プロフィール

竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
一つの 「カテゴリ」 で一つの記事となってます(記事は古い順に並んでます)。同世代のおっさん向け。

カテゴリ
もくじ

全ての記事タイトルを表示する

月別アーカイブ
ブログ内検索
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

主要記事
リンク
応援中
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

フリーエリア
趣味 - シュミラン

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

正義のシンボル コンドールマン

敵の本拠はニューヨーク

武装した国連の職員が白昼堂々と東京都内を爆走し、徒党を組んで1人の怪人をなぶり殺しにする『秘密戦隊ゴレンジャー』が人気を集めていた1975年。この年、われらが川内康範も一人のヒーローを世に送り出した。
それが『正義のシンボル コンドールマン』だ。

『コンドールマン』の舞台は(おそらく)1975年当時の世界。
そこでは「みにくい人間の欲望からモンスター一族が生まれ出」ていた。金の亡者ゼニクレージーをはじめ、ゴミゴン、スモッグトン、ヘドロンガーといった幹部たちを率いる首領はキングモンスター。彼らは、ニューヨーク摩天楼のビルの一室を本部にすると、「公害・戦争・犯罪などあるゆる悪」をばらまく「人類征服作戦」を開始した。

主人公、三矢一心は国際平和運動グループ「世界の旗」のメンバー。一心は「世界の平和を話し合う会」に国連事務局次長キムトン氏を招いたが、現場をテロ組織に襲撃され、キムトン氏は一心をかばって狙撃されてしまう。
犯人を追ってアメリカ・ネバダ州まで渡った一心だったが、テロ団を背後で操っていたモンスター一族に攻撃され、同行したタバ老人と一緒に逃走する。そこで彼らが発見したのが、古代ムー帝国の守り神、ドラゴンコンドルの傷ついた姿だった。ドラゴンコンドルのタマゴに危険が迫り、それを守ろうとした一心は敵の銃撃を受けてあえなく死亡。タバ老人の手で荼毘に付される。

やがてタマゴは孵り、ゴールデンコンドルが無事に誕生すると、ドラゴンコンドルはタバ老人に言う。
「わたしは彼の心に報いるためにも、彼の母なる国、日本と、日本人の力になりたい。古代ムーの呪術者タバよ、最後に力を貸して欲しい。正義を守るコンドールマンを誕生させるのだ」
それを聞いたタバは、一心の遺骨の一部を祭壇に投じる。一心とコンドル親子がひとつに融合し、ここに「合成鳥人」コンドールマンが誕生した。

そのころ日本では、市場から砂糖をはじめとした甘味が姿を消していた。政府閣僚にすり替わったゼニクレージーの手で、大規模な食品の買い占めが始まっていたのだ。コンドールマンはたった一人で、この巨大な陰謀と戦うのだった。


コンドールマンが戦うモンスター軍団とは、要するに人間の欲望が具現化してしまった怪物たちだ。
そして彼らの本拠は、資本主義の総本山ともいえるニューヨークにある。

この『コンドールマン』の「悪」の設定からは、川内康範が考えた1975年当時の日本というものを、如実にうかがうことができるように思う。モンスター一族の首領は言う。
「日本人は欲のかたまりだ」
だから食いものを取り上げてしまえば、日本人は互いに争って自滅するだろう、と。
同じようなセリフは『レインボーマン』にもあった。
死ね死ね団首領のミスターKはこう言う。
「日本人は目先の欲得だけにあくせくしているぞ。そんなものの、どこに守る価値がある?」
そうした欲にまみれた日本人が生み出すスモッグやヘドロ、ゴミの山からモンスター一族が誕生した。

こういったセリフだけを見ると、まるで川内康範は日本人を憎悪しているかのようにも見えるかもしれない。自虐史観をまき散らすサヨク人間と変わらないという印象を持つ人もあるかもしれない。
が、もちろんそうではない。

そもそも川内康範のキャリアは「海外抑留日本人の帰国運動や戦没者の遺骨引き上げ運動」からはじまった。
さらには再三引用しているこの発言だ。

「なぜ僕が特攻隊の遺書を発表しようとしたかというと、戦後の日本の文壇には新日本文学会をはじめとして、『太平洋戦争は侵略であって、戦死した者はすべて犬死にだ。この国のこれまでの歴史はすべて否定されなければいけない』という論調が広まっていたんです。羽仁五郎とかはその最たる者だ。ぼくはそんな考えには同調できなくてね、読売新聞で反論した」(『篦棒な人々・戦後サブカルチャー偉人伝』河出文庫)


要するに、川内康範が怒っているのは「戦後」の日本と日本人について、ということだ。

このことは、最近ネット上を賑わしている、NHKの台湾についての偏向報道番組の問題と、ほぼ本質を同じくしているように思える。この番組の問題自体はこちらのブログでも見ていただくとして(「アジアの真実 」)、ここでぼくが「本質」というのは、親日・知日で日本統治の良い面を高く評価している台湾のご老人たちが、なぜ今なお、日本に対する不満を抱えたままでいるのか、ということだ。

それは結局のところ、日本の「戦後」に失望し、絶望しているからだ。
「戦前」や「戦中」ではない。もちろん上記の引用でいうところの「これまでの歴史」でもない。
それらを「否定しなければならない」としてスタートした「戦後」のほうに、台湾のご老人も、川内康範も怒っている。


それにしても、1975年の『コンドールマン』において、敵のモンスター軍団の本拠地がアメリカのニューヨークにあるというのは、東映特撮ヒーロー番組もいよいよ行き着くところまで行き着いたという感がある。
というのもぼくの見るところ、ヒーロー番組を虚心坦懐に眺めてみると、そこにはしばしばアメリカの「陰」というものが見え隠れするからだ。

というわけで、次回からはテーマを大きく変えて、70年代(一部は60年代)のヒーロー番組から、「アメリカ」を読み取る作業をはじめてみたい。

つづく
スポンサーサイト

川内康範「まんが日本昔ばなし」

まんが日本昔ばなし

※話題を変えようと思っていたが、肝心なことを書き忘れていた・・・。


同じ1975年の春にスタートした『正義のシンボル コンドールマン』と『秘密戦隊ゴレンジャー』だったが、勝敗は明白。約2年に渡って全84話が放送された『ゴレンジャー』に対して、川内康範原作の『コンドールマン』はたった半年、全24話で番組が終了した。
それどころか『ゴレンジャー』のほうは『ジャッカー電撃隊』(1977年)という後継番組を生み、さらに1979年からは現在に続く「スーパー戦隊シリーズ」の第1号作『バトルフィーバーJ』へと発展していったのだった。

1979年ともなると、すでにぼくは特撮ヒーロー番組を観るような年齢ではなかったので、その『バトルフィーバーJ』という番組は観たことがない。また、当時リアルタイムでみていない作品を、今からDVDでみようとも思わない。
それでWikipediaの記事を読んでみたのだが、いかにも、と言うか、まさしくこれぞ『ゴレンジャー』の正統を継いだ番組だったようだ。例によって5人組のヒーローが登場してくるのだが、それぞれ「ジャパン」「コサック(ロシア)」「フランス」「ケニア」「アメリカ」を名乗り、風采や必殺技もそれぞれの地域の特徴を前面に押し出したものだとか。

『ゴレンジャー』のころは、国連職員という肩書きはあれどメンバーはみな日本人で、あまり日本の外を意識させることはなかったが、『バトルフィーバーJ』はまさに多国籍軍のイメージ。地理の勉強になるといえば聞こえはいいが、世界には統一的な「正義」があるという誤解を植え付けかねない。
くどいようだが、世界共通の「正義」のもとでは、日本やドイツはいまだに「敵国」扱いだ(国連「敵国条項」)。

まあ『バトルフィーバーJ』にケチをつけるのは、ぼくらより下の世代に任せるとして、それではテレビヒーローの生みの親である川内康範という人は、果たして「スーパー戦隊シリーズ」に完全敗北してしまったんだろうか? 氏の生み出すヒーローは、もはや時代遅れだったんだろうか?

ここでもう一度、川内ヒーローの特色のようなものを言うなら、それは月光仮面にしろレインボーマンにしろ、彼らは「正義のヒーロー」ではなくて「正義の味方」だったということだ。彼ら自身が「正義」なのではなく、日本人のなかにある「正義」を彼らは守ろうとした。だから、そこでは常に、テレビを観る側の「倫理」が問われていることになる。いくら「弱者」であろうと、心が正しくない者を彼らは助けることはない。その必要もない。
なお『コンドールマン』の主題歌でも「正義を助けるコンドールマン」と謳われ、川内節は守られている。

一方、仮面ライダーは「人間の自由」や「世界の平和」のために戦った。これは単に人間がおかれている「状態」を問題にしているだけなので、いくら熱心に観ても「正義を愛する心」などは芽生えない。また、仮に仮面ライダーがショッカーを全滅させたとしても、後に残るのはただの現実の日本社会の回復でしかないので、実は何一つ建設的な要素がない。
人も育たず、国も変わらないということだ。
これはおそらく「スーパー戦隊シリーズ」も同じことだろう。

ならば川内ヒーローが消滅した1975年秋には、ぼくら当時の子どもたちに、日本人の心の中にある「正義」を教えてくれる番組は消滅してしまったのだろうか?

いや、そんなことはなかった。
それは全く違うスタイルで、しかももっとダイレクトな表現で、そして「スーパー戦隊」とは比較にならない巨大な影響力をもって、ぼくらの前に姿を現した。

それが、川内康範監修の『まんが日本昔ばなし』だ。

ぼくらの世代でこの長寿番組を知らないという人はまずいないと思うので、いちいち詳しい説明はしないが、要はここには日本人が受け継いできた伝統のすべてがあると言っても過言ではないだろう。言葉はもちろん、歴史や文化、倫理や規範、生活習慣や土着の風習など、いちいち挙げていくのが面倒なくらいだ。「世界の平和」やら「人間の自由」やらも結構なことだが、そんな政治がらみで判断の難しいものを語るより前に、まず日本の子どもなら先に学ぶべきものが沢山ある、ということだ。

『月光仮面』と『まんが日本昔ばなし』は、ある意味では同じことをまったく別の角度から表現したもの、と見ることもできるとぼくは思う。

つづく

GMK ~『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』

白目ゴジラ

話はここで、唐突にゴジラに戻る。

2001年に公開された日本映画に『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』という作品がある。略して『GMK』とも呼ぶそうだ。
Wikipediaによれば「第3期ゴジラシリーズ(ミレニアムシリーズ)の第3作」であり、「平成ガメラ3部作の金子修介監督が担当したことでも話題になった」そうな。「本作ではゴジラは第1作のみを踏まえ、以降日本には怪獣は全く現われなかった設定となっている」ともある。

あらすじは簡単で、約50年ぶりに日本を襲うゴジラを、日本列島に古代から眠る「護国聖獣」なる怪獣たちが覚醒して撃退する、というもの。「護国聖獣」は3体で、バラゴン(婆羅護吽)、モスラ(最珠羅)、ギドラ(魏怒羅)がそれだ。ギドラはキングギドラに変異すると「千年竜王」とも呼ばれる最強の存在になる。

