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竹波エーイチ

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ヤマタイカの旅 -九州編その1

阿蘇くまもと空港

邪馬台国の女王、卑弥呼の巨大祭器「オモイカネ」を探すため、久高島を旅立った伊耶輪神子と神女たち。その神子を追う熱雷草作と岳彦の親子が到着したのは、九州は熊本空港だった・・・。ならばマンガ『ヤマタイカ』(星野之信)の舞台をめぐるぼくらの旅も、阿蘇くまもと空港から再開だ。

チブサン古墳

まず神子が向かったのは山鹿市にあるチブサン古墳
おそらく古代史ファンには普通の光景なんだろうが、どこにでもある田舎町の、民家や畑が点在する生活圏のすぐ隣に古墳があって、ぼくら門外漢にとってはビックリだった。

ここで神子が見ていたものは装飾壁画に描かれた人物像で、『ヤマタイカ』ではそれを、三本角の王冠を被って両手を広げている「卑弥呼」だと見なしている。
なお、マンガが連載されていた1986〜91年頃は、古墳の内部に自由に入れたようだが(笑)、現在は管理する山鹿市立博物館に見学の予約をする必要がある(写真は駐車場に設置されたレプリカ)。

阿蘇山

お次は、『ヤマタイカ』ではズバリ卑弥呼の居城があった場所とされ、元々は「オモイカネ」が埋められていた聖域とされる、阿蘇
死ぬまでに一度は見ておきたいと願ってきたが、今回、運良く阿蘇山公園道路が開放されていたので、中岳火口に近づくことができた。次々と立ち上ってくる白煙が、一気に数十メートル舞い上がっていく様子に中国人観光客が大喜びしていたが、そういえば中国には活火山がないんだっけ?(白頭山だけ?)

天安河原宮

宮崎県に移動して、高千穂町の天岩戸神社へ。
『ヤマタイカ』に出てきたのは西本宮に隠された「天岩戸」じゃなくて、道路を下って岩戸川をさかのぼった河原にある「天安河原宮」。アマテラスが岩戸に隠れたとき、思兼神ら天津神の皆さんが対策を相談した場所だそうな。

西都原古墳群

南にクルマを走らせて、西都原古墳群へ。
だだっ広い草っ原に300以上の古墳が並ぶ、日本最大級の古墳群だとか。

一つだけ横穴式石室が開放された珍しい形状の古墳(鬼の窟古墳)があったので入ってみたが、こんだけ目立つのにマンガに出てこないのは、連載当時まだ発掘されてなかったのかも知れない。

神武天皇をお祀りする宮崎神宮に立ち寄った後、『銀河鉄道999』に出てきそうなカッコいい列車で大分へ。別府の温泉旅館で食ったシマアジは格別の味わいであった。

宇佐神宮

そして、宇佐神宮・・・。

『ヤマタイカ』に登場する奈良東大寺の高僧によれば、西の宇佐、東の伊勢は、大和を"火"から鎮護する要として、東西の火山地帯との境界上に造営された二大神宮だという。それは大和を守るための巨大な結界であり、長年に渡って、ある"力"の侵入を防いできた、とも言う。

その"火"、そして"力"とは何か!!


・・・と、それはまぁネタバレになるのでマンガを買って読んでいただきたいが、読む際にはひとつ注意が必要な点がある。SFとしては不朽の名作である『ヤマタイカ』だが、日本の古代についての歴史観が古すぎるのだ。昭和末期から平成初期に書かれたんだから当たり前で、『宗像教授シリーズ』など読めば、星野氏がいつでも最新の情報をマンガに活かしているのは明らかだ。

んでは、『ヤマタイカ』の歴史観がどう古いかと言えば、まず「縄文と弥生の対立」があげられる。
BC300年頃、北九州に「スマートな弥生式土器と本格的な稲作文化」をもった「渡来人」が押し寄せて、原住民である縄文人を圧倒。渡来人の力で日本は弥生時代に発展し、あわれ縄文人は、蝦夷やら熊襲やら琉球やらへと押しやられてしまった・・・てな話。

それと「邪馬台国東遷説」。
AD250年頃、邪馬台国の女王・卑弥呼が亡くなると、「渡来系の実力者」がクーデターを起こして実権を奪う。彼こそが後の神武天皇であり、神武率いるニュー邪馬台国が東遷して大和に樹立した政権が、のちの大和朝廷だ・・・てな話。

これらがどう古いのかと言えば、まず前者だと、弥生時代はBC300年頃とかではなく、紀元前10世紀後半に始まったというのが最新情報らしい。2019年3月に出た『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(関裕二/PHP新書)によれば、炭素14年代法によって弥生時代の始まりが紀元前10世紀後半の可能性が高くなり、その結果

「北部九州に渡来人が稲作をもたらし、一気に日本列島を稲作文化が席巻した」というかつての常識は通用しなくなった。


とある。また、最新のDNA研究の結果として、「かつて信じられていたような大人数の移住の可能性は低く、少人数が何回かに分かれてやってきた」という科学者の推理を紹介しつつ、こう結論づけてある。

弥生時代や古墳時代は、かつて盛んに推理されていたような「渡来系の一方的な制圧、侵略」「渡来人が先住民を駆逐した」のではなく、大陸や半島を追われた人たちが、染み込むように日本列島に拡散し、定住し、先住民と融合し、稲作をはじめ、人口爆発を起こしていたと考えられる。


要は、100年200年でわーっと変わったと思われていたものは、実は1000年かけてゆっくり変わっていたことだった、縄文と弥生には対立なんかは存在せず、長い長い年月をかけて溶け合っていったのだ、というのが2019年の考え方。

