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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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趣味 - シュミラン

機動戦士ガンダムSEED DESTINY 〜非戦とデスティニープラン

seed

今回の話題も割りと新し目で、『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』。
めんどくさいので、ここでは『SEED』(2002)と続編の『SEED DESTINY』(2004)をまとめて『SEED』呼ばわりする。
ぼくが『ガンダムSEED』をみたのはごく最近なんだが、感想としては、物語として面白いのはもちろん、非常に考えさせられる作品だったと思う。時を経ても『ガンダム』は『ガンダム』、血は争えないなーというところか。

あらすじを一言で言うと、普通の人間と遺伝子改造人間が戦争をする話。ファーストとゼータと逆シャアの良いとこ取りしているので、ぼくらオッサンにも親しみやすい。ニュータイプに代わる人類救済の道もちゃんと示されていて、劇中では「デスティニープラン」と呼ばれている。
詳しくはWikipediaでご確認を・・・。

・・・などと言いつつ自分でもWikiを覗いてみると、そこには「作品のテーマ」なんていう何とも美味しそうな項目があるじゃないすか・・・。

監督の福田が公式サイトのインタビューにおいて2004年9月25日付で語るところによれば、『ガンダムSEED』シリーズ第1作は、「キラとアスランを主人公に据えて『非戦』というテーマを描いた」とのことである。また、同年12月10日に同インタビューで、2作目『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』についてエグゼクティブプロデューサーの竹田青滋も、「前作から引き続き非戦ということを訴え続けるつもりである」と述べている。


非戦を訴える・・・・。
そのテーマ自体は結構なことだ。しかしぼくの目が曇っているのか、『SEED』のどこに「非戦」が訴えられているのか、実はサッパリ分からなかった。たしかに主役のキラ・ヤマトを始めとした登場人物たちは、戦争はイヤだと言う。だがそんな少年の口から出るセリフなんて、到底「訴え」ていることにはならないだろう。現に、いくら騒ごうが叫ぼうが嘆こうが、それがこの戦争の何か一部にでも影響するような展開には全くなっていない。人はガンガン死んでいく。

ならばこっちか、武装中立国オーブ
他国を侵略せず、他国の侵略を許さず、他国の争いに介入しない」を理念とする中立国家で、「非戦」を訴えるのはどうか。
しかしオーブの代表、カガリはこうも言っているぞ。
オーブは何より望みたいのは平和だが、だがそれは自由自立の中でのことだ。屈服や従属は選べない」。
そうしてオーブは武器を生産し保持し、さらには輸出もしている。領海内に敵が入れば、もちろん武力で排除する。さらには同盟を結んだ大西洋連合の命令で、その先兵として国外でも戦闘行為を行った。
つまりオーブで描かれているのは、小国が中立でいることの難しさであって、これまた「非戦」とは言えない。

というわけで、『SEED』ではむしろ、非戦や平和を叫ぶことの「無力さ」の方が描かれている気がしてならない、それもかなり徹底して・・・。なにしろ『SEED』であれほどの惨劇を描いたわずか2年後に、ここの人類はまたも戦争を始めた(『DESTINY』)わけで、これほど救いようのない人類も珍しいんじゃないか? レクイエム(大量破壊兵器)の撃ち合いなんてきちがい沙汰だ。

ファーストガンダムでは、そんな愚行を繰り返す人類の救済の道として、ニュータイプという概念が登場した。「人の革新」というように、人間そのものが変わることによって、人類が進歩できるという考え方だ。ただしそれは、結果としては戦闘用に利用されるものとしてしか発展しなかった。その理由としていちばんに上げられるのは、人類全員がニュータイプじゃないから、だろう。
『SEED』でデュランダル議長(声・池田秀一)に提唱された「デスティニープラン」は、もっと現実的な人類救済策だった。

人間の遺伝子を解析する事でその人が持つ先天的な適性と能力を調査し、その解析結果を基にその人を最適な職業や役割に就かせて、より効率的な社会運営を目指すと言うもので、その結果として個人間の諍い、しいては国家間の争い事が無くなるという人類救済措置(Wikipediaより)


ひとが「望むから戦う、欲するから争う」なら、「得られるものと得られないものを始めから」知ることで、誰かに勝とうとする心はなくなる。人生の目的は生まれ持った遺伝子情報の実現なので、戦う相手は自分自身だけだ。ならばおそらく、「デスティニープラン」で人間同士の争いは消滅するのだろう。

しかしその夢のようなプランは、劇中で猛反対を受けてしまう。
カガリ「願って望んで頑張ることには、何の意味もないというのか。ああなりたい、こうしたいと望むのも、ただ無駄だと・・・
ラクス「何を得ようと、夢と未来を封じられてしまったら、人はすでに滅びたものとして、ただ存在することしかできません
キラ「でもぼくたちはそれを知っている、分かっていけることも、変わっていけることも。だから明日が欲しいんだ。どんなに苦しくとも、変わらない世界はイヤなんだ

デスティニープランのどこが嫌われたか。
そりゃもちろん、自分の生活や人生を、自分で決められないとこだろう。
でも人間が何でも自由に選択できるようになった歴史は、浅い。しかも世界的に見れば、それを実現しているのは僅かな先進国だけだろう。
だからカガリやキラの発想は、いかにも民主主義的だ。ニュータイプにせよデスティニープランにせよ、人間を先天的な優劣で決定してしまう。そんなの差別だし、個人の自由はどこ行った!
要は、基本的人権の尊重に反するんじゃないか、ってのがみんなの反発の根底にあるとぼくは思う。

しかしそうなると、ここには一つ、興味深い疑問がないか?
そもそも、戦争をなくして非戦を実現するためには、人間そのものを変えるしかない。
そのための方法としての「デスティニープラン」には、それなりの説得力がある。
なのに、それは基本的人権の尊重に反するからイヤだという。
だったら、「平和主義」と「基本的人権の尊重」って、ホントに両立するのかいな?
ってことだ。

もちろんそれは『SEED』の世界の話であって、ぼくらの『日本国憲法』がそうだという話じゃない。だが、平和主義を訴えつつ、デスティニープランを否定したキラ・ヤマトが出した結論は何だったか。
ぼくは戦う」だ。
この発言を、花が吹き飛ばされたらまた植えればいい、みたいに理解するのは、文字通りにお花畑な思考回路だ。それはまさに、キラ・ヤマトこそが人類最強の遺伝子改造人間で、普通の人間のモビルスーツなんぞは一度に何十機も破壊できるから言えるセリフであって、例えばぼくが同じことを言ったら笑わない人はいないだろう。

戦いをなくすには、戦おうとするものと戦い続けるしかない。
一周回ってスタート地点に戻ってしまったかのような『SEED』の結論だが、その過程では人権やら自由やら、平和主義と等価とされる別の価値が語られた点が実に興味深い。人間が、長い闘争の歴史の中でようやく掴んだ民主的な価値の中に争いの元があるのと言うのなら、そしてそれを捨てられないというのなら、口先で平和や非戦を叫ぶことになんて何の意味もない。

『SEED』をみて育った少年少女が、単純な平和主義や反戦思想、それを元にした自虐史観に染まる危険はありえない話というわけだ。

つづく