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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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機動戦士ガンダム ダブルヒーロー夢の競演

お台場ガンダム

あらかじめ白状してしまえば、『機動戦士ガンダム』(1979)について何か書くことは、ぼくにとって非常に気の重い作業だ。たぶん、ファンの数は『宇宙戦艦ヤマト』の100倍どころじゃ済まないだろうし、関連書籍を積み上げていくと月に届くのかも知れないし、Wikipediaにも全部はとても目を通す気にはなれない量の情報が網羅されている。
そしてなにより富野由悠季監督ご自身が、すでに1980年12月の時点で「ガンダム論は語りつくされた」と話されているのだ(『ロマンアルバム・エクストラ35・機動戦士ガンダム』/徳間書店)。

そんな状況で、25年間もアニメ趣味から離れていたオッサンが何か発言していいものか・・・。

と、弱気になる気持ちだけはまずご理解いただいたとして、それでもぼくなりの「ガンダム論」を書かなければならない理由はただ一つ。
実は、ここまで書いてきた記事はすべて『機動戦士ガンダム』から逆算して考えたことだった。『ガンダム』という「解答」から、遡って「問題」そのものを発見していく作業がこのブログだった。
ならば最後は当然、その「解答」について触れないわけにはいかないだろう。

だが「解答」といえば聞こえがいいが、実際のところ『機動戦士ガンダム』で行われたことは、それまでの昭和の特撮・アニメの「解体」と言った方が早い仕事だったとぼくは思う。詳しくはおいおい書いていくとしても、そのことは富野由悠季監督も大いに自覚していた様子がある。

「たとえば『イデオン』を作っていた頃でいえば、大人というのはなんでこうまで怠け者なんだろう、怠惰なんだろう、ずるいんだろう、つまり子供に対して誠実でないという嫌悪感がありました」

「そんなことを考えずに、単なる勧善懲悪ものをやっていればそれはエンターテイメントとして安全パイですし、余計な責任を負わなくてすみます。そういう無難に次の仕事が来るような立ち居振る舞いばかりしている、そんなテレビアニメの仕事をやっている人間に対して本当に飽きたというか、腹が立ったんですね」

「そういう(※制作現場に対するジェノサイドという)思いは強かったです。そして何よりも、作品に対して誠実でありたいと思いました。『トリトン』の場合も、制作体制はめちゃめちゃで、きちんとした絵も作れないような状態で、なおかつオンエアはされている。見ている人に対して制作者として、どういうことで埋め合わせをしようかと本当に考えていました」

(以上、『戦争と平和』/徳間書店/2002年より引用)


実際この本に限らず、『ガンダム者』『富野由悠季全仕事』といった本のインタビューのなかでも、富野監督の発言の多くのものが、当時の制作体制や同業者への批判へと向けられていることに気付く。
たしかに当時のアニメは、およそ「作品」として扱われることのない底辺の存在だった。しかし問題なのは、当事者でありながらそういった状況に甘んじ、「子供に対して誠実でない」制作者たちの姿勢だと富野監督は思ったのだろう。
ならばその矛先が、やがては同業者に向かうのは自然な流れだ。


ヒーロー番組としての『機動戦士ガンダム』は、基本的には『超電磁マシーン ボルテスV』などとそう変わるものではない。まず「正義のヒーロー」がいて、これがロボットに乗り込んで活躍する。アムロ・レイだ。
一方、「悪」の側にも美形でカッコいいやつがいて、「正義のヒーロー」のライバル的存在として登場してくる。シャア・アズナブルだ。

ところがこのシャア・アズナブルが『ボルテスV』のプリンス・ハイネルと異なるところは、シャアは「悪」から生まれていながら、その「悪」への復讐を企んでいる点だ。結果的に「正義」に利する行動をとる点において、あるいは「悪」を裏切る点において、シャア・アズナブルは『サイボーグ009』『仮面ライダー』『人造人間キカイダー』といった、石ノ森ヒーローときわめて似た立ち位置にいる。

