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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
一つの 「カテゴリ」 で一つの記事となってます(記事は古い順に並んでます)。同世代のおっさん向け。

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巨人の星 大リーグボール

大リーグボール

※以下の記事は『巨人の星』の大ざっぱなあらすじですので、詳しく知ってるぜ!という人は飛ばしてください。


【150キロの快速球】

元巨人軍の星一徹が、息子・飛雄馬に仕込んだものは、正確無比の制球力と(金田クラスと言われる)150キロを超える速球だった。幼少時から「大リーグボール養成ギプス」なるもので徹底したスパルタ教育を受けた飛雄馬の能力は群を抜いていて、弱小の青雲高校を導いて甲子園大会に出場する。大会では左門豊作率いる熊本農林高校には勝利したものの、花形満の紅洋高には決勝で敗れた。

青雲高を中退した飛雄馬は、新人公募テストに合格して念願の巨人軍入団を果たす。青雲高のキャッチャー伴宙太も巨人入り。花形は阪神、左門は大洋(現横浜)にそれぞれ入団。
ところがここで、飛雄馬の致命的な欠陥が露わになってしまった。体格に恵まれない飛雄馬の球質は軽すぎて、プロでは通用しない恐れが発覚したのだ。それでも速球にこだわる飛雄馬は公式戦に速球だけで挑むが、左門豊作に軽々とホームランを打たれてしまう。


【大リーグボール1号】

一度は挫折した飛雄馬は、不屈の闘志と超人的な努力で魔球「大リーグボール1号」をあみ出す。それは、バッターが構えたバットにボールを当てて、全て内野ゴロに打ち取るという驚異の魔球だった。飛雄馬の最大の武器である制球力と、最悪の弱点である球質の軽さがこの奇跡を実現した(洞察力も磨きに磨いた)。

一躍巨人軍の先発ローテーションの一角を担う飛雄馬の前に、花形満が立ちふさがる。花形は向かってくる鉄球を打ち返すトレーニングを積んで手首を鍛えると、大リーグボール1号がバットに当たるや否やそのまま全身を捻るように打ち返す作戦で、見事大リーグボール1号の攻略に成功した。しかし無理な特訓と不自然な打法がたたり、全身の筋肉がボロボロ、長期休養を余儀なくされた。

またも挫折の飛雄馬だったが1号を改良し、今後は構えたバットのグリップエンドを狙う。今度こそ大リーグボール1号は無敵かと思われたが、思わぬ伏兵はメジャーリーガー・オズマと他ならぬ父・一徹だった。中日コーチに就任した一徹はオズマを「大リーグボール打倒ギプス」で鍛え上げると、超高速のスイングすなわち「見えないスイング」を完成させ、飛雄馬に立ち向かわせる。

オズマは、飛雄馬がボールをリリースするその瞬間に、バットをホームベース上のど真ん中の位置に差し出す。飛雄馬の人間界の常識を越えた洞察力は無意識のうちにその動作を読み取って、ボールはど真ん中のバット目がけて放たれる。ここからオズマの「見えないスイング」は楽々とバックスイングに入り、打ちごろの絶好球と堕した魔球はピンポン球のごとく青空に吸い込まれていくのだった。


【大リーグボール2号・消える魔球】

1号が破られた飛雄馬は2号「消える魔球」を開発する。ホームベース上で突如として姿を消してしまうこの魔球は、今度は一徹が巨人軍を追われる原因となった「魔送球」がベースとなった。飛雄馬が高々とあげる右足が巻き上げる砂煙は、魔送球の強烈なスピンによってボールに付着する。ボールはホームベース上で急速に落下し、地面スレスレで急浮上するが、この際ボール自身が巻き上げた砂煙のなかを通過する。
つまり、大リーグボール2号「消える魔球」とは、保護色の魔球だった。

オズマ帰国のあと、一徹が飛雄馬打倒のために選んだ刺客は、2号の秘密を知る伴宙太その人だった。始めはトレードを拒否して引退を宣言した伴だったが、すでに一徹が2号の正体を見破っていることを知り、また片思いの星明子に自立を促されると中日に移籍する。
一徹は、川上が意表を突いて1号を投げさせることを見抜き、元高校柔道チャンピオンの伴には”受け身”でそれをファウルに逃げさせる。そしてついに投げられた2号は、受け身で固められた地面が砂煙を上げず、魔送球の変化を満場にさらすのだった。
しかしそのボールはストライクゾーンを外れていた。一徹の、流れる涙を隠そうとする仕草をヒッティングのサインと見誤った伴は痛打するが、凡フライに倒れる。

2号は結局、花形満の手で粉砕された。花形は、まずはホームスチールした三塁走者の手で、続いてはヘルメットを落とすことで砂煙を封じようとした。最後は、飛雄馬がモーションに入ると同時に自分も一本足打法を真似し、飛雄馬の動揺を誘った。中途半端に上がった足では砂煙を巻き上げることができず、完全に消えない2号は甲子園球場の場外にすっ飛んでいったのだった。


【大リーグボール3号】

しかし飛雄馬はまたもよみがえる。
突然のアンダスローから投じられるスローボールこそが、大リーグボール3号だった。親指と人差し指だけでボールを握り、全身が生み出す遠心力の先に指先から弾き出されたボールは、プロのバッターの強烈なスイングの風圧に耐えきれず、バットをよけてしまう。野球常識を越えた、もっと言えば野球自体を根底から否定する魔球の誕生だ。飛雄馬の軽い球質も幸いしたのだった。

左門が敗れ、花形もまた敗れた。飛雄馬の破竹の連勝は止まらない。

一徹も一度は敗れた。
が、3号がどういうわけか打ち気のない投手には打たれることに目をつけた一徹は、愛弟子伴宙太に逆立ちを命じる。その試合、飛雄馬は巨人軍では藤本英雄以来二人目となるパーフェクトゲーム(完全試合)を狙っていた。実は飛雄馬の左腕は無理な投球動作がもとでボロボロになっていた。医者から、いずれ「ピシッ」という音とともに左腕は機能不全に陥ると宣言された飛雄馬が選んだ結論は、完全試合達成によって球史に名を残す道だった。

27人目のバッターに伴が向かう。しかし伴は長時間の逆立ちと素振りのおかげで全身ガクガク、意識朦朧という状態だった。カウントは2-3まで進み、運命の一球が投じられる。ピシッという音とともにマウンドに倒れ込む飛雄馬。伴はヘロヘロのスイングで迎え撃つが、インパクトの瞬間の握力は常人の比ではなかった。鋭い打球が左中間を破る。しかし何ということか、伴にはもはや一塁まで走る体力が残されていなかった。きわどい一塁のクロスプレーは一度はアウトの宣告がなされるが、「にゃにおう!」という伴の気迫に押された線審の判定はセーフに覆る。ピンチランナーを起用する中日・水原、ベンチに引き上げろ!とナインに命令する巨人・川上。

そんな騒ぎの中、一徹はマウンドに向かう。そして息子、飛雄馬に言う。
「いま、おまえはパーフェクトにわしに勝ち、この父をのりこえた・・・・。
 わしら親子の勝負はおわった!!」


前回書いたように、一徹が飛雄馬に野球を仕込んだのは、かつて巨人軍を追放された遺恨から来るものではなく、亡き妻・春江さんの願いを実行するためだった。春江さんとしては、飛雄馬が野球をやることで父を理解し、父との堅い絆が生まれ、やがては現実社会で成功できると信じたのだろう。

そしてその切ない願いは叶った。
飛雄馬は、先天的な体格の不利を、父から受け継いだ武器と超人的な精神力、努力によって克服した。日本シリーズで対戦し、改良1号の前に敗れた阪急ブレーブスのスペンサーが思わず叫んだ言葉「小さな巨人!」。これを聞いたら春江さんも涙をこぼさずにはおれなかったことだろう。

飛雄馬は貧困からも脱出し、東京タワーがごく近くに見える豪華高層マンションで、姉の明子と「デラックスな生活」(本人談)を始めた。テレビの芸能番組に出演し、知り合ったアイドル歌手とのデートを重ねた。
改良1号に敵はなく、来シーズンは堀内や城之内、高橋一三を差し置いての巨人のエースの座は保証されたも同然だった。

まさかの父・一徹の、中日コーチ就任がなかったなら、だ・・・。

つづく

巨人の星 ライバルたち(花形・左門・伴)

ライバルたち

※以下の記事は3分の2まではあらすじの紹介ですので、『巨人の星』通の方は飛ばしてください。

若い人にはピンと来ないだろうが、『巨人の星』が連載されていた1960年代後半、すでに星一徹のようなガンコ親父やカミナリ親父という存在は、時代錯誤の稀少動物と化していた(らしい)。
荒俣宏の少年マガジン大博覧会』の中には、次のような記述がある(文は高山宏氏)。

『巨人の星』第一部は五月十一日で終わり・・・(中略)・・・自分の父親が一徹だったらなあと思う子供が一五〇人中一四五人。一体どういう統計なんだろう。やさしいばかりのマイホーム・パパの時代が始まっていたのだろう。「星一徹のモーレツ人生相談」など、ウジウジ悩んでいる青少年を「ばかもんっ!」と一喝する、メタきわまる面白い企画で、大笑いして読んだ。


※星一徹その人については、ここでアレコレ書くよりもこちらのサイトを見ていただいたほうが話が早いだろう。
「巨人の星」伝説 星一徹と50の名言!


【花形満の場合】

では、そんな星一徹に育てられた星飛雄馬とは、一体どのような人物だったのか。
まず阪神タイガースの花形満だが、彼は飛雄馬に「青春を見張られてきた」と言う。

花形モーターズという大企業の御曹司に生まれた花形満は、英国貴族趣味の信奉者である父の趣味によって、物心がつくとイギリスの貴族が学ぶ寄宿舎へ入れられた。始めはイギリス特有の黄色人種差別に悩まされた花形だったが、小学校の高学年になる頃にはあらゆる面でナンバーワン。エリザベス女王と握手する光栄にも恵まれたとか。

やがて帰国した花形は、すっかり染まってしまった英国貴族趣味のおかげで、日本で見るもの全てが「おそまつで、うすぎたなくてしかたがない」。母国は「けいべつにあたいする三等国」と嘆き、グレてしまう。不良少年を集めた野球チーム、ブラックシャドーズを結成して草野球アラシを繰り返していた。

その野球が花形に引き合わせたのが、星飛雄馬だった。そのときの飛雄馬の印象は・・・

「これほど骨のズイまで日本的なチビはいなかった。しかし、かれのは失われゆく日本の美! こよなき美学だった。
日本じゅうあげて、ふわふわ骨なし草のように欧米かぶれしつつある風潮にさからい、父上とともに古きよき日本をがんこに死守するすがただった!
そんな単純なものではないが、しいて俗っぽくいえば日本的なナニワブシ・ヒューマニズム!」

飛雄馬との出会いは、花形からニヒリズムを取り去り、不良少年をやめさせた。母国・日本への愛も取り戻させた。それは・・・

「なんのことはない。エリートぶりながら、じつは日本じゅうこぞっての欧米かぶれの先頭をきっていたにすぎぬ、おっちょこちょいの国籍不明の安っぽさを自分のすがたに見たからだ。
まず”日本の男”になりたいとぼくは願い、それゆえに目標の飛雄馬くんに必死にいどみつづけ、いどみつつ、まなんだ!」

「男としての完成をめざす道をふみはずさぬよう、彼に見張られつづけてきたといったのは、ここのところです」

以上、会話の相手が星明子さんなので回りくどい面もあるが、要旨は明瞭だろう。
花形は、星一徹と飛雄馬の親子に、古き良き日本の男を見た。戦後日本の欧米かぶれに失望していた花形にとって、それは英国貴族趣味をはるかに凌駕する輝きを放って見えた。

