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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
一つの 「カテゴリ」 で一つの記事となってます(記事は古い順に並んでます)。同世代のおっさん向け。

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LP

交響組曲ヤマト

小学校5年生の頃にお年玉で買ったLPレコードを、最近実家の倉庫にて発掘した。『ヤマト』の後ろにチラと見えるのは『イデオン』と『ナウシカ』のサントラ。

・・・しかし、再生環境がない・・・。


高校生の頃はオーディオ小僧だったもんだが、最近はiPodオンリーだなあ。
ちなみに最終的なシステムは、PL70LⅡ、DL103、AU-D907、NS1000Mだったような。分かる人には分かる、究極に凡庸なシステムというヤツですな(笑。


【知人への業務連絡】
しばらく忙しいので、こちらは休みます。このご時世、稼げるときに稼いでおかないと・・・。
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『宇宙戦艦ヤマト』と自虐史観 〜ガミラスとラジェンドラ

デスラー発狂?

ところで、このブログのテーマは「ヒーロー番組と自虐史観」ということになっている。要は、ぼくらオッサン世代が幼少時に観たヒーロー番組には、自虐史観洗脳装置の役割を果たしてしまったものがあるんじゃないか? というのが出発点だ。

では『宇宙戦艦ヤマト』にもそれがあるのかと言えば、作品そのものには存在しないとぼくは思う。
しかし、自虐的な「解釈」は存在する。
そのきっかけとなるものが、第24話「死闘!! 神よガミラスのために泣け!!」で展開された、古代進と森雪のやりとりだ。

この回、イスカンダルを目前にしたヤマトは、その道程を阻もうとするガミラス軍の作戦によって、ガミラス本星へと誘導されてしまう。天井都市からの爆雷を受けたヤマトは海中に活路を見出そうとするが、濃硫酸の海はヤマトの艦体を溶解させていく。艦長代理の古代進は、やむをえず波動砲を使ってガミラスの火山活動を活発化させると、なおも攻撃を続けてくるガミラスのミサイルを迎撃、撃ち落とされたミサイルがさらに火山に刺激を与える形となって、気がつけば強大なガミラス帝国は滅亡していた。

廃墟と化したガミラス帝国を前にして、森雪は「私たちは何と言うことをしてしまったの」と嘆き、これに応える形で古代も言う。
「我々がしなければならなかったのは戦うことじゃない。愛し合うことだった。勝利か・・・糞でも食らえ!」


ここに『宇宙戦艦ヤマト』が持つ真のテーマがある、と見る人は結構多いようだ。テーマとはつまり、”平和主義”というやつだ。例えばぼくが読んだ本では、井上静という人が『アニメジェネレーション』(2004年・社会批評社)という本の中で『ヤマト』には「絶対平和主義的な主張が強烈に存在している」と高く評価している。

井上氏によれば、ヤマトが戦っているのは「内なる敵」、すなわち日本の過去である大日本帝国だそうだ。ヤマトはかつての同盟国・ナチスドイツの暗喩であるガミラスを倒すことで、自らの忌まわしき過去を否定し、叩きつぶし、「愛」と「平和」を叫んだのだ、というが氏の主張のようだ。

もちろん、ぼくに言わせれば、これぞ『ヤマト』への自虐的な解釈の代表格だ。
こういった解釈への反論はあちこちで読めるので一点だけ言わせてもらうなら、もしも『ヤマト』のテーマがそこにあったのなら、むしろ古代たちは(何らかの展開によって)ヤマトを敵に回して戦うべきであって、ヤマトを使って敵を倒してしまっては元の木阿弥というものだと思う。

要は、『ヤマト』のテーマはそんなところにはない。
テーマというのは繰り返し繰り返し形を変えて表されるもので、数分間のセリフの応酬だけで語られるものじゃない。
と、ぼくは思う。

では『ヤマト』において一貫して表現され、クライマックスにおいてようやく言葉にされたものは何だったか?

そもそも『ヤマト』の物語は、絶望の淵にあった地球人のもとにイスカンダルから救援の申し出があったことから動き出した。しかもイスカンダルのスターシャは、地球が復興するために必要な最先端技術を、イスカンダルまで自力で受け取りに来い、という。地球人は藁にもすがる思いでその言葉を信じると、かつて経験したことのない前人未踏の未知の航海に踏み出していった。

『ヤマト』の演出でぼくが素晴らしいと思うのが、宇宙空間を進んでいくヤマトの映像にBGMをかけず、ただエンジン音だけが静かに響いているシーンだ。ここには、この船のおかれた不安感や孤独感が見事に表現されていると思う。それでもヤマトはひたすらイスカンダルへ向かう。全ては地球の復興の使命のために。

そしてついに目指すイスカンダルへ到着したヤマトクルーに、スターシャは言う。
「明日の幸せというものは自分の力でしか獲得できないもの」だと。


特定のイデオロギーを交えなければ、このスターシャの言葉こそが『ヤマト』のテーマだとぼくには思える。
もしもスターシャが最初から地球に「放射能除去装置」を届けてしまったら『ヤマト』の物語は存在さえしなかった。しかしスターシャはそうはせず、地球人の明日を信じる勇気と、困難を克服する力をテストした。そしてヤマトのクルーたちは十分にスターシャの期待に応え、「自分の力」でイスカンダルに辿り着いた。

これが『宇宙戦艦ヤマト』の物語の中軸であり、ガミラスとの戦闘などは、言ってみれば人間の「勇気」と「力」を試すための設問に過ぎず、ストーリーを彩る装飾のようなもんだろう。
現に西崎プロデューサーの「企画書」を見ても、ヤマトの敵役は変更に次ぐ変更の末にガミラスに決まったことが明記されており、一方で『西遊記』をベースにした宇宙の旅の物語であることは比較的早くから決定していることも分かる。

一番最後に決定したことからテーマを読み取るというのは、やはり無理があるようにぼくは思う。


ただ「企画書」からは別の点で興味深いこともわかる。
それは、まだ「ガミラス」が「ラジェンドラ」と呼ばれていた段階で、すでにラジェンドラとイスカンダルが「二重連星」であることが決まっていたことだ。
二重連星、双子星・・・。

高度な宇宙航海技術をもつラジェンドラにとっては、イスカンダルとの距離が地球と火星ほどに離れていても、何ら障害はなかっただろう。にも関わらず『宇宙戦艦ヤマト』では、ガミラス=イスカンダルの等式が、物語のコア部分の一つとして明確に設定されていた。イスカンダルに向かうことは、ガミラスに向かうことでもあった。