それでは後者の「東遷説」はどうか。
こちらの否定のされ方は、時間が引き延ばされたとかいう次元の話ではなく、全くの逆転の衝撃だ。

2019年5月に出た『日本の誕生 皇室と日本人のルーツ』(長浜浩明/WAC)によれば、卑弥呼の後継者どころか、神武天皇は卑弥呼より300年も前を生きた人なんだそうだ。長浜さんの説をとれば、神武天皇と卑弥呼の間にはなんの縁もゆかりもなく、ヤマト王権と邪馬台国もまったくの無関係ということだ。

長くなったので、詳しくはつづく

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映画『まぼろしの邪馬台国』(2008年・東映) -九州編その2

まぼろしの邪馬台国

まぼろしの邪馬台国』は2008年公開の日本映画。
主演の吉永小百合が、あっち方面のシンパだということで拒否反応を起こす人もいるかも知れないが、盲目の郷土史家・宮崎康平を演じた竹中直人の怪演はいいし、堤幸彦監督ならではのVFXもいいし、吉野ヶ里遺跡で撮影したと思われる弥生時代の再現シーンもいい。見て損はないと思う。

さて、それでは長浜本の話題に移ろうかと思ったが、本題に入る前に整理しておかないといけないことが、一点ある。
邪馬台国の位置についてだ。

すでに見たように、「東遷説」に基づくマンガ『ヤマタイカ』では、それは阿蘇だとされたし、映画『まぼろしの邪馬台国』で宮崎康平が出した結論は、長崎県の島原だった。
ぼくなんかも、ごく自然に邪馬台国は九州のどっかにあったんだろう、と感じていたが、専門家の間ではそうではなく、邪馬台国は大和(奈良県)にあったという説が主流なんだとか。

その根拠をざっくりwikipediaから引用すると「畿内には最大級の都市遺跡がある。魏に朝貢した邪馬台国はその当時の日本列島最大勢力であったはず」という仮定、に基づいているそうだ(『邪馬台国畿内説』)。

ううむ、漫画家や郷土史家が九州説で、専門の学者が大和説じゃ、やっぱり大和説が正しいのかなぁ・・・とあっさり考え直したくなるが、ここにお一人、興味深いキャリアの専門家がいる。長年の大和説を死の間際に否定して九州説に転じられた、門脇禎二先生だ。

門脇先生は京大卒業後、京都学派として長年大和説を支持され、京都府立大学の学長まで務められた立派な先生だ。その先生が、病床で執筆し、絶筆に終わった「九州説」が『邪馬台国と地域王国』(吉川弘文館/2008年)だ。

この本のなかで門脇先生は、大和説をとることが「不安になった」と率直に述べられている。そして全ての始まりだった『倭人伝』の読み込みへと戻られていったのだった。

ぼくは門外漢なのでザックリとした話になるが、『魏志倭人伝』には、邪馬台国の位置を示すものとして、距離・面積・方角があるらしい。

まずは距離だが、その起点となるのは、当時の魏の、朝鮮半島最南端である帯方郡で、これは今のソウルあたりと岩波文庫版には書いてある。んで、当時の朝鮮半島の状況は『魏志韓伝』によればこうだ。

※なお、以下の『魏志韓伝』『魏志倭人伝』の訳は、こちらのサイトから引用させて頂いた。
古代史レポート

韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。


どうやらソウルから南が「韓」で、朝鮮半島南部で「倭」と境界を接しているらしい。
んでその接している「倭」については、『倭人伝』の方では「狗邪韓国」だと書いてあり、帯方郡から「狗邪韓国」までは7000余里なんだと。

そこからいよいよ海を渡って「対海国」まで1000里、南にまた1000里行って「一大国」、また1000里いって「末盧国」、ここからは陸行で、東南に500里で「伊都国」、東南100里で「奴国」、東に100里で「不弥国」と、ここまでは「里」で具体的な距離が書いてあって、そして最終的に、帯方郡から邪馬台国までは1万2000余里だとも書いてある。

簡単な引き算で、総距離12000から道中の10700を引けば残りは1300前後。
伊都国だとか奴国だとかが九州北部のどこかであることは大和説でも認めているわけで、邪馬台国は佐賀県、福岡県、熊本県のどこかだと考えるのが素直だろう。

次に面積だが、『魏志韓伝』によれば「韓」の面積は「四千里四方」とあって、今の韓国から「狗邪韓国」を切り取ったサイズが一周4000里。一方、邪馬台国を含む「倭」の面積は『魏志倭人伝』では「五千余里」で、九州全体に対馬を合わせれば「韓」の20%増しでザックリ計算が合うと思う(少なくとも中国地方や近畿地方は含まれないだろう)。

最後は方角だが、『倭人伝』には「その道里を計るに、まさに会稽東冶の東に在るべし」とあって、正確な地図もない時代のこと、「倭」は中原から海を渡った東方だとザックリ言ってるのだと、ぼくは思う。もしも女王国が九州でなく近畿地方にあったのなら、こういう書き方は意味を成さないのではないか。


というわけで、素直に『魏志倭人伝』を読めば、邪馬台国は九州のどこかでしかあり得ないように思えるが、一カ所、厄介な記述がある。「不弥国」までは「里」で表してきた距離が、そこから先はなぜか南へ「水行二十日」、南へ「水行十日、陸行一月」と旅程で表記され、ではその通りに、と移動すれば、邪馬台国はとんでもなく南の洋上に存在することになってしまうことだ。

それで学者が考えたのが、きっと南と東を間違えたのだろう。南じゃなくて東なら、だいたい近畿地方になるじゃないか。めでたしめでたし。

・・・ということらしいが、それってホントに学問なのか?(笑)
 
吉野ヶ里遺跡
(本文とは関係ありません)

考えるヒントは二つあるようで、まず『魏志倭人伝』と同時代に書かれた文献『広志』には、邪馬台国は伊都国の南にある、とシンプルに書いてあること。
もう一つは、時代を下った『隋書倭国伝』に「夷人(倭人)は里数を知らない。ただ日を以って計算している」という記述があること。

