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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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マジンガーZと市民運動

プロ市民?

前回からの続き

マジンガーZ』(1972年~・東映)のストーリー上の特徴をもう一度整理すると(またかよ!)一つにはそれは、民間人が私物を使って私物を守る”私闘”の物語だった。そしてもう一つ、それは”専守防衛”すなわち敵が攻め込んで来てはじめて開始される戦闘の物語でもあった。

これは実に不思議な話だ。
あれほど大規模な巨大ロボット同士の格闘が展開されていながら『マジンガーZ』からは「国家」や「軍」を臭わせる要素がほとんど排除されている。悪と戦うのはあくまで特定の「個人」であって、ぼくら日本人全てではないってことだ。

一方、悪と戦う”特定の個人”であるはずの兜甲児の側も厳しい制限を受けていた。初期のマジンガーZには水中戦闘能力も飛行能力もなく、海を越えてドクターヘルの本拠地に決戦を挑むことはできなかった。甲児はただひたすらヘルが攻めてくるのを待つしかなかった。

で、こうした『マジンガーZ』の設定の背景には、基本的な武力の否定と専守防衛、すなわち「平和憲法」があるというのが前回までの話。
今回は、そういった時代精神を反対の立場から描いたエピソードを紹介する。反対、つまりぼくら市民の側から見たマジンガーZだ。

まずは第7話「あしゅら男爵の大陰謀」。
上記の制限によって、結果的にマジンガーZの戦闘は光子力研究所と太平洋を結ぶ線上に存在する静岡県の富士市(と思われる)あたりに集中した。その近隣の住民たちの不満がついに爆発した。彼らは暴徒と化すと、光子力研究所の閉鎖を求めて弓教授に詰め寄った。

負傷した教授に代わって「地球防衛査問委員会」とやらに呼び出された甲児は、ここでも「光子力がある限り、Dr.ヘルの挑戦と野望は続く」という理由で研究所の閉鎖を勧告される。
やがて暴徒は甲児の自宅にも押し寄せて「お前はまだ我々を犠牲にしようと言うのか」と騒ぎ立て、ガラスを割るなどの暴行に及んだのだった・・・。


この時の市民の持って行き場のない恨みや怒りは理解できないこともない。確かに近所に光子力研究所があるという理由だけで、彼らだけがいつも被害に遭うのは理不尽なことだし、不公平でもある。そして彼らが「犠牲」という通り、彼らはマジンガーZの戦闘が実は”私闘”であることをハッキリと実感していたのだろう。

しかしそんな市民はともかく「地球防衛査問委員会」のほうには問題がある。
仮にも「地球」を「防衛」するために存在する彼らの主張を要約すれば、ドクターヘルに光子力技術を渡してしまえ、ということだ。そうすれば富士市の壊滅は防げるのだ、と。

これは笑い話ではなく、同じようなことを現実に主張する人たちがいるんだから驚く。
無防備全国ネット - wikipedia

さらには第17話「地底機械獣 ホルゾン3」。
この回、ドクターヘルはロボットを使って、光子力研究所以外の地域に人工地震を起こす。もちろん東京も大地震に見舞われてしまう。そして地震を止めたければ、ドクターヘルを光子力研究所の所長に据え、ジャパニウムを引き渡せと言い出した。この続きは簡単に想像がつくだろう。都民はデモ隊を組んで国会議事堂を取り囲むと、Dr.ヘルの要求に従えと騒ぎだしたのだった。


こうして見ると、ぼくら日本国民にとっては、ドクターヘルと戦い抜こうとする甲児たちの行動はむしろ迷惑なものであり、余計なおせっかいであり、無関係な出来事であるように思えてくる。
無論、そういった感覚の根底には、平和憲法があると見ていいだろう。ぼくらに刷り込まれた平和憲法の精神が、マジンガーZを制限し、今後はそれを排除しようとする。

似たようなストーリーは、ほぼ年代を同じくする『ウルトラマンA』でも見ることができる。
第26話「全滅!ウルトラ5兄弟」、第27話「奇跡!ウルトラの父」
侵略宇宙人ヒッポリト星人は、ウルトラマンAを引き渡せば東京への攻撃を中止する、と通達してきた。これを聞いた市民は防衛隊TACのクルマを取り囲むと、星人の要求に従え、と口々に要求するのだった・・・。


ここで結論めいたことを言ってしまうなら、1970年代のヒーロー番組にはしばしばこういった、戦うべきか降伏すべきかを問題提起とするストーリーが散見できる。それは、高度経済成長がようやく一段落し、日々の暮らしに困らなくなった日本人がふいに我に返った時代だったのかもしれない。

とりわけ、戦闘描写を避けられないヒーロー番組の作り手たちにとって、それは自問自答の日々であってもおかしくはないだろう。なかでも『マジンガーZ』において興味深いのは、戦うか降伏するかの焦点となっているものが、他でもない、我が国が誇る世界に比類ない技術力だという点だ。ここには戦後、営々と築き上げてきた日本人のプライドの象徴がある。

民族としてのプライドをとるか。それとも誇りなき平和な日常をとるのか。
1970年代とは、まだそういった骨太な選択を多くの日本人が考えているような、そんな時代だったのだろう。

さて、話を戻すと、マジンガーZと平和憲法のかかわりについては、また別の角度からも見ることができる。
平和憲法を日本人に与えた張本人、アメリカの登場だ。

つづく

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