という具合に見てみると、要するに『機動戦士ガンダム』は、典型的な「正義のヒーロー」であるアムロ・レイと、「悪」から生まれて「悪」を倒す石ノ森タイプのヒーローであるシャア・アズナブルが同時に登場し、しかも激しく戦い合う物語だといえるだろう。これは豪華だ。『マジンガーZ対デビルマン』ってとこだ。

が、それが形だけのものに過ぎないことは、一度でも『機動戦士ガンダム』を観たことがある人には今さら説明するまでもないことだろう。あのアムロを”典型的な「正義のヒーロー」”だと言われれば、誰だって「はあ?」となるだろうし、シャアが最終的には「悪」への復讐を「ついでのこと」だと言い切ったことも、よく知られたことだ。
つまりは『ガンダム』の、昭和ダブルヒーロー夢の競演!なんてのは本当に形だけのことでしかない。

あるいは逆に見れば、それは「形」だけが必要だったのかもしれない。
一見、正統的な従来のロボットヒーローものと同じような経緯でガンダムに乗り込んだアムロ・レイは、形の上では「正義」のために「悪」と戦う少年だった。アムロが劇中で父母と離別していくのも「正義のヒーロー」にはありがちなパターンの踏襲だろう(ヒーロー物には最初から両親が全く設定されていない場合も多い)。

ところがその結果、この「正義のヒーロー」に投げかけられた言葉は「なぜあなたはこうも戦えるの? あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに!」というものだった。つまりは、「正義のヒーロー」には本当は戦う理由がないんじゃないか? ということだろう。

では、形の上ではアムロと何も変わらない「正義のヒーロー」たちは、この問いに対して何と答えればいいのだろう。例えば『マジンガーZ』の兜甲児。彼ならこの問いに、どう答えるのだろう?

つづく

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機動戦士ガンダム アムロ・レイ その1

テム・レイ

いちいち説明するまでもないことだが、『機動戦士ガンダム』の基本的な設定は『マジンガーZ』と大差ない。
兜甲児とアムロ・レイはいたって似たような成り行きでロボットを操縦することになり、「悪」が繰り出してくる敵ロボットと戦う。この際、本来は戦闘に無縁である民間人がロボットを操縦する違和感については、彼らの血縁者が当のロボットの開発者であることで解消されている。所有権のある人間が使用者であるべきだ、といった感覚だろう。

そんな似た者同士の兜甲児とアムロだが、終わってみれば両者の間には巨大な隔たりがあったことは明らかだった。
簡単に言ってしまえば、アムロ以前に兜甲児が存在したことは許されたが、アムロの後に兜甲児が登場することは不可能だ。ここには不可逆性がある。

それは、単に兜甲児がスポ根チックな熱血漢で、アムロが内向的なオタク系少年だったから、というような表面的な差異によるものではなかった。アムロのキャラクターには裏付けがあり、兜甲児にはない。それが理由だ。

おそらく兜甲児の性格は、ロボットを操縦して戦闘を行うという彼の役割から単純に逆算して設定されたものだろう。運動神経抜群のスピード狂、猪突猛進タイプだが実は思いやりがあり、責任感や正義感も強い。
こういう人間でないと、あの巨大ロボで空を飛び回るなんて無理だろう。
なんて、一種のご都合主義から生まれたキャラが兜甲児だったとぼくは思う。

もちろん、この設定そのものが悪いわけではない。
スポ根ブームの後だけに子どもにも分かりやすいし、それなりの説得力はある。
問題は、その後、ロボットものの主人公といえば兜甲児タイプで決まり、という安易な追従が蔓延してしまったことだろう。要は主人公キャラの記号化だ。これは明らかに、子どもに対して「誠実ではない」。


では、一見するとそんな兜甲児へのアンチテーゼ、または単なる嫌がらせのようにもみえるアムロ・レイの性格設定の裏付けとは何か。
これはまったくもって難しく考える話ではないと思う。
子どもの性格は(ある程度までは)親が決めるものだ。この当たり前の視点が、『ガンダム』以前は丸っきり見過ごされていた。