『魏志倭人伝』によれば、この時代の邪馬台国は、伊都国に代官を置いて、交易や外交を行っていたらしい。つまり、魏の使者が実際に知っているのは伊都国周辺までで、それより南は倭人からの伝聞情報でしかないってことだ。

倭人に聞いたら「水行二十日」だとか「水行十日、陸行一月」だとか答えたよ、というのが謎の旅程の正体で、実際には『広志』にあるように伊都国の割とすぐ南に邪馬台国はある、と言われた方がぼくにはスッキリした説明だと思えるんだが。

ちなみに『魏志』のあとに書かれた『後漢書』『宋書』『隋書』からは、水行なん日〜陸行なん日のくだりはカットされているな。


ところで『魏志倭人伝』によると、いわゆる「倭国大乱」と言われる時代があって「倭国は乱れ、相攻伐すること歴年」だったらしい。そこで「卑弥呼」という巫女を共同の王に立てることで、「倭」は平和を取り戻した、とある。
そしてそのせいか、卑弥呼の「宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している」とあって、つまりは邪馬台国はかつての大乱の地の上に、立つ国だと言えそうだ。

それでは『倭人伝』で倭人が用いたとされる武器、「鉄鏃」(てつぞく)が多く出土している地域はどこだろう。

それは、2016年発行の『古代史15の新説』(別冊宝島)に収められた安本美典さんの記事によれば、1位は福岡県で398個、2位は熊本県で339個、3位は大分県で241個、となっている。
素直に考えれば、これらの地域こそが「倭国大乱」の舞台で、邪馬台国もその中にあったはずだ!、となると思う。

ちなみに奈良県は、たったの4個だってさ・・・。

さて、そろそろ飽きてきたので、邪馬台国の位置の話題は終わりにしよう。
次回は長浜本に戻って、いかにして長浜さんが神武天皇の即位年を割り出したか、を紹介したい。


【6/12追記】
「水行」について、納得いく説明を読んだので追記しておく。

弥生時代を拓いた安曇族』(亀山勝/龍鳳書房)というブックレットによると、「水行」という表現は『三国志』65巻中「倭人伝」に出てくる3箇所しかなく、130巻の『史記』にも3箇所しか出てこない珍しい言葉で、かつ『越絶書』には「越人は山だって水行する」という文もあるらしい。

つまり「渡海」と「水行」は明確に分けて使われている言葉で、内陸部の河川を利用した場合のみ「水行」と表現されるそうだ。さらに具体的には「川を主に使い舟に乗っては陸地に上がりと繰り返し旅の状態」という「名詞的」なもので、現代で言う「航行」とは異なるとも。

古代史ファンには常識なのかも知れないが、なるほど〜と思ったので。

つづく

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『日本の誕生』長浜浩明 -九州編その3

iPad Pro 2018

長浜浩明さんの最新刊『日本の誕生 皇室と日本人のルーツ』(WAC)によると、神武天皇が生きたのは、邪馬台国の卑弥呼の時代より300年ほど前の時代だという。仮に2019年から300年前といえば、徳川吉宗が暴れん坊将軍として活躍していた時代なわけで、300年はそれほどに長い。

まず先に神武天皇の「東征」があって、その300年ほど後に邪馬台国に卑弥呼がいた・・・。
これは従来の日本古代史、さらには日本建国史を根底から覆すような話で、真実であるなら教科書の書き換えが必要なレベルだ。

長浜さんは東京工業大学のご出身で、卒業後は大手の設計事務所に入社されたそうだ。
おそらく、そんなキャリアだからこそ気がつけたのが、『日本書紀』の神武東征のくだりが、「大阪平野の発達史」のある年代と奇妙な一致を見せるという事実だ。

戦後の復興期、大阪でも多くの高層建物が建設され、戦後数十年に亘り隈なく掘られた地盤の調査資料から、大阪の地下構造と形成過程が明らかになっていったのです。


その大阪平野の発達過程は7つに区分され、一番古いものは2万年前の「古大阪平野時代」、その後、河内「湾」の時代、河内「潟」の時代を経て、現在は河内「湖Ⅱ」の時代らしい。そしてそれら7枚の古地図を並べてみたとき、長浜さんは気がついたわけだ。
一枚の地図だけに、『日本書紀』で神武天皇が大阪湾に進軍した時の状況が、そのまま表されていると。

それは「河内潟の時代」、紀元前1050〜前50年の大阪の古地図だった。
この期間に限れば、あの『日本書紀』の描写は歴史的事実に基づいた記録だ、と考えることができるわけだ。

長浜さんの探求は、続いて文献に向かう。
裴松之は南朝・宋の時代の歴史家で、『三国志』では取り上げられなかった資料を元に「裴松之の注」なる補足を行った人物。
そこには三国時代の倭人の風習として、次のような記述があるそうな。

「其俗 不知正歳四時 但記春耕秋収 為年紀」

(倭人は歳の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている)


要は、「倭人は一年を二年に数えていた」と当時の中国人が記録していたわけだ。
そしてその明らかな終わりは、「暦博士」という官職が『日本書紀』に表れる欽明天皇の時代、西暦で539〜571年の在位期間の前まであたりか、というのが長浜さんの推理だ。

ならば、欽明天皇以前の天皇の年齢は、およそ半分に計算すればいい。
そうして導かれた神武天皇の即位は、前70年。これはまさに「河内潟」の時代に相当する・・・。

もちろん、ご著書では細かい分析がなされているわけだが、ぼくの記事は、古代史に全く関心のない東京某所の雑誌編集者に向けて書いているので、こんなもんで十分だろう。

八紘一宇
(本文とは関係ありません)

実は、神武天皇は卑弥呼より前の時代の人間なのでは? と考えさせる本は長浜本だけはない。

産経新聞出版から2016年に出た本に『神武天皇はたしかに存在した 神話と伝承を訪ねて』がある。副題の通り、神武天皇の足跡を実際に回って、神社や遺跡などに残された土地土地の伝承を丹念に集めていった、凄い本だ。

