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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
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ヤマタイカの旅 - 出雲編その1

鹿島神宮と香取神宮

漫画『ヤマタイカ』で、邪馬台国の巨大祭器「オモイカネ」を追う神子らが、宇佐神宮の次に向かった先は、出雲だった・・・。

出雲と言えば出雲大社
出雲大社といえば、まだぼくがサラリーマンだった1993年に読んだ『逆説の日本史』(井沢元彦/小学館)の衝撃を思い出す。
いじめられて泣いていたウサギを助けた、やさしい神だと思っていた大黒さまは、実は「国譲りの際に殺害され、古代人はオオクニヌシの怨霊を恐れ、その怨霊を封じ込めるために出雲大社を建てた」(wiki)という、恐ろしい祟り神だという主張には、ぶったまげた。

その主張にはいくつもの裏付けとなる証拠が挙げられていて、古代史に興味があったわけではないぼくなどは、完全に信じ込んだもんだった。
特に、参拝者にオオクニヌシを拝ませないために、「神座」が横を向いている…という記述などは、国を奪ったとされるヤマト側の底知れぬ悪意が感じられて、陰鬱な気分になるほどだった。

ところが、今回はじめての出雲行きの計画を立てて、いろいろと情報をネットで検索してみたところ、井沢氏のオオクニヌシ怨霊説を否定するような記事をいくつも見かけることになった。
出雲大社は怨霊の神社?」は、出雲大社紫野教会の神主さんが書かれた記事だが、そこにはオオクニヌシ以外にも神座が横を向いている神社の存在が挙げられていて、何とそれは「国譲り神話」で、まさにオオクニヌシから国を奪った張本人、タケミカヅチを祀る鹿島神宮なんだそうだ。

『日本書紀』によれば、高天原から下界に使わされたタケミカヅチとフツヌシは、オオクニヌシから葦原中国を交渉(脅迫?)によって譲り受け、天孫降臨のお膳立てをしたヤマトの大英雄だ。偉大な軍神として、それぞれ鹿島神宮と香取神宮に祀られている。

そのタケミカヅチの神座が横向き、って、・・・確かに何か変だ。
これは出雲より先に見ておく必要があるな、と思い、さっそく湾岸線から東関道を片道2時間かけて、東国三社の見物に行ってきた。


ちなみに、鹿島神宮と香取神宮って、古代史とか神社とかに興味がないと縁がない話だが、実はすごくエライらしい。

まず、戦後になって神社本庁が選んだ、(例外もあるが)エライ神社の353社「別表神社」には当然入っている。
それから明治時代に制定されたエライ神社17社の「勅祭社」にも、もちろん選ばれている。
元日に天皇が行う「四方拝」という儀式があるが、拝礼される僅か8つのエライ神社のうちの2つが鹿島神宮・香取神宮だ。
さらには平安時代に制定された『延喜式神名帳』のなかで「神宮」の名乗りが許されている超エライ神社は、伊勢神宮と鹿島神宮・香取神宮の3社だけ・・・。

それ以外にも「常陸国鹿島郡・下総国香取郡が神郡、すなわち郡全体を神領とすると定められていた」とか、「伊勢・近畿を除く地方の神社において、定期的な勅使派遣は両神宮のほかは宇佐神宮(6年に1度)にしかなく」(wiki)など、そのエラさは半端でない。

で、そんなエライ神社に祀られている高天原の大功臣の、神座が横向き・・・って、もちろんタケミカヅチが怨霊に満ちた祟り神であるわけはないので、井沢説の"オオクニヌシは怨霊だから拝ませない"の根拠が崩れてしまっているのは、残念ながら明白だ。

図

上の写真は鹿島神宮の案内図で、楼門をくぐると参道の右手に北向きに拝殿があることが分かる(通り過ぎてしまう人が多発するとか)。そして配置図で、本殿内部で神座が東向きであることが分かる(海に向かっている点では、オオクニヌシと同じだとか)。


では何ゆえタケミカヅチの神座が横向きなのか。
1968年に発行された『鹿島神宮』(学生社/2000年改訂)は、昭和43年当時、鹿島神宮の宮司だった東実(とうみのる)氏が著した本だが、そこには理由として、そこが元々は「住居」だったからと書いてある。

つまりもっとも古い神社建築は、住居に源を発して、切妻造りの妻入りで、しかも心の太柱を回るようにして奥の間に入るかたちであり、したがって神座から一ばん遠いところの角に入り口が作られているということである。

大和民族が、天孫降臨後に農耕文化を身につけて、倉庫型式から発展させた唯一神明造り(伊勢の神宮の社殿形式)を完成させたのはまだこれより後の時代のことである。こうした点からも、鹿島に最初に営まれた武甕槌神の住居は、天日隅宮(出雲大社の原型)の作法以外では営まれないという結論が出てくるのである。(『鹿島神宮』)


