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竹波エーイチ

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風の谷のナウシカ(1) 宮崎駿と左翼思想

nausicaa

コミック版『風の谷のナウシカ』は、ナウシカがシュワの墓所を破壊するところで幕を閉じる。
あそこで壊されたものはいったい何だったのか・・・。

えー今さらナウシカかよ!と言われそうなのでスピード重視で話を進めれば、それは要するに「左翼思想の理想」のようなもんで、それを宮崎駿が破壊したのがあのラスト・・・かも知れないねーというのが今回の記事。

たしかに自分でも今さら目新しさのない話題だと思うわけだが、簡単に陳腐化させるべきではないし、折にふれて語られる意義がある話題だと思うので、あえて記してみたい。

※むかし読んだけど忘れちゃったよーという方は、こちらのサイトが大変よくまとまっていてお勧めできる。
ナウシカの深層

さて、一口に左翼というが、宮崎駿の場合は「心情的左翼」だとご本人が述べている。
左翼的な運動や活動をするわけじゃないが、心の底でその価値を信じて応援している・・・団塊世代以上に珍しくない、ありきたりのメンタリティーだろう。『風が帰る場所』という本の1990年11月のインタビューの中で、聞き手の渋谷陽一に「宮崎さんにとってはやっぱり左翼的な理想主義みたいなものは、いまだに非常に重要な要素を持ってますか」と問われ、

僕はコミュニズムが掲げた理想というのは、やっぱり現実の社会主義が上手くいってなくても、要するに人間はより高くありたいとかより高貴でありたいっていう、人から屈辱を受けたくないとか、そういうことでね、その価値は少しも消えてないと思うんです!


と答えている。コミュニズムの掲げた理想の価値は少しも消えていない、という主張だ。
ところがその後の92年のインタビューではこんな発言(『時代の風音』)。

自分自身がものを考えるようになったときに、左翼になろうかと心情的に思いました。実際は『資本論』も読めなかった人間ですが。いまでもちょっとそうです。
 伝統的なものすべてが戦争に日本人を運びこんだ犯人であって、それを「古い上着よさようなら」と脱ぐしかないんだと。だから礼儀作法も敬語もあえて覚えない。そうするしか、残念ながら自分を確認するよりどころが見つからなかったんです。


「いまでもちょっと」・・・かなりのトーンダウンだ。ちなみに90年というと『ナウシカ』本篇では5巻の後半あたりを描いている時期で、92年だと『ナウシカ』を6巻まで描き上げて中断中、『紅の豚』を制作している時期にあたる。
そしてついに最終回まで完結させた暁にはこんな発言だ。

「ナウシカ」を終わらせようという時期に、ある人間にとっては転向と見えるのじゃないかというような考え方を僕はしました。マルクス主義ははっきり捨てましたからね。捨てざるをえなかったというか、これは間違いだ、唯物史観も間違いだ、それでものを見ていてはいけないというふうに決めましたから、これはちょっとしんどいんです。前のままの方が楽だって、今でも時々思います。
(「よむ」岩波書店 1994年6月号)


ぼくらオッサン連中はテレビでリアルタイムで見たので説明不要だが、若い人向けに一応書いておくと、89年ぐらいから「東側」とか「共産圏」とかいわれた世界が次々と崩壊していったわけです。中共の天安門事件とか東欧革命とかベルリンの壁崩壊とかソ連解体とか・・・。

上掲の発言を時系列順にみれば、宮崎駿が左翼への心情的共感を、徐々に失っていった過程がよく分かると思う。そして宮崎は「転向」した。

92年に公開された『紅の豚』は、要するに「アカの俺」を意味しているらしく、「『おれは最後の赤になるぞ』っていう感じで、一匹だけで飛んでる豚になっちゃった(笑)」と宮崎は笑うものの、まさにこの期間に「転向」が行われた。『ナウシカ』でいえば、6巻と7巻の間には22ヶ月ものブランクがあるが、その期間だ。

・・・むむむ、22ヶ月のブランクの中での「転向」。
するとここには、一つの疑問の源泉があるような気がする。
それはつまり、6巻までの『ナウシカ』と7巻の『ナウシカ』は、別の思想で描かれた別の物語なんじゃないか、ってことだ。

実際、『ナウシカ』のラストについて宮崎駿は特にこれといったアイデアを持たず、いい意味で行き当たりばったりだったらしい。

しかし、連載のほうで映画と同じ力が発揮できるかなあ(笑)。なにしろ、膨大なストーリーでね。これから土鬼の国をさんざん歩きまわって、僧院の奥深くに入りこんで、神聖皇帝は出るし。次にトルメキアへ行って、滅亡に瀕している老大国の中の権力争いにまきこまれて、それで生きながらえて、風の谷に帰ってくるんだけど・・・・・・帰って来れるんですかね!?(笑)
(ロマンアルバム「風の谷のナウシカ」徳間書店 1984年)


これは劇場版『風の谷のナウシカ』制作のすぐ後のインタビュー。

 実は『豚』の制作直後すなわち『ナウシカ』連載再開の直前に行われたインタビューには「ナウシカが沢山子どもを産もうと決心する。そういう終わり方ができたらいいなぁと考えています」「ナウシカに『お前、子ども産めよ』っていう人がいてね、『うん』と答えるところで終わりたいと思ってるんです」という発言が見られる。
(「ぴあ」関東版92年7月23日号と、「MANBOW」92年9月号より)


これは『宮崎駿の仕事』(久美薫)から引用。

 自分で書いていて気がついたのですが、ナウシカの役割は、実際にリーダーになっていくとか、人々を導くとか、そういうものではない。代表して物事を見つめ続けるという、一種巫女みたいな役割なんです。
 そしてナウシカを信頼する人間たちが、実際の事を動かしていくというような構造でしたから、普通の物語の組み立てからいうと、筋になってない。そういうことも悩みはしました。
(「よむ」岩波書店 1994年6月)


これは連載終了直後のインタビュー。直接ストーリーを語っているわけではないが、非常に興味深い発言だと思うので引用。以下も引用。

「青き清浄の地」というのは突然浮かんできたからそのまま使ってしまった言葉にすぎないんです。
(中略)
僕は初めから「青き清浄の地」に赴こうと思ってやっていたわけではないんです。何かそういう所があるんだ。「障気」(ママ)というものに脅かされずに生きる場所があるんだというふうな願いを込めた言葉が「青き清浄の地」に行くという意味なんだろうというぐらいで始めたんです。
(『ナウシカ解読』1996年)

渋谷 もっとヨーロッパ的な世界観で終わるはずでしたよね
宮崎 ええ、そうです。たぶんそういうふうになるはずでした。むしろもっとごまかしてね、例えば『2001年宇宙の旅』とか『AKIRA』の最後みたいになんか訳のわかんないとこに行ってね、その後作品が作れなくなるっていう(笑)、そういうことになりかねないっていうね」
(『風の帰る場所』 2001年のインタビュー)

これで最後ファンタジーに逃げるんだったら、王蟲が一斉に成虫に変わってね、宇宙に向かって飛び立つところを呆然と見送ってね、終わらしちゃうんですけど、それは手塚さんの『来るべき世界』の終わり方と同じですからね(笑)。だから、そういうふうにしてこうハシゴ外しちゃうこともできるんでしょうけど、それは絶対にしたくないって」
(『風の帰る場所』2001年のインタビュー)



引用ばかりで長くなったので一旦まとめると、要点はふたつ。
第一が、宮崎駿は『ナウシカ』の6巻と7巻の間に思想転向した(心情左翼をやめた)。
第二が、コミック版『ナウシカ』はゴールを定めずに描かれ、実際に描かれたエンディングにも宮崎はこだわりを持っていなかった(っぽい)。

ならば、こういう考えが頭をよぎっても、それは有りじゃなかろうか。
すなわち、もしかしたら『ナウシカ』には「まぼろしの7巻」が存在したのかも知れない、と・・・。

長いので続く
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風の谷のナウシカ(2) もう一つのラスト(想像)

