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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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人造人間キカイダー ~バイオレットサザエの悪魔の恋

バイオレットサザエ・・・って長い名前だな、おい

人造人間キカイダー』第27話「バイオレットサザエの悪魔の恋」は、そのタイトルどおり、アンドロイド同士の「恋」が一応のテーマになっている。一応、というのは、本当にジロー=キカイダーとバイオレットサザエの間に恋愛感情が生まれたのかどうかが、いまいち定かではないからだ。

この回、ジローらは、「良心回路」の設計図を完成させたという荒木博士に会うために、大家荘という温泉旅館を目指していた。しかしその動きはいち早くダークにキャッチされ、荒木博士は設計図を渡すようにダークに脅迫される。
そこにジローが現れてバイオレットサザエとの戦闘になるが、悪魔笛に阻まれ、博士を助けられない。そして結局、大家荘に連れ戻された博士は脅迫に屈せず、バイオレットサザエに殺害されてしまう。滝壺に落下することでようやくキカイダーにチェンジできたジローは、大家荘でバイオレットサザエと再戦し、ダブルチョップを食らわせてこれを撃退。現場にいたもう一体のダークロボットを追って野外戦に移り、これも撃退した・・・。

問題はこの後だ。
大家荘に戻ったジローにミツコが言ったセリフで、テレビ版『人造人間キカイダー』は石ノ森章太郎のマンガ版から大きく逸脱していくことになるが、それはこんなセリフだった。

「あなたが完全になれば、ダークを全滅させることができるのよ。今みたいに苦しむこともなくなるのよ」

ここでミツコが言う「完全」とは、もちろん「良心回路」の完成を指す。
さらにその後のシーンでのプロフェッサー・ギルのセリフはこうだ。
「あれがやつの手に入って良心回路が完全なものにでもなれば、われわれダークは壊滅させられる・・・」

「良心回路」が完成すると、ダークが壊滅する・・・・。
こんな設定は石ノ森のマンガ版には存在しない。石ノ森版の「良心回路」とは、普通に考えるところの<心>である、とは、評論家の諌山陽太郎さんが『マンガ・特撮ヒーローの倫理学』で述べられているとおりだ。

それでは何故、脚本家・長坂秀佳は「良心回路」に別の意味を与えていったのか?
それは、「良心回路」を普通に考えるところの<心>と捉えたのでは、全体に矛盾が生じてしまうことに感づいたからではないか、とぼくは思う。
第27話の続きはこうだ。

キカイダーにダブルチョップを食らったバイオレットサザエは、胸部を故障して大家荘の庭先に倒れていた。これを察知したジローは、バイオレットサザエを大家荘に連れて入ると、修理を施してやる。不審がるバイオレットサザエにジローは言う。
「君たちは悪い人間の言うことだけを聞くように作られたアンドロイドだ。君たち自身に罪はない」
それを聞いたバイオレットサザエも言う。
「キカイダー、わたしも良心回路が欲しい」

するとそこにミツコが戻ってきて、ダークロボットを助けるのか、とジローに詰め寄る。ジローはミツコに
「ミツコさんには分からない。壊れかかった人造人間がどんな気持ちなのか」
と言い返すと、バイオレットサザエを安全な場所に隠す。そして、荒木博士が娘に預けたという「良心回路」の設計図を探しに出かけた。むろん、自分のためではなく、バイオレットサザエに装着してやるためだ。

しかしジローが去ると、そこに別のダークロボットが現れ、バイオレットサザエを粛正しようとする。バイオレットサザエは、これまでのジローとのやりとりは設計図を奪うための演技だったと言い、ミツコをとらえて設計図のありかを吐かせようとする。
そこへジローが現れ、バイオレットサザエに「考え直せ」と言うが、バイオレットサザエは聞く耳を持たずに襲いかかってくる。ジローはやむなく電磁エンドを食らわせてトドメを刺す。
断末魔のバイオレットサザエは言う。
「さっき言ったことは本当だった・・・。でも私たちはプロフェッサーギルから逃れられないのよ・・・」

この第27話は大筋だけを捉えれば、マンガ版から大きく逸脱しているというわけではない。マンガ版においても、人工知能を装備されたダークロボットたちは、自ら思考し、行動を決定する。テレビ版のバイオレットサザエも、そのなかの一体として構想されたはずだ。

だが、その、人間の手で装備された人工知能による思考、という制限内においても、ゴールデンバットやバイオレットサザエのように<心>らしきものを持ったアンドロイドは成立してしまう。それは、他でもなくジロー自身がそういうアンドロイドだからだ。

だとすれば、ジローが他のダークロボットとは異なり、あたかも人間のように見える秘密は「良心回路」にあるわけではないことになる。マンガ版のイチロー=キカイダー01が、「良心回路」を持たないのにも関わらず、見かけ上はジローと何も違いがなく、むしろジロー以上に生き生きとした人間のように描かれたことが、その証明になるだろう。

ならばテレビ版の「良心回路」とは何なのか?
実は、ぼくらはそれが「完成」した状態を簡単に目にすることができる。チェンジ(変身)した後の、キカイダーがそうだ。キカイダーは、ジローと違って悪魔笛の効果がない(正確には、薄い)。これが「良心回路」が完全に作動している状態だ。

そして第27話以降は、幾度となく「良心回路」のパワーが語られることになる。

「キカイダーがあの設計図を手に入れたら、完全無敵の人造人間になってしまう。そうなったら、このダークに勝ち目はないのだ」(第28話ギルのセリフ)

「もしぼくの良心回路が完全なものになったら、ぼくは人間以上の機械になってしまう。ぼくは少しでも人間に近いところにいたい」(第29話ジローのセリフ)

「ダーク破壊部隊が、いつも決まってキカイダーに敗れてしまうのは、キカイダーの良心回路がその場その場の状況に応じて、適切な判断をする力を持っているからだ」(第30話ギルのセリフ)

「キカイダーのように、敵方の能力および弱点を読み取る力は、まだ私にはありません」(第30話ダークロボット・アカネイカのセリフ)



こういったセリフからは、もはや「良心回路」を<心>と捉えるような曖昧さを見ることはできない。そしてそれは、キカイダーの強さを「良心回路」に求めた先にある、自然な結論だったとぼくは思う。

かくして長坂秀佳は、ここに一人のヒーロー像を提示することになる。

「良心回路」とは正反対の機能をもつ「悪魔回路」を搭載したヒーロー。
ハカイダーの登場だ。

つづく

人造人間キカイダー ~ハカイダーの悪魔回路

ハカイダーショット

ハカイダーは光明寺博士が製作したうえに、ご本人の脳髄が頭部の透明ケースに収められている人造人間だ。もちろん光明寺博士がそれを望んだわけではなく、プロフェッサー・ギルに図られてしまってのこと。
マンガ版では、博士の脳という人質をとられたキカイダーがハカイダーを攻撃できない、という一点に絞られて話が進んでいくが、テレビ版ではもうひと工夫がされている。

それが、「良心回路とは正反対」とギルが言う「悪魔回路」のハカイダーへの搭載だ。
正反対というのだから、「悪魔回路」の機能を見ていくことで、キカイダーの「良心回路」の正体も分かるはずだ。
では、作中で「悪魔回路」はどう働いたのか。

ハカイダー誕生の瞬間、ギルは叫んだ。
「お前の敵はこの世にただ一人、キカイダーあるのみだ!」
その言葉通り、結論から言ってしまえば、それはどんなことをしてでもキカイダーを自分の手で倒す意志、として機能した。そのためにハカイダーは、味方のダークロボットの邪魔ですら、平気で行う。

第38話「ハカイダーがジローを殺す!」。
この回ハカイダーは、ダークロボット・ヒトデムラサキが光明寺ミツコとマサルの姉弟を襲うところに割って入り、その邪魔をした。泡を食って、
「きさま、ダークを裏切る気か!」
と騒ぎ立てるヒトデムラサキに対して、ハカイダー=サブローはこう言い放つ。
「おれはただ、人質作戦などという汚い手が嫌いなだけだ。帰ったらギルに伝えろ。余計な出しゃばりはするなとな」

第40話「危うしジロー!機能完全停止!!」。
この回もハカイダーは、やはりマサルを襲うキリギリスグレイの妨害をし、あざけるように言う。
「マサルたちに手を出すことはおれが許さん。おれはお前たちのように、命令通り動く低脳ロボットではない」