一般人には聞き慣れない単語が多くて困るが、おそらく伊勢神宮の誕生とともに日本の神社のスタイルは決まっていったが、それより古い時代は神の住居そのものを再現してお祀りした、って感じだろうか。

で、となるとタケミカヅチさんは元はこの地方に住む人間で、死んだのちに神として祀られた・・・ってことになるが、東実氏は実際にそう考えられていたようだ。
『日本書紀』には、岐神(息栖神社の祭神)の案内で葦原中国を平定して回ったタケミカヅチとフツヌシは、最後に「天」(現在の日立市あたり)でブイブイ言わせていた星の神・カガセオを征伐したのち、天に「登る」・・・とある。んで、この「天」ってのは当時の常陸を指しているらしく、「登る」は常陸に残ったという意味だと、東実氏は解説されている。

一応、wikiからその顛末を引用すると、こう。

一説によれば「二神は、ついに邪神や草木・石の類を誅伐し、皆すでに平定した。唯一従わぬ者は、星の神・カガセオのみとなった。そこで倭文神・タケハヅチを派遣し、服従させた。そして、二神は天に登っていかれた。倭文神、これをシトリガミと読む」(巻第二 神代下 第九段本文)

ある書によれば、天津神はフツヌシとタケミカヅチを派遣し、葦原中国を平定させた。
その時、二神は「天に悪い神がいます。名をアマツミカボシ、またの名をアメノカガセオといいます。どうか、まずこの神を誅伐し、その後に降って葦原中国を治めさせていただきたい」と言った。(巻第二 神代下 第九段一書(二)


というわけで、葦原中国を平定して天孫降臨のお膳立てを成し遂げたタケミカヅチさんは「そうして、鹿島を本源とし、香取を本源とする経津主神(※フツヌシ)と力を合わせて東国の開拓と鎮撫に当たられた」と、買ってきた『新鹿島神宮誌』(鹿島神宮社務所)には書いてある。
面白いのは、この本に掲載されているタケミカヅチ一族の系譜だ。

『神宮誌』には、タケミカヅチのご子息の武治速見命から10代あとの「狭山彦命」までの系譜が列挙されているんだが、これが鹿島神宮に伝えられるもう一つの系譜、「鹿島大宮司家」の系譜と不思議な関わり方をする。

鹿島大宮司家の祖はアメノコヤネという神で、あの中臣氏(のちに一部は藤原氏)の祖神として、春日大社とか枚岡神社とかに祀られている神。
そのアメノコヤネから7代あとに「中臣神聞勝命」という人物がいて、崇神天皇の御代に「武甕槌神の神示を解して、大量の弊物をささげ、そのまま鹿島に神主としてつかえ中臣祠官の基礎をきずいた」と、『鹿島神宮』には書いてある。

ところが不思議なことに、この中臣神聞勝命の4代あとにも「狭山彦命」の名前があって、鹿島神宮では両者を同一人物と見なしているらしいのだ。
『新鹿島神宮誌』では、ここに「神系」と「中臣系」が一致して、「神系を含む鹿島中臣氏となった」のだーと称賛しているが、それでは狭山彦のY染色体は一体全体どうなってるんだろう? 
てか、このことが意味しているものは何なんだろ?

・・・とにかく!こうしてタケミカヅチの一族と鹿島中臣氏は合体した。
そうなると気になってくるのが、大化の改新で有名な中臣鎌足も、この鹿島中臣氏と何か関係があるのか、ないのか、だ。

藤原氏の氏神を祀る神社として建てられた春日大社は、祖神のはずのアメノコヤネは第三殿に置いて、第一殿にはタケミカヅチ、第二殿にはフツヌシを祀っているとか。

中臣鎌足は公式には「大和国高市郡藤原」出身のシティーボーイということになっているが、『大鏡』には鹿島出身のかっぺ(失礼!)だと書いてあるそうな。鹿島神宮の近所には、鎌足の生家跡だと主張する鎌足神社なるものもある。
また、乙巳の変を成功させて大出世を遂げた数年後には鹿島に神郡を設置したり、常陸に鎌足の封戸があったりと、何らかの縁はありそうだが、残念ながら詳細は不明らしい。

だがこの話、鎌足が鹿島出身だとすると、がぜん面白くなってくる話だとぼくは思う。
が、それは次回ということで。

息栖神社とタケミカヅチ像

上の写真は、三社目にお詣りした息栖神社。鹿島・香取の威圧感から解放されて、ほっと一息つけるので、やはり最後にまわるのがオススメかと。隣は大なまずを踏ん付けるタケミカヅチの像(鹿島神宮)。