王蟲

前回のつづき。

名著『宮崎駿の仕事』(久美薫/鳥影社)によると、コミック版『風の谷のナウシカ』について「完結後のインタビューのなかで、全体の構想は実はなくて、締め切りに追われながら物語を探っていたことを作者は語っている」とのことだ。つまりは、決定済みの終わらせ方は、もともと存在していなかったということだ。

しかし、例え行き当たりばったりに近くても、いわゆる「伏線」を張りまくってしまうのが天才の性というものか。
『風の帰る場所』(宮崎駿/rockin'on)には本人のこんな談話がある。

象徴的な話で、実は映画の『ナウシカ』が終わった直後にナウシカのカレンダーを描けって言われたんですよ。(略)それでいい加減に描いたんですよね。今まであったとこ描くの嫌だから、勝手にこう、こんなとこがあんのかなって、これからのとこ描いたんです。でも、振り返ってみれば、結局そこで描いたものが本当に実現してるんですよね(笑)。ボロボロになった巨神兵の肩にナウシカが乗っかってる絵とか、それから敵である人間たちの中にナウシカがいる絵とかね。


『ナウシカ解読』(稲葉振一郎/窓社)のインタビューでは、7巻の「庭」について。

何の気なしに描いてしまったひとコマの絵がずっとひっかかっていて、それは、ナウシカが王蟲の子どもを隠している時に、連れ戻され引き離されてしまった。その時、お母さんも大人たちのなかに入っていて、何もしてくれないお母さんが描いてあるんです。


やはり天才はすげー。神の見えざる手、って感じだ。
だがこれを逆に見れば、ぼくらは宮崎駿が無意識に(?)残していった伏線を辿ることで、もしも宮崎に「転向」がなければ描かれたかもしれない「まぼろしの7巻」に近づける可能性があることになる。伏線が、結果的に結んでしまう一つの像に、この名作に秘められたもうひとつの物語を読み取れるかもしれない。

・・・なんて大風呂敷はさっさと畳むとして、さて結末に向けての伏線と聞いて、誰でもまず頭に浮かぶのが例のアレ、「その者青き衣をまといて金色の野に降りたつべし」って伝説だと思うが、これは劇場版で完全に使い切ってしまった印象がある。宮崎本人も「宗教的」というとおりで、6巻までの世界観とはマッチしないし、過去の焼き直しなんて宮崎のプライドが許さないだろう。

ぼくが注目したいのは、その後のナウシカ自身のセリフだ。
風の谷のわたしが 王蟲の染めてくれた 土鬼の服を着て トルメキアの船で出かけるのよ

このセリフは「あの方ははるか遠くを見ておられる」というミトのセリフに続くわけで、ナウシカが田舎部族の族長で終わらないことは無論、もっと何か大きな使命を帯びていることを予感させる。要するに、「はるか遠く」には、ナウシカによる何らかの統合が起こるんじゃないかと。

そしてこの”統合”という動き、『ナウシカ』世界全体をよーく観察すると、実はもっと巨大な動きとしても現れていることに気付く。
『宮崎駿の仕事』などで指摘されるとおり、そもそも土鬼とトルメキアという超大国の争いに巻き込まれる風の谷には、米ソ冷戦下の日本が暗示されていた。宮崎駿ご本人も「冷戦思考」の呪縛について語っている。
だがそうやって始まった『ナウシカ』世界は、次第に別の様相を見せるようになった。それは、この世界の社会様式のバリエーションから見えてくる。

まず1巻で分かるのが、トルメキアという国が「奴隷制」の国だということだ。
一方で、このトルメキアと土鬼は明らかに「封建制」の国でもある。
さらに、4巻には、思わぬ大金を得た土鬼の女が「国に帰って畑を買い、麦をまきます」と言うシーンがあって、土鬼の民衆には土地所有の概念があることが分かる。おそらく農奴から自作農への過渡期にあるんだろう。

3巻から登場する「森の人」は、この世界の裏番長という設定だが、その経済はまさに「原始共産制」に分類されるであろうもの。人間のもっとも清らかな状態として描かれている。
資本主義」については語るまでもない。それはすでに滅亡したが、遺跡や廃墟としていつも目の前に存在し、いま巨神兵として復活しようとしている・・・。

原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義・・・。
ここにきれいに出揃った唯物史観でいう人類の発展段階。それが一箇所に同時に現れたとなると、その先にあるゴールとはその最終段階、すなわち人類の理想郷としての「共産制」しかない、そう暗示していると考えるのが自然なように思える。

実際、世界統合への動きは劇中でも起こっていたわけで、「新しい王が要るのだ。真の王道を歩む者が出現せねば人間は滅びる」と言ってたクシャナは、土鬼皇兄ナムリスの提案する「土鬼トルメキア二重帝国」に満更でもない様子。まず二大大国が統合しないとには先に進めないことを、重々承知といった雰囲気だ。

だが、仮に『ナウシカ』の世界に何らかの統合が行われて、共産主義社会っぽい何かが生まれたとしても、そこに「王」がいてしまっては元も子もない。森の人セルムがいうように「青き人は救ってはくれないのだよ。ただ道を指し示すだけ」でなければならないだろう。

それに宮崎駿自身、連載終了後のインタビューで「ナウシカの役割は、実際にリーダーになっていくとか、人々を導くとか、そういうものではない。代表して物事を見つめ続けるという、一種巫女みたいな役割なんです」と断言している。
ナウシカは巫女・・・。
ナウシカは神の声を聞く者・・・。

そうだとして、テレビもネットもない世界で、その神託を多くの民衆に伝えるためにはどうしたらいいのか?
・・・チククがいるじゃないか。
それが『ナウシカ』におけるチククの存在理由だろう。チククの強力な「念話」の存在理由でもある。

では残る「神」とは誰のことか。
そりゃまぁ「シュワの墓所」以外、見当たらないでしょ。宮崎駿が考える、理想の共産主義システムって感じで。

たしかに、現実の共産主義はロクなもんにならなかった。スターリンにしろ毛沢東にしろポルポトにしろ、圧政と粛正が常で、およそ理想とはかけ離れたリーダーだ。だがそこに、ナウシカの「心」があったらどうか。
「シュワの墓所」について、6巻までで分かっていることは、そこに旧時代のスーパーテクノロジーが封印されていることだけ。

おそらく唯一、神の声を聞けるものであるナウシカは、何らかの方法で墓所の中で永遠の命を得るのだろう。そしてナウシカという「心」を得た墓所は、人類の理想を実現する絶対知として完成する。シュワの墓所の「正しさ」を、ナウシカの「心」が担保するわけだ。
完ぺきな共産社会の誕生じゃないか。

・「ルワ・チクク・クルバルカはナウシカに従う」
・「マニ族はナウシカの道を選ぶ!!マニに皇帝はいらぬぞ!!」
・「ナウシカが・・・みんなをつなぐ糸なんだ」
・「ナウシカにはなれずとも同じ道はいける」

普通に考えれば、『風の谷のナウシカ』にはこうした人々の思いを汲み上げる形のハッピーエンドが用意されていたんじゃないかと思う。
シュワの墓所という完全無欠の管理システムと、全ての生命に惜しみなく降り注がれるナウシカの愛。
人は支配されるのではなく、やさしく包まれ守られる。
万人がナウシカになったのだ。みながナウシカとして生きよ・・・みたいな。

6巻から7巻途中までの『ナウシカ』には、そんな宮崎駿の夢が織り込まれていたように、ぼくには思える。


・・・と、ここで現実に戻る。
実際の『風の谷のナウシカ』は、ナウシカによるシュワの墓所の破壊で幕を閉じた。
伏線に見えたものも、人々の思いも、そこでは何一つ結実することはなかった。人類の近い将来の滅亡は決定した。
この結末の背後に宮崎駿の「転向」があるというのは、『ナウシカ』語りのひとつの定説だろう。だが「転向」の理由については、詳細をハッキリさせておく必要がある。

社会主義体制の崩壊っていってもね、ソ連の崩壊っていうのは全然ビクともしないんです。当然だと。これはむしろ圧政に抗して立ち上がるっていう古典的なパターンがあるんであってね。だから、そこじゃないんですよ。その後また民族主義かっていう、その”また”っていうのが一番しんどかったですね。第一次大戦の前に戻るのかっていう感じでね。

