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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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銀河鉄道999(劇場版) 〜鉄郎とテロリズム

鉄郎とハーロックとメーテル

さて、『ガンダム』に続いては、当然ながら同じく富野監督の代表作である『伝説巨神イデオン』に話を進めたい。

すでに延々と書いてきた通り、ぼくは『ガンダム』という作品は、戦場を舞台とした青春群像劇を展開する裏側で、既存のヒーロー番組の「嘘」をことごとく撃破していった解体者だったと思っている。
その結果、あれほど隆盛を誇った横山光輝や石ノ森章太郎、永井豪といった大御所の世界観は、『ガンダム』登場後はその活躍の場を失ってしまった。おそらくこの点については、いま40~45才ぐらいのオッサンであれば、リアルに体験した共通認識なんじゃないかと思う。

では、そんな解体者、富野監督が次に粉砕すべき相手は誰なのか?
「おとなの嘘」をついているのは誰なのか?
言うまでもない。マンガの神様にして、日本のアニメの創設者、手塚治虫以外誰も残っていない。
『伝説巨神イデオン』とは、富野監督が手塚解体に向けて放った刺客だったのだ!


【注意!】このあとしばらく手塚治虫の話題が続きます。俺は富野とイデオンにしか興味はねえ!という方は、こちらの記事までスキップしてみてください。

逆襲のジャミラ - 富野監督と戦後民主主義


・・・てな感じで話を進めていこうと思うわけですが、とある手塚解説書によりますと、「もし彼を論ずるのなら、当然のことながら、少なくとも彼の全作品を読んでみる必要があるだろう」とのことです。全くおっしゃる通りです。

ところが、あらかじめ白状しておくと、ぼくは手塚先生のマンガはほとんど読んでいないのです。『ドカベン』目当てで買っていたチャンピオンに掲載されていた『ブラックジャック』、それと『火の鳥』『ブッダ』ぐらいが、ぼくが少年時代に読んだ手塚作品でした。しかも、本当に面白いと思って読んでいたかというと疑問もあって、そろそろ背伸びしたい年頃のクソガキが、権威あるものから教養を得る、くらいの気分で『火の鳥』を買い集めていたような記憶があります。

そんな体たらくですので、手塚通の方がこの先を読むと腹が立つ可能性がありますのでご注意を。


・・・と、先に予防線だけは張っておいてサッサと本題に入りたいところだが、また例によって回りくどい前置きを(笑)。

ちょうど『機動戦士ガンダム』の初回放送が低視聴率にあえいでいた1979年の夏、松本零士原作のアニメ映画が公開された。『銀河鉄道999』だ。
Wikipediaによると、「配給収入は16億5000万円。1979年度の邦画の第一位で、これはアニメ映画史上初の快挙だった」そうで、「1970年代後半から1980年代前半に巻き起こったアニメブームを代表する作品の一つ」とのことだ。

あらすじは長くなるのでこちらを参照していただきたい(銀河鉄道999(1979) - goo 映画)が、簡単にまとめてしまえば、星野鉄郎という自分では「機械の体」を買えない貧乏な少年が、それをタダでくれるという星まで宇宙を旅をする話だ。ただ、星野鉄郎にはもう一つ、自分の母親を殺害した「機械伯爵」なる人物に復讐を遂げたいという思いもあった。

そして『銀河鉄道999』において、テーマと目されるものが出現するのは、実はサブストーリーと思われた復讐劇の方だった。復讐を遂げた星野鉄郎は、協力してくれたキャプテンハーロックにこう言う。

「機械伯爵や機械化人を見ていると、永遠に生きる事だけが幸せじゃない、限りある命だから人は精一杯頑張るし、思いやりややさしさがそこに生まれるんだと、そう気がついたんです。機械の体なんて、宇宙から全部なくなってしまえと」

すなわち、「限りある命の尊さ」、それが『銀河鉄道999』のテーマである。とはWikipediaにも書いてある。
星野鉄郎の元々の旅の目的は自分自身が機械の体になることだったが、それは間違っていた。寿命があるからこそ、人は「精一杯頑張る」し、「思いやりややさしさがそこに生まれる」ことに鉄郎は気がついたのであった、と。

・・・何か変だ。

人間の命に限りがあるなんて当たり前のことで、限りがない「永遠の命」を持っているのは劇中の機械化人だけのことだ。となると、ありもしない架空の事象から、この作品のテーマは導き出されていることになる。
それは果たしてテーマと呼べるようなものなんだろうか?

それに、鉄郎が劇中で知っている事実には、実はこのテーマに相反してしまうものがある。
ガラスのクレアさんの存在だ。
999号でウエートレスをしているクレアさんは、機械の体でありながら「精一杯頑張る」し、「思いやりややさしさ」があって、もちろん「人間狩り」などしない。このことは、旅の最初からずっと鉄郎自身が確認できたことだ。
そしてその反対に、生身の体でありながら「精一杯頑張る」ことをせず、「思いやりややさしさ」を持たない人間がいることを、他ならぬぼくら当時の少年少女自身が知っている・・・。

鉄郎のセリフはこう続けられる。

「ぼくたちは、この体を永遠に生きてゆけるからという理由だけで、機械の体になんかしてはいけないと気がついたんです。だからぼくは、アンドロメダの機械の体をタダでくれるという星へ行って、その星を破壊してしまいたいのです」

クレアさんに見られるように、体が生身か機械かはその人間性とは一致しない。
が、鉄郎は機械の体は間違っていると言う。これは鉄郎個人の考え方であって、そうは思わない人もいるだろう。残念ながらこの時の鉄郎の発言だけでは、機械の体のおかげで病気がちの肉体を克服できた人に、元の体に戻れと説得することはできないと思う。

そうして見ると、この後に展開される鉄郎の戦いとは、実のところ一種の思想戦なんだと思えてくる。
キリスト教が正しいのか、それともイスラム教が正しいのか。
鉄郎は生身の体が正しいと言い、機械化母星のプロメシュームは機械の体が正しいと言う。お互いに譲ることはない。

そして鉄郎はおのが信条に基づいて機械化母星に乗り込むと、機械化母星を破壊してしまった。
元は生身の人間であった、多くの機械化人たちが宇宙の藻屑となっていった。
鉄郎は「永遠の命」の大量虐殺と引き替えに、「限りある命の尊さ」という思想を守ったのだった。


・・・そのような鉄郎の行為を、一般的にはテロリズムという。

「限りある命の尊さ」と聞けば聞こえがいいが、裏を返せばその実態は、「永遠の命」の人間は尊くないというのが『銀河鉄道999』で表されたことだ。これは何とも不思議なテーマだ。クレアさんはその例外として扱われているが、それは彼女が「限りある命」に戻ろうとしているから「善」であるという、強調表現のひとつなのだろう。

要するに、『銀河鉄道999』は、テーマと言われているものと全体のストーリーの間に、かなりの乖離がある作品なのではないか? 
というか、ぶっちゃけ「限りある命の尊さ」なんて、後から取って付けた「テーマ」だったんじゃないか?
そして「テーマ」を取っ払ってみたとき、そこにあるストーリーから自然に読み取れるものが、何か他にあるんじゃなかろうか?