しかしハカイダーの暴走は、味方ダークロボットの邪魔をすることには止まらなかった。再三の命令無視を叱責しようとギルが本部に呼びつけると、こともあろうか司令室のドアをぶち壊して乱入し、ギルがまだ話をしている最中だというのに「そんな話は聞く必要がない」と言って、天井をぶち破って去っていった。首領の威厳を無視されたうえに、司令室をボロボロにされたギルは、怒髪天をつく勢いだ。

そうしてハカイダーは、ただひたすらジロー=キカイダーをつけ回し、その命を狙うわけだが、よく考えてみればハカイダーは決してギルを無視したり、その命令に違反しているわけではない。
ギルによって与えられた最初の命令、「お前の敵はこの世にただ一人、キカイダーあるのみだ!」を忠実に実行しているだけだ。

そしてこの時、仲間はおろか首領のギルでさえを、その目的達成のためには邪魔者扱いしようとするこの強靱な意志こそが、「悪魔回路」の機能だと言えるだろう。なぜなら、作品のどこにもハカイダーがいわゆる「悪事」を働く描写はないからだ。
ハカイダーは「悪魔」のように悪事を行うアンドロイドではない。
「悪魔」のような執念で、キカイダーの打倒・破壊を目指すのがハカイダーだ。

さて、それではその「悪魔回路」と「正反対」の機能をもつ「良心回路」とは何か?
キカイダーの生みの親、光明寺博士は第1話でこう叫んだ。
「戦え、戦うんだジロー!ジロー、ダークの陰謀を打ち破ってくれ!」

これこそが、本来キカイダーに与えられた命令だった。そして、ジローの状態では不完全な「良心回路」は、キカイダーにチェンジした後は”完全に”機能する・・・。

となれば、「良心回路」の正体は明白だろう。それは、ハカイダーがキカイダーを追うような執念でもってダークの基地を探し出し、プロフェッサー・ギルをこの世から抹殺するために機能する装置だ。
それならばギルが、「あれがやつの手に入って良心回路が完全なものにでもなれば、われわれダークは壊滅させられる・・・」と、あれほどまでに「良心回路」の完成をおそれたことにも説明がつくと思う。

しかし、ジロー自身はそんな「良心回路」の完成をずっと拒否してきた。
これは石ノ森のマンガ版では、完璧な「良心」が備わってしまったジローは人間より優れた人格をもつ存在になるから、「人間」になることに憧れているジローには受け入れられなかった・・・というようなニュアンスで表現されたが、テレビ版の”完全な”「良心回路」は「良心」あるいは<心>ではない。

それではテレビ版のジローは、なぜ「良心回路」の完成を拒絶し続けたというのか?
おそらくそれは、もうひとつの「良心回路」、すなわちハカイダーの「悪魔回路」の末路を、ジローが内心秘かに予感していたからだとぼくは思う。

そしてそれは、『仮面ライダー』に始まる石ノ森章太郎ー平山亨(東映)の生み出した数多のヒーロー像へのアンチテーゼとして展開されていったようにも、ぼくには思えるのだった。

つづく

人造人間キカイダー ~ハカイダーの絶望

キカイダーの胴体

前回の記事で書いた「ハカイダーの末路」は、「ハカイダーの絶望」と言い換えられるものだった。
まずは、ざっとあらすじを。

第41話「壮絶ジロー空中分解!」。
ミツコとマサルの姉弟が拉致されてダーク基地に連行されると、そこには脳髄をハカイダーに移植されて植物人間にされた光明寺博士がいた。ようやく父と再会できた子どもたちだったが、もはや会話を交わすことさえできないのだった。
一方、そのころキカイダーも、ミツコとマサルを救出すべく、ダーク基地に向かっていた。そこに立ちふさがったのが、全身に地雷を埋め込んだダークロボット、アカジライガマだ。アカジライガマの秘密を知らないキカイダーは、必殺の回転アタックを食らわせるが、ガマの地雷と接触してしまい、大爆発を起こす。キカイダーの体はバラバラになって、無惨な骸を荒野にさらすのだった。

そこに現れたのが執拗にキカイダーを追ってきたハカイダーだ。ハカイダーはバラバラに壊れてしまったキカイダーの姿を見ると、アカジライガマに言う。
「キカイダーはこの世で俺のたった一人の強敵だった。キカイダーとの勝負だけが、俺の生き甲斐だった・・・。そのキカイダーを倒したアカジライガマ!俺はお前と勝負しなければならん!」
ハカイダーはアカジライガマの起爆装置を封じたうえで、ガマの爆弾を狙い撃ちし、アカジライガマを木っ端微塵にする。

「俺は仲間をやってしまった・・・」
虚脱したハカイダーは、ダーク基地近くの荒れ地をフラフラと徘徊している。

俺は、何だ・・・。
俺は何のために生まれてきた・・・。
アカジライガマは倒した・・・。キカイダーは死んだ・・・。
これから俺は、何のために生きていくんだ・・・。
俺の目的は何だ!
こんな姿で俺はどうやって生きていくんだ!
憎い!
俺を作り出したプロフェッサー・ギルが憎い!
殺す! ギルを殺す!


そう言うとハカイダーはダーク基地最深部に侵入し、ギルに問う。
「俺を作ったやつが憎い! なぜ俺を作り出したんだ!」
ギルはそれには応えず、お前を作ったのは光明寺だと言う。ハカイダーは今度は光明寺を探して基地を走り回る・・・。


ハカイダーが殺したがっている光明寺博士。その頭脳が、当のハカイダーの頭部にあるという現実が、この回の見所だろう。光明寺を殺すと言うことは、自分を破壊することに他ならない。というのも、ハカイダーはその活動を維持するために、定期的に光明寺の肉体とのあいだで血液交換をしなければならないからだ。
要するに、このときのハカイダーの殺意は、他でもない自分自身に向けられていた。

もちろん、このハカイダーの人造人間にあるまじき行動の源は、彼の中の「悪魔回路」にある。キカイダーを我が手で破壊する、という目的を失ってしまった「悪魔回路」がハカイダーを暴走させた。目的を達成した後のプログラムは、ハカイダーには存在しなかった。

このハカイダーの絶望。
実はこの絶望は、キカイダーにも存在したはずのものだった。
キカイダーに搭載されている「良心回路」。それは「悪魔回路」とは正反対に、何が何でも我が手でギルを殺す、という命令を受けたものだった。
だとすれば、いよいよギルを殺してダークを壊滅させた暁には、キカイダーの「良心回路」も目的を失い、彼もまたハカイダーが見たのと同じ暗黒、虚無を見ることになる。

だがジローは、自分の「良心回路」が完全になることを拒絶し続けた。
さらには、「良心回路」が完全に作動する状態であるキカイダーの姿で居続けることも望まなかった。
なぜか?

おそらくそれは、「良心回路」が命じる単一の命令に従うことを、ジローが無意識のうちに拒否したからだと、ぼくは思う。もしもジローの「良心回路」が完全なものであれば、ジローはミツコやマサルがどんな危険な目にあわされようと、助けることはなかっただろう。光明寺博士を捜し出して、ふたりに会わせてやろうという気も起きなかっただろう。そんな余計なことを、彼の「良心回路」は命じていない。「良心回路」は、ただひたすらダーク破壊部隊を蹴散らし、ギルを殺せと命じているだけだ。

しかしジローは、自分が「良心回路」の命令だけに従うことを拒絶した。
それはつまり、ジローが自分の「目的」を、自分で選択できる状態に置いた、ということだ。

長いので次回に続く

人造人間キカイダー ~ハカイダーの幼児性

サブロー

前回の続き

人造人間キカイダー』終盤の面白さは、「正義のヒーロー」であるはずのキカイダーよりも、むしろ悪役であるハカイダーのほうが、より一般的な「正義のヒーロー」に近い、という点につきるだろう。

整理すればこうだ。
まずハカイダーは、キカイダーを倒せという単一の命令を受けている。ハカイダーはキカイダーと戦うことだけが目的なので、それ以外の悪事を働くことはない。また、ハカイダーは卑劣な行為は嫌っていて、正々堂々とキカイダーを倒すことを望んでいる・・・。