やっぱりユーゴスラビアのことが大きかったですね。それはソ連の崩壊より大きかったです。こりゃあ人間は学んでないなっていう(笑)。
(『風の帰る場所』)


読んでの通りで、宮崎を「転向」させたのは天安門でもソ連の崩壊でもない。それは、一度は「進歩」したはずのユーゴスラビアが、結局は前時代的な「民族主義」に回帰してしまったことだ。人間は「進歩」することを望んでいないんじゃないか、人間には国境も民族も必要なんじゃないか、地球市民なんてただの妄想だ。
と思ったかどうかは知らないが、転向した宮崎は、かつては同じメンタルを持っていたはずの朝日新聞を攻撃する。

 僕は『朝日新聞』を読んでいて腹が立つのは、政治記者たちの程度の悪さですね。つまり社会党が理念だらけになってゴチゴチになっている時は「理念に縛られて現実感がない」と言いながら、ひとたび理念を捨てたら、「理念を捨てていいのか」と叫び始めるという。じつは、理念を捨ててしまったことに一番恐怖を感じているのは彼らだという気がするんです。
(中略)
 自分たちが知っている政治の世界の愚かさを国民に教えようと思って、どんなことが起こっても、たいてい個々人の恨みとか、いやがらせとか、そういうレベルで語る。『フライデー』とか、ああいう雑誌と同じですよ。人間の品性というのはきわめて卑しいんだというね。自分たちがよく知らないところには、たぶん、高邁な理想があるんじゃないか、とすり替えていく。かなわんですね。本当にむかついているんです。
(『ナウシカ解読』1996年)


朝日新聞の記者が持つ、幻想の「高邁な理想」。
これこそが、まさしくナウシカに破壊されたシュワの墓所の正体だろう。
それは単に共産主義とか社会主義といったイデオロギーへの訣別ではない。左翼的な理想、それ自体との訣別だった。

ぼくらはこの事実、アニメ界の巨人宮崎駿が「自我の出発点であり、心のつっかえ棒」とまで言っていた左翼思想を、かれこれ20年も前に捨て去っていたことを改めて確認し、また強く意識していく必要があると思う。
つまり、あの宮崎駿だって「転向」したのに、まだ左翼やってる人って何なのよ? ってことだ。


【2013.7.21追記】
宮崎駿は「左翼」は辞めたと思いますが、今でも「サヨク」です。誤解なきようお願いします。
つづく

超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか

マクロス
(ご注意!)
ここからしばらくは、比較的最近のアニメの話や、いわゆる「歴史認識」にまつわる話などが続きます。俺は宮崎駿の話にしか興味はねーんだ!!という方は、こちらの記事までスキップしてください。
風立ちぬ(1)〜小冊子『熱風』


超時空要塞マクロス』(1982ー83)は、当時ぼくはどうもキャラのデザインが好みじゃなくて敬遠していたが、今になって思えば、案外『マクロス』にこそ、あの時代というものが良く現れていた気がするので、そんな雑談を少々。

※テレビ版の『マクロス』は変な延長があったりして一貫性に乏しい気がするので、この記事では84年に公開された劇場版『愛・おぼえていますか』で話を進めます。
あらすじ等はこちらで ー超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますかーwikipedia

『マクロス』の世界では、人類はゼントラーディとメルトランディという二大勢力の宇宙戦争に巻き込まれた。これはいかにも1970年代的な設定というやつで、要するに米ソ冷戦の反映・・・。

・・・っぽく見えるが、実際にはゼントラーディもメルトランディも戦闘用に製造された人造人間で、いずれもプロトカルチャーとかいう超文明人によって作られた存在。そんな戦争に、アメリカもソ連もあったもんじゃない。
ここには、すっかり形骸化した昭和的思想の残骸しかないだろう。

一方で『マクロス』はバブルの予感にあふれている。
あの時代大いに叫ばれた国際化だが、マクロス艦内はまさに人種のるつぼ。主役の一条輝こそ日本人だが、その上司は白人アメリカ人、マクロス艦長はイタリア人、ブリッジオペレーターはフランス人やフィンランド人・・・、と展開した結果、何が起こったか。

アメリカ様のワンノブゼム化だ。
約40年前に日本と戦争し、占領し、その後も支配力を及ぼし続けてきたアメリカが、いきなり影の薄い存在にされてしまったのが『マクロス』だ。

この背景には、ついさっき「残骸」扱いした米ソ冷戦の影響が実はあるとぼくは思う。
1979年に始まったソ連のアフガン侵攻。それまで朝鮮半島やベトナムなど、割りと近いところにあった戦場は、かなり遠い中東に移動してくれた。この安堵感が、アメリカの圧迫感や存在感を希薄にさせた可能性は十分に考えられると思う。

バブルっぽさはストーリーにも現れる。
『愛・おぼえていますか』のクライマックスでは、アイドル歌手リン・ミンメイの歌が、大戦の流れを変えていく様子が描かれている。「文化」を知らないゼントラーディ軍・メルトランディ軍は、歌を聴くと戦意を失ってしまう。ゼントラーディの司令官は「文化を取り戻すのだ」と叫んで、マクロス援護に走る。
つまりここで表されているのは、戦闘より文化が上位にあって、文化の力で戦争はなくせる、ってことだろう。だから主役・一条輝の最大の功績は、敵を撃墜したことじゃなくて、ミンメイを説得して歌わせたことにある。

エズラ・ヴォーゲル著『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が発刊されたのは1979年。
劇中で「文化」とは言ってるものの、隠された本音は「経済力」で勝てばいいって感じじゃなかったか。1984年といえば、あのバブルの直前だ。北方領土でも何でも、カネで解決すればいいじゃないか。世界全部を日本が買ってしまえば、戦争なんて起こらない。

Wikipediaの「バブル景気」の項目をみると、あの時代は「アッシー君」やら「メッシー君」やら「亭主元気で留守がいい」やら、「兎にも角にも激しい男性蔑視、マン・バッシングが吹き荒れたのがバブル時代のもう一つの顔」だったとある。
そんな世相に昭和のヒーローなんて、激しく場違いだろう。

かくして『マクロス 愛・おぼえていますか』と同じ年に公開された『風の谷のナウシカ』も『うる星やつら2』も、主役はぜんぶ美少女で、少年たちはその引き立て役。その後の『パトレイバー』も主役は泉野明(いずみ のあ)の方だし、『攻殻機動隊』もそうか。

ま、ここら辺の話は「今さら」の話。
『マクロス』はヒーローなき時代への牽引者だったかも知れないが、バブルが弾けてみれば『仮面ライダー』も『ウルトラマン』も華麗に復活を遂げたわけで、やっぱり男の子には「カネ」以外の価値の象徴であるヒーローは必要なんだろう(女の子には魔女っ子が必要なんだろう)。

「消えたアメリカ」だって、96年の『ウルトラマンティガ』では「地球平和連合TPC」の本部が何とわが日本にあったわけだが、それも『ウルトラマンメビウス』(2006年)のGUYS本部でニューヨーク沖に戻っている。たしか『エヴァンゲリオン』のネルフも日本に本部があったように記憶しているが、90年代半ば頃は、思い上がったバブルの増上慢が、まだまだ残っていた時代なんだろう。

つづく

琉神マブヤー  〜「命どぅ宝」とヒーロー

マブヤーDVD

以前から、これは書かねばと思ってきたのが、沖縄のご当地ヒーロー『琉神マブヤー』(2008年)だ。
ぼくらオッサンが少年時代にみていた『仮面ライダー』や『マジンガーZ』などには、結果としてぼくらに自虐史観(東京裁判史観)を植え付ける効果があったのでは? というのがこのブログの趣旨なわけだが、現代の沖縄の少年たちにその心配はない(学校にさえ行かなければ、だが)。『琉神マブヤー』がいつだって大切なことを教えてくれる。

