にのたうち回るのは、ジローの姿のときに限定した。

この変更によって、『人造人間キカイダー』は俄然、面白くなった。ジローはいつでも自由にキカイダーになれるわけではない。まず、ギルの吹き鳴らす笛の音からいかに逃れるか。例えば、クルマのクラクションを鳴らすとか、わざと頭に衝撃を受けるとか、滝に飛び込むとか、作家の腕の見せ所だろう。

が、その一方で、ひとたびキカイダーに「チェンジ」してしまえば、特に弱点のないキカイダーは無敵だ。なにしろダークロボットの生みの親、光明寺博士が、全てを知り尽くしたダークロボットを倒すために作ったのがキカイダーなのだから、負けるはずがない。

そう、マンガ版では何の命令も受けていなかった無意味なロボット・キカイダーは、テレビ版では明確な命令を受けたロボットだった。第1話でジローは言う。
「ダークのおそろしい野望を砕くためにきた男!」
これが光明寺博士がジロー=キカイダーに与えた命令だ。さらに、ギルにダーク基地内の研究室を襲撃された博士はジローに念押しする。
「戦え!戦うんだジロー! ジロー、ダークの陰謀を打ち破ってくれ!」

そうして誕生したジロー=キカイダーだったが、よく考えてみると、ジローはロボットのくせに命令違反を犯しているように見える。光明寺博士の命令は、ダークと戦ってその陰謀を打ち破ること、だった。それなのに、ジローは積極的にダーク基地を探し出してギルを殺そうとはしない。
ではジローが何をしていたかと言えば、第6話ではこう言っている(伊上勝脚本)。
「ダーク破壊部隊を倒し、光明寺博士を捜す任務がある」
ジローは、そのうちの後者を優先した。

ダーク基地で燃えさかる炎に巻かれた光明寺博士は、その時のショックのせいか記憶を失い、ダークの追っ手に怯えて逃げ回る日々だった。それを必死になって捜しているのがミツコとマサルの姉弟だ。ジローは、自分自身がダークに追われる身なので、陰からその二人を見守り、保護している。そしてその一方で、自分の手でも博士の行方を捜している。ジローは、そこまで含めて自分に与えられた「任務」だと拡大解釈している。

大きく見れば、テレビ版の『キカイダー』の初期設定はここまでだ。
マンガ版との相違点は、大きく言って2点。ジローが人間によって命令を受けたロボットであること。それと、ジローでは不完全な良心回路は、キカイダーにチェンジすれば完全に作動すること。

もちろんこの変更は、1話完結で一応は話をまとめなくてはならないテレビの事情からきたものだろう。キカイダーにチェンジしても悪魔笛に対抗できないというのでは、ヒーロー番組として成立しない。ギルにしても、自動笛吹き機でも作った方が安心して悪事を働けることになる。

こうしてテレビ版の良心回路は、マンガ版の良心回路とはまったく異なる装置となった。
これは逆に考えれば、石ノ森の考えた『キカイダー』の初期設定を、『仮面ライダー』や『変身忍者嵐』に無理矢理近づけていった結果と見ることも出来るだろう。つまり、表面的には『キカイダー』も『仮面ライダー』も『変身忍者嵐』も、1話づつを見る限りにおいては、そう大きな違いはないように見える。悪の軍団がいて、その陰謀を阻止する「正義のヒーロー」がいる。そして「正義のヒーロー」の最大の弱点とは、彼らが人間の姿でいることに他ならない・・・。

物語上の基本構造を同じくするこれら三作で、『キカイダー』を『キカイダー』たらしめているのが「良心回路」の存在だ。では、「まず、設定ありき」の長坂秀佳は、この「良心回路」という設定を、どう「膨らませ」たのだろうか。

つづく

人造人間キカイダー ~ジローとミツコ

ジローとミツコ

人造人間キカイダー』について書かれた評論に、『マンガ・特撮ヒーローの倫理学』(鳥影社)という本がある。この中で著者の諌山陽太郎さんが「良心回路」について書かれている部分を若干引用すると、こんなものがある。

「『人造人間キカイダー』でいう『良心回路』とは煩悩の滅却、すなわち運命からの脱却と、悟り、なのだろうが(以下略)」
「だから、キカイダーの『良心回路』とは、『良心』というよりは、私たちが普通に考える<心>だと考えるべきだろう」