何より面白いのが、神武天皇が「東征」と言いながら、『古事記』によれば、岡田宮(北九州市八幡西区)で1年、阿岐国(広島県)には7年も逗留しているノンビリ旅の理由を、各地に稲作や鉄器、灌漑といった最新技術を広めながら味方に加えていったのでは…という考察をしつつも、当然のごとくに予想される読者からの反応に躊躇って、はっきりとは言い切れない歯がゆさを感じるところだ。

つまり、もしも神武東征が卑弥呼の没後、3世紀末とかに行われたのだとしたら、稲作も鉄器もありふれた、どこにでもある技術に過ぎないじゃん?
という反応に、どう答えたらいいのか。

だが長浜本なら説明可能だ。
卑弥呼より300年も早い時代に、神武天皇は「東征」した。
その時代であれば、レベルの高い稲作や鉄器は、どこへ行っても諸手を挙げて歓迎されたことだろう。


邪馬台国の卑弥呼と、ヤマトとの関係を端的に表している記述が、『日本書紀』にもある。
神功皇后六十六年」だ。

晋の国の天子の言行などを記した超居注に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。(『日本書紀(上)全現代語訳』宇治谷孟/講談社学術文庫)


武帝(司馬炎)二年は西暦266年なので、邪馬台国の時代にへの朝貢があったことが、中国側の記録に残っていることが分かる。
ところが『日本書紀』には、次の「六十九年」に「皇太后が稚桜宮に崩御された」とあって、素直に読めば「倭の女王」と「皇太后」が同一人物とは扱われていないことが分かる。

つまりは、『日本書紀』を編集したヤマトのエリート官僚から見て、邪馬台国の女王なんぞは「倭の女王」扱いで十分な、他人事で無関係な世界の住人に過ぎない、ってことだろう。・・・てか、ぼくが編集者なら、隠蔽というか、無かったことにしたい記述だな、これ(笑)。

春秋年だと神功皇后の年代が100年ほど早くなるため、たまたま我らがヤマトの「皇太后」陛下と、九州の野蛮な「倭の女王」が同じ時代に生きたことになってしまっているが、「倭の女王」ごときが神功皇后であったり、ましてや皇祖アマテラスだなんて、『日本書紀』からは到底感じられないと、ぼくは思う。

それを裏付けるように、『旧唐書』(東夷伝倭国日本国条)には、次のような記述がある。

日本国は、倭国のなかの別種である。その国が日の出る辺りにあるので、そのために日本を国の名とする。
あるいは、倭国が自分でその名が雅でないことを知って嫌がり、あらためて日本としたともいう。また、日本はもともと小国だったが、倭国の地を併呑したともいう。(『現代語訳 魏志倭人伝』松尾光/新人物文庫)


さて、こうして見てくると、「倭」というのは3世紀の九州に存在した、単なる地方王権のように思えてくる。ただ、「倭」だけが中国に朝貢していたので、中国の記録の中に残された、と。
そういえば『魏志倭人伝』にも、「倭」の東には「倭種」の国がある、と書いてあったな。

・・・というわけで次回は、『魏志倭人伝』に描かれた時代より「昔」の日本列島の状況について、ザックリ見てみたいと思う。

つづく
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映画『日本誕生』(東宝・1959年) -九州編その4

草薙剣

映画『日本誕生』から、東国の平定を命じられたヤマトタケルが、伊勢神宮でおばの倭姫(やまとひめ)から草薙剣を受け取るシーン。『古事記』によれば、景行天皇の即位40年、ということなので、長浜さんの計算だと西暦310年頃ということになるだろう。

東征の前にタケルは熊襲(九州南部)も征討しているが、それは西暦304年頃のことで、邪馬台国の卑弥呼が没してから50年ほど後の話。その頃にはすでに宇佐に九州最古と言われる前方後円墳(赤塚古墳)が出来ているし、宮崎県でも大規模な生目古墳群が確認されていて、ヤマトの勢力がすでに九州を東から飲み込もうとしてることが分かる。

ううむ・・・なるほどヤマトタケルの西征・東征は、ぼくらが知る「日本」が、まさに「誕生」しようとしてる場面なんだな〜とか考えながら観ると、くっそ長いこの映画も感慨深いものがある。制作が田中友幸、音楽が伊福部昭、特技監督が円谷英二…とくれば、もう一つの『ゴジラ』なのでは?という見方もできるし、ヤマタノオロチと戦うスサノオはウルトラマンのモデルか?とか、まぁヒマでヒマで死にそうだという人にはお勧めできる映画だ。


それでは本題に。
前回の記事では、「倭」というのは邪馬台国を盟主とした九州諸国の連合に過ぎず、女王卑弥呼が没したAD248年より300年ほど早いBC70年頃には、すでに神武天皇がヤマトの地で即位していた・・・という長浜浩明さんの説を紹介した。

そもそも「倭」と「邪馬台国」が有名なのは、それらが中国の歴史書に記録されたからだ。
だがその記録、『魏志倭人伝』によれば中国人は「伊都国」までしか実際には知らず、その先は倭人からの伝聞によるものだったらしい。
それじゃ記録されなかったことは何から分かるかと言えば、日本各地に残された古代遺跡の発掘からだ。

ということで古い遺跡から順番に見ていくことで、弥生時代中期以降の「日本」について把握したいと思うが、素人が泥縄式に書いていくことなので、年代等はザックリした話だとあらかじめご了承ください(笑)。
また、いちいち引用するのも面倒なので、詳細はウィキペディアへのリンクを踏んで下さい。
参考書として、『日本の古代遺跡』(別冊宝島)から一部を引用してます。

熊本城
(本文とは関係ありません)

んでは、まず古そうなのが、大阪の池上曽根遺跡(和泉市・泉大津市)。
BC400年頃には人が住み着いていたらしいが、BC50年頃には、弥生時代最大級の「高床式堀立柱建造物」を有するまでに発展したとか。100年以上後の時代の吉野ヶ里遺跡より、進んだ技術も散見できるとか。       