こんなハカイダーと、同時期の「正義のヒーロー」のどこに違いがあるというのか。
例えば『イナズマン』だ。

イナズマンは、バンバの新人類軍団を倒せという単一の命令を受けている(厳密には志願した)。イナズマンはバンバと戦うことだけが目的なので、それ以外の善行に励むことは特にない。また、イナズマンは卑劣な行為は嫌っていて、正々堂々とバンバを倒すことを望んでいる・・・。

という具合に、キカイダーという「善玉」を標的にしている以外の点では、ハカイダーとイナズマンの言動はほとんど同じだ。もしも、プロフェッサー・ギルがハカイダーに与えた命令が「バンバを倒せ」であったなら、ハカイダーとイナズマンは仲良く共闘して事に当たったことだろう(最終的な手柄をハカイダーに譲ってやる必要はあるが)。

だが、そんなハカイダーは、標的であるキカイダーが破壊されてしまうと自分の存在理由を見失い、途方に暮れてしまう。そのあげくが逆ギレで、自分にキカイダー打倒の命令を下したギルを憎悪すると殺意を持ち、さらにはその怒りを、血を分けた”父親”ともいえる光明寺博士に向けるようになった。

光明寺博士を目の前にして、ハカイダーが絶叫する殺害の動機はこうだ。
俺はコイツのおかげで、ただの殺人機械にされたのだ!」(第42話)

「殺人機械にされた」と恨みながら、今また光明寺を殺そうとするハカイダーの矛盾。
ハカイダーの精神レベルは、そんな矛盾にさえ気がつかないほど、幼い。
まるで、親のいいなりになってガリ勉に明け暮れたものの、元の頭が悪いせいで受験に失敗し、青春を奪われたとか騒いで金属バットで親を殴り殺そうとする子どものようだ。

ハカイダーは仲間のダークロボットを蔑んで、言った。
「俺はお前たちのように命令通りに動く低脳ロボットではない」と。
しかしどうだろう。
本当にハカイダーと他の「低脳ロボット」の間に、彼が自負するほどの違いはあったのだろうか。

そしてもしもハカイダーが、70年代の「正義のヒーロー」たちと同じヒーロー像であるとしたなら、彼ら「正義のヒーロー」たちはどうなんだろう。
ハカイダーは、キカイダー打倒が果たされたとき、自己の存在理由を失ってしまった。それは、それだけが彼の信じる「正義」だったからだ。しかしハカイダーは、その「正義」がどのように「正義」であるかは考えることがなかった。ただ、キカイダーを倒すことが「正義」だと、ギルに教えられただけだった。

いや、俺は違うぞ。俺は人間の自由と、世界の平和のためにショッカーと戦っているのだ。
と、仮面ライダー=本郷猛なら言うだろう。だからショッカーと戦う自分は「正義のヒーロー」なのだと。

だが、仮面ライダーがショッカーを全滅させたところで、実際にはこの世の中が何か良くなるわけではない。
そりゃ当然で、それは所詮は虚構の、架空の世界での出来事に過ぎないからだ。いもしないショッカーという侵略者にわざわざ「人間の自由」やら「世界の平和」やらを脅かさせておいて、おもむろにヒーローにそれを叩きに来させるのが70年代ヒーロー番組の基本フォーマットだ。

要は、仮面ライダーがショッカーを滅ぼしたのちに残るものは、70年代の”現実の”日本の姿でしかない。仮面ライダーは(歪んでしまっている)虚構の日本を、現実のリアル日本に戻す作業をしているだけだ。そこにあるのは、現実の日本社会の絶大なる受容・肯定であって、現実社会の永久不滅の維持だ。
つまりは仮面ライダーの「正義」とは、現実の日本社会の姿そのものに他ならない。

現実こそ「正義」、今がサイコー!ということだ。

だから、現実の日本を良しとしない立場から見れば、ヒーローの「正義」など茶番でしかない。
その左翼的思想をヒーロー番組に織り込んだ脚本家、佐々木守などは、自分が生み出したヒーロー『アイアンキング』のなかで、ヒーローに向けてこんな皮肉を浴びせかける。

「あなた(※ヒーロー)とあの人は違うわ。あの人たちは革命のために戦っている。自分の思想のために戦ってるわ。でもあなたは命令されて戦っている。そう、あなたは戦うことが好きなだけよ」
「弟は幸せものです。だって弟は自分の思想のために、自分の考えを貫いて死んだんですもの。(中略)あなたたちも、あなたたちの考えを貫いて戦ってらっしゃるんでしょう?」(詳しくは当ブログ、アイアンキングのカテゴリにて)

ヒーローは命令されて戦っている。ヒーローは自分の考えを持っていない。
これが佐々木守がヒーローたちに浴びせかけた皮肉だ。
ハカイダーがこれを聞けば、うんうん、たしかに俺はそうであったのー、と大いに納得することだろう。
ではイナズマンはどうだ?
仮面ライダーは、超人バロム・1は、変身忍者嵐は、ゴレンジャーは、どうなんだろう?
彼らは彼らが維持しようとする現実の日本社会の、どこがどう「正義」なのか、考えたことがあるのか? 現実世界を無批判・無条件に受け入れ、肯定し、維持しようとする力の先兵になってはいないのか?

一つの価値観だけを盲目的に信じさせられたハカイダーは、たしかに”幼稚”の誹りを免れないだろう。
しかし例えば、いい学校を出て、いい会社に入ることが人間の幸せだと信じて疑わず、それだけを我が子に押しつける大人は、果たして”幼稚”ではない、と言い切れる存在なのか?


『人造人間キカイダー』では、悪役のハカイダーのほうが、実際には「正義のヒーロー」そのものである、という一種のねじれ現象を見ることができた。
では、ヒーローであったはずのキカイダー=ジローは、このねじれ現象にどのような答えを見出したのだろうか。

つづく

人造人間キカイダー 最終回「ジローの最期かダーク全滅か!?」

脳をとられたハカイダー

結論から言ってしまえば、ジロー=キカイダーは「正義のヒーロー」になることを最後まで拒絶した。光明寺博士はジローの「良心回路」を完全にしてやろうとしたが、ジローはそれを断って、ひとり「修行」に旅立っていったのだった。

一応、前回までの記事で書いた箇所の後の、あらすじを。


光明寺博士を殺害しようとしてダーク基地内を探し回ったハカイダーは、ミツコとマサルが監禁されている牢獄に辿り着くが、そこには脳髄を奪われて人工的に余命を保っている博士の肉体とともに、五体バラバラにされたものの、ミツコの手で上半身だけの修理が終わったばかりのキカイダーがいた。ハカイダーは再びキカイダーと戦えることを喜び、キカイダーの修理が完成するのを待つ。

やがてキカイダーは完成し、二人の対決が始まった。戦いのさなか、ジローはミツコに博士の肉体をダーク基地内の手術室に運ぶように命じる。一方、ジローとハカイダーがまだ基地内にいることを知ったプロフェッサー・ギルも、最後の戦いを仕掛けてくる。
牢獄での戦闘は不利と見たハカイダーは通路に飛び出していくが、そこに待ち構えていたダークロボット・ハッコツムササビの奇襲を受け、絶命する。

ハカイダーの遺体を手術室に運んだジローは、ハカイダーから光明寺博士への脳髄移植手術をミツコに命じると、自分は時間を稼ぐためにサイドカーで逃走した。ダークがジローを追跡しているうちに博士の手術は成功し、光明寺親子はダーク基地を脱出する。が、多勢に無勢であっさり捕まってしまう。

ギルは「初めからこうしておけばよかった」と悔やみながらも、光明寺親子の死刑を行おうとするが、そこにキカイダーが戻ってきて、いよいよダークとの最後の戦いが始まった。
結局、悪魔笛を叩き折られたギルは観念し、司令室に逃げ込むと基地を爆破すべく、起爆装置を押す。かろうじて基地を脱出したキカイダーたちが見守る中、ダーク基地は大爆発を起こし、炎上するのだった・・・。

光明寺家はスイスで休養することになり、引っ越しの荷造りを急いでいた。ミツコはジローと過ごすスイスでの生活に思いを馳せているが、ちょうどその頃、書斎ではジローが博士に別れを告げていた。