この作品で特に興味深いのは、「ゴジラ」という存在についての解釈だろう。
劇中で「護国聖獣伝記」の著者と目される伊佐山嘉利という古老は、ゴジラを「強烈な残留思念の集合体」だと言う。いわく、「ゴジラには太平洋戦争で命を散らした数知れぬ人間たちの魂が宿っているのだ」。
では何故ゴジラが日本を襲うかについての、伊佐山老人の回答はこうだ。
「人々がすっかり忘れてしまったからだ。過去の歴史に消えていった多くの人たちの叫びを。その無念を」

今さら言うまでもないが、こういったゴジラ解釈は(ぼくの知る限りでは)評論家の川本三郎さんが世に広めたものだ。
あらためて引用すればこうだ。

そしてこのとき『ゴジラ』は「戦災映画」「戦渦映画」である以上に、第二次世界大戦で死んでいった死者、とりわけ海で死んでいった兵士たちへの「鎮魂歌」ではないのかと思いあたる。”海へ消えていった”ゴジラは、戦没兵士たちの象徴ではないか。

東京の人間たちがあれほどゴジラを恐怖したのは、単にゴジラが怪獣であるからという以上に、ゴジラが”海からよみがえってきた”戦死者の亡霊だったからではないか。
(「ゴジラはなぜ『暗い』のか」/『今ひとたびの戦後日本映画』)

というわけで、つまりは有名な川本解釈を下敷きにして制作されたのが、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』という映画だったと見て、ほぼ間違いない。そしてそのゴジラ解釈自体は、おそらく古くからのゴジラファンの人々をニヤニヤさせたことだろう。

ところがさすがに50年も経ってから「ゴジラ第2作」をリメイクしたせいか、このゴジラ映画には肝心な視点がひとつ脱落してしまっている。劇中で、自衛隊高官の父親とテレビレポーターの娘のあいだには、こんな会話が交わされる。

父「太平洋に散った英霊たちは、日本を守るために戦って散った。それがなぜ、ゴジラになって日本を攻める・・・?」
娘「犠牲になったアジアの人々と、アメリカ人と、原爆で死んだ日本人と・・・それが、こう、ひとつになったんじゃない?」

この映画に抜けている視点はもうお分かりだろう。
ゴジラを生み出したのは「アメリカの核実験」だという厳然たる事実が、この作品からは脱落しているのだ。だから娘は平気でゴジラのなかに「アメリカ人」が混ざっていると言ってしまうことができる。

しかしそもそも何故、「太平洋に散った英霊」たちは戦争が終わって9年も経ってからよみがえり、東京を破壊しに来たのか? アメリカの核実験でその眠りを覚まされたのだから、彼らは本当ならアメリカを襲うべきだろう。それが何故、東京へ向かったのか? 
それは「英霊」たちが日本人であり、彼らが1954年の日本に対して激しい怒りを感じたから、だとぼくは思う。

それは、彼らがその若い命を投げ捨ててまで守ろうとしたこの祖国を滅ぼした「アメリカの核」そのものによって、戦後の日本の安全が守られているという現実だ。だから彼らは、東京に「核」の脅威をまき散らし、あの「原爆」の恐怖を再現した。この日本の「平和」は何なのかと。これは偽りの平和であり「欺瞞」ではないのかと。

こんなゴジラに「アメリカ人」が混ざっているはずはない。
ゴジラを生み出したのは漠然とした「人類」ではなく、「アメリカ人」単独の所為だ。こんなことは1950年代の日本人には常識であり、だからこそ『ゴジラ』は「反核映画」として受け入れられた。

「反戦」ではない。「反核」だ。
二度とあの「核」が使われないための警鐘として『ゴジラ』は作られた。二度と日本が戦争をしないように、作られたわけではない(詳しくは拙ブログ記事 ー ゴジラは反戦映画か?)。


実はそのことは、昭和ゴジラシリーズをひとつの大きな流れの中で捉えると、さらによく理解できることでもある。
ご存じのように、はじめは日本を襲う悪玉だったゴジラは途中で心を入れ替えたか、日本を守る善玉へと転身する。それまで東京を皮切りに、大阪、名古屋、横浜と、要は(当時の)人口の多い順に大都市を襲撃したゴジラだったが、これはゴジラを「強烈な残留思念の集合体」だと考えれば納得がいく。つまりゴジラを構成する「思念」が多いであろうと思われる順番で、戦没者ゴジラは「ふるさと参り」をした。

そんなゴジラの前に現れたのが、侵略兵器キングギドラと戦うために来日した南太平洋の「神」モスラだった。
モスラはここで、ゴジラとラドンに対し、モスラの言語すなわち「神」の言語を使って対キングギドラ共同戦線の申し出をする。この瞬間、ゴジラは「神々」の仲間入りをし、それはラドンも同様だった(クマソの神)。
その証拠として、この『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)、ゴジラはついに海へは帰っていかず、日本の地に留まった。守護神ゴジラの誕生だ。

続く『怪獣大戦争』で、ようやくキングギドラを撃退したゴジラとラドンのコンビはそれぞれの住み処へと戻っていき、ゴジラはその後はただ眠り続けた。『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』は人間が仕掛けた騒ぎによってゴジラが暴れただけで、ゴジラはただただ眠りたがっているようだった。

ところが1968年、事態は一転する。
怪獣総進撃』は、ゴジラをはじめとした「神々」が、小笠原の「怪獣ランド」に集められているシーンからスタートする。この措置は「国連科学委員会」が主導して計画したことになっているが、それではなぜ小笠原なのか?

簡単なことだ。
この年、長くアメリカ海軍の軍政下にあった小笠原諸島が、ようやくわが国に返還されたからだ。国連がどうのこうのという説明を無視してみれば、そこにはわが国が誇る最強の兵器である怪獣軍団が、もっともアメリカ領に近い場所に集結させられたという構図が見えてくる。そこはマリアナ、すなわち原爆を積んだエノラ・ゲイ号が発進した場所に、もっとも近い場所だ。
彼らは監視している。二度と「核」が日本本土に向けて飛ばないように・・・。

そんな昭和ゴジラの最後の戦いが、やはり返還されて間もない沖縄であったのは必然というものだろう。『ゴジラ対メカゴジラ』(1974)、ゴジラは沖縄土着の「神」キングシーサーと共闘し、「侵略者」を撃退した。

ここで見逃せないのが、劇中で初めて、アンギラスがシベリア方面の出身であることが明かされたことだ。ここにシベリアから蝦夷(バラン・バラゴン)本土の大都市(ゴジラ)熊襲(ラドン)琉球(キングシーサー)南太平洋(モスラ・マンダ)等に至る、日本にまつわる神獣による一大防衛ラインが完成した。その最前線は「怪獣島」がある小笠原・・・。

彼らは、アメリカの脅威から日本を守っているのだ。


思わぬ長文になってしまったが、もちろんこのゴジラ解釈はぼくが勝手に考えていることだ。
しかし日本の旧領土が回復するたびに、ゴジラがいつも最前線にあったのは歴史的事実だ。もしも台湾や朝鮮半島が日本に戻ってくるようなことがあったなら、きっとゴジラはそこでも戦ったことだろう。

という具合で、昭和のゴジラシリーズには否が応でも当時の日本の「戦後」が反映されていた。これは制作者が意図しようがしまいが、結果として作品に現れてしまったことだ。
そしてそのような「結果」には、常にアメリカの「陰」があった。

無論、これはゴジラシリーズだけに限った話ではない。


※ではなぜ2001年に公開されたゴジラ映画からは「アメリカ」が抜け落ちているのだろう。ぼくは専門家ではないので断言はできないが、もしかしたらその理由は、2001年には日本とアメリカの境界線が消失していたから、なのかもしれない。

つづく

鉄人28号 その1〜安保闘争

鉄人28号 第1巻

ぼくらが幼少時に親しんだテレビの『マジンガーZ』や『勇者ライディーン』といった巨大ロボット番組。これらのルーツを辿ると、昭和30年代に大ヒットした横山光輝のまんが『鉄人28号』に行き着く。同じ頃に人気を二分した手塚治虫の『鉄腕アトム』との最大の違いは、『鉄人28号』系列のロボットは要するに人が操縦するという点だろう。「良いも悪いもリモコン次第」というやつだ。

・・・などと、まるで見てきたことのように書いているが、ぼくが『鉄人28号』を初めて読んだのは、ほんの1年前のこと。それまでは、正直に言って名前と姿は知っているものの、あらすじさえ知らない状態だった。
ぼくが読んだのは2005年から2007年にかけて復刻された『鉄人28号 原作完全版』全24巻。ファンの方には申し訳ないが、まんがの文法が現在とは全く異なるので、読破するには骨が折れた。

深い説明もなく次から次へと新しいキャラクターが登場し、いつの間にか退場・・・。スピーディーな展開といえば聞こえはいいが、行き当たりばったりという方が真実に近いような気もする。
もちろん、現在のような”単行本化を前提とした連載”という形式が確立されていない時代の作品なので、これは非難には当たらないだろう。それどころか、その行き当たりばったりのおかげで『鉄人28号』には、鉄人が生きた時代が色濃く反映されることになったとぼくは見ている。

そしてそれは同時に、横山光輝という作家の、20才代の記録でもあったと思う。

『鉄人28号』が書かれたのは1956(昭和31)年から1966(昭和41)年とのことだが、これは丁度、横山光輝の21~31才にあたる。時代はまだまだ戦後の激動期。高度経済成長のまっただ中で東京タワーやら東海道新幹線やらが建設される一方で安保闘争が日本を揺るがし、海外に目を向ければケネディが暗殺されたりベトナム戦争が激化したりで、つまりは破壊と建設が世界のあちこちで同時多発的に起こっているような時代だった。
若い横山光輝の感性が、こうした時代の激流に影響を受けなかったと考える方がどうかしている。

また、1934年生まれの横山光輝は「昭和ヒトケタ世代」でもある。昭和9年生まれということは、横山光輝は11才で終戦をむかえていることになる。かろうじて戦争を知っている年代、だといえるだろう。


そんな横山光輝が書いた『鉄人28号』は、ぼくらが知っている「正義のロボット」ものとは全く異なる始まり方をした。
それは、戦時中に日本陸軍が極秘に開発していたロボット兵器が戦後の世の中に現れ、そのリモコンに色々な思惑を持った連中が群がって、激しい争奪戦を繰り広げる・・・、そんな物語だった。

簡単にいえば、大日本帝国の「遺産」を誰が使うのか、だ。
ここには、小学生で終戦をむかえてしまった横山光輝の世代に独特な感覚があるような気がするが、ぼくが決めつける話ではないので先に進む。

で、ぼくの見るところだが、『鉄人28号』の物語は大きく3つの時期に分割することができると思う。

まずは「初期鉄人」。これは1956~58年に書かれた部分で、上記の『原作完全版』では6巻あたりまで。
この時期が、”鉄人のリモコンの奪い合い”に当たる。
参加者を列挙すると、

・村雨一家(日本のギャング団。厳密には鉄人の”破壊”を狙った)
・PX団(ヨーロッパを拠点とする世界一の大密輸団)
・S国陸軍省
・クロロホルム氏(フランス人の探偵)
・スリルサスペンス氏(アメリカ人ギャング団)
・ジャネルファイブ(フランス人の怪盗紳士)

と、なかなか国際色豊かで、にぎやかだ。

こういった手合いからリモコンを守るために、警視庁に協力して大活躍するのが主人公の金田正太郎という少年で、こいつは大きな洋館に一人で住み、ディスコ・ボランテなんてイタリア車を乗り回し、自前の拳銃を撃ちまくる「少年探偵」だ。要するに子どもたちの永遠の憧れを実体化させたような少年で、これは単に連載当時のマンガ界の流行だったそうな。