鳥取県の青谷上寺地遺跡はBC200年頃から人が住んだところ。
北近畿、吉備地方の土器や、ヒスイやサヌカイトまで出土して、他地域との積極的な交流が認められるそうな。年代は定かでないが、中国の貨幣や鉄製品も大量に出土。

BC100〜AD100にかけて栄えたのが荒神谷遺跡(島根県出雲市)。
昭和58年からの発掘で、それまで日本全土で出土した銅剣300本を一気に上回る358本が出土。
異なる文化圏に属すると思われてきた銅剣・銅鐸・銅矛が一カ所から揃って出土して、近畿と北九州の中間地帯に青銅器の生産と保有の拠点が確認され、神話の国・出雲のイメージを覆した。

同じ頃、丹後の日吉ヶ丘遺跡(京都府与謝野町)からは大量の管玉が出土。AD100年頃には、日本最大最古の水晶工房をもつ奈具岡遺跡(京丹後市)もあり、「丹後王国」の存在を主張する専門家もいる。

そしてBC200年頃から発展した奈良県の唐古・鍵遺跡(磯城郡)からは、屋根に中国風の飾りをつけた楼閣が描かれた土器が出土して、この地域が近畿地方のリーダー的存在だったと目されているとか。長浜本によるなら、神武天皇が即位したのはこの時代にあたるか。

AD100年前後には、滋賀県にも唐古・鍵クラスの巨大環濠集落、伊勢遺跡(守山市)が登場。
ところがこの遺跡は、100年ほどで衰退したそうな。そしてそれを引き継ぐようなタイミングで現れたのが、纏向遺跡だ。

ヤマト建国は三輪山麓の扇状地・纏向遺跡(奈良県桜井市)で始まった。三世紀初頭、それまでなにもなかった場所に、巨大人口都市が出現したのだ。各地から土器が集まり、前方後円墳が誕生し、この独自の埋葬文化を各地の首長が受け入れ、造営した。

纏向遺跡の特徴は、いくつもある。
まず第一に、農耕の痕跡がなく、政治と宗教に特化されていたこと。第二に、倭国大乱のあと、戦争を収拾する時期に出現したのに、なぜか防御のための施設が見当たらない(※『倭人伝』での卑弥呼の居城と一致しない)。

纏向の特徴の第三は、各地から土器が集まってきていたことだ。外来系の土器は、全体の三割弱を占める。内訳は、東海四十九%、…(中略)…無視できないのは、この時代最も栄えていた九州北部の土器がほとんど出土していないことなのだ。「北部九州の邪馬台国が東に移動してヤマトは建国された」という考えは、もはや通用しないのである。

(『縄文の新常識を知れば日本の謎が解ける』関裕二/PHP新書/2019年より引用)


『日本書紀』で纏向を都としたとされる天皇は、11代垂仁(241年即位)、12代景行(290年即位)だから、時期的にもドンピシャだ。素直に考えれば、九州の邪馬台国で卑弥呼が鬼道や祈祷に励んでいた頃、すでにヤマトでは皇室を中心とした一大勢力が確立されていた、と結論が出るように、ぼくには思える。

そして、ヤマトの周りには、もともと吉備や丹波、出雲といった「地方王権」があって、200年ほどの時間をかけて、徐々にヤマトに同化していったのだろう。

『日本書紀』によれば、10代崇神天皇は(216年に)「四道将軍」を派遣して、全国の教化をはかったそうな。行き先は北陸道(越)、東海道(尾張)、西道(吉備)、山陰道(丹波)。

例えばその時代の吉備には、全長72mにもなる双方中円墳「楯築墳丘墓」があって、ヤマト(前方後円墳)とは異なる文化の巨大勢力が存在していたのは確かなようだ。

血も流されたのだろう。以前に紹介した安本美典さんの記事によれば、弥生時代の鉄鏃は、九州を除けば、京都府(丹後)、岡山(吉備)、兵庫(丹波)、広島(安芸)、山口(出雲?)から多く出土している。繰り返すが、奈良はごく僅か・・・。

もう一度整理すると、AD216年に崇神天皇が「四道将軍」を派遣して近畿周辺を平定、241年垂仁天皇が纏向に皇居を置き、248年(九州で)卑弥呼没、304年ヤマトタケル九州平定、310年ヤマトタケル東国平定・・・という流れだ(『日本書紀』では九州平定は景行天皇による事績)。

というわけで、マンガ『ヤマタイカ』の歴史観のうち、卑弥呼の没後、邪馬台国を乗っ取った男王がヤマトに東遷した、という設定の無理矢理ぶりについては、十分に検証できたと思う。

だが実は、もう一つの問題の方が、このブログ的には縁が深い。
次回は、「渡来人」という自虐史観、を検討したい。

つづく
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『火の鳥・黎明編』の自虐史観 -九州編その5

神武天皇?

80年代後半に描かれた『ヤマタイカ』の歴史観も古かったが、1967年の『火の鳥・黎明編』はもっと古い。というか、ほぼデタラメ(笑)。しかしぼくら世代の人間だと、いまだにその世界観を持ったままという人もいるはずだ。

学者の説によれば 西暦三世紀から五世紀にかけて 北中国やモンゴルあたりを 馬に乗って駆けまわっていた部族・・・・騎馬民族・・・・が ぞくぞくと朝鮮半島をとおって日本列島に侵略してきたという
そして もとから 日本に住んでいた原住民たちを つぎつぎに征服して のちの神武天皇のヤマト政府を 築いたのだとしている
神話に出てくるニニギノミコトは 天からタカチホの山にくだった神の子ということになっているが ほんとは 大陸からわたってきた 遊牧部族の首領のようなものだったというのである

