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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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伝説巨神イデオン みんな星になってしまえ!

かーしゃ

ややポエミーな感想文めいてしまうが、自分のことも交えて書きたい。
当時中学生だったぼくが、劇場で『伝説巨神イデオン』を観たあとの率直な感想は、「ああ、ここには本当のことが描かれている・・・」といったもんだった。要するに、リアルだと感じた。
このぼくの反応については、常々「子どもに嘘を言ってはいけない」と語る富野監督からしてみたら、してやったり!といったところだろう。おかげでいわゆる「イデオン基準」を持ってしまったぼくが、次第にアニメを観なくなったことも含めて・・・。

では『イデオン』で描かれた「本当のこと」とは何だったのか。
いろいろな視点、いろいろな感想があるだろうが、ぼくはそれを「本当のニヒリズム」だと感じた。それでわざわざニヒリズムの大家、手塚治虫まで引っ張り出してきたというわけ。

手塚治虫がアンチヒューマニストでありニヒリストであることは、ご本人の言からすでに引いた。その手塚治虫が「24時間テレビ 愛は地球を救う」に参加することは矛盾だし、欺瞞だと文句も書いた。
だが(ここまでの話をひっくり返すわけではないが)実のところ、手塚ニヒリズムには「24時間テレビ」のヒューマニズムと手を組むだけの十分な理由があったとぼくは見ている。


手塚治虫のメインテーマである「生命の尊厳」は、結局のところは手塚の宇宙観であって、それ自体に強いメッセージが込められているわけではない。だいいち「コスモゾーン」だなんて言っても、それは解脱でもしない限り認識不可能な代物だ。
だから手塚は「人間の愚かさ」のほうにメッセージを込めた。それは戦争であったり、環境破壊であったり、人種差別であったり、さらには殺人や強盗のたぐいまで。ありとあらゆる人間の愚行が、作品の至るところで描かれた。そうすることで、手塚は読者である少年少女に、逆説的に「生命の尊厳」を伝えようとしたのだろう。

そんな手塚の、どこか人間を突き放して客観的にみる視線は、しばしば「宇宙からの視線」と言われているようだ。例えば地球を存続させるか破壊してしまうかを会議する『W3』の「銀河連邦」。あれぞまさに、第三者的に人間を眺める視線の代表例と言っていいと思う。あるいは「火の鳥」の視線、の方が手っ取り早いかも知れないが。

さて、そうして客観的に人間を眺めるのも結構だが、そうするとここに一つ、重大な事実があることが分かる。
それは、手塚作品には、人間の善悪を区別し、それを裁く存在がいるということだ。もちろんそれは手塚治虫本人だが、戦争が悪だと決めるのも手塚だし、環境破壊が悪だと決めるのも手塚。

いや、もちろん手塚が手塚の倫理基準で善悪を測ること自体に文句をつけているわけじゃない。それは手塚の思想として、尊重されなければならないものだ。
ぼくが気になるのは、善悪を区分することによって、善なるものの存在が輪郭を持って浮き上がって来てしまうことだ。ぶっちゃけて言えば、「善人」という存在だ。

いやいや、もちろん手塚がいつでも悪人と善人を単純に分けて描いていたというわけじゃない。
だが、もしも戦争を悪だというのなら、戦争をしない人は善ということにになるだろうし、環境破壊を悪だとすれば、それをしない人は善というしかないだろう、ということだ。
で、そうなると手塚は「人間の愚かさ」を描く反面で、そこに描かれていない部分での「善人」の存在を認めていることになるんじゃないか、ということだ。

だが、描かれていない部分の「善人」がなぜ善であるかといえば、それは”愚行をしないこと”以外に根拠がない。
つまりはその「善人」はもともと「善人」であった、という「人間性善説」だ。
ぼくはこれが、ニヒリスト手塚が24時間ヒューマニズムと手を組めた理由だと思う。戦争をしない人、環境を大切に考える人、人種差別をしない人、人殺しをしない人・・・要は、「悪」というほどの「愚行」をしない人は「善」であるのだとしたら、手塚が差し伸べられた手を振り払う理由はどこにもないというわけだ。

しかもよくよく考えてみなくても、それは日本国憲法でも戦後民主主義でも同じことだ。
人間性善説だからこそ、凶悪犯罪者にも個人の権利を尊重しようとする人がいるし、人間性善説だからこそ、武器を捨てても他国が攻めてくることは絶対にないと思う人がいる。
戦前嫌いの手塚が、あえて戦後生まれの憲法や戦後民主主義とケンカする必要も、またない。