さて、そんなリモコンの奪い合いはやがて終息し、鉄人自体は警察、操縦機は鉄人の製作者の一人である敷島博士が管理していたが、いつの間にか鉄人も操縦機も正太郎の所有物になっていた。
ここからが「中期鉄人」で、1959~1962年の連載。

テーマは割と一貫していて、この時代らしく「科学の悪用」が中心になっている。マッドサイエンティストたちが登場し、彼らに操られた「悪」のロボットと鉄人が戦う。
そして最後に、再び「S国」のスパイを相手に鉄人の奪い合いをして、「中期」は終わる。

後期鉄人」は1962~66年。この時期の鉄人はにわかに政治色が強まり、国際的な活動を始める。
まずはヨーロッパから来た「十字結社」と神戸で戦い、続いては鉄人自身がヨーロッパに渡って「ロボット見本市」に出場。ここでベネラード財団との取引を独占しようとするビックファイア博士の陰謀を粉砕すると、帰路では中東のクーデターに巻き込まれる。帰国後は「スノー国」の陰謀を阻止。
そして鉄人最後の戦いは、世界統一を標榜する「ブラック団」がその相手だった。


以上、急ぎ足で大ざっぱな説明になってしまったが、まず注目したいのが「S国」という強敵だ。
作品をみれば一目瞭然で、その巨大な組織力と最先端の科学力からは、往年のソビエト連邦以外の推測を許さない。それはまた、当時の東西冷戦という世界情勢を考えれば、必然的な結論だとも言えるだろう。

だがその「S国」は、鉄人奪取の2度目の試みに敗れたあと、忽然と作品から姿を消した。
それはなぜか。

つづく

鉄人28号 その2 ~ソビエトとアメリカ(ブラック団)

鉄人28号 最終巻

鉄人28号』に、ロビーという名のロボットが登場する。『原作完全版』では11巻から13巻。書かれた時期で言えば、1960年の夏から翌1961年の春にかけてだ。

牧村博士の手で製造されたロビーには人工知能が搭載されていたので、ロビーは自分で思考できるロボットだった。はじめは幼児のような行動しかとれなかったロビーだったが、やがてその人工知能は、ロボットによるロボットのための王国という発想に至る。

ロビーは地下工場を建設すると一大ロボット軍団を作り上げ、ロボットの主権を唱えて人間社会に宣戦布告をする。東京湾から上陸し、首都を占領せんと大挙押し寄せるロボット軍団を、総力を挙げた警察と自衛隊が迎え撃つ。東京は人間とロボットの群れ、群れ、群れで、洪水のように溢れかえるのだった・・・。

この、コマいっぱいに描かれる人とロボットの群れは、ぼくには現実の日本社会に起きた、ある大事件を連想させる。
言うまでもない、安保闘争だ。

若い人も読むかもしれないので簡単に説明すると、1951年に結ばれた日米安保条約が岸内閣の手で改定されることになり、これに反対した学生や市民が起こした「日本史上で空前の規模の反戦・平和運動」(Wikipedia)が安保闘争だ。デモ隊を組んで国会議事堂を取り囲む人の群れと、それを鎮圧しようとする機動隊の激突の写真などは、ネットで検索すればいくらでも見つかる。

その安保闘争が最も盛り上がりを見せたのは、1960年の6月。
およそ当時の日本人で、この運動に興味を示さない者は皆無だっただろう。横山光輝もすでに20代半ば。このとき受けた強烈なイメージが、その数ヶ月後、東京を埋め尽くすロボットと人間の群れとしてマンガに描かれたと想像しても、何ら不思議ではない年齢だと思う。

ところで、この1960年6月に成立した日米安保条約とは一体いかなる条約だったのか?

簡単に言えば、それは1951年に吉田茂が結んだ「旧安保」があまりにアメリカ有利で一方的な不平等条約だったので、それをそれなりに平等で、相互依存性のある内容に改定したものだ。具体的には、それまでは米軍には日本を防衛する義務はなかったのを、ハッキリと明文化して日米共同防衛を体制化したことなどが挙げられる。
つまり、この時を境に、もしもソビエト軍が日本に侵攻してきた場合、在日米軍には日本を守るために出動する義務が発生した。

これが『鉄人28号』から「S国」の脅威が去ったことの真相だとぼくは思う。
S国があくまでも日本を狙ってくるなら、今度はマンガにソビエト対アメリカの戦争を描かなければならなくなる。ソビエトはもはや、いつでも自由に使える「仮想敵国」ではなくなったのだ。

こうして日本は安全になった。
だからその後の鉄人は、世界の舞台に飛躍した。ヨーロッパへ、中東へと鉄人の活躍は拡大した。


ところが・・・。
この辺りまで読み進めたころ、ぼくはふと、ある違和感を感じた。
”世界の鉄人”と言えば誇らしいが、この”世界”には肝心かなめの国が含まれていない。

アメリカ合衆国だ。
日本にとって一番大切なはずのアメリカ、一番身近なはずのアメリカに、鉄人は立ち寄る気配がない。話題に出てくることもない。まるでそんな国は、”世界”に存在しないかのようだ。
これはどうしたことか。
『鉄人28号』は、世界一の超大国アメリカを、ついには(国としては)作品に登場させないまま終わってしまうのか。

・・・いや、そんなことはなかった。
アメリカは登場する。ただし、それとは分からない形で、だ。

鉄人の最後の戦いが、「ブラック団」を名乗る秘密組織であることは前回の記事でちょっとだけ触れた。
このブラック団の目的は”世界の統一”で、彼らはそれを達成するための巨大な力を持っていた。日本に対しては、海底に建造されたミサイル基地がその照準を合わせており、彼らはその武力を背景に、日本政府を威嚇・脅迫しようとした。

この構図。
日本近海に配備された武力による威嚇・脅迫という構図は、一体どこからイメージされたものなのだろう?

『鉄人28号』に「ブラック団」が登場するのは1966年のこと。
実はその2年前に、やはり日本を揺るがし、国会にデモ隊が押し寄せる事件があった。
アメリカ原子力潜水艦シードラゴンの佐世保寄港だ。

ついに十一月十二日シードラゴン号は佐世保港に現われました。佐世保米軍基地附近には『安保闘争』を思わせるようなはげしいデモがくりひろげられ、その夜、東京でも国会に反対派の請願デモがくり出しました(昭和39年朝日ニュース)

核被爆国日本の神経を逆撫でするようなこのアメリカの行為にどういう意図があったのかは、まだ精子でもなかったぼくには知る由もない。また、横山光輝が露骨な反米意識でもって「ブラック団」を登場させたとも思わない。
だが、このブラック団とシードラゴンの立ち位置がどこか似ていることは、考え過ぎと断じるには早計であるような気がすることも確かだ。

なぜなら『鉄人28号』を引き継ぎ、発展させたようなかたちで制作された特撮テレビ番組『ジャイアントロボ』(1967年・東映)にも、やはり同様の構図が隠されているからだ。

つづく

ジャイアントロボ ギロチン帝王とユニコーン

ギロチン帝王

ジャイアントロボ』(1967年・東映)の悪役は、ギロチン帝王を名乗る宇宙人だ。ギロチン帝王は地球征服を宣言しながら突然飛来すると、怪獣を使って船舶などを破壊しつつ、侵略用ロボットの建造を急がせた。それが原子力エネルギーで動くジャイアントロボ。設計者はドクターガルチュアという地球人だ。

ギロチン帝王に対抗するのは、「国連秘密警察機構ユニコーン」という組織。その日本支部の南十郎隊員は、ギロチン帝王の本拠を突き止めるべく一般の客船に乗っていたが、そこをギロチン帝王が繰り出してきた怪獣に襲われて、遭難してしまう。船上で知り合った小学生、草間大作とともに南隊員が流れ着いた島は、偶然にもジャイアントロボ製造の秘密基地だった。

基地に潜入したふたりはギロチン配下のビッグファイア団(BF団)に捕まるが、機を見て脱出を図る。逃げる彼らの行き先にはジャイアントロボの勇姿があった。
ふたりに気がついたドクターガルチュアは彼らを自室に招き入れると、ジャイアントロボの操縦機である腕時計を手渡す。それは
「一番はじめに電子マイクから電子頭脳に録音された人間の命令どおりに動く」
というものだった。おそらくドクターガルチュアは長身で屈強なユニコーン南隊員に渡したつもりだったのだろうが、運悪く、はじめに腕時計に呼びかけたのは草間大作少年のほうだった。

こうなってはもはや取り返しのつくものではない。草間大作少年はユニコーンのパートタイマー隊員となり、ギロチン帝王が繰り出す敵をジャイアントロボを使って撃退する任務に就いたのだった・・・。


以上が『ジャイアントロボ』の大ざっぱな事の始まりだ。

ここでは『鉄人28号』のふたつの問題点、すなわちロボットが誰にでも操縦できてしまう点と、日本の警察と少年探偵が”世界統一”を目論む巨大組織を相手に単独で戦う点、これらの問題が解消されていることが分かる。ジャイアントロボは草間大作にしか操縦できず、ギロチン帝王と戦うのは「国連」になった。こども向けの勧善懲悪ヒーロー番組としては、特に矛盾も無理も見受けられないと思う。

さて、こうしてギロチン帝王の侵略から世界の平和を守る大作少年(とジャイアントロボ)の物語はスタートした。毎回、独自の工夫を凝らした怪獣やロボットが現れては破壊活動を行い、それをジャイアントロボが必殺の武器でもって倒していく。ごくごくありふれたストーリーだ。『マジンガーZ』に始まるのちの70年代ロボットアニメの基本はここにある。

だが、この『ジャイアントロボ』をよくよく見ていくと、実はひとつ、『マジンガーZ』等とは異なる独特の展開が存在していることがわかる。それは『ジャイアントロボ』は、やけに国際的だ、という点だ。
具体的にはこうだ。


まず第3話。ギロチンは宇宙から手下の大幹部・ドクトルオーバーを呼んで日本に潜入させた。この情報をいち早くキャッチして日本支部に報せてきたのは「カナダ」支部だった。

第4話。ギロチンの攻撃によって「アラビア」支部が壊滅させられた。

第6話。ギロチンの工作でソルジア国とフレンコク共和国が仲違いし、一触即発の状態におちいる。ユニコーンは急遽、洋上の秘密会議所で対策会議を開くが、この会議に遅刻してやってきたのは「カナダ」支部長だった。

第7話。「スイス」支部から暗号解読器が狙われているという緊急連絡が入る。

第10話。「南極」支部がギロチンの襲撃を受けて全滅する。

第14話。「中国」第三支部が襲われる。

第16話。ユニコーン全滅作戦が開始される。「スイス」支部、「ローマ」支部、「カイロ」支部、「ボンベイ」支部、「シンガポール」支部、「香港」支部、「台湾」支部が全滅。

第18話。ギロチンが送り込んだスパイX7によって「ハワイ」支部、「マニラ」支部が爆破され、「香港」支部長が暗殺される。


『ジャイアントロボ』のこうしたワールドワイドの展開は、ひとつには『マジンガーZ』等に見られる、”世界の平和”を語りながらその実は日本しか守らないという「お約束」がまだ確立されていなかったせいもあるだろう。
仮にも「国連」を出してしまった以上、具体的に「世界」を描く必要があると、東映スタッフの人々が生真面目に考えた結果なのかもしれない。ギロチン帝王にとってはユニコーンだけが目障りな存在だったのだから、その支部を叩いていくことにはリアリティもある。

ところが、(例によって)まったく登場してこない国がある。
第3話、宇宙から飛来してきたドクトル・オーバーの動向をいち早く察知できたのは何故「カナダ」だったのか? 「カナダ」にそんな世界最高の宇宙科学と情報収集能力があるなんて、ぼくは聞いたことがない。

そしてギロチンにとって最も目障りなはずの、ユニコーン本部は世界のどこに存在するというのか?