ぼくはこの本を初めて読んだとき、諌山さんが何の話をしているのかがサッパリ分からなかった。というのも、諌山さんが語っているのはマンガ版の『キカイダー』についてであって、ぼくが知っているのがテレビ版の『キカイダー』だけだったからだ。

今は遅ればせながらマンガ版も読んだので理解できるが、たしかにマンガ版の「良心回路」は「普通に考える<心>」だと考えることもできると思う。ただ、その場合、ジロー同様に自分の意思で自由に行動できるイチロー=キカイダー01はどう考えたらいいのだろう。イチローには「良心回路」は搭載されてないので<心>がないことになるが、彼は未知への恐怖心を持ったり、ジローへの嫉妬心を持ったりと、「普通に考える<心>」があるとしか思えない言動をする。

・・・まあここまで来たらハッキリ言うしかないが、石ノ森章太郎のマンガ版の「良心回路」は矛盾だらけで余り練り込まれたものではない。おそらくちょっとした思いつきに過ぎなかったのだろう(う、これは言いたくなかった・・・)。

さて、そんな”思いつき”の「良心回路」が生き生きと描かれるのが、光明寺ミツコとのメロドラマにおいてだった。
テレビ版のミツコは、ジロー誕生の5年前に光明寺博士とともにダークに拉致され、助手として働かされていた。当然の結果として、ミツコはいっぱしのロボット技術者になっていたので、事ある毎にジローの「良心回路」を完全なものにしたがる。それは博士からの指示でもあったが、いつしかミツコがジローに対して恋愛感情を持ち始めている証しでもあった。

しかしそんなミツコの申し出をジローは断り続ける。
「おれは今のままで十分だ。余計なことはやめてくれ。光明寺博士の良心回路は不完全かもしれない。が、その不完全さをおれの意識のコントロールで補っている。もう大丈夫だ」(第3話)
この時のジローのセリフは、マンガ版にもほぼ同様なものがある。おそらく企画から参加している伊上勝が、石ノ森のアイデアをそのまま採用したのだろう(時期的にはテレビ版が先)。

第12話はもう完全にメロドラマだ。
ミツコ「ジロー、あなたの良心回路を直させて! 完全な人造人間にさせてちょうだい!」
ジロー「いや、ぼくは今のままでいいんだ」
ミツコ「でも、ダークの笛に苦しむあなたを見るのは、とても耐えられないわ」
ジロー「いいんだ!今のままで!・・・人間なんかになりたくない」
ミツコ「だけどあなたは、人間でないのが悲しいって言ってたじゃないの」
ジロー「それは・・・、そういう意味じゃないんだ・・・」

聞くところによれば、『人造人間キカイダー』は、東映ヒーローには珍しく女性のファンも多いそうだが、こんな二人の微妙なやりとりが受けているのだろう。平山亨プロデューサーの石ノ森への最初の注文は「仮面ライダーより叙情的なものを・・・」だったのだから、石ノ森がその期待に見事に応えていることは疑いがない。

ところがそんな二人のメロドラマは、回を進めるごとに意外な方向に展開していく。その理由を先に言えば、『人造人間キカイダー』の中盤までは、複数の脚本家が自己流に石ノ森の設定を料理していったからだろう。たとえば第3話では自分を「おれ」と称しているジローは、第12話では「ぼく」と言っている具合に。

そして、そうして互いに刺激を与え合った効果か、テレビ版の『キカイダー』はマンガ版を超えて、当時としては稀に見る深みを目指していく。例えばマンガ版のテーマの一つでもある”人造人間の孤独”。『仮面ライダー』や『サイボーグ009』にも見られる、石ノ森が得意とする表現だ。
第15話はそんなジローの”孤独”を描いた回だが、なんと脚本は伊上勝だ。メインライターの伊上勝までが、石ノ森の設定を逸脱していったのだ。