・・・むむむ・・・長くなってしまったな。
ま、いいや、続けよ。


ざっくばらんに言うが、あの頃のぼくが『イデオン』に感じた「本当のこと(嘘ではないこと)」とは、結局のところ、そうした「人間性善説」に基づく人間観、への反撃にあったように思う。戦争をしなければ、環境にやさしければ、果たしてそれだけで「愚か」でないと言えるのか。人間は、手塚的な「上から目線」で白黒つけられるような存在なのか。

イデが発動した世界では、人が思うことが現実になっていく(とぼくは思っている)。
目の前で起こる破壊も殺戮も、それは人の心の現れ、言霊だ。
そんな世界にあって、カーシャは「良き心」であることが、この不幸な戦いを終わらせるただ一つの方法だと考えるようになる。勝ち気な自己主張はなりをひそめていき、仲間とのチームワークを大切にし、いつでもやさしい心を持とうと心がける。しかし、それでも惨劇は起こってしまった。守らねばならなかったカララは敵に撃ち殺されてしまった。カーシャは思わず叫ぶ。
そうよ、みんな星になってしまえ!
次の瞬間、無数の「星」がまた宇宙に生まれるのだった・・・。


およそ人間を「善」と「悪」に仕分ける発想からはこんな表現は生まれないだろう。
「上から目線」で戦争や環境破壊を「愚か」だと言ってみたり、あるいは「人間性善説」に基づくヒューマニズムを振り回しても、それは人間を語っていることにはならない。

「良き心」であろうと努めてきたカーシャの心に一瞬生まれた闇。それは、偽善や自己欺瞞の通用しない世界では現実のこととなった。そして人が死んだ。
だがそれは、あのときのカーシャが「愚か」だったから起こったことだったのか。
そうではないとぼくは思う。

誰の心にもある闇。
カーシャは「ぼく」だから、中学生だったぼくは、これが「本当のこと」だと感じたのだ。


じゃあ私たちは、なぜ生きてきたの!
カーシャのこの問いかけも重い。もしもイデが人間の「悪しき心」を滅ぼそうとしているとして、自分だけは絶対にイデに滅ぼされない「良き心」を持つと言える人間が、どれほどいるものだろう。あれほど「良き心」を持とうとしたカーシャに生まれた一瞬のニヒリズムでさえ、イデは見逃さないのだ。

それだけではない。
バッフクランに追われ、ただ”生き延びるために生きる”ことを強いられてきたカーシャたちは、結果的に自分のことだけを考え、自分の命を守るためだけに行動してきた。だから「なぜ生きてきたの」という問いに、「生きるため」以外の答えがない。
だがそれは本当にカーシャらソロシップの人々だけのことなんだろうか。
基本的人権、個人の尊重だと言っては自分のことだけを考え、平和主義だと言っては自分の身を守ることだけを考える。それが正しいとぼくらは教わってきた。
そんなぼくらがカーシャのこの悲痛な問いかけに、いったい何と答えてやることができるのか。ここでもカーシャはぼくであり、隣の席で泣いている名も知らぬ中学生だ。


そして『イデオン』の世界では、人はみな「個」として一人孤独に死んでいった。
「公」に生きてきたはずのドバやハルル、調和と協力を願っていたカララも、最後はわざわざ「個」に引き戻されて死んだ。『イデオン』が、「個」であることの悲しさを訴えていることは疑いがないようにぼくには思える。
こんな・・・、こんな甲斐のない生き方なんぞ、俺は認めない!
コスモはそう怒る。
だが、自分のことだけを考え、自分の身だけを守ればいいというこの日本という国にあって、「甲斐」のある生き方はどこに見つかるのだろう・・・。


という感じで、『伝説巨神イデオン』特にその『発動編』においては、登場人物の言葉はいちいちぼくら観るものを巻き込もうとしてくる。カーシャがコスモが、みなが「もう一人の私」に見えてくる。
それは、彼らの置かれた状況が、その本質において現実に生きるぼくらの戦後日本にオーバーラップさせられるからだろう。だから『イデオン』は、遠い遠い未来の突拍子もない出来事でありながら、リアルだ。

そしてそのリアルさは、手塚ニヒリズムが戦後日本の文脈と手を組むことで露呈させてしまった本性を、突き詰め乗り越えることで得られたものだった。
みんな星になってしまえ!
それは、まさに手塚が書きたくて書けなかった、手塚の本音だったのかもしれない。

つづく


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