つづく

ジャイアントロボ 殺人兵器カラミティ

殺人兵器カラミティ

前回からの続き)

ジャイアントロボ』で、まったく語られることのないその国。
たしかに「ハワイ」「ニューヨーク」といった州名や都市名は出てくるが、驚くべき事にその国名は全26話を通して、ついにただの一度も口に出されることはなかった。それは”タブー”であり、”忌み言葉”のようでもあった。

その忌み言葉っぷりが現れているのが、第22話「殺人兵器カラミティ」だろう。
この回は”メルカ共和国”という国の大統領が在留大使を呼びつけ、GRのVTRをみている場面から始まる。そして大統領は大使にこう叫ぶ。
「わがメルカ共和国は、いつも、あらゆることで世界一だ。しかしジャイアントロボが現れてからは、ロボットのことは日本が世界一になってしまった。これはわが国民にとって我慢ができないのだよ」
結局、日本政府はメルカ共和国の圧力には抵抗できず、ロボの秘密を開示させられてしまう・・・。


メルカを英語風に舌を丸めて発音すれば、それが何を意味しているかはすぐに分かる。
そしてそうして意味される国に、南極なんて僻地でさえ襲撃したギロチン帝王はただの一度も攻め込むことがなく、その国は彼の侵略の外部に置かれたままだった。

この異様な違和感がもたらす印象は、『鉄人28号』でのそれとは大違いだと思う。鉄人がその国を無視することには理由はいらないが、『ジャイアントロボ』は”地球征服”を目論む敵との戦いの物語だ。そこではあの巨大な大陸を無視することは許されない。しかもその侵略を防衛する組織、「ユニコーン」の本部はまさにその国の中にある。

ちなみに、メルカ共和国で建造されたジャイアントロボのコピー品には、カラミティという名がつけられた。意味は「悲惨、惨禍」といったところだろう。少なくとも、いい意味ではない。
そして、そのカラミティはあっさりとギロチン帝王に奪われてしまうとジャイアントロボに襲いかかり、その目をつぶしたのだった。


さて、そうなってくると問題なのは、ギロチン帝王とはいったい何者なのかということだろう。もちろんそれは、彼が宇宙からやってきた謎の宇宙人でBF団を結成して云々・・・というようなことではなく、ギロチン帝王がこの作品のなかで意味するもの、象徴しているものという意味でだ。

実は『ジャイアントロボ』にはもう一つ、また別の違和感が存在する。
この作品を1話から順番に見ていくと、中盤あたりからある単語が頻繁に登場しだすことに気がつくのだが、それは本来であれば、それこそが”タブー”であり、忌み言葉であっても不思議ではない単語なのだ。

まず第15話。ギロチン配下のミスターゴールドは日本全土を核ミサイルで攻撃しようとする。

第18話。日本の科学者グループが超放射能元素YZ金属を開発する。それはウラニウムの数千倍の威力があると説明される。

第20話。ギロチンのロボットが襲撃したのは西南村原子力センターだった。

第24話。ユニコーン日本支部が警備していたのは、世界初の空飛ぶ原子力タンカーの就航式だった。

一目瞭然、「核」「原子力」だ。
お断りしておくが、これら作中での「核」「原子力」には作劇上の必然性はほとんどない。原子力センターは後楽園球場でも東京タワーでもよく、原子力タンカーは豪華客船でもジャンボジェット機でも、ストーリーは大して変わるものではない。
ならばこの物語は、まるで故意に、意図的に「原子力」という言葉を使いたがっている。そんな印象さえ受ける。

そしてついに最終回第26話「ギロチン最後の日」では、ギロチンの正体が明かされることになる。自ら巨大化し、最終決戦を挑んできたギロチン帝王は、ユニコーンの面々に向かってこう言い放つ。
「わしの体は原子力エネルギーのかたまりだ。わしの体が爆発したら、地球は木っ端みじんになってしまうぞ」

ここまで来れば、もうクドクドした説明は不要だろう。
ギロチン帝王は「核」そのものであり、その脅威でもって地球を征服しようとする者だった。ではその「核」はどこから来た脅威なのか? 言うまでもなくそれは、(タブーであり忌み言葉でもある)「アメリカ」から来たものだ。だからギロチン帝王がアメリカを攻撃することは有り得ない。ギロチンは「核」のメタファーであり、「アメリカ」のメタファーでもあった。

ところがそんなギロチン帝王は、奪われたジャイアントロボの奪回には必死になるが、それをバラバラに破壊しようとはしない。その理由も今は分かる。
なぜなら、ジャイアントロボ自身が原子力エネルギーで作動するロボットだったからだ。ロボを破壊することは、ギロチンが欲しがっているこの地球を破壊してしまうことに他ならない。だからギロチンはジャイアントロボを抹殺することはできなかった。


そしてそうして見ると、特撮テレビ映画『ジャイアントロボ』とは、日本人がアメリカの核兵器を奪い、それを利用してアメリカの核兵器に対抗している構図をもつ物語のようにも思えてくる。
実際『ジャイアントロボ』の最終回は、「核」を突きつけられて手も足も出せなくなったユニコーンに代わって、ロボが自由意思でギロチンを抱きかかえて宇宙に飛び出すと、ギロチンもろとも流星に激突して爆死することで幕を閉じるというものだった。
結局のところ、「核」を倒すことができるのは「核」だけだったのだ。


ところで「核抑止力」としてのジャイアントロボを考えたとき、ここにひとつ新たな厄介事が姿を現すことになる。「平和憲法」だ。
『ジャイアントロボ』において、日本人がアメリカさえもが羨むような軍事兵器をもち、それを海外で実戦使用しているという事実は、明らかに憲法第9条に違反しているという問題だ。

では『ジャイアントロボ』において「平和憲法」とは、一体どのように描かれたものだったのだろうか。

つづく

ジャイアントロボ最終回 ギロチン最後の日

ロボに最敬礼

ジャイアントロボ』における防衛隊を、国連秘密警察機構「ユニコーン」という。
『仮面ライダーV3』や『快傑ズバット』で主役を演じた宮内洋は常々「特撮ヒーロー番組とは子供達に正義の心を教える教育番組に外ならない」というポリシーを表明していたそうだが、こと「教育番組」という観点からすれば、『ジャイアントロボ』のユニコーンという組織はかなり理想的な展開を見せている。

主人公の草間大作少年は、ロボの操縦権を持つがゆえに第一線で戦うことになってはいるが、所詮はただの小学生だ。体力、判断力などは大人に及ぶものではない。だがユニコーンには、大作少年の相棒(お目付役?)のお兄さんのような南隊員もいれば、父親のような東(あずま)支部長もいる。大作くんは彼ら大人たちに、時には叱られ、時には励まされて、一人前のロボット使いに成長していく。ユニコーンは大作くんにとっては(ぼくら視聴者の子どもにとっても)第2の学校であり、社会そのものだった。


・・・と、まず一応は褒めておいてから本題に入る。

ところで、子ども向け特撮番組にあって、「日本」あるいは「日本人」が反映されている存在とは、ユニコーンを始めとした防衛隊に他ならないだろう。彼らは(その当時の)日本の平均的な良識や常識をその思考とし、行動とする。そうでなければ、ぼくらは安心して番組を観ることはできないし、PTAも許さない。

それでは『ジャイアントロボ』で、良識であり常識であるはずのユニコーンはどう具体的に描かれたか。
すでに書いたとおり、第22話「殺人兵器カラミティ」は、日本だけが保有するロボを妬んだメルカ共和国なる超大国が、その技術を開示せよと強要してくるエピソードだ。この圧力に屈した日本政府は、ユニコーン日本支部に対してロボの電子頭脳の公開を要請してくる。この通達を聞いた時の、ユニコーン日本支部の面々の反応はこうだった。

「GRはユニコーンだけが持っていれば十分です」

彼らの言い分によれば、ジャイアントロボが世界中に拡散すれば、必ずそれを軍事的に悪用する国が現れる。だから日本だけがロボを保有しているほうが世界の平和につながる、ということらしい。
だが、その理屈がきわめて独善的かつ排他的であることは、当の彼ら自身が身をもって知っているはずだ。

実際、他国にあるユニコーン支部がギロチン帝王の攻撃を受けて全滅していく中、いまなお日本支部が健在でいられるのは彼らの力ではなく、そこにジャイアントロボが存在するからだ。ジャイアントロボさえあれば、これまで滅ぼされた支部だって十分に戦い、撃退さえできただろう。

しかもジャイアントロボは日本人の科学の力で生み出されたロボットではなく、ギロチン帝王から横取りしたものだ。人類の財産だと言うのならともかく、日本のためだけに使うのはエゴイズム丸出しで、身勝手すぎると言うものだ。

それにそもそも、何の根拠があって彼らは日本だけはジャイアントロボを悪用しないと言い切れるのか。

その理由は簡単だ。
日本には憲法第9条、いわゆる「平和憲法」があるからだ。だから日本人が専守防衛以外でロボを使うことは有り得ないことで、他国侵略等の悪用はできない。ロボの海外派兵も、集団的自衛権の拡大解釈とすれば、かろうじて説明もつく(ことになっている)のだろう。

これが1967ー1968年の『ジャイアントロボ』放映時の、日本の良識であり、常識だった。

しかしこの「良識」は、続く第23話「宇宙妖怪博士ゲルマ」で、いとも容易く崩れ落ちてしまう。
この回、ギロチン帝王に招聘されたゲルマは、まず自慢の妖術で草間大作少年の精巧なコピーを作る。このコピーは声紋までが大作くんと全く同じものであり、すなわちそれはジャイアントロボの操縦者がもう一人増えたということだ。
その上でゲルマは幼稚園の送迎バスを拉致して人質とし、交換条件として大作くんのもつ腕時計型の操縦機を要求してきた。
さて、このとき日本の「良識」ユニコーンは、どう行動したか。

結局彼らは「人命には換えられない」と言って、操縦機をギロチン帝王に渡してしまった。ジャイアントロボはニセの大作くんの命令を受けて東京の破壊を開始した。「人命には換えられない」はずが、もっと多くの「人命」を失う、最悪の大惨事を招いてしまったのだった。

言うまでもないことだが、ユニコーンはこういう事態に備えて何らかの手を打っておくべきだった。それを彼らは、自分たちが悪用しなければ大丈夫だと高をくくり、ロボの存在でかろうじて維持されている平和を永遠のもののように考えていた。その甘さが、首都東京に壊滅的な破壊をもたらしてしまった。


このユニコーンの甘さの根底には、例によって東映の平山亨プロデューサーの軍事アレルギーがあるようだ。現在発売中のDVD『ジャイアントロボ』VOL.2のライナーノーツのなかで、平山亨は次のように語っている。