つづく

わが青春のアルカディア(キャプテン・ハーロック)

キャプテン・ハーロック

ネット上、あるいは書籍に残されている松本零士氏のインタビューを読むと、繰り返し語られている話題が3つほどあるように思う。大雑把にまとめると、一つは「人類は人種の壁を越えて仲良くするべきだ」という、氏の基本的な主張。それと、友情の大切さ。加えて、氏の戦争体験だ。
もちろん、これらは密接に関わっているわけで、悲惨な戦争体験を味わった松本零士が、その解決策に「人種を越えた友情」を見いだしたのだ、と聞けば極めて一貫性のある話だろう。

例えば、とあるインタビューで松本零士はこんな話をしている。

「世界中の読者あるいは、同年代にも伝えたいのは、私は世界中がお互いに理解し合い、仲良く暮らしていきたい。そのためにも、思想、宗教、信条、民族感情、これに土足で絶対に踏み込んではならない。お互いに敬意を払いながら楽しく仕事を続けていきたいし、またそう言う物を描きたい。(中略)だから、地球上で争っている場合ではない。どこの国の人とも仲良く、お互いに敬意を払いながら、穏やかに楽しく暮らしていきたい。そのために、この仕事をしているんだという断固たる想いがあるわけです」(夢は叶うー ~松本零士~ asianbeat)


実際、2001年に公開される予定だった新作『宇宙戦艦ヤマト』は、そんな氏の主張を反映して「多国籍的な乗組員」になる予定だったそうな(『宇宙戦艦ヤマト伝説』フットワーク出版社)。そういえば劇場版『銀河鉄道999』(1979年)でも、トレーダー分岐点などで「多国籍的な」人々が都会で共存している様子が描かれていた。
人種の壁を越えて仲良くすることが、氏の考える人類の未来像であったことは確かなのだろう。

1982年公開の『わが青春のアルカディア』(原作・構成・企画 - 松本零士)でも、もちろん「友情」は大きなテーマとなっている。ハーロックとトチローの時を超えた友情、地球人とトカーガ星人の人種を超えた友情は、このアニメ映画のストーリー上の根幹だろう。やはり松本零士の思想は、一貫して劇中で描かれているわけだ。

ところがさすがに「キャプテン・ハーロック」といえば松本ワールドの中心人物だけあって、その劇場版ともなると、まさに松本零士その人自体でもあった。氏の戦争体験すらが『わが青春のアルカディア』には描かれていたのだ。
それを言葉で表すとこうなる。

「それから亡国の悲哀ね、国が破れるということがどういうことなのかということは、子供心にもイヤっていう程味わいましたね。B29の大群に追われ、機銃掃射も受けている、その記憶がまだ生々しい内に占領軍がやって来て、そんなるつぼの中で暮らしていたんですよ。あの頃の私たちの扱いって、本当に動物以下でしたからね。
 と言っても、ひとりひとりの兵士に対しての憎しみは起こらないですけどね。中には優しい人もいるわけでしょ。ただ占領軍全体となると『絶対に施しは受けない』っていう気概は子供ながらに持っていましたね。占領軍兵士が投げてくるキャンディーなどは踏み潰して歩いてましたから」(松本零士インタビュー ルーフトップ★ギャラクシー


そして、以下が映画のあらすじだ。


『わが青春のアルカディア』の世界では、宇宙は「イルミダス」という宇宙人の侵略に脅かされていた。地球も例外ではなく、抵抗むなしくイルミダス地球占領軍に統治される状態だった。ハーロックは実戦英雄賞をもらうほどの名将だったが、いまは難民引き揚げ船の艦長でしかない。
イルミダス人は地球人を奴隷扱いにしていて、「この薄汚い黄色のネズミめ」とののしって、手に持っていた「フライドチキン」を投げつけてくる有様。さらにイルミダス人は地球人を評してこう言う。
「地球人はすぐに新しい環境に順応する。つまり、昨日まで敵だとわめいていた我々に、今日は尻尾を振ってついてくる

続いてハーロックには、地球人の義勇軍を組織して、トカーガ星を滅ぼしに行けという命令が下る。命令を持ってきたのは「協力内閣首相」のトライター氏だ。彼は、イルミダスに協力すれば地球の安全は保証される、だからトカーガを滅ぼしてイルミダスへの忠誠を示すべきだと言う。
もちろんハーロックはこの申し出を断り、腐りきった地球を脱出しようと、宇宙貿易人エメラルダスの宇宙船を奪おうとする。するとそこに地球占領に協力させられていたトカーガ人のゾルたちがやってきて、その船は自分たちがトカーガに戻るために使わせてくれと言ってくる。イルミダスが地球占領のためにトカーガ人を利用し、用済みになったトカーガを今度は地球人の手で滅ぼさせようとしていることに気付いた彼らは、手を取り合ってイルミダスへの抵抗を誓う・・・。


さて、以上のストーリーが意味しているものは至って明快なものだろう。「地球」を「日本」に入れ替えればいい。
戦争に敗れてアメリカに占領された日本。そして、アメリカの命令で他国の侵略に向かわせられる未来の日本が、『わが青春のアルカディア』で描かれた「世界」だ。氏のインタビューでの発言こそが、その裏付けだと言えるだろう。

私見だが、『わが青春のアルカディア』では、この強烈な世界観の方が、テーマとされている「友情」よりもはるかに強いインパクトを持っていたように思える。「友情」テーマは『巨人の星』でお腹いっぱいというぼくらだったが、そこには確かにリアルな「敗戦」が存在した。さらには戦勝国アメリカに「尻尾を振ってついて」いった、日本の「戦後」が存在した。

そしてもしも松本零士が、そんな忘れられつつある日本の「敗戦」と、高度経済成長後の見えにくくなっている日本の「戦後」を描く作家なのだとしたら、『銀河鉄道999』にもまた違った光が当たるだろう。
それは、人間世界全てを覆い尽くそうとする「機械化グローバリズム」への抵抗の物語だと考えることができるはずだ。ぼくが『999』での鉄郎の戦いを「思想戦」だというのは、鉄郎が解放しようとしたものが、他ならぬ、機械化至上主義という単一の価値観に「占領」されてしまった「心」だと思うからだ。