最終的には和洋折衷の「あしたの理想的な日本の青年像をめざす」花形にとって、星一家とは天然記念物的に保護されるべき存在だったのだろう。飛雄馬の学費を貸してやろうとしたり、川上哲治に飛雄馬の推薦状を送ったりと、陰に日向に援助を惜しまない。ある意味では明子さんへの愛情の中には、一徹を義父に、飛雄馬を義弟にしたいという気持ちもあったのかもしれない。


【左門豊作の場合】

もう一人の宿命のライバル、左門豊作にとっては、初めのうちは飛雄馬は自分をプロに売り込むために打倒すべき存在として映っていたようだ。熊本の貧しい農家に生まれた左門はすでに両親を亡くし、幼い5人の姉弟をイジワルな親類の家から引き取るためには、何が何でも高い契約金をとってのプロ入りが必要だった。
高校球界随一の飛雄馬を打ち崩せば、自然に左門の値段もつり上がる。

だが左門の執念も空しく、勝敗は飛雄馬の青雲高に軍配が上がる。
落胆して帰途につこうとする左門と飛雄馬が町中で偶然にも出会う。するとそこへ新聞記者がやってきて、川上監督の厳命で巨人軍が左門獲得に動き出したというニュースを運んでくる。
飛雄馬は自らの巨人入団の夢が崩れ始めているショックを受けながらも左門の肩を抱くと、喜びを分かち合おうとする。
去りゆく飛雄馬の後ろ姿に左門がつぶやく。

「広い世間で、わしのために、みじめな妹や弟たちのために、はじめて星くんが泣いてくれたとです」

こうして二人の間には友情が芽生えた。
左門は、飛雄馬の巨人軍への燃えるような思いを知ると、巨人入りを拒否。契約金の安い大洋ホエールズへの入団を決意する。カネだけを貪欲に追い求めていた左門は、飛雄馬との出会いでカネにはかえられない何かを見つけたのだった。


【伴宙太の場合】

憎たらしい先輩として出会い、やがて親友としてバッテリーを組み、最後には一徹の放つ最強の刺客となった伴宙太も、花形同様、ブルジョワ(笑)の出身だ。伴自動車工業の御曹司にして高校柔道チャンピオンだった伴は、残された高校生活に目標を失い、張り合いのない日々を送っていた。退屈しのぎは弱小野球部への嫌がらせ的なシゴキだけ。

そこに現れたのが新入部員の飛雄馬だった。飛雄馬は伴のイジメに耐え、対等な勝負に持ち込み、伴を破った。あらたな生き甲斐を見つけた伴は野球部に入り、飛雄馬とともに甲子園出場を目指す。
しかし伴が飛雄馬に惹かれた理由は、何も飛雄馬がとてつもなく速いボールを投げるからではない。飛雄馬の野球に賭ける一途な思い。そして、それにも関わらず他人のために自分を捨てることができる心に、伴は生涯の友情を誓った。

甲子園大会決勝。左手親指を負傷していた飛雄馬はスローボールしか投げられない。花形に対しては全打席敬遠という屈辱だ。青雲高には小宮という第二投手がいたが、その実力はおよそ甲子園大会のレベルにはなかった。飛雄馬は小宮に恥をかかせまいとして、負傷を隠して血染めのボールを投げ続けた。その結果として川上監督から、不要の烙印が押されると分かっていたのに、だ。

花形を敬遠して敗北した青雲高では、後援会会長の伴大造(宙太の父)の無理押しで、ライバル企業の息子に花を持たせたことを理由に、野球部の解散が決定していた。それを恨んだ飛雄馬の友人、牧場春彦が伴大造を闇討ちし怪我を負わせる。たまたま現場に居合わせた飛雄馬の姿を運転手が目撃し、嫌疑は飛雄馬にかけられる。飛雄馬は牧場春彦の家庭がすでに没落しており、牧場の高卒の資格だけが頼りだと聞くと、罪をかぶって自主退学の道を選ぶ・・・。

こんなかんじで、他人の悲しみを自分の悲しみに引き受け、損な道ばかりを選んでしまう飛雄馬を伴はほっておけない。青雲を中退した飛雄馬が巨人軍の新人テストを受けると聞くと、矢も楯もたまらず多摩川グラウンドへ走るのだった。大金持ちの家に生まれ、恵まれた体格と身体能力で高校柔道の頂点を極めた伴宙太にとっても、飛雄馬という存在は守り、盛り立てていかねばならないものだった。


簡単に言ってしまえば、これら3人のライバルたちにとって、飛雄馬はそれまでの人生を一変させてしまうインパクトとして登場した。高度経済成長に湧き、戦後民主主義に踊るあの時代にあって、飛雄馬の衝撃は計り知れないものがあった。
それはいみじくも花形が看破したように「古きよき日本」すなわち生き残っていた「戦前」を死守する姿だった。

そんな飛雄馬を形作ったのは、言うまでもなく父一徹だ。
「戦後民主主義」を鼻で笑う一徹は、頑ななまでに「戦後的」なるものを拒み続け、貧乏長屋の片隅でひっそりと暮らした。その薫陶を受けて育った飛雄馬も、時には人並みに貧乏生活を自嘲しながらも、多くは望まなかった。

しかし一徹が願った飛雄馬の巨人軍での成功は、結果的に飛雄馬に望外の富をもたらすことになった。
飛雄馬は都心のマンションでの生活を始め、ボウリングやディスコなど若者らしい場所にも出入りするようになった。

それは死に絶えたはずの「戦前」が、「戦後」に侵入した瞬間だった。

そして一徹は立ち上がった。
我が子、飛雄馬を粉砕するために・・・。

つづく

巨人の星 アームストロング・オズマ

悪魔のギブス

巨人vs阪急の日本シリーズで、花形流の攻略法をマスターしてきたスペンサーを破った時点で、大リーグボール1号は完成した。飛雄馬は文字通り、「巨人の星」となった。・・・はずだった。
ところがここで飛雄馬の前に立ちふさがったのが、二人三脚で「巨人の星」を目指したはずの父、一徹だ。

一徹は、飛雄馬が姉の明子を誘って都心のマンションで”デラックスな”生活を始めると、ふいに、子は親を乗り越えねばならない!と言い出して、中日ドラゴンズのコーチに就任する。
この時一徹が中日側に提示した条件はただ一つ、オフの日米野球で来日し、初見で大リーグボール1号を攻略しかけたカージナルスの新人選手、オズマの獲得だった。この狙いは、オズマを大きく育てたいカージナルス側の思惑と一致し、オズマは一年限定のレンタルで中日に入団する。

しかし、思えばそもそも飛雄馬が貧乏長屋からマンションに引っ越したり、アイドル歌手と付き合ったり、契約更改にごねたりを始めた原因は、このオズマにあった。
幼少時に貧しい両親からカージナルスに「売られた」オズマは、最新の科学技術で「野球ロボット」に育てられた。オズマは飛雄馬に同類のにおいを感じ、それを飛雄馬に問う。お前もおれも青春知らずの、同じ「野球ロボット」じゃないのか、と。

飛雄馬は「人間くさい」行動、つまりは目先の欲望に任せた行動をとることで「ロボット」であることを否定しようとした。
しかし、根っからの”戦前人間”である飛雄馬にとって、それらは全て「むなしい」ものだった。

そんな飛雄馬の前に現れたのが、宮崎県の山奥の過疎集落で看護婦を務める日高美奈さんだった。飛雄馬は美奈さんの気高い心(詳細は省く)にうたれ、生まれて初めて女性を愛した。飛雄馬に訪れた、本当の「青春」だった。
だが美奈さんは不治の病に冒されていた。美奈さんの死は、飛雄馬から生きる意味さえも奪ったが、やがて飛雄馬は立ち直り、美奈さんの面影を胸にマウンドに復帰する。

一方、中日に入団したオズマは、星コーチに「大リーグボール打倒ギブス」なるもので拘束され、「見えないスイング」の完成を目指していた。始めは星コーチを憎んだオズマだったが、いつしか二人の間には共通の目標を抱く男同士の”絆”が芽生えていた。
それは、貧困の底で夜空に輝く星を目指した、かつての一徹と飛雄馬の親子に似た、堅く結ばれた”師弟”の姿だった。オズマは一徹の、血の繋がらない息子になったのだった。

だから別れの日、心の兄弟になったオズマは飛雄馬に言う。自分はもう「野球ロボット」ではない、「ニンゲン」になれたのだと。飛雄馬も応える。「もう野球人形じゃない・・・つもりだ!」


もしも一徹の中日入団が、この一連の飛雄馬の青春の迷いを正し、真の「巨人の星」たらしめる教育的目的にあるのなら、この時点ですでに一徹の出番は終わっているはずだ。大リーグボール1号はオズマにしか打てず、しかも飛雄馬はすでに2号・消える魔球も完成させていた。
2号のほうは薄々、花形・左門には見破られつつあったとは言え、ならば今こそ魔送球生みの親として飛雄馬に協力し、その改良に手を貸してやるのが親というものだろう。

しかし一徹はそうはせず、子は親を乗り越えねばならない!と繰り返し、あまつさえ飛雄馬の親友、伴宙太を中日に引き抜いてまで息子を倒そうと執念を燃やした。
この一徹の鬼気迫る姿は、正直なところ、ぼくには常軌を逸したものに思える。
もしも一徹が、戦前的で封建的な思考をする人間だというのなら、親は慕い敬うものであって、直接戦って乗り越えるような存在ではないはずだ。それが儒教的な精神というものだろう。

そしてそんな一徹の挑戦を受けて立つ飛雄馬。
飛雄馬はそれがあたかも大人への登竜門であり、避けては通れない自立への道だと主張する。
しかしその結果はどうだ。
飛雄馬の左腕は回復不能なまでに破壊され、巨人軍という「輝ける星座」の一員でいられた期間はわずかに終わってしまった。

一体この親子はなぜ、そうまでして戦わなければならなかったのか。
この親子を突き動かし、悲劇的な結末へ向かわせた原動力とは何だったのか。


あるいはそれを、”戦前的なるもの”への鎮魂と見る向きもあるかもしれない。
確かにあの時代、すでに『巨人の星』は前時代の遺物として読まれたことは事実だ。リアルタイムでこの作品に触れた団塊世代は、『巨人の星』を笑い、『あしたのジョー』に自己を重ねた。

それはジョーが、一徹と同じように「戦後」をあざ笑いながら、飛雄馬のようにウロウロと迷うことなく、その最後まで”戦後的なるもの”を拒絶したその一貫した姿のせいもあるだろう。ジョーは「戦後」に侵入することなく、その生涯を「泪橋」のたもとで終えた。「戦後」から排除されたものとして、永遠の外部、よそ者としてジョーは完結した。

だが、そんな『巨人の星』の笑われ方に、鋭い反論を加える人もいる。
呉智英さんだ。

『巨人の星』は連載当時、圧倒的な人気にもかかわらず、これを高く評価する識者は見当たらなかったのだ。

マスコミもこれに近かった。・・・(中略)・・・星一徹、飛雄馬親子の熱血主義を揶揄するものや、根性主義のいかがわしさを批判するものや、果てはこの人気がファシズムに結びつくと論難するものばかりだった。

おそらく、リクツ好きの学生やシニカルなマスコミは、『巨人の星』の面白さが恐かったのだろう。

確かに、『巨人の星』は戦後の文化空間においては、あまりにも異質な作品であった。戦後民主主義の中で教えられてきた男女平等も、家父長否定も、平和主義も、福祉主義も、この作品にはなく、それと反対のものだけが激しい熱気とともに語られていた。そして、『巨人の星』が圧倒的な人気を誇っていたのは、その戦後民主主義が最も高揚した一九六〇年代後半のことであり、その高揚を支えた学生たちが競ってこれを読んでいたのである。
私は、これを戦後史の逆説と呼んでいる。
(いずれも出典は、講談社漫画文庫『巨人の星』第8巻の巻末解説より)