 
手塚が「学者の説」というのは、江上波夫の『騎馬民族征服王朝説』。
今では学説というより、SFファンタジーとかライトノベル、学研『ムー』的オカルト、詩集?などに分類されているタワゴトだが、1967年当時はまだ纏向遺跡さえ本格的な発掘が行われておらず、皇国史観を否定したい手塚が飛びついたのも無理はない時代ではあった。

だがもしも、こんな問題のある歴史観の古典マンガを今頃になって引っ張り出し、若い世代に拡散、洗脳を狙ってる組織があるとしたら、死ね死ね団並に悪辣な連中だろう。GHQはとっくに解散したはずだが、今なおWGIPを実行してる部隊があるのかも知れない("火の鳥 朝日新聞"で検索を)。


ところで『火の鳥・黎明編』の歴史観は極端だとしても、日本古代史には岩盤と化した自虐史観が残っている。縄文時代を未開で野蛮な原始人の社会と見て、そこに朝鮮半島経由で「渡来人」が大量になだれ込み、稲作や製鉄の先進技術を使って弥生時代を始めた・・・というアレだ。ぼくら日本人は渡来人の末裔か、あるいは渡来人に文明化してもらった劣等な縄文人の末裔か、どっちか好きな方を選べと。

もちろんそれは、カビの生えた古くさい歴史観だ。
というか、「国民一人あたり何百万円の借金」みたいな、質の悪いプロパガンダだ。

最新情報では、縄文時代は野蛮でも未開でもない社会だと分かっているし、稲作は紀元前10世紀後半には始まっていたことが確認されていて、縄文と弥生は1000年の時間をかけて、ゆっくりと変化して、混じり合っていったとされている。言うまでもなくプレイヤーはどっちも同じ過去の日本人で、縄文と弥生は対立項ではない。ガラケーを使い続けるのか、スマホに買い換えるのか、程度の話だ。

それは、日本語が中国語や朝鮮語とは全く異なるので、日本の支配層が日本人以外だった時代は考えにくいことからも明らかだ。

さらに、「日本語」はいったいどこからもたらされたのか、はっきりとわかっていない。似ている言語が、周辺になく、孤立しているからだ。言語の血縁関係の判定法「規則的音声対応」を用いても、琉球語だけが、日本語とつながるだけだった。(『縄文の新常識を知れば日本の謎が解ける』関裕二/PHP新書)


また、よく言われる「縄文顔」「弥生顔」といった外見的な特徴も、科学的な話ではないらしい。
京都大学名誉教授の片山一道先生によると、弥生人の特徴とされる「面長で平板な顔、低い鼻、細い顎、高い身長」などは、山口県の土井ヶ浜遺跡の人骨には当てはまるが、西九州の弥生人は縄文人とほぼ同じだし、関東の弥生人には「渡来人的な特徴は見当たりません」とのこと。

古墳時代になると、弥生時代後半以降の生活と社会の劇的な変化に対応するように、縄文人とも弥生人とも身体特徴が異なる、のちの日本人に直接つながる古墳時代人が登場することは示唆に富む現象です。(『骨からわかる日本人の起源』別冊宝島)


USA
(本文とは関係ありません)

また、これまで鉄の精錬を日本人が可能にしたのは6世紀後半以降で、それまでは朝鮮半島から素材を輸入して農具や武器を作っていたと思われてきたが、2013年にカラカミ遺跡(長崎県壱岐市)から地上炉が複数見つかって、そのスタート時期は1世紀にまでさかのぼった、という説もある。

また、朝鮮側の記録である『三国史記・倭人伝』を読むと、弥生時代後期から古墳時代には、年がら年中「倭」が新羅の国境を侵したり、城を囲んだりする事件が多数記録されているが、なぜ「倭」がそれほどまでに強かったかには、こんな説もある。

鉄鉱石の産地は朝鮮半島だったが、日本列島ではそれを用いて「鍛造品」を作っていたのだ。同じ頃、朝鮮半島では強度の劣る「鋳鉄品」が作られていた時代にである。(『日朝古代史 嘘の起源』別冊宝島)


また、『魏志』の「韓伝」には「國出鐵韓濊倭皆従取之」、すなわち「倭」が「辰韓」に鉄を取りに来ていたという記述があって、邪馬台国の時代には「倭人」は原材料の鉄鉱石さえあればOKという状況だったようだ。ちなみに、ここでいう「倭人」は、現在の韓国の「全羅南道」「慶尚南道」あたりに当たる「狗邪韓国」の人々を指すようだ。

また、国際的脳科学者として知られる中田力さんは、日本の水田で作られている温帯ジャポニカ米の遺伝子が朝鮮半島のイネからは見つからないことを根拠に、以下の結論に至っている。

佐藤洋一郎氏によって明らかにされた、このRM-1b遺伝子を持つ温帯ジャポニカの分布は、日本に弥生をもたらした水田稲作が、韓半島を経由せず、直接、揚子江河口付近から伝わった技術であることを証明している。(『古代史15の新説』別冊宝島)


また、縄文晩期から弥生時代中期にかけては、日本の縄文土器が朝鮮半島南部から多数、発見されているが、反対はどうかと言えばこうだ。

北部九州沿岸部に朝鮮半島の土器がもたらされるようになったのは、弥生時代前期後半ごろだ、しかもその規模はわずかで、先住の民の集落の片隅に渡来系の人びとが、肩を寄せ合って暮らしていたイメージだ。そして、その後、集落の人びとと融合し、同化していったのである。(『縄文の新常識を知れば日本の謎が解ける』関裕二/PHP新書)


また、ヤマト王権の象徴とされる前方後円墳は3世紀後半には大和に現れ、その後全国に拡大、5世紀頃には鹿児島県の大隅半島に達したが(塚崎古墳群)、朝鮮半島南部にも5世紀後半ごろから築造されているとか(=ヤマトの勢力範囲に含まれたとか)。

南洲神社から桜島
(本文とは関係ありません)