上掲のインタビューで氏も言っている。
「思想、宗教、信条、民族感情、これに土足で絶対に踏み込んではならない」

ハーロックにせよ星野鉄郎にせよ、それらに「踏み込んで」くる者と戦うためのレジスタンスでありテロだった。
劇中の主人公たちには、そのような暴力的な手段しか選択肢がなかった。
・・・だが、少年少女が見るアニメ映画が、テロを推奨するようなものであっていいはずがない。そこでは美しく、希望に満ちた言葉が語られなければならない・・・。


などと、今さら力説するような話じゃないんだが、要は、子どもが見れば「限りある命の尊さ」だったり「時空を超えた友情の尊さ」だったりする映画が、おとなから見れば悲しい現実を描いていることが分かる・・・なんてのは良くあることだ。前回の記事では散々煽ってみたものの、テーマとストーリーが乖離しているのは、少年向け作品の宿命なのかもしれない。

ならば何故、いま『イデオン』のカテゴリで松本零士について触れているのか。
それは『銀河鉄道999』が、ストーリー上の矛盾を抱えるリスクを押してでも選んだ言葉、すなわち「限りある命の尊さ」という「テーマ」が、ある偉大なマンガ家の「テーマ」に寄生することで、その過激なテロ思想が露呈することを回避したような気がしているからだ。

つづく

前回の補足・・・

せくしー

前回の記事は、自分で読み返しても何が言いたいのやらサッパリ分からないので、その補足から。

キャプテン・ハーロック『わが青春のアルカディア』で描かれた世界観が、あの日本の敗戦そのものであったことには疑いを挟む余地はないだろう。また、1982年の段階で、その後に日本が辿ることになる未来を描いていたことも同様。
問題は『銀河鉄道999』の方だ。

機械化帝国とは、一体何を表すものなのか?
ぼくはそこには、やはり松本零士の実体験が投影されているんじゃないかと思う。すなわち、「焼け跡世代」が見た、二つの価値観の対立と、新旧の交代劇だ。交代劇というと聞こえがいいが、要は、古い日本の価値観が、新しいアメリカ流の価値観に征服、占領されていく有り様をこの世代の人たちは見た。それが70年代の特撮やアニメに落としてきた影については、すでにあちこちに散発的に書いたことなので繰り返さない。

『銀河鉄道999』においては、アンドロメダという、言ってみれば海の向こうから来た価値観によって、全ての人間世界が覆われていく様子が描かれている。そしてその価値観の内容(永遠の命)はとても魅力的なものであり、それ自体が「悪」だとは言い切れないものがある。
しかし星野鉄郎はその価値観を「悪」だと考えた。ただしそれは、鉄郎の個人的な考えでしかないことは明らかで、機械の体とその人間性の間には完全な一致はない。機械だろうが生身だろうが、善人は善人だし、悪人は悪人だ。

問題があるとすれば、それは本来対等であるはずの二つの価値観の間にはハッキリとした上下関係があることで、それが支配と差別の構造を産み出していることだ。
もちろん、戦後の日本にそのような構造があったと言う訳じゃないが、日本人が受け入れたアメリカ式の価値観が、「正義」と名を変えてそれ以外の価値観を破壊しようとしたことは、歴史上の事実として多数残されている(そしてそれはまた、現在進行形でもある)。

つまりはこれは、東京人と大阪人が、ソバかうどんかを巡って言い争っているような構図ではない。
機械化原理主義は絶対的な価値観であり、他は一切認めない、という構図だ。
そして『銀河鉄道999』の世界では、人々はその価値観に盲従した。現実の東欧でソビエト支配へのレジスタンスが起こったり、中東の人々がアメリカ流に断固として抵抗したような姿はここにはない(ここでは続編は無視しています)。

だからぼくは、『銀河鉄道999』の人間世界には、戦後の日本が投影されていると思うわけだ。


※念のため書いておきますが、鉄郎がテロ行為に走ったからと言って、『銀河鉄道999』はいわゆる左翼暴力革命を支持するような作品ではないでしょう。まず、鉄郎の主張していることは「本来の姿に戻れ」ということで、立場は明らかな「保守」となります。また、機械化帝国は人間世界を統治するものではないので、いわゆる「反権力」でもないでしょう。鉄郎は権力機構という形あるものを破壊したのではなく、それがまき散らす価値観の大元を破壊しただけ。
それゆえぼくは、鉄郎の戦いを「思想戦」だと言うわけです。


・・・3行くらいで終わらせるつもりが長くなってしまったので手短にまとめたいが、そうして見ると『銀河鉄道999』と『わが青春のアルカディア』はいたって似たようなテーマを構造として持つ作品だと思えてくる。

松本零士氏自身の主張する、心情的テーマとでも言うべきものは、男と男の友情であったり、民族の共存であったりと、「世界中がお互いに理解し合い、仲良く暮らしていきたい」に繋がっていくものだ。これは松本作品をみれば、大抵どこかしらに描かれていることだ。
一方、松本作品に横たわる世界観は「敗戦」であり「戦後」だろう。これを表現上のテーマと呼んでみることにする。

ただし、そのうちのいずれがインパクトを持つかと言えば、ぼくはそれは後者、表現上のテーマの方だと思う。
氏の実体験からくる「敗戦」「戦後」の描写には、ぼくら戦後生まれが決して描くことの出来ないリアリティが存在する。大げさに言えば、血の叫びみたいなもんだ。

一方、前者、心情的テーマの方は失礼ながら、いかにも優等生的発言のような気がするし、理想論の域を出ないようにも思える。別に反対する理由もないので、お愛想で頷いておこうかといったところか。

無論、このように作品を通して共通のWテーマを持つ人は松本零士に限った話ではない。
作家である以上、何らかの一貫したテーマを掲げるのは普通のことだし、その一方で本人の自覚とは無関係に、あふれ出てしまう本音のようなものもあるだろう。

それが端的に表れているのが、氏が敬愛し、「初期の希少な漫画本を多くの資料と共に保管」(Wikipediaより)しているという、手塚治虫だとぼくは思う。

つづく

手塚治虫のテーマ「生命の尊厳」

ぼくのマンガ人生

いつまでも脱線していてもキリがないので、ざっくばらんに行きたい。
ぼくは劇場版『銀河鉄道999』における「テーマ」だと言われる「限りある命の尊さ」は、松本零士にとっての心情的なテーマとも表現的なテーマとも別に、それらの上に半ばムリヤリ載せられた言葉なんじゃないかと考えた。要は、お飾りというやつだ。

