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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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ゴジラ対メカゴジラ ~キングシーサーの意味

シーサー

ゴジラ対メカゴジラ』(1974)の舞台となったのは、その2年前に日本に返還されたばかりの沖縄だった。
この沖縄の玉泉洞付近に基地を建設した「ブラックホール第3惑星人」は、地球征服を狙って「メカゴジラ」を建造する。この異変に気がついたアンギラスは、シベリアと思われる極寒の地からゴジラを呼ぶと、自らも地中を掘り進んで富士山麓に向かう。しかし、ゴジラに扮したメカゴジラとアンギラスの戦闘は、メカゴジラの圧勝に終わる。

なおも破壊を続けるメカゴジラの前に、今度は本物のゴジラが現れる。2頭の勝負は互角で、相打ちとなる。メカゴジラは沖縄の基地で修理され、ゴジラは南海の孤島で落雷のエネルギーを吸収する。
そのころ沖縄では、人間たちの努力によって「伝説の聖獣キングシーサー」が復活させられようとしていた。これを妨害しようと出撃するメカゴジラだったが、間一髪のところでキングシーサーは覚醒する。しかし改修されたメカゴジラは強力で、キングシーサーは劣勢に回る。するとここにようやくゴジラが現れ、キングシーサーと協力してメカゴジラと戦う。一時はそれでも苦戦におちいった2頭だったが、落雷のエネルギーで全身を磁石のかたまりに変えていたゴジラは、磁力によってメカゴジラを引き寄せると羽交い締めにし、ついにその首をへし折った。侵略者の基地も破壊され、ゴジラは海へ帰っていき、キングシーサーは再び玉座で眠りについたのだった・・・。


ゴジラ対メカゴジラ』は、実質的なゴジラシリーズの最終回だった。1954年の『ゴジラ』からちょうど20年。長く続いたゴジラシリーズはここに完結し、ゴジラ自身もここで完成した。
1968年の『怪獣総進撃』では、よみがえった縄文の神々が日本の東の果てである小笠原諸島に終結した。彼らは日本の守護神として最前線に立ち、「敵」への備えとなった。再び日本に向かってB29が飛ばないように、そして、再び日本の地が誰かの手で奪われないように、彼らは小笠原の重石となった。

この配置が可能となったのは、同1968年の小笠原返還のおかげだった。しかしその時なお、奪われたままの日本の地があった。それが沖縄だ。ゴジラたちがいくら小笠原で頑張っても、沖縄が欠けていては獅子身中に虫を飼っているようなものだ。
その沖縄は、1972年にようやく日本に返還された。ならばゴジラは沖縄で「侵略者」と戦って、勝たなくてはならない。もうこの地は誰にも渡さないと宣言しなくてはならない。

沖縄の守り神、キングシーサー。
縄文的なアニミズムが、そのまま現代まで残った希有な「神」と言っていいだろう。この、本物の守護神と協力することで、ゴジラにもここでようやく完全に「守護神」という意味が与えられた。そして沖縄の「神」を仲間にしたことで、蝦夷から南洋まで、南北5000キロに渡る日本守護の結界が完成した。これはもう、一種の呪術的布陣と言ってもいいだろう。
ひとたび日本に害をなすものがあれば、彼ら縄文の「神々」は、蝦夷から、熊襲から、琉球から、南洋から、そして靖国から、「敵」との最前線である小笠原に駆けつけることになるだろう。
ここに、日本守護の呪術的な包囲陣としてのゴジラシリーズは、完結した。


そしてゴジラ自身も、その完成に向かう。
これまでゴジラの最大の敵はキングギドラだった。キングギドラについては長山靖生さんという評論家が『怪獣はなぜ日本を襲うのか?』という本のなかで、こう書いている。
金髪を振り立てた三位一体の原理!
すなわちそれは、白人のキリスト教徒であると。

「龍」そしてその原型である「蛇」を信仰の対象としてきたアジアと異なり、白人のキリスト圏において「竜」は絶対悪の存在だった。そんな絶対悪として登場するキングギドラという「竜」が、アジア的感性の外部から飛来したことは疑いようがない。

そしてキングギドラとは、侵略者の手先となって破壊を行う「兵器」でもあった。ここからキングギドラの三つ首を、陸海空の三軍の象徴とみることもできるだろう。羽を広げたキングギドラの姿は、全てを鷲掴みにしようとする黄金色の手のようにも見える。
しかしそんなキングギドラはついにゴジラには勝てなかった。
ゴジラの敵は、ゴジラだけとなった。

もともとは「近代」のアンチテーゼとして存在したはずのゴジラだったが、いつしかその意味は薄れていった。ゴジラは「近代」を、そして「戦後」を受け入れ、その意味を変質させた。
メカゴジラとは、まさにそういった現在のゴジラの姿そのものだった。メカゴジラと戦うことは、ゴジラがその本質と戦うことでもあった。それはメカゴジラと同じ様に、ゴジラが人間のために戦う「兵器」となってはいないか、という問いかけでもあった。

ゴジラはそのことを確かめるかのように南海の激しい嵐の中に身を置くと、落雷という大自然の膨大なエネルギーと対決する。そしてその力を自分のものとした時、ゴジラは再び帰ってきた。
ゴジラは「近代」に呑み込まれてはいなかった。ゴジラは今も、大自然とともにあった。ゴジラはその大自然の一部としての「神」であることを、自らの手で獲得した。
ゴジラは日本人に都合よく働いてくれる「兵器」ではない。むしろゴジラは大自然にある「神」として、日本人をも監視する存在となった。
それが、1954年の『ゴジラ』から20年の時を経て、ここに完成したゴジラの姿であるようにぼくは思う。

こうしてゴジラの全ての物語は幕を閉じる。
沖縄の神を得て、ゴジラ自身の意味を完成させたゴジラシリーズが描けるものは、もはや何も存在しない。



もちろん、ぼくがここで言う「侵略者」がアメリカ合衆国だからと言って、関沢新一が反米的な思想を持っていたということではない。しかし香山ゴジラを正確に解釈し、それを戦後の日本の状況に合わせて再構築していった結果、関沢ゴジラが我知らずのうちにそのような性格を帯びてしまったのではないか、という意味で言っている。

そしてまた、昭和の東宝怪獣シリーズが戦後日本の歩みをまさしく反映したものであるとするなら、それらが存在した日本の時空には実は「脱アメリカ」のチャンスが存在していたことの証明になるのではないか。すなわちゴジラがゴジラ自身の意味を取り戻していったように、日本人が日本人である意味を取り戻せるチャンスが存在していたのがあの時代だったのではないか。

最近初めて昭和の東宝怪獣シリーズを通して観て以来、ぼくはそのような思いに取り憑かれている。


ところで、ゴジラにとっては終着点であった沖縄の地・・・。
しかしその沖縄を出発点とした男たちもいた。ウルトラシリーズのメインライターであった金城哲夫、そして上原正三だ。

つづく

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