呉智英さんの解説からは、当時、読者である団塊世代そしてマスコミは、一種の怖いもの見たさで『巨人の星』を読んでいた、というような不思議な感触をぼくに与える。だから彼らは『巨人の星』を笑い飛ばした。オバケだって、大声で笑い飛ばせば怖くない。あるいは見て見ぬふりをすればいい。そんな印象さえ受ける。


『巨人の星』の面白さを恐れたという団塊の人々。
彼らはそこに、どんなオバケを見てしまったというのだろうか。

つづく

最終回「輝け! 巨人の星」 〜近代日本のメタファーとして

破滅の日

栄光と挫折を限りなく繰り返した悲運の投手、星飛雄馬!」
大リーグボール3号を引っさげて、巨人軍としては二人目となる完全試合達成にばく進する飛雄馬を、当日のテレビ中継のアナウンサーが評したのがこのセリフだ。

幼い頃から鍛え上げた自慢の速球はその球質の軽さでプロには通用せず、それを克服すべく生み出した大リーグボール1号、2号はひとときの栄光を飛雄馬に与えはしたが、並み居るライバルたちの手で悉く打ち込まれてしまった。

挫折に次ぐ挫折。
しかしその末に、ついに飛雄馬が掴んだ魔球が大リーグボール3号。すなわち、バットをよけてしまう魔球だ。
これまでの飛雄馬の栄光の陰には、いつでも父・星一徹の力が潜んでいた。大リーグボール1号を可能にしたのは一徹が飛雄馬に仕込んだ類い希な制球力であったし、2号・消える魔球は「魔送球」の変形だ。

だが3号は全くの飛雄馬のオリジナル。
しかもその背景には、飛雄馬の最大の弱点である恵まれない体格から来る、球質の軽さがあった。飛雄馬は自分の最悪の欠点をそのまま最強の武器にかえて、父の影響下から脱出した。飛雄馬は真に独立した人間として、幼い日から父と目指した「輝ける星座」の一員へと今、登り詰めようとしていた。

ところが父一徹は、そんな飛雄馬をまたもや挫折させ、敗者の座に引きずり下ろそうとする。
一体これは、どういう神経から来るものなのか? いみじくも娘の明子が指摘したとおり、一徹の行為はもはや教育的観点からは正当化できず、ただただ息子の「邪魔」をしようとしているに過ぎない。狂気だ。

そもそも一徹が飛雄馬の「邪魔」をしてやろうと決意したのは、飛雄馬が都心でのマンション生活を始め、若者らしい青春を求め始めたときだ。この頃の飛雄馬の行為を正し、修正するために一徹が立ち上がったことは理解できる。しかし馬鹿ではない飛雄馬は迷いと苦しみの果てに飛雄馬なりの「青春」に決着をつけ、自力でマウンドに戻ってきた。

だったらそれで、もういいじゃないか。
もはや飛雄馬は親に保護されるべき子どもではなく、精神面も顔つきも、立派な一人前の大人になった。そんな飛雄馬にいつまでも絡み続ける一徹のほうが、ぼくには余程子どもじみて見えてしまう。一徹は一徹の人生を勝手に全うすればいいじゃないか。これまで通り、貧乏長屋の片隅で、ひっそりと・・・。


大リーグボール3号は、他でもない巨人軍史上はじめて完全試合を達成した中尾2軍コーチに「野球史を根底からくつがえします」と川上監督に言わしめた驚異の魔球だった。しかしその代償は大きく、肘を使わずに2本の指だけでボールを押し出すような不自然な投球フォームがいつしか飛雄馬の左腕を蝕み、その野球生命は危機に瀕していた。

秘密を知った花形は、自分は引退するから3号はこれ以上使うな、と懇願する。ライバルへの対抗心がなくなれば、3号がなくても飛雄馬はソコソコの投手ではいられるからだろう(1号は今でも通用する)。
だが飛雄馬は「あの人がいる!」と言って、一歩も引こうとはしない。
何のことはない。飛雄馬の左腕を再起不能に追い込んだのは、父一徹その人の存在だということだ。
これが「邪魔」でなくて、他の何だというのだろう。

しかしここで思い出したいのが、飛雄馬を巨人のエースに育て上げるという願いは、実は一徹ではなく、亡き妻・春江さんの願いだったということだ。一徹は、春江さんの描いたストーリーを忠実に実行していった人に過ぎなかった。

ならば、春江さんの願望が達成され、飛雄馬が改良1号で巨人のエースにのし上がってしまった後の一徹の行動。そこにも実は、一徹自身思いもよらぬ、何か別の大きなストーリーがあったんじゃないだろうか? 
一徹は今度も、そのストーリーに突き動かされるように、結局わが子を破滅にまで導いていってしまったんじゃないか?


星飛雄馬の物語。
それは簡単にまとめてしまえば、貧弱な体格しか持たない少年が、超人的な努力と自己抑制によってプロ野球界にデビューしたものの、「栄光と挫折を限りなく繰り返した」あげくに破滅した、というものだ。
この一連のストーリーは、ぼくには至って身近なところにある、ある小国のストーリーを思い起こさせる。

ロクに資源もない山がちのちっぽけな国土しか持たないその国は、勤勉な国民性をフルに発揮して一丸となり、奇跡のような成長を遂げると近隣の大国との戦争に勝ち抜き、世界の一流国の仲間入りをした。しかし勝つたびに更に大きな国からの干渉を受けて挫折、臥薪嘗胆だ。まさに栄光と挫折を繰り返した悲運の国。そして最後は破滅した・・・。

地上最強の魔球、大リーグボール3号。
それはつまるところ、野球というスポーツ自体を無意味化してしまうものだ。いずれ飛雄馬を真似て、各球団が3号を使うようになれば、野球というスポーツはこの世から消滅する。
ならば3号が意味するものは明らかだろう。
それは、アメリカより先に日本が開発してしまった「核」だ。

星一徹、すなわち飛雄馬にとっての「黒船」は、この歪められつつある歴史を修正しなくてはならない。
だから一徹が戦争で野球を失ったことで表面的には戦争拒否のような煙幕を張りながら、一徹はもう一度あの戦争を飛雄馬に演じさせた。あの破滅への道を、だ。
”戦前”の象徴であったはずの一徹は、我知らずのうちに、あの「アメリカ」の役回りを演じされられていたのだった・・・。

こうして、近代日本のメタファーとして『巨人の星』は完成した。
近代日本が辿った栄光と挫折、そして最終的な破滅の物語は、繰り返し繰り返し週刊誌で読まれ、単行本で読まれた。学校の教科書で近代史をあらためて学ぶ必要なんてなかった。大ベストセラーのマンガの中に、それは最低最悪の表現をもって再現されていたのだった。
あの時代に団塊世代が読んだもの、それは圧倒的な迫力で語られる、日本の敗戦の物語だったというわけだ。


飛雄馬を野球界に「開国」させた黒船であり、最後に最大最強の相手として飛雄馬の前に立ちふさがった一徹は、わが子の破滅を見届けるとただの普通の父親に戻った。一徹にかけられていた呪いは、すべて解かれた。
「わしらの親子の勝負は終わった!!」
そして、かろうじて命脈を保っていた”戦前”は1971年のこの日、夕陽のなかに消えていったのだった。


というところで、ここでもう一度内田樹さんに戻らなくてはならないだろう(『9条どうでしょう』)。
内田樹さんは、アメリカにとっては矛盾しない「平和憲法」と「自衛隊」が、日本国内では矛盾してしまうことへの対処として、日本人がそれを”国内問題”に転嫁してきた歴史を指摘する。つまりは国内の革新vs保守の対立が、矛盾の解消を阻害しているんだと思い込むことで、日本人はアメリカの「奴僕国家」である現実から目をそらしてきたのだと。

内田さんの指摘するこうした一種の自己欺瞞は、ぼくらが幼少時に観てきたヒーロー番組においては、しばしば「矛盾」そのものとして表出してしまうことがあった。『鉄人28号』『ジャイアントロボ』『マジンガーZ』については、このブログでも具体的に検討してきたとおりだ。
そして今回『巨人の星』にも、同様の構図は見られたと思う。
ここでは戦後の日本人が隠蔽してきた本当の日米関係は、親と子の関係にすり替えられて語られた。

内田さんはそんな戦後日本人の性根を「可憐」だという。
たしかに飛雄馬も、そして一徹も可憐だったとぼくは思う。死に損なった”戦前”として破滅を選び、静かに消え去る姿は涙ものだろう。
それは、失われゆくものへの哀歌であり、鎮魂歌だった。

だが、同じ頃、「可憐」であることを拒否するような人々もいた。
「奴僕国家」であることを受け入れ、現実を直視した人々がいた。
彼らは表出してしまった「矛盾」と戦う道を選んだ。それはつまり、あの「アメリカ」と、もう一度戦うということだ。

つづく

新造人間キャシャーン ブライキングボスとアンドロ軍団

キャシャーン誕生

新造人間キャシャーン』(1973ー1974・タツノコプロ)の物語は、同じ頃の東映ヒーロー番組ときわめてよく似た始まり方をする。

時代も場所もよく分からないとある国で、世界的なロボット工学の権威の東光太郎博士が、公害処理用のアンドロイドの製造を行っていた。ところがある夜、このうちのBK-1号が激しい落雷を受けて暴走してしまう。BK-1号は、ロボットによる人類征服を宣言すると、生みの親である東博士に襲いかかってきた。かろうじて窮地を脱した博士家族は国防軍に連絡するが、BK-1号には歯が立たずに全滅。
おのれの力を確信したBK-1号は博士の研究所を利用してロボットの量産を開始し、「アンドロ軍団」を組織。自分は団長「ブライキングボス」を名乗るのだった。

ブライキングボス率いるアンドロ軍団は最大の脅威である東博士を捜しはじめ、やがて博士が国立科学研究所にいることを突き止める。博士に危機が迫る。すると博士の一人息子の東鉄也が、自分を新造人間に改造してくれと志願してくる。博士は、一度改造すれば二度と人間には戻れないと言って一旦は拒否するが、元はといえば全ては博士自身が蒔いた種でもあり、息子に説得されるかたちで人間改造(機械と人間の合成)を行う。

こうして「新造人間キャシャーン」に生まれ変わった東鉄也はさっそくアンドロ軍団を撃退するものの、戦闘中にスキを突かれ、父と母を連れ去られてしまう。キャシャーンは、父母を奪回するために生まれ育った家(兼研究室)に忍び込むが、すでに父の東博士はどこかへ移送された後であり、母のみどりは父の手で白鳥型ロボット「スワニー」に姿を変えられていた。

アンドロ軍団はキャシャーンの生まれた国を皮切りに、次々と人間社会の侵略を開始した。都市が攻撃され、占領されていった。キャシャーンは、ロボットを憎む人々のなかでその正体を隠しながら、ひたすらアンドロ軍団と戦うのだった・・・。


てなあたりが『新造人間キャシャーン』の出だし部分だ。
簡単に言えば、父が心ならずも生み出してしまった「悪」をその息子が叩いて回るというストーリーは、東映の『変身忍者嵐』と同じパターンだ。要は、息子の鉄也=キャシャーンの行動の根底には「父のあやまち」への「償い」がある。

と聞けば、な~んだキャシャーンも大日本帝国を叩く自虐系か~と思われるかもしれないが、それはごく最初のうちだけのこと。実写の特撮番組では(予算的に)不可能な表現も、ただの絵であるアニメなら問題なく描くことが出来る。『新造人間キャシャーン』は、東映特撮が実現できなかった軍隊による都市の占領を描くことで、「敵」の持つイメージを180度転換させてしまったのだった。