そしてぼくの珍説によれば、ガミラスとはアメリカ合衆国のメタファーだった。
ならばイスカンダルが表すものも一つしかない。

イスカンダルもまた、アメリカのメタファーだ。

つづく


参考資料:宇宙戦艦ヤマト事件判決

宇宙戦艦ヤマト イスカンダル=ガミラス

なにもかもが懐かしい

宇宙戦艦ヤマト』(1974)の物語とは要するに、荒廃した祖国を復興させるために、より文明の発達した星に行って最新の技術を援助してもらう話だと言える。ヤマトのクルーはイスカンダルからの使者サーシャを「地球の恩人」だというし、イスカンダルについては「科学が到達した一つの理想郷」だとも言う。べた褒めだ。

ところが宇宙を見渡してみると、実はこの「理想郷」とほぼ同等の科学力をもつ星がもうひとつ存在していた。それがイスカンダルとは二重連星、双子星であるガミラス星だ。で、このガミラスこそが地球を荒廃させた張本人であることはご存じの通り。

そうして見ると、この双子の兄弟であるはずのイスカンダルとガミラスとは、ある事象の「善」と「悪」をそれぞれに表現しているようにも思えてくる。どっちが兄(姉)かは知らないが、片っぽが犯した過ちを、もう片っぽが償っているかのようにも見える。片方は破壊する者であり、もう片方は建設する者・・・。

結論から言ってしまえば、ぼくはこの「イスカンダル(善)=ガミラス(悪)」という構図で表されているものは、「アメリカ合衆国」だと考えている。ただし、その「アメリカ」は、『宇宙戦艦ヤマト』を作った人々が見た「アメリカ」だろう。

主な『ヤマト』のスタッフの生年を見ると、西崎義展は1934年、松本零士が1938年、山本暎一が1940年、豊田有恒が1938年となっている。いわゆる「昭和ヒトケタ」~「焼け跡」といわれる世代の人々だ。
この人たちが見たアメリカとは、まずは破壊者、殺戮者だった。大都市を空襲しては民間人を無差別に殺害し、最後はきわめて非人道的な大量破壊兵器を投下した。キノコ雲を吹き上げ、放射能をまき散らす遊星爆弾のイメージは、まさにアメリカが広島と長崎に落とした原爆以外の何物でもないだろう。

しかしその一方で、この世代の人々はアメリカの尽力のおかげで日に日に復興していく戦後日本の姿も見た。大規模な食料援助にはじまり、ガリオア資金、エロア資金・・・。アメリカからの援助がなければ、日本の復興は有り得なかっただろう。
沖縄出身の『帰ってきたウルトラマン』の脚本家、上原正三氏(1937年生)は、当時のアメリカは「解放軍」「ニライカナイの神々」に思えたとまで証言している(参考記事ー怪獣使いと少年その2)。


てな具合で、要するに戦前に生まれ、荒廃した焼け跡で少年時代を過ごした人々は、アメリカの「悪」を見、続いてアメリカの「善」を見た。ぼくはこのアメリカのダブルイメージこそが、ガミラス=イスカンダルの二重連星というイメージに結びついたように感じている。


では何故、よみがえった戦艦大和は「悪いアメリカ」と戦う必要があったのだろう?
それを一種の復讐心にもとづく妄想だと考えることに、ぼくは反対しない。アメリカに負けた国民が、妄想の中で何を考えようがそれは自由というものだろう。
だが、『ヤマト』が放送された当時のアメリカが、ベトナム戦争に負けた直後であったことも考慮に入れるべきだと、ぼくは思う。日本を占領した後も、「悪いアメリカ」は延々と戦争をし続けた。核こそ使われなかったものの、民間人への無差別攻撃は各地で続けられていた。そしてその挙げ句、アメリカは負けた。

こうしたアメリカの在りように、もっとも失望感を感じたのが『ヤマト』を作った世代の人々だったんじゃないかとぼくは推測する。戦後に生まれた団塊世代以降とは異なり、ヒトケタ~焼け跡世代はふたつの「正義」を目の当たりにした人々だ。幼少時に信じていた日本の「正義」が否定され、アメリカの「正義」を受け入れさせられたこの人々にとって、「正義」とは相対的な概念だったことだろう。それだけに、この人々は早々に安保闘争を起こしてアメリカの「正義」に反発したと聞くが、ベトナム戦争の決着は、アメリカの「正義」への疑問を決定的なものにした可能性はあると思う。

なぜなら、この時アメリカは「正義」であることを自ら中止したことになるからだ。
「正義の戦い」からは降りることが出来るし、「正義の味方」は辞めることができる。

だが、もしも「正義」がそんなにフレキシブルなものでいいのなら、日本の「正義」、戦艦大和の「正義」だって、実は死んだ訳じゃない、ちょっと休んでいただけだと考えてもいいことになるだろう。
心の奥底にずっと押し込めていた情念に火がつくとしたら、この時期をおいて他にはないようにぼくには思える。


かくして戦艦大和は復活を遂げることになったが、ただしそれは日本の「正義」の復活を意味するものではなかった。そこが『宇宙戦艦ヤマト』が単純な国粋主義アニメではない要点だろう。
ヤマトが叩きつぶしたのは、あくまで「悪いアメリカ」だけ。
しかも、旅の目的はあくまでも「良いアメリカ」に渡って、最新の技術を供与してもらうことだった。言ってみれば、1860年に勝海舟や福沢諭吉をのせて太平洋を押し渡った咸臨丸の大航海こそが、ヤマトにオーバーラップされるべきものじゃないだろうか。

さらにもう一点。
ようやくのことでヤマトがイスカンダルに到着してみると、何と「良いアメリカ」もまた「悪いアメリカ」と同様に惑星自体が寿命を迎えつつあり、住人はもはやスターシャただ一人となっていた。「良いアメリカ」にも復興と再出発が必要だったわけだが、これを助けたのが古代進の兄、戦死したはずの古代守だった。

冥王星の戦いでガミラス軍の捕虜となった古代守は、収容されたガミラス艦の事故をスターシャに救出され、イスカンダルで手厚い介護を受けていた。そしてスターシャの自分への愛を知った古代守は、イスカンダルに残り、この地の「アダムとイブ」になることを決意する。「良いアメリカ」と「日本のサムライ」がここに結ばれて、新たな歴史をスタートさせたというわけだ。

一方、「良いアメリカ」に導かれた「日本の男の船」は無事に最新の科学技術を手に入れて、祖国復興の帰路についた。あの日、戦艦大和は志を果たすことなく海の底に沈んでしまったが、ぼくらのヤマトは帰ってくる。人類の未来への希望を載せて・・・。

めでたしめでたし。



・・・と気分よく締めたいところだが、ごらんの通り、ぼくの珍説をとればどこもかしこも日本マンセーで、願望と妄想のオンパレードになってしまう。確かに古代たちヤマトクルーは「明日の幸せというものは自分の力でしか獲得できないものですからね」というスターシャの言葉どおりに孤独と不安に耐え、勇気と信念で数々の困難を克服していった。