(あらすじ)死んだはずの光明寺太郎が帰ってきた。太郎はダークに囚われ、監禁されていたのだ。再会を喜び、抱き合う光明寺三兄妹を静かに見つめるジロー。
太郎はダーク基地から脱走する際に、秘密の計画書を持ち出していた。その計画を阻止するために現場に向かう太郎とジローだったが、太郎は戦闘中に負傷してしまう。太郎を抱えて光明寺家に戻ったジローに、ミツコとマサルは激しい口調で言う。
ミツコ「さわらないでジロー!あなたは心のどこかで太郎兄さんを疑っていたんだわ!だから、だから太郎兄さんは・・・!」
ジロー「違う!そんなつもりじゃ・・・」
マサル「姉さんとぼくで、太郎兄さんの看病をするんだ!」
ジロー「そうか・・・おれの出る幕はないわけか・・・。一眠りしておく。何かあったら起こしてくれ・・・」
もちろん、太郎はダークロボットの変身姿で、ジローの良心回路を破壊するのが目的だった。


というわけで、『人造人間キカイダー』のウリの一つであるジローとミツコのメロドラマ周辺について書いてみたが、そこだけを取り出してみると、ますます「良心回路」とは何かが分からなくなる。諌山さんは「普通に考える<心>」と言われるが、太郎の正体を半ば見破りながら、二人の姉弟の気持ちを思いやって黙っていたジローを見れば、ジローが普段から<心>を持っていたのは明白だ。

おそらく石ノ森は、普段のジローが「不完全」であることを表すために、ジローの性格を自己中心的で僻みっぽいものにしたのだろう。しかしそれは、所詮はある個人の持つキャラクターに過ぎなかったから、もっと自己中心的で僻みっぽいイチロー=キカイダー01が登場するや否や、ジローはただの”善人”としか表せなくなってしまった。気がつけば「良心回路」も、どう機能しているか全く分からないウヤムヤなものに・・・。

すでに「完全」と「不完全」の境界を失った「良心回路」が、諌山さんの言うように「普通に考える<心>」にしか見えないのは当然の結論だろう。

しかしそんな「良心回路」の設定が当初に持っていた面白さを見逃さない人物がいた。
その脚本家・長坂秀佳の筆で、テレビ版の「良心回路」はさらに独自の展開を見せていくのだった。

つづく

人造人間キカイダー ~ゴールデンバットとゴールドウルフ

ゴールドウルフ

人造人間キカイダー』の中で、光明寺博士によって「良心回路」を搭載されたロボットはジロー=キカイダーだけではなかった。石ノ森章太郎のマンガ版ではゴールデンバットが、長坂秀佳脚本のテレビ版ではゴールドウルフが、ジロー=キカイダーのテストケースとして「良心回路」を搭載された。ただしそれは、ジローのそれより「もっともっと不完全な」良心回路だった。

マンガ版のゴールデンバットというロボットには、石ノ森の考えた「良心回路」というものの本質が良く現れている。
ミツコを彼のアジトに誘拐し、ジローを罠に嵌めようとしたゴールデンバットは、自らの造物主である光明寺博士に対して激しい憎悪を持っていることをミツコに告げる。いわく、自分は「光明寺の実験のぎせい者」であると。
「身がってもいいかげんにしてもらいたい。うぬぼれんじゃないよ・・・と言いたいね!!」
「そいつは・・・その『良心回路』は・・・ジローのものよりもっと不完全だったから・・・”良心”なんてものに悩まされる時間が短くてすんだからいいようなものの・・・それでもずいぶん苦しめられた」

ここでゴールデンバットが「苦しめられた」と言うのは、要するにいわゆる”良心の呵責”というものだろう。本来はプロフェッサー・ギルの命令に従っていればよかったはずのダークロボットなのに、「良心回路」が働くせいで善悪の判断に苦しめられた、と。しかしゴールデンバットの「良心回路」は出来損ないだったので、その呵責は短時間で解消し、無事にギルの命令に従えた、と。
作中の文脈からはそう読み取れると思う。

ところがこのゴールデンバットは、ジローを破壊せよというギルの命令の達成を目前にしながら、その方法をミツコに「ひきょうもの!!」となじられると、あっさりジローを解放してしまう。そして言う。
「そのおじょうさんに・・・ロボットにもプライドがあることを見せてやろうじゃないか・・・」