具体的にはこんなこんじだ。
第5話「戦いの灯を消すな」。
アンドロ軍団はキャシャーンの生まれた国を占領すると、次々と近隣都市への侵略を開始した。各国の国防軍は必死の抵抗を試みるものの、すでに大量生産に入ったロボット軍団には全くの無力だった。
そんなある都市でのこと。
ここでブライキングボスが打った手は、ネズミ型ロボットの大軍をばらまいて食料という食料を食い尽くさせる作戦だった。人々は飢えに苦しみ、戦意を失っていった。
そこに山のようなパンを携えて現れたブライキングボスは、パンが欲しければ俺に土下座しろという。人々は日々の一切れのパンのために、ロボット工場でドレイのように働かされるのだった・・・。


『新造人間キャシャーン』の物語には、このエピソードに代表されるように、アンドロ軍団という”占領軍”とそれに占領されてしまった人々のやりとりを巡って展開されるものが多数、散見される。
アンドロ軍団は「ショッカー」等のように、コソコソと暗躍する存在ではない。人間が太刀打ちできない強大な軍事力を前面に押し出して、堂々たる行軍をもって都市の中心地を占拠する。

むろん、人間側にだって黙って占領されてドレイに落とされることを受け入れない者もいる。
上記の第5話でも、たった4人ではあったが勇者たちが攻撃隊を組織してブライキングボスの狙撃を図った。それが失敗に終わっても諦めず、人々が強制労働をさせられている工場に乱入すると監視ロボットを破壊し、人々を解放しようと奮闘した。
しかしどうだろう。
一緒に戦おうと叫ぶ4人の声に応える人は皆無であり、あまつさえブライキングボスの本隊が到着したと聞くや、我先に逃げ出す始末・・・。


第5話がぼくらに訴えたいことは極めて明瞭だろう。
『新造人間キャシャーン』の物語は、絶対的な力の差を前にして、ぼくらは降伏してドレイになるべきか、それとも団結して戦い抜くべきか、それを問うているのだとぼくは思う。
キャシャーンがいくらブライキングボスより強いアンドロイドだとは言っても、残念ながら彼の肉体はひとつしかない。何百、何千というロボット軍団を前にしては、彼の太陽エネルギーもすぐに限界を迎えてしまう。キャシャーンには、ともに戦ってくれる沢山の同志が必要なのだ。

というふうに見てみると、一見、東映ヒーローっぽい始まり方をする『新造人間キャシャーン』が、実は『月光仮面』や『快傑ハリマオ』型のヒーロー番組であったことが理解できる。すなわちこの番組は、観る側の倫理を問うているということだ。
と同時にこの番組では、いわゆる等身大ヒーローの限界も表されている。もしもショッカーが本気を出して挑んでくるなら、仮面ライダーもキャシャーン同様、おのれの無力さを痛感して打ちひしがれたことだろう。

といった辺りで『新造人間キャシャーン』の世界の基礎部分をざっと説明してみた。
繰り返しになるが、ここでの「敵」は次々と都市に進軍しては抵抗を排除し、降伏させ、占領するものだ。その行く手の先々では人々が選択を迫られていく。戦うべきか、屈するべきかと。

これはいったい、何を意味する物語なのだろう?

つづく

キャシャーン無用の街

キャシャーン無用の街

強大な敵に対し、抗戦か降伏かを問うヒーロー番組は『新造人間キャシャーン』に限ったものではない。すでに見たところでは『ウルトラマンA』や『マジンガーZ』にも類似したストーリーはあった。
だが『新造人間キャシャーン』においては、その問いかけはいささか執拗ですらあった。

第16話「キャシャーン無用の街」。
破竹の勢いで進撃するアンドロ軍団は、巨大な武器製造工場のあるブッキー市を次の攻略目標に定め、その隣町のハテナイ市を駐屯地にすることを決定した。それを聞いたハテナイ市では緊急会議が開かれたが、ここでは逃げるか戦うかの議論は起こらなかった。
というのもハテナイ市の市長は絶対平和主義者であって、彼の一存でハテナイ市の降伏は最初から決定していたからだ。

「いくさによって、この街が破壊されるのを望みません。同時にまた、戦いによって私たちの尊い命が失われるのを望みません。例え戦っても勝てる相手ではないのです。みなさん、私たちは軍団に服従するしかない。人間としての誇りさえ捨てれば平和が約束される。恥がなんです! 人間の命ほど、大切なものはないのです」

議会は満場一致で市長を支持し、市民にはアンドロ軍団への絶対服従が通達された。
キャシャーンは議員たちに抗戦を訴えるが、迷惑だから出て行けと街を追い出されてしまう。
やがてブライキングボスが直々に率いる本隊がハテナイ市に入ってくると、街頭スピーカーからはこんなアナウンスが流れる。
「アンドロ軍団のみなさま、ようこそこのハテナイ市に。私たちは今日からロボットの皆様の手足となり、何事にも耐え、よろこんで服従を誓います」

市長以下の議員は公邸に集められると、さっそく服従の証しとして四つん這いにさせられ、その上にロボットたちが腰をかけた。人々はロボット工場に集められると、奴隷のようにムチで打たれての強制労働だ。
ブライキングボスは大笑いする。
「わはは、このようにして守るほど、平和とはありがたいものかな」

沈鬱な調子のナレーションが入る。
「人間がこころを捨て、ロボットに服従したとき、人間はもはや人間ではなく、一個の機械となった・・・」

大通りでは犬のように首輪でつながれた人間が、ロボットに散歩させられていた。
しかしキャシャーンが危惧したとおり、人間の忍耐にも限界があった。犬コロ扱いされた男は発狂してロボットに反撃を試み、惨殺された。それをきっかけとして、ついに人々の反乱が始まった。
抗戦を叫ぶ人々が市長の邸宅を包囲して、投石を始めた。

そんな騒ぎを収拾しようと、ブライキングボスは市長に、市内に潜入しているキャシャーンの殺害を命じる。
絶対平和主義者を自認する市長はいったんは銃口を向けたものの、「戦いは好まん」と言ってキャシャーンを逃がす。ところがその様子をブライキングボスに取り入ろうと目論んでいた議員の一人に目撃され、密告されてしまう。

キャシャーンはハテナイ市を諦めてブッキー市に移動しようとしていたが、そこへ瀕死のハテナイ市民が救援を求めてやってくる。キャシャーンが街に戻ってみると、すでに市民は全員虐殺され、廃墟だけが広がっていた。ロボットにリンチを受けて息も絶え絶えになった市長は、街を見渡して言う。
「これが・・・私のつくった平和か・・・」
しかし、市長は最後まで「自分が正しいと思っている」と言いながら死んでいくのだった・・・。


この市長が主張するようなことを、現実の日本でも主張する人々がいることはご存じのとおり(無防備全国ネット)。そしてこの第16話が、そういった主張への回答として創作されているのも見ての通り。

結局のところ、この市長が読み違えたことは一点で、それは相手のブライキングボスが、ハテナイ市の人間を同格の存在とは見ていなかったことに尽きる。
ブライキングボスにとって、人間などは一段劣った存在として最初から差別の対象だった。そんな相手に服従しても、ますます相手を増長させるだけのことだろう。
価値観がまったく異なる相手に、市長の主張は無意味かつ無力だったというわけだ。


あらすじを追うと長くなるので省略するが、第29話「高熱ロボ・ネオタロス」もやはり、戦うか、降伏するかがテーマだ。

キャシャーンが新造人間であることはすでに世間の知るところとなり、人々は彼に複雑な感情を持っていた。だからアンドロ軍団に立ち向かうキャシャーンを見て、勇気ある少年たちがキャシャーンに助力しようとすると、それを制止して市長はいう。
「ロボットはロボットに任せておけ」
ところがそんな市長に少年たちは腹を立てる。
「大人のくせに、いくじなし!」
少年たちに罵倒された大人たちは、「人間の誇りのために」戦うことを決意する。

また、訳あってアンドロ軍団に加担していた科学者メリナ博士は、人間の尊厳のために戦って死んでいく人々や、命を捨ててキャシャーンを守ろうとする少女ルナの姿を見て心を入れ替え、彼女が作ったロボットの弱点をルナに教える。爆発に巻き込まれて瀕死の重傷を負った博士は、「死よりも尊いものがある」と言い残して絶命する・・・。


命を守ることよりも大切なことがある・・・。
これも『新造人間キャシャーン』のテーマの一つだろう。

第22話「ロボット・ハイジャック」。
キャシャーンに救出された人々は口々に「君のおかげだ」というと、脱出用の飛行機に乗り込んでいった。その中に介助を必要とする人がいたため、ルナ(書き忘れていたがキャシャーンの幼なじみの少女)が一緒に搭乗することになった。ところが飛行機はアンドロ軍団のワナにはめられ、途中の飛行場に誘導させられてしまう。飛行機をロボットが取り囲み、乗客を助けたければキャシャーンの隠れ場所を教えろとルナに迫る。キャシャーンがエネルギーを失って休養していることを知るルナは答えられない。すると人々は
「キャシャーンひとりの命より、おれたち乗客の何十人の命の方が大切じゃないか!」
と口々に非難する・・・。


特に説明の必要もないと思うが、こうした「公」と「私」の混同、というか錯誤のようなものは(例えば)1963年の日本映画『海底軍艦』などでも見ることができる。『海底軍艦』では、「国家の大義」という「公」について語る明治生まれの父親と、「わたしの気持ち」という「私」を押し出す戦後生まれの娘の間で、丸っきり会話が成立しない様子が描かれた。1963年の時点で、すでに「私」は「公」と同格になっていたということだ。

そもそもキャシャーンが死んだら人類が征服されることなんぞは子どもでも分かる理屈なわけだが、戦後民主主義では命はすべて等価とされる。そして命はまた至上の価値でもあり、命じたいに尊厳があるともされる。
ならば乗客たちがわめき散らす屁理屈も、戦後民主主義においては正しい発言だということになる(皮肉ですw)。

マジンガーZ』の記事では、”正義のロボット”を制約して、やがては排除してくるものとして「平和憲法」の存在を上げてみたが、ここで同様にキャシャーンの行動を制限・排除してくるものの正体は「戦後民主主義」だといえるだろう。

ある意味では、昭和のヒーロー番組は「平和憲法」「戦後民主主義」という”縛り”から、いかにして自由になるかの格闘でもあったとぼくは思う。
それは『新造人間キャシャーン』が、折に触れてキャシャーンと戦後民主主義を激突させていることで、十分にその証拠たり得るんじゃないだろうか。どう見ても『新造人間キャシャーン』にとって、戦後民主主義は常に「悪役」として描かれているようにぼくには思えるのだが・・・。


さて、一見すると国籍不明(北欧ともいう)の舞台で繰り広げられる『新造人間キャシャーン』は、こうして見ると実に戦後日本的な物語だと感じざるを得ない。なにしろ「平和憲法」同様に「戦後民主主義」も戦後日本にしか存在しない日本独特の思潮だからだ。
となれば『新造人間キャシャーン』におけるロボット軍団vs人間という戦いの物語とは、その表層を取り払ってみれば、結局のところは日本の、それも戦後日本の物語なんじゃないだろうか?

