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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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手塚治虫 ロストワールド・メトロポリス・来るべき世界

初期SF三部作

ぼくが勝手に「表現上のテーマ」と呼んでいるものは、遅くとも思春期までの期間に、いつの間にか脳の奥底あたりに形成されるものだろう。おそらくそれは、作家の人格そのものとも結びついていて、相当に意識しない限り作品から除外することは難しいことであるように思う。

『ロストワールド』『メトロポリス』『来るべき世界』の三作を合わせて、「初期SF三部作」と呼ぶそうな。
これらは、1948~51(昭和23~26)年に相次いで発表された長編なわけだが、当時の手塚治虫はまだ20才を過ぎたばかり。ある程度までは思うがまま、自由に筆を走らせていたことだろう。まさか、自分を客観視して本音を押し殺す・・・ような芸当はまだ考えもしない時代だったと推測する。

というわけで、この初期SF三部作をざっと眺めてみれば、そこからは手塚治虫青年の生の声が聞けるように考えるのはぼくだけではあるまい。果たしてそこでは、手塚治虫中年の言うところの「生命の尊厳」は大いに語られていたのか。
(以下にあらすじを記したいが、長いのはウザいので極限まで要約します。詳しくはWikipediaなどを参照してください)

ロストワールド
地球に接近しつつある「ママンゴ星」の鉱物から膨大なエネルギー源を発見した敷島博士は、ロケットを建造してママンゴ星に到着。しかし人間のみにくい欲が悲劇を招き、搭乗員のほとんどは死亡(ヒゲオヤジのみ帰還)。ママンゴ星に残されてしまった敷島博士は、植物と動物の合体から産み出された”あやめ”と二人、まだ恐竜時代にあるママンゴ星のアダムとイブになるのだった・・・。

メトロポリス
人間の科学力は、ついに「人造人間ミッチイ」を産み出す。しかし、自分が人間でないことを知ったミッチイは作業用ロボットを率いて人間社会に反乱を起こす。科学はいつか人間を滅ぼすかも・・・というエピローグ。

来るべき世界
核実験の影響で生態系が破壊されつつある地球で、米ソがいよいよ全面戦争に突入していたころ、地上には「新人類フウムーン」が誕生していた。彼らはガス星雲の接近による地上の全滅を察知して、ノアの箱船計画をたてて地球を脱出する。その後、米ソ全面戦争とガス星雲の影響で崩壊した人類社会だったが、ガスの正体はただの酸素だった。
しかしいつの日かフウムーンが帰ってくれば、その時こそ人類は本当に滅亡するだろう・・・と締めくくられる。


・・・いくらなんでも短すぎるような気もするので、各作品のエピローグで語られた部分も引用してみる。作品を包んでいる雰囲気が、よく出ているように思う。

「ミイちゃん・・・ぼくたちが死んだり、地球へ帰ってしまったりしたことは、敷島博士やあやめさんにとって、かえって幸福だったかもしれないねえ・・・」(『ロストワールド』)

「ミッチイの一生は終わった。科学の最高芸術である生命の創造は、ただむだに人間社会を騒がせただけであった。おそらくいつかは人間も、発達しすぎた科学のために、かえって自分を滅ぼしてしまうのではないだろうか?」(『メトロポリス』)

「人間が猿を征服したように、いつかは人間以上のものが人間を征服する・・・これは自然の法則です。人類がそれと共存するためには人間同士の争いをやめさせなくてはならない。宇宙へとび去ったノアの箱舟は、いつか近い将来また地球へ戻ってくる・・・」(『来るべき世界』)


さて単刀直入に言うが、この三部作に共通して描かれたものの一点目は、”人間のどうしようもない愚かさ”だろう。
そしてもう一点が、”人類の終わりの日への予感”だ。
※『ロストワールド』は人類破滅を具体的に口に出してはいないが、地球人類が滅んだ後でもまだ若いママンゴ星で、人間と植物のハーフである新人類が種としての青春を謳歌しているイメージが残されていると思う。

アトムは僕が殺しました ー手塚治虫のこころ』(田中弥千雄/サンマーク出版)という本によると、手塚はこうした「SFマンガへの指針を与えてくれた作品として、チェコの作家カレル・チャペックの『山椒魚戦争』などをあげていたことがある」そうだ。SF的なストーリーとはこういうもんだ、というお手本は存在したというわけだ。

だが、その中で描かれる、執拗なまでの人間の愚かさはどうだろう。
出てくる奴はどいつもこいつもカネに目がくらみ、地位や名声に固執し、人を裏切り、自己保身に走る。正しい情報を伝えても煽動者に惑わされ、やることなすこと打つ手が遅い。身近で些末なことには神経を使うが、物事を大局的に見ることは放棄する・・・・。

と、まあそれがぼくを含めた普通の人間というものなんだろうが、コメディタッチの会話やコミカルな動作から目をそらして、描かれた人間たちの行動だけを吟味してみると、そこには正直、あまり希望のようなものは感じられないように思う。むしろ、破滅の日までこの愚行は続くのだという、諦念の方がうっすらと染み出ているような気さえする。そしてそこに「生命の尊厳」はあるかというと、少々頷きがたいというのが実感だ。

もちろん、そんなのはぼくの個人的な感想だと思われる人もいるだろう。
手塚治虫は人間の愚かさを描くことで、それを読む少年少女に未来への警告をしているんだと、そう肯定的に捉える人もいるだろう。

だが、ぼくの見るところ、手塚が抱えている愚かな人間への諦念は、諦念に留まるような浅いものではなかったようだ。それはまさに永遠の牢獄とも言える、終わりなき愚行だった。

『火の鳥』だ。

つづく

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