ストーリーはこうだ。
沖縄に伝わる9つのマブイストーンを、マジムンという悪の軍団(というかチーム?)が奪いに来た。それを阻止すべく、マブイグミにより琉神マブヤーの魂を宿した叶(カナイ)という青年が戦う物語。
方言バリバリで聞き慣れない単語が多いが、「マブイ」とは魂を意味していて、それを封じ込めたものが「マブイストーン」。
第1話で狙われたのは「ウチナーグチ」のマブイストーンで、それを奪われると沖縄は方言を失う。

マジムン首領ハブデービルは言う。
ウチナーグチっていうのは口でできてると思うか? 言葉っていうのは心でできてるわけよ。だからウチナーグチのマブイストーンは言葉を消すために奪ったんじゃない。ウチナーンチュの心を消すために奪ったわけよ
悪人ながら良いことを言う(笑)。

以下、「石敢當」「テーゲー」「エイサー」「チャーガンジュー」「いちょりばチョーデー」と、沖縄人なら(たぶん)誰でも知ってる心やモノ(のマブイストーン)が狙われていくわけだが、ヒーロー番組としては微妙な問題も、避けることなくしっかり扱っている。
命どぅ宝」、反戦平和運動のスローガンだ。

第9話。反戦デモ隊(といっても3人だが)に出くわしたカナイは「何で戦争ってダメなの」と問われる。するとそこに(実はカナイの兄である)ニライが現れて議論になる。
ニライ「戦争はなるべくない方がいい。でも時には必要がある。愛する人たちを守るために」
カナイ「争いで解決していいの? そうなれば戦争はずっと繰り返される。人間の知性は未来永劫に変わらない」
ニライ「この沖縄が悪の軍団に攻められた場合、君はどうする? 戦うだろ?」

その後、ニライの言う通り、マジムンを戦闘によって撃退したカナイは悩む。
「俺がやられるかもしれないんだぞ。やるかやられるかだろ?」
マブヤーの力を究極に引き出すべく、修行に赴いたチルダイ森の大主(うふぬし)はカナイに問う。
「撃たれたら撃ち返す。これはいつ終わる?」

暴力に暴力で対抗すること、怒りに怒りで対抗すること。
その連鎖を断ち切るためにカナイが出した答えは、すべてのものへの「感謝」の心だった。
最終回、カナイはハブデービルに言う。
「おれは全力でマブイストーンを守ってきた。でもお前たちが奪ったりしなければ、その大切さに気付かないままだった。だから、それを教えてくれてありがとう。にふぇ」


世界の平和だとか人類の未来だとか叫びつつ、実はただ自分自身の復讐のために戦っていた某昭和ヒーローと比べた時、沖縄の伝統や文化や精神を守るために戦ったマブヤーには、ヒーローのあるべきリアリティが充ち満ちている。別にカッコいい変身ポーズをとらなくても、カッコいい戦闘スーツを着てなくても、カッコいい必殺技がなくても、沖縄を守ることはできる。みんながマブヤーになれる。
たしかに日本は戦争に敗れ、沖縄は長く占領されてしまったが、その間も大切に守ってきたものがあるからこそ、逆にいま『琉神マブヤー』が存在できる。「命どぅ宝」は沖縄の精神の一つだが、命以外にも守るべき「宝」は沢山あることを『琉神マブヤー』が教えてくれる。

ぼくが知ってるご当地ヒーローはこの『琉神マブヤー』だけだが、このフォーマットはどの地方でも一回だけは作れるわけで、きっと各地にマブヤーの仲間たちが誕生したことだろう。ヒーロー番組の中に、地元の伝統や文化を保存できるなんて、凄いアイデアだ。

てか、最近の特撮とかアニメって、クオリティの高いものが多すぎる。
2000年の『クウガ』以降の仮面ライダーシリーズには、かつてのショッカーのような「世界征服を狙う悪の秘密結社」は出てこない。そんな単純で非現実的な悪では、いまどき誰にも相手にされないのだろう。ゆえにいくら観ようと、自虐史観に染まってしまう思考回路を持つ危険はない。
安全で、健全で、面白い。

つづく

機動戦士ガンダムSEED DESTINY 〜非戦とデスティニープラン

seed

今回の話題も割りと新し目で、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』。
めんどくさいので、ここでは『SEED』(2002)と続編の『SEED DESTINY』(2004)をまとめて『SEED』呼ばわりする。
ぼくが『ガンダムSEED』をみたのはごく最近なんだが、感想としては、物語として面白いのはもちろん、非常に考えさせられる作品だったと思う。時を経ても『ガンダム』は『ガンダム』、血は争えないなーというところか。

あらすじを一言で言うと、普通の人間と遺伝子改造人間が戦争をする話。ファーストとゼータと逆シャアの良いとこ取りしているので、ぼくらオッサンにも親しみやすい。ニュータイプに代わる人類救済の道もちゃんと示されていて、劇中では「デスティニープラン」と呼ばれている。
詳しくはWikipediaでご確認を・・・。

・・・などと言いつつ自分でもWikiを覗いてみると、そこには「作品のテーマ」なんていう何とも美味しそうな項目があるじゃないすか・・・。

監督の福田が公式サイトのインタビューにおいて2004年9月25日付で語るところによれば、『ガンダムSEED』シリーズ第1作は、「キラとアスランを主人公に据えて『非戦』というテーマを描いた」とのことである。また、同年12月10日に同インタビューで、2作目『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』についてエグゼクティブプロデューサーの竹田青滋も、「前作から引き続き非戦ということを訴え続けるつもりである」と述べている。


非戦を訴える・・・・。
そのテーマ自体は結構なことだ。しかしぼくの目が曇っているのか、『SEED』のどこに「非戦」が訴えられているのか、実はサッパリ分からなかった。たしかに主役のキラ・ヤマトを始めとした登場人物たちは、戦争はイヤだと言う。だがそんな少年の口から出るセリフなんて、到底「訴え」ていることにはならないだろう。現に、いくら騒ごうが叫ぼうが嘆こうが、それがこの戦争の何か一部にでも影響するような展開には全くなっていない。人はガンガン死んでいく。

ならばこっちか、武装中立国オーブ
他国を侵略せず、他国の侵略を許さず、他国の争いに介入しない」を理念とする中立国家で、「非戦」を訴えるのはどうか。
しかしオーブの代表、カガリはこうも言っているぞ。
オーブは何より望みたいのは平和だが、だがそれは自由自立の中でのことだ。屈服や従属は選べない」。
そうしてオーブは武器を生産し保持し、さらには輸出もしている。領海内に敵が入れば、もちろん武力で排除する。さらには同盟を結んだ大西洋連合の命令で、その先兵として国外でも戦闘行為を行った。
つまりオーブで描かれているのは、小国が中立でいることの難しさであって、これまた「非戦」とは言えない。

というわけで、『SEED』ではむしろ、非戦や平和を叫ぶことの「無力さ」の方が描かれている気がしてならない、それもかなり徹底して・・・。なにしろ『SEED』であれほどの惨劇を描いたわずか2年後に、ここの人類はまたも戦争を始めた(『DESTINY』)わけで、これほど救いようのない人類も珍しいんじゃないか? レクイエム(大量破壊兵器)の撃ち合いなんてきちがい沙汰だ。

ファーストガンダムでは、そんな愚行を繰り返す人類の救済の道として、ニュータイプという概念が登場した。「人の革新」というように、人間そのものが変わることによって、人類が進歩できるという考え方だ。ただしそれは、結果としては戦闘用に利用されるものとしてしか発展しなかった。その理由としていちばんに上げられるのは、人類全員がニュータイプじゃないから、だろう。
『SEED』でデュランダル議長(声・池田秀一)に提唱された「デスティニープラン」は、もっと現実的な人類救済策だった。

人間の遺伝子を解析する事でその人が持つ先天的な適性と能力を調査し、その解析結果を基にその人を最適な職業や役割に就かせて、より効率的な社会運営を目指すと言うもので、その結果として個人間の諍い、しいては国家間の争い事が無くなるという人類救済措置(Wikipediaより)


