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竹波エーイチ

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1967年生まれのおっさん。
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機動戦士ガンダム アムロ・レイ その3 〜ニュータイプ

いべんと

重複になるが、『機動戦士ガンダム』の富野監督が問題にしていたのは、従来のアニメ作品のなかに存在する「嘘」だった。『月刊ガンダムエース9月号』(角川書店)には、次のような監督の言葉がある。

「子供にとって一番大事なことは何だろうと考え、35歳の自分が出した結論は、ともかく嘘はついちゃいけないということだった。それを物語の芯にしようと思ったのね。それが『海のトリトン』という作品だった」


従来のアニメには「おとなの嘘」が含まれている。
分かりやすいのが主人公たちのキャラだろう。兜甲児(マジンガーZ)にせよ、剛健一(ボルテスV)にせよ、基本的には正義感の強い熱血漢で、どうやら死さえも恐れていないような印象がある。
だが、本当に彼らが「普通の少年」であるなら、彼らの本音は実はこんなものなんじゃないだろうか。

「死にたくないからやっているだけさ」
「ぼくはしょっちゅう戦わされてんだ」
「何回も何回も(ガンダムに)乗せられたんだ」

むろん、3つとも我らがアムロ・レイのセリフだ。

ここには、ロボットを管理する大人たちが、少年たちの持つ優れた反射神経や動体視力を大いに利用してきた歴史が暴露されているように思える。実際のところ、マジンガーZを兜甲児が操縦しなければならない理由はどこにもなく、兜甲児にしか操縦できない理由もまた、ない。兜甲児がそれを受け入れたから彼はマジンガーZに乗っている、ということになっている(所有者という面もあるが)。
要するに、兜甲児は、制作者を含む大人にとって都合のいい少年だった・・・。


一方、アムロの方には彼がガンダムを操縦することへの根拠が、一応は与えられている。
ご存じ、「ニュータイプ」という概念だ。

一言で説明するのはぼくには難しいが、少なくともファースト・ガンダムの時点では、宇宙生活のなかで人類が獲得した拡大された認識力や認知力、というようなイメージだったと思う。そして、いきなりガンダムを操縦してしまったアムロこそが、最も高い素質を備えた「ニュータイプ」だ、と考えられていたように記憶する。

そして、その証拠とばかりに戦いの中でアムロの能力は見る見るうちに向上し、背後の敵まで感知できるほどになっていく。反射神経も常人の比ではない。たった一機で敵モビルスーツの十体やそこらは十分に相手できるほどだ。
これを敵側からみれば、もはや「超人」と呼ぶしかないだろう。アムロは普通の人間の能力をはるかに超えた存在になった。

が、実際にはぼくらはこのアムロのような超人を多数知っていた。
仮面ライダーだって、変身忍者嵐だって、超人バロム・1だって、みな人間の能力が飛躍的に拡大された姿だ。
ただし、アムロがちょっと違うのは、その能力がガンダムに乗ることで初めてフルに発揮されるという点だが、それだって一種の「変身」といえば変身だろう。

ところがこの我らの「変身ヒーロー」は、必ずしも劇中で絶賛されてはいなかった。
ニュータイプは万能ではない。戦争の生み出した、人類の悲しい変種かもしれんのだ
いまというときでは、人はニュータイプを殺し合いの道具にしか使えん

いずれもアムロのライバル、シャア・アズナブルのセリフ。
シャアの言うとおり、アムロは巨大な戦場にあってはアリのようなものだった。何千何万という兵が入り乱れる戦場で、一人で十人倒せることに何の意味があるのか。アムロの素晴らしい能力は、自分の周りにいる十人ほどの敵を倒すことにしか使われなかった。

つまりは局所的な兵器であり、殺し合いの道具。それがニュータイプだとシャアは言っているわけだ。ニュータイプには世界を変えるどころか、ちょっとした戦局を変えることさえ難しい。本当の戦場にあっては、ニュータイプはあまりにも無力な存在でしかなかった。

ならば仮面ライダーたちはどうだろう?


さて、以上のような例に見られることを、ぼくは『機動戦士ガンダム』による70年代ヒーロー番組の「解体」だと思っているわけだ。解体されたのは、むろん「おとなの嘘」だ。
ここでいう「おとな」とは、要はアニメを作る側にいる人々のことだが、彼らが往々にして安直な方向に走ることが富野監督を苛立たせてきたことはすでに書いたとおり。
では、そんな富野監督が「解体」しなければならない「安直」には何が残っているのだろう。

ぼくはそれを「成長」だと思う。
『機動戦士ガンダム』は、少年アムロの成長物語だった!
・・・何とも安直な解釈ではないだろうか。

確かにアムロは物語の終盤に近づくにつれ人間的にも丸くなり、チームワークを乱すようなこともなくなった。それどころか、みんなの意見のまとめ役になることさえあった。だが、事の始めからずっとアムロと行動を共にしてきたセイラさんには、こんなセリフもある。
・・・慣れていくのね。自分でもわかる

このセリフはテレビ版には存在せず、総集編である劇場版でわざわざ加えられたものだ。しかもそれは、今まさにアムロがニュータイプとしての能力を開花させる直前に吐かれた。セイラさんは言っている。これから起こるアムロの戦場での活躍は「成長」のような喜ばしいものではないんだと。それは戦うこと、人を殺すことへの「慣れ」でしかないんだと。

『機動戦士ガンダム』は、こうして観る側の安直ささえ否定したように、ぼくには思えるのだった。

つづく



※ちなみにアムロの「成長」を人間性の面で測ろうとすることも、続編である『ゼータガンダム』で否定されてしまっていると見ているが、この件はいずれまた。

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