「博士、ミツコさんたちには何も言わずに行きます」
「うむ、私も君の良心回路を完全にしてやれなかったことだけが心残りだ」
「いえ、ぼくはこのままがいいんです、欠点の多い人造人間のままで。完全な機械にはなりたくありません」
「・・・ジローくん、いろいろと苦労をかけたな」
「とてもためになりました」
「それから・・・やはり修行に出るのか?」
「はい、全国を回って、不完全な良心回路に負けない精神力を身に付けてきます」
「頑張りなさい」
去っていくサイドカーの爆音が、ミツコの耳にも聞こえたのだった・・・。


繰り返しになるが、もしもジローの「良心回路」が完全なものであったとしたら、光明寺博士が生還してダークが滅亡してしまった今、ジローもまたハカイダー同様に自らの存在意義を失って、底深い虚無感に襲われるはずだった。しかし幸いにもジローの「良心回路」は不完全なままだったので、彼の精神状態には特別な変化が起こることはなかった。

それならジローは、これまで通りミツコとマサルのそばにいて、二人を守っていけばいい。
そう考えるのが普通だろう。
だがジローには、そうもいかない事情があった。
ぼくはその事情を、ヒーローが子どもたちに示すべき「父性」を、ジローが持ち合わせていないからだと思う。『人造人間キカイダー』のなかで具体的に言えば、ジローがマサルに示すべき「父性」ということだ。

マサルという少年は、石ノ森章太郎のマンガ版ではほとんどクローズアップされることはない。マンガ版のサブストーリーはあくまでジローとミツコのメロドラマであって、マサルはミツコの付録のような存在でしかない。
そんな哀れなマサルに光が当たるのは、長坂秀佳がメインライターに座ったテレビ版の第27話からだ。

それ以後、永遠の平行線で話の広げようがないミツコとのメロドラマは影を潜め、”ヒーローと少年”という、特撮テレビ番組の王道に『人造人間キカイダー』はシフトしていく。

蒸発した父親を捜す旅を続けるマサルにとって、ジローは心強い保護者だった。それもそのはずで、もともとジローとは、ダークの手で殺された本当の兄、光明寺太郎の身代わりとして実父が製作したアンドロイドだった。マサルはジローを慕うが、その想いは本来は兄の太郎に向けられるべきものだった。
そのため、第15話でダークロボットが変身したニセの太郎が現れると、マサルの気持ちはあっさりとジローを離れてしまう。

そんなマサルの気持ちにつけ込んだのがハカイダーだ。
第36話「狂ったジローが光明寺をおそう」に始まる急展開は、悪魔笛に操られたジローが、ついに記憶を取り戻した光明寺博士を絞殺しようとすることから始まる。
この時のはげしい葛藤で、ジローはオーバーヒートを起こして全機能が停止。光明寺はダーク基地に連行され、ハカイダーの製造を強制されてしまう。ミツコはジローを修理するが、声帯回路が直らず、ジローは声が出ない。殺人容疑で拘置所にぶち込まれたジローは身の潔白を証明できず、牢を破って逃亡する。

「父の仇」ジローを探し回るマサル。
ここでマサルの前に現れ、「どんな機械の動きも止める特殊光線」を放つ「デス・ホイッスル」を手渡したのがハカイダーだ。さらにハカイダーは、マサルがダークロボットに襲われるとそれを助け、マサルをすっかり手なずけてしまう。ジローの地位は、かくも容易にハカイダーに取って代わられてしまったのだった・・・。

要するに、マサルにとって、ジローはただの便利なボディガードに過ぎなかった。
光明寺博士は、バレれば殺されるというダークの監視の中、秘かにジロー=キカイダーを製造した。ジローとは、あくまでダークの陰謀と戦い抜くのだという、光明寺の意志そのものであり、彼の「父性」そのものでもあった。また、マサルの兄、太郎は、環境警備隊の隊員としてダークに対抗し、殺害された。

こうした「生き様」は、ジローにはない。
ジローはただ、マサルとミツコを見守り、襲い来るダークを撃退していっただけだ。それも彼が、ダークに対抗しうる力を持つアンドロイドだったおかげだ。
おそらくジローは、なぜダークと戦わなければならないのか、とマサルに問われても、きちんとした答えを与えてやれることはなかっただろう。ジローは、ただ、ダークは「悪」だから戦え、と命じられたから戦った。そこに、ジロー自身の「父性」はない。ハカイダーと何も変わらない。

ところが幸いにして、単一の命令だけを与えられたはずのジローの「良心回路」は不完全だった。そのおかげで、ジローはダーク打倒よりも、ミツコとマサルの護衛を優先することを自ら選択できた。
つまりはジローは偶然にも、「主体性」を持ったアンドロイドとして生まれてきた。
だから、すでに自分が「ボディガード」でしかないと気付いてしまったジローの「主体性」は、光明寺一家と離れての修行の旅路を選択させた。マサルに伝えるべき「父性」を備えた真のヒーローになるためには、それしかなかった。


この、ハカイダー登場以降の『人造人間キカイダー』が、東映的なヒーローのあり方への一種の批評になっていることは興味深い。悪役であるはずのハカイダーのほうが、東映的なヒーローの属性の全てを備えており、その一方で、善玉ヒーローとして設定されていたはずのキカイダーが、最終的には自分自身のあり方を否定してしまう。
こんな視点は石ノ森章太郎のマンガ版には存在しないので、(アドバイス等は受けたかもしれないが)後半のメインライター・長坂秀佳のもつ世界だろうと、ぼくは推測する。

そんな長坂秀佳が、全32話中、30本の脚本を担当した東映ヒーロー番組がある。
快傑ズバット』だ。

つづく

快傑ズバット 〜長坂秀佳

あすかー!!

快傑ズバット』(1977年・東映)のあらすじは至ってシンプルだ。親友を殺された主人公・早川健が犯人に復讐するために旅を続ける。それだけだ。旅の中で早川は行く先々の悪党を倒して回ることになるので、結果的に『快傑ズバット』は、いわゆる「正義のヒーロー」のフォーマットに準じているように見える。
が、これはそう見えるだけで、実態は180度と言っていいくらいに異なる。

まず主人公の早川健は、「何をやっても日本一」というバカバカしくも痛快な看板を掲げている以外は、ただの人間だ。そのただの人間が、自分で作った強化服「ズバットスーツ」を着込み、自分で作った改造車「ズバッカー」に乗って、悪党どもと戦う。それもただ、悪党に殺された親友の今際の際の言葉「一緒に戦おう」という約束を守るためだけに、だ。

悪党どもも人間だ。こいつらはヤクザだったり暴力団だったり、普通にどこの街にでもいる犯罪集団だ。もちろん、それらの上位組織として「ダッカー」という悪の総本山が存在するが、これも首領が変テコな着ぐるみを着ていることを除けば、現実の社会と何も変わらないだろう。また早川は、自分が戦っている相手が「ダッカー」の支部であることを、途中までは知らない。

要は『快傑ズバット』とは、いわゆる「正義のヒーロー」フォーマットの枠内で、ぎりぎりのリアリティをキープしている希有な作品だと言えるだろう。『快傑ズバット大全』(双葉社)のなかで脚本家の長坂秀佳が語るには、『ズバット』をもっとも支持していたのは当時の大学生だったそうだ。そうした傾向のせいか、15%もの高視聴率を稼ぎながら玩具が売れず、スポンサー降板で打ち切りという展開は、アニメの名作にはよくある話だが、特撮ヒーローでは珍しいように思う。

さて、そういった『ズバット』にまつわる痛快なエピソードについては「Wikipedia - 快傑ズバット」でも見ていただくとして、ここでぼくが強調したいことは、このようにある程度まともなリアリティを保ったままでも、特撮ヒーロー番組は十分に成立できたという一点だ。現実社会に本当にいる「悪」を、ただ親友との約束を守るために追いかける男がいてもいい。

ズバットを演じた宮内洋はつねづね「特撮ヒーロー番組とは子供達に正義の心を教える教育番組に外ならない」と語ったそうだが、ことこの作品についてはその言は妥当だろう(『V3』『ゴレンジャー』には疑問も残るが)。『ズバット』には一人の人間の「生き様」があり、「父性」として子どもたちが学べるものが多く含まれているとぼくは思う。

では(いいかげんしつこいが)『ズバット』以外の東映ヒーローのどこが問題なのか?

