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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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風の谷のナウシカ(2) もう一つのラスト(想像)

王蟲

前回のつづき。

名著『宮崎駿の仕事』(久美薫/鳥影社)によると、コミック版『風の谷のナウシカ』について「完結後のインタビューのなかで、全体の構想は実はなくて、締め切りに追われながら物語を探っていたことを作者は語っている」とのことだ。つまりは、決定済みの終わらせ方は、もともと存在していなかったということだ。

しかし、例え行き当たりばったりに近くても、いわゆる「伏線」を張りまくってしまうのが天才の性というものか。
『風の帰る場所』(宮崎駿/rockin'on)には本人のこんな談話がある。

象徴的な話で、実は映画の『ナウシカ』が終わった直後にナウシカのカレンダーを描けって言われたんですよ。(略)それでいい加減に描いたんですよね。今まであったとこ描くの嫌だから、勝手にこう、こんなとこがあんのかなって、これからのとこ描いたんです。でも、振り返ってみれば、結局そこで描いたものが本当に実現してるんですよね(笑)。ボロボロになった巨神兵の肩にナウシカが乗っかってる絵とか、それから敵である人間たちの中にナウシカがいる絵とかね。


『ナウシカ解読』(稲葉振一郎/窓社)のインタビューでは、7巻の「庭」について。

何の気なしに描いてしまったひとコマの絵がずっとひっかかっていて、それは、ナウシカが王蟲の子どもを隠している時に、連れ戻され引き離されてしまった。その時、お母さんも大人たちのなかに入っていて、何もしてくれないお母さんが描いてあるんです。


やはり天才はすげー。神の見えざる手、って感じだ。
だがこれを逆に見れば、ぼくらは宮崎駿が無意識に(?)残していった伏線を辿ることで、もしも宮崎に「転向」がなければ描かれたかもしれない「まぼろしの7巻」に近づける可能性があることになる。伏線が、結果的に結んでしまう一つの像に、この名作に秘められたもうひとつの物語を読み取れるかもしれない。

・・・なんて大風呂敷はさっさと畳むとして、さて結末に向けての伏線と聞いて、誰でもまず頭に浮かぶのが例のアレ、「その者青き衣をまといて金色の野に降りたつべし」って伝説だと思うが、これは劇場版で完全に使い切ってしまった印象がある。宮崎本人も「宗教的」というとおりで、6巻までの世界観とはマッチしないし、過去の焼き直しなんて宮崎のプライドが許さないだろう。

ぼくが注目したいのは、その後のナウシカ自身のセリフだ。
風の谷のわたしが 王蟲の染めてくれた 土鬼の服を着て トルメキアの船で出かけるのよ

このセリフは「あの方ははるか遠くを見ておられる」というミトのセリフに続くわけで、ナウシカが田舎部族の族長で終わらないことは無論、もっと何か大きな使命を帯びていることを予感させる。要するに、「はるか遠く」には、ナウシカによる何らかの統合が起こるんじゃないかと。

そしてこの”統合”という動き、『ナウシカ』世界全体をよーく観察すると、実はもっと巨大な動きとしても現れていることに気付く。
『宮崎駿の仕事』などで指摘されるとおり、そもそも土鬼とトルメキアという超大国の争いに巻き込まれる風の谷には、米ソ冷戦下の日本が暗示されていた。宮崎駿ご本人も「冷戦思考」の呪縛について語っている。
だがそうやって始まった『ナウシカ』世界は、次第に別の様相を見せるようになった。それは、この世界の社会様式のバリエーションから見えてくる。

まず1巻で分かるのが、トルメキアという国が「奴隷制」の国だということだ。
一方で、このトルメキアと土鬼は明らかに「封建制」の国でもある。
さらに、4巻には、思わぬ大金を得た土鬼の女が「国に帰って畑を買い、麦をまきます」と言うシーンがあって、土鬼の民衆には土地所有の概念があることが分かる。おそらく農奴から自作農への過渡期にあるんだろう。

3巻から登場する「森の人」は、この世界の裏番長という設定だが、その経済はまさに「原始共産制」に分類されるであろうもの。人間のもっとも清らかな状態として描かれている。
資本主義」については語るまでもない。それはすでに滅亡したが、遺跡や廃墟としていつも目の前に存在し、いま巨神兵として復活しようとしている・・・。

原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義・・・。
ここにきれいに出揃った唯物史観でいう人類の発展段階。それが一箇所に同時に現れたとなると、その先にあるゴールとはその最終段階、すなわち人類の理想郷としての「共産制」しかない、そう暗示していると考えるのが自然なように思える。

実際、世界統合への動きは劇中でも起こっていたわけで、「新しい王が要るのだ。真の王道を歩む者が出現せねば人間は滅びる」と言ってたクシャナは、土鬼皇兄ナムリスの提案する「土鬼トルメキア二重帝国」に満更でもない様子。まず二大大国が統合しないとには先に進めないことを、重々承知といった雰囲気だ。

だが、仮に『ナウシカ』の世界に何らかの統合が行われて、共産主義社会っぽい何かが生まれたとしても、そこに「王」がいてしまっては元も子もない。森の人セルムがいうように「青き人は救ってはくれないのだよ。ただ道を指し示すだけ」でなければならないだろう。

それに宮崎駿自身、連載終了後のインタビューで「ナウシカの役割は、実際にリーダーになっていくとか、人々を導くとか、そういうものではない。代表して物事を見つめ続けるという、一種巫女みたいな役割なんです」と断言している。
ナウシカは巫女・・・。
ナウシカは神の声を聞く者・・・。