・・・とまぁ、そんなこんなで、「縄文」と「弥生」は対立項ではないし、半島から先進文化が一方的に流れ込んだわけでもないことは、十分な根拠のある話だということだ。半島は必ずしも「上流」ではなく、日本が必ずしも「下流」ではない。

たとえば、半島側の正史である『三国史記・倭人伝』には、初期の新羅の指導者が「倭」と極めて関係が深かったことが書いてある。日本が「上流」のケースだ。

瓠公は、その族姓が詳らかではない。もとは倭人であって、はじめは瓠を腰につけて、海を渡って来たのである。だから瓠公といった。

脱解は、もとは多婆那の生まれであった。その国は、倭国の東北一千里にあった。(岩波文庫)


すでに見たように「倭」は九州北部を指すので、「多婆那」は出雲から丹後にかけてのエリアだと思われる。そこから来た脱解は新羅の第4代の王で、瓠公はその重臣。いずれも「倭人」。瓠公については「新羅の3王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物である」(wikipedia)とも。

「倭」と新羅の力関係を端的に表す、「于老」という新羅の将軍のエピソードも興味深い。

新羅本紀によれば、249年、于老は倭の使節を接待する酒席で、「いずれ倭王は塩汲み奴隷に、妃は飯炊き女になるだろう」という冗談を言った。この冗談を伝え聞いた倭王は激怒し、出兵する。これに対して于老は幼い息子を連れて倭の陣営に赴き、「すべては自分の責任です」と謝罪した。しかし、倭王はこれを許さず、于老を火炙りの刑に処して殺してしまう。(『日朝古代史 嘘の起源』別冊宝島)


このときの「男王」とは、『魏志倭人伝』で卑弥呼と壱与の間にいた人物のこと。当時の邪馬台国と新羅の、国力の差は明らかだ。ちなみにこの事件のスピード感、距離感からも、邪馬台国が半島から遠く離れた大和にあったとは、ぼくには感じられない。

そういえば『日本書紀』には不思議なエピソードが載っていて、高天原を追放されたスサノオは、息子の五十猛神を連れて、最初は「新羅の国」に降臨したとか。ところがスサノオは「この地には私は居たくないのだ」と不平を言って、船に乗って出雲に渡ったらしい。
また、五十猛神は天降る際に「たくさんの樹の種」を持参していたが、「韓地」には植えないで、日本中に蒔いて全てを「青山」にしたそうだ(「」内は講談社学術文庫より)。

『隋書』倭国伝にはこんな記述もある。

新羅・百済は、みな倭を大国で珍物が多い国とし、ともにこれを敬仰し、つねに通使・往来する。(岩波文庫)

 
さて、以前の記事でちょこっと参照したが、半島から「渡来人」がやってきたとされる時代のことは、幸いにも中国人が『魏志東夷伝』に記録していてくれていた。
次回はその中の「韓伝」と「倭人伝」の比較から、当時の両者の実態を探ってみたい。



【5/29追記】
数少ない読者様から「DNAを忘れてるぞ」という指摘があったので、追記する。

げのむ

名古屋大学の山口敏充先生は、アジア16地域から32人ずつの遺伝マーカーを構造解析した結果、「アジアは日本、モンゴル、朝鮮、そして大陸に分けられる」と結論している(『DNAでわかった日本人のルーツ』別冊宝島/2016年)。かつ「遺伝的特徴を判別式で表現した場合、日本人の97%が日本人らしい」そうだ。

100個ほどのマイクロサテライト(ゲノム上に、同じ配列が繰り返す反復配列には、反復数の差違がひんぱんに確認されます。数塩基の繰り返しをマイクロサテライトと呼び、遺伝的系統の目印となります)をマーカーとして調べた結果で、それぞれが地域によって特徴的な結果を示していることが、ここから確認できます。

グラフを見ると、"日本人グループ"の中でも、沖縄が"中国人・朝鮮グループ"から最も遠く、長崎が近い、ってのがイメージ通りで面白い。

2019年4月5日の「産経WEST」の記事、「鳥取の出土人骨をDNA解析 日本人は複雑なハイブリッド?」も興味深い。
19年前に発掘された、鳥取市の青谷上寺地遺跡の弥生人のDNA解析の結果、母系をたどれるミトコンドリアDNAはほとんどが「渡来系」だったのに対して、父系のY染色体の塩基配列データは、4体中3体が「縄文系」だと判明したとか。

意味するものは、(母系がバラバラで縄文系が少なかった理由は定かでないが)2世紀の鳥取近辺の支配者層が、縄文系だった、ってことだろう。女だけさらって来たのか? あるいは、半島(狗邪韓国)の「倭人」が「渡来」してきた結果なのか? 知らんけど。

※ミトコンドリアDNAの解析からは、父系=支配層の分析はできないらしいですよ、念のため。

つづく
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映画『ドラえもん のび太の日本誕生』 -九州編その6

ツチダマ

同年代と話をしていると、時折、縄文人を「原始人」だと思ってる人がいることに気がつく。自然に出来た岩穴に住んで、狩猟採集のその日暮らし、石斧かついでウホウホ言って、動物と人間の中間ぐらいのイメージか。
しかし実際には、三内丸山遺跡で見られるように、大集落に定住し、高床式倉庫や巨大な竪穴式住居を建造し、農作物や樹木を育て、他の集落と交易し、海を渡って朝鮮半島まで出かけていたのが縄文人だ。いわゆるギャートルズ的な原始人ではない。

それではて・・・と考えて思い当たったのが、1989年のアニメ『ドラえもん のび太の日本誕生』だ。ここにはイメージ通りの原始人が出てきて、ウホウホ言っては迷信に惑わされたり、より強い部族に奴隷にされたりしていた。が、劇中では彼らは7万年前の中国の人々だとされ、7万年前といえば縄文時代より5万年以上昔の旧石器時代だし、一説によれば人類がアフリカを旅立ったのが7万年前とも言われて、それがどうして縄文時代に重なるかと言えば・・・土偶型ロボットのせいだろうな。