まずそれらは、子どもたちに明らかな「ウソ」をついている。
それらは大抵の場合、「人間の自由」と「世界の平和」を守ることがスローガンになっているが、それを侵すショッカーを始めとした悪の軍団というものは実際には存在しない。だからショッカーを全滅させることによって回復する「人間の自由」と「世界の平和」というのは、ただの「現実の世界」であるに過ぎない。

だが、東映ヒーロー全盛期には、少なくとも「世界の平和」は存在していない。70年代前半には、ベトナム戦争はまだ終わっていない。
ヒーローたちが本当に「人間の自由」と「世界の平和」を目指すなら、彼らはまずベトナムに行くべきだろう。そしてアメリカ人に殺されているベトナム人を助けることが先だ。

さらに、ヒーローたちがみな、人間でないという点も問題だ。
彼らは「改造人間」だったり「人造人間」だったり「超能力者」だったりして、そういった特殊な能力をもつこと自体が戦闘の動機になっていたりする。それを一言で言うなら『超人バロム・1』の「正義のエージェント」になるだろう。要するに、これらの番組世界で「悪」と戦うのは「代理人」ということだ。ぼくらではない。

結論をいえば、これら2つの問題を抱えたヒーロー番組は「現状肯定・現状維持」の強力な推進者であり、平和維持を「他人事」に押しやる作用を持つ。ぶっちゃけて言えば、アメリカ万歳、戦争なんてオラ関係ねえ、ということだ。
なぜなら、彼らヒーローの戦う「悪」には、かつて”アメリカ様に逆らって痛い目にあわされた”「大日本帝国」の姿が見え隠れしているからだ。

そもそも、なにゆえ「世界征服をねらう悪の軍団」などという荒唐無稽な設定が、何の躊躇いもなく繰り返し繰り返し登場してくるのか。ぼくはその理由を、戦後日本社会にそれらと同じ設定をもつ「悪の軍団の物語」が存在したからだと思っている。言うまでもなくそれが、「大日本帝国の物語」だ。

つまりは、先にあらかじめ、戦後日本に蔓延した「東京裁判史観(自虐史観)」のストーリーがあったからこそ、東映ヒーローの「悪の軍団」のストーリーは成立した。「悪」と言えば、なんといっても「世界征服をねらう侵略者」だろう、という暗黙の了解があった。

例えば『仮面ライダー』のショッカーは、あのナチスドイツと深い関わりがあることを作中で示唆された。あるいは『変身忍者嵐』では、悪の軍団「血車党」に心ならずも協力してしまった「父の過ち」を償うために、その息子が血車党と戦った。いずれも「悪の軍団」には「大日本帝国」の影がうかがえると思う。

となれば、70年代東映ヒーロー番組とは、観れば観るほど「自虐史観」を植え付けられ、現在の日本のあり方こそが正しいのだという思考停止を促す作用があることになる。
残念ながらぼくらの世代は、そういった番組をリアルタイムで(まだ柔らかかった)脳みそに注入された世代だった。
すでに白状したとおり、ぼく自身、ほんの6、7年前までは堂々たる自虐史観を持ち、アメリカ様に忠誠を誓う一匹のB層だった。・・・お恥ずかしいことです。

ただ、ぼくが言いたいことが、石ノ森章太郎や平山亨(東映)が、意図的に子どもたちに自虐史観を植え付けようとしてヒーロー番組の量産をしたわけではない、ということは、いまここで『快傑ズバット』を取り上げたことで十分理解していただけると思う。そして、多くの東映ヒーローファンが、『ズバット』こそが70年代ヒーローの最高傑作だと評価していることも追記しておきたい。

それにしても、脚本の長坂秀佳という人はどういう人なんだろう。
ご本人が書かれた自伝『長坂秀佳術』(辰巳出版)も読ませていただいたが、その豪放磊落で愉快な人物像は楽しませてもらったものの、ご自身の思想面への言及は多くはなかった。
ただその人は、『仮面ライダーX』では「悪」を「米ソ」の陰謀による日本の破壊だと設定してメインライターを降ろされ、『人造人間キカイダー』では東映的な「正義のヒーロー」を最後の最後に否定し、ついには人間が人間と戦う当たり前のヒーロー『快傑ズバット』に行き着いた人だということだ。

つづく

レインボーマン 死ね死ね団

死ね死ね団

繰り返しになるが、70年代の東映に代表されるヒーロー番組の問題点は、その悪役(敵)の設定にある。
「人間の自由」を奪い「世界の平和」を乱す侵略者・・・。こんな曖昧で荒唐無稽な存在があの時代のヒーロー番組で当たり前のように採用されたのは、日本の戦後が、まさにそういった「侵略者」の物語を共有していたからだろうとぼくは思う。
言うまでもなく、その「侵略者」とは、”アジアの人々の自由を奪い、アジアの平和な暮らしを乱した”と宣伝される、「大日本帝国」の物語だ。

要するに『仮面ライダー』や『マジンガーZ』といった東映ヒーローの根底には、東京裁判史観(自虐史観)が滔々と流れている、というのがここまでの話。
何も特別「故郷は地球」やら「ノンマルトの使者」を持ち出すまでもなく、70年代ヒーロー番組の多くは、番組全体として左翼テイストであった、ということだ。

そんな風潮のなか、明らかな意志をもって「愛国」を訴えたのが、川内康範のヒーロー番組だ。
レインボーマン』(1972年・東宝)は、日本「だけ」を狙う犯罪組織を相手に、一人の日本人青年が日本「だけ」を守るために戦っていくというストーリー。ここには「世界の平和」のような、ノーテンキなお題目は存在しない。彼が負ければ、ぼくらの祖国が滅亡する、というシンプルかつ具体的な危機が展開されている。

その『レインボーマン』での悪役を「死ね死ね団」という。
ぼくらの世代なら、そのテーマソングを知らない者はまずいないだろう(女性は除く)。

YouTube - 死ね死ね団のテーマ

「死ね死ね団」は日本人に恨みを持つ人間たちが、日本社会の破壊と、日本人の抹殺を目的として組織した秘密結社だとされる。そのため作中では、しばしば日本人批判が行われる。例えば「死ね死ね団」首領のミスターKは、こんなセリフを主人公のヤマトタケシに吐く。

「きさまが命をかけて守る日本に何がある?」
「日本人は目先の欲得だけにあくせくしているぞ。そんなものの、どこに守る価値がある?」

しかし勘違いしてはならないのは、だからと言って川内康範が「日本」全体を批判しているわけではない、ってことだ。川内康範が批判しているのは、70年代当時の日本人の有りようや意識であって、歴史を含む「日本」全体ではない。
そういった意味では、wikipediaのこの一文も微妙に問題があるだろう。

しかし単純な勧善懲悪モノではなく、太平洋戦争時に日本が犯した過ちを見つめ直そうとする作者・川内康範の意図が反映された、数々の特徴をもっている。すなわち、日本に虐待された外国人が組織立って日本人に復讐しようとするという敵の設定、(以下略)

「過ち」「虐待」「復讐」と来ればバリバリの「自虐史観」になってしまうが、それではまるで「死ね死ね団」のほうが「正義」になってしまう。そんな発想は、川内康範の履歴を見れば、ありえない話だ。
例えば、これぞ川内康範のスタート地点、といえるような発言にはこんなものがある。

「なぜ僕が特攻隊の遺書を発表しようとしたかというと、戦後の日本の文壇には新日本文学会をはじめとして、『太平洋戦争は侵略であって、戦死した者はすべて犬死にだ。この国のこれまでの歴史はすべて否定されなければいけない』という論調が広まっていたんです。羽仁五郎とかはその最たる者だ。ぼくはそんな考えには同調できなくてね、読売新聞で反論した」(『篦棒な人々・戦後サブカルチャー偉人伝』(河出文庫)


それでは「死ね死ね団」とは、どういう組織だったのか?

