プロフィール

竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
一つの 「カテゴリ」 で一つの記事となってます(記事は古い順に並んでます)。同世代のおっさん向け。

カテゴリ
もくじ

全ての記事タイトルを表示する

月別アーカイブ
ブログ内検索
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

主要記事
リンク
応援中
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

フリーエリア
趣味 - シュミラン

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ボルテスV その1 (例によってくどい前置き)

れっつぼるといん

ぼく自身はいたって不真面目な人間なのだが、1970年代のアニメ作品を年代順に観ていったときに、つくづく感じるのが日本人の生真面目さだ。例えば『宇宙戦艦ヤマト』だが、ぼくはこの名作は先行する『新造人間キャシャーン』の存在がなければ誕生しなかったんじゃないか、と思っている。

『キャシャーン』が画期的だった点は、「悪」をぼくらの外部に求め、ぼくらの視聴者のなかに「正義」を問いかけたことだ。具体的には、進駐軍あるいはGHQを想起させるブライキングボスに対して、ぼくらは土下座して降伏すべきか、それとも死を賭しても誇りを守るべきか、が問われた。

これは、あの当時に支配的存在だった石ノ森正太郎ヒーローの「正義」と「悪」とは全く異なるものだった。
石ノ森ヒーローの代表作である『サイボーグ009』『仮面ライダー』『人造人間キカイダー』等に共通するパターンとは、要するに「悪」から生まれた肉体を持つ主人公が、「善」なる心で「悪」と戦うというものだ。「悪」と「善」を併せ持つ主人公の引き裂かれ状態が、作劇上のテーマとなる。

つまり、石ノ森ヒーローにとっての真の「敵」は自分自身の中に存在した。ショッカーやダークと戦うことは、イコール自分自身の肉体、血の出自と戦うことだった。彼らは口々に世界の平和を守ると言うが、それは言い換えるなら、自分の中にある「悪」を封じ込めることで実現されることでもあった。

これまで散々書いてきたことなので説明は省くが、この石ノ森ヒーローの在り方とサヨクが喧伝する「自虐史観」は、実は同一の思考経路を描いてしまうものだとぼくは思う。ショッカーやダークは「日本の忌まわしき過去(大日本帝国)」であり、その血を受けた息子たちは、その父を倒し、自らの内に流れる邪悪な「悪」を封印しなければならない。

要は、ここで否定されている「悪」とはぼくらの中にも存在するもので、それは日本人が日本人であること自体を指す。日本人が再び「悪」に戻り、アジア諸国を侵略したりしないように、ライダーやキカイダーは大日本帝国的なものと戦い続ける。

だから、ぼくらは基本的にはヒーローの戦いに参加することはない。
「正義」はヒーローの内にあり、ぼくらは傍観すればいいだけだ。というか、叩かれているのはぼくらの中の「悪」なんだから、余計な手出しはするべきではない。黙ってショッカーやダークといった大日本帝国的なものが倒されていくのを見物しているほうがいい。


ところが『キャシャーン』の「悪」、アンドロ軍団は、ショッカーやダークとは比べものにならないほど強大な敵だった。ショッカーなどはせいぜい暴力団かカルト宗教に毛が生えたようなもんだったが、アンドロ軍団はまさに軍隊。その攻撃力は人間の軍事力をはるかに凌駕するもので、都市は次々に占領されていった。

キャシャーンはアンドロ軍団を相手に孤軍奮闘するが、一人の力には限界があった。キャシャーンは人々の力を必要としていた。人間の尊厳を守ろうとする、人々の勇気を必要としていた。キャシャーンは画面の中から、それをぼくら視聴者に問いかけてきた。おれと一緒に戦ってくれ、と。

こうしたキャシャーンの在り方が結果的に呼び込んでしまったものが、アンドロ軍団にオーバーラップされる占領軍(またはGHQ)のイメージだったことはすでに書いたとおり。『キャシャーン』の戦いには、あの日の日本人のもうひとつの選択、すなわち「本土決戦」の影がうかがえるとぼくは思っている。

まぁ、その是非はともかくとしても、とりあえず『キャシャーン』がいわゆる自虐史観的な物語ではないことは確かなことだろう。『キャシャーン』は、石ノ森ヒーローのようにナイーブな「内なる善」を守るものではない。ぼくらの街を侵略し、占領・支配しようとする「外敵」と、彼は戦っている。

そんな『キャシャーン』の登場で、子ども向けアニメは「民族の物語」を手に入れたようにぼくは思う。
ここに初めて、日本人のリアルな歴史とアニメ番組はリンクした。タブーは解除された。
いつまでも「敵」や「悪」を自らの内に求め、自省自虐を続けている必要はない。自国の歴史を恥じ、それを暗黒として叩いていなくてもいい・・・。

『キャシャーン』の放映が始まったのは1973年10月とのことだが、同じ頃、西崎義展が手がける企画書は大きな転換を迎えていたそうな。すなわち、「コンピュータ」であったはずの敵役は人間型の宇宙人へ、「宇宙戦艦コスモ(イカルスとも)」は「宇宙戦艦ヤマト」へ、そしてその乗組員は全員日本人へと、それぞれ変更されたのだった。
もしかしたら、西崎は『キャシャーン』に勇気をもらった(笑)のかもしれない。

・・・てな感じで、「たかが」子ども向けアニメであろうと生真面目に取り組もうとする日本人の間では、お互いに連絡を取り合うことなく無意識のうちに、一種の意思のバトンリレーが行われた可能性があるとぼくは睨んでいる。
それは個人の利益や名声を超えて、より良いものを作ろうという集合的な無意識だったのだろう。
『キャシャーン』を作ったのはタツノコプロだが、『キャシャーン』が開いた小さな風穴を突き破ったのは『ヤマト』のスタッフたちだった。

そして『ヤマト』で展開された世界観は、また別の人々によって一層の先鋭化を見せていく。
超電磁マシーン ボルテスV』(1977年)。
監督は、『オバケのQ太郎』『パーマン』『巨人の星』『ど根性ガエル』『侍ジャイアンツ』等で知られるアニメの巨匠、長浜忠夫だ。

つづく

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。