紀元前1000〜前400の縄文時代に作られた遮光器土偶が出てくるせいで、7万年前の原始人の姿が、縄文人の姿として記憶された・・・。あり得る話かとも思ったが、1989年だと20才を超えてるわけで、さすがに『ドラえもん』なんか観てないか、もう(笑)。


くだらない前置きはこのくらいにして、本題に入ろう。
先進的な「渡来人」が最新の文明を携えて、朝鮮半島から大挙として日本列島に渡ってきたと言われる弥生時代の、朝鮮半島側の実態を『魏志韓伝』から探る作業だ。

まずはおさらいで、当時の「韓」の地理について(なお、訳は全て『古代史レポート』様のサイトより引用)。

韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。


帯方郡が今のソウルあたりらしいので、それより南が「韓」で、半島南部で倭人の「狗邪韓国」と接していたようだ。「狗邪韓国」はのちに加羅とか任那とか言われた地域を指すらしい。
それで、後の「百済」に当たる韓の西側が「馬韓」という国で、『韓伝』にはこうある。

その風俗は、規律が少なく、国邑(首都的集落)に統治者がいるとはいっても、村落は入り混じり、うまく制御することができない。跪いて拝む礼はない。


要は、国としての体を成していない、のが当時の馬韓だったようだ。
続いて、後の「新羅」に当たる韓の東側だが、二つの集団が混在していたらしく、まず「辰韓」。

その言語は馬韓と同じではない。
男女は(民族的に)倭に近く、また、入れ墨している。歩いて戦い兵器は馬韓と同じである。その風俗では、道を行く者が出会ったとき、みな立ち止まって道を譲る。


言葉が馬韓と違う上に、中国人から見ると「倭人」に近い・・・て、それってもしかして、倭人の国なんじゃないの?
という疑問は置いておいて、三番目の「弁韓」について。

弁辰は辰韓と雑居する。城郭がある。衣服や住居は辰韓と同じで、言語や法俗も似ている。
その(弁辰の)瀆盧国は倭と界を接している。十二国には王がいる。その人はみな大柄である。衣服は清潔で、長髪。また廣幅の細かい布を作る。法俗は特に厳しい。


弁韓は、倭人と似ていると言われる辰韓に似ていて、ここにだけ「倭」と同じように「王」がいるらしい。言うまでもなく、弁韓人は馬韓人とは言葉が通じない(済州島らしき話題もあり、そこも馬韓とは言葉が違うとある)。

・・・んー? この「韓」っての、「国」と考えることができるんだろうか。
言葉もバラバラ、風俗・習俗もバラバラ、政体もバラバラで、果たして当時の「韓」が「倭」に先進の文化を伝えられるほど、立派な存在なのか、はなはだ疑問だ。

人口だって、「韓」の三カ国全部で15万余戸だと中国人は数えているが、「倭」は対馬から邪馬台国までの道程だけで同じく15万余戸で、それが「倭」のうちの九州北部のごく一部であることは、中国人がちゃんと記していることだ(さらには『倭』だって、九州の一地方王権に過ぎないわけで)。

前回も引用した『隋書』倭国伝の一節が、頭に浮かんできてしまうなぁ(笑)。

新羅・百済は、みな倭を大国で珍物が多い国とし、ともにこれを敬仰し、つねに通使・往来する。(岩波文庫)



田原坂
(本文とは関係ありません)

ところで当時の中国人は、「倭」がよほど自分たちと違って見えたのか、『韓伝』の何倍ものスペースを使って記録を残している。そこから、「倭人」を描いた部分を書き出してみよう。

その風俗はみだらではない。

その会合での立ち居振る舞いに、父子や男女の区別はない。

その習俗では、国の大人はみな四、五人の妻を持ち、下戸でも二、三人の妻を持つ場合がある。婦人は貞節で嫉妬しない。窃盗せず、訴えごとも少ない。その法を犯すと軽いものは妻子を没し(奴隷とし)、重いものはその一家や一族を没する。尊卑にはそれぞれ差や序列があり、上の者に臣服して保たれている。

下層階級の者が貴人に道路で出逢ったときは、後ずさりして(道路脇の)草に入る。言葉を伝えたり、物事を説明する時には、しゃがんだり、跪いたりして、両手を地に付け、うやうやしさを表現する。


真っ先に浮かんだ感想は、これって今の日本人と同じ印象があるなぁ、ってことだ。3.11東日本大震災の時や、最近の日本旅行ブームで外国人たちが語る、息苦しさはあるが、秩序があり、公平感があり、礼節のある社会(フェミニストがキーキー言いそうな箇所もあるがw)。

日本人は、まだ「倭人」だった頃から、そういう社会を自然と作ってきたのかも知れない。
そういえば、ヤマト王権の象徴とされる前方後円墳には、次のような説明もある。

前方後円墳は、その墳形を大和や瀬戸内地方の墳墓から、墳丘側面に葺き石を貼る風習を山陰・出雲から、埴輪を立てるアイデアを吉備から、竪穴式石室にタテに割いた竹を合わせたような割竹型木棺を納める埋葬法を九州から……といったように、さまざまな地方から葬制・墓制が持ち寄られてできている。(『古代史の謎』洋泉社MOOK)


それは天皇家の権威を世に示すものではなく、ヤマトという連合が、連合であること自体を示すものだった。全ては大和に集まり、大和から拡がっていったのだった。

・・・なんて、そんな話をしていると何だかデッカい前方後円墳とかが見たくなってくるな。

というわけで、次の「ヤマタイカの旅」は、ヤマト最大のライバルか、あるいは最大の協力者だったか、よくわからない「出雲」から、マンガでは前半のクライマックスとなった「伊勢」「大和」と回ってきたいんだが、メンバーが揃うのは果たしていつになることやら・・・。

つづく
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