それでは、松本零士ご本人は、その点についてどうお考えになっているのか。

「私は機械化したい人間がいれば機械化すればいいし、生身で生きたいならそれはそれでいいのではないかと思う。どっちが幸福であるかは、その人の人生が終わってみなければわからない」(『完全版 銀河鉄道999 PERFECT BOOK』(宝島社/2006年)


と、まあ見てのとおりで、そんなもんはどうでもいいと氏は考えているようだ。
少なくとも、氏にとっての『999』のテーマはそんなところにはない。ぼくには、そう聞こえる。

じゃあ誰が、『999』に原作者ですら意図していないような「テーマ」を与えたのか。
常識的に考えれば、そんな権限がある人間はただ一人だろう。監督の、りんたろう氏だ。

・・・といった辺りで、古くからのアニメファンであれば、この先の話は容易に想像がついてしまうだろう(笑)。
アニメ監督としてのりんたろう氏のキャリアは、手塚治虫率いる虫プロダクションからスタートした。氏が虫プロ時代に手がけた作品としては『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『ムーミン』などがあげられる。とWikipediaにはある。

で、今からは想像もつかない話だが、『アトム』や『ジャングル大帝』の時代、アニメはPTAやマスコミからひどく害悪視されていたそうだ。

『鉄腕アトム』がテレビ放送された当時は、新聞でよく叩かれました。子どもに悪影響を与えると(笑)。サブカルチャーの端っこにいましたよ。でも、子どもには世間の批判など関係ないわけで、それは今でも同じだよね。世間の良識とは断ち切れたところに子どもたちはいて、自由に観ていたと思う。当時批判していた連中は手のひらを返したように日本のアニメーションは素晴らしいと言っている(笑)(『よなよなペンギン』りんたろう監督単独インタビュー/紀伊國屋書店Forest Plus)


ざっくばらんに行きたい。
1986~88年に手塚治虫が行った講演をまとめた『ぼくのマンガ人生』(岩波新書)のなかで、手塚治虫は再三に渡って”『生命の尊厳』がぼくのテーマ”だと語っている。それは「ぼくの信念」であり、「根本的」なテーマなのだと。

おそらくこうした手塚の主張は、マンガやアニメを取り巻く批判の逆風に立ち向かうべく、統一されたものなのだろう。たしかにマンガやアニメには暴力シーンも破壊シーンもあれば、人も死ぬ。だが、それらは、そうした描写を通じて子どもたちに「生命の尊厳」を伝えるための方便なのだ。と言えば、だいぶ聞こえが良くなる。

もちろんこの間の手塚の苦悩、苦労を、りんたろう氏が知らないはずはない。
「生命の尊厳」と「限りある命の尊さ」・・・。ざっくばらんに言って、非常に似ている・・・。

手塚の努力が実ったか、1979年にもなるとアニメもようやく市民権を得るようになった。りんたろう監督の『銀河鉄道999』は、その年の邦画興行成績の第1位という偉業を成し遂げた。
だが、ぼくに言わせれば同じような主張と世界観を持っているはずの、『わが青春のアルカディア』は惨敗した。アニメ史を語るような本をみても、今ではそのタイトルが出てくることすら稀だ。

ぼくにはこの両者の差は、「宣伝」や「看板」の差にもあったように思える。
ざっくばらんに言えば、そこに手塚的テーマの「生命の尊厳」があるかないか。それは『999』にはあって、『アルカディア』にはなかった。

そんな手塚的テーマを、人は「手塚ヒューマニズム」とも呼んだ。

話がぜんぜん進まないが、つづく

手塚治虫とヒューマニズム

本

(ご注意!)以下の記事は、『ガンダム』や『イデオン』は好きだが手塚治虫には興味がなかった、というような人向けに書いたニワカ勉強の結果です。話を手短に簡略化してありますので至らぬ点もあるかと思いますが、鼻であしらっていただけますようお願い申し上げます。



ヒューマニズムという言葉にはいろいろな意味があるようだが、もともとは(神中心ではなく)「人間中心主義」と訳出された概念で、今日の日本では「人道主義」や「博愛主義」を指すことが多い・・・とWikipediaには書いてある。

手塚治虫が自身のテーマだと主張する「生命の尊厳」は、いかにも「人道」っぽいし「博愛」っぽい。手元にある秋田文庫版の『W3(ワンダースリー)』第2巻の帯には、「手塚治虫の人間愛に輝く。人間愛の完結編」とあって、なるほど手塚ヒューマニズムとは「人間愛」のことを指すのかと納得させられる。

が、どうも手塚評論の最前線では、「人間愛」で手塚を語るようなことは、ほとんどなかったようだ。
1989年に出版された『マンガ批評大系●別巻 手塚治虫の宇宙』(平凡社/竹内オサム・村上知彦編)には、1950年以降に発表された代表的な手塚評論が年代を追って収録されている。

その中でぼくの目に付いたものをあげてみると、まず佐藤忠男氏は手塚作品に「ペシミスティック」という言葉を使っている。開高健氏は、手塚の主題は「対立」であると言う。呉智英氏は、手塚作品に共通する姿勢を「あらゆる価値を突き放して見ているような、不信の姿勢である」と言う。

さらに面白いのがこれ。
1990年発行の講談社現代新書『手塚治虫ー時代と切り結ぶ表現者』のなかで著者の桜井哲夫氏は、手塚本人が自分のストーリーマンガの第一作だと言い切る『地底国の怪人』(1948年)を評して、このマンガの重要なポイントは「人間中心主義(ヒューマニズム)からの脱却」にあったと述べられている。

パラパラ読んだだけで真意を取り違えている可能性もあるので、興味のある方は元の本に当たっていただきたいが、とにかく手塚に詳しいプロの文筆家や大学教授のみなさんが、手塚を「ヒューマニズム」やら「人間愛」といった言葉では捉えて来なかった空気だけは伝わるものがあると思う。

じゃあそれは一体何なのか。
手塚にとって「ヒューマニズム」や「人間愛」には、どういう意味があったのか。


2002年にrockin' onから出版された『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』(宮崎駿)という本の中で、インタビュアーの渋谷陽一がこんな話をしている。

「僕は一度、手塚治虫にインタヴューしたことがあるんです。で、ヒューマニズムについてちらっと話したら怒りだしちゃいましてね、手塚さんが。『もう、やめてくれ! 俺についてヒューマニズムというな、とにかく。俺はもう言っちゃ悪いけど、そこらへんにいるニヒリズムを持った奴よりもよほど深い絶望を抱えてやってるんだ』と」