ひとが「望むから戦う、欲するから争う」なら、「得られるものと得られないものを始めから」知ることで、誰かに勝とうとする心はなくなる。人生の目的は生まれ持った遺伝子情報の実現なので、戦う相手は自分自身だけだ。ならばおそらく、「デスティニープラン」で人間同士の争いは消滅するのだろう。

しかしその夢のようなプランは、劇中で猛反対を受けてしまう。
カガリ「願って望んで頑張ることには、何の意味もないというのか。ああなりたい、こうしたいと望むのも、ただ無駄だと・・・
ラクス「何を得ようと、夢と未来を封じられてしまったら、人はすでに滅びたものとして、ただ存在することしかできません
キラ「でもぼくたちはそれを知っている、分かっていけることも、変わっていけることも。だから明日が欲しいんだ。どんなに苦しくとも、変わらない世界はイヤなんだ

デスティニープランのどこが嫌われたか。
そりゃもちろん、自分の生活や人生を、自分で決められないとこだろう。
でも人間が何でも自由に選択できるようになった歴史は、浅い。しかも世界的に見れば、それを実現しているのは僅かな先進国だけだろう。
だからカガリやキラの発想は、いかにも民主主義的だ。ニュータイプにせよデスティニープランにせよ、人間を先天的な優劣で決定してしまう。そんなの差別だし、個人の自由はどこ行った!
要は、基本的人権の尊重に反するんじゃないか、ってのがみんなの反発の根底にあるとぼくは思う。

しかしそうなると、ここには一つ、興味深い疑問がないか?
そもそも、戦争をなくして非戦を実現するためには、人間そのものを変えるしかない。
そのための方法としての「デスティニープラン」には、それなりの説得力がある。
なのに、それは基本的人権の尊重に反するからイヤだという。
だったら、「平和主義」と「基本的人権の尊重」って、ホントに両立するのかいな?
ってことだ。

もちろんそれは『SEED』の世界の話であって、ぼくらの『日本国憲法』がそうだという話じゃない。だが、平和主義を訴えつつ、デスティニープランを否定したキラ・ヤマトが出した結論は何だったか。
ぼくは戦う」だ。
この発言を、花が吹き飛ばされたらまた植えればいい、みたいに理解するのは、文字通りにお花畑な思考回路だ。それはまさに、キラ・ヤマトこそが人類最強の遺伝子改造人間で、普通の人間のモビルスーツなんぞは一度に何十機も破壊できるから言えるセリフであって、例えばぼくが同じことを言ったら笑わない人はいないだろう。

戦いをなくすには、戦おうとするものと戦い続けるしかない。
一周回ってスタート地点に戻ってしまったかのような『SEED』の結論だが、その過程では人権やら自由やら、平和主義と等価とされる別の価値が語られた点が実に興味深い。人間が、長い闘争の歴史の中でようやく掴んだ民主的な価値の中に争いの元があるのと言うのなら、そしてそれを捨てられないというのなら、口先で平和や非戦を叫ぶことになんて何の意味もない。

『SEED』をみて育った少年少女が、単純な平和主義や反戦思想、それを元にした自虐史観に染まる危険はありえない話というわけだ。

つづく


ONE PIECE(ワンピース)〜冬に咲く、奇跡の桜

実験中

コミックの売り上げで検索すると、2012年年間1位の『ONE PIECE』は、2位から5位まで足したのと同じくらい売れてるらしい(オリコン調べ)。累計だと2億8000万部。財務省っぽく言うと、国民一人当たり2.2冊。
こんな怪物に、もしもおかしな思想が紛れ込んでいたら大変だ。子どもたちがみんな洗脳されてしまうじゃないか!

・・・なんて心配は無用だろう。
Wikipediaには「戦争や権力、領土問題、宗教問題、人種差別など様々な社会問題を風刺する内容も織り交ぜている」とあるが、そのどれもがいたって健全な思考から描かれているのが『ONE PIECE』だ。
また、『ONE PIECE』では少年の心の成長に必要な「父性」が十分に描かれている。父性をWikiから引用すれば「子供を社会化していくように作動する能力と機能」「子供に我慢・規範を教え、責任主体とし、理想を示すもの」で、一言でいえば「こう生きろ」と教えること。
『ONE PIECE』には強烈な父性を放つ、カッコいい男たちが多数登場する。

で、このとき注目したいのが、そのバリエーションの豊富さだ。
麦わらの一味」のゾロやサンジといった若いお兄さんたちがカッコいいのは無論のこと、白ひげ、ジンベエ、レイリー、ゼフ、シャンクスなど、中年のおっさんたちもカッコいい。だから自分が「麦わらの一味」の年齢を追い越してしまっても十分に楽しめるし、女の子が読めばいろいろな”男の格好良さ”を知ることができて、恋人選びの良い参考書になるはずだ。
おそらくこの点は『ONE PIECE』の独自性の一つで、ぼくは『NARUTO』も30巻くらいまで読んだが、カッコいいオッサンは見かけなかったような気がする。前回記事にした『ガンダムSEED』も同様で、そこに「父性」と呼べるものはなかった。

さてそんな『ONE PIECE』の父性が端的に描かれているのが、2008年公開の映画、『冬に咲く、奇跡の桜』だろう。感動の名作なのでネタバレは避けるが、あそこでチョッパーに医学を志させたDr.ヒルルクの生き様が、丸ごと「父性」。
Dr.ヒルルクに「この世に直せねえ病気なんてねえ」「この世の全ての人間は救うことができるはずだ」と教えられたからこそ、「この世に万能薬なんてない」と言うDr.くれはに向かって「俺が万能薬になるんだ」とチョッパーは言うことができた。
そして8年前の、「いつか海に出ろ」というヒルルクの勧めに従って、チョッパーは海賊(船医)になった・・・。

・・・いや、さすがにヒルルクに憧れる女の子はいないと思うが(笑)、チョッパーと同じように医者を目指した少年たちが、将来そのきっかけにヒルルクを挙げる日は来るかも知れない。てか、こんな少年少女向けの劇場版アニメに、小汚いおっさんが主役級で延々と出演してる『ONE PIECE』って、かなり不思議な世界のように思える。

それと、『ONE PIECE』を特徴付ける要素として、もう一つあげたいのが「」という概念だ。『冬に咲く、奇跡の桜』でも、守備隊長のドルトンの口から「国」を語らせるシーンがあったが、2007年の『砂漠の王女と海賊たち』はモロにアラバスタ王国の内戦の話なので、「国」の話題で一杯だ。
そして、そうなれば必然的に出てくるのが「軍隊」についての話題だろう。

幼女時代の王女ビビと護衛隊副官ペルの会話。
ビビ「なぜ毎日戦いの訓練をするの?」
ペル「護衛兵ですから、この国をお守りするためです。強くならねば」
ビビ「誰と戦うの?」
ペル「さあ・・・戦うことより、守るのです」
ビビ「ちがうの?」
ペル「目的の違いです」

・・・この健全な感覚は素晴らしい。

たしかにルフィたち「麦わらの一味」は国を捨てた海賊だが、国から国への旅の途中で、さまざまな「国」が語られていく。そしてルフィたちは、いつでも愛国者の味方をしていく。
一方『ONE PIECE』の世界には、諸国家の上位に「世界政府」という統治機構が存在していて、ルフィたちはそれとは対立する。国連が独自の軍隊を持ったとして、それを「国」だと思う人はいないだろう。

ということで『ONE PIECE』から、ぼくが勝手に注目している2点について短く書いてみた。
しかしそうしてみると、何だか『ONE PIECE』ってフェミニストと反戦平和団体にケンカ売ってるような作品に思えてきて、痛快だ。このマンガで育った人が、おかしな思想に染まることは考えにくい。

つづく

コードギアス 反逆のルルーシュ

コードギアスの世界地図

コードギアス 反逆のルルーシュ』(2006ー08年)の世界で、日本は「ブリタニア帝国」とやらに占領されてその属領となり「自由と権利とそして名前を奪われた」。日本は「エリア11」と呼ばれる植民地となった。
このときブリタニア帝国の圧政があまりも苛烈だったのと、その本土がアメリカ大陸にあったことから、ネット上では「反日だ」「反米だ」といった意見も見られる。その背景には、毎日放送の竹田青滋というプロデューサーの左翼的な思想があるようで、『コードギアス』については氏のこんな発言がある。