つづく

ブライキングボスの悩み 〜本土決戦の幻

最終回のブライキングボス

念のため書いておくが、『新造人間キャシャーン』の制作上のテーマは「非情な科学」と「人間愛」だった。表現としては、ハードSFとメルヘンという、タツノコプロが得意とする両分野の「融合」が目標とされた。これらは企画書に書いてあることなので疑いようがない。
そして当然のことながら、タツノコのスタッフは原則として、そういった企画意図にそって物語を作っていったことだろう。

ところが実際の作品を観ていくと、そのように意図されたテーマとは別に、テーマ以上の迫真力でぼくらに訴えかけてくるものがある。それが、圧倒的に強大な相手を前にしたとき人間はどうあるべきか、という問いかけだ。尊厳を捨てて屈するべきか、尊厳を守って戦い抜くべきか。『新造人間キャシャーン』が要所要所にそれを問うエピソードを並べてきたことは、これまで見てきた通り。

作品を貫き、たびたび表されるものをテーマだと言うのなら、降伏か抵抗かもまた、『新造人間キャシャーン』の”裏”のテーマだといえるとぼくは思う。
ではそんな、本来意図されていなかった裏テーマの根源はどこにあるのか?
『新造人間キャシャーン』が、我知らず描いてしまった世界とはいったい何だったのか?


アンドロ軍団発祥の地は(どこの国かは分からないが)海に面した断崖絶壁に立つ古城だった。この古城が描かれるときは大抵の場合、嵐が吹きすさんでいたり、あるいは夜だったりで、周囲の状況は非常に分かりにくくなっている。印象としては、とにかくこの国の端っこにある、ということだけが伝わってくる。城の向こうは海、また海だ。

この古城からスタートしたアンドロ軍団の征服進路も、具体的には示されない。占領地はハテナイ市、ブッキー市というような都市名が出てくることもあれば、グリシア、メキシカのように国名をもじったものであることもある。
ただ、これまた印象になるが、その進路はきわめて直線的であるように思える。15話でキャシャーンが言ったように、ハテナイ市の次はブッキー市・・・という感じで、アンドロ軍団は一歩一歩着実に行軍を続けているように思える。
そして最終的には、「全世界」の3分の1までをアンドロ軍団は征服したのだった・・・。

まとめてみると、海に面した「全世界」の隅っこから現れたアンドロ軍団は、おおむね直線的なルートをとって「全世界」の中心らしき方面まで進軍していった。途中にある都市や国ではアンドロ軍団に抵抗するところもあれば、最初から服従を選ぶところもあった。ただし作品全体としては、「人間の尊厳」を守ることは「命」を守ることよりも価値がある、という意味のメッセージが随所に織り込まれた。

そんなアンドロ軍団の団長はブライキングボスというアンドロイドで、こいつは人間をロボットより一段劣るものとして蔑視していた。ネズミロボットをばらまいて食料を奪い、パンが欲しければ土下座して許しを乞えと笑った。服従の証しにロボットの休む椅子になるように命じて、それに座った。ブライキングボスの目標は、すべての人間をロボットの奴隷にすることだった・・・。


さて、ぼちぼちアンドロ軍団とブライキングボスに隠されたイメージの正体も見えてきたところだと思うが、それを決定付けるのはこのエピソードだろう。

第30話「ロボット退治ナンバーワン」。
ロボットをわなに誘い込んでは圧殺し、一躍街の英雄になったレオーヌという男がいた。その数すでに30体! この街には戦略上の価値はないと放置してきたブライキングボスだったが、次第に不安を募らせはじめる。その理由は・・・。

「まずい・・非常にまずいな。人間はロボットに勝てないものと諦めかけているところだ。それがロボットに勝ったとなると、人間どもめ・・・われわれに立ち向かおうと思い始めるかもしれん。思想問題が一番難しい・・・」

そう、征服者ブライキングボスにとっての最大の課題とは、思想問題だったのだ。
人間はロボットに勝てない、と思い込ませること。それが占領の極意だと、このロボットのボスは考えていたわけだ。

この、ちょっと子ども向けアニメにしてはリアル過ぎる表現はどこから来たのだろう?
それを考えるヒントは、『新造人間キャシャーン』を作った人々の世代にあるとぼくは思う。具体的には、「原作」の吉田竜夫が1932(昭和7)年生まれ。「企画」の鳥海尽三が1929(昭和4)年生まれ。「総監督」の笹川ひろしが1936(昭和11)年生まれ・・・。要するに、この人々は終戦を小学校~中学校でむかえた世代に属している。言い換えるなら、彼らは教科書とともにあの戦争を過ごしていたということだ。

ならば彼らは、おぼろげながらも知っていたことだろう。東南アジア諸国に対する白人の植民地支配、それを打ち砕くことを大義名分とした大東亜共栄圏の理念、そして大日本帝国滅亡後のアジア諸国の独立運動を。
ここでは大東亜共栄圏の是非については問わないことにするが、大東亜戦争が「アジア人は白人には勝てない」というプロパガンダ(あるいは思い込み)を消し去ったことだけは事実として認めていいはずだ。

また(もちろん1972年当時ではまだWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の存在は明らかにされてはいないが)、戦後日本に広く流布された「真相はこうだ」等のGHQのプロパガンダを、彼らの世代がそのまんま受け入れていったとは考えにくい面もある。
例えば吉田竜夫と同年生まれの脚本家、辻真先は、

「正義ってのがひとつじゃないことが、五十年前によくわかりましたから、正義正義って偉そうにいうよりも、好きな女のコのために一生懸命になるほうが、よほど上等じゃないかな、という気はするんですよ(笑)」(『懐かしのTVアニメ ベストエピソード99<東映動画編>』二見書房)


という具合に、戦後のGHQの「正義」をややナナメに見ていたことを語っている。
まあ、こういった話は個人差もあるので断定はしにくいが、とにかく少年時代の彼ら世代は、ぼくらとは比較にならないほど「占領」だの「支配」だのをリアルに体験していたことは確かだろう。

となれば、ブライキングボスに見られる「人間差別」のリアルな表現の元もはっきりしている。「被占領」の実体験だ。
『宇宙戦艦ヤマト』の原作者の一人、松本零士(1938年生)は”亡国の悲哀”について、こんなことを話している。

「小倉にいるときは亡国の悲哀というものも味わいました。通りを進駐軍の戦車が轟音(ごうおん)を立てて走っていくのを見るとね、小3~4のガキでしたけど、涙で目の前がかすんでくるんですよ。最も嫌だったのは、米兵にこびを売る日本人を見ることでした」

「キャンデーをまかれようが何をまかれようが、踏みつぶして歩いていました。腹ペコだったけれど、絶対にもらわん、とね。別に米兵が憎いわけではなく、『施しは受けない』と、子供ながらもプライドをもっていたんです」

「僕の作品には『宇宙戦艦ヤマト』など亡国を扱ったものもありますが、実際に亡国の思いを存分に味わったわけですから、描くときに本気で描けるわけです。自分で見て知っていて、心の状況もわかる。体験は重要な参考資料になっています」

(以上、松本零士インタビュー「夢は宇宙へ」ー MSN産経ニュース)


こうした、『(米兵の)施しは受けない』というような強い思いは、この時代の少年たちには少なかれ多かれ存在したのだろう。でなければ、『新造人間キャシャーン』にそれと類似した光景が、わざわざ屈辱的なかたちで表現されることは考えにくい。アンドロ軍団にはありありと、「進駐軍」による「占領」のイメージが残されているとぼくは思う。

ならば、『新造人間キャシャーン』の物語の裏テーマとは、一体全体「何に」ついて「降伏か抗戦か」を問うていたのだろう。それは日本のもう一つの選択肢、すなわち「本土決戦」ではなかっただろうか?

沖縄から上陸してきたアメリカ軍が、鹿児島、福岡、広島、大阪・・・と陸路北上していく。そのとき、それらの街の人々はどうしたのか。一切れのパン欲しさに服従を選んだのか。それとも徹底抗戦を選んだのか・・・。

『新造人間キャシャーン』の裏テーマ、「降伏か抗戦か」は、終戦を多感な少年時代にむかえた人たちが、漠然と共有していた「本土決戦」という架空の物語が根底にあったようにぼくは想像している。であればこそのリアリティであり、統一されたイメージでもあったのだろうと。

繰り返しになるが、1972年当時のタツノコプロがそういった仮定や思想を元に『新造人間キャシャーン』を作ったと言っているのではない。押し寄せる強大なロボット軍団の恐怖、非力な人間とそれを助ける無敵のヒーロー、愛やら勇気やら尊厳やら・・・といった素材を咀嚼していったとき、スタッフに共通するイメージとして具現化してしまったものが「本土決戦」だったのだろうとぼくは思っている。

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ところで、『新造人間キャシャーン』の企画上のテーマが「非情な科学」であったように、1970年代前半は公害を始めとした科学文明全般への批判が高まっていた時代だった(らしい)。それは高じればしぜんに戦後日本への懐疑へと繋がったことだろう。高度経済成長に踊った結果がこれかと。
しかも当時は同時にエネルギー危機が騒がれた時代でもあった。ぼくの家庭でもトイレットペーパーの買いだめは確かにやっていた記憶がある。

科学による地球汚染、その科学を支えるエネルギーの枯渇・・・。終末観ただよう日本社会が呼んだヒット作としては『日本沈没』やら『ノストラダムスの大預言』が上げられる、と物の本には書いてあるが、子ども向けのアニメにも終末を迎えた地球から人類が脱出する物語の企画が立てられた。

言わずとしれた『宇宙戦艦ヤマト』(1974)だ。
人が住めなくなった地球から、人類が脱出する巨大宇宙船のベースとして選ばれたのが旧帝国海軍の戦艦大和。
ところが『新造人間キャシャーン』がそうであったように、表のテーマとは裏腹に、やはり『宇宙戦艦ヤマト』も裏のストーリーを含んでしまっていたのだった。

つづく

ゴジラvsキングギドラ 〜ゴジラザウルス

ゴジラvs新堂靖明

1991年に公開された日本映画に『ゴジラvsキングギドラ』がある。監督・脚本ともに大森一樹。
ぼくは約25年ぶりにオタク趣味を再開したおっさんなので、つい最近まではそんな映画があること自体を知らなかった。DVDも勢いで買ってはみたものの、未開封の状態で放置だった。

ところがいざ、ほんの気まぐれで観てみたところ、これが面白い。ストーリー自体はWikipediaに「タイムパラドックスに矛盾が多く・・・」とあるようにあまり褒められたもんではないが、そこにいるのは紛れもない本物のゴジラ! まさか平成作品に本物のゴジラ(とぼくが思っているもの)がいるとは思っていなかったので、ひとり狂喜乱舞したのだった。

というところで思い出したのが、この『ゴジラvsキングギドラ』をボロクソにけなしている本の存在だった。
それが1992年に出版された『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(佐藤健志)。
この本にはその昔、まだ学生だったぼくは随分と感銘を受けた記憶がある。すでにオタク趣味を離れていたぼくにとって、ゴジラやらヤマトやらについて硬派な議論が展開されているだけで十分に愉快なことだったし、議論自体もあやふやな記憶を辿っては大いに納得させられたもんだった。

例えばゴジラについてだが、佐藤健志氏はシリーズを大まかに3部に分け、そのうちの「初期ゴジラ」には当時の日本人の「ひがみ」意識が反映されているという。

「小国である日本が米ソの冷戦、ないしアメリカの世界戦略に巻き込まれてとんでもない被害を受けるのではないかという、五〇年代の国民感情をストレートに反映していたのだ」


要するに『ゴジラ』第一作ではアメリカの核の被害を日本だけが受け、続く『ゴジラの逆襲』ではそのゴジラと、シベリア出身のアンギラスの戦闘によって大阪市がメチャメチャに破壊された。それへの「ひがみ」が根底にあって大ヒットに結びついたのだと佐藤氏は説明する。

続く「中期ゴジラ」は「甘え」意識の反映だとか。国難に際し、ゴジラ等への怪獣たちに国防を委ねている日本人の姿は、

「自国の安全を守る上でアメリカの軍事力に全面的に依存するという、当時支配的だった『安保ただ乗り』の発想をそのまま反映したものだったのだ」

だそうだ。

では「後期ゴジラ」のなかでも、この本の出版当時には最新作だった『ゴジラvsキングギドラ』を佐藤氏はどう見たか。
佐藤氏はまず、この作品に秘められた「白禍論とでも言うべき徹底した排外的ナショナリズム」の存在を指摘する。あらすじの詳細はこちらでも見ていただきたいが、要約すれば、23世紀に世界最大の超大国になった日本を憎んだ白人グループがタイムマシンで時代を遡って現れて、1992年の日本をキングギドラを使って弱体化させてしまおうするストーリーだ。