例えばこんなセリフだ。
第19話「ランバ・ラル特攻!
「ぼくが一番ガンダムをうまく使えるんだ。一番、一番うまく使えるんだ・・・」
命令違反をしたアムロは、ガンダムのパイロットを降ろされそうになって腹を立て、勝手にガンダムに乗り込むと脱走してしまう。いろいろあってホワイトベースに戻ったアムロは、チームワークを乱した罪によって独房に閉じ込められてしまうが、その時アムロが吐いた(当時は衝撃的だった)セリフがこれだ。

それは確かに客観的な事実ではあるが、普通のヒーローがこれまで決して口には出さないものだった。
それに、そもそもこの時のブライトはチームワークを問題にしているのに、アムロには問題の所在自体を理解する素振りもない。アムロにとって重要なのは、好結果につながる「効率・能率」だった。
このアムロの発想を辿れば、それは彼の父、テム・レイに至ることになるだろう。

第1話「ガンダム大地に立つ!!」。
ブライトを前にアムロの父、テム・レイはこう言う。
「ガンダムが量産されるようになれば、君のような若者が実戦に出なくても戦争は終わろう」
アムロの父親はガンダムやホワイトベースの開発の中心となった軍事技術者だ。彼はこのセリフに代表されるように、科学の進歩や工業の発展こそが人類の幸せにつながる、という信念を持っていた。その信念にもとづき、彼はまだ幼児だったアムロを母親から引き離し、当時建設中だった「サイド7」という宇宙コロニーに移住させる。そこに彼の考える人類の幸福の実現があったからだろう。

そしてアムロは、陰では「親父」呼ばわりしている父を目の前にすると、「父さん」と呼んで敬語で話しをする。それにアムロの趣味は機械いじりで、15才にして小型の愛玩用ロボットを作るまでの技術がある。つまり、アムロはこの父から多大な影響を受け、おそらく内心では尊敬もしていたのだと思う。

ただ、その父はまだ幼かった自分から母親を奪った張本人でもあった。
母のいない心の空白を埋めるためには、アムロは父の思想や理念を無条件に受け入れるしかなかったのだろう。父の人格はともかく、その行動は正しいのだと。

そんなアムロが、科学や工業の発展がもたらす「効率・能率」について否定的な感情を持つことはないだろう。そしてまた、チームワークなどというきわめて情緒的な問題が、それらに優先するものだとは考えにくいことでもあっただろう。


という具合でこの父と子には、わずかなセリフからではあるが、確かな繋がりが感じられるように思う。この親にしてこの子あり、という実感がある。
もちろん、仮にも人間を描いているのだから、そうそう全てが理屈通りに合致するものではないが、少なくとも『ガンダム』以前にはこのような「普通の」視点がなかったことだけは断言できるように思う。

母に続く

機動戦士ガンダム アムロ・レイ その2 〜戦後民主主義

アムロいろいろ

アムロ・レイの言動には、もちろん母カマリアからの影響もうかがうことができるだろう。

第7話「コアファイター脱出せよ」には、アムロのこんなセリフがある。
「あなたがたは自分のことしか考えられないんですか?」

執拗なジオン軍の追跡を振り切ろうと、必死で戦うアムロたち。しかしホワイトベースに乗っている避難民は、自分たちだけを地上に降ろしてくれと言い出してくる。
このとき、まずブライト艦長が
「あと一息で連邦軍の勢力圏に入るんです。それまでの我慢がなぜできないんですか?」
と諭したのに対し、避難民が
それまでの命の保証は誰がしてくれるんです?
と返してきた。
それを聞いたアムロが言ったのがこのセリフだ。

アムロは続けてこうも言う。
「誰が、自分だけのために戦うもんか。皆さんがいると思えばこそ戦ってるんじゃないか。僕はもうやめますよ?」
このセリフは、(あのアムロにしては)なかなか感心なものだろう。
アムロだって成り行きでガンダムを操縦してはいるが軍人ではなく、避難民同様の民間人だ。命の保証なんて、あるわけがない。それでもホワイトベースのみんなが生き残れるよう、恐怖心をこらえて戦っているのだとアムロは苛立っている。