「ユニコーンを正規軍と考えないで秘密組織と考えたほうがリアリティがあると思ったのは、私の常套手段みたいだ。ギロチン帝王なんて奴と正規軍が闘ったら奇妙な気がするんだなあ」


常套手段というとおり、巨悪にたいしてヒーローが秘密的に対抗する平山パターンは『仮面ライダー』にしても『超人バロム・1』にしても基本は同じ。つまりは軍につながる国家組織が表立って闘うのではなく、個人や秘密組織の手で誰にも気がつかれないうちに平和が守られているほうが、平山にとっては「リアリティ」があるらしい。
ぼくには丸っきり反対のように感じられるが、焼け跡世代の人たちにしか分からない「リアリティ」なのかもしれない。


それはさておき話を戻すが、ユニコーンという組織は、実は普段から意識的に軍隊臭を抜きたがる集団でもあった。普通の軍隊であれば敬礼をすべきところで、彼らは親指と人差し指、中指の三本を顔の前であわせ、ひょいと捻る仕草をする。するとどこからか「ひょい」という効果音が入り、これが彼らの間での「了解」の挨拶だったりする。

おそらくこれも、平山亨のアイデアというか、趣味の一貫なのだろう。
とにかく「軍隊」を連想させるものは「悪」。だから『仮面ライダー』は制服と敬礼で統制された軍隊式のショッカーの「悪」に対し、私服を着た自由な立場の一個人が「正義」を標榜して戦う。

ところが、この(今から見れば)実に頼りないナヨナヨした印象のあるユニコーンは、最後の最後になって、君子のように豹変した。

第26話最終回「ギロチン最後の日」。
ここにいたるまでの間に、ロボには少しずつある変化が生まれていた。「こころ」とでも呼ぶようなものが、だんだんとロボには芽生えていったのだ。それは第19話で命令なしに大作少年のピンチを救ったことから始まり、第21話では「まるで人間の意思をもっているようだ」とユニコーンを驚かせた。
決定的だったのが第23話だ。ゲルマが作ったニセ大作と本物の大作、二人の大作に異なる命令を出されてGRは悩み苦しむように見える。そして結局は、操縦器を持たない本物の大作の叫びに従ったのだ。

そして最終回。ギロチン帝王はかつてロボに敗れた怪獣やロボットを蘇らせると、次々にロボと戦わせた。このときの長時間の戦闘で、やがてロボの原子力エネルギーは尽き果ててしまう。
いまやロボは全機能を停止して突っ立っているだけだ。一方ユニコーンも、巨大化したギロチンの体が原子力のかたまりであることを知らされて、手も足も出せない。
地球は絶体絶命のピンチだ。

その時だ。
突然、ロボは自らの自由意思で補助エネルギーを使って再起動する。そしてギロチンを抱きかかえると、制止する大作少年の命令を無視して宇宙空間に飛び出し、浮遊する隕石に突っ込んでいって爆死する。ギロチン帝王の最期だ。

問題はこの後だ。
ユニコーン日本支部の人々は全員、直立不動の姿勢で軍隊式の敬礼をしたのだ。

それはロボにうまれた「こころ」、すなわち自己犠牲の精神がユニコーンの連中を覚醒させた瞬間だった。軍隊色を嫌い、ぬるい行動に明け暮れた彼らはこの瞬間、正真正銘の軍隊として生まれ変わった。いつもの妙な指ひねりの挨拶では、この時のロボの崇高な魂に報いることはできなかったのだ。

『ジャイアントロボ』に秘められたもう一つの物語。
それはユニコーンという”秘密組織”の皮を被った軍隊が、その皮である「平和憲法」を脱ぎ捨て、卒業するまでの物語でもあったのだと、ぼくは思う。

つづく

マジンガーZとアストロガンガー 〜兜甲児の正義

マジンガーZ対アストロガンガー

ロボットを扱ったヒーローもののパイオニアとも言える『鉄人28号』。そしてその直接の後継である『ジャイアントロボ』。この両作に共通していたことは、いずれも作品中に”アメリカ合衆国”が全く登場せず、しかし最後にして最大の強敵にはアメリカ合衆国のイメージが垣間見えるということだった。
『鉄人28号』においては、それは日本の近海に配備された軍事力という脅威を元に日本政府を威嚇・脅迫するものであり、一方の『ジャイアントロボ』においては「アメリカの核」そのもののイメージが付与されていた。

時代は進み1972年。
仮面ライダー』にはじまる第二次特撮ブームは、その亜流を量産するばかりですでに発展がなく、一部では早くも遠からずの衰退が予感されていた。そんな折に彗星の如く現れて、その後のテレビの歴史を一変してしまう怪物番組が登場する。
ロボットヒーローの中興の祖、言わずとしれた『マジンガーZ』(東映)だ。

当時この『マジンガーZ』のクオリティがどれほど高いものだったかは、わずか2ヶ月だけ先行して始まった『アストロガンガー』(ナック・宣弘社)と見比べれば、その天地ほどの差が誰にでも瞬時に理解できるほどだ。黙って見せられたら、どんな人でも『アストロガンガー』は『マジンガーZ』より最低でも5年は古い作品だと思うだろう。

この二つの作品の絶望的なまでの格差の原因を一言で言えば、「リアリティ」につきる。
『アストロガンガー』を操る(正確には一体化する)主人公は、どうみても7才くらいの子どもで、こんないたいけな幼児が何と宇宙からの侵略軍団と戦ってしまう。ロボットは自分の意思をもっていて日本語で会話をし、およそ頑丈な金属製とは思えない柔らかい動きをし、空を自由自在に飛ぶものの、その推進力は不明だ。

ぼくには『アストロガンガー』を観ていた記憶は全くなかったが、今回(ひどく画質の悪い)DVDを観るにつけ、その理由も今はっきりと分かる。ここまで子どもを舐めた番組では、当の子どもですら観ることはないのだと。
しかもそこへ、わずか2ヶ月遅れで『マジンガーZ』が登場してしまってはもうダメだ。かくしてぼくの記憶から『アストロガンガー』の存在は完全に消去されてしまったのだった。


さて、ではそんな『マジンガーZ』の革命的なリアリティとはいかなるものだったか。
一つには、それがいかにも身長18m、体重が20tもある巨大ロボットとして表現されたことだろう。その操縦は複雑で修練を要し、主人公の兜甲児がいきなり思うがままにロボットを操ることはない。さらにマジンガーZは初めのうちは空も飛べず、海にも潜れなかった。一度コケると容易に立ち上がることさえできなかった。
ぼくらの世代なら、エンディングムービーで解剖図として表されたマジンガーZのかっこよさに痺れなかった者はまずいないだろう。

そして『マジンガーZ』では、なぜ「世界征服を狙う悪の侵略者」が日本ばかりを襲うのか、にも明確な理由付けをした。これも「リアリティ」の一貫だ。日本が美しい国だから・・・ではない。「地下帝国」の総帥ドクターヘルは、日本の富士火山帯洪積世の地層からしか産出されない新元素「ジャパニウム」と、それをもとに精錬された金属「超合金Z」を奪うために、世界でただ一箇所それらの秘密を握っている「光子力研究所」を襲う・・・。

この設定は見事なもんだと思う。
18m、20tもある巨大ロボが、どこに現れるか分からない敵ロボットを探して日本中をウロウロするなんてのは余りに現実性がなく、むしろ迷惑な存在だ。だが、光子力研究所を目標とするドクターヘルは向こうからマジンガーZの懐に飛び込んできてくれるので、こっちはじっくり準備を整えた上で待機していればいい。高校生、兜甲児は連絡があるまでは学校の授業も受けられるので、落第に怯える心配もない。

無論、こうした舞台設定が一種のご都合主義であることは否定しない。
だが肝心なことは、光子力研究所が民間の施設であり、兜甲児も民間人だということだ。民間人が身長18mのロボットで町中を闊歩したら道路交通法違反でしょっ引かれてしまう。だから兜甲児は敵が富士山麓の研究所に迫るまで待っているほかはない。

要するに『マジンガーZ』の物語とは、民間人による自己防衛のための戦いの物語だということだ。

となると、次の兜甲児のセリフには違和感がある。
「俺はDr.ヘルの野望を叩くために、このマジンガーZを正義のために使うことを、今ここに誓う」(第2話)
一見すると、兜甲児という平凡な少年が「正義のヒーロー」に生まれ変わった瞬間、とでもいう意味での、有りがちなセリフのように思えるかもしれないが、実はこのセリフはそんなキザな”男の誓い”のような性質のものではなかった。

第1話でマジンガーZを完成させた兜甲児の祖父が、それを孫に託す際に言ったセリフがある。
「甲児、シロー(※甲児の弟)、あれはお前たちのものだ」
「甲児、お前はあのマジンガーZさえあれば、神にも悪魔にもなれる」
この祖父の言葉に応えるかたちで、甲児は「正義のために」と言ったわけだ。つまりは「神」の方を選んだ。

だがここで注目したいのが、甲児の祖父、兜十蔵博士は、甲児がマジンガーZを使って「悪魔」になることを否定してはいないうえ、それを甲児兄弟の「私物」だと言い切っていることだ。
そして実際のところ、甲児がマジンガーZを使って守っているものは光子力研究所だけに限られている。

つまりは(繰り返しになるが)甲児のいう「正義のために」とは、私物を使って私物を守る”私闘”でしかない。これがかつて一世を風靡して全国の男の子たちを熱狂させた「正義のロボットヒーロー」の物語の本質だ。


・・・これは何とも不思議な話だ。
それではまるで、自分のオモチャを守るためにそのオモチャを使ってガキ大将と戦う子どものストーリーじゃないか・・・。

つづく

マジンガーZと平和憲法

光子力研究所

前回の記事はかなり慌てて書いてしまったので、もう少しあらすじを整理したい。

まず兜十蔵という博士がいる。
この人は「世界指折りの物理学者で甲児の祖父。富士火山帯洪積世の地層から新元素のジャパニウムを発見し、更にその新元素を使った超合金”Z”を開発、遂にはジャパニウム核分裂の過程で、人類の長年の夢であった光のエネルギー”光子力”を抽出することに成功」(DVD-BOX付録の番組企画書より)

この兜博士の自前の研究所が「光子力研究所」で、当然のことだが富士火山帯に近い山麓にそれはある。太平洋にも比較的近いところを見ると、おそらく静岡県富士市あたりだろう。

そしてドクター・ヘル。
「かつては、ノーベル賞候補者にまでのぼった考古学者だったが、エーゲ海のバードス島に伝わる巨人伝説をたよりに、脅威のロボット文明の遺跡を発見、紀元前の昔、バードス島の人々と文明を持っていた機械獣とも云うべきロボット軍団に新たな生命を吹き込み、その恐るべき力を駆使して、世界制覇を企む」(同)

実は、ドクターヘルを団長とするバードス島調査団のなかには兜博士も加わっていた。そして古代ミケーネ遺跡の発見、ロボット軍団の発掘、ヘルに燃え上がった邪悪な野望・・・といった全てを兜博士は目撃してしまった。ドクターヘルは秘密を知るものの抹殺を図るが、この時ただ一人、島からの脱出に成功したのが他ならぬ兜博士だった。

命からがら帰国した博士は、光子力研究所を弟子の弓弦之助教授に譲り渡すと自分は別荘に引きこもり、そこでマジンガーZの建造に着手する。それは”超合金Z”で身を固め、”光子力”で作動する巨大ロボットで、いわば博士の研究の集大成だった。

