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竹波エーイチ

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1967年生まれのおっさん。
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手塚治虫『ブッダ』 〜生命の尊厳と人間の尊厳

ブッダ

なかなか話が先に進まないので自分でも困っているわけだが、手塚治虫についてもう少し書く必要がある。
と言っても、ぼくが今ここでやりたいのは、浅薄な知識で手塚を語ることではなく、あくまで富野監督が『伝説巨神イデオン』で何をやりたかったのか、何と戦ったのかについてだ。

さて話は松本零士に戻る。
松本零士が心情的には”人種を越えた友情”を訴えつつ、その表現には多く日本の”敗戦”や”戦後”が描かれていたことはすでに見てきたとおり。
もちろんこれは矛盾でもなければダブルスタンダードのようなものでもなく、何かしらの作家性をもつ人物にはよく見られる光景なんじゃないかと思う。体験が表現をうみ、体験がメッセージをうむ。いずれにしても、実体験という裏付けがある以上、両者は作家の内部においては矛盾しない。

では、作家という意味では戦後最大級の巨人である手塚治虫の場合はどうだったか。
自伝である『ぼくのマンガ人生』(岩波書店)などを読むと、手塚治虫を”作家”にした原体験はやはりあの戦争だったようだ。具体的なエピソードは省略するが、戦争と敗戦を実際に体験した手塚に与えられた表現が、人間の愚かさと、愚かゆえに繰り返される愚行だったことはすでに見てきた。
『初期SF三部作』はもちろん、その後の『W3』『火の鳥』、さらには『ブラックジャック』でも、人間たちは互いに騙しあい、裏切りあい、殺しあった。
そしてその愚行は、『火の鳥・未来編』で人類が滅亡してしまうまさにその日に及んでも、やむことなく繰り返されたのだった。

物の本によれば、手塚治虫のこのような表現のみなもとには、”宇宙からの視点”があると考えられているそうな。
まだ人類が月にさえ到達する前の時点から、すでに手塚の目は大気圏を抜けて、宇宙から地球を見下ろしていた。そこから見える地球では、無闇に増えた人類がせまい大地に勝手に線を引き、その線をはさんで殺しあいをしていた。その線のなかは自分のものとばかりに大地をいじりまわし、ゴミを海に流していた。
ちっぽけな地球を、さらにちっぽけな人間という生きものが無茶苦茶にしている・・・。

そんな、今風に言うところの”上から目線”。
多くの論者が、手塚ストーリーマンガの基礎にこれを認めている。あちこちに書いてあることなので一々引用はしないが、このきわめて冷めた客観的な視点こそが”SF的”なるものを子どもたちに伝え、新時代の表現として多くの”手塚チルドレン”を排出したみなもとであると書いてある。


ということで手塚治虫の表現上のテーマはOKとして(?)、それではこの巨人の心情的なテーマとは何だったか。
これはもう、ご本人があらゆる場所で発言しているとおりで、「生命の尊厳」というものだ。
だが、ここで注意しなくてはならないことがある。
それは、手塚治虫のテーマは「人間の尊厳」ではない、ということだ。


繰り返しになるが、『手塚治虫 - 時代と切り結ぶ表現者』(講談社現代新書/1990年)のなかで桜井哲夫先生は、手塚ストーリーマンガの第一作として『地底国の怪人』(1948)に触れ、その「重要なポイント」として「人間中心主義(ヒューマニズム)からの脱却」をあげて高く評価している。

ところがこの後の議論では、桜井氏は一転して手塚に懐疑的な論調をとるようになる。
「いわれるほどの傑作だろうか。あるいは手塚の代表作とみなしていいものだろうか」と氏に批判されたのは『ジャングル大帝』(1950ー54)だ。

「主人公のレオが、人間社会からジャングルにかえったあと、動物たちに畑をつくらせ、食堂をひらかせ、動物を指揮して合唱させるといった、人間の文化への動物たちの同化がかたられる。(中略)これは、手塚のそれまでの作品とは、異質な世界観にたっている(さらに中略)極言すれば、ここには、明治以来の日本のモダニズムがかたりつづけてきた、欧米文化への同化がすなおにかたられているにすぎない」(同書「レオとアトムは何を語っているか」)