しかし翻って現実を直視すれば、果たして戦後日本がスターシャの言葉に見合う存在であるかどうかは、かなりの疑問符が付くだろう。アメリカの支援を受け、アメリカの軍備に守られて経済発展を遂げた日本人が「自分の力」を誇示したら、それこそ世界中の笑いモンだ。

そしてそれは、『ヤマト』を作った当の人々こそが、十分に自覚していたことだろう。戦後に生まれた団塊世代は、戦後の良いところだけを見て成長したが、ヒトケタ~焼け跡は違う。多感な少年時代に、彼らは彼らの「日本」がこの世界から一度は消滅するのを見、まったく新しい「日本」が作られていく一部始終を見た。彼らは、戦後日本の現実と歩調を合わせて大人になっていった。

『ヤマト』はそんな人たちの少年時代の願望そのものだったのかもしれない。戦後のどこかのタイミングで、一度は戦艦大和は甦らなければならなかったのかもしれない。
だがそれは、おそらく一度だけの夢物語がふさわしいのだろう。

祭りは終わった。
ならば、ヤマトは現実に帰らなければならない。

つづく

ボルテスV その1 (例によってくどい前置き)

れっつぼるといん

ぼく自身はいたって不真面目な人間なのだが、1970年代のアニメ作品を年代順に観ていったときに、つくづく感じるのが日本人の生真面目さだ。例えば『宇宙戦艦ヤマト』だが、ぼくはこの名作は先行する『新造人間キャシャーン』の存在がなければ誕生しなかったんじゃないか、と思っている。

『キャシャーン』が画期的だった点は、「悪」をぼくらの外部に求め、ぼくらの視聴者のなかに「正義」を問いかけたことだ。具体的には、進駐軍あるいはGHQを想起させるブライキングボスに対して、ぼくらは土下座して降伏すべきか、それとも死を賭しても誇りを守るべきか、が問われた。

これは、あの当時に支配的存在だった石ノ森正太郎ヒーローの「正義」と「悪」とは全く異なるものだった。
石ノ森ヒーローの代表作である『サイボーグ009』『仮面ライダー』『人造人間キカイダー』等に共通するパターンとは、要するに「悪」から生まれた肉体を持つ主人公が、「善」なる心で「悪」と戦うというものだ。「悪」と「善」を併せ持つ主人公の引き裂かれ状態が、作劇上のテーマとなる。

つまり、石ノ森ヒーローにとっての真の「敵」は自分自身の中に存在した。ショッカーやダークと戦うことは、イコール自分自身の肉体、血の出自と戦うことだった。彼らは口々に世界の平和を守ると言うが、それは言い換えるなら、自分の中にある「悪」を封じ込めることで実現されることでもあった。

これまで散々書いてきたことなので説明は省くが、この石ノ森ヒーローの在り方とサヨクが喧伝する「自虐史観」は、実は同一の思考経路を描いてしまうものだとぼくは思う。ショッカーやダークは「日本の忌まわしき過去(大日本帝国)」であり、その血を受けた息子たちは、その父を倒し、自らの内に流れる邪悪な「悪」を封印しなければならない。

要は、ここで否定されている「悪」とはぼくらの中にも存在するもので、それは日本人が日本人であること自体を指す。日本人が再び「悪」に戻り、アジア諸国を侵略したりしないように、ライダーやキカイダーは大日本帝国的なものと戦い続ける。

だから、ぼくらは基本的にはヒーローの戦いに参加することはない。
「正義」はヒーローの内にあり、ぼくらは傍観すればいいだけだ。というか、叩かれているのはぼくらの中の「悪」なんだから、余計な手出しはするべきではない。黙ってショッカーやダークといった大日本帝国的なものが倒されていくのを見物しているほうがいい。


ところが『キャシャーン』の「悪」、アンドロ軍団は、ショッカーやダークとは比べものにならないほど強大な敵だった。ショッカーなどはせいぜい暴力団かカルト宗教に毛が生えたようなもんだったが、アンドロ軍団はまさに軍隊。その攻撃力は人間の軍事力をはるかに凌駕するもので、都市は次々に占領されていった。

キャシャーンはアンドロ軍団を相手に孤軍奮闘するが、一人の力には限界があった。キャシャーンは人々の力を必要としていた。人間の尊厳を守ろうとする、人々の勇気を必要としていた。キャシャーンは画面の中から、それをぼくら視聴者に問いかけてきた。おれと一緒に戦ってくれ、と。

こうしたキャシャーンの在り方が結果的に呼び込んでしまったものが、アンドロ軍団にオーバーラップされる占領軍(またはGHQ)のイメージだったことはすでに書いたとおり。『キャシャーン』の戦いには、あの日の日本人のもうひとつの選択、すなわち「本土決戦」の影がうかがえるとぼくは思っている。

まぁ、その是非はともかくとしても、とりあえず『キャシャーン』がいわゆる自虐史観的な物語ではないことは確かなことだろう。『キャシャーン』は、石ノ森ヒーローのようにナイーブな「内なる善」を守るものではない。ぼくらの街を侵略し、占領・支配しようとする「外敵」と、彼は戦っている。

そんな『キャシャーン』の登場で、子ども向けアニメは「民族の物語」を手に入れたようにぼくは思う。
ここに初めて、日本人のリアルな歴史とアニメ番組はリンクした。タブーは解除された。
いつまでも「敵」や「悪」を自らの内に求め、自省自虐を続けている必要はない。自国の歴史を恥じ、それを暗黒として叩いていなくてもいい・・・。

『キャシャーン』の放映が始まったのは1973年10月とのことだが、同じ頃、西崎義展が手がける企画書は大きな転換を迎えていたそうな。すなわち、「コンピュータ」であったはずの敵役は人間型の宇宙人へ、「宇宙戦艦コスモ(イカルスとも)」は「宇宙戦艦ヤマト」へ、そしてその乗組員は全員日本人へと、それぞれ変更されたのだった。
もしかしたら、西崎は『キャシャーン』に勇気をもらった(笑)のかもしれない。

・・・てな感じで、「たかが」子ども向けアニメであろうと生真面目に取り組もうとする日本人の間では、お互いに連絡を取り合うことなく無意識のうちに、一種の意思のバトンリレーが行われた可能性があるとぼくは睨んでいる。
それは個人の利益や名声を超えて、より良いものを作ろうという集合的な無意識だったのだろう。
『キャシャーン』を作ったのはタツノコプロだが、『キャシャーン』が開いた小さな風穴を突き破ったのは『ヤマト』のスタッフたちだった。

そして『ヤマト』で展開された世界観は、また別の人々によって一層の先鋭化を見せていく。
超電磁マシーン ボルテスV』(1977年)。
監督は、『オバケのQ太郎』『パーマン』『巨人の星』『ど根性ガエル』『侍ジャイアンツ』等で知られるアニメの巨匠、長浜忠夫だ。