やがて「地下帝国」ロボット軍団を完成させたドクターヘルが、手始めに秘密を知る兜博士の殺害を図る。危険を察知した博士は孫の甲児を別荘に呼ぶが、甲児が到着したときにはすでに博士は瀕死の状態だった。博士は甲児にマジンガーZを見せ、
「甲児、シロー(※甲児の弟)、あれはお前たちのものだ」
「甲児、お前はあのマジンガーZさえあれば、神にも悪魔にもなれる」
というと絶命する。

邪魔者を消したドクターヘルは余勢を駆って駿河湾から2体のロボットを上陸させると、手当たり次第の破壊と殺戮を開始した。そこへ、まだおぼつかない足取りで登場したのが我らがマジンガーZだ。甲児の操縦は未熟そのものだったが、マジンガーZの超合金Zはヘルのロボットの攻撃を全く寄せ付けない。そして、光子力エネルギーの発露たるブレストファイヤーで自分のロボットが無惨に溶かされていく姿を見てヘルは確信する。世界制覇のためには、兜博士の開発した超合金Zと光子力の存在は不可欠だと。

こうして、兜博士の遺産を狙って襲いかかるドクターヘルの魔の手から光子力研究所を死守しようとする、兜甲児とマジンガーZの戦いの物語が開始された・・・。


という具合で、簡単にまとめてしまえば『マジンガーZ』とは、日本の富士山にしか存在しない物質をもとに作られた金属とエネルギーの争奪戦の物語だった。だから基本的にはドクターヘルの攻撃目標は、それらを保有する光子力研究所に限られていた。近隣の市街が襲われることもあったが、たいていの場合、それはマジンガーZをおびき寄せるためのワナとして実行された。

となると、ここで湧いてくる疑問がひとつある。
それは、なぜ兜甲児は自らエーゲ海に撃って出てドクターヘルの本拠地を叩こうとしないのか、という点だ。
もちろん、それをやってしまったら放送の契約期間が持たないから、というような下世話な意味でではない。
「正義」を語るヒーロー兜甲児が、その実、光子力研究所に引きこもっていることを正当化する、ぼくらの共通意識とは何なのかという意味でだ。

それを考えるヒントはすでに作品のなかで表されている。
それは兜十蔵博士が設計した時点でのマジンガーZには、水中戦闘能力もなければ、飛行能力すらなかったという事実だ。”無敵のスーパーロボットは”、徒歩か、せいぜい駆け足で敵に向かうしかなかった。
これはどういうことか?

難しい問題ではないだろう。
要するにマジンガーZとは「専守防衛」を旨とするロボットだったということだ。マジンガーZが、海路でも空路でも自由自在に渡海できてしまったら、それは「先制攻撃」であって「専守防衛」にはならない。

となれば、『マジンガーZ』に底流するぼくらの共通意識は明白だろう。
それは憲法第9条、平和憲法だ。

長くなりそうなのでつづく

マジンガーZと市民運動

プロ市民?

前回からの続き

マジンガーZ』(1972年~・東映)のストーリー上の特徴をもう一度整理すると(またかよ!)一つにはそれは、民間人が私物を使って私物を守る”私闘”の物語だった。そしてもう一つ、それは”専守防衛”すなわち敵が攻め込んで来てはじめて開始される戦闘の物語でもあった。

これは実に不思議な話だ。
あれほど大規模な巨大ロボット同士の格闘が展開されていながら『マジンガーZ』からは「国家」や「軍」を臭わせる要素がほとんど排除されている。悪と戦うのはあくまで特定の「個人」であって、ぼくら日本人全てではないってことだ。

一方、悪と戦う”特定の個人”であるはずの兜甲児の側も厳しい制限を受けていた。初期のマジンガーZには水中戦闘能力も飛行能力もなく、海を越えてドクターヘルの本拠地に決戦を挑むことはできなかった。甲児はただひたすらヘルが攻めてくるのを待つしかなかった。

で、こうした『マジンガーZ』の設定の背景には、基本的な武力の否定と専守防衛、すなわち「平和憲法」があるというのが前回までの話。
今回は、そういった時代精神を反対の立場から描いたエピソードを紹介する。反対、つまりぼくら市民の側から見たマジンガーZだ。

まずは第7話「あしゅら男爵の大陰謀」。
上記の制限によって、結果的にマジンガーZの戦闘は光子力研究所と太平洋を結ぶ線上に存在する静岡県の富士市(と思われる)あたりに集中した。その近隣の住民たちの不満がついに爆発した。彼らは暴徒と化すと、光子力研究所の閉鎖を求めて弓教授に詰め寄った。

負傷した教授に代わって「地球防衛査問委員会」とやらに呼び出された甲児は、ここでも「光子力がある限り、Dr.ヘルの挑戦と野望は続く」という理由で研究所の閉鎖を勧告される。
やがて暴徒は甲児の自宅にも押し寄せて「お前はまだ我々を犠牲にしようと言うのか」と騒ぎ立て、ガラスを割るなどの暴行に及んだのだった・・・。


この時の市民の持って行き場のない恨みや怒りは理解できないこともない。確かに近所に光子力研究所があるという理由だけで、彼らだけがいつも被害に遭うのは理不尽なことだし、不公平でもある。そして彼らが「犠牲」という通り、彼らはマジンガーZの戦闘が実は”私闘”であることをハッキリと実感していたのだろう。

しかしそんな市民はともかく「地球防衛査問委員会」のほうには問題がある。
仮にも「地球」を「防衛」するために存在する彼らの主張を要約すれば、ドクターヘルに光子力技術を渡してしまえ、ということだ。そうすれば富士市の壊滅は防げるのだ、と。

これは笑い話ではなく、同じようなことを現実に主張する人たちがいるんだから驚く。
無防備全国ネット - wikipedia

さらには第17話「地底機械獣 ホルゾン3」。
この回、ドクターヘルはロボットを使って、光子力研究所以外の地域に人工地震を起こす。もちろん東京も大地震に見舞われてしまう。そして地震を止めたければ、ドクターヘルを光子力研究所の所長に据え、ジャパニウムを引き渡せと言い出した。この続きは簡単に想像がつくだろう。都民はデモ隊を組んで国会議事堂を取り囲むと、Dr.ヘルの要求に従えと騒ぎだしたのだった。


こうして見ると、ぼくら日本国民にとっては、ドクターヘルと戦い抜こうとする甲児たちの行動はむしろ迷惑なものであり、余計なおせっかいであり、無関係な出来事であるように思えてくる。
無論、そういった感覚の根底には、平和憲法があると見ていいだろう。ぼくらに刷り込まれた平和憲法の精神が、マジンガーZを制限し、今後はそれを排除しようとする。

似たようなストーリーは、ほぼ年代を同じくする『ウルトラマンA』でも見ることができる。
第26話「全滅!ウルトラ5兄弟」、第27話「奇跡!ウルトラの父」
侵略宇宙人ヒッポリト星人は、ウルトラマンAを引き渡せば東京への攻撃を中止する、と通達してきた。これを聞いた市民は防衛隊TACのクルマを取り囲むと、星人の要求に従え、と口々に要求するのだった・・・。


ここで結論めいたことを言ってしまうなら、1970年代のヒーロー番組にはしばしばこういった、戦うべきか降伏すべきかを問題提起とするストーリーが散見できる。それは、高度経済成長がようやく一段落し、日々の暮らしに困らなくなった日本人がふいに我に返った時代だったのかもしれない。

とりわけ、戦闘描写を避けられないヒーロー番組の作り手たちにとって、それは自問自答の日々であってもおかしくはないだろう。なかでも『マジンガーZ』において興味深いのは、戦うか降伏するかの焦点となっているものが、他でもない、我が国が誇る世界に比類ない技術力だという点だ。ここには戦後、営々と築き上げてきた日本人のプライドの象徴がある。

民族としてのプライドをとるか。それとも誇りなき平和な日常をとるのか。
1970年代とは、まだそういった骨太な選択を多くの日本人が考えているような、そんな時代だったのだろう。

さて、話を戻すと、マジンガーZと平和憲法のかかわりについては、また別の角度からも見ることができる。
平和憲法を日本人に与えた張本人、アメリカの登場だ。

つづく

マジンガーZとアメリカ

ジェットスクランダー

マジンガーZ』(1972年~・東映)の悪役、ドクターヘルが企むものは、彼が作ったロボット軍団による「世界征服」だった。ところが、ヘルの作ったロボットはマジンガーZの装甲(超合金Z)を破ることができず、そのエネルギー(光子力)の前には無力な存在だった。そこでヘルは「世界征服」の前に、まずそれら日本の光子力研究所でしか保有しない技術の強奪を考えて、執拗な攻撃を仕掛けてくるのだった・・・。

このドクターヘルの「地下帝国」vs「光子力研究所」という抗争の構図が、実のところ”私闘”であることはすでに書いた。ではそんな”私闘”をなぜ兜甲児が「正義のために」と言えるのかといえば、それは甲児が光子力研究所を中心にした、同心円的な世界平和を考えていたからだ、ということになるだろう。

超合金Zと光子力エネルギーを死守する限り、マジンガーZさえあれば差し当たりのヘルの脅威は防ぐことができる。逆に言えば、それらがヘルの手に渡ったとき、世界はヘルの独裁するところとなる・・・。
これが甲児のいう「正義のために」だ。

となれば、光子力研究所が敗れたならまずは近隣の静岡県がヘルの手に落ち、そこから日本全土、中国、ロシア、インド・・・という順に世界中がヘルに屈していく理屈になる。
もちろんその中には、太平洋を東に隔てたアメリカも含まれるだろう。

ところが『マジンガーZ』に登場するアメリカ人には、どうやらそんな危機意識は全くないらしい。

まず第18話「海のギャング 海賊グロッサム!」
この回、ついにマジンガーZに水中戦闘能力が搭載された。この改造に立ち会い、助言を行ったのはゴードン博士。
彼は、”太平洋を飛行機で横断して”やってきた科学者で、「オズモ計画」で「宇宙ロケットを打ち上げた」功績をもつ人物だ。誰がどう見ても彼は”アメリカ人”だ。

すでに書いたように「平和憲法」による制限を受けるマジンガーZには、当初水中戦闘能力は装備されていなかった。マジンガーZが自力で海を渡ってしまっては先制攻撃が可能になってしまい、憲法9条に違反する。
しかしその水中戦闘能力を、憲法9条を日本人に与えたアメリカ人の手で装備したことにすればどうだろう?
問題が解決するわけではないが、世間の風当たりは弱くなるはずだ。

これはぼくの妄想でもコジツケでもない。
もう一つの弱点、飛行能力もマジンガーZはアメリカ人の協力で得ることができたからだ。

第33話「大空襲! バラスKは空の無法者」
マジンガーZの弱点を突くべく空からの攻撃が続く現状に業を煮やした弓教授は、ついにアメリカへ飛んだ。ロケット工学の権威、スミス博士に会うためだ。ニューヨークで弓教授と面会したスミス博士は「われわれは彼を倒すためには、どんな援助も惜しみませんよ」と快く改造計画書に目を通していくのだった・・・。

こうして二人の高名なアメリカ人科学者の協力によって、”成長するロボット”マジンガーZは、いよいよ陸海空を自由に活動できるロボットへと進化していった。「平和憲法」違反は、アメリカ人の”お墨付き”悪く言えば”許可”を頂くことで克服できたのだった。

めでたしめでたしと言いたいところだが、ここで注目したいのがスミス博士の発言だ。
「どんな援助も惜しみませんよ」

もしも甲児が考える同心円的な世界平和の維持をスミス博士が共有していたなら、「援助」なんてぬるいセリフは出てこないはずだ。彼もまた日本に同行し、光子力研究所の一員としてマジンガーZの強化に当たるべきだ。
しかし彼はそれをせず、あくまで「援助」することにとどまった。
これはどういうことか?