つづく


関連記事

『竹取物語』(1987年・東宝) - 出雲編その2

かぐや姫

竹取物語』は1987年の東宝映画。監督は市川崑。

久々に観返したが、本来は娘を持つ親なら誰でも感情移入できる話なのに、かぐや姫の童女時代をバケモノに描きすぎて、肝心の「親心」に今イチ共感できなかった。三船敏郎と若尾文子の演技には問題があるはずもなく、惜しい・・・。って、前回観たときは若い求婚者の目線でみてたのに、今では親の目線かい!(笑)。CGのない時代としては、奈良時代の都のセットとか、お迎えのUFOの特撮は最高レベルだと思う。

ところで映画では3人だったが、原作だとかぐや姫に求婚する若い貴族は5人。
うち3番目にフラれた車持皇子は藤原不比等、5番目にフラれた石上中納言はモロに石上(物部)麻呂がモデルだとか。

二人は実際の政界でもライバルで、官位では左大臣に上り詰めた麻呂が上だったが、平城京遷都の際、旧都(藤原京)の留守番を命じられてしまったとか。これを不比等の陰謀だとする説を、どこかで読んだ記憶もあるが、その話はまだ先だ。


というわけで、不比等の父ちゃん、中臣鎌足の話題に戻る。
鎌足が鹿島出身のかっぺ(失礼!)だと、どう話が面白くなるのか、だ。

そもそも、この中臣鎌足という人物は謎に満ちている。違和感は、小学生の時に学研の子供向け歴史読本で、初めてその名を知ったときから続いている。何しろ唐突に歴史の大舞台に登場するや、あっという間に人臣の頂点を極めてしまう。そのパワーの源泉は一体どこにあったのか。教科書には書いてなかったように思う。

では、と『日本書紀』を順を追って読んでみる。
まず鎌足は、中臣家の家業である「神祇伯」に任命されるが、これを辞退した・・・として初登場する。
んで何をやってたかというと、蘇我氏を打倒する際の「みこし」となれる皇族を探していたと書いてある。「つぎつぎと王家の人に接触して、企てを成し遂げうる明主を求めた」(講談社学術文庫)。

つまりは、乙巳の変の発案者&リーダーは鎌足で、中大兄皇子(天智天皇)は「探された」「誘われた」立場の人なんだね。
でも「神祇伯」なんて神主の偉くなった役職で、ケンカに強いとは考えにくい。しかも相手は時の大権力者の蘇我氏だ。鎌足に誘われた中大兄皇子の勝算は、一体どこにあったのだろう。

蘇我入鹿の暗殺シーンは有名なので省く。

その後の中大兄皇子は法興寺に立てこもり、蘇我蝦夷に味方して軍を集結させていた漢直(あやのあたい)の寝返り工作を行う。その使者は、数年前、蘇我入鹿に命令されて山背大兄王を襲った巨勢徳多。巨勢は中大兄に「天地開闢以来、君臣の区別が始めからある」とか言わされてるが、聖徳太子の息子を襲った口で言うだけに、説得力はゼロだな(笑)。

続いて、同じく蘇我氏の配下にあった高向臣国押は漢直に、「蘇我蝦夷は今日明日にも殺され、われらも入鹿の罪で殺されるのに、誰のために戦うのか」と説いて武装解除して、兵は離散した。こうして中大兄皇子は勝利したのだった・・・と『日本書紀』には書いてあるわけだが、違和感ありありだな(笑)。

読んでの通りで、中大兄皇子は戦わず、ただ籠城しているだけだ。なのに、同じく皇族である山背大兄王を平気で襲撃できた軍勢が、およそ説得力があるとは思えない言葉にあっさり離散してしまった・・・。丸っきり、ありえない話だ。

しかし、中大兄皇子の「勝算」とは、この一連の流れを予測できたことにあったのではないか、と仮定したらどうだろう。もちろん、実際に流れを動かしているのは鎌足だが。

借り物

上の図は縄文時代と弥生時代の人口分布を表したもの。
ネットで拾ってきたものなんで、ホントに小山修三教授が作ったものか保証はないが、他の図でもだいたい同じ傾向を示していたのでOKとしよう。見ての通り、どの時期でも関東地方は人口が多く、早くから開けた地域だったことが確認できる。

そしてそれは、続く古墳時代でも同じだった。

かつて、古墳文化は畿内中心の視点で語られることが一般的であり、東国の古墳はほとんど話題にならなかった。そのため、「総国(ふさのくに)」が前方後円墳の数では全国最多の地域であることは、あまり知られていない。その出現も三世紀代にさかのぼるとされ、古墳時代の初期から有力な豪族が存在したことを示している。(『古代史の謎』/歴史REAL/2015年)


