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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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ブライキングボスの悩み 〜本土決戦の幻

最終回のブライキングボス

念のため書いておくが、『新造人間キャシャーン』の制作上のテーマは「非情な科学」と「人間愛」だった。表現としては、ハードSFとメルヘンという、タツノコプロが得意とする両分野の「融合」が目標とされた。これらは企画書に書いてあることなので疑いようがない。
そして当然のことながら、タツノコのスタッフは原則として、そういった企画意図にそって物語を作っていったことだろう。

ところが実際の作品を観ていくと、そのように意図されたテーマとは別に、テーマ以上の迫真力でぼくらに訴えかけてくるものがある。それが、圧倒的に強大な相手を前にしたとき人間はどうあるべきか、という問いかけだ。尊厳を捨てて屈するべきか、尊厳を守って戦い抜くべきか。『新造人間キャシャーン』が要所要所にそれを問うエピソードを並べてきたことは、これまで見てきた通り。

作品を貫き、たびたび表されるものをテーマだと言うのなら、降伏か抵抗かもまた、『新造人間キャシャーン』の”裏”のテーマだといえるとぼくは思う。
ではそんな、本来意図されていなかった裏テーマの根源はどこにあるのか?
『新造人間キャシャーン』が、我知らず描いてしまった世界とはいったい何だったのか?


アンドロ軍団発祥の地は(どこの国かは分からないが)海に面した断崖絶壁に立つ古城だった。この古城が描かれるときは大抵の場合、嵐が吹きすさんでいたり、あるいは夜だったりで、周囲の状況は非常に分かりにくくなっている。印象としては、とにかくこの国の端っこにある、ということだけが伝わってくる。城の向こうは海、また海だ。

この古城からスタートしたアンドロ軍団の征服進路も、具体的には示されない。占領地はハテナイ市、ブッキー市というような都市名が出てくることもあれば、グリシア、メキシカのように国名をもじったものであることもある。
ただ、これまた印象になるが、その進路はきわめて直線的であるように思える。15話でキャシャーンが言ったように、ハテナイ市の次はブッキー市・・・という感じで、アンドロ軍団は一歩一歩着実に行軍を続けているように思える。
そして最終的には、「全世界」の3分の1までをアンドロ軍団は征服したのだった・・・。

まとめてみると、海に面した「全世界」の隅っこから現れたアンドロ軍団は、おおむね直線的なルートをとって「全世界」の中心らしき方面まで進軍していった。途中にある都市や国ではアンドロ軍団に抵抗するところもあれば、最初から服従を選ぶところもあった。ただし作品全体としては、「人間の尊厳」を守ることは「命」を守ることよりも価値がある、という意味のメッセージが随所に織り込まれた。

そんなアンドロ軍団の団長はブライキングボスというアンドロイドで、こいつは人間をロボットより一段劣るものとして蔑視していた。ネズミロボットをばらまいて食料を奪い、パンが欲しければ土下座して許しを乞えと笑った。服従の証しにロボットの休む椅子になるように命じて、それに座った。ブライキングボスの目標は、すべての人間をロボットの奴隷にすることだった・・・。


さて、ぼちぼちアンドロ軍団とブライキングボスに隠されたイメージの正体も見えてきたところだと思うが、それを決定付けるのはこのエピソードだろう。

第30話「ロボット退治ナンバーワン」。
ロボットをわなに誘い込んでは圧殺し、一躍街の英雄になったレオーヌという男がいた。その数すでに30体! この街には戦略上の価値はないと放置してきたブライキングボスだったが、次第に不安を募らせはじめる。その理由は・・・。

「まずい・・非常にまずいな。人間はロボットに勝てないものと諦めかけているところだ。それがロボットに勝ったとなると、人間どもめ・・・われわれに立ち向かおうと思い始めるかもしれん。思想問題が一番難しい・・・」

そう、征服者ブライキングボスにとっての最大の課題とは、思想問題だったのだ。
人間はロボットに勝てない、と思い込ませること。それが占領の極意だと、このロボットのボスは考えていたわけだ。

この、ちょっと子ども向けアニメにしてはリアル過ぎる表現はどこから来たのだろう?
それを考えるヒントは、『新造人間キャシャーン』を作った人々の世代にあるとぼくは思う。具体的には、「原作」の吉田竜夫が1932(昭和7)年生まれ。「企画」の鳥海尽三が1929(昭和4)年生まれ。「総監督」の笹川ひろしが1936(昭和11)年生まれ・・・。要するに、この人々は終戦を小学校~中学校でむかえた世代に属している。言い換えるなら、彼らは教科書とともにあの戦争を過ごしていたということだ。

ならば彼らは、おぼろげながらも知っていたことだろう。東南アジア諸国に対する白人の植民地支配、それを打ち砕くことを大義名分とした大東亜共栄圏の理念、そして大日本帝国滅亡後のアジア諸国の独立運動を。
ここでは大東亜共栄圏の是非については問わないことにするが、大東亜戦争が「アジア人は白人には勝てない」というプロパガンダ(あるいは思い込み)を消し去ったことだけは事実として認めていいはずだ。

