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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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伝説巨神イデオン 因果地平へ

だあ

ここでもう一度強調しておきたいが、ここまで書いてきたことはあくまでぼく個人の『イデオン』観であって、客観に耐える性質のものではない。中学生の頃に感じていたことを、中年オヤジの言葉で書き起こしただけのことなので、丸っきりデタラメなものである可能性もあるが、ぼくはそれでいいと思っている。『イデオン』には多様な解釈があり、受け止め方がある。ぼくの意見もそのうちの一つに過ぎないわけで、それこそがまさに「イデオン基準」なんてものが存在する『イデオン』の巨大さの証しだとも思っている。

ということで、これもまた「多様な解釈」の一つとして書くが、ぼくはあのガンドロワの爆発に巻き込まれた時、イデもやはり滅んだんだろうと思っている。イデは、イデオナイトのバリアーでソロシップとイデオン内部に固定されている存在だ。固定している装置が破壊されてしまえば、イデも宇宙に離散してしまうだろう。

ぼくが、「良き道」を模索したイデまでが滅んでしまったと考えるのには多少の根拠もあって、それが『イデオンという伝説』(太田出版/1998年)に収められている富野監督の次の発言だ。

輪廻にも上昇する輪、という概念があってしかるべきなのではなかろうか?
少なくとも、私は、そう考えたい。それを現わす仕方を発見してみたい。その思いはつのるばかりであった。
(『伝説巨神イデオン記録全集①』八十年四月二十五日)


本にはこの部分しか掲載されていないので前後の脈絡が分からないが、富野監督が既存の「輪廻」の概念に対しての異議申し立てをしている発言であるように、ぼくには読める。そしてその思いは「つのるばかり」であったと。
では富野監督は、既存の「輪廻」のどこに異議を唱えているんだろうか。

それがバラモン教の「輪廻」ではないことは常識的に考えれば疑いがない。文句があるなら自分で宗教でも始めればいいことだ。クリエイターがケチをつける相手は、やはりクリエイターだと考えるのが自然だとぼくは思う。
となれば、ここでも登場してくる人物はただ一人。
手塚治虫だろう。


オカルトめいた言い方をすれば、手塚治虫は『火の鳥』にある呪いをかけている。
『未来編』の終わりが『黎明編』の始まりに繋がることで、『火の鳥』全編がひとつのループを描くことは良く知られたことだが、その『火の鳥』の世界観に立てば、あらゆる事象は同じことを延々と繰り返していることになり、人間の愚行が収まらない原因も、まさにそこにあることにもなる。

ところでそのループする『火の鳥』には、実は『現代編』が存在しない。が、識者のなかには、その空白を埋めるものこそが『鉄腕アトム』や『ブラックジャック』といった、現代から近未来を扱った膨大な作品群だと説明する人もいる。つまりは、それらは『火の鳥』ワールドの各断片であるというわけだ。

が、ちょっと待ってくだせえよ。
てえことは、その他の作家が作った作品も、もしかして『火の鳥』の一部ってことですかい?
マジンガーZ』も『巨人の星』も、手塚さんの手のひらの上で踊ってる存在に過ぎないってことですかい?


もちろん本当に手塚がそんな呪いをかけたわけはないが、世界の始まりと終わりを手塚が描き、それをループさせてしまった以上、論理的には『ガンダム』も『ザンボット3』も、そのループのなかで何度となく繰り返される「人間の愚行」のひとつと言われても反論しにくい。
だが、反論の方法は一つだけある。『火の鳥』とは異なる表現で、世界の終わりと始まりを作品として表現すればいい。

「上昇する輪」という輪廻。
これはつまり、ループではなく、らせん状で行われる輪廻ということだろう。
『イデオン』においては、フィナーレで輪廻した人々が、前世と全く同じ愚行を繰り返すことはありえない。地球人とバッフクラン人が、同じ場所で一つの人類として再生するんだから当たり前のことだろう。
それから先の彼らがどうなったかは分からないが、少なくとも彼らだけは『火の鳥』の呪いからは脱出できたということだ。例え、そこに新たなる愚行が始まるのだとしても、同じことを延々と繰り返すよりははるかにマシということだ。


ところで、そんな風に書くと、まるで『イデオン』が希望に満ちた物語であるかのように思われる人もあるかもしれないが、どうやらそれは違うらしい。宗教的な反応をしてしまう観客を想定していたか、と聞かれ、富野監督はこう答えている。

それは当然しますよ。だけど、『イデオン』にひとつだけはっきり言えるのは、あそこには救済はないんだから、観てはいけないよというメッセージも間違いなくあるんです。(『富野由悠季全仕事』キネマ旬報社/1999年)


まあそれでも救済があると考える人がいても否定はしないが、ぼくもやはり『イデオン』は強い絶望にはじまる物語だったように思う。ただ、そこにあるニヒリズムは紛れもなく「本物」で、「嘘」がない。
富野監督はぼくら当時の少年たちに、人間が人間であることの本当の絶望を、『イデオン』という「嘘八百のフィクション」の中に示すことで、そこ(底)から始められるスタート地点を示してくれたんじゃないかと、オッサンになったいま、ぼくは思っている。


それにしても、1980年前後のこの時期の富野監督は、マジで「神懸かり」のようだ。
『イデオンという伝説』のなかに興味深い発言があったので、最後にそれを引いておく。

やっていた当時は、今ここでお話しているような言葉では、明確に口にできませんでした。だけど、僕はここに生かされている人間です。ここに生かされていく人間、そういう人間の肉体というのは、風土から与えられたものを記憶するといった形で、風土が要求しているものを発信するためのフィルターでもあると実感します。
(中略)
それ(イデオン)を作れたということは、実はそうした言葉・・・本当に何かを表現していかなくちゃいけない、パブリックに次世代に伝えなくちゃいけないと思って、自分の語りたいものを語っているんじゃなくて、イヤな言い方になるかもしれないけれども、言霊みたいなものがあって、僕に語らせていたのかもしれない。そういうことを感じます。




※書き忘れてしまったが、イデがあの爆発を生き延びたことになると、新しい人類はまたイデに意思を取り込まれて「エサ」のような存在になってしまう。それでは「らせん」とは言い難いので、そんな悲劇は繰り返されないだろう、とぼくは思うわけです。

つづく

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