「『ここではっきり断言するけど、金が儲かるからヒューマニストのフリをしているんだ。経済的な要請がなければ俺は一切やめる』と、もういきなりシリアスな顔をして怒られましてねえ」


まあ特に説明はいらないだろう。「ヒューマニズム」でも「人間愛」でもいいが、それはつまりは商売上の看板であり、宣伝文句だったということだ。プロの批評家が、そんな程度のことを見抜けぬはずはない。
話のついでに記しておくと、しばしば”手塚ヒューマニズムの集大成!”みたいに宣伝されることの多い『ブッダ』。それについても、手塚本人がこんな話をしている。

「逆にアトムのように、モラルで塗り固められた善人には、たいへん反発というか異質なものを感じて避けたくなることだってあります。『ブッダ』の終わりのほうなどは、早くやめたくなって、なんでこんなものを描き出してしまったんだろう、と思うくらい嫌悪を感じたこともありました」(『ガラスの地球を救え』手塚治虫/光文社智恵の森文庫)


ぼくのようなひねくれ者は、こんな話を聞くと何だか痛快な気分になって、手塚治虫という人物に親近感が湧いて来てしまうわけだが、それはさておき話を戻すと、一般に言われる「ヒューマニズム」やら「人間愛」といった「テーマ」が、その実態は商売上の看板であり宣伝文句であることが、ご本人の発言から分かった。

が、それは長年手塚が掲げてきた「生命の尊厳」というテーマに「経済的な要請」が結びついての結果であって、手塚本人がもとより意図したことではないだろう。「生命の尊厳」自体は、松本零士における「友情」のように、手塚の心情的テーマとして確かに作品中に存在していると思う。

それでは、松本零士で見られる「敗戦」「戦後」、すなわち表現上のテーマは、手塚の場合は何に見いだせるのだろう。

だらだらと長くなってしまったので、つづく

手塚治虫 ロストワールド・メトロポリス・来るべき世界

初期SF三部作

ぼくが勝手に「表現上のテーマ」と呼んでいるものは、遅くとも思春期までの期間に、いつの間にか脳の奥底あたりに形成されるものだろう。おそらくそれは、作家の人格そのものとも結びついていて、相当に意識しない限り作品から除外することは難しいことであるように思う。

『ロストワールド』『メトロポリス』『来るべき世界』の三作を合わせて、「初期SF三部作」と呼ぶそうな。
これらは、1948~51(昭和23~26)年に相次いで発表された長編なわけだが、当時の手塚治虫はまだ20才を過ぎたばかり。ある程度までは思うがまま、自由に筆を走らせていたことだろう。まさか、自分を客観視して本音を押し殺す・・・ような芸当はまだ考えもしない時代だったと推測する。

というわけで、この初期SF三部作をざっと眺めてみれば、そこからは手塚治虫青年の生の声が聞けるように考えるのはぼくだけではあるまい。果たしてそこでは、手塚治虫中年の言うところの「生命の尊厳」は大いに語られていたのか。
(以下にあらすじを記したいが、長いのはウザいので極限まで要約します。詳しくはWikipediaなどを参照してください)

ロストワールド
地球に接近しつつある「ママンゴ星」の鉱物から膨大なエネルギー源を発見した敷島博士は、ロケットを建造してママンゴ星に到着。しかし人間のみにくい欲が悲劇を招き、搭乗員のほとんどは死亡(ヒゲオヤジのみ帰還)。ママンゴ星に残されてしまった敷島博士は、植物と動物の合体から産み出された”あやめ”と二人、まだ恐竜時代にあるママンゴ星のアダムとイブになるのだった・・・。

メトロポリス
人間の科学力は、ついに「人造人間ミッチイ」を産み出す。しかし、自分が人間でないことを知ったミッチイは作業用ロボットを率いて人間社会に反乱を起こす。科学はいつか人間を滅ぼすかも・・・というエピローグ。

来るべき世界
核実験の影響で生態系が破壊されつつある地球で、米ソがいよいよ全面戦争に突入していたころ、地上には「新人類フウムーン」が誕生していた。彼らはガス星雲の接近による地上の全滅を察知して、ノアの箱船計画をたてて地球を脱出する。その後、米ソ全面戦争とガス星雲の影響で崩壊した人類社会だったが、ガスの正体はただの酸素だった。
しかしいつの日かフウムーンが帰ってくれば、その時こそ人類は本当に滅亡するだろう・・・と締めくくられる。


・・・いくらなんでも短すぎるような気もするので、各作品のエピローグで語られた部分も引用してみる。作品を包んでいる雰囲気が、よく出ているように思う。

「ミイちゃん・・・ぼくたちが死んだり、地球へ帰ってしまったりしたことは、敷島博士やあやめさんにとって、かえって幸福だったかもしれないねえ・・・」(『ロストワールド』)

「ミッチイの一生は終わった。科学の最高芸術である生命の創造は、ただむだに人間社会を騒がせただけであった。おそらくいつかは人間も、発達しすぎた科学のために、かえって自分を滅ぼしてしまうのではないだろうか?」(『メトロポリス』)

「人間が猿を征服したように、いつかは人間以上のものが人間を征服する・・・これは自然の法則です。人類がそれと共存するためには人間同士の争いをやめさせなくてはならない。宇宙へとび去ったノアの箱舟は、いつか近い将来また地球へ戻ってくる・・・」(『来るべき世界』)


さて単刀直入に言うが、この三部作に共通して描かれたものの一点目は、”人間のどうしようもない愚かさ”だろう。
そしてもう一点が、”人類の終わりの日への予感”だ。
※『ロストワールド』は人類破滅を具体的に口に出してはいないが、地球人類が滅んだ後でもまだ若いママンゴ星で、人間と植物のハーフである新人類が種としての青春を謳歌しているイメージが残されていると思う。

アトムは僕が殺しました ー手塚治虫のこころ』(田中弥千雄/サンマーク出版)という本によると、手塚はこうした「SFマンガへの指針を与えてくれた作品として、チェコの作家カレル・チャペックの『山椒魚戦争』などをあげていたことがある」そうだ。SF的なストーリーとはこういうもんだ、というお手本は存在したというわけだ。

だが、その中で描かれる、執拗なまでの人間の愚かさはどうだろう。
出てくる奴はどいつもこいつもカネに目がくらみ、地位や名声に固執し、人を裏切り、自己保身に走る。正しい情報を伝えても煽動者に惑わされ、やることなすこと打つ手が遅い。身近で些末なことには神経を使うが、物事を大局的に見ることは放棄する・・・・。