しかし、そのたった2話あとの第9話「翔べ! ガンダム」でアムロは豹変する。出撃拒否をし、それを諫めに来たブライトにぶん殴られたアムロはこう言い放つ。
戦いが終わったらぐっすり眠れるっていう保証はあるんですか?
ブライトもこれには口をあんぐりと開けて「保証?」と言葉を失ってしまう。つい先日、誰にもできっこない「保証」を求める避難民にいらだちを見せたアムロが、今度は自分の睡眠についての「保証」をブライトに求めてくれば誰だって混乱してしまう。


こういったアムロの精神分裂ぎみの傾向の根っ子には、おそらく母カマリアに対するアムロなりの葛藤があるとぼくは思う。もともとは地球で家族3人の生活を送っていたアムロは、まだ幼い頃、父に連れられて宇宙コロニー・サイド7に移住した。ところがこの際、母カマリアはまだ幼いアムロと離れて地球に残ってしまう。その理由はこうだ。
私は宇宙の暮らしって馴染めなくて

むろん、理由はそれ以外にもあったのだろうが、とりあえず作中で語られたのはこれだけだ。
カマリアは自分が宇宙コロニーでの生活をしたくないという理由で、アムロの養育を放棄してしまった。育児よりも、個人的な感情を優先した。さらに、これは後で分かることだが、地球がジオンとの戦場になると彼女はアムロと暮らした家まで放棄してしまった。

子どもを捨て、家も捨てる。
これは70年代に広く叫ばれていた、女性の自立、男女同権、ウーマンリブ運動の成れの果てだろう。そしてその大元には、戦後民主主義の中核である人権最優先思想があるだろう。個人の自由や権利は何よりも大切だとする考え方だ。

自分を捨てた母親をアムロが恨んではいなかったことは、第13話「再会、母よ・・・」のエピソードから十分に見てとれる。おそらく幼い日から、アムロはずっと母親の行動を理解し、受け入れようと努力してきたのだろう。それはつまりは戦後民主主義的な考え方を受け入れることに繋がる。

しかしその一方で、心の奥底には自分から母親を奪った個人主義への疑問は残っていたのだろう。
アムロの「保証」に対する正反対の言動には、その葛藤のあとが見てとれるとぼくは思う。
そしてその葛藤の結果として、アムロは時には個人的な感情に走ることもあれば、またある時には他人の自己中心的な行動に激しい苛立ちを覚えるのだろう。


てな感じで見ていくと、アムロというキャラクターが、必ずしも(兜甲児以来の)熱血ヒーローへのアンチテーゼとしてのみ設定されたネクラのオタクではないことが理解できるように思う。
アムロの父親が象徴しているのは、科学や工業の発展につながる効率・能率優先の考え方だった。これを、高度経済成長からやがてはバブルに踊るまでに至る、戦後日本の外面的な姿だとしよう。
そしてもう一方のアムロの母親は、戦後日本の内面、すなわち個人の自由や権利を優先する戦後民主主義を象徴しているとしよう。第13話でカマリアがアムロにみせた絶対平和主義も、それをあらためて強調するものだ。

子は親の鏡というが、そうしてみるとアムロの分裂気味の性格というものは、実のところ戦後日本の外面・内面の表象から導き出される、しっかりとした裏付けを持ったものであることが感じられる。アムロのキャラクターは、そう成るべくして成ったもので、制作者が脳内でテキトーに考えただけのものではない。

そしてあの時代には多数のテム・レイが存在し、多数のカマリアが存在した。ならば同じように、やはり多数のアムロも存在したのだろう。ぼく自身はそうではなかったが、アムロに自分の分身を感じる人が多数いたとしても、それは何も不思議なことではない。


・・・それにしても、このアムロの放つ破壊力は半端ではないだろう。
『ガンダム』の後では、もはや脳内でテキトーに考え出された熱血キャラの居場所などは存在しない。主人公の人格を形成する裏付けなしに、ぼくらがそのキャラクターに共感することは難しくなってしまった。
アムロこそがまさに戦後日本にありうるべき少年であるとしたら、一切の熱血ヒーローはみな虚構であり虚像であることになる。アムロを知ったあとに兜甲児が現れたとして、一体どこの誰が兜甲児のほうにリアリティを感じることが出来るだろう?