そして佐藤氏はこの背景には「諸外国は日本の成功を嫉妬していて、隙があれば日本の足を引っ張ろうとしている」という「ひがみ」と、相変わらずの「甘え」、すなわちキングギドラを倒すのはゴジラにお願い、ゴジラが暴れたらメカギドラ(人間が操るキングギドラ)にお願い・・・という両面があるのだ、と結論づけるわけだ。


おおお、「ひがみ」と「甘え」でゴジラの全てが読み解けるのか!
と感心してしまう人は、いい人だ。

ぼくはあまりいい人ではないので反論させてもらうが、佐藤説の決定的な問題は、『ゴジラvsキングギドラ』の片一方のストーリーしか見ていないことだと思う。佐藤氏が説明しているのは、あくまでキングギドラ側のストーリーだけで、そこにゴジラ側のストーリーがない。それではこの作品を半分しか説明していないことになるだろう。

では『ゴジラvsキングギドラ』における、ゴジラの物語とは何だったか?
それこそがぼくが、ここには本物のゴジラがいる、というか帰ってきたと喜んだものだった。


今回、ゴジラはまず1945年の南太平洋ラゴス島に、太古の昔から生き残ってきたゴジラザウルスなる恐竜として現れた。戦争末期のラゴス島には日本軍の守備隊がいたが、おとなしい性格のゴジラザウルスと彼らは奇妙な共存生活を続けていた。しかしやがてラゴス島にもアメリカ軍が上陸し、激しい戦闘が始まった。するとゴジラサウルスは自分の棲み処を荒らす米軍に腹を立て、それを撃退する。結果的に命を救われた日本軍守備隊に帰還命令が下り、彼らは砲撃で傷つき苦しむゴジラザウルスに涙の敬礼をすると、島を去る。

守備隊隊長だった新堂靖明は、帰国後「戦後日本経済を立て直した男」と言われる大成功を遂げ、帝洋グループ総帥として経済界に君臨する。新堂に言わせれば新宿は「わしの庭」で、そこには巨大な本社ビルがそそり立っていた。
やがていろいろあって、あのゴジラザウルスは怪獣ゴジラに変貌し、北海道に上陸する。23世紀の未来人が放ったキングギドラとゴジラの戦闘が始まると、新堂は「やつはもう一度、われわれのために戦ってくれる」と喜ぶ。

しかしキングギドラを倒したゴジラは「救世主」どころかそのまま破壊の限りを尽くしながら南下、東京へ向かってくる。
「どうせワシの人生はラゴス島で終わってるんだ。恐竜のおかげで生きのびたワシが築いたこの国の繁栄を、同じ恐竜がゴジラに姿を変えて壊しに来たかと思うと・・・皮肉な話だ」

新宿の超高層ビル、帝洋本社にゴジラが迫る。新堂は逃げようとはせず、ゴジラに向かい合う。しばし見つめ合う二人。新堂の目に涙が光り、ゴジラもそうであるように見えたその瞬間、ゴジラの放射能熱線で帝洋本社は吹き飛ばされるのだった・・・。


すでに見てきたように、『ゴジラ(1954)』から『三大怪獣 地球最大の決戦(1964)』までのゴジラは、日本の「戦後」を破壊しに来る存在だった。ゴジラは一貫して日本の「戦後」を憎悪していた。それが1964年までのゴジラの物語だ。

そういう意味では、『ゴジラvsキングギドラ』に登場するゴジラはまさに1964年までのゴジラそのものだろう。ゴジラは新堂に言っている。こんな日本を作るために、お前を助けたわけじゃない、と。そして新堂もそのことを理解した。

この二人のどこに、嫉妬されている「ひがみ」やら、怪獣に治安維持を依存している「甘え」があるのだろう。
素直に見れば、このときのゴジラはまさに、それら「ひがみ」や「甘え」を粉砕するために現れたようにぼくには思える。


佐藤健志氏の『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』に見られる一種の片肺飛行は、もちろんゴジラだけには留まらない。
氏の『宇宙戦艦ヤマト』論も、ぼくにはどうにも半分だけしか説明してしていないような気がしてならない。

長いのでつづく


※20年前の古い本でもあり、この20年のうちにはこの本への様々な賛否両論もあったことだと思います。
が、いかんせん、ぼくはそのほとんど全てを知りませんので好き勝手なことを書いています。悪しからずご了承ください。

ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義

ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義

前回の記事の続き)

佐藤健志氏が、『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(1992年・文藝春秋)のなかで『宇宙戦艦ヤマト』に関して展開している主張とは、要するにプロデューサーである西崎義展が作品に込めたイデオロギーの矛盾と、その危険性についてだ。

「・・・国家の概念を曖昧にすればナショナリズムと博愛的な国際主義は区別がつかなくなるということであり、その上で非現実的な精神主義にもとづいて絶対平和主義をつきつめるならば、結果は最も過激なナショナリズムと区別がつかないものになる・・・」(P.29)


このうちの「矛盾」は主に第一作『宇宙戦艦ヤマト』(1974)に現れ、「危険性」は続編である『さらば宇宙戦艦ヤマト』(1978)に現れていると佐藤氏は述べている。ぼく個人は『さらば宇宙戦艦ヤマト』に「危険性」があるとは思わないので、ここでは「矛盾」の方だけ検討してみたい。


まず佐藤氏が指摘するのは、『宇宙戦艦ヤマト』では「人類=日本人」の図式が、なかば強引に成立させられているという点だ。日本人だけが乗った宇宙船が出発するにも関わらず、彼ら乗組員は地球のためだと言う。これが佐藤氏がいうところの「国家の概念を曖昧にし」だ。ところが実際には、宇宙船は日本ナショナリズムの象徴とも言うべき戦艦大和そのものだったので、当然のことながら、これでは「地球のため」という博愛的な国際主義とは矛盾してしまう。

それを粉飾するために『宇宙戦艦ヤマト』でとられた措置が、敵方のガミラス帝国をナチスドイツになぞらえることだった。戦艦大和をナチスドイツと戦わせた「日本が勝つように書き直された第二次大戦の物語」であり、「日本の立場を枢軸国側から連合国側に移した第二次大戦の物語」が『宇宙戦艦ヤマト』であったと佐藤氏は言う。

とはいえ、どのように粉飾しようとヤマトが敵を武力でもって叩く以上「博愛と非暴力のジレンマ」は隠しきれるものではなく、第一作の『宇宙戦艦ヤマト』は矛盾と混乱を抱えたまま終幕してしまう・・・。


細かい話はあとに回すとして、ぼくがこの佐藤氏の説を片肺飛行だと思うのは、ここで語られていることが、もっぱらガミラス帝国vs宇宙戦艦ヤマトのあいだに起こる戦闘に限られている点だ。
言うまでもなく『宇宙戦艦ヤマト』のストーリーの根幹は、イスカンダルまで放射能除去装置をもらいにいくヤマトの航海のほうであって、ガミラスとの戦闘はそれを彩り盛り上げるためのサブストーリーだ。サブストーリーだけを見て『ヤマト』を論じても、それは『ヤマト』の全体像を見たことにはならないだろう。

たとえば、2002年の「宇宙戦艦ヤマト事件判決」は十分に客観的な資料たり得ると思うが、そこから『宇宙戦艦ヤマト』が誕生するまでのプロセスを追っていくと、こうなる。

まず昭和49年3月ごろに西崎義展プロデューサーが「巨大な戦艦が宇宙を飛ぶ」という発想を中心に構想を練る。

「ハイラインの著作『地球脱出-メトセラの子ら』における、『地球の危機的状況から脱出して宇宙に移住の地を求める』話(SF版ノアの箱舟)に刺激された」

ともある。

続いて、西崎に依頼されたSF作家の豊田有恒が『アステロイド・シップ』という原案を作り、それをさらに西崎が修正していくことになるが、この過程で敵役が「コンピュータ」から「ラジェンドラ星人」に、「アステロイド・シップ」が「戦艦大和」に変更される。

そしていよいよ、西崎の「各話別基本設定書」に基づいてシリーズ全体がシナリオ化されていくわけだが、ここには見逃せないポイントがいくつかある。

「(キ) シナリオの作成
 被告(※西崎)は,シリーズ全体のシナリオ作成に当たり,脚本家,SF作家等との間でブレーンストーミングを行い,「銀河系の中心に行くのではなく,銀河系の外に旅立つ,壮大な話にしたい」「相手方のラジェンドラ(イスカンダル)は二重連星とする」「異星人側もヒューマノイドタイプとする」「敵,大敵は,ナチスドイツを想定し,かつ,第二次世界大戦の連合軍ヨーロッパ侵攻作戦を下敷きに考える」「戦略,戦闘に太平洋戦争,ミッドウェイ,レイテ等の海戦の戦略を参考にする」など具体的な指示を出して,シナリオ作成作業を進めた」


という具合に判決文を読む限り、『宇宙戦艦ヤマト』における戦闘とは、あとからコロコロ設定が変更された副次的な存在に過ぎなかったらしい。なにしろ当初のプランでは敵は宇宙人ではなくて、コンピュータだったほどだ。
あくまで『ヤマト』のベースは「地球脱出」であり、宇宙人はそれを妨害してドラマを盛り上げる脇役だった。

また判決文では、「大敵=ナチスドイツ」であると同時に、ヤマトの旅が「太平洋戦争」であることが明示されている。
確かにガミラス帝国がナチスドイツをモデルに練り上げられていったことには疑いがないが、その一方で、ヤマトの航海自体も史実の戦艦大和のそれと同一視されていたというわけだ。


ヤマトに与えられたストーリーはガミラス帝国と戦うことではない。
だとすれば、『宇宙戦艦ヤマト』を「日本の立場を枢軸国側から連合国側に移した第二次大戦の物語」だと見る佐藤説は、いくらなんでも我田引水のこじつけに過ぎるようにぼくには思える。

ぼくの見るところ、佐藤氏のこの本は、戦後日本を客観的にみたときの社会構造にゴジラやヤマトやウルトラマン等をやや無理矢理に当てはめていっただけのものだ。たとえば『ヤマト』に見られる矛盾と佐藤氏が指摘するものは、平和憲法と自衛隊を共存させている日本の矛盾とほぼ同じものだし、『ウルトラマン』や『ゴジラ』に見られるという依存心は、日米安保への依存という単純な現実だ。

しかし、それらが日本社会の構造と同一だから日本人の心情と一致して大ヒットに結びついた、という展開にはどうにも納得がいかない。そういった矛盾や依存は敗戦によってやむを得ず受け入れたものであって、日本人が深層心理ではそれらから目を背けて来たことは内田樹氏の指摘に詳しい(「9条どうでしょう」)。

ならばゴジラがたびたび現れては(矛盾や依存に満ちた)戦後日本を破壊して回ったように、むしろ実際は佐藤氏の説とは正反対に、ゴジラやヤマトやウルトラマン等が戦後日本の構造から逸脱するからこそ人々は痛快になり、盛大な拍手を贈ったのではないだろうか。つまりは内なるルサンチマンの発露というやつだ(言わばヤマトは「戦後」を脱出する船だ)。

となれば『ヤマト』のストーリーの本質は、佐藤氏がはなっから無視した戦艦大和のストーリーの方に存在していることになる。


そしてここで久々の告白タイムとなるが、ぼくは学生時代にこの本を読み、映像を確認することなく佐藤氏の説に賛同してしまった一人だった(大学生にもなってアニメのVHSをレンタルするのが恥ずかしかった時代だ)。
聞けばぼくの友人にも同じ体験をしたヤツがいるので、ぼくらの世代には案外多いケースなのかもしれない。

しかしどうだろう? 
旧日本軍が連合国に入れてもらってドイツ軍を破るなんて、これじゃ丸っきり戦前否定の自虐史観じゃないか。もうすっかり反省したので連合軍に入れてくださーい。その代わりに単独でベルリンまで攻め込んでみせまーす、てか?
ほんとか?
本当に日本人はそんなことを望んできたのか?