古墳時代の常総には、ヤマト王権の象徴とも言われる前方後円墳がひしめいていた。
そうであればこそ、あのヤマトタケルのエゾ征伐で、「総国」が素通りされた理由も分かるというものだ。そこはヤマトの勢力圏であり、タケルにとっては安全地帯だったのだろう。

ここで興味深いのが、「総国」には尾張の尾張氏や上野の上毛野氏のような有力な古代豪族がおらず、中小の豪族が割拠している状態だったことだ。彼らをまとめていた力とは何だったのか。
一つの仮説として、信仰というものも挙げられるだろう。かつて邪馬台国が北部九州の30カ国を、信仰の力でまとめたようにだ。

最近のウィキペディアの充実ぶりは素晴らしく、地味な本で面白いネタを見つけても、大概の場合はwikiに記載されていたりするもんだ。10年前は「ノンマルトの使者」あたりだと独立した項目がなくて、仕方なく「ウルトラセブン」にリンクを貼ったりしたが、今ではすっかり使える百科事典になっていると思う。

で、そのwikiの「中臣鎌足」には、乙巳の変を成功させた後の鎌足について、次のような記述がある。

この功績から、内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。


ええっ、何だこりゃ。違和感ありすぎだぞ。なんで一介の神主が、いきなり軍事のトップになれるんだよ。

だがwikiに書いてあることは間違ってないのだろう。『日本書紀』にはその晩年、病気の見舞いに訪れた天智天皇に、鎌足が謝罪するシーンがある。
曰く「ただ一つ私の葬儀は簡素にして頂きたい。生きては軍国のためにお役に立てず(百済救援の失敗をさすか)、死にあたってどうして御厄介をかけることができましょうか」(講談社学術文庫)。

wikiにはその解説として、「これは白村江の戦いにおける軍事的・外交的敗北の責任を痛感していたものと考えられている」とある。鎌足には、軍事で貢献する「責任」があった、てことだ。それって神職の考えることではないな。

ところでこの時代の日本軍は「国造軍と呼ばれる地方豪族がおのおの編成した私兵というべきもの」の集合体だったようだ(『敗者の日本史2』歴史REAL)。それで白村江では、全体の統制が取れなくて破れたそうな。

それじゃ鎌足にも、その「私兵」があったとしたらどうだろう。

それは「総国」の精強な兵士たちで、中臣家が祀る鹿島信仰の力で、鉄の団結で結ばれていたとしたら・・・。
そして鎌足はあの時、中大兄皇子に、その兵力の提供を約束したのだとしたら・・・。
蘇我派の軍勢を離散させ、エミシを絶望の自殺に追い込んだのも、その兵力の存在だったとしたら・・・。

天智天皇は白村江での敗戦後、鎌足の生前か没後かははっきりしないが、鹿島神宮の社殿造営を行ったという。wikiには「新政による朝廷の東国経営強化」が背景にあると書いてあるが、もっと簡単に、乙巳の変でのお礼・・・ぐらいな方が、ぼくにはピンとくる。

のちに天下を掌握したとき、藤原氏が建てた春日大社の第一殿には、祖神であるはずのアメノコヤネという祭祀の神ではなく、高天原最強の軍神タケミカヅチが祀られた。それは藤原氏の誕生が、中臣氏家業の祭祀の力ではなく、東国の軍事力によるものだったことを主張してるのだとしたらどうだろう。

それはもちろん、天皇のおわす平城京を、見えない武力で威圧するためだ。


・・・なーんてことを、首都高湾岸線を走らせながら考えた。もちろん、すべては鎌足が鹿島出身(当時は都会!)だったらの話で、ただの素人の空想だ。

ただ、その気になれば歴史の捏造がいくらでも可能な立場で、例えばタカミムスビとかニギハヤヒとか、天皇家と肩を並べるストーリーを作れる神さまは他にもいるのはずなのに、藤原氏には何か軍神タケミカヅチへの強い執着があったように思えて、屁理屈をこねてみた次第だ。

・・・そういえば、前の記事では『延喜式』の「三神宮」についてちょっと触れたが、「三軍神」というものもあるらしい。平安後期の『梁塵秘抄』では、それは「関より東の軍神(いくさがみ)、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているそうだ。

諏訪の神といえば、タケミナカタ
『古事記』では、出雲での「国譲り」を拒んだタケミナカタは、タケミカヅチとの力比べに破れて敗走し、諏訪の地で命乞いをして幽閉された神だ。
んんー何か弱っちいが、それなのに三軍神なん? 武田信玄が拝んでるのって、負けて逃げてきた神様なん?

こりゃ、諏訪に行ってみるしかねーか。

つづく
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