ついでながら、アニメ版の『ジャングル大帝』で演出をつとめた、りんたろう氏も、似たような違和感を語っている。

「雰囲気は好きなんだけど、あのテーマにはどうしても納得できないんだよね。要するに、生態系のピラミッドを壊しているわけじゃない。生態系のトップにいるのは肉食獣であるライオンでしょう。その下に草食の動物がいる。それを壊して、肉食獣が草食になるというのは、頭では理解できても、僕は生理的にダメだったんだよ」(『PLUS MADHOUSE04 りんたろう』キネマ旬報社)


手塚に詳しいお二方が感じている違和感とは、とどのつまり、手塚のなかに現れた「人間中心主義(ヒューマニズム)」への違和感のことだろう。そしてこれを逆から見れば、もともとの手塚治虫とはアンチ・ヒューマニストであった、という桜井氏の説に立ち戻ることになる。

ぼくの見るところ、おそらくこの『ジャングル大帝』こそが、手塚本人が言うところの「経済的な要請」の第一号だったのだろう。念のためもう一度引用しておくと

「ここではっきり断言するけど、金が儲かるからヒューマニストのフリをしているんだ。経済的な要請がなければ俺は一切やめる」

というのが手塚先生ご本人の本音だ。


「生命の尊厳」とは「人間の尊厳」ではない。
それは、1972ー83年という長きにわたって連載が続けられ、『火の鳥』と並ぶ手塚のライフワークと目される『ブッダ』を読むと分かる。最終巻、ついに完全なる悟りを開いた釈尊は、霊鷲山に集まった人間を含む動物たちを前にして次のように語る。

いつも私はいっているね この世のあらゆる生きものはみんな 深いきずなで 結ばれているのだと・・・・・・
人間だけではなく 犬も馬も牛も トラも魚も そして虫も・・・・・・
それから草も木も・・・・・・
命のみなもとは つながっているのだ みんな兄弟で平等だ おぼえておきなさい

(中略)

だれでもいい 人間でもほかの生きものでもいい 相手を助けなさい 苦しんでいれば救ってやり こまっていれば ちからを貸してやりなさい
なぜなら 人間もけものも 虫も草木も 大自然という 家の中の 親兄弟だからです!
ときには 身を投げ出しても 相手を救って やるがよい


ここで展開されているブッダの教えが、『火の鳥・未来編』で語られた「宇宙生命(コスモゾーン)」の概念と同じものであることは言うまでもないだろう。それはまた、『火の鳥・鳳凰編』で茜丸がみた夢とも同じものだ。死んだ茜丸はミジンコに生まれ変わり、次にカメになり、鳥になった。すなわち

人間=ミジンコ=カメ=鳥

コスモゾーンから見れば、これらの生命は等価だ。そしてそれら全てはコスモゾーンの一部として宇宙に存在する。人間はそのことを自覚しなければならない。勝手な思い上がりで、この秩序を破壊してはならない。

おそらく、手塚の言う「生命の尊厳」とは、簡単に言えばこんな感じのことなんだろう。
確かなことは、ここには「人間中心主義」はそのカケラもないということだ。「初期SF三部作」から『火の鳥』、『ブッダ』へ。途中、『ジャングル大帝』で道に迷う(失礼!)ことがあっても、手塚治虫のテーマはずっと同じだった。

そしてその心情的テーマは、表現においては思い上がった人間たちの愚かさを糾弾することで、見事な一貫性を見せる。松本零士がそうであったように、手塚治虫も原体験(戦争)から来る表現的テーマ(人間の愚かさ)を克服するために、心情的テーマ(コスモゾーン)を主張した。ここにはまったく矛盾はないはずだ。


が、ぼくの見るところ、手塚治虫は再び『ジャングル大帝』をやってしまった。
「経済的な要請」に、一生を賭けたテーマを売り渡してしまった。

『24時間テレビ』への参加だ。

つづく

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