つづく

宇宙戦艦ヤマトと忠臣蔵

スターシァ

江戸の頃から民衆の間で絶大な人気を誇る作品に『仮名手本忠臣蔵』がある。

本作は上演すれば必ず大入り満員御礼となる演目として有名で、かつては不況だったり劇場が経営難に陥ったりしたときの特効薬として「芝居の独参湯」と呼ばれることもあったほど(Wikipedia - 仮名手本忠臣蔵)。


ストーリーはわざわざ書くまでもないと思うが、要は主君の仇討ちの話だ。
主君は塩冶高貞で、実在した赤穂藩主・浅野内匠頭がモデル。仇討ちのリーダーは大星由良之助という架空の人で、赤穂藩家老・大石内蔵助がモデル。殺され役は高師直。塩冶高貞と同じく実在の人物から名前だけ借りた人で、モデルは吉良上野介。ストーリーの元ネタは『太平記』から持ってきたそうな。

もちろん、当時の観衆はこれが実際にあった「赤穂事件」を描いていることは百も承知。しかし「赤穂事件」そのままだと幕府批判が露骨すぎるので、時代を南北朝時代にして、登場人物も鎌倉末期の人に入れ替えているということらしい。「赤穂事件」を知らない人には「太平記」にしか見えないが、その実、本当に描かれているものは別のものというわけ。

それほどまでに幕府の監視が厳しかったということなんだろうが、とにかく江戸時代から今に至るまで、日本の庶民に一番人気のあるドラマがこのような二重構造を持っていたこと。ぼくは、この点に非常な興味を感じる。ハッキリとは口に出しにくいことでも『仮名手本忠臣蔵』の手法を使えば、暗黙の了解のうちに真意を伝えられる。それも『忠臣蔵』になじんだ日本人であれば誰しもが理解できる・・・。

結論から言ってしまえば、ぼくは『宇宙戦艦ヤマト』がそういった『忠臣蔵』パターンだったのではないか、と考えている。『宇宙戦艦ヤマト』は、あることをぼくらに伝えようとしたが、そのままの表現では色々と障害もあるので、『忠臣蔵』でいえば『太平記』にあたる”皮”のようなものが被せてある。ただし、ストーリーそのものの元ネタがあるわけじゃないので、その”皮”は登場人物たちの言動によって取り払われた・・・。そんな見方も面白いんじゃないかと思う。


と、いい気になって書いてみたが、もしかしたら『宇宙戦艦ヤマト』を一度もみたことがない人も読むかも知れないので、とりあえず冒頭部分のあらすじを書いてみる。

西暦2199年。大マゼラン星雲にあるガミラス星は、すでに星自体の寿命を迎えていた。そこに住むガミラス人は移住先を宇宙中に探した結果、地球に目を付けた。ガミラス人は冥王星に前線基地を作ると遊星爆弾による地球への無差別攻撃を続けた。その結果、地球の海は干上がり、生物が生きられる条件は消え失せた。また遊星爆弾の放射能が充満し、人間は地下都市でかろうじて生き延びている状態に追い込まれた。地球防衛軍は幾度となくガミラス艦隊に戦いを挑むが、その戦力差は圧倒的で、もはや全滅寸前だった。

そんなあるとき、イスカンダル星のスターシャから通信カプセルが届けられる。スターシャは放射能除去装置(コスモクリーナーD)を提供するからイスカンダルまでとりに来い、と伝え、光速を超えられる「波動エンジン」の設計図を添えてくれていた。

地球が完全に放射能で汚染されつくされるまであと1年。人類に選択肢はなかった。ちょうど地球脱出用に改造中だった旧帝国海軍の沈没船、戦艦大和は「波動エンジン」を搭載されると、14万8千光年のかなたイスカンダル星に放射能除去装置をもらうために旅立っていくのだった・・・。


整理すると、ガミラス帝国は地球に移住したいので、地球人を滅ぼしつつ、地球を彼らの好む放射能で充満させようと思っている。一方、地球人は、その放射能を除去するメカをもらいにイスカンダルまで出かけようとする。
なお、その間に進行する地球の危機はどうするんだ? については、たまたまイスカンダルへのルート上に冥王星があるので、途中で叩いていくことになっていたようだ(これは見事に成功する)。

最も肝心な点は、ヤマトの目的がガミラス帝国と戦うことではないことだ。ヤマトはあくまで放射能除去装置(コスモクリーナーD)をもらうためにイスカンダルへ行こうとする。だが、当然のことながらヤマトのその行為はガミラスの利益に反するので、行く先々でヤマトvsガミラスの戦闘が起こる。
つまり、ヤマトには積極的にガミラスと戦う意思はないのに、いつもガミラスがちょっかいを出してくるので、やむを得ず反撃している・・・これが『宇宙戦艦ヤマト』の建前だ。

建前・・・すなわち、第一の「皮」だ。

つづく

宇宙戦艦ヤマト ~戦死者への鎮魂歌

日本の男の船

宇宙戦艦ヤマト』に被せられた”皮”のその2は、ヤマトが誰のための船なのかという点だろう。”皮”はもちろん「地球の全人類のために」という名目になる。

実際のところ、当時のスタッフには戦艦大和を持ち出すことへの微妙な抵抗感が、いつも心のどこかにはあったようだ。
原作者の一人である松本零士は『宇宙戦艦ヤマト伝説』(1999年・フットワーク出版社)という本のインタビューの中で、こんな話をしている。

それから、作品として自信がある無しじゃなくて、『ヤマト』を娯楽として漫画でお茶の間に送り込むということに、当時は重圧感を感じていたんです。肩の荷が重かった。戦艦「ヤマト」は3000人近くの戦死者を抱いて沈んだ船なんです。遺族もいるしその子供たちもいる。それで対極にスターシャを置いて、ヤマトは生存のために宇宙をおし渡る、大航海物語にしたんです


また、同じインタビューの中では、第2話のヤマト発進に際して「軍艦マーチ」が使われそうになった事に対して、現場の若いスタッフから「この映画には協力できません」という声が上がったというエピソードが語られている。放送局サイドからも「ここで軍艦マーチが流れるのなら、この番組はおしまいだ」とまで言われたそうな。

つまりは作り手は一様に、この「ヤマト」があの「大和」であることを強く自覚していた。
中でも松本零士は特にその傾向が強かったようで、氏が手がけた初期のコンテのなかには、「大和の外板を外すと中から戦死者の遺骨がたくさん出てくるシーンを描いておいた」そうだ。
そうすることで、氏にとっての『宇宙戦艦ヤマト』は「戦死者への鎮魂歌」となる、はずだった・・・・。


・・・はずだった、というのは、完成した映像からは「遺骨」のシーンが全部カットされたからだが、松本零士が「地球」やら「人類」やらを念頭に置いて『ヤマト』に関わったわけではないことは明らかだろう。戦艦大和とともに海に没した人々は日本人だけだし、『ヤマト』において鎮魂されるべき人も日本人だけだ。

などと書くと、またぞろ「あの愚かな戦争の犠牲になった全ての日本人・・・」やら「繰り返しません過ちは・・・」やらが脳裏をよぎってしまうのが戦後生まれの悪いクセだが、原爆や東京大空襲で殺された人や南方戦線で亡くなった人の魂までは、いくら『ヤマト』でも慰めることは出来ないだろう。

それに、そもそも「鎮魂」という言葉にはもっと強い意味があるように、ぼくには感じられる。戦艦大和と運命を共にしてしまった3000余人の人々が「まだ浮かばれていない、成仏していない」と思うからこそ、松本零士はその言葉を(意識してか無意識にかは分からないが)使ってきたんじゃないだろうか。

ならば、『ヤマト』の物語は「平和への願い」と言うような漠然としたものではないはずだ。なぜなら戦後日本は建前上は戦争を放棄したことになっており、見かけ上はずっと「平和」を維持してきた国だとされるからだ。戦艦大和の願いが「戦争をしない」というものであるのなら、彼らの願いはすでに成就されているんだから、今さら「鎮魂」される必要はどこにもない。
それでも人が戦艦大和を「鎮魂」したいというなら、それは戦艦大和の最期に「無念」を感じるからだろう。


ではそんな戦艦大和の最期は、劇中でどのように語られたものなのか。
それは第2話「号砲一発!!ヤマト始動!!
ここでは史実の戦艦大和の最期が、感情を交えないごく淡々とした言葉で説明されている。
が、その導入部にちょっと印象的なシーンが挟まれている。

霧深い洋上で小舟に揺られる漁師の親子の前を、山のように巨大な黒い影が通り過ぎていく。
父「大和だ・・・」
子「やまと?」
父「そうだ、よーく見ておけよ。あれが戦艦大和だ。日本の男の船だ。忘れないように、よーく見ておけ」

この短いやりとりに続いて史実の戦艦大和の最期が描かれていくわけだが、直前の会話の最後に「忘れないように、よーく見ておけ」と言われれば、視聴者の目は自然とその後の展開に釘付けにされてしまうだろう。おそらく、そのために用意されたのが、この親子の会話であったとぼくは思う(画調までがそれまでとは異なる)。

そしてこの親子で視聴者の注意を引きつけておいて、いよいよ戦艦大和の最期が語られていく。

「西暦1945年、押し寄せる300を超えるアメリカ艦隊に戦いを挑むべく、戦艦大和は護衛艦10隻を従え、日本海軍最後の艦隊として出撃していったのである。もはや一機の援護機の姿もなく、片道分の燃料だけを積んでの出撃は、まさに二度と帰らぬ覚悟をした決死の出撃であった」

といったナレーションに始まり、映像では、大和が孤軍奮闘するも敵の艦載機の集中攻撃を受けて、大火災の末に海底に沈没していくまでの様子が静かに描かれていく。
で、ここまでが「忘れないように、よく見ておけ」に含まれているとぼくは見る。


さて、それではここから『ヤマト』で「鎮魂」されねばならない戦艦大和の「無念」を上げるとしたら、次の二点になるだろう。
一つは、大和は「アメリカ艦隊に戦いを挑む」ために出撃したのに、目的を果たすことなく艦載機の空襲を受けて沈没してしまったこと。
もう一つが、大和が「二度と帰らぬ覚悟」を強いられ、実際に帰ってこなかったことだ(細かい事実誤認は気にしないものとする)。
『宇宙戦艦ヤマト』は、これら戦艦大和の「無念」をはらし、「鎮魂」せねばならない。

そうだとすれば、『ヤマト』における「鎮魂」は、現実の逆を以て行われなければならないだろう。
すなわち、戦艦大和に敵の大艦隊と雌雄を決するような大海戦をさせてあげること。
そしてその戦闘に勝利して、戦艦大和が無事に日本に帰ってくることだ。

つづく


※蛇足となりますが、上記に引用させていただいた『宇宙戦艦ヤマト伝説』という本は、表紙にわざわざ「原作●松本零士」とあるように一部に不公平な記述が見受けられます。『ヤマト』通の方なら問題ありません(むしろ楽しめます)が、『ヤマト』の入門書としては不適格だと思われますのでご注意ください。

(補足)ヤマトは誰のための船か?