と、まあそれがぼくを含めた普通の人間というものなんだろうが、コメディタッチの会話やコミカルな動作から目をそらして、描かれた人間たちの行動だけを吟味してみると、そこには正直、あまり希望のようなものは感じられないように思う。むしろ、破滅の日までこの愚行は続くのだという、諦念の方がうっすらと染み出ているような気さえする。そしてそこに「生命の尊厳」はあるかというと、少々頷きがたいというのが実感だ。

もちろん、そんなのはぼくの個人的な感想だと思われる人もいるだろう。
手塚治虫は人間の愚かさを描くことで、それを読む少年少女に未来への警告をしているんだと、そう肯定的に捉える人もいるだろう。

だが、ぼくの見るところ、手塚が抱えている愚かな人間への諦念は、諦念に留まるような浅いものではなかったようだ。それはまさに永遠の牢獄とも言える、終わりなき愚行だった。

『火の鳥』だ。

つづく

火の鳥・未来編 〜手塚治虫のニヒリズム

火の鳥

手塚治虫は『火の鳥』の全体構成を、黎明編から時代を下り、また未来編から時代を遡って、現代編で結実するものとしていた。しかし作品自体が長期化するにつれて、『現代』自体がその時によって変化してしまうため、この初期構想は実現しなかった。(Wikipedia - 火の鳥


いきなり引用からで恐縮だが、『火の鳥』とはそうして構想されたものだった。分かりやすい方で言えば、『黎明編』がヤマタイ国、『ヤマト編』が古墳時代、『鳳凰編』が奈良時代、『羽衣編』が10世紀、『乱世編」が平安末期・・・と順を追って展開され、やがて「現代」を追い越して、最終的には『未来編』に至る。
それを、過去と未来の一番遠いところから、現代に向かって交互に書かれていった点が、『火の鳥』ワールドの特徴だ。

そして、書かれなかった『現代編』についてはこんな意見がある。

「・・・読者はこの欠落部分を補うことができる。それは『火の鳥』以外の手塚マンガをこの欠落部分に押しこむことだ。実は『火の鳥』には、手塚治虫の全作品を包みこんでしまうだけの壮大な枠組みが備わっている。そのようにして『火の鳥』の欠落部分を補っていく過程で、読者は手塚マンガの一つひとつが、『火の鳥』の一部分であったことに気づいていくのではなかろうか」(『アトムは僕が殺しました』田中弥千雄/サンマーク出版


なるほど。アトムやブラックジャックの活躍こそが、書かれなかった『火の鳥・現代編』だということか。
そう言えば初期SF三部作にしても、『ロストワールド』のママンゴ星がその後再び地球に接近したかどうかは不明だし、『メトロポリス』のミッチイの物語だって近未来にはあり得るし、『来るべき世界』のフウムーンたちは地球よりもっと良い星を見つけて平和に暮らしたのかもしれない。
なるほど。初期SF三部作でさえもが、『火の鳥』の一部だったのか・・・。


・・・だが、冷静に考えてみれば、それは一つの棚ぼたではあっただろう。
なぜ初期SF三部作までもが『火の鳥』ワールドに入れるかと言えば、それはそれらが決まって「警告」や「問題提起」に止まり、その先を読者に委ねるスタイルをとっていたからだ。したり顔で、「こんなことでいいのでしょうか・・・」と締めくくるニュースキャスターと同じようなもんだ。

では、手塚治虫から問題を提起され警告を受け続けたぼくら人類は、手塚ワールドにおいて、最終的に一体どうなったというのだろう。
何のことはない。いとも呆気なく、滅亡してしまったのだった。


『火の鳥・未来編』の舞台は西暦3404年の地球から始まる。それからしばらくして、山之辺マサト以外の全人類は滅亡してしまうので、ぼくらの子孫たちの命もあと1400年くらいで終わることになる。
人類の文明は25世紀にその頂点に達したらしいが、そこから以降は衰退期だった。理由は地球という天体自体の衰退で、搭乗員である人類もそれに引きずられた。種としての老化現象を止められない人類は、前向きな気持ちを失い、ついには政治・行政をコンピュータの管理に任せることにした。

コンピュータは5台。現在でいうアメリカ、フランス、ロシア、中国、そして日本(常任理事国の座をイギリスから奪ったらしい)。ところが、そのうちのロシアと日本のコンピュータが些細なことから仲違いを始めて暴走、ついには全面核戦争を引き起こしたのだった。

ただ一人生き残った山之辺マサトは、実は火の鳥から永遠の命を与えられた男だった。火の鳥は山之辺に、新しい人類の創造を命じる。山之辺はそれに従い、生命のスープを海に投じる。長い月日が流れ、一度は死に絶えた海に生命が生まれ、やがて恐竜時代に。その後、ナメクジが文明を築くというイレギュラーがあったものの、ついにほ乳類の天下が始まる。道具を使う人類が現れ、それは急速に発展し、日本の地にはヤマタイ国が誕生した。

「でも、今度こそ」
と火の鳥は思う。
「今度こそ信じたい」
「今度の人類こそ、きっとどこかで間違いに気がついて・・・命を正しく使ってくれるようになるだろう」と・・・。


要するに、一番遠くの未来である『未来編』と、一番遠くの過去である『黎明編』は繋がっていて、火の鳥ワールドは「円」を描く。ぼくらはその回し車のどこかに存在する、何回目かの人類だということだ。アトムやブラックジャックも、何回目かの彼らだということだ。

しかしそれじゃ、手塚がそれまで描いてきた「警告」や「問題提起」には一体何の意味があったというのか。
人類は、生まれては滅ぶを何度となく繰り返し、その循環は途絶えることがない。それは、いずれの人類もが、手塚がさんざん描くように、どうしようもなく愚かだからだ。
ぼくは、手塚の考える輪廻転生論も宇宙論も時間論もよく分からない愚か者だが、ひとつだけ分かることは、この永遠の愚行のループには、夢も希望も存在しないということだ。人間の営みなんぞは、まるで「シーシュポスの岩」のようじゃないか。

これは、ぼくやあなたが手塚治虫の教えをよく聞いて、愚かであることを止めるだけではダメだ。
『ロストワールド』『メトロポリス』『来るべき世界』・・・そこでは、たった一人でも愚か者がいれば、すべてが台無しにされてしまうという悲劇が描かれていたじゃないか。絶対にその一人の愚か者にはならない、という自信はぼくにはない。

率直に言って、ぼくが『火の鳥・未来編』から強く感じるものは、手塚の人間への絶望であって、ニヒリズムだと思う。
そしてそのニヒリズムから、なかば必然的に発展したものが、次のような火の鳥の発言だろう。