このときゴールデンバットはまるで一般論のように「ロボットにも」と言うが、もちろん彼以外のダークロボットは「プライド」なんて持っていない。さらには、「プライド」のために命令違反をするロボットも、彼以外にはいない。そしてその「プライド」のおかげでジローは窮地を脱し、正々堂々と勝負してゴールデンバットを倒すことができた。
では、そんなゴールデンバットの「プライド」とは、いったい彼のどこから来たものだったか。

言うまでなくそれは、彼に内蔵された「良心回路」からだ。
それだけではないだろう。
光明寺博士に対する「憎悪」。これだって、他のロボットにはない<心>だ。

石ノ森章太郎は「良心回路」を、あたかもぼくら人間がもつ”良心”であるかのように考えたようだが、実際には諌山陽太郎さんが言うところの<心>として描いてしまった。これが石森章太郎の矛盾であり、限界だった。
しかしそれは、同時に石森作品の魅力でもあった。有能な作家からみれば、その矛盾や限界は、作品世界の懐の深さとして映ったことだろう。

テレビ版で「良心回路」をもったロボットが登場するのは第11話。
やはり光明寺博士の手で「良心回路」を内蔵されたゴールドウルフは、普段はいたって温厚な紳士だった。そして彼は(マンガ版とは反対に)光明寺博士が「好き」だった。そのため彼は、記憶を失ったまま友人の田所博士の邸に滞在している光明寺博士をより安全な場所に隠そうとしたし、ミツコとマサルがダークに捕まればそれを逃がそうともした。

しかしゴールドウルフには「良心回路」と同時に「月光電池」と呼ばれる装置が内蔵されていた。月の光を受けると彼は人間の姿を失い、”良心”も消える。ジローは襲いかかるゴールドウルフを説得しようとするが、戦闘ロボットの姿のウルフにジローの言葉は通じない。
するとふいに月が雲に隠され、ウルフは人間の姿に戻る。すかさずギルの悪魔笛が吹き鳴らされ、ふたりは激痛にのたうち回る。やがて雲が去ると、いよいよウルフは笛の音に苦しむジローの息の根を止めにかかってくる。
どうにかキカイダーにチェンジしたジローは必死の説得を試みるが、万策尽きると必殺の電磁エンドをウルフに食らわせる。雲が再び月を覆い隠したのは、その直後だった。「月が・・・月がもう少し早く隠れていてくれたら・・・」と言い残し、ゴールドウルフは絶命する。それを見るキカイダーの機械仕掛けの目からは、ひとすじの涙が流れるのだった・・・。

このときキカイダーが涙を流した理由は、決してゴールドウルフの不運に同情しただけではないだろう。ゴールドウルフがみせる「善」と「悪」の二つの<心>が、ただただ「良心回路」と「月光電池」という二つの装置によって引き起こされている”現象”に過ぎないことが、キカイダー=ジローを泣かせたのだとぼくは思う。
ジローだって同じなのだ。ジローが<心>だと思っているものは、所詮は機械が生み出した現象に過ぎず、ひとたび悪魔笛を吹かれてしまえば彼の”良心”は停止する。

こうして石ノ森のゴールデンバットと長坂秀佳のゴールドウルフを見比べてみると、石ノ森が”良心”と言いながらあいまいな<心>として描いた「良心回路」を、長坂秀佳は徹底して”良心”にこだわって描いていることが分かる。もちろんそれは「まず、設定ありき」と言う長坂秀佳のポリシーによるものだろう。

しかしそうして「設定」にこだわればこだわるほど、「良心回路」の「設定」はますます分からなくなっていったはずだ。なにしろ「設定」では、ジローの「良心回路」は「不完全」なのだ。それにもかかわらず、ジローには普段から”良心”が備わっているように見える。いったいジローの”良心”は、どう「不完全」だと言うのか。

それとこの回のジローがゴールドウルフに見た「月光電池」。ゴールドウルフの「悪」は、この装置がもたらす現象だった。「月光電池」の力が「良心回路」を圧倒したとき、ウルフは「悪」に染まる。ならば「月光電池」とは「良心回路」の対極にある存在だと見ることができるのではないか。

長坂秀佳の筆によるこの第11話は、テレビ版の『人造人間キカイダー』が、マンガ版から大きく逸脱し、独自に発展していく契機となった作品だとぼくは思う。そしていよいよ第27話からは、伊上勝に代わって長坂秀佳がメインライターの座につくのだった。

つづく 


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