つづく

ボルテスV その2 プリンス・ハイネルとGHQ

ハイネルとラ・ゴール

それでは『超電磁マシーン ボルテスV(ボルテスファイブ)』(1977)のあらすじを。

地球を離れること1万4千光年の宇宙に、ボアザンという星があった。高度な科学力を誇るボアザン星だったが、そこには二つの種族による対立があった。一つは頭に角(つの)が生えた種族で、彼らは「貴族」として思うままの贅沢な暮らしをしていた。もう一つは角のない種族で、こちらは「労奴」として苛烈な労働を強いられる階級だった。

あるとき、ボアザン皇帝の弟に一人の男子が生まれた。が、なんとその赤ん坊には角がなかった。その赤ん坊、ラ・ゴールは、ニセモノの角を着けられると王族の子として育てられ、やがてその科学への天才を開花させると若くして科学大臣の地位を得る。

ほどなく皇帝が亡くなり、王位継承者としてラ・ゴールの名が挙がる。しかしライバルであるザンバジルにニセの角の秘密を暴露されて、ラ・ゴールは失脚。彼自身は「労奴」に落とされ、身重の妻ロザリアは国外追放とされる。

労奴となったラ・ゴールは、新皇帝ザンバジルが宇宙征服の計画を立てていることを知ると、同志とともに反乱を起こす。しかしこの反乱は失敗に終わり、ラ・ゴールはただ一人、ボアザン星からの脱出を余儀なくされる。ラ・ゴールの宇宙の放浪は続き、ようやく彼がたどり着いた星が、ぼくらのこの地球だった。

地球に降り立ったラ・ゴールは、ボアザン星の「労奴解放」のため、さらにはザンバジル皇帝による地球侵略に備えるため、地球人と協力して軍事要塞ビッグファルコンと戦闘ロボ、ボルテスVを建造する。この間、地球で知り合った剛光代博士との間には、三人の男児をもうけていた。

やがてラ・ゴールが地球にいることを知ったザンバジルは、ラ・ゴールがすみやかに帰国しない場合は地球を攻撃すると伝えてくる。ラ・ゴールはやむをえず後のことを光代夫人らに託すと、ボアザンに帰っていった。

しかしボアザン帝国軍による地球侵略は開始された。
地球側ではラ・ゴールの3人の息子に2人の若者を加えた5人編成のボルテスチームが結成され、それを迎え撃つ。戦況は膠着したが、ボアザン側の内紛と、ボアザンから脱出してきた労奴の協力を得たボルテスチームは、ついにボアザンの地球侵略軍を撃退することに成功する。そして、労奴(本当は元ボアザンの将軍)の口から、父の真実を知らされたラ・ゴールの息子たちは、父を意思を叶えるため、ボアザンの労奴解放を目指して宇宙に飛び立つ・・・。


整理すればこうなる。
まず遠い宇宙に高度な文明があって、そこには「善」と「悪」が同時に存在する。「善」が地球にやってきて、「悪」を倒せるだけのテクノロジーを与える。地球人がその「善」の技術を使って「悪」を倒す。
大雑把なところで、『ボルテスV』の物語が『宇宙戦艦ヤマト』と世界観を同じくしていることは一目瞭然だろう。

ただし、もちろん後発の『ボルテスV』の方が、細部において先鋭化されていることは言うまでもない。例えば、「悪」についてだ。

第一話「宇宙からの侵略者」。
突如として太陽系に侵攻してきた大船団はボアザン帝国の地球征服軍だった。司令官の名はプリンス・ハイネル
戦闘に先立ってハイネルはこう演説する。

「戦いの時は来た。われらボアザン帝国の栄光と名誉、その香り高き文化をあまねく宇宙のすみずみにまで及ぼさんがため、この辺境の地、地球を支配する。虫けらのごとき人間どもを追い払うのだ!」

要点はふたつ。
ひとつは、ハイネルらは地球を滅ぼしに来たのではなく、彼らの「栄光と名誉」「香り高き文化」でもって教化しに来たという点。平たく言えば、植民地化だ。その理由は、ぼくら地球人は「虫けら」のように劣った存在だからだ。
ふたつめは、そんなボアザン人から見れば、地球などは「辺境の地」でしかないという点。

まとめて言えば、ハイネルらは、辺境の野蛮人どもはボアザン文化で支配してやったほうが幸せだと考えているようだ。

だからハイネルは、地球人にも「愛」という感情があると知ったとき、「下等動物の人間が愛を持っているとは」と言って大笑いする(第13話「謀略の父が地球を狙う」)。
また、彼らはボルテスのことを「ほ乳類がつくったロボット」とも呼ぶ(第7話「新隊員タッコちゃん」)。

さて、それじゃあ『ヤマト』では「ガミラス」が演じたこの悪役は、いったい何からイメージされるものなのか? 地球人を「辺境」の野蛮人と見、自分たちの「香り高き文化」で教化・支配しようとするボアザン人とは・・・。

この答えを長浜忠夫の心象風景に探すのなら、これはもうGHQ以外にはないとぼくは思う。
極東の地、日本を占領したアメリカは、日本の古い制度を徹底的に破壊し、彼らの文化や価値観で改めた。それも時間をかけずに怒濤の勢いで行った。こんなことが民衆レベルにまで起こったのは、日本の歴史上この時くらいのものだろう。

もちろん、大日本帝国が似たようなことを東アジアで実行したことは事実だが、1932(昭和7)年生まれの長浜忠夫は終戦時はまだ少年だ。戦争に負けること、他国の支配を受けることの意味を長浜少年に実感させたのは、GHQをおいて他にはないだろう。だからこの世代の人が「侵略者」をイメージすれば、それは自然とGHQに繋がるのだとぼくは推測する。

一方、「侵略者」であるボアザンが、同時に「建設者」として助力してくれる存在であることも『ヤマト』と同様の構図だ。ボルテスメカを建造したラ・ゴール、影となってボルテスチームを援助してくれたダンゲ将軍といった人々も、またボアザン人。
要は、『ヤマト』ではイスカンダル=ガミラスの二重連星として表現された「善」と「悪」は、『ボルテスV』ではボアザン星のふたつの身分階級(労奴と貴族)として表現し直された。後発の強味ではあるが、『ボルテスV』のほうが洗練されているし、核心を突いているとぼくは思う(もちろん、バトンリレーの結果としてだが)。

いずれにしても、そこで表現されているのはアメリカに対するダブルイメージだ。すなわち「良いアメリカ」と「悪いアメリカ」・・・。

そして『ボルテスV』の洗練はそれだけにはとどまらない。
『ヤマト』では今ひとつ消化不良というか、ウヤムヤだったもののいくつかは、『ボルテスV』の中で確実に形を成しているとぼくは見ている。

つづく

ボルテスV その3 最終回:崩れゆく邪悪の塔!!

