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竹波エーイチ

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GMK ~『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』

白目ゴジラ

話はここで、唐突にゴジラに戻る。

2001年に公開された日本映画に『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』という作品がある。略して『GMK』とも呼ぶそうだ。
Wikipediaによれば「第3期ゴジラシリーズ(ミレニアムシリーズ)の第3作」であり、「平成ガメラ3部作の金子修介監督が担当したことでも話題になった」そうな。「本作ではゴジラは第1作のみを踏まえ、以降日本には怪獣は全く現われなかった設定となっている」ともある。

あらすじは簡単で、約50年ぶりに日本を襲うゴジラを、日本列島に古代から眠る「護国聖獣」なる怪獣たちが覚醒して撃退する、というもの。「護国聖獣」は3体で、バラゴン(婆羅護吽)、モスラ(最珠羅)、ギドラ(魏怒羅)がそれだ。ギドラはキングギドラに変異すると「千年竜王」とも呼ばれる最強の存在になる。

この作品で特に興味深いのは、「ゴジラ」という存在についての解釈だろう。
劇中で「護国聖獣伝記」の著者と目される伊佐山嘉利という古老は、ゴジラを「強烈な残留思念の集合体」だと言う。いわく、「ゴジラには太平洋戦争で命を散らした数知れぬ人間たちの魂が宿っているのだ」。
では何故ゴジラが日本を襲うかについての、伊佐山老人の回答はこうだ。
「人々がすっかり忘れてしまったからだ。過去の歴史に消えていった多くの人たちの叫びを。その無念を」

今さら言うまでもないが、こういったゴジラ解釈は(ぼくの知る限りでは)評論家の川本三郎さんが世に広めたものだ。
あらためて引用すればこうだ。

そしてこのとき『ゴジラ』は「戦災映画」「戦渦映画」である以上に、第二次世界大戦で死んでいった死者、とりわけ海で死んでいった兵士たちへの「鎮魂歌」ではないのかと思いあたる。”海へ消えていった”ゴジラは、戦没兵士たちの象徴ではないか。

東京の人間たちがあれほどゴジラを恐怖したのは、単にゴジラが怪獣であるからという以上に、ゴジラが”海からよみがえってきた”戦死者の亡霊だったからではないか。
(「ゴジラはなぜ『暗い』のか」/『今ひとたびの戦後日本映画』)

というわけで、つまりは有名な川本解釈を下敷きにして制作されたのが、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』という映画だったと見て、ほぼ間違いない。そしてそのゴジラ解釈自体は、おそらく古くからのゴジラファンの人々をニヤニヤさせたことだろう。

ところがさすがに50年も経ってから「ゴジラ第2作」をリメイクしたせいか、このゴジラ映画には肝心な視点がひとつ脱落してしまっている。劇中で、自衛隊高官の父親とテレビレポーターの娘のあいだには、こんな会話が交わされる。

父「太平洋に散った英霊たちは、日本を守るために戦って散った。それがなぜ、ゴジラになって日本を攻める・・・?」
娘「犠牲になったアジアの人々と、アメリカ人と、原爆で死んだ日本人と・・・それが、こう、ひとつになったんじゃない?」

この映画に抜けている視点はもうお分かりだろう。
ゴジラを生み出したのは「アメリカの核実験」だという厳然たる事実が、この作品からは脱落しているのだ。だから娘は平気でゴジラのなかに「アメリカ人」が混ざっていると言ってしまうことができる。

しかしそもそも何故、「太平洋に散った英霊」たちは戦争が終わって9年も経ってからよみがえり、東京を破壊しに来たのか? アメリカの核実験でその眠りを覚まされたのだから、彼らは本当ならアメリカを襲うべきだろう。それが何故、東京へ向かったのか? 
それは「英霊」たちが日本人であり、彼らが1954年の日本に対して激しい怒りを感じたから、だとぼくは思う。

それは、彼らがその若い命を投げ捨ててまで守ろうとしたこの祖国を滅ぼした「アメリカの核」そのものによって、戦後の日本の安全が守られているという現実だ。だから彼らは、東京に「核」の脅威をまき散らし、あの「原爆」の恐怖を再現した。この日本の「平和」は何なのかと。これは偽りの平和であり「欺瞞」ではないのかと。

こんなゴジラに「アメリカ人」が混ざっているはずはない。
ゴジラを生み出したのは漠然とした「人類」ではなく、「アメリカ人」単独の所為だ。こんなことは1950年代の日本人には常識であり、だからこそ『ゴジラ』は「反核映画」として受け入れられた。