「死ね死ね団のボスは白人ということになっていますよね、いや、白人じゃなくてフィリピン人だ。ただその背後にいる真のボスは白人なんです。カンボジアであろうがベトナムであろうがフランスは直接植民地統治をしなかった。タイ人を使ったんです。傀儡でしょ。死ね死ね団のボスはフィリピン人なんだが、その背後に白人が控えている」(『篦棒な人々・戦後サブカルチャー偉人伝』(河出文庫)


これが川内康範ご本人が構想した「死ね死ね団」の真実だ。
白人が、日本に恨みを持つアジア人を利用して、日本社会の破壊と、日本人の抹殺を企てている。
「死ね死ね団」は白人の手先であり、傀儡でしかない(ただし、どういうわけか作中にはそれを臭わすような描写がなく、第45話で、戦時中に日本軍の軍医に妻を殺されたというボーグ博士に、ミスターKが「私も同じような境遇だ」と言うくらいしか、「死ね死ね団」の動機や背景について具体的に語られることはなかったと記憶する)。

ではそんな「死ね死ね団」は、どういう方法で日本人を抹殺しようとしたか。

「キャッツアイ作戦」では日本人全てを発狂させようとして、キャッツアイという薬品を貯水池に流そうとした。「M作戦」では大量の偽札をばらまいて、インフレによる日本経済の破壊を目論んだ。
「モグラート作戦」では日本に資源を輸出している国の要人やタンカーを襲い、日本に石油等が入ってこないように工作した。
最後の「サイボーグ作戦」は、日本人をサイボーグ化して奴隷状態にしようとし、さらにはミサイルによる東京の破壊を計画した・・・。

という具合で、最後はやや力技のヤケクソ気味ではあるが、おおむね当時の日本の社会不安を反映した、かなりリアルな計画を次々と実行している。ここには「世界征服(笑)」などという漠然とした願望はない。日本人だけを目標にした、大規模かつ具体的な犯罪があるだけだ。

だから、それと戦うレインボーマンも、漠然とした「世界平和」を願ったりはしない。自分が戦わなければ母が死に、妹が死に、恋人が死に、親友が死に、隣近所の人が死に、自分にまつわる全ての人が死ぬ。そんな状況で、何が「世界」だ。何が「正義」だ。そんなお目出度いヒーローは、この作品には必要ないのだった。

つづく

川内康範「アメリカよ驕るな!!」(1999)

アメリカよ驕るな!!

レインボーマン』の内容について多少書いていこうと思ったが、川内康範作品は、氏の政治思想と切り離して考えることはできないと思い直し、まずそちらをざっとまとめておくことにする。

と言っても、ぼくには一人の思想家の哲学を要約できるような能力はないので、1999年に発行された『アメリカよ驕るな!!』(K&Kプレス)の前書きに当たる「私案『核保有国三原則』」から、適当に引用することで済ませたい。
幸いこの本はまだ新品が買えるので、興味のある人は是非書店にてお買い求め下さい。

以下引用

「私は戦争によって勝ち得る『平和』というものの脆さを、二十世紀を生きた人間としていやというほど見せつけられてきた。
それでも非戦の憲法を護持し得る国家の一員としての誇りを持ってきた。だが、その誇りをいまや見直さざるを得なくなりつつある
そうさせたのはアメリカである。第一の疑問は湾岸戦争であった。
そして今度のガイドライン問題、さらにユーゴスラビアに対するNATO軍の攻撃が、国連不在、アメリカ主導によってなされているという現実を通じて、もはや国連はその機能を放棄したも同然である、との判断に立たざるを得なくなった」


「ヨーロッパは十七世紀以降、戦争を繰り返してきている。
その最大ともいうべきナチスドイツは、アウシュビッツであれだけの大惨劇を演じながら一度として謝罪したことはない。また、謝罪を要求もされていない。それどころか、東南アジア各国は、米英仏蘭をはじめとする白人支配を受け、日本が三百余万名の戦死者を出しての敗戦時まで、完全なる植民地であった。
マレーシアのマハティール首相ではないが、東南アジア各国独立の契機は、日本の米英への挑戦があってのことだということぐらいは、日本の教育の戦争史観の中核部分として明記されてしかるべきことなのだ。
無論、それは日本の戦争を正当化するためのものであってはならないが、歴史の必然として新世紀を迎える日本人がすべて理解し、納得しておくべき重大な記録である。
それがねじ曲げられて、徒に謝罪外交などをするから、将来日本を背負って立つ若者たちの国家という概念の骨格が曖昧として、その曖昧さが国旗や国家という、極めて初歩的な、日本国籍を有する人々の、興国の理想すらも放棄させられているのだ。
その遠い素因をまさぐってゆくと、いやでも敗戦国日本に対しての、勝利者アメリカの対日政策の基本が何であったかの疑問にぶち当たる」


「私はこれまでに『不戦の憲法を護持せよ』の著作をはじめとして、絶対的平和とは亡国の思想とも思われるほどのスレスレ、つまりは皮膜一枚の覚悟がなければ果たし得ないとの私説を述べてきたのだが、いま、その過去の論述を根底的に見直す必要に迫られている
それは、非戦の憲法を改正する他に、法理論的にも猫の目のように変貌する国際情勢に対処し得ず、もはや日本国憲法は護持するに値しないとの結論に達してこの拙稿に至った」


「本来、憲法とは交戦国たる米国との講和条約が批准されて初めて制定されるべきが正当なる手段、方法である。したがって、サンフランシスコ講和条約が交わされる以前は、日本は非独立国であって、憲法を自発的に発布し得ないのが国際的常識である。
それを敢えて占領軍代表たるマッカーサー司令部の恣意によってつくられた憲法を不磨の大典の如く守ってきた日本国歴代政権担当者たちの責任はあまりにも大きい」


「これらの凶告を予知すれば、非戦を理想とするわが国の成し得る道は一つしかない。
ズバリ書く。『非核三原則』を破れ』。
但し、このことによって、日本は新しい『核保有三原則』を創設する。
その第一は、核を他国侵犯のための武力としない。
第二は、自主防衛、国民感情の安定剤としての効用性として位置づける。
第三は、アジア諸国をはじめとする全世界の非核保有国の、不戦への付加価値として位置づける。
神の皮肉であろうか、米国議会がさる十月二十日、包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准を拒否した。これを、非核保有国全体に対する覇権主義のゴリ押しとして捉えれば、非核武装諸国の正気の安定剤としての効用性を発揮することになる。
以上が、不戦を悲願として今日まで主張してきた筆者の本意である」


「結論を述べれば、日本は、自主防衛を前面に押し出しながら、国連加盟、非核保有百七十余か国の平和を守るための戦争抑止型国家に再誕することだ」

以上、川内康範著『アメリカよ驕るな!!』(K&Kプレス)より引用。

ここで特に注目すべきは、氏の憲法に対する考え方だろう。
Wikipediaには「日本国憲法第9条は護持すべきとしていた」との記述があるが、1999年の時点で、すでに氏は「改憲派」であり、核保有論者でもあった。これが戦後政治史とともに歩んだ川内康範の結論だったということだ。

つづく

レインボーマン誕生 ~ダイバダッタ

常軌を逸した修行のようす

レインボーマン』(1972年・東宝)の特徴を一言で言えば、それは「リアリズム」だと言えるだろう。
悪役の「死ね死ね団」のリアリティについてはすでに書いた通りだが、ヒーローの側も、その生い立ちから家族構成、恋人や親友、世話になっているご近所さんまでを、事細かに描いている。

それはまさに、そういったヒーローを取り巻く多くの人々こそが、このヒーローが守ろうとしているものに他ならないからだろう。レインボーマンは「世界の平和」やら「人間の自由」というような、耳障りだけはいいが他人事にも聞こえる、空虚で漠然としたスローガンのために戦っているわけじゃない。今すぐそこにある危機に対し、とりあえず自分に近いところから守っていこうとしているだけだ。

だからレインボーマンは、その必要があるのなら大臣にだって会いに行く(首相と思われる)。
第2クールで死ね死ね団が仕掛けた「M作戦」は日本経済に未曾有のインフレをもたらし、食料価格が高騰。人々は飢えに苦しんだ。だが、この非常事態に、”ヒーロー”は無力だった。彼にできることは大臣に掛け合い、涙を流して人々の困窮を訴え、国の食糧備蓄の放出を直訴することだけだった。