そうだとして、テレビもネットもない世界で、その神託を多くの民衆に伝えるためにはどうしたらいいのか?
・・・チククがいるじゃないか。
それが『ナウシカ』におけるチククの存在理由だろう。チククの強力な「念話」の存在理由でもある。

では残る「神」とは誰のことか。
そりゃまぁ「シュワの墓所」以外、見当たらないでしょ。宮崎駿が考える、理想の共産主義システムって感じで。

たしかに、現実の共産主義はロクなもんにならなかった。スターリンにしろ毛沢東にしろポルポトにしろ、圧政と粛正が常で、およそ理想とはかけ離れたリーダーだ。だがそこに、ナウシカの「心」があったらどうか。
「シュワの墓所」について、6巻までで分かっていることは、そこに旧時代のスーパーテクノロジーが封印されていることだけ。

おそらく唯一、神の声を聞けるものであるナウシカは、何らかの方法で墓所の中で永遠の命を得るのだろう。そしてナウシカという「心」を得た墓所は、人類の理想を実現する絶対知として完成する。シュワの墓所の「正しさ」を、ナウシカの「心」が担保するわけだ。
完ぺきな共産社会の誕生じゃないか。

・「ルワ・チクク・クルバルカはナウシカに従う」
・「マニ族はナウシカの道を選ぶ!!マニに皇帝はいらぬぞ!!」
・「ナウシカが・・・みんなをつなぐ糸なんだ」
・「ナウシカにはなれずとも同じ道はいける」

普通に考えれば、『風の谷のナウシカ』にはこうした人々の思いを汲み上げる形のハッピーエンドが用意されていたんじゃないかと思う。
シュワの墓所という完全無欠の管理システムと、全ての生命に惜しみなく降り注がれるナウシカの愛。
人は支配されるのではなく、やさしく包まれ守られる。
万人がナウシカになったのだ。みながナウシカとして生きよ・・・みたいな。

6巻から7巻途中までの『ナウシカ』には、そんな宮崎駿の夢が織り込まれていたように、ぼくには思える。


・・・と、ここで現実に戻る。
実際の『風の谷のナウシカ』は、ナウシカによるシュワの墓所の破壊で幕を閉じた。
伏線に見えたものも、人々の思いも、そこでは何一つ結実することはなかった。人類の近い将来の滅亡は決定した。
この結末の背後に宮崎駿の「転向」があるというのは、『ナウシカ』語りのひとつの定説だろう。だが「転向」の理由については、詳細をハッキリさせておく必要がある。

社会主義体制の崩壊っていってもね、ソ連の崩壊っていうのは全然ビクともしないんです。当然だと。これはむしろ圧政に抗して立ち上がるっていう古典的なパターンがあるんであってね。だから、そこじゃないんですよ。その後また民族主義かっていう、その”また”っていうのが一番しんどかったですね。第一次大戦の前に戻るのかっていう感じでね。

やっぱりユーゴスラビアのことが大きかったですね。それはソ連の崩壊より大きかったです。こりゃあ人間は学んでないなっていう(笑)。
(『風の帰る場所』)


読んでの通りで、宮崎を「転向」させたのは天安門でもソ連の崩壊でもない。それは、一度は「進歩」したはずのユーゴスラビアが、結局は前時代的な「民族主義」に回帰してしまったことだ。人間は「進歩」することを望んでいないんじゃないか、人間には国境も民族も必要なんじゃないか、地球市民なんてただの妄想だ。
と思ったかどうかは知らないが、転向した宮崎は、かつては同じメンタルを持っていたはずの朝日新聞を攻撃する。

 僕は『朝日新聞』を読んでいて腹が立つのは、政治記者たちの程度の悪さですね。つまり社会党が理念だらけになってゴチゴチになっている時は「理念に縛られて現実感がない」と言いながら、ひとたび理念を捨てたら、「理念を捨てていいのか」と叫び始めるという。じつは、理念を捨ててしまったことに一番恐怖を感じているのは彼らだという気がするんです。
(中略)
 自分たちが知っている政治の世界の愚かさを国民に教えようと思って、どんなことが起こっても、たいてい個々人の恨みとか、いやがらせとか、そういうレベルで語る。『フライデー』とか、ああいう雑誌と同じですよ。人間の品性というのはきわめて卑しいんだというね。自分たちがよく知らないところには、たぶん、高邁な理想があるんじゃないか、とすり替えていく。かなわんですね。本当にむかついているんです。
(『ナウシカ解読』1996年)


朝日新聞の記者が持つ、幻想の「高邁な理想」。
これこそが、まさしくナウシカに破壊されたシュワの墓所の正体だろう。
それは単に共産主義とか社会主義といったイデオロギーへの訣別ではない。左翼的な理想、それ自体との訣別だった。

ぼくらはこの事実、アニメ界の巨人宮崎駿が「自我の出発点であり、心のつっかえ棒」とまで言っていた左翼思想を、かれこれ20年も前に捨て去っていたことを改めて確認し、また強く意識していく必要があると思う。
つまり、あの宮崎駿だって「転向」したのに、まだ左翼やってる人って何なのよ? ってことだ。


【2013.7.21追記】
宮崎駿は「左翼」は辞めたと思いますが、今でも「サヨク」です。誤解なきようお願いします。
つづく

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