「反戦」ではない。「反核」だ。
二度とあの「核」が使われないための警鐘として『ゴジラ』は作られた。二度と日本が戦争をしないように、作られたわけではない(詳しくは拙ブログ記事 ー ゴジラは反戦映画か?)。


実はそのことは、昭和ゴジラシリーズをひとつの大きな流れの中で捉えると、さらによく理解できることでもある。
ご存じのように、はじめは日本を襲う悪玉だったゴジラは途中で心を入れ替えたか、日本を守る善玉へと転身する。それまで東京を皮切りに、大阪、名古屋、横浜と、要は(当時の)人口の多い順に大都市を襲撃したゴジラだったが、これはゴジラを「強烈な残留思念の集合体」だと考えれば納得がいく。つまりゴジラを構成する「思念」が多いであろうと思われる順番で、戦没者ゴジラは「ふるさと参り」をした。

そんなゴジラの前に現れたのが、侵略兵器キングギドラと戦うために来日した南太平洋の「神」モスラだった。
モスラはここで、ゴジラとラドンに対し、モスラの言語すなわち「神」の言語を使って対キングギドラ共同戦線の申し出をする。この瞬間、ゴジラは「神々」の仲間入りをし、それはラドンも同様だった(クマソの神)。
その証拠として、この『三大怪獣 地球最大の決戦』(1964年)、ゴジラはついに海へは帰っていかず、日本の地に留まった。守護神ゴジラの誕生だ。

続く『怪獣大戦争』で、ようやくキングギドラを撃退したゴジラとラドンのコンビはそれぞれの住み処へと戻っていき、ゴジラはその後はただ眠り続けた。『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』は人間が仕掛けた騒ぎによってゴジラが暴れただけで、ゴジラはただただ眠りたがっているようだった。

ところが1968年、事態は一転する。
怪獣総進撃』は、ゴジラをはじめとした「神々」が、小笠原の「怪獣ランド」に集められているシーンからスタートする。この措置は「国連科学委員会」が主導して計画したことになっているが、それではなぜ小笠原なのか?

簡単なことだ。
この年、長くアメリカ海軍の軍政下にあった小笠原諸島が、ようやくわが国に返還されたからだ。国連がどうのこうのという説明を無視してみれば、そこにはわが国が誇る最強の兵器である怪獣軍団が、もっともアメリカ領に近い場所に集結させられたという構図が見えてくる。そこはマリアナ、すなわち原爆を積んだエノラ・ゲイ号が発進した場所に、もっとも近い場所だ。
彼らは監視している。二度と「核」が日本本土に向けて飛ばないように・・・。

そんな昭和ゴジラの最後の戦いが、やはり返還されて間もない沖縄であったのは必然というものだろう。『ゴジラ対メカゴジラ』(1974)、ゴジラは沖縄土着の「神」キングシーサーと共闘し、「侵略者」を撃退した。

ここで見逃せないのが、劇中で初めて、アンギラスがシベリア方面の出身であることが明かされたことだ。ここにシベリアから蝦夷(バラン・バラゴン)本土の大都市(ゴジラ)熊襲(ラドン)琉球(キングシーサー)南太平洋(モスラ・マンダ)等に至る、日本にまつわる神獣による一大防衛ラインが完成した。その最前線は「怪獣島」がある小笠原・・・。

彼らは、アメリカの脅威から日本を守っているのだ。


思わぬ長文になってしまったが、もちろんこのゴジラ解釈はぼくが勝手に考えていることだ。
しかし日本の旧領土が回復するたびに、ゴジラがいつも最前線にあったのは歴史的事実だ。もしも台湾や朝鮮半島が日本に戻ってくるようなことがあったなら、きっとゴジラはそこでも戦ったことだろう。

という具合で、昭和のゴジラシリーズには否が応でも当時の日本の「戦後」が反映されていた。これは制作者が意図しようがしまいが、結果として作品に現れてしまったことだ。
そしてそのような「結果」には、常にアメリカの「陰」があった。

無論、これはゴジラシリーズだけに限った話ではない。


※ではなぜ2001年に公開されたゴジラ映画からは「アメリカ」が抜け落ちているのだろう。ぼくは専門家ではないので断言はできないが、もしかしたらその理由は、2001年には日本とアメリカの境界線が消失していたから、なのかもしれない。

つづく