狂ったザンバジル

超電磁マシーン ボルテスV』(1977)は、基本的には地球を侵略する異星人を巨大ロボに乗り込んだ若者たちが撃退する、というストーリーだが、もちろんそれだけではない。そこでは、ボアザン星人のラ・ゴールと地球人の剛光代のあいだに生まれた3人の息子たちが、父・剛健太郎(ラ・ゴール)を探し求める物語がサブストーリーとして展開された。

ボアザン星随一の天才科学者にして王位継承の筆頭だったラ・ゴールは、ボアザン貴族の証しである「角」を持たずに生まれたことをライバルに暴露されて全てを失い、地球へと逃亡してきた。彼を追った新皇帝ザンバジルが宇宙征服の野望を持つことを知るラ・ゴールは、ボアザンと地球の平和のために、わずかな理解者たちと協力してボルテスメカ等を建造する。だが、彼らの息子たちがまだ幼いうちに、ラ・ゴールは地球を去らねばならなくなった・・・。

こうした父不在の物語はアニメだけではなく『人造人間キカイダー』等の特撮ヒーロー番組にも見られるものだが、それらに登場してくるロボやメカが表すものこそが、いわゆる「父性」と言われるものだろう。Wikipediaから引用すれば「子供を社会化していくように作動する能力と機能」であり「子供に我慢・規範を教え、責任主体とし、理想を示すもの」が「父性」だ。
『ボルテスV』でいえば、ラ・ゴールの息子たちにとってはボルテスメカの存在自体がラ・ゴールの意思そのものであって、彼らがそれに乗り込むことで彼らはラ・ゴールの願いを実現する。

実はこのあたりは、ヒーロー番組としての『宇宙戦艦ヤマト』では少々物足りなかったとぼくが感じている点だ。
『ヤマト』においては、基本的なメカを作ったのは旧日本海軍だし、クルーたちの「父」としては沖田艦長が存在した。それで重複を避けたのかもしれないが、あの物語で実際に「父性」を示していたのは実はイスカンダルのスターシャだった。スターシャが地球人に波動エネルギー技術を与えたのは、それによって地球人が「自分の力で」生き抜いていくため・・・。

要するにあの偉大な沖田艦長だって、スターシャの巨大な「父性愛」によって試練を与えられ、鍛え上げられた一人だったということだ。ただ、いかんせんスターシャが妙齢の美女だったもんで、どちらかと言うとイスカンダルには「母性」的な印象が残ってしまう。「母性」を同じくWikipediaから引用すれば「子供の欲求を受け止め満たして子供を包み込んでいくことを指す」。スターシャは優しい容貌をしてはいるが、善悪を問わずに全てを包み込んでくれるかといえば甚だ疑問と言わざるを得ない・・・。

という具合で、『ヤマト』においては「父性」の有りどころが今ひとつ整理されていない印象があって、それがメインテーマを見えにくくしている結果に繋がっているように、ぼくには思えるのだった。つまりは、たった一話のうちの、それもわずかな時間だけしか展開されなかった「愛」をもってテーマに思わせてしまう、などだ。


まぁ以上はぼくの個人的な印象に過ぎないような気もするし、それによって『ヤマト』の価値がいささかなりとも毀損するものではないことは念のため。後発の『ボルテスV』のほうが、いろいろな面で整理されているとぼくが感じているだけのことだろう。

例えば「母性」。
正妻ロザリアを失ったラ・ゴールは、逃亡先の地球で剛光代博士と再婚して3人の息子を授かったわけだが、第2話「苦闘への前進」で息子たちのピンチに直面した光代さんは、彼らを守るために戦闘機で出撃すると敵ロボットに特攻をかけて爆死してしまう。これはまさに「母性」の発揮しうる究極の形といえるものだろう。


さて『ボルテスV』のサブストーリーが、ラ・ゴールの3人の息子が「父」を探す物語であることはすでに書いたが、この作品はそれほど単純なものではなかった。ボアザン貴族にして、地球征服軍司令プリンス・ハイネルの物語もまた、「父」を探していた。皇族でありながらハイネルは「父」を知らず、その裏返しの感情として、ハイネルは異常なまでに「貴族」という血統に執着し、自己の拠り所としていた。「貴族」でない者への差別意識は誰よりも強かった。

そうして意気揚々と地球侵略をはじめたハイネルだったが、ラ・ゴールが設計したボルテスの反撃にあって作戦はことごとく失敗に終わり、ついには司令から解任されてしまう。失意のハイネルは、それでもボアザンへの忠誠心は揺らぐことはない。ラ・ゴールに率いられた労奴解放軍とボルテスチームの協力で陥落寸前のボアザン帝の首都・黄金城にあって、我先に逃亡を図ろうとする貴族たちを叱咤したのはハイネルだけだった。ハイネルだけが滅びゆくボアザンにあって、最後までボアザン貴族の名誉と誇りを守り抜こうとした。

そして最後の最後、ハイネルはラ・ゴールの息子、宿敵・剛健一との一騎打ちに撃って出る。
しかしその時、ついにハイネルの出生の秘密が明らかになった。ハイネルは実は、ラ・ゴールの前妻ロザリアが、その命と引き換えに産み落としたラ・ゴールの長男だった。ハイネルこそが、ボアザンの真の王位継承者だったのだ。

するとそこへ現皇帝ザンバジルが、抱えきれないほどの財宝とともにフラフラと現れる。その昔、謀略によってラ・ゴールから王位を奪ったザンバジルは、そのとき恐怖のあまり気が狂っていた。彼はハイネルの姿を認めると「悪いのはハイネルだ」と騒ぎ出す。ハイネルは「余はこんなウジ虫のために戦っていたのか」と絶望し、ザンバジルを殺害する。その時、ザンバジルが持っていた爆弾が爆発し、ハイネルを紅蓮の炎が包む。

「兄さん!」と手を差し伸べる健一に、ハイネルは静かに首を振る。そしてつぶやく。「父さん・・・」と。
ハイネルが炎の中に消えていき、長い長い戦いが幕を閉じる。労奴は解放され、ラ・ゴールによるボアザンの復興が始められる・・・。


ボアザンのうち、「悪いアメリカ」の先兵であったプリンス・ハイネルもまた、失われた「父」を求めていた。だが、ハイネルは、自分の「父」が(「良いアメリカ」を暗喩する)ラ・ゴールであると知ったとき、自らの滅亡を選択した。自らの死をもって、「悪いアメリカ」を完全に葬り去る道をハイネルは選んだ。それなくして真に「良いアメリカ」の復興はない、とハイネルは悟ったのだろう。

『宇宙戦艦ヤマト』そして『ボルテスV』が制作された1970年代といえば、最強を誇ったアメリカ合衆国に次々と綻びが見えだしてきた時代だ。「ニクソンショック」「ベトナム敗戦」「オイルショック」なんてのは、アメリカの強さの裏付けであった「ドル」「軍事」「石油」がもはや絶対ではないことを雄弁に物語る事件だった。
経済や国防をアメリカに依存している我が国にとっても、それは他人事ではない。「父」なるアメリカの衰弱は、「子」である日本の即死にも繋がりかねない。