さて、そんなレインボーマンに変身するのは、ヤマトタケシという名の青年だ。
タケシは城東高校に通う学生で、学校ではレスリング部に所属、「下町の黒豹」と呼ばれる猛者だ。タケシには、「おふくろ」というおにぎり屋を営む母たみと、足の悪い小学生の妹みゆきがいる。みゆきはタケシの不注意から交通事故にあってしまったので、タケシはいつかは自分の手でみゆきの手術代を稼ぎたいと思っている。
タケシの父、ヤマト一郎は新聞記者だったが、10年前に東南アジア方面に取材に出たまま行方不明になっている・・・。

以上が主人公ヤマトタケシの家族構成だ。
続いては、そんな普通の高校生がレインボーマンになるまでのいきさつ。

タケシのレスリングの実力は群を抜いており、関東大会では「必殺回転落とし」を連発して弱小城東を準優勝に導いた。しかしその必殺技は大会中に4人もの負傷者を出しており、危険過ぎるという理由でタケシはレスリング部を追われてしまう。怒ったタケシは高校を中退し、プロレスを志す。しかし超高校級の実力も、プロでは全く通用しなかった。失望するタケシに、先輩の堀田がある新聞記事を見せる。そこにはヒマラヤの奥地に住むヨガの行者、ダイバダッタの写真があった。

タケシはプロレスラーに必要な体と技を身につけるため、ダイバダッタへの師事を目指してインドに旅立つ。いろいろあって運良くダイバダッタに弟子入りできたタケシだったが、修行は一向に進まない。
焦るタケシにダイバダッタは言う。

「お前がここに来た目的はプロレスラーになるため。しかし本当の目的は、妹の足を治すためだったはず。それがいつの間にか、おのれがプロレスラーになろうとばかり考えて、私利私欲のとりことなっておる」
タケシも反論する。
「ああ、俺だって人間だ、若いんだ。金も欲しいし、名声だって欲しいんだ。それのどこが悪いんだ」

それを聞いたダイバダッタはタケシを連れて、印パ戦争のまっただ中に降り立つ。そして戦場に放置された数十体の死体を蘇らせる。このダイバダッタの奇跡の力と如来の心にタケシは驚く。
「この術さえあれば、みゆきの足を直してやれる」
タケシの修行はついに本格化し、厳しい修行が続いた。

歳月は流れ、ダイバダッタがこの世を去る日がやってきた。
ダイバダッタは泣き崩れるタケシに、お前はレインボーマンになるのだと言う。
そして「勇気をもって東方の光となれ!」と言い残すと、激しい落雷とともに、ダイバダッタの魂はタケシに乗り移る・・・。


レインボーマンが、仮面ライダーをはじめとした他の特撮ヒーローたちとは全く異なる点は、この「修行」にある。タケシは本人が逆ギレして叫んだとおり、煩悩にまみれた普通の人間であって、改造人間でもなければ人造人間でも超能力者でもない。さらにこの「修行」はあくまでタケシの任意であって、誰にも強制はされていない。
つまりレインボーマンとは、凡百の普通の人間が、自由意思と過酷な訓練によって、空中飛行すら可能とする驚異的な力を身に付けたヒーローだということだ。

というと、例えば自ら志願して改造手術を受けた仮面ライダーV3などはどうなるんだ、という話になるかもしれないが、V3=風見志郎にはデストロンに殺害された家族の復讐、という個人的な欲望があった。
ならば、レインボーマン=ヤマトタケシにも、妹の足を「術」で治療するという欲があるのではないか、と疑う人もあるかもしれないが、これは違う。

そもそも、どうしてタケシの妹は足が悪くなくてはならなかったのか。
帰ってきたウルトラマン』では、実兄の坂田健の足が悪いことによって、坂田次郎少年が、他人である郷秀樹に「父性」を求めるという展開が見られた。登場人物の足を折るという設定には、大抵の場合、本来の自然な物事の流れを阻害し、支流に誘い込むような意図がある。

『レインボーマン』においてそれは、主人公ヤマトタケシが自分の力を「私利私欲」のために使っていないかをチェックする装置として機能した。

つまり、ヤマトタケシは『レインボーマン』全52話の最後の最後まで、レインボーマンとしての力で妹みゆきの足を治そうとはしなかった。『レインボーマン』最終回は、手術のためにみゆきが乗る外国へ向かう飛行機を、その直前まで死ね死ね団の残党と戦っていたタケシが、必死の飛行術でかろうじて見送るシーンで幕を閉じるのだった。

そしてそのチェック機能は、さらに究極の選択をタケシに迫った。
第26話で、タケシはついに探し求めていた父、一郎と再会するが、それは死ね死ね団のアジトの中だった。協力してミスターKを追うヤマト親子。しかし何ということか、一郎は敵の放った銃弾に倒れてしまう。ようやく会えた父。妹みゆきは父の顔さえ知らない。会わせてやりたいと思うのが、兄としての人情だ。そしてレインボーマンの力は(時間はかかるものの)死人を蘇生させることも可能だった。
しかしタケシは、一郎に
「早くやつを追え!」
と叱咤されると、その声にしたがった。父を置き去りにして、巨悪を追った。

自分の責任で足を悪くした妹をそのままの状態にし、父を見殺しにしたタケシの罪業は果てしなく深い。『レインボーマン』は、”ヒーロー”になることを自ら選択したひとりの青年の、想像を絶する苦痛と苦悩を描いた、壮絶なまでの「子ども番組」だった。

つづく

レインボーマン 阿弥陀如来とニート

ヨガの眠り

レインボーマン』は、ごく常識的な意味での「リアリズム」を持ち込んだヒーロー番組だった。
いわゆる「悪の組織」にとって、”ヒーロー”ほど目障りで邪魔なものはない。どうにかして消してしまおうとするのが普通だろう。それを、ごく現実的に表現すればどうなるか。

ヤマトタケシは普通の民間人だ。だから彼は、下町で普通の人間として暮らしている。そのタケシを付け狙う死ね死ね団は、当然タケシの家族だって狙ってくる。団らん中のヤマト家を銃弾が襲い、時限爆弾が仕掛けられる。「危ないことはやめておくれ」と泣きながらすがりつく母。

大切な恋人、淑江も狙われる。淑江の父で、レスリングジムと保育園「どんぐり園」を経営する正造も狙われる。「どんぐり園」の園児さえも狙われる。レスリングの先輩である堀田が狙われ、堀田の知り合いの刑事は殺される。たった一人の親友、吉岡はサイボーグにされてタケシに襲いかかってくる。

要は、タケシとつながりのある全ての人々が死ね死ね団に狙われ、危険な目にあっていく。
これが”ヒーロー”が直面する現実というものだろう。

しかし『仮面ライダー』をはじめとしたヒーロー番組のほとんどは、その部分を省略した。その一方で、ヒーローたちにとっては自分の身を守るくらいは簡単なことでもあった。
だから『レインボーマン』をみた後に他のヒーロー番組をみると、そこにはヒーロー自身の安全が、かなりの面で確保されていることが分かる。彼らには、自分の親しい人たちが今この瞬間にも殺されているかもしれない、というような余計な心痛に悩まされることはない。これは気楽だ。仮面ライダーイナズマンには、いつだって”ヒーロー”を廃業する自由がある。公務員ヒーローのゴレンジャーなら、異動願いを出せばいいだろう。

だがタケシにはヒーロー廃業は許されない。
もちろん、死ね死ね団に降伏してもダメだ。敵は日本人全ての抹殺を悲願にしている。タケシが戦わなければ、遅かれ早かれ日本人は全滅する。そこにはタケシの家族も、恋人も、友人も、町内の人々も、みんな含まれている。
だからタケシは、一日でも早く死ね死ね団の本拠をつきとめ、それを滅ぼさなければならない。

その結果、事情を知らないご近所さんから見れば、タケシは昼間っからブラブラしている若いモン、すなわち「ニート」になってしまった。ヨガの秘術を会得し、ダイバダッタの魂を宿した史上最強の等身大ヒーロー、レインボーマンの真実は、ただのニートだった。

タケシは昼間のうちはずっと空から死ね死ね団のアジトを探している。彼には本郷猛のように大学で研究を続けたり、ゴレンジャーのように定例会議をしたりしている余裕はない。一刻も早く事件を解決するために、彼は自分の全ての時間をレインボーマンの使命に捧げているのだった。

