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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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趣味 - シュミラン

ゴジラvsキングギドラ 〜ゴジラザウルス

ゴジラvs新堂靖明

1991年に公開された日本映画に『ゴジラvsキングギドラ』がある。監督・脚本ともに大森一樹。
ぼくは約25年ぶりにオタク趣味を再開したおっさんなので、つい最近まではそんな映画があること自体を知らなかった。DVDも勢いで買ってはみたものの、未開封の状態で放置だった。

ところがいざ、ほんの気まぐれで観てみたところ、これが面白い。ストーリー自体はWikipediaに「タイムパラドックスに矛盾が多く・・・」とあるようにあまり褒められたもんではないが、そこにいるのは紛れもない本物のゴジラ! まさか平成作品に本物のゴジラ(とぼくが思っているもの)がいるとは思っていなかったので、ひとり狂喜乱舞したのだった。

というところで思い出したのが、この『ゴジラvsキングギドラ』をボロクソにけなしている本の存在だった。
それが1992年に出版された『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(佐藤健志)。
この本にはその昔、まだ学生だったぼくは随分と感銘を受けた記憶がある。すでにオタク趣味を離れていたぼくにとって、ゴジラやらヤマトやらについて硬派な議論が展開されているだけで十分に愉快なことだったし、議論自体もあやふやな記憶を辿っては大いに納得させられたもんだった。

例えばゴジラについてだが、佐藤健志氏はシリーズを大まかに3部に分け、そのうちの「初期ゴジラ」には当時の日本人の「ひがみ」意識が反映されているという。

「小国である日本が米ソの冷戦、ないしアメリカの世界戦略に巻き込まれてとんでもない被害を受けるのではないかという、五〇年代の国民感情をストレートに反映していたのだ」


要するに『ゴジラ』第一作ではアメリカの核の被害を日本だけが受け、続く『ゴジラの逆襲』ではそのゴジラと、シベリア出身のアンギラスの戦闘によって大阪市がメチャメチャに破壊された。それへの「ひがみ」が根底にあって大ヒットに結びついたのだと佐藤氏は説明する。

続く「中期ゴジラ」は「甘え」意識の反映だとか。国難に際し、ゴジラ等への怪獣たちに国防を委ねている日本人の姿は、

「自国の安全を守る上でアメリカの軍事力に全面的に依存するという、当時支配的だった『安保ただ乗り』の発想をそのまま反映したものだったのだ」

だそうだ。

では「後期ゴジラ」のなかでも、この本の出版当時には最新作だった『ゴジラvsキングギドラ』を佐藤氏はどう見たか。
佐藤氏はまず、この作品に秘められた「白禍論とでも言うべき徹底した排外的ナショナリズム」の存在を指摘する。あらすじの詳細はこちらでも見ていただきたいが、要約すれば、23世紀に世界最大の超大国になった日本を憎んだ白人グループがタイムマシンで時代を遡って現れて、1992年の日本をキングギドラを使って弱体化させてしまおうするストーリーだ。

そして佐藤氏はこの背景には「諸外国は日本の成功を嫉妬していて、隙があれば日本の足を引っ張ろうとしている」という「ひがみ」と、相変わらずの「甘え」、すなわちキングギドラを倒すのはゴジラにお願い、ゴジラが暴れたらメカギドラ(人間が操るキングギドラ)にお願い・・・という両面があるのだ、と結論づけるわけだ。


おおお、「ひがみ」と「甘え」でゴジラの全てが読み解けるのか!
と感心してしまう人は、いい人だ。

ぼくはあまりいい人ではないので反論させてもらうが、佐藤説の決定的な問題は、『ゴジラvsキングギドラ』の片一方のストーリーしか見ていないことだと思う。佐藤氏が説明しているのは、あくまでキングギドラ側のストーリーだけで、そこにゴジラ側のストーリーがない。それではこの作品を半分しか説明していないことになるだろう。

では『ゴジラvsキングギドラ』における、ゴジラの物語とは何だったか?
それこそがぼくが、ここには本物のゴジラがいる、というか帰ってきたと喜んだものだった。


今回、ゴジラはまず1945年の南太平洋ラゴス島に、太古の昔から生き残ってきたゴジラザウルスなる恐竜として現れた。戦争末期のラゴス島には日本軍の守備隊がいたが、おとなしい性格のゴジラザウルスと彼らは奇妙な共存生活を続けていた。しかしやがてラゴス島にもアメリカ軍が上陸し、激しい戦闘が始まった。するとゴジラサウルスは自分の棲み処を荒らす米軍に腹を立て、それを撃退する。結果的に命を救われた日本軍守備隊に帰還命令が下り、彼らは砲撃で傷つき苦しむゴジラザウルスに涙の敬礼をすると、島を去る。

守備隊隊長だった新堂靖明は、帰国後「戦後日本経済を立て直した男」と言われる大成功を遂げ、帝洋グループ総帥として経済界に君臨する。新堂に言わせれば新宿は「わしの庭」で、そこには巨大な本社ビルがそそり立っていた。
やがていろいろあって、あのゴジラザウルスは怪獣ゴジラに変貌し、北海道に上陸する。23世紀の未来人が放ったキングギドラとゴジラの戦闘が始まると、新堂は「やつはもう一度、われわれのために戦ってくれる」と喜ぶ。

しかしキングギドラを倒したゴジラは「救世主」どころかそのまま破壊の限りを尽くしながら南下、東京へ向かってくる。
「どうせワシの人生はラゴス島で終わってるんだ。恐竜のおかげで生きのびたワシが築いたこの国の繁栄を、同じ恐竜がゴジラに姿を変えて壊しに来たかと思うと・・・皮肉な話だ」

新宿の超高層ビル、帝洋本社にゴジラが迫る。新堂は逃げようとはせず、ゴジラに向かい合う。しばし見つめ合う二人。新堂の目に涙が光り、ゴジラもそうであるように見えたその瞬間、ゴジラの放射能熱線で帝洋本社は吹き飛ばされるのだった・・・。


すでに見てきたように、『ゴジラ(1954)』から『三大怪獣 地球最大の決戦(1964)』までのゴジラは、日本の「戦後」を破壊しに来る存在だった。ゴジラは一貫して日本の「戦後」を憎悪していた。それが1964年までのゴジラの物語だ。

そういう意味では、『ゴジラvsキングギドラ』に登場するゴジラはまさに1964年までのゴジラそのものだろう。ゴジラは新堂に言っている。こんな日本を作るために、お前を助けたわけじゃない、と。そして新堂もそのことを理解した。

この二人のどこに、嫉妬されている「ひがみ」やら、怪獣に治安維持を依存している「甘え」があるのだろう。
素直に見れば、このときのゴジラはまさに、それら「ひがみ」や「甘え」を粉砕するために現れたようにぼくには思える。


佐藤健志氏の『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』に見られる一種の片肺飛行は、もちろんゴジラだけには留まらない。
氏の『宇宙戦艦ヤマト』論も、ぼくにはどうにも半分だけしか説明してしていないような気がしてならない。

長いのでつづく


※20年前の古い本でもあり、この20年のうちにはこの本への様々な賛否両論もあったことだと思います。
が、いかんせん、ぼくはそのほとんど全てを知りませんので好き勝手なことを書いています。悪しからずご了承ください。