70年代ヒーロー番組に見られる「父」探しの物語の底には、そういったアメリカ弱体化という不安の影が落とされていたんじゃないかと、ぼくは推測する。だからこそヤマトもボルテスチームも「悪いアメリカ」を打ち倒しに出かけたし、プリンス・ハイネルは「悪いアメリカ」である自己の消滅を選んだ。

しかし、繰り返しになるが「良いアメリカ」なんてのは、それに一方的に依存している日本人の願望でしかない。アメリカに古き良き寛容精神を求めるのは日本人の身勝手であって、アメリカにはアメリカの都合があるだろう。日本人には「悪いアメリカ」に見えているものが、その実アメリカ自身の正直な本音の願望の結実である可能性だって否定はできないのだ。

つまり、もしも「良いアメリカ」なんてものが、とっくに死んでしまっているものだとしたらどうだろう・・・。
願望を捨てて現実を直視してみたとき、蘇ってしまったヤマトの居場所はどこにあると言うのだろう?

つづく

さらば宇宙戦艦ヤマト ~ヤマトの現実

拡散波動砲の末路

地球侵略を狙うガミラスを滅ぼして人類の危機を救ったヤマトが直面した「現実」は、不当なまでの「冷遇」だった。

さらば宇宙戦艦ヤマト』(1978)は、ヤマトがイスカンダルから放射能除去装置を持ち帰ってから約1年後の物語だ。すでに地球は完全に復活し、青い海と緑の大地は蘇った。人類は「地球連邦政府」として一つにまとまり、太陽系の資源をフルに利用して文明社会を再建させていた。

しかしその社会では人類の救世主であるはずのヤマトクルーたちは、地球防衛軍の要職に就くのでもなければ恩給生活を楽しむわけでもなく、末端の現場労働者として働いていた。資源輸送船団の護衛や惑星基地の守備などが、彼らに与えられた任務だった。

そんな任務の折り、護衛艦艦長だった古代進は宇宙のどこからか送られてくる謎の信号をキャッチした。それは宇宙に新たな脅威が生まれていることを告げていた。古代はその脅威の調査を防衛会議に提案するが、まるで相手にされない。ちょうどその頃、最新鋭の戦艦アンドロメダを完成させていた地球防衛軍は、そんな脅威なんかアンドロメダを中心にした地球艦隊で一蹴できる、と考えていた。

でも古代は納得できない。アンドロメダの進水式で地球連邦の初代大統領はこう言った。
「宇宙の平和、それをもたらし、それを守るリーダーとなるのは我が地球であります」
だったらリーダーらしく、地球の安全を考えるだけではなく、宇宙の脅威について調べにいくべきだろう、と古代は言うわけだ。

続いて古代たちを襲った衝撃は、ヤマトが廃艦され、記念艦として安置されるという決定だった。
ヤマトを用無し扱いされた元クルーたちは激しく憤慨する。古代らは、ヤマトが遙かなイスカンダルまで旅をした理由は「こんな堕落した地球を作るためではなかったはず」だと言い、ついにはヤマトに乗り込むと、謎の信号の発信元めざして勝手に出撃した。

そしてヤマトは銀河系のはずれのテレザート星でテレサという女性に会い、「白色彗星帝国」という侵略者の存在を知らされる。白色彗星帝国は宇宙を移動しながら次々と文明を侵略していたが、次に狙っているのが地球だと聞いて、ヤマトもあわてて地球に戻ろうとする。

しかしヤマトが戻った時にはすでに戦端は開かれてしまっていた。旗艦アンドロメダを中心にした地球艦隊は、拡散波動砲という最新技術で白色彗星帝国の艦隊を撃滅するが、本体である彗星には手も足も出ずに全滅させられてしまう。残ったのは、戦場に遅れてやってきたヤマト、ただ一隻だった・・・。


さて、以上の流れから逆算して分かることは、ヤマトのイスカンダルまでの航海を「地球のため」「人類のため」だと考えることのナンセンスさだろう。見てのとおりで(「地球」は感謝しているかもしれないが)「人類」はヤマトを評価はしていない。むしろ目障りな存在として、クルーともども遠ざけられていたのが実際のところだ。

要するにヤマトの先の航海はあくまで「日本のため」だったということだ。日本を救うために出発したヤマトは、「結果的に」人類を救ってしまっただけで、あくまでその動機はナショナリスティックなもの。おそらくこの動機の一種の不純さが、ヤマトとそのクルーへの冷遇を日本人が受け入れざるを得なかった背景にあるだろう。

つまりここでは徹頭徹尾、日本=ヤマトの等式が強調されているようにぼくには思える。
遠ざけられているのはヤマトとそのクルーだけではない。「日本」そのものが、この「地球連邦」世界においては厄介者、邪魔者なのだと。

それが明確に現れているのが、ヤマトの技術を応用・発展して製造されたアンドロメダを始めとする地球艦隊全滅後のシーンだろう。スクリーンに映された絶望的な映像を前にして、人々は口々に言う。
「われわれにはまだヤマトがある!」

ヤマトファンなら誰もが溜飲の下がったシーンだ・・・。
所詮、ヤマトをパクっただけのアンドロメダなんかじゃダメなんだよ! ガミラスとの実戦で鍛え抜かれたヤマトにしか、波動砲の真の力は引き出せないんだ! そして宇宙の友人を持っているのもヤマトだけだ! 今こそデスラーに教えてもらった彗星の弱点を突くときが来たんだ!

・・・と少年だったぼくなどは大いに興奮したもんだが、今思えば、物の見事に制作側の意図にはめられている微笑ましい光景だったのだろう。散々持ち上げておいて、あっさりヤラレてしまったアンドロメダなんぞは気の毒な噛ませ犬でしかない。本当のヒーローは遅れてやってくる、というのもプロットの常套手段のひとつだ。

だが、改めて考えてみれば、このシーンというのはいささか執拗過ぎるようにもぼくには思える。
何しろ「地球艦隊」は一隻残らず全滅してしまったのだ。普通のヒーローものなら、手負いのアンドロメダがヤマトを認め、協力して敵に当たるなんてシナリオになるんだろうが、生き残ったのはヤマトだけだった。当然この後のストーリーは、ヤマトVS白色彗星の一騎打ちしかない。

となると、ここまでの間、物語の中核を成していたと思われるヤマトとそのクルーの冷遇問題はどこへいってしまったのか? もはや地球のために戦う者がヤマトしか残っていない状況で、なおかつヤマトを遠ざけ、退けようとする動きが、「堕落した地球」にあるというのだろうか?