僕は大学で明治から戦前にかけての日本の朝鮮半島支配を専攻してしていたんですが、ブリタニア帝国が日本に対してやっていることは、かつて日本が朝鮮半島に対してやったことと、共通する部分もあるように思います。靖国問題や改憲議論が取りざたされている今、若いひとたちが『コードギアス』を見て、かつて日本がやって来たことを想像してもらえるのは、いいことなんじゃないかと。(『アニメージュ』2006年12月号)


まぁ個人が何を考えようがその人の勝手だが、日本は朝鮮と戦争したわけじゃないし、植民地にもしていないし、「ゲットー」に押し込めて女子供かまわず虐殺したりもしていない。反対に、文字を復活させたり公共工事に励んだりして、朝鮮半島の近代化に尽力したことは今ではすっかり有名になっている(ネット限定らしいが)。

一方、同じ本のインタビューでは、監督の谷口悟朗氏がブリタニア帝国について、「よくアメリカのことかと訊かれますが、だったらもっと国としてのアメリカにしますよ」と明確に否定している。確かにアメリカの歴史を考えれば「帝国」なんて水と油なわけで、それをアメリカと感じて違和感がないなら、「米帝」だとか「日帝」だとかの左翼用語に慣らされ過ぎの気がする。

決定的なのは、ルルーシュ(主人公)が23話で日本を独立させた際の国名だ。
合衆国日本」。
初めて聞いた時は思わずのけぞってしまったが、それは「あらゆる人種、歴史、主義を受け入れる広さと、強者が弱者を虐げない矜持をもつ国」だそうで、イメージ的にはこれぞアメリカ合衆国ってところだろう(黒人差別の歴史は別だが)。

つまりは、ごく最初の方こそアメリカ大陸に存在するブリタニア帝国が現実のアメリカ合衆国に見えるが、だんだんとそれは監督さんの言われるとおり、ただの「強大な敵」として記号化していく。中華連邦なんてのも出てきて九州に傀儡政権を作ろうと図るが、こっちだって「天子さま」が存在していて中共っぽさは皆無、かつての清朝あたりがイメージ的に近い。

しかし仮にそうだとして、アメリカも中共もないこの世界で、なんで「日本」だけが日本として描かれなければならないのか。租界の外側のゲットーに押し込められて、差別されて虐殺される。半分に削られてしまった痛々しい富士山。日の丸ハチマキの前時代的なレジスタンス。日本万歳のかけ声で実行される自爆テロ。「リフレイン」なる麻薬に溺れる人々・・・。

この執拗なまでの日本人イジメは何なのか。
それを制作側の(一部の人の)思想面に求めると、『コードギアス』は「反日」に見える。
が、おそらくそれは違う。

レジスタンス「黒の騎士団」を率いるルルーシュは、実はブリタニア帝国の第11皇子なんだが、個人的な理由から仮面を被ってブリタニア帝国と戦っている。そんなルルーシュの第9話でのセリフ。
エリア11は日本だった頃に比べてよくなったとも言える。ブリタニアの植民エリアに入れたおかげで、軍事も経済も格段に安定した。市民権だって手に入る。役所に行って手続きをすれば、名誉ブリタニア人になれるじゃないか。あとはプライドの問題・・・。ま、そっちを大事にしたい気持ちもわかるけどね

プライドの問題・・・。
だとすれば、ここで問われているのは「怒り」だろう。
あれだけ酷い描かれ方をして、日本人なら苛立たない方がどうかしている。
どこか遠い星の宇宙人じゃなく、ぼくらの同胞が苦しんでるんだから、ちょっとは真剣にその救済を考えるだろう。


脚本家の大河内一楼氏は、『クリティカル・ゼロ コードギアス 反逆のルルーシュ』(2009年)という本の中で

『コードギアス』のときは全50話の予定だったのですが、第1話と第25話(第1期の最終回)、第50話(『R2』の最終回)だけを決めていたんです。


と語っている。つまり始めから結末は決まっていたということで、『R2』を続編と考えるのは微妙に違うだろう。『コードギアス』は全50話でひとつの物語ということだ。では、もうひとつ、あらかじめ決まっていた第25話はどう終わったか。
第一次東京決戦での、黒の騎士団の壊滅だ。
ここで日本人による大規模レジスタンスは完全に潰えてしまった。

しかし代わって第26話から始まる『R2』で、救済の道は二つ示された。
ひとつはルルーシュの父シャルルが計画した「ラグナレクの接続」だが、これはルルーシュによって潰された。
そしてもうひとつの道、ルルーシュ自身の計画「ゼロレクイエム」によって日本は独立を回復し、日本人が救済された。

その過程はこう。
中華連邦が九州ブロックに作った傀儡政権をルルーシュは潰す。続いてブリタニアが建設した「行政特区ニッポン」、その中では「日本人」を名乗れるし、ブリタニア人の特権も存在しないが、やはりルルーシュに潰される。そして先述した「合衆国日本」が誕生。『R2』で大陸に渡ったルルーシュらは中華連邦を内部崩壊させて民主化、「合衆国中華」を建設。さらには、日中ふたつの「合衆国」を中心に47カ国が連合し、「超合集国」が誕生する。「超合集国」は固有の軍事力を放棄し、どの国家にも属さない戦闘集団「黒の騎士団」に安全保障を委託することを決定。ルルーシュはそのCEOとして全軍を日本奪還に振り向けるが、第二次東京決戦もブリタニア軍の勝利に終わる。その後何やかんやあって父シャルルを殺したルルーシュは、うまいことブリタニア皇帝の座を乗っ取ると、歴代皇帝陵の破壊・貴族制度の廃止・財閥解体・植民地の解放などの民主化政策を行う。このとき、名目上は日本が独立する。そして実兄シュナイゼルとの最終決戦に勝利したルルーシュは、ブリタニア第99代皇帝と黒の騎士団CEOと超合集国議長を兼ねる、とんでもない権力者となる。このとき日本は皇帝直轄領に。
そしてそのうえで、ルルーシュは大衆の目前で自分を暗殺させる・・・。


わざとゴチャゴチャさせて書いてみたが、劇中で日本が真に独立国となり、世界に平和が訪れるには、こんだけのプロセス、手数が必要だったってことだ。全ての国家を民主化させ、軍事力の一斉放棄(黒の騎士団への委譲)を行って、世界はようやく「話し合いというひとつのテーブルにつくことができる」。そのためには強引な独裁政治が一時的に必要だったし、そして最後は軋轢や憎悪を一身に引き受けて、ひとりの独裁者がこの世から消えなければならなかった・・・。

・・・もちろん、こんなのは「マンガ」でしかない。
しかし、日本人への圧政、差別や虐待に本気で「怒り」、その心のままに解放と平和を願ったとき、初めてその先に求められる努力の大きさに呆然とできるだろう。ここまでやらなければ軍隊は放棄できず、戦争はなくせないのかと。

だからおそらく『コードギアス』をみた少年少女たちが、思考停止の平和主義に陥ることはないだろう。ルルーシュ流の「世界政府の作り方」を知った後で、具体策にかける精神主義に心動かされる者はいない。

つづく

『はだしのゲン』の歴史認識 〜南京大虐殺/従軍慰安婦

gen

反日マンガの世界』(2007年・晋遊舎)というムックで、反日まんがの二大巨頭みたいにあげられてるのが『はだしのゲン』と『美味しんぼ』だ。ぼくらの世代だと『美味しんぼ』は十分成長してから読んだので無害だったが、『はだしのゲン』のおかげで東京裁判史観に洗脳された過去を持つ人は大勢いるはずだ。

はだしのゲンがいた風景』(2006年・梓出版社)などを読むと、あの時代、このマンガがいかにして学級文庫や図書室を席巻していったかが、詳しく書いてある。ちなみにぼくは小学生の時に、親が共産党員をやってる友人から(むりやり)渡されて読んだ口だ。