「地球は死んではなりません。『生き』なければならないのです。なにかがまちがって、地球を死なせようとしました。『人間』という、ごく小さな『生きもの』です。人間を生みだして進化させたのに、その進化のしかたがまちがっていたようです。人間を一度無にかえして、生みなおさなければならないのです」


要するに、愚かな人間こそが、地球にとって最大の”害悪”だ、という発想だ。

参考:「地球から見れば、人間がいなくなるのが一番優しい」鳩山由紀夫

つづく

宇宙の騎士テッカマン 〜人間害悪説

ランボス・テッカマン・ドブライ

手抜き記事をひとつ。

前回の記事では、人間の愚かにすっかり絶望していた手塚治虫が、そのライフワーク『火の鳥』のなかで、”地球にとっては人間こそ害悪だ”と火の鳥に言わせたシーンを紹介した。ぼくは手塚治虫に詳しいわけじゃないので、もしかしたらもっと以前から、そうした主張を展開していたのかもしれない。
あるいは他に、手塚にそのような主張を持たせるに至った先人がいたのかもしれない。

ただ、先日同い年の友人と飲んだとき、ぼくが鳩山首相の「地球から見れば、人間がいなくなるのが一番優しい」という発言を持ち出したところ、それって『火の鳥』だよなあ~という反応があったので、ぼくらの世代にとっては”人間害悪説”の教祖はきっと手塚治虫なんだろう(別に誰でも構わないわけですが・・・)。

さて、そんな人間害悪説だが、単純にSF的なテーマとしても魅力的だったようで、ぼくがリアルタイムにみていたアニメ番組でも、それを採り入れようとした作品があった。
タツノコプロの『宇宙の騎士テッカマン』(1975年)だ。

ところがこの『テッカマン』だが、Wikipediaによると「制作当時大ヒットしていた『日本沈没』などの終末ブーム、公害などの社会問題など様々なテーマがストーリーに絡められたシリアスな作品である。(中略)しかし、前年の他社のテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』が打ち切りになったように、宇宙ものを当てるのは当時では難しいというアニメ業界のジンクスをこの作品も破る事はかなわなかった。そのため、1年間の予定で構成されたストーリーが本格的に動く前に半年で打ち切られ、多くの謎が残る形となった」

結論から言ってしまえば、要は”幻の”人間害悪説に終わってしまったというわけだ。


(一応、あらすじを)
環境破壊によって死滅しつつある地球の回復に失敗した人類は、宇宙への脱出のため超光速航法(リープ航法)の開発を急ぐ。するとそこに、宇宙征服を企む「悪党星団ワルダスター」が突如襲来。主人公・南城二は超人的能力を持つ「テッカマン」に変身すると、ワルダスターと戦うのだった。だが、リープ航法が実現しなければ、ワルダスターを退けても人類は滅んでしまう。果たして人類の運命は?


で、上に引用したような事情かどうかは知らないが、『テッカマン』は謎も解決しなければ伏線も繋がらず、地球と人類がどうなったのかも分からぬまま、「うおー」と叫んだきり終わってしまった。
そこで、本当はどう終わる予定だったのかを探してみたところ、やはり徳間書店の『ロマンアルバム』は役に立つ。
タツノコプロの陶山智氏の書いた「企画メモ」が直筆のまま掲載されていて、そこにちゃんと第3クール以降の予定が書いてある。

が、直筆といえば資料価値も高く、マニアなら大喜びするところなんだろうが・・・・肝心の文字が読めない。
いや、けっして字が下手くそということではなくて、印刷がかすれていて判別不能な状態なんですよ。
それで弱り果ててネットを探してみたところ、やはりインターネットは役に立つ。
「月の裏側」というテッカマン専門の個人サイトに、その全文がアップされていた。

宇宙の騎士テッカマンブレード個人ファンサイト「月の裏側」

そこからポイントと思われる部分を転載させていただくと、こんな感じだ。

又、ドブライは今まで太陽系の支配、すなわち地球征服と云う目的で、ランボスに指示を与えて来ましたが、果して、ドブライとは何者なのでしょうか?

悪党星団ワルダスターは、小宇宙の一つである”うずまき星雲IF-15”の中にある惑星群の連合体です。しかし、その星雲は地球年にして後10年で宇宙の彼方に飛び散ってしまう運命にあります。
ドブライは数千年も前より(ドブライは宇宙の超意志で死滅することはない)この事を予知し、あらゆる科学力を駆使して、滅亡を食い止めようとしたが、しかし、星雲の運命はドブライの努力にもかかわらず確実にやって来る。そこでドブライは宇宙侵略を開始し、この太陽系にやって来たのである。

ドブライにとって地球は最良の惑星であった(地球の様な惑星は彼が巡って来た宇宙のどこにもなかった)むしろ自分達の星団よりはるかにめぐまれた星であった。彼等の科学力は、今すぐ地球を奪えば公害で汚れた環境を浄化する事が出来る装置がある。
地球は宇宙の何処にもない楽園である。ドブライはその宇宙の楽園を墓場にしてしまう、地球人を憎んでいる。以上の事はランボス以下の宇宙人も城二達も知りません。太陽系への侵略と地球征服はドブライの単なる野望だと思っている。それにランボス達は、自分達の星雲が後10年で滅亡するとは思ってもいない。



ま、そんだけです。

つづく

無敵超人ザンボット3 〜神ファミリーと人間害悪説

脳みそ

ぼくがリアルタイムでみたアニメで、”人間害悪説”と真正面から取り組んだ作品だと思われるものが、富野喜幸(富野由悠季)監督の『無敵超人ザンボット3』(1977)だ。『ザンボット3』の革新性については、今さら言い足すようなことは持ち合わせていないので、Wikipedia - 無敵超人ザンボット3でも読んでいただいた方が早い。

ぼくがここで話題にしたいのは、そんな『ザンボット3』とは、手塚流”人間害悪説”を、富野流に書き換えたものだったんじゃないかと言うことだ。

そもそも富野監督と手塚治虫との縁は深い。富野監督が大学卒業後に選んだ就職先は虫プロダクション。そこでは『鉄腕アトム』の演出を任された。その後、フリーになって初めての監督作品が、手塚治虫原作の『海のトリトン』(1972)。

この『海のトリトン』で、富野監督が手塚治虫の原作を大きく書き換えてしまったことは有名な話だ。
その最終回には、「正義」だと思われていたトリトン族こそが「悪」だという大どんでん返しが待ち受けていて、多くの少年少女に衝撃を与えたそうだ(ぼくは観ていなかった・・・)。
そんな富野監督が、おれは手塚なんて全然知らんよ、と言うとしたらその方がむしろ不自然な気がする。