つづく

機動戦士ガンダム アムロ・レイ その3 〜ニュータイプ

いべんと

重複になるが、『機動戦士ガンダム』の富野監督が問題にしていたのは、従来のアニメ作品のなかに存在する「嘘」だった。『月刊ガンダムエース9月号』(角川書店)には、次のような監督の言葉がある。

「子供にとって一番大事なことは何だろうと考え、35歳の自分が出した結論は、ともかく嘘はついちゃいけないということだった。それを物語の芯にしようと思ったのね。それが『海のトリトン』という作品だった」


従来のアニメには「おとなの嘘」が含まれている。
分かりやすいのが主人公たちのキャラだろう。兜甲児(マジンガーZ)にせよ、剛健一(ボルテスV)にせよ、基本的には正義感の強い熱血漢で、どうやら死さえも恐れていないような印象がある。
だが、本当に彼らが「普通の少年」であるなら、彼らの本音は実はこんなものなんじゃないだろうか。

「死にたくないからやっているだけさ」
「ぼくはしょっちゅう戦わされてんだ」
「何回も何回も(ガンダムに)乗せられたんだ」

むろん、3つとも我らがアムロ・レイのセリフだ。

ここには、ロボットを管理する大人たちが、少年たちの持つ優れた反射神経や動体視力を大いに利用してきた歴史が暴露されているように思える。実際のところ、マジンガーZを兜甲児が操縦しなければならない理由はどこにもなく、兜甲児にしか操縦できない理由もまた、ない。兜甲児がそれを受け入れたから彼はマジンガーZに乗っている、ということになっている(所有者という面もあるが)。
要するに、兜甲児は、制作者を含む大人にとって都合のいい少年だった・・・。


一方、アムロの方には彼がガンダムを操縦することへの根拠が、一応は与えられている。
ご存じ、「ニュータイプ」という概念だ。

一言で説明するのはぼくには難しいが、少なくともファースト・ガンダムの時点では、宇宙生活のなかで人類が獲得した拡大された認識力や認知力、というようなイメージだったと思う。そして、いきなりガンダムを操縦してしまったアムロこそが、最も高い素質を備えた「ニュータイプ」だ、と考えられていたように記憶する。

そして、その証拠とばかりに戦いの中でアムロの能力は見る見るうちに向上し、背後の敵まで感知できるほどになっていく。反射神経も常人の比ではない。たった一機で敵モビルスーツの十体やそこらは十分に相手できるほどだ。
これを敵側からみれば、もはや「超人」と呼ぶしかないだろう。アムロは普通の人間の能力をはるかに超えた存在になった。

が、実際にはぼくらはこのアムロのような超人を多数知っていた。
仮面ライダーだって、変身忍者嵐だって、超人バロム・1だって、みな人間の能力が飛躍的に拡大された姿だ。
ただし、アムロがちょっと違うのは、その能力がガンダムに乗ることで初めてフルに発揮されるという点だが、それだって一種の「変身」といえば変身だろう。

ところがこの我らの「変身ヒーロー」は、必ずしも劇中で絶賛されてはいなかった。
ニュータイプは万能ではない。戦争の生み出した、人類の悲しい変種かもしれんのだ
いまというときでは、人はニュータイプを殺し合いの道具にしか使えん

いずれもアムロのライバル、シャア・アズナブルのセリフ。
シャアの言うとおり、アムロは巨大な戦場にあってはアリのようなものだった。何千何万という兵が入り乱れる戦場で、一人で十人倒せることに何の意味があるのか。アムロの素晴らしい能力は、自分の周りにいる十人ほどの敵を倒すことにしか使われなかった。

つまりは局所的な兵器であり、殺し合いの道具。それがニュータイプだとシャアは言っているわけだ。ニュータイプには世界を変えるどころか、ちょっとした戦局を変えることさえ難しい。本当の戦場にあっては、ニュータイプはあまりにも無力な存在でしかなかった。

ならば仮面ライダーたちはどうだろう?