つまるところ、アメリカ人のスミス博士やゴードン博士にとって、ドクターヘルとの戦闘は「他人事」だということだ。この戦闘にアメリカは無関係なのだ。
そして実を言えば、2年に渡ってドクターヘルと戦い続けた兜甲児自身、同じように感じていたフシがある。

最終回第92話「デスマッチ!! 蘇れ我らのマジンガーZ」
甲児と仲間たちはついにDr.ヘルを破り、光子力研究所ではお祝いのパーティーを楽しんでいた。しかし今度は「ミケーネ帝国」による新たなる侵略が始まってしまう。甲児はマジンガーZで出撃するが、ミケーネ帝国のロボットには光子力はまったくの無力で、鉄壁と思っていた超合金Zも易々と破壊されてしまった。光子力研究所も今度ばかりは陥落し、完全に機能を停止してしまう。暴れ回る敵ロボット。するとそこに科学要塞研究所からグレートマジンガーがやってきて、あっさりとミケーネ帝国のロボットを倒してしまう。マジンガーZを失った甲児は、心と体の傷を癒すため、弓教授の勧めでアメリカに留学する・・・。

新たな侵略が始まったのにも関わらず、マジンガーZが敗れるや否や、甲児はあっさりとアメリカに留学してしまった。心と体の傷を癒すためにだ。
つまり『マジンガーZ』の登場人物たちにとって、アメリカは「安全地帯」だということだ。ドクターヘルは「世界征服」というが、それはウソだ。ヘルの言う「世界」には、最初からアメリカは含まれていない。

ならば『マジンガーZ』とは一体どういった物語だったのか?
それは、戦後日本の象徴ともいえるハイテクノロジーを、ヘルと光子力研究所が奪い合うというものだった。そして光子力研究所は戦後の「平和憲法」による制限を受ける存在で、アメリカとは極めて親密な関係をもつ存在でもあった。
要するに、光子力研究所には「戦後日本」のにおいがプンプンするというわけだ。

では一方のドクターヘル「地下帝国」は何だろう?
そもそもヘルはノーベル賞候補にあがるような高名な学者だった。アカデミズムの中心にいる人物だったということだ。ところがヘルはにわかに「世界征服」の野望を持つと世界秩序の外部に飛び出していき、独自のテクノロジーをもって侵略戦争を開始した・・・。

ぼくにはこのヘルの一連の行動には日本の戦前、すなわち大日本帝国のイメージが重ねられている気がするが、それを語るには『マジンガーZ』だけでは材料が足りない。今はとりあえずの推論として『マジンガーZ』とは、日本の戦前と戦後が精神的な「内戦」をしている物語ではないか、とだけ言っておくこととする。要するに「侵略者」vs「平和憲法」ということだ。

詳しくはまたいずれ「ガンダム編」にて。

つづく

9条どうでしょう

9条どうでしょう

このブログは、元々はぼくのごく親しい友人たちに向けて書いているもので、言わば場末の居酒屋でおっさんたちが顔つきあわせ、昔のテレビを懐かしみつつ無駄な深読みをしてはニヤニヤしている不気味な光景・・・そのまんまのものだ。
もしも現実にそんな光景に出くわしてしまったなら、ぼくなら出来るだけ離れた席に移るか、まだ残っているツマミに未練を残しつつもそっと店を出るかするだろう。

ところが困ったことに、ここはインターネットの世界なので、何の罪もない若い人がウッカリと迷い込んで来てしまう可能性が過分にある。しかもその人は大変な向学心の持ち主で、文字がズラズラ並んでいると何でも一応は読んでしまう生真面目な人である危険性もある。するとここに悲劇が起こり、ブログ主がしたり顔で一般論のようにまくしたてる言葉の指す内容が、彼にはサッパリ理解できないという事態が起こりうる・・・。

つまりは「アメリカ」だの「平和憲法」だのと言われても、それぞれが属する世代によって持っているイメージが違うんじゃないか、ということだ。例えば「アメリカ」だが、ぼくらの世代なら1980年代に日米貿易摩擦に敗北したアメリカが逆上して、日本車を壊したり燃やしたりする有り様をテレビでみた(ジャパンバッシング)。

それはごく短期間の祭りではあったが(しかもバブルの崩壊で何十倍にも割増して報復されてしまったが)、思春期にアメリカの敗北を目にしたぼくらは、上の世代のように何が何でもアメリカ様という感覚は薄いと思う。そしておそらくぼくらより若い人には若い人なりの、アメリカ観があるだろう。

だがこのブログで問題にしているのは、1970年代を中心にした20年くらいの期間に作られたヒーロー番組についてだ。その頃のぼくら世代は鼻水たらしたクソガキで、テレビはただただ観る側にいた。番組を作っていたのは主に昭和ヒトケタから焼け跡世代の人々で、彼らこそが戦後の日本を作った人たちでもあった。
なのでこのブログにおける「アメリカ」やら「平和憲法」やらは、彼らの世代の感覚で語られなければならない。

ということで前置きが長くなったが、このブログで扱っている「アメリカ」やら「平和憲法」やらについて、ここで改めてザッとまとめておくことにする。
参考書は内田樹という先生の書いた『9条どうでしょう』(2006年・毎日新聞社)。内田樹さんは1950年生まれとのことなので、焼け跡世代より若い団塊世代あたりに属する人だが、下の者のほうが上がよく見えることは多々あるので構わないだろう。

本の中でまず内田さんは、日本国内では矛盾した存在と見なされる「平和憲法」と「自衛隊」は、アメリカ側から見ればまったく矛盾しないことを指摘する。つまり”アメリカの利益のために日本は戦争をするな”という命令と、”アメリカの利益のために日本も多少の軍備はせよ”は、アメリカにすれば純粋に自分の利益を押しつけていった結果にすぎない。

しかし押しつけられた側の日本からすれば、この矛盾をそのまま受け入れてしまうと(内田さんのいう)「奴僕国家」であることさえも受け入れてしまうことになる。
そこで日本人はこの矛盾を、我が国の”国内問題”であると考えることにした。護憲派と改憲派に自ら分裂し、自ら対立し、解決不能の国内問題だと思い込むことで「奴僕国家」という外交問題から目をそらし、それを心の奥深くに隠蔽しようとした・・・。

以上、テキトーな要約だが、もっと正確に知りたい方は、内田さんご本人のブログなどを参照してください。
内田樹の研究室


さて、これで共通の認識ができたところでヒーロー番組の話題に戻るなら、ヒーロー番組にはしばしば上述した日本の「矛盾」が表出してしまっていることは、今や十分理解されることと思う。
鉄人28号』や『ジャイアントロボ』では何故「アメリカ」が忌み言葉、タブー視されているのか?
マジンガーZ』は何故、改造のたびにいちいちアメリカ人に”お許し”を得なくてはならないのか?

ヒーロー、特に巨大ロボはまさに「軍事力」に他ならず、それは鉄人28号を設計したのが旧日本陸軍であったことからも明らかなことだ。そして日本人がそんな軍事力を手にしたとき必然的にぶち当たる壁が、この国が「奴僕国家」であるという現実だろう。ドレイのくせに、アメリカにもない兵器を持つことが出来るのかと。

だからその問題をクリアするため『鉄人28号』はアメリカの存在自体を無視する以外なかったし、『マジンガーZ』はその国外使用の可能性をアメリカ様に許可してもらうしかなかった。単独の記事にはしなかったが『ゲッターロボ』ではアメリカ製の巨大ロボとゲッターロボが共同して敵に当たるストーリーもある。

内田さんは本の中で、「奴僕国家」の現実を国内問題にすりかえて先送りしてきた日本人を「可憐」だと言う。
だったら『鉄人28号』も『マジンガーZ』も同じく「可憐」なのだろう。
昭和ヒトケタや焼け跡世代が作る物語は、日本人の哀しいまでの「可憐」さを背負った物語だったということだ。


だがここに、一見すると日本人の「可憐」さを最前面に押し出しているように思わせながら、その実「奴僕国家」である現実の方を強烈にぼくらに刷り込んでしまうような作品がある。そしてそれは、他でもない内田樹さんらの世代、すなわち団塊世代近辺の人たちに強い影響を及ぼした作品でもあった。

巨人の星』だ。

つづく

『巨人の星』と団塊世代 〜『荒俣宏の少年マガジン大博覧会』

ジャージャー流す涙

ぼくらの世代で野球マンガと言えば、何といってもまずは『ドカベン』だろう。『巨人の星』は一世代前の古典として、夕方のテレビの再放送で楽しんだもんだ。ただ当時は時代の流れが今よりはるかに速い時代だったので、劇中に出てくるような長屋の風景などは白黒の時代劇ぐらいでしか見ることがなく、必要以上に時間的な隔たりを感じたもんだった。

実際には『週刊少年マガジン』に『巨人の星』が連載されていたのは1966~1971年で、『週刊少年チャンピオン』に『ドカベン』が始まったのが1972年というから、ほとんどシームレス。マンガの表現というものが、ものすごいスピードで進化発展した時代だったのだろう。

ところでそんな『巨人の星』は、連載当時の少年少女が熱狂的に支持したのはもちろんのこと、おっかない全共闘のお兄さん方も随分熱心に読んでいたらしい。全共闘!と言っても元はただの純真な少年少女。当時の『マガジン』は、読者の成長に合わせてマンガの対象年齢を引き上げる戦略をとっていたそうで、彼らは『マガジン』を卒業することなく大学に進んだ。そのタイミングで登場した『巨人の星』は、彼らの忌み嫌う戦前の雰囲気をプンプンと撒き散らかし、主に悪質なギャグとして笑われつつも、不思議な魅力で彼らをとりこにしていったそうな。

とまた、見てきたようなことを書くのも気が引けるので、ここはバリバリの団塊世代で全共闘世代でもある人の文章を引用することで、リアルタイム世代が『巨人の星』にどのような思いを持っているのかを紹介したい。
本は1994年に講談社から出た『荒俣宏の少年マガジン大博覧会』。文章は高山宏という先生だ。

高山先生はまず『あしたのジョー』の衝撃を語り、特にそれがいかに「ドラマチック」だったかを解説した後、こう続ける。

ドラマチックと言うことでは『巨人の星』とはけたがちがっていた。風変わりといえばとんでもなく風変わりだが、星一徹はやはり父なのであり、それになにしろ星明子という存在があって、人間関係や感情のしがらみがどんどん深く濃密になっていく世界が、徐々にたまらなくいやになっていった。『あしたのジョー』と『巨人の星』が並び立って大きな枠をつくっていれば、あとは何がどう出入りしようと大丈夫という時代がしばらく続くわけだが、互いに似て非なることおびたたしい。ジョーは論理の必然として死なざるを得ない。彼に自分を見る団塊世代はねあがりの、終わりのためのいけにえじみた存在だと感じた。星飛雄馬はひたすら「教養小説」の枠組の中にいて、確実に「成長」していく存在だった。伴が、飛雄馬がジャージャー流す涙がもういやでたまらなかったし、自分の子を谷底に落とす獅子の話だの、宮本武蔵だの坂本龍馬だのを引き合いに出しての格言調、お説教の阿呆陀羅教が実際がまんならなかった。大リーグボール1号をうむため、山中にこもって特訓したり参禅したりというパターンもいらいらした。星一徹じみた世代にうつろな精神教育を叩きこまれた世代の自己嫌悪、近親憎悪みたいなものかもしれない。