もちろん、あるはずはない。人類は再び、ヤマトに全てを託すしかない。

つまりぼくが言いたいのは、『さらば宇宙戦艦ヤマト』の物語においては、この瞬間にヤマトの勝利が確定したんじゃないか、ということだ。ヤマトとそのクルーは、彼らが置かれた悲しい現状を自力ではねのけて、いま再び人々の希望と期待を一心に集めて復活した。
「ヤマトは生きている。地球を救うために。俺たちのヤマトを死なしてはならない」
という古代の思いは実を結んだ。
これを勝利と言わずして何といえばいいのだろう。

しかしそうなると訳が分からない点がひとつ出てくる。
一体ヤマトは誰に対して勝利したのか、ということだ。

つづく

さらば宇宙戦艦ヤマト ~ガトランティスはアメリカか?

白色彗星帝国の摩天楼

さらば宇宙戦艦ヤマト』の敵役を、「白色彗星帝国」という。
以下、説明がめんどくさいのでWikipediaから引用すると、こうなる。

国号はガトランティス。国家元首はズォーダー大帝。アンドロメダ星雲方面から地球へ向かって圧倒的軍事力で宇宙の星々を次々と侵略していく。
人工国家・超高層ビルの集合による摩天楼・大国主義・国家利益追求による好戦志向・人種のるつぼだが国家指導層の殆どは特定人種が占める等、善悪は別として、アメリカをイメージした国と思われる

白色彗星帝国=ガトランティスが「アメリカ」っぽいことは疑いがない。
特に、ヤマトの果敢な攻撃を受けて周囲を覆う白色ガスが取り払われたあとの「都市帝国」の映像は、1978年当時の普通の感覚であればマンハッタンの摩天楼をイメージする他ないものだろう。

その白色彗星帝国=ガトランティスは、惑星を侵略しては植民地にし、そこに住む人々を奴隷にしていった。従わない連中には大規模な空爆を仕掛け、とどめは当然、核兵器の投下だ。
要するに、絵に描いたような模範的侵略者、それが白色彗星帝国=ガトランティスだ。
そして今作、ヤマトはその強大な侵略者の前に立ちふさがり、その野望を阻止せんとした。アメリカの帝国主義を打ち破れるのは、日本のヤマトだけなのだー!!

と書けば威勢が良いが、どこをどう見ても『さらば宇宙戦艦ヤマト』にはそう言った誇大妄想的な痛快さは存在しないように、ぼくには思える。地球においては冷遇され、白色彗星帝国との戦いは絶望につぐ絶望の連続。最後は一応の勝利を遂げはしたが、それを勝利と呼ぶにはあまりに悲しい結末が『さらば宇宙戦艦ヤマト』だった。

結論から言ってしまえば、ぼくは『さらば宇宙戦艦ヤマト』が白色彗星帝国をアメリカ帝国主義になぞらえて、それを倒すことで自慰的な満足を得ようとした作品だとは思っていない。それでは前作の繰り返しになるし、ベトナム敗戦で弱っているアメリカに後足で砂を掛けるような、卑劣な行為であるような気さえする。
『さらば』が訴えたかったことは、そんな卑屈な感情から来るものではないだろう。


『さらば宇宙戦艦ヤマト』で注目すべき点は、ヤマトの波動砲の使い方にあったとぼくは思う。

前作で発射された波動砲は5回。

1回目は木星の「浮遊大陸」に向けて発射。
2回目はオリオン座アルファ星の「炎」に向けて発射。
3回目はバラン星の「怪獣バラノドン」に向けて発射。
4回目はバラン星の「人工太陽」に向けて発射。
5回目はガミラス星の「火山脈」に向けて発射された。

一言でいえば前作のヤマトは、人が乗っていることが明らかである戦闘機や艦船に対しては、いっさい波動砲は使わなかった。
仮にも唯一の核被爆国である日本人が、軽々と人に向けて核を撃ってはならない。この点だけでも『ヤマト』スタッフの高い志が読み取れる好例だろう。『ヤマト』は決して、アメリカ人に過去の仕返しをしに行っただけの妄想系ではない。

ところが『さらば』でその事情は一転する。
テレザート星に向かうヤマトの前に「謎の」大艦隊がせまると、ヤマトは躊躇なく波動砲をぶっ放したのだった。まるでそこに「人」が誰もいないかのように・・・。

これはつまり、ヤマトのクルーがガトランティス人を「人」としては見ていない、ということを表すものだろう。
と言ってもそれは、人間以下の畜生だとか、人の姿をした鬼だとか、そういった詩的な意味ではない。ガトランティスが「敵」という役回りを与えられただけの、記号の帝国だという意味だとぼくは思う。

そこに「人」の実体はない。
だからヤマトは迷うことなしに波動砲が撃てた。
ならばガトランティスの野望というものにも、実は実体がないことになるだろう。それは、ヤマトに絶望を引き起こさせるための「強大さ」の象徴であり、人間がなしうる「悪」の集合体だった。

白色彗星帝国=ガトランティスは、アメリカ合衆国のメタファーではない。

そしてそれは、『さらば』のヤマトが戦った真の敵でもない。
ぼくはそう思う。

つづく

さらば宇宙戦艦ヤマト 宇宙の愛 ~そして神話に

ガトランティス=地球連邦

前回からの続き

ご存じのとおり、『さらば宇宙戦艦ヤマト』は地球連邦艦隊の最後の一隻となったヤマトが、すでに攻撃能力を失いながらもガトランティスの超巨大戦艦に体当たりしていくシーンで幕を閉じる。この特攻に先立って、若き艦長・古代進は生き残ったクルーに退艦命令を出してこう言った。

俺たちの戦いを永遠に語り継ぎ、明日の素晴らしい地球を作ってくれ

地球がなくなれば、彼らの戦いを永遠に語り継ぐ人もいなくなるのだから、古代にとってガトランティスに勝利することは最初から既定の結果だったのだろう。そしてガトランティス側もまた、よろよろと接近してくるヤマトに攻撃を仕掛けることもなく、黙って成行に身を任せているようだった。最後まで必死の抵抗を続けた前作のガミラスとは大違いだ。

そうしてみると、『さらば宇宙戦艦ヤマト』の物語にとって重要だったのは、古代たちが「どう」戦ったのかであって、「誰と」戦ったのかではなかったように思えてくる。つまり、ガトランティスがアメリカを模した帝国であるという表面的なイメージには、それ自体に大した意味はないんじゃないかと考えたくなる。

しかし、古代に特攻を決意させたのは紛れもなくガトランティス、その大帝ズォーダーだった。
すでに満身創痍でボロボロのヤマトに対し、ついにその本体である超巨大戦艦の姿を見せたガトランティスは、主砲の一撃で月を粉砕してみせた。勝ち誇ってズォーダーは言う。