もちろん、『トリトン』の一例だけをもって、富野監督が手塚の人間害悪説の書き換えを狙って『ザンボット3』を作ったなどということはできないが、一方では、『ザンボット3』が旧来の『マジンガーZ』等への挑戦の意図が込められていたことは事実として広く認識されていることでもある。
作品の見えないところで、監督本人も意図せぬままに手塚に挑戦していたとしても、この人の場合だけは不思議ではないような気が、ぼくにはする。


では、『ザンボット3』が挑戦した(ようにぼくには思える)”人間害悪説”とはいかなるものか。
それを1965ー66年に手塚治虫が連載発表した『W3』(ワンダースリー)に見るならこうだ。

銀河系のすぐれた生物の集まり「銀河連盟」は、戦争を繰り返す愚かな人間たちが住む地球を、存続させるか破壊するかの会議を開いていた。評決は五分五分で、銀河連盟は1年の期限で地球人を調査することになり、W3が派遣された。
いろいろあって、1年後に銀河連盟が出した結論は、
地球という星はいかにも野蛮で危険きわまりない。宇宙に存続を許されない星だということがわかった

反陽子爆弾による地球爆破を命じられたW3だったが、彼らには地球で知り合った真一という少年に命を救われるという過去があった。W3のなかでも、地球爆破推進派だった一人が言う。
おらあね、地球はきらいだけど、あんたは好きなんだよ。あんたは心底から尊敬したよ

W3はそうして反陽子爆弾を持ち帰り、反逆罪をとわれた。追放刑を受けた彼らは、彼らの希望によって地球への流刑が決定、記憶を奪われたのち人間の姿に変えられ、10年前の地球に送られた。実はその姿は、真一少年を影から支えてきた人たちの姿であり、真一と協力してW3の命を救った人の姿だった。

そして地球の中心にはまだ反陽子爆弾が埋まっている、と脅かされた地球人はついに争いを止め、平和へと駆り立てられていくのだった。めでたしめでたし。


以上、大ざっぱなあらすじだが、まず注目したいのが、「銀河連盟」およびW3は、最後の最後まで「地球」すなわちぼくら人類を、野蛮で危険な存在だと見ていたことだ。ただ、圧倒的多数の愚者にまじって、真一くんのような彼ら好みの人間もいたので、地球は救われた。

それと、地球人は決して自分たちの力で平和を勝ち取ったわけではなく、宇宙人と反陽子爆弾という超越者の存在を知って内紛をやめたということ。しかも、その描写はたったの2ページで、W3という異物を排除しようと執念深く攻撃してきた人間の実態を描いたページに比べれば、余りにも少ない。

繰り返しになるが、描かれていたことの大半は、人間の持つ愚かな性だ。他者を信じず、争いを繰り返し、同族で殺し合う人間の野蛮さと危険さだ。そして、ごく僅かな数人を除けば、人間はついに己の愚かさを省みることはなかった。ただ、宇宙人と爆弾の存在が怖くて、戦争をやめたというだけのことだ。
きっと世界政府でも作ったのだろう。



手塚作品に見られる”人間害悪説”の一例として、『W3』に少し触れてみた。安い文庫版も出ているし、読み物としては文句なく面白いので、興味のある方はご一読を。
さて、それでは富野監督は、”人間害悪説”をどのように展開したのか。

『無敵超人ザンボット3』における「銀河連盟」的立場の存在を「ガイゾック」という。人類に攻撃を仕掛けてきたのは、ガイゾックが作ったコンピュータだっだが、その目的は「宇宙の静かな平和を破壊する悪しき考えを持つ知的生命体排除」(Wikipedia)だった。もちろん、人類が宇宙にとっての”害悪”だという立場だ。

これに立ち向かうのは、地球人ではなく、母星を同じくガイゾックに滅ぼされたビアル星人の末裔「神ファミリー」だ。彼らは「この主人公たちが敵・ガイゾックと戦闘し、住宅や避難民などへの被害が出るため、主人公たちは地球にガイゾックを『連れてきた』と誤解され、一般の地球人から激しく非難される」(Wikipedia)。

この誤解はなかなか解けず、地球人の協力も得られない神ファミリーは孤独な戦いを続けるが、やがて主人公の神勝平ら若者たちは、ガイゾック飛来以前の人間関係を取り戻していく。
そして最終回、多くの犠牲を払って、ついにガイゾックのコンピュータを追い詰めた勝平に向けられた言葉はこうだ。

「憎しみ合い、嘘をつき合い、わがままな考え。まして、仲間同士が殺し合うような生き物が、良いとは言えぬ。宇宙の静かな平和を破壊する。我は、そのような生き物を掃除するために、ガイゾックによって作られた。

(中略)最後に聞きたい。なぜ、我に戦いを挑んだ。なぜ。
地球の生き物が頼んだのか。自分たちだけのために守ったのか。本当に、家族や親しい友人を殺してまで守る必要があったのか。悪意のある地球の生き物が、お前たちに感謝してくれるのか。 地球という星が、そのような優しさを・・・。

お前たちは勝利者となった。しかし、お前たちを優しく迎えてくれる地球の生き物がいるはずがない。
この悪意に満ちた地球に、お前たちの行動をわかってくれる生き物が一匹でもいると言うのか」


物語は、傷つき倒れ、寒さに震えている勝平を、かつて非難し石もて追った生まれ故郷の人々が大挙して押し寄せ、迎えてくれる場面で幕を閉じる。


人それぞれ感じ方は違うものだし、いちいちぼくがゴチャゴチャ説明するようなことでもないだろう。
ただ一つ言えることは、もしも『W3』を読んで、人間なんて宇宙から見れば愚かで下等な生物だ!みたいな子どもっぽいニヒリズムに凝り固まった少年がいたとして、そんな彼を、普通の常識的な大人に変えるきっかけとなるものが、『ザンボット3』には確かに存在する。

それはつまり、「銀河連盟」が漠然と言う人間の「野蛮で危険」とは、ここでガイゾックが延々と吐く悪態に他ならないからだ。ここまで人間全てを悪し様に言われ、そんなもんへの抵抗感がかすかにでも湧いてくるのなら、彼はすでに”人間害悪説”から解放されているのだと、ぼくは思う。

本来は地球に対して中立であった神ファミリーが持った愛郷心。
ことさらに人間の愚かさや野蛮さを強調せずとも、あるいは「正義」の御旗を振り回さなくても、子どもに大切なことは十分伝えられる。
『ザンボット3』からは、そんな印象を強く受ける。


つづく