また(もちろん1972年当時ではまだWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の存在は明らかにされてはいないが)、戦後日本に広く流布された「真相はこうだ」等のGHQのプロパガンダを、彼らの世代がそのまんま受け入れていったとは考えにくい面もある。
例えば吉田竜夫と同年生まれの脚本家、辻真先は、

「正義ってのがひとつじゃないことが、五十年前によくわかりましたから、正義正義って偉そうにいうよりも、好きな女のコのために一生懸命になるほうが、よほど上等じゃないかな、という気はするんですよ(笑)」(『懐かしのTVアニメ ベストエピソード99<東映動画編>』二見書房)


という具合に、戦後のGHQの「正義」をややナナメに見ていたことを語っている。
まあ、こういった話は個人差もあるので断定はしにくいが、とにかく少年時代の彼ら世代は、ぼくらとは比較にならないほど「占領」だの「支配」だのをリアルに体験していたことは確かだろう。

となれば、ブライキングボスに見られる「人間差別」のリアルな表現の元もはっきりしている。「被占領」の実体験だ。
『宇宙戦艦ヤマト』の原作者の一人、松本零士(1938年生)は”亡国の悲哀”について、こんなことを話している。

「小倉にいるときは亡国の悲哀というものも味わいました。通りを進駐軍の戦車が轟音(ごうおん)を立てて走っていくのを見るとね、小3~4のガキでしたけど、涙で目の前がかすんでくるんですよ。最も嫌だったのは、米兵にこびを売る日本人を見ることでした」

「キャンデーをまかれようが何をまかれようが、踏みつぶして歩いていました。腹ペコだったけれど、絶対にもらわん、とね。別に米兵が憎いわけではなく、『施しは受けない』と、子供ながらもプライドをもっていたんです」

「僕の作品には『宇宙戦艦ヤマト』など亡国を扱ったものもありますが、実際に亡国の思いを存分に味わったわけですから、描くときに本気で描けるわけです。自分で見て知っていて、心の状況もわかる。体験は重要な参考資料になっています」

(以上、松本零士インタビュー「夢は宇宙へ」ー MSN産経ニュース)


こうした、『(米兵の)施しは受けない』というような強い思いは、この時代の少年たちには少なかれ多かれ存在したのだろう。でなければ、『新造人間キャシャーン』にそれと類似した光景が、わざわざ屈辱的なかたちで表現されることは考えにくい。アンドロ軍団にはありありと、「進駐軍」による「占領」のイメージが残されているとぼくは思う。

ならば、『新造人間キャシャーン』の物語の裏テーマとは、一体全体「何に」ついて「降伏か抗戦か」を問うていたのだろう。それは日本のもう一つの選択肢、すなわち「本土決戦」ではなかっただろうか?

沖縄から上陸してきたアメリカ軍が、鹿児島、福岡、広島、大阪・・・と陸路北上していく。そのとき、それらの街の人々はどうしたのか。一切れのパン欲しさに服従を選んだのか。それとも徹底抗戦を選んだのか・・・。

『新造人間キャシャーン』の裏テーマ、「降伏か抗戦か」は、終戦を多感な少年時代にむかえた人たちが、漠然と共有していた「本土決戦」という架空の物語が根底にあったようにぼくは想像している。であればこそのリアリティであり、統一されたイメージでもあったのだろうと。

繰り返しになるが、1972年当時のタツノコプロがそういった仮定や思想を元に『新造人間キャシャーン』を作ったと言っているのではない。押し寄せる強大なロボット軍団の恐怖、非力な人間とそれを助ける無敵のヒーロー、愛やら勇気やら尊厳やら・・・といった素材を咀嚼していったとき、スタッフに共通するイメージとして具現化してしまったものが「本土決戦」だったのだろうとぼくは思っている。

※関連記事 焼け跡世代とヒーロー


ところで、『新造人間キャシャーン』の企画上のテーマが「非情な科学」であったように、1970年代前半は公害を始めとした科学文明全般への批判が高まっていた時代だった(らしい)。それは高じればしぜんに戦後日本への懐疑へと繋がったことだろう。高度経済成長に踊った結果がこれかと。
しかも当時は同時にエネルギー危機が騒がれた時代でもあった。ぼくの家庭でもトイレットペーパーの買いだめは確かにやっていた記憶がある。

科学による地球汚染、その科学を支えるエネルギーの枯渇・・・。終末観ただよう日本社会が呼んだヒット作としては『日本沈没』やら『ノストラダムスの大預言』が上げられる、と物の本には書いてあるが、子ども向けのアニメにも終末を迎えた地球から人類が脱出する物語の企画が立てられた。

言わずとしれた『宇宙戦艦ヤマト』(1974)だ。
人が住めなくなった地球から、人類が脱出する巨大宇宙船のベースとして選ばれたのが旧帝国海軍の戦艦大和。
ところが『新造人間キャシャーン』がそうであったように、表のテーマとは裏腹に、やはり『宇宙戦艦ヤマト』も裏のストーリーを含んでしまっていたのだった。

つづく


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