ではその「レインボーマンの使命」とは何か。
タケシはそれを師匠のダイバダッタから受け継いだのだが、彼らはそれを「如来の心」という。
如来にもいろいろあるが、タケシが受け継いだのは「阿弥陀如来」の心だろう。
レインボーマンはエネルギーがなくなると「ヨガの眠り」と呼ぶ5時間の休息に入る必要があるが、このときタケシは座禅を組み、印を結ぶ。これが阿弥陀如来の姿をとっている。鎌倉大仏と同じと言えば分かりやすい。

Wikipediaには「阿弥陀如来」について次のような記述がある。

「『仏説無量寿経』によると、一切の衆生救済のために王位を捨てて、世自在王仏のもとで法蔵菩薩と名乗り修行をした。非常に長期間衆生の救済の思索をめぐらし、浄土への往生の手立てを見出し、衆生救済に関して48の誓願を発願したのち、改めて誓いを立て修行し、それが成就し仏となった報身仏と説かれる」


キーワードは2度出てくる「修行」だろう。
タケシがその心を受け継いでいるなら、彼はレインボーマンになった後も、たった一人で長い長い修行を続けなければならない。”ヒーロー”になっただけでは、まだ修行は終わりではないということだ。


ところで、ぼくはこのブログでは再三にわたって70年代ヒーロー番組の持つある側面について批判的な立場をとってきた。それは『仮面ライダー』に代表される東映ヒーロー番組の多くが、ぼくらの自衛のための戦闘を外部化し、他人事に感じさせる効用を持っているという面だ。つまり、戦うのはどこかの「正義」から委託された「代理人」であって、ぼくらは当事者ではない。ぼくらは「代理人」である「正義のヒーロー」に戦闘を依存し、戦況を見物していればいい。
そして言うまでもなく、この構造は、「正義」=アメリカ、「代理人」=在日米軍の構造と一致する。

しかしどうだろう。
あらゆる苦痛に耐え抜いて、ようやく誕生したレインボーマン。彼は”ヒーロー”になってなお、その使命と責任の重さに耐え、自分につながる人々の生存を思い悩み、瀕死の父親を見殺しにした罪業に苦しんだ。それもこれも、全てはこの日本の破壊をもくろむ死ね死ね団の魔の手から、ぼくら日本人を救済したいがためだ。
レインボーマンは、代わりがいくらでもいるような、どこかの「正義」の「代理人」なんかではない。

そんな孤独なヒーローに、ぼくらはただ「依存」するだけでいいのだろうか?
『レインボーマン』で描かれるヤマトタケシという主人公の姿は、ぼくら当時の子どもたちに、安全な場所から一方的に「依存」されることを拒否しているようにも、ぼくには思える。
第35話で恋人の淑江に、事件なんてレインボーマンに任せておけばいい、と言われたとき、彼女に正体を明かせないタケシはこう叫んだ。

「レインボーマンは宇宙からきたスーパーマンじゃないんだ。ロボットでもサイボーグでもないんだ。レインボーマンは人間なんだ。力の限り生きている人間なんだ。だから俺も、一緒に戦わなければならないんだ」

つづく


タケシがレインボーマンに化身(変身ではない)する際に唱える呪文は「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)」というものだが、「完全な悟り」という意味だとか(豆知識)。


レインボーマン ひとつの日本

親子三代

ここまで『レインボーマン』が、いかに『仮面ライダー』をはじめとした70年代の東映ヒーロー番組と異なる世界観を持つかについて書いてきたが、今回はその決定打ともいえる部分に触れておきたい。
題して、ひとつの日本。

これまで見てきたように、70年代東映ヒーローの多くは、戦後日本に底流する巨大な物語とシンクロすることで、彼らの「正義」の正当性を保ってきた。その物語とは、ひとつは「人間の自由」を最大の価値とする「戦後民主主義」で、もうひとつは「世界の平和」に反するものを敵と見なす「東京裁判史観(自虐史観)」だ。

こうした物語は、戦後になってGHQによって持ち込まれた考え方だから、要するに元々はアメリカの「正義」だ。そしてその「正義」を受け入れた(受け入れざるを得なかった)戦後日本に生まれた特撮ヒーローたちは、「人間の自由」と「世界の平和」のために「悪」と戦った。

しかし、”ヒーロー”たちの「正義」がアメリカの「正義」だとするなら、彼らの戦う「悪」はまず第一にそのアメリカに反旗を翻し「世界征服をもくろんで侵略戦争をおこした」とされる大日本帝国と容易に結びついてしまう。現に、「ショッカー」にはナチスドイツとの深い関わりが示唆され、『変身忍者嵐』は悪に与した父の「過ち」を償おうとし、『超人バロム・1』は日本の外部に存在する「正義」の、その「代理人」を名乗った。彼らの戦う「悪」には、どこか戦後の(左翼的な)文脈で語られがちな大日本帝国のイメージがつきまとっていた。

そんな中、川内康範原作の『レインボーマン』は、ヒーローの戦う「悪」を、日本社会の破壊と日本人の抹殺をもくろむ集団(死ね死ね団)だと具体的に提示した。ここには、東映ヒーローが安直に乗っかった自虐史観の物語はない。
それが明らかな形で示されるのが、第22話、第43話といった辺りだ。

主人公ヤマトタケシの父、ヤマト一郎は新聞記者だった。10年前、いち早く死ね死ね団の陰謀を察知した一郎は、幼い我が子を妻たみに託すと東南アジアまで取材に出かけた。しかし反対に死ね死ね団に拉致されてしまい、10年の間、彼は監禁生活を余儀なくされていた。

第22話「一億人を救え!!」はそんな父が、10年ぶりに成長した息子の姿を見るエピソードだ。
一郎は首領のミスターKに呼ばれ、死ね死ね団の最大の敵はレインボーマン、すなわち一郎の息子ヤマトタケシだと教えられる。それを聞いた一郎のセリフはこうだ。

「タケシが、わたしの息子が、きさまたちと戦っているのか・・・。そうか、タケシが正しい男に成長してくれたのか。そして俺の心を継いで、やはり死ね死ね団と戦うとは・・・。タケシ、父さんは苦しい思いをして生きてきた甲斐があったぞ」

そして死ね死ね団の基地の中で再会した父と子は、協力してミスターKを追いつめる。しかしその父はミスターKの放った銃弾に倒されてしまう。父を助けるべきか、ミスターKを追うべきか。タケシが究極の選択を迫れられた時、父はタケシの迷いを一喝する。「早くやつを追え!」と。そして言う。
「人間に欲望がある限り、悪は消えない。お前の戦いは永遠に続くのだ」

第43話「太陽とみどりに誓う!」では、タケシの祖父が登場する。
このときタケシは、戦闘で受けた傷が元で、レインボーマンの術が使えない状態に陥っていた。そんなタケシの焦りを見抜き、無心であることの大切さを教えたのが剣道の道場を開いている祖父の久蔵だった。この時のやりとりからは、タケシが幼少時からこの祖父に剣術の指南を受けていたことがうかがえる。タケシの人並みはずれた運動能力は、この祖父から受け継いだものだった。

このように「レインボーマン」では、主人公ヤマトタケシが、父の心と祖父の技を受け継いでいることが強調されている。それは言いかえるなら、戦前、戦中、戦後の日本が、レインボーマンという一つの像を結んでいるということだ。ここに日本史の分断はない。一つの日本だ。戦前・戦中の日本を「悪」として否定して、それと戦うことが「正義」だというような、自虐史観につながる発想はない。

そして、そんな父と祖父に育てられたタケシ自身にも自虐史観はない。
第32話で、「アルパニア」という国から友好使節が来日するという新聞記事を読んでいるとき、妹のみゆきに「アルパニア」がどういう国かと聞かれ、タケシはこう答えている。

「東南アジアの小さな国で、戦争中日本がひどいことをしたんだ。それが今度ようやく仲直りができて、むこうの友好使節がやってきたんだよ」

タケシは戦争で日本がアジア諸国に「ひどいことをした」ことを認めている。だからと言って、そんな日本を必要以上に恥じたり、過剰な贖罪意識を持っているわけではない。タケシが「アルパニア」の友好使節団を保護しようと命がけで戦ったのは、それが現在の日本のためになるからだ。

だからタケシは「世界の平和」などといった大言壮語はしない。
彼の誓いは、あくまで「日本人一億のために」だ。
「この、美しい太陽と緑のこの国を、みんなの幸せを守るのが俺の使命なんだ」

つづく