宇宙は全てわが意思のままにある。わたしが宇宙の法だ。宇宙の秩序だ

これを聞いた古代は激しく憤慨し、反論する。

ちがう、断じてちがう。宇宙は母なのだ。そこで生まれた生命は全て平等でなければならない。それが宇宙の真理であり、宇宙の愛だ

しかし思い出してみれば、このやりとりに極めて類似した展開が『さらば宇宙戦艦ヤマト』にはもうひとつ存在したことに気がつく。それはヤマトが再び旅立っていく直接の動機にも繋がったものだ。
ヤマトを廃艦させ、記念艦にしようとした人々。
その代表格である地球連邦政府の初代大統領は、アンドロメダの進水式に際してこう言った。

宇宙の平和、それをもたらし、それを守るリーダーとなるのは我が地球であります

ところが「リーダー」を自称する連邦政府には「宇宙の平和」への責任感などカケラもなく、そのことが古代を憤慨させ、ヤマトを出撃させる結果になった。古代から見れば、連邦政府の叫ぶ「宇宙の平和」なんぞは地球人のエゴイズムでしかなく、それが高じたものこそが「宇宙の法」「宇宙の秩序」を語るガトランティスに他ならなかったのだろう。

つまりガトランティス=地球連邦政府。

古代が戦おうとしたものとは、「宇宙の愛」すなわち宇宙に生きる全てのものの「平等」を奪い、我が手で支配しようとするこういった考え方だったとぼくは思う。白色彗星帝国=ガトランティスとは、未来の地球連邦政府の姿そのものだった。

そしてその地球連邦政府の世界にあって、ヤマトとそのクルーは厳しく冷遇されていた。ヤマトは老朽艦扱いされ、ガミラスの魔の手から世界を救った英雄たちは末端の労働者として埋没していた。
しかし前作『宇宙戦艦ヤマト』では、ヤマト=日本ではなかったか?
ならば冷遇され、邪魔者扱いされ、埋もれてしまっていたのは、本当は「日本」ではなかったのか?

そう考えたとき、アンドロメダ進水式での初代大統領の発言は、ぼくに現実世界のある国のトップの発言を思い起こさせる。言うまでもない。歴代のアメリカ大統領だ。彼らは「自由主義世界のリーダー」を自認し、「ニューワールドオーダー」を叫んでベトナムやイラクに攻め込んだ。確かに1978年当時の日本はまだそういった行為に直接加担することはなかったが、その後の展開はご存じのとおりだ。

だが、『ヤマト』のスタッフが危惧していたことは、未来の日本が本意でもない戦争に駆り出されることへの不安だったわけではないだろう。すでに戦後教育によって日本の過去の歴史は全否定され、アメリカ様式が日本の伝統を浸食して久しかったのが70年代だ。

そこに「日本」はあるのか?
すでに「日本」は連邦政府(=アメリカ)に呑み込まれていて、実はその実体は存在していないも同然なのではないか?
ならばヤマトには、もはや命をかけて守るべきものが何もないことになるんじゃないか?

『さらば宇宙戦艦ヤマト』に描かれている日本の「現実」には、そういった精神的な背景があったのではないかとぼくは推測する。なぜならまさに『さらば宇宙戦艦ヤマト』の結末には、失われた「日本」をいかにして生かすかという思いが込められていたように思えるからだ。


「ヤマトは生きている」「俺たちのヤマトを死なせてはならない」と言って連邦政府の支配下を離脱したヤマトは、連邦自慢の艦隊が全滅した後もたった一隻で戦い続けた。人々はそんなヤマトに地球の運命を託して、熱い声援を贈った。
しかしガトランティスはあまりも強大で、次第にヤマトはその戦力を失っていった。

たった18人になってしまったクルーに、艦長古代は退艦命令を出し、こう言った。

みんなは俺が死ににいくと思っているんだろう? そうじゃない。俺も生きるために行くんだよ。命というのはたかが何十年の寿命で終わってしまうような、ちっぽけなものじゃないはずだ。この宇宙いっぱいに広がって、永遠に続くものじゃないのか? 俺はこれから、そういう命に自分の命を換えにいくんだ。これは死ではない

古代は言う。「宇宙いっぱいに広がって、永遠に続くもの」「そういう命に自分の命を換えにいく」のだと。
「そして俺たちの戦いを永遠に語り継ぎ、明日の素晴らしい地球を作ってくれ」と。

そう言い渡すと、彼は最愛の人、森雪の亡がらを抱いて一人、ヤマトを超巨大戦艦に向けて発進させる。するとテレサがどこからともなく現れる。実は彼女は反物質世界の人で、こちら側の世界にふれあうと巨大な爆発を引き起こす存在だった。彼女が超巨大戦艦に接触すれば、ガトランティスも一瞬にして消滅する。

テレサは古代に、ありがとうと言う。
「あなたのおかげで人々は目覚め、より美しい地球と宇宙のために働くことでしょう。わたしはこの日を待っていたのです」
テレサに導かれたヤマトの姿は次第に小さくなっていき、やがて巨大な爆発となる。あとには漆黒の宇宙空間だけが残されたのだった・・・。


古代の願い。
それは、ヤマトの物語が「伝説」「神話」となって、「宇宙いっぱいに広がって、永遠に続く」ことだった。それが古代の言う「命」だ。そしてそんなヤマトの戦いが「宇宙の愛」に則ったものだったからこそ、テレサは現れた。その一部始終を地上の人々は見た。彼らは「神話」の目撃者となった。

もちろん、この時の目撃者となったのは何も劇中の人物たちだけではない。
ぼくら当時の少年たちも、そのうちの一人だった。

かつてヤマトという船が「日本」という守るべき、残すべきもののために戦ったこと、さらにその戦いは「宇宙の愛」を貫くためのものでもあったこと、これらはぼくらの胸中奥深くにしまいこまれたものだ。それは、いつの日か「日本」を取り戻さなければならない時に、大きな力の源とならなければならないものだろう。
ヤマトの「神話」を語り継ぐのは、ぼくら当時の少年少女だということだ。



ところで・・・。

もしもこの時のヤマトが実は破壊されず、そのまま太陽系のどこかで「日本」を興している世界があるとしたらどうだろう。ヤマトが連邦政府に対して独立を宣言し、主権を主張している世界があったとしたら・・・。

ジオン公国だ。

つづく


※詰め込みすぎで説明不足の感があるので付け足しておきますが、古代のいう「平等」とは、いわゆる民族主義的な意味での平等だと思われます。つまりは世界の多様性は多様性のままに存在するべきで、それぞれの伝統や文化は固く保持されるべきだろうということです。
これに対し、サヨク的な「平等」は人為的に操作された平等ですので、本来の多様性は破棄されている状態でしょう。つまりは、アメリカによるイラクの強引な民主化や、中国共産党がチベットやウイグルで行っていることは「宇宙の愛」に反する行為だということです。



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