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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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前回の補足・・・

せくしー

前回の記事は、自分で読み返しても何が言いたいのやらサッパリ分からないので、その補足から。

キャプテン・ハーロック『わが青春のアルカディア』で描かれた世界観が、あの日本の敗戦そのものであったことには疑いを挟む余地はないだろう。また、1982年の段階で、その後に日本が辿ることになる未来を描いていたことも同様。
問題は『銀河鉄道999』の方だ。

機械化帝国とは、一体何を表すものなのか?
ぼくはそこには、やはり松本零士の実体験が投影されているんじゃないかと思う。すなわち、「焼け跡世代」が見た、二つの価値観の対立と、新旧の交代劇だ。交代劇というと聞こえがいいが、要は、古い日本の価値観が、新しいアメリカ流の価値観に征服、占領されていく有り様をこの世代の人たちは見た。それが70年代の特撮やアニメに落としてきた影については、すでにあちこちに散発的に書いたことなので繰り返さない。

『銀河鉄道999』においては、アンドロメダという、言ってみれば海の向こうから来た価値観によって、全ての人間世界が覆われていく様子が描かれている。そしてその価値観の内容(永遠の命)はとても魅力的なものであり、それ自体が「悪」だとは言い切れないものがある。
しかし星野鉄郎はその価値観を「悪」だと考えた。ただしそれは、鉄郎の個人的な考えでしかないことは明らかで、機械の体とその人間性の間には完全な一致はない。機械だろうが生身だろうが、善人は善人だし、悪人は悪人だ。

問題があるとすれば、それは本来対等であるはずの二つの価値観の間にはハッキリとした上下関係があることで、それが支配と差別の構造を産み出していることだ。
もちろん、戦後の日本にそのような構造があったと言う訳じゃないが、日本人が受け入れたアメリカ式の価値観が、「正義」と名を変えてそれ以外の価値観を破壊しようとしたことは、歴史上の事実として多数残されている(そしてそれはまた、現在進行形でもある)。

つまりはこれは、東京人と大阪人が、ソバかうどんかを巡って言い争っているような構図ではない。
機械化原理主義は絶対的な価値観であり、他は一切認めない、という構図だ。
そして『銀河鉄道999』の世界では、人々はその価値観に盲従した。現実の東欧でソビエト支配へのレジスタンスが起こったり、中東の人々がアメリカ流に断固として抵抗したような姿はここにはない(ここでは続編は無視しています)。

だからぼくは、『銀河鉄道999』の人間世界には、戦後の日本が投影されていると思うわけだ。


※念のため書いておきますが、鉄郎がテロ行為に走ったからと言って、『銀河鉄道999』はいわゆる左翼暴力革命を支持するような作品ではないでしょう。まず、鉄郎の主張していることは「本来の姿に戻れ」ということで、立場は明らかな「保守」となります。また、機械化帝国は人間世界を統治するものではないので、いわゆる「反権力」でもないでしょう。鉄郎は権力機構という形あるものを破壊したのではなく、それがまき散らす価値観の大元を破壊しただけ。
それゆえぼくは、鉄郎の戦いを「思想戦」だと言うわけです。


・・・3行くらいで終わらせるつもりが長くなってしまったので手短にまとめたいが、そうして見ると『銀河鉄道999』と『わが青春のアルカディア』はいたって似たようなテーマを構造として持つ作品だと思えてくる。

松本零士氏自身の主張する、心情的テーマとでも言うべきものは、男と男の友情であったり、民族の共存であったりと、「世界中がお互いに理解し合い、仲良く暮らしていきたい」に繋がっていくものだ。これは松本作品をみれば、大抵どこかしらに描かれていることだ。
一方、松本作品に横たわる世界観は「敗戦」であり「戦後」だろう。これを表現上のテーマと呼んでみることにする。

ただし、そのうちのいずれがインパクトを持つかと言えば、ぼくはそれは後者、表現上のテーマの方だと思う。
氏の実体験からくる「敗戦」「戦後」の描写には、ぼくら戦後生まれが決して描くことの出来ないリアリティが存在する。大げさに言えば、血の叫びみたいなもんだ。

一方、前者、心情的テーマの方は失礼ながら、いかにも優等生的発言のような気がするし、理想論の域を出ないようにも思える。別に反対する理由もないので、お愛想で頷いておこうかといったところか。

無論、このように作品を通して共通のWテーマを持つ人は松本零士に限った話ではない。
作家である以上、何らかの一貫したテーマを掲げるのは普通のことだし、その一方で本人の自覚とは無関係に、あふれ出てしまう本音のようなものもあるだろう。

それが端的に表れているのが、氏が敬愛し、「初期の希少な漫画本を多くの資料と共に保管」(Wikipediaより)しているという、手塚治虫だとぼくは思う。

つづく

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