さて、以上のような例に見られることを、ぼくは『機動戦士ガンダム』による70年代ヒーロー番組の「解体」だと思っているわけだ。解体されたのは、むろん「おとなの嘘」だ。
ここでいう「おとな」とは、要はアニメを作る側にいる人々のことだが、彼らが往々にして安直な方向に走ることが富野監督を苛立たせてきたことはすでに書いたとおり。
では、そんな富野監督が「解体」しなければならない「安直」には何が残っているのだろう。

ぼくはそれを「成長」だと思う。
『機動戦士ガンダム』は、少年アムロの成長物語だった!
・・・何とも安直な解釈ではないだろうか。

確かにアムロは物語の終盤に近づくにつれ人間的にも丸くなり、チームワークを乱すようなこともなくなった。それどころか、みんなの意見のまとめ役になることさえあった。だが、事の始めからずっとアムロと行動を共にしてきたセイラさんには、こんなセリフもある。
・・・慣れていくのね。自分でもわかる

このセリフはテレビ版には存在せず、総集編である劇場版でわざわざ加えられたものだ。しかもそれは、今まさにアムロがニュータイプとしての能力を開花させる直前に吐かれた。セイラさんは言っている。これから起こるアムロの戦場での活躍は「成長」のような喜ばしいものではないんだと。それは戦うこと、人を殺すことへの「慣れ」でしかないんだと。

『機動戦士ガンダム』は、こうして観る側の安直ささえ否定したように、ぼくには思えるのだった。

つづく



※ちなみにアムロの「成長」を人間性の面で測ろうとすることも、続編である『ゼータガンダム』で否定されてしまっていると見ているが、この件はいずれまた。

機動戦士ガンダム コモンセンスとニュートラル

月刊ガンダムエース9月号

少々くどくなってきたが、『機動戦士ガンダム』制作当時の富野監督の問題意識について、もう少し。
前回までの記事では、「子供に対して誠実でない」従来のアニメに対して、「(子供に)嘘はついちゃいけない」というスタンスから富野監督が『ガンダム』に向かい合っていた点について書いてみた。

だが、嘘はつかないと口で言うだけなら易しいが、それをアニメ制作の現場で具体的に実行するにはどうしたらいいのか? 『月刊ガンダムエース9月号』のなかで、富野監督はこんな話をしている。

「少なくともファーストガンダムはコモンセンスだけで作った。分かりやすく言うと、右翼でも左翼でもなくニュートラルを貫いたんです。朝鮮戦争までの戦争の図式に則って、それを反戦でも軍国主義でもなく、ただひたすらニュートラルを意識して戦争を描いた。だから僕の主義は一切ガンダムには入れてません。子供が見るかもしれないんだから、絶対に右にも左にもブレないという覚悟をもって作ったんです」


コモンセンス・・・。辞書を引けば、常識とか良識とか分別とか、そういう意味だとされているが、この対談の別の場所では、「普通」という意味として使われた言葉でもある。これをまとめれば、子供に嘘をつかないこと=子供に「普通」の話をすること、で実行されることになる。

ちなみに上記に引用した監督の発言は、次のような安彦良和氏の発言への回答でもあった。

「僕はガンダムというのは非常に大きな社会的、歴史的意味を持った作品だと思っています。(中略)つまり、本来のサブカルのエリアを超えちゃったのね。なぜ超えたのかというのを、これから話し合っていきたいと思うんだけど・・・」


ここで安彦氏のいう「サブカル」がどこまでの範疇を指しているのかは、お二人の議論がいまいち噛み合っていないためハッキリとは分からないんだが、少なくとも『ガンダム』が従来のアニメのエリアを超えてしまったことだけは、「普通」の感覚の持ち主であれば認めざるを得ないことだろう。
そしてその理由は、『ガンダム』がコモンセンスに基づいてニュートラルに作られた作品だから、と富野監督は断言しているわけだ。

となると、これを逆に考えれば、従来のアニメは「普通」の感覚ではなく、ニュートラルでもない、そういうことになるだろう。そしてそこには「大人の嘘」がある、と。


勿体ぶった言い回しは多忙な友人たちの迷惑になるので、結論から言ってしまいたい。
アニメといっても「カルピス名作劇場」みたいなものもあるのでロボットアニメやヒーロー番組に絞ることになるが、それらが吐いている「嘘」とは、要するにアメリカのことだ。