ところがそんな『はだしのゲン』、あらためて読んでみると、マンガとしてはスゲー面白い。原爆やら反戦やらを抜きにして、ゲンと人々が織りなすドラマは一級品だと思う。中公文庫コミック版の7巻の巻末では、「封建主義者」として名高い評論家の呉智英さんが『はだしのゲン』を絶賛しているが、こんな感じだ。

『はだしのゲン』の中には、しばしば政治的な言葉が、しかも稚拙な政治的言葉が出てくる。これを作者の訴えと単純に解釈してはならない。そのように読めば、『はだしのゲン』は稚拙な政治的マンガということになってしまう。そうではなく、この作品は不条理な運命に抗う民衆の記録なのだ。稚拙な政治的言葉しか持ちえなくても、それでも巨大な災厄に立ち向かおうとする人々の軌跡なのだ。

呉智英さんの「人間を描けているか、人を感動させるかが、作品を評価する基準になるのだ」という意見はごもっともで、何も異論はない。ぼくもこのブログでいろんな作品にケチをつけているが、そもそもつまらない作品は話の俎上にも上らないもんだ。ゲンがわめき散らす悪態だって、天皇陛下だけじゃなく、軍部にも財界にも、もちろんアメリカにも向けられているんだから、こどもの戯れ言として見逃してやってもいいのかもしれない。

が、それでも『はだしのゲン』には大きな問題があって、大人が「人間ドラマ」として楽しむならともかく、無垢な子どもに読ませるのは、かなりマズイとぼくは思う。というかむしろ、『はだしのゲン』を支援する政党や団体にとっての方が、この作品はマズイだろう。もちろんそれは、ゲンが叫ぶ「稚拙な政治的言葉」のせいでだ。
簡単に言ってしまえば、そこで何が描かれ、何が描かれなかったのか、ということが問題になる。

手元の中公文庫7巻には、卒業式の君が代斉唱を拒否したゲンが、こんなセリフを吐くシーンがある。

わしゃ日本が三光作戦という、殺しつくし、奪いつくし、焼きつくすで、ありとあらゆる残酷なことを同じアジア人にやってきた事実を知ったときは、ヘドが出たわい

三光作戦・・・?。
こんな単語を知ってる人が、世の中にどれほどいるんだろうか?

戦術としてよく知られた呼称が中国語であることなどから「三光作戦は中国側のプロパガンダだ」と言われ、また「三光作戦」に言及することが「左派系のプロパガンダ」とされることも多く、これらの行為の実態はその有無も含めて議論がある。

Wikipediaにはこんな説明があるが、戦後、「三光作戦」という用語を使って旧日本軍を糾弾してきたのは中国共産党だったらしい。ところがいつの間にか中共側もこの主張は引っ込めてしまい、かつてライバルだった国民党(中華民国)が使ってきた単語に乗り換えた経緯があるそうな。
その単語とは、言わずと知れた「南京大虐殺」だ。

※参照動画「2/3【討論!】南京の虚構を暴く![桜H24/3/17]

つまり、ゲンというか中沢啓治は『はだしのゲン』の中で、あの「南京大虐殺」に全く言及していなくて、触れられたのは中共ですら引っ込めてしまったプロパガンダの「三光作戦」なんですよ・・・。

『はだしのゲン』の連載が始まったのは1973年で、本多勝一の『中国の旅』はその前年に刊行済み。ましてや中公文庫の7巻目が描かれた80年代なら、日本軍の残虐を訴えるために選べるカードは「南京大虐殺」でも「三光作戦」でも良かったはずだ。だが、中沢啓治が引いたのはプロパガンダの方(三光)だった・・・。

・・・これ、もう一方(つまり南京)がプロパガンダじゃない保証って、ほんとにあるのか?


『はだしのゲン』で言及されなかった「日本軍の蛮行」はまだある。
「軍の強制による従軍慰安婦」だ。

朝鮮人の労働力としての徴用は第1巻から出てくるが、いわゆる「従軍慰安婦」についての言及は実は皆無。
慰安婦に「軍の強制」があったとする吉田清治の偽書(創作)が世に出たのは1977年だから、雑誌掲載時の「激動編」以降ならマンガに描けたことを考えると、言及がない理由は中沢が「知らなかった」「聞いたことがなかった」「信じなかった」などネガティブなのものにならざるを得ないだろう。

念のため書いておくが、マンガ完結後になって中沢啓治が「南京大虐殺」や「(強制連行)従軍慰安婦」について発言したとしても、そこに意味はない。反戦平和の教典のような『はだしのゲン』で、リアルタイムにはそれらが描かれていないことが問題なのだ。

「右」からすれば、「三光作戦」や「強制連行」のようなデタラメのせいで子供に見せられない。一方、「左」からすれば、「南京」も「慰安婦」も抜けているから子供に見せられない。
お互い、つくづく扱いに困るマンガというわけだ(笑)。


ところで以前、コメント欄で「人は何故サヨクになるのか?」が話題になったことがある。
「サヨク」って何? を一応書いておくと、共産主義や社会主義に興味はないが、無自覚にその思想的影響下におかれてる人、ってとこか。反戦平和や人権や平等といった価値観を絶対のものと感じていて、自虐史観(東京裁判史観)に呪縛されていることが多い。

で、今回『はだしのゲン』を取り上げたのは、人がサヨクになる原因のひとつには「間違った歴史認識」があると思うからだ。あの中沢啓治でさえ「間違っていた」。ならば、マンガで反戦を訴えることもない普通の一般人が、自分だけは間違っていないと言い切れる根拠など、どこにあるんだということだ。

実はぼくの親しい友人にも、最近になるまで「南京大虐殺」の実在を疑ってないおっさんがいた。それはかなりの問題なので、次回からはしばらくの間、そんなおっさんに向けた記事でいこうと思う。とりあえずは、おっさんに人気の「リベラル」作家、司馬遼太郎のこんな発言から。

たとえば私は戦争の末期、旧日本軍の兵士でした。戦後になって日本がほうぼうで悪いことをしたというのを初めて知るんですけども。私はそんなの目撃したこともないし、もちろんやったことなどなんにもない。満州でもない。中国の人ともうまくいってました。(『時代の風音』1992年)


つづく

映画『戦争と人間』(1970ー73 日活)


1970年から73年にかけて、日活が大金かけて作った映画に『戦争と人間』がある。原作は五味川純平で、監督が山本薩夫。三部作の合計で、9時間23分という超大作だ。満州事変から支那事変あたりを舞台とした壮大な人間ドラマで、豪華キャストに豪華セット、ロケ地の映像も美しい。

・・・が、これがトンデモない反日映画なんすよ。
途中途中に妙な史観が混ざってくるおかげで、せっかくの人間ドラマも楽しめないし、何もかもがウソくさく思えてしまう。もちろん作り手は、当時の「史実」と思われていた知識で作ったんだろうが、それが間違っていると映画そのものが残念なことになる典型だと思う。
まぁこんなクソ長い映画、今からわざわざ観る人も少ないだろうので、ぼくの方で参考までに「史観」だけをまとめてみたい。


最初にでてくるのは、台湾統治下でおきた原住民の暴動事件、「霧社事件」だ。

昭和5年10月、台湾霧社部族は過酷な植民地収奪に耐えかね、突如蜂起した。これに対し日本軍は凄惨な弾圧を加えた。霧社事件である。


このナレーションだけ聞くと、日本はまるで『さらば宇宙戦艦ヤマト』のガトランティス帝国かのようだが、Wikipediaにはこの事件の顛末についての詳細がある。それによると、暴動の原因はこうだ。

その日、巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかった。巡査を宴に招き入れようとモーナ・ルダオ(霧社セデック族村落の一つマヘボ社のリーダー)の長男、タダオ・モーナが巡査の手を取ったところ、巡査は宴会の不潔を嫌うあまりステッキでタダオを叩いた。侮辱を受けたと感じたタダオは巡査を殴打した。この殴打事件について警察からの報復をおそれた人々が、特にモーナ・ルダオは警察の処罰によって地位を失うことを恐れ、暴動を画策したと言われている。