要は『あしたのジョー』という本命が登場してしまってからは『巨人の星』の株は下がる一方で、次第にそれは嫌悪感すら湧くようになったと。
ところがそういった印象は、飛雄馬が成長し「青春の悩み」に苦しみ出すようになるとまた一転する。

スターになった飛雄馬を芸能界が黙ってはおかない。オーロラ三人娘と一緒にボウリング大会に行ったり、テレビ座談会に出たりの華やかな暮らしぶりになる。「これからは人間らしくくらすんだっ」と言って飛雄馬はボロ家を出てマンション生活を始める。明子も家を出て飛雄馬の所にくる。現れたオズマを好敵手に仕立てた父による子への執拗な挑戦がいよいよ始まる。まさに一徹タイプの教育を受けてそれぞれが一個の「野球人形」に育てられながら、それでは生きていけない資本主義市場経済の世界に直面した団塊世代は、この年(※1969年)に飛雄馬が直面した悩みに自らの自画像を見たと思う。飛雄馬の隙を花形は悲しみ、一徹は「とんだ昭和元禄よ」といって憫笑した。芸能界に代表される新時代は労働より消費をよしとする無根拠な世界だ。つまらない芸能人大会に、腹をすかした弟妹を思って出席した左門の「ふむ・・・・・・こんな出演料ばくれるとはおかしな世界ばい」という台詞は、その後二〇年間、ぼく自身も感じ続けた印象である。
「むなしい・・・・・・こんなものが・・・・・・青春か?」と呟きながら、結局飛雄馬は、一徹に仕込まれた旧来の精神主義的価値観に戻っていく。「騒動」を起こした学生たちの中でも同じような二つの価値観のひび割れがあった。いろんなタイプの反抗学生がいたが、基本的には同じだった。


気がつけば、飛雄馬はいつしか団塊世代の「自画像」になっていた。
たしかに『あしたのジョー』には団塊世代が自己を投影したくなるような何かがあったのだろう。一方で『巨人の星』は前時代的であり、封建的であり、べたべたの浪花節として笑われた。ジョーはかっこよく、飛雄馬はダサイ。
だが実際には誰もジョーのようにカッコよくは生きられない。

ちなみに文庫版1巻の巻末には梶原一騎夫人の高森篤子さんが解説を書いておられるが、飛雄馬こそが生身の梶原一騎の姿と述べられている。

ジョーが、そしてその後の作品の主人公たちが、主人の求め続けた「男」としての、理想像・虚像であったとしたならば、『飛雄馬』は主人の肉声を語った、唯一のヒーローだったのかもしれません。


かくして高山先生の『巨人の星』への結びはこのようになる。

通算四年九ヶ月という歳月はアダやおろそかではない。六〇年代末を青春としている団塊世代は、この『巨人の星』と、そして『あしたのジョー』に添い寝してもらいながら、自分の生きていくイメージをつくっていったというところがある。描線がどうしたこうしたといった技術論とはてんでちがった次元の、まさに添い寝としかいいようのない関係を、生活と少年漫画週刊誌が切り結んでいた。一週ごとにともに成長していってくれる、風変わりだが実に教育的なメディアだった。既存のあらゆる学校制度が、こうした真の教育、「形成」の実質を欠き、それにふさわしく閉鎖され、崩壊していた。


個人的な印象かもしれないが、ぼくはあれほど熱中した『ドカベン』に、これほどまでの連帯感を感じることはなかった。『ドカベン』からは野球というスポーツの奥深さや、野球部という社会を学ぶことはあっても、人格形成につながる影響までは受けなかった気がする。むしろそこに流れている根本思想は「勝利」という単一の価値観からなるヒエラルキーだけなので、言ってみれば『ゴレンジャー』的な世界観だ。ぼくらは『ゴレンジャー』の後のより現実的な「ヒーロー番組」として、『ドカベン』に触れていたのかもしれない。

それはさておき、この引用ばかりの手抜き記事でぼくが言いたかったことはただ一つで、団塊世代とか全共闘世代と言われる人たちが、どれほど強く堅く『巨人の星』や『あしたのジョー』と結ばれていたのか、それだけだ。
もちろん生まれは団塊世代でも、『マガジン』なんて読んでなかったという人も多いだろう。だが一方で、全国的な繋がりを見せた全共闘が、いつも『マガジン』とともにあったことも事実だ。そしてそんな全共闘の多くは、当時はまだ少数派だった大学卒の資格を得て、やがて社会の中枢に入っていった・・・。

ならば『巨人の星』そして『あしたのジョー』が、その後の日本社会に人知れぬ影響を与え続けた可能性は、一概には否定できないのではないか。

つづく

巨人の星 一徹と春江

春江さん

巨人の星』には、マンガ版の他に日本テレビ系で放映されたアニメ版があることはご存じの通り。このテレビ版は全182話という大変な分量を誇っていて、当然ながらただの原作の動画版にはとどまらない。原作の行間を補うようなエピソードがふんだんに盛り込まれ、原作ではハッキリしなかった事実がいろいろと理解できるように構成されている。

梶原一騎伝』(斎藤貴男)などを読む限り、梶原一騎という人は自分の原作の一字一句まで修正されることを嫌がっていたそうだ(ちばてつや除く)。ならばアニメ版『巨人の星』も、梶原一騎の意向を無視して勝手な解釈を付け加えていることはないと見て問題ないだろう。

と考えたとき、実は『巨人の星』には大いなる誤解が通説としてまかり通っている現実に気がつく。
それは主人公、星飛雄馬の父である星一徹が、自分をクビにした巨人軍への「恨み」から息子を巨人のエースに仕立て上げ、巨人軍を見返してやろうとした、という通説だ。

例えば荒俣宏さんだが、『荒俣宏の少年マガジン大博覧会』のなかで以下のようなキャプションをつけている。

[巨人の星]のほんとうの主人公は星一徹である。スポーツに遺恨はない、といわれてきたが、ドッコイ、[巨人の星]は遺恨相撲の野球版といえる。星一徹があれほど鬼のようだったのは、かれは川上哲治に象徴されるスポーツマンシップに復讐するためだった。


星一徹が巨人軍に入団したのは戦時中だった。一徹は球史始まって以来の天才三塁手として期待されたが徴兵され、不運にも戦地で肩を壊した。一徹はその不利を補うため、送球をランナーにぶつけると見せながら急変化で一塁に送る「魔送球」をあみ出して巨人軍に復帰する。しかし川上哲治に、「魔送球」は巨人軍の栄光と名誉に反する行為だと叱責され、自ら巨人軍を退団する・・・。

こうした経緯を見れば、星一徹が巨人軍に何らかの遺恨を抱いていたとしても不思議ではなく、その遺恨を息子に託してはらそうとしてもまた不思議ではない。
だが、一徹の名誉のために断言するが、それは真実ではない。飛雄馬に野球をやらせたがったのは、実は一徹の亡き妻、春江さんだった。

第33話「甲子園へのVサイン」。
苦闘の末、エース星飛雄馬を擁する青雲高校は晴れて甲子園への出場を勝ち取った。しかし、ボロ家に帰宅して亡き母の御前に佇む飛雄馬は複雑な表情だ。
「母ちゃんにとって、野球は仇みたいなもんだ。母ちゃんの幸せを奪ったにくい相手じゃないか・・・」
それを聞いた一徹は、これまで隠していた春江さんの思い出ばなしを飛雄馬に語る。

(ここから回想シーン)
ある日、建設現場で働く一徹が帰宅すると、まだ幼児だった飛雄馬がなにやら下手くそな絵を描いている。それは「やきゅう」しかも「まきゅう」の絵だった。一徹は血相を変えて飛雄馬から絵を取り上げると、それをビリビリに破り捨てる。
「この上お前までが野球に憑かれては、あまりにも可哀想じゃないか、母さんが・・・。お前がユニフォームを着るようなことがあったら、それこそ母さんは心底野球を憎むだろう・・・」

その直後だった、ふいに春江さんの病状が悪化したのは。一徹は明子を医院に走らせると、自分は必死に妻を支えようとする。しかし春江さんはすでに死期を悟ったか、布団の下から小さく折りたたまれた洋服を出すと一徹に手渡す。広げてみるとそれは子供用の野球のユニフォームだった。胸にはもちろん「G・I・A・N・T・S」の文字。

「飛雄馬に着せてやったらきっと喜ぶと思って・・・」
「そ、それじゃお前は、飛雄馬に俺と同じ野球の道を歩ませることに・・・!」
「できますね、お父さん・・・」
「う、うむ」
「・・・飛雄馬を立派な巨人軍の選手に叩き上げることです」
「で、できるとも!」
「お父さんが魔送球のために巨人軍を追われた時に、飛雄馬の運命は決まっていたのですよ。お父さんがやろうとしてやれなかった道・・・そこから飛雄馬を遠ざけたら、あの子の人生はみじめになりますよ。わかりますね」
「わかる・・・わかるとも!」
「どんなに苦しい修行にも、あの子はきっと耐えるでしょう。だってあの子の体には、星一徹の血が流れているんですもの・・・」
「うむ、うむ・・・春江」
「神さま、野球をすることしか知らない無器用な父と子が、新しい出発をいたします。どうか二人をお守りください・・・」

そういうと春江さんは絶命する。
一徹は夜空にひときわ強く美しく輝く星に春江がいると信じ、その星にわが子飛雄馬の未来を誓った。そして「母さんの星」はやがて「巨人の星」に、その名前を変えていったのだった・・・。


一徹が巨人軍への執拗な遺恨や復讐心を持っていなかったことは、他のエピソードからも見ることができる。
第6話「超人ランナー」。
この回は、一徹と同じ時期にその殺人的な走塁でやはり球界を追われ、今はハワイで大農園を経営している男が帰国してくる話。男は自分の息子に殺人スチールを仕込んでいて、飛雄馬と組ませてやがては球界を牛耳ろうと持ちかける。それを聞いた一徹の返答はこうだ。
「目的がちがう」

あるいは第8話「もえろライバル」。
貧困のため高校進学が危うい飛雄馬。しかも受験を控えた大切な時期に、一徹が事故で入院してしまう。これを知って駆けつけてきたのが川上哲治だ。川上は一徹の実力を惜しみ、巨人軍のコーチに就任するよう申し出る。飛雄馬一人で手一杯と一度は断った一徹だったが、背に腹はかえられず結局は承諾する(すぐ後に辞退する)。

てな具合で、星一徹という男がちっぽけな巨人軍への「遺恨」や「復讐心」だけで飛雄馬にスパルタ訓練を強いたわけではないことは確かなことだ。「巨人の星」は「母さんの星」であり、一徹は妻の春江さんの願いを実行していたに過ぎない。
しかし春江さんの本当の願いが、飛雄馬ではなく一徹を「みじめ」にさせないための野球だったところは泣かせるところだ。ある意味では、飛雄馬は一徹復活のダシに使われたようなものだろう。

つづく

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。