在日米軍や日米安保。
本来、日本の存亡をかけた戦闘を描いているはずのロボットorヒーロー番組から、アメリカ軍の存在はほとんど抹殺されている。『鉄人28号』『ジャイアントロボ』『マジンガーZ』『ボルテスV』・・・どこにも在日米軍は登場してこない。まるでそんなものは最初から存在しないかのようだ(ちなみに1961年に公開された東宝『モスラ』には、ちゃんと在日米軍が登場するが、これは『モスラ』が成人向けの映画だという証明になるのかもしれない)。

日米安保も在日米軍も存在しない日本。
コモンセンスに照らし合わせば、これが「大人の嘘」であることは余りにも明白だ。つまりは、日本がアメリカ軍によって保護されているという事実は、”子供が知らなくていいこと”だとされているわけだ。あるいはそれは、”子供に知られたくないこと”なのかもしれないが・・・。

いずれにしても、このような「嘘」で固められたロボットorヒーローアニメが、「ニュートラル」だとは到底考えにくいことだ。
では、それは「右」なのか「左」なのかと言えば、もちろんのこと「左」だろう。在日米軍の存在しない日本を望んでいるのは「左」だと考えるのが普通だ。
さらには自衛隊はいつもミジメなヤラレ役で、活躍するのは民間人である少年(鉄人28号)や私設の研究所(マジンガーZ、ボルテスV)、よくて国連組織(ジャイアントロボ)というのでは、バリバリの「左」としか言いようがない。

要するに、ここには「国」がない。
個人、民間施設と来て、いきなり国連に飛んでしまう。国家が国民を守るための戦いは、一体どこへ行ってしまったのか(不思議と円谷プロ系の特撮は国家による防衛組織が多いが)。


という具合で、従来のロボットorヒーローアニメの多くは、在日米軍や日米安保の存在を隠蔽したうえで、国家が国民を守らない世界の物語を描いてきた。

さて、もうお気づきだろうが、『機動戦士ガンダム』とは、まさにこの世界観そのものをスタートラインに置いた作品だ。そこには「アメリカ」の姿はない。そして「日本」という国もない。従来のアニメがついてきた「嘘」が、『機動戦士ガンダム』では「現実」とされた。

だが、それにも関わらず、『機動戦士ガンダム』は「アメリカ」と「日本」を見事に描ききった作品だったとぼくは思う。
アムロ・レイに戦後日本の精神風土が反映されていることはその一例だろう。
つまりは「嘘」の世界に意識的に飛び込むことで、その「嘘」を内側から食い破ってしまった作品が『機動戦士ガンダム』だったのではないか、なんて感じにぼくには思えるのだった。

つづく

機動戦士ガンダム ホワイトベースと平和憲法

ホワイトベース

マジンガーZ』に始まる”スーパーロボットもの”のストーリーを一言で言えば、役に立たない自衛隊になり代わって、民間の戦闘用ロボットが侵略者の魔の手から日本の平和を守っている話、となるだろう。そして劇中では、そういった民間人による自衛の行為が「正義」だと見なされてきた。

俺はDr.ヘルの野望を叩くために、このマジンガーZを正義のために使うことを、今ここに誓う
これは『マジンガーZ』第2話の兜甲児のセリフだが、甲児にとっての「正義」を具体的に言えば「Dr.ヘルの野望を叩く」ことになるようだ。

が、果たして甲児がこの言葉どおりの行動をとっていたかと言うと、そうとは言い切れないことは事実だろう。
そもそも「世界征服」を狙うDr.ヘルがどうして毎回毎回日本に現れるかと言えば、それは日本の光子力研究所だけが保有する「光子力」や「超合金Z」を手に入れるためだ。それだけがヘルに対するアドバンテージなので、当然のごとくマジンガーZの任務は光子力研究所を死守することが第一となる。
その結果、『マジンガーZ』における戦場は、そのほとんどが光子力研究所の所在地である富士山麓で展開された・・・。


これを、番組を続けていくための方便だと考えるのは大人の事情。
子どもからすれば、どうして甲児はエーゲ海にあるDr.ヘルの本拠地に攻め込まないんだろう? という疑問が沸いても不思議ではない。