結局のところ問題の根本にあるのは、日本人が持つ台湾原住民(首狩り族)への差別意識であって、「植民地収奪」ではない。ただ、当時日本が行っていた「理蕃政策」は台湾の民主化・近代化を目指したものではあったが、それは余りに性急で上から目線だった。文明の強制が、台湾原住民の不満を募らせてしまったというわけだ。

が、大切なのはここからだ。
この事件に衝撃を受けた総督府はすぐに理蕃政策の抜本的見直しに着手、原住民は「日本人と同等の民族として位置づけられ、皇民化教育が最優先されるようになった」。その結果、現在の台湾原住民は「日本統治時代に日本側が原住民の文化についての詳細な調査・記録や研究をおこなったことが、原住民が自らの伝統文化を継承するにあたって大きな助けになっていると評価をしている」(引用Wikipedia)。
そして

現在も原住民の居住地域は「山地管制区」と呼ばれ、外部の人間が出入りし、経済活動を行うことが制限されている。(これは現在では隔離政策と言うよりも保護措置として受け止められている。)


簡単にいえば、かつての日本(総督府)は「悪」だったが、暴動のあとは「反省」して「善」になった。人も国も成長するものだと考えれば、大切なのは当然、「反省」して「善」になった後半部分だ。
しかしこの映画はそれを認めず、一度でも「悪」を犯したものは、未来永劫に「悪」だと糾弾しているわけだ。わざわざ「過酷」とか「凄惨」といった言葉を持ち出してきて・・・。


続いて登場するのが、統治下の朝鮮で起こった「三・一運動」(万歳事件)だ。

大正八年三月一日
朝鮮独立運動弾圧
殺傷者三万余
万才事件という


もともとは平和なデモ行進だった独立運動はしだいに暴徒化し、総督府発表では死者357人、『韓国独立運動之血史』によれば死者7509名という内乱に発展してしまった。映画では、白装束の朝鮮系日本人(元朝鮮人)が、デモ中に内地人に銃剣で一突きに殺害されたり、まとめて首つり刑にされたりと、残虐な映像が続く。しかし韓国人の金完燮が書いた『親日派のための弁明』(2002年)には、こういう記述がある。

三ヶ月間つづいてもなお運動の勢いが衰えず、日本の正規軍の投入が目前に迫ると、李完用は新聞をとおし三回にわたって独立運動を中止するように懇々と訴えた。(中略)一部でけなす人もいるが、朝鮮人に絶大な影響力をもち、心からの尊敬を受けていた李完用の呼びかけによって、六月初め三・一運動は軍隊による鎮圧なしに平和裡に終結した。


ちなみに「きっかけを作った宗教指導者らは、孫秉熙(ソンビョンヒ、天道教の教主)ら8名が懲役3年、崔南善(チェナムソン)ら6名が懲役2年6ヶ月の刑を受け、残る者は訓戒処分または執行猶予などで釈放されている」とのことだから、総督府は首謀者を厳しく裁いたわけじゃない。
そして「憲兵警察制度を廃止し、集会や言論、出版に一定の自由を認めるなど、朝鮮総督府による統治体制が武断的なものから文治的なものへと方針転換される契機となった」というんだから、話の流れは台湾統治と全く同じ。「反省」から「善」へだ。
もちろん、映像に出てきたような虐殺は行われていない。映像のような弾圧をされて、「次第に終息」するわけがない。


第二部に出てくるのが「731部隊」(映画では「石井部隊」と呼ばれている)。
劇中に出てくる人体実験は、毒ガスを5分吸わせて殺害、青酸カリを飲ませて殺害、5000Vの電流を食らわせて殺害・・・て、おい!どれもこれも実験じゃねーぞ(笑)。

たしか森村誠一の小説『悪魔の飽食』だと、「人間が入るほどの遠心分離器で体液を搾り出す。→全身骨折で死亡しても、凝血するだけで血液は出てこない」とか「注射針で体液を吸い出してミイラにする。→血液を他の液体と置換するのではなく、干からびるまで吸い出すのは現在の技術でも不可能である」とか「真空室にほうり込み、内臓が口、肛門、耳、目などからはみ出し破れる様子を記録映画に撮る。→宇宙開発での実験により、このようなことは起きない事がわかっている」じゃなかったか(笑)。

731部隊の「人体実験」や「細菌戦」に関しては、万人が認められるレベルの証拠はないとぼくは聞いている。2007年にアメリカが公開した機密文書にも、「細菌戦を研究」以上の事実は記載されていなかったそうだ(「米情報機関、対日機密文書10万ページ分を公開」)。731部隊の悪行の証拠は、例によって「証言」ばかりで物証がないわけだ。

毎度のことだが、日本軍がやったというなら、そっちの立場が証拠を挙げなければならない話。
たとえば『戦争と人間』でも描かれている「張作霖爆殺事件」だが、日本側には主犯を実子の張学良だとする説もある。『真実の中国史』(宮脇淳子・2011年)によると、最近になって加藤康男氏がその証拠を見つけた場所は、ロンドンのイギリス公文書館だったそうだ。必死になって探せば何らかの証拠は出てくるという好例だろう。


さて、こうしてみると『戦争と人間』がもったいぶって取り上げる、おどろおどろしい日本軍の悪行は、実はどれもこれもが先入観に満ちた一方的な見方であり、史実というよりイメージ優先のプロパガンダとみたほうが良い気がしてくる。少なくとも、信用には値しない。
ならば次はどうだろう。

12月13日南京占領。国民政府は首都を漢口に移した。世界史上に類例を見ない悪夢のような大事件は、この直後に引き起こされたのである。日本軍による言語に絶する大量虐殺は、一ヶ月にわたって続けられた。殺戮された中国人の数は、実に30万人を超えると伝えられる。(『戦争と人間』第3部より)


これまで散々怪しげな話を聞かされてきて、いや、これだけは信用できるという人も珍しいのではないか?
映像には「証拠」とされる写真が多数出てくるが、それらは『南京事件「証拠写真」を検証する』(2005年)などの本で、今では「証拠」として通用しないことが明らかにされている。そしてここでも「証拠」は、証言ばかりだ。

念のため、「南京事件の真実を検証する会」が2008年に制作した『胡錦涛国家主席への公開質問状』を引用しておく。南京事件への疑問が分かりやすく整理されていると思う。なお出典は『2/3【討論!】南京の虚構を暴く![桜H24/3/17]』という動画。

①中国共産党の毛沢東は、生涯で一度も「南京虐殺」に言及していない。

②国民党国際宣伝処の極秘資料によれば、1937年12月1日から1938年の10月24日までの間に、漢口で300回の記者会見を行ったが、ただの一度も南京における「市民虐殺」「捕虜の不法殺害」を述べていない。

③南京の人口は日本軍の占領直前20万人で、その後も20万人を維持し、占領1ヶ月後には25万人と記録されている。30万人虐殺はありえない。

④安全区を管理した欧米人の国際委員会の記録『Documents of the Nanking safety zone』によれば、殺人は26件で、直接目撃されたものは1件のみであり、その1件には合法殺害と注記されている。

⑤南京虐殺の証拠写真とされるものの中には、ただの一点も証拠価値のあるものが存在しないことが、科学的研究によって明らかにされている。



・・・しかし、70〜73年当時に、劇場で『戦争と人間』をみちゃったら、信じてしまっても仕方ないかもしれない。団塊世代だと25才くらいか・・・。
案外この映画が、秘かに歴史観のベースになってる人もいるかもしれない。当時の研究レベルでは仕方ない面があるからプロパガンダ映画とまでは言わないが、今後顧みられることが少ない残念な映画のひとつだと思う。

※なお、『ひと目でわかる日韓・日中 歴史の真実』(水間政憲・PHP研究所)という本には、南京占領当時の写真がたくさん掲載されている。30万人殺したってことは、そこに写っている笑顔の中国人たちはみな幽霊で、写真はぜんぶ心霊写真ということになるな(笑)。

つづく


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