きのこ雲

宇宙戦艦ヤマトが日本のための船であり、沖田艦長や古代進の言う「地球のため」「人類のため」が『ヤマト』に被せられた”皮”でしかないことは、他の部分からも察することができる。

やはり第2話「号砲一発!! 宇宙戦艦ヤマト始動!!」。
地球移住を狙うガミラス帝国は、冥王星前線基地から地球に向けて継続的に「遊星爆弾」なる兵器を撃ち込み、その攻撃の影響で地球の海は干上がり、地表は放射能が充満していた。地表に住めなくなった人類は地下生活を余儀なくされていたが、次第にその地中へも放射能は浸透を始め、人類はいよいよ絶滅の危機を迎えていたのだった。

というようなナレーションに続き、地球防衛軍の日本基地内の様子が映し出される。

ニューヨーク交信不能、エネルギーが尽きた模様。パリ、正午より沈黙。ケニア、パニック状態に陥っています。モスクワ、さよならを打ち続けています。北京、リオデジャネイロ、出力低下、電波キャッチ不能・・・

・・・交信不能。

これが、ヤマトがイスカンダルに向けて出発する以前の世界の状況だった。
ヤマトのクルーにしてみれば、もはや日本以外の国々の状態は、人間の生死を含めて全くの不明であり、彼らが言う「人類」は、ヒトという種以外のものを指しようがなかった。また、同じように「地球」というのも、彼らが唯一把握できている日本に住むヒトの生活の場としての意味しか持ちようがなかった。

要するに「地球」だ「人類」だと騒いだところで、その内容を具体的に吟味してみれば、そこには日本人の姿しか見えてこない。ここに、前回触れたような制作者サイドの思いを掛け合わせてみれば、ヤマトが日本人を救済しようとする日本人のための船であることは明白すぎると言えるだろう。
『ヤマト』は極めて民族主義的な物語であり、本音のところでは制作サイドもそれを否定してはいなかった、ということだ。


なお、次の第3話(「ヤマト発進!! 29万6千光年への挑戦!!」)では、沖田艦長が「ヤマト発進のために全世界から寄付が集まっている」と古代らクルーに話すシーンもあるが、これは今まさにヤマトが出航のためのエネルギーを充填している最中のセリフであり、今さら取って付けた感が否めないと思う。出発直前に現金をもらっても使いようがないし、第一そのことをどうやって通信してきたかも分からない。
これまたちょっと考えれば無意味かつ不可能な行為であり、結局は『ヤマト』を過度にナショナリスティックに見せないための飾り、”皮”の一部といった評価が正当であるような気がする。


ちなみに、というか、これはぼくの勝手な見方だが、『ヤマト』に限らず子ども番組一般を検討する際には、まず第一に作品で使われる「地球」とか「人類」とか言ったアバウトな表現を、全面的に取り去ってみることが求められると思っている。
これらは大抵の場合、ナショナリスティックな表現を許されない戦後日本が置かれた立場から作品を保護するために、便宜的な方便として使われていたものだろう。
簡単にいえば、サヨク的な批判に巻き込まれないための言い訳だ。

実際、ぼくの見るところではウルトラマンは「地球」やら「人類」を守るために現れたわけじゃないし、マジンガーZはずっと日本の領海内だけで戦っていた。ジャイアントロボは日本だけが保有すればいい、というのも、建前はともかく本音では「地球」も「人類」もまず日本があってのことだという心理が働いてのことだろう。

むろん、なかなかストーレートには愛国的な表現が許されなかった時代のことでもあり、少なくともその是非を問われるようなことじゃない。むしろ、作品を観ていくとき、その作品がどうやって民族主義を隠蔽しているかを探すのも、「通」な見方なんじゃないかと思う。


話がそれたが、実は上述した第2話には、『ヤマト』を観る上での重要なヒントが隠されているとぼくは考えている。
沖田艦長や古代らは「人類」「地球」と言うが、その実、彼らは日本以外の状況を全く把握していなかった。つまり、彼らが頭の中でイメージしているものと実際の現実世界は、同じものではない。

これを拡大したことが、『宇宙戦艦ヤマト』では全編を通して展開された。
『ヤマト』のなかで、ぼくら視聴者が観ていたものと、古代らクルーたちが見ていたものは、実は同じものではなかった。

つづく

宇宙戦艦ヤマト ガミラスはナチスドイツか?

イスカンダルとガミラス

宇宙戦艦ヤマト』の第3の”皮”が、「ガミラス帝国=ドイツ第3帝国」というものだろう。

もちろん、ガミラスがナチスドイツを想定していたことは「基本設定書」に書いてあることで、疑う余地はない。よく指摘される点としては、ガミラスがデスラーを総統に戴く独裁制の国家であることや、ドメル将軍(ロンメル)や副官ゲール(ゲーリング)といった実在の人物の名前をもじった人名などがある。
だからぼくなんぞは、初めてナチスの映像をみたとき逆に「ガミラスみてーだな」と思ったりしたもんだった。

ところが、あらためて『宇宙戦艦ヤマト』を通して観てみると、ひとつ不思議な違和感があることに気付く。
それは、沖田や古代を始めとしたヤマトクルー、そして地球に残された人々には、ガミラスがナチスドイツには見えていないんじゃないか、という点だ。

ストーリーを順に追っていくと、こんな感じになる。

まずヤマト出航以前に、彼らがガミラスについて知っていたことはほとんど皆無だった。分かっていた事と言えば、それが地球の科学力を遙かに凌駕するテクノロジーと、圧倒的な差を誇る物量を持っていて、とんでもない数の大艦隊で向かってくる敵であること。また、それは遊星爆弾というキノコ雲を吹き上げて放射能をまき散らす兵器をボコボコ落としてきて、無差別に大量虐殺をする連中であること。それくらいだった。

そしてヤマトの航海が始まり、第6話「氷原に眠る宇宙駆逐艦ゆきかぜ!」。
この回、はじめて古代進がガミラス人と接触するが、ヒト型ではあるが言葉は通じないという点以上の情報を得ることはなかった。

第11話「決断!!ガミラス絶対防衛線突入!!」。
ガミラスの冥王星前線基地を破り、太陽系から飛び出してきたヤマトを封じるべく、デスラー総統は”デスラー機雷”なる兵器でヤマトの破壊を狙ってくる。しかしヤマトは自力でこの危機を切り抜け、それを知ったデスラーはヤマトに対して
「ヤマト諸君の健闘を称える。今後の対決が楽しみだ。ガミラス総統デスラー」
と祝電を送ってくる。
ヤマトクルーはこのとき初めて、ガミラスのトップがデスラーという名であることを知った。

第13話「急げヤマト!! 地球は病んでいる!!」。
パトロール中の古代らがガミラスの戦闘機と交戦し、うち一機を拿捕した。
「ガミラスの資料は何一つ分かってないんだぜ」と古代。
捕虜となったガミラス人を検査した結果、皮膚の色が青い点を除けば「ほとんど我々と変わらない」ことが判明する。

第21話「ドメル艦隊!! 決死の挑戦状」。
いよいよ片道の中間地点を突破したヤマト艦内では、バラン星で得た資料を元に、「どこからどうやって来るかもわからない」ガミラスについての分析が始まっていた。このときクルーの真田志郎は、ガミラスが「地球の汚染度の変化を本国に報告していた形跡がある」ことから「ガミラスは地球への移住を考えていたんじゃないか」と推察する。

第23話「逐に来た!! マゼラン星雲波高し!!」。
いよいよ目的地イスカンダルまで0.8光年の地点にまで辿り着いたヤマト。艦内のスクリーンでは、初めて二重惑星、双子星であるイスカンダルの姿が確認された。ところが安堵する間もなく、そのイスカンダル方面から60発におよぶミサイルが接近していることが発覚。古代は、航海の間中、心の奥底に押し込めていた疑問を口にしてしまう。
「イスカンダルもまた、我々の敵だった・・・?」
しかしミサイルがガミラスの物だと分かると、今度は
「我々はイスカンダルではなく、ガミラスに来てしまったのではないか・・・?」
揺れ動く古代の男心だったが、その後スターシャからの通信が入り、イスカンダルとガミラスが二重惑星であるという真実がヤマトクルーに伝えられる。

第24話「死闘!! 神よガミラスのために泣け!!」。
超磁力でガミラス星に引き込まれたヤマトは、天井都市からの爆雷と濃硫酸の海に挟まれて悪戦苦闘していた。絶体絶命のヤマトは、濃硫酸の海に潜って地下火山脈を波動砲で撃ち抜く。この攻撃に誘発されて、ガミラス星の火山が次々に噴火。ヤマトは天井都市に猛攻をかけて、やがて戦闘は終わっていた。ガミラスの全滅だった(ように見えた)。妨害者のいなくなったヤマトは、イスカンダルに向かうのだった。


以上、長々とエピソードをあげてみたが、つまりはぼくらが第3話の冒頭から知っているガミラスとイスカンダルが二重惑星という事実も、ガミラスがナチスドイツのような独裁国家であることも、ガミラス人の生活や文化にいたるまで、ついにヤマトクルーは知らないままガミラスを滅ぼしてしまった。女性や子どもは一人も見ていないし、数人の兵士とドメル以外は(デスラーを含めて)顔も知らない。むろん、地球に残った人々は結局最後まで、ガミラス人をナマで見ることはなかった。

では反対に、ヤマトクルーならびに地球の人々がガミラスについて知っていたこととは何か。

一つはガミラスは、高度な文明と、大量の物資と、強大な軍事力を持っているということ。
一つはガミラスは、核兵器を思わせる爆弾による無差別攻撃をしてくること。
一つはガミラスは、我々と同じ人間ではあるが、肌の色が違うこと。

そしてここで思い出したいのが、ガミラスをナチスドイツに想定して書かれた「基本設定書」の存在だ。
そこにはこうも記してあったはず。
「戦略,戦闘に太平洋戦争,ミッドウェイ,レイテ等の海戦の戦略を参考にする」
つまり「ヤマト」の旅は「大和」の旅でもあった。


ぼくら視聴者にはガミラスはドイツに見えていた。だからヤマトの旅は、佐藤健志氏の名著『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』にあるように、「日本の立場を枢軸国側から連合国側に移した第二次大戦の物語」であるように見えた。

しかし、劇中の登場人物たちにはそうは見えていなかった。
それは彼らには、「よみがえったヤマトが核兵器の脅威を打ち破り、艦隊決戦の末に『アメリカ』本土に核以上の兵器をぶち込む」、そういう物語として見えていたのだ。
と、ぼくは思う。

もちろんそんな危険な発想は、願望することさえがタブーだろう。
その危なさたるや、江戸幕府のお膝元で幕府批判の浄瑠璃や歌舞伎を上演するに匹敵する。バレたらどんな目に合わされか、想像しただけで恐ろしい(ヘリコプターから突き落とされるかもしれない)。

そこで登場してくるのが『仮名手本忠臣蔵』以来の、江戸庶民伝統の手法だ。
敵をあからさまにナチスドイツのパロディーにしてしまえば、その裏に潜む暗喩に気がつくのは日本人だけだ。何しろ『ヤマト』をぼんやり眺める限り、そこに具体的に「アメリカ」を指し示しているものは何もない。
そんな状態で、仮にアメリカ大使館が、なーんか怪しいなーと思ったところで、ケチのつけようがないだろう。


などと書くと、まるで西崎義展や松本零士が極度の反米思想を持っていたとぼくが主張していると思われるかも知れないが、そういう意味は全くない。おそらく、むしろあの人たちはアメリカが大好きでならなかったのだとぼくは思う。つまり、ガミラスを「アメリカ」のメタファーだというだけでは、それもまた片肺飛行だということだ。
なぜならヤマトの旅はあくまでもイスカンダルを目指すものであって、ガミラスを滅ぼしたのはやつらがヤマトのイスカンダル行きを邪魔したから以外の理由は何もないからだ。

つづく