だが、長じるにつれてその謎は解けていくはずだ。
甲児が海を渡ってエーゲ海まで進軍しない理由・・・。それは「平和憲法」にある。

ぼくらの時代は、たしか小学校6年生でこの「平和憲法」について学んだような記憶があるが、要は日本は専守防衛以外の軍事行動を禁止されている。いかにマジンガーZが民間所有のロボットとはいえども、戦闘用であることは一目瞭然だ。そのような兵器が海外渡航をするなんて、およそ許されることではない。なるほどね~。

結果として甲児は、いかにもDr.ヘルの「世界征服」の野望から日本を、さらには世界を守っているかのように見せながら、その実態は静岡県あたりの一部の地域を守っているだけだった。ちなみにこの構図は同時期の『ゲッターロボ』にも見ることができる。光子力研究所の代わりに早乙女研究所が存在し、やはりそこにもゲッター線という敵に対するアドバンテージが存在した。

と言って、別にぼくはそれらの設定をバカにしたり否定したりしているわけじゃあない。
憲法9条を逆手にとって、戦闘地域を無理なく限定するなんて、なかなか考え抜かれた設定だろう。たかが一体のロボットで世界中の戦闘に駆けつけるなんて、最初から不可能なことだからだ。

しかし、それを「正義」だと言い切ってしまうのはどうだろう?
たしかに光子力研究所の持つテクノロジーを悪用されないために守り抜くという思いは正しいのだろう。だが光子力研究所の存在自体が、近隣都市に戦乱を強いていることも事実だ。また、ヘルの地震兵器によって日本各地が災害に見舞われ、その中止と光子力研究所が交換条件に使われるというエピソードもあった(参考記事 - マジンガーZと市民運動)。

要するに、甲児の言う「正義」は、多大な犠牲の上に成りたつ「正義」だった。
もちろん、だからと言って無防備主義者の言うように「光子力」や「超合金Z」をDr.ヘルに渡してしまえ、ということではない。それでは単に、悪事に協力する行為でしかない。
そうではなく、この「正義」の本質、正体とは何か? ということを考えたい。
答えは『機動戦士ガンダム』の中にあるとぼくは思う。



ということで、ようやく本題に入ったわけだが、まず整理しておきたいのが『マジンガーZ』と『機動戦士ガンダム』の類似点だ。特に、戦闘の中核である「基地」、それぞれ光子力研究所とホワイトベースがそれに当たるが、そこには少なく見積もっても三つの共通点があると思う(※ただし初期のミッション遂行中のルナ2からオデッサあたりまでの話)。

めんどくさいのでストーリーは省略するが、まず第一点は、その存在自体が敵の目標であること。
第二に、中にいるのが非戦闘員中心(および非戦闘員に限りなく近い新米の軍人)であること。
第三に、専守防衛であること。

宇宙空間を飛行できる軍艦と、地上に建造された研究所。
見かけは全く異なる両者だが、その実態はこれほど似ている。いや、似させられているというべきかもしれない。
だから当然の帰結として、『マジンガーZ』で起こったのと似たような事件が、ホワイトベースでも起こり得る。

第11話「イセリナ、恋のあと」。
サイド7を脱出したホワイトベースは、執拗なシャアの追撃を交わしつつ、地球へと降りてくる。
目的は二つ。一つはホワイトベースやガンダム等の新型兵器を連邦軍本部に届けること。もう一つはサイド7で収容した避難民を、安全な連邦の勢力圏まで連れていくこと。アムロ自身も避難中の民間人の一人だったが、生き延びるためにやむなくガンダムに乗り込んで戦っていた。

ところが避難民のなかには、自分は戦おうともしないで、他人に我が身の安全を要求するだけの者たちも多くいた。彼らはホワイトベースが北米大陸に到着すると、そこがまだジオン軍の勢力圏であるにも関わらず、自分たちだけをホワイトベースから降ろしてくれと騒ぎだした。その理由がこれだ。
ジオンが狙っているのはホワイトベースとガンダムだ。わしらは関係ねえ

この避難民の主張が、『マジンガーZ』で光子力研究所をDr.ヘルに明け渡せとデモを起こした民衆(?)の主張とまったく同じものであるとは明白だろう。

つづく

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