プロフィール

竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
一つの 「カテゴリ」 で一つの記事となってます(記事は古い順に並んでます)。同世代のおっさん向け。

カテゴリ
もくじ

全ての記事タイトルを表示する

月別アーカイブ
ブログ内検索
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

主要記事
リンク
応援中
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

フリーエリア
趣味 - シュミラン

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

機動戦士ガンダム ダブルヒーロー夢の競演

お台場ガンダム

あらかじめ白状してしまえば、『機動戦士ガンダム』(1979)について何か書くことは、ぼくにとって非常に気の重い作業だ。たぶん、ファンの数は『宇宙戦艦ヤマト』の100倍どころじゃ済まないだろうし、関連書籍を積み上げていくと月に届くのかも知れないし、Wikipediaにも全部はとても目を通す気にはなれない量の情報が網羅されている。
そしてなにより富野由悠季監督ご自身が、すでに1980年12月の時点で「ガンダム論は語りつくされた」と話されているのだ(『ロマンアルバム・エクストラ35・機動戦士ガンダム』/徳間書店)。

そんな状況で、25年間もアニメ趣味から離れていたオッサンが何か発言していいものか・・・。

と、弱気になる気持ちだけはまずご理解いただいたとして、それでもぼくなりの「ガンダム論」を書かなければならない理由はただ一つ。
実は、ここまで書いてきた記事はすべて『機動戦士ガンダム』から逆算して考えたことだった。『ガンダム』という「解答」から、遡って「問題」そのものを発見していく作業がこのブログだった。
ならば最後は当然、その「解答」について触れないわけにはいかないだろう。

だが「解答」といえば聞こえがいいが、実際のところ『機動戦士ガンダム』で行われたことは、それまでの昭和の特撮・アニメの「解体」と言った方が早い仕事だったとぼくは思う。詳しくはおいおい書いていくとしても、そのことは富野由悠季監督も大いに自覚していた様子がある。

「たとえば『イデオン』を作っていた頃でいえば、大人というのはなんでこうまで怠け者なんだろう、怠惰なんだろう、ずるいんだろう、つまり子供に対して誠実でないという嫌悪感がありました」

「そんなことを考えずに、単なる勧善懲悪ものをやっていればそれはエンターテイメントとして安全パイですし、余計な責任を負わなくてすみます。そういう無難に次の仕事が来るような立ち居振る舞いばかりしている、そんなテレビアニメの仕事をやっている人間に対して本当に飽きたというか、腹が立ったんですね」

「そういう(※制作現場に対するジェノサイドという)思いは強かったです。そして何よりも、作品に対して誠実でありたいと思いました。『トリトン』の場合も、制作体制はめちゃめちゃで、きちんとした絵も作れないような状態で、なおかつオンエアはされている。見ている人に対して制作者として、どういうことで埋め合わせをしようかと本当に考えていました」

(以上、『戦争と平和』/徳間書店/2002年より引用)


実際この本に限らず、『ガンダム者』『富野由悠季全仕事』といった本のインタビューのなかでも、富野監督の発言の多くのものが、当時の制作体制や同業者への批判へと向けられていることに気付く。
たしかに当時のアニメは、およそ「作品」として扱われることのない底辺の存在だった。しかし問題なのは、当事者でありながらそういった状況に甘んじ、「子供に対して誠実でない」制作者たちの姿勢だと富野監督は思ったのだろう。
ならばその矛先が、やがては同業者に向かうのは自然な流れだ。


ヒーロー番組としての『機動戦士ガンダム』は、基本的には『超電磁マシーン ボルテスV』などとそう変わるものではない。まず「正義のヒーロー」がいて、これがロボットに乗り込んで活躍する。アムロ・レイだ。
一方、「悪」の側にも美形でカッコいいやつがいて、「正義のヒーロー」のライバル的存在として登場してくる。シャア・アズナブルだ。

ところがこのシャア・アズナブルが『ボルテスV』のプリンス・ハイネルと異なるところは、シャアは「悪」から生まれていながら、その「悪」への復讐を企んでいる点だ。結果的に「正義」に利する行動をとる点において、あるいは「悪」を裏切る点において、シャア・アズナブルは『サイボーグ009』『仮面ライダー』『人造人間キカイダー』といった、石ノ森ヒーローときわめて似た立ち位置にいる。

という具合に見てみると、要するに『機動戦士ガンダム』は、典型的な「正義のヒーロー」であるアムロ・レイと、「悪」から生まれて「悪」を倒す石ノ森タイプのヒーローであるシャア・アズナブルが同時に登場し、しかも激しく戦い合う物語だといえるだろう。これは豪華だ。『マジンガーZ対デビルマン』ってとこだ。

が、それが形だけのものに過ぎないことは、一度でも『機動戦士ガンダム』を観たことがある人には今さら説明するまでもないことだろう。あのアムロを”典型的な「正義のヒーロー」”だと言われれば、誰だって「はあ?」となるだろうし、シャアが最終的には「悪」への復讐を「ついでのこと」だと言い切ったことも、よく知られたことだ。
つまりは『ガンダム』の、昭和ダブルヒーロー夢の競演!なんてのは本当に形だけのことでしかない。

あるいは逆に見れば、それは「形」だけが必要だったのかもしれない。
一見、正統的な従来のロボットヒーローものと同じような経緯でガンダムに乗り込んだアムロ・レイは、形の上では「正義」のために「悪」と戦う少年だった。アムロが劇中で父母と離別していくのも「正義のヒーロー」にはありがちなパターンの踏襲だろう(ヒーロー物には最初から両親が全く設定されていない場合も多い)。

ところがその結果、この「正義のヒーロー」に投げかけられた言葉は「なぜあなたはこうも戦えるの? あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに!」というものだった。つまりは、「正義のヒーロー」には本当は戦う理由がないんじゃないか? ということだろう。

では、形の上ではアムロと何も変わらない「正義のヒーロー」たちは、この問いに対して何と答えればいいのだろう。例えば『マジンガーZ』の兜甲児。彼ならこの問いに、どう答えるのだろう?

つづく


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。