プロフィール

竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
一つの 「カテゴリ」 で一つの記事となってます(記事は古い順に並んでます)。同世代のおっさん向け。

カテゴリ
もくじ

全ての記事タイトルを表示する

月別アーカイブ
ブログ内検索
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

主要記事
リンク
応援中
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

フリーエリア
趣味 - シュミラン

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

風立ちぬ(4)〜コクリコ坂から

日輪の遺産
宮崎駿にとって、監督としての前作は2008年の『崖の上のポニョ』となるが、脚本家としてのそれは、2011年『コクリコ坂から』(宮崎吾朗監督)になるだろう。

その舞台は1963年の横浜。
ここに港南学園という高校があって、老朽化した文化部部室棟「カルチェラタン」の建て替え計画が進められていた。一方それに反対する生徒たちもいて、あるとき「全学討論会」なる集会が開かれた。
その時の、建て替え反対派筆頭の少年のセリフが以下だ。

君たちは保守党のオヤジどものようだ。古くなったから壊すというのなら、君たちの頭こそ打ち砕け! 古いものを壊すことは、過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか。人が生きて、死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか。新しいものばかりに飛びついて、歴史をかえりみない君たちに、未来などあるか! 少数者の意見を聞こうとしない君たちに、民主主義を語る資格はない!


歴史、文化、伝統が大事だと言うんだから、この少年が「保守派」であることは明らかだ。
きっと、それらを無視して作られた『日本国憲法』にも反対の立場だろう(笑)(※)。

・・・なんてのは余談だが、これまでの話の流れに沿ってみたとき、この『コクリコ坂から』のストーリーは、実に味わい深いものがあると思う。一言で言ってそれは、戦後第一期世代の男女が、「父」を求め「父」を知るストーリーだった。そんな脚本を宮崎駿が書いた。

そして岡田斗司夫さんによれば『風立ちぬ』は堀越二郎の「赦し」の物語であり、またそして、宮崎駿本人の言によれば、堀越二郎には宮崎の「父」が重ねられていた。

この流れを整理すればこうなるだろう。

父を求め、父を知り、父を赦す・・・。

そしてそれは、宮崎が彼の父親に戦後日本や日本人を象徴的に見ていたとしたら、こうなるだろう。

日本を、赦す・・・。

宮崎駿が『風立ちぬ』の試写会で、何度となく涙ぐんでいたというのは有名な話だ。
半藤一利との対談本『腰抜け愛国談義』では、劇中で二郎がドイツ・ユンカースの工場に視察に行く場面で泣けたと言っている。技術提携だというからカネを払って出かけてきたのに、そこで日本人技術者が受けた粗末でみじめな扱い。

あるいは『CUT』での渋谷陽一との対談では、少年時代の坊主刈りの画を観ただけで涙が出てきた、とも言っている。

その姿、ぼくには宮崎駿から日本への愛があふれてしまった姿のように思える。
もちろん宮崎は否定するだろう。「日本はきらいだ」「日本人はダメだ」と言って。

しかし『風立ちぬ』から敗戦を経ての『コクリコ』で描かれた日本の情景や人々のどこに、日本を否定しようとする悪意があったか。ぼくには全く思い当たらない。

そこでは戦前も戦後も日本は美しく、社会はたくましく、人々はやさしい。

宮崎は赦し、そして赦された。
それが宮崎駿の「現在地」なんじゃないかと、ぼくは思う。



それにしてもつくづく思うのは、『風立ちぬ』って、窮屈な作品だなぁってことだ。
今はもう、日本と日本人を素直に描ける時代になっていて、邦画をみたって左翼テイストの映画なんて壊滅状態だ(皆無か?)。

前のカテゴリで扱った『ガンダムSEED』や『コードギアス』は有名な左翼プロデューサーが関わってるアニメだが、初期設定の左翼テイストなんて、ストーリーの進行とともに「悪役」に転じている始末だ。きっと需要的にも乏しいんだろう。

中国や韓国や朝日新聞は、今の日本を「右傾化」と言いたがるが、たぶん「中道」に戻っただけだ。

例えば同じく「零戦」を扱って大ヒットした『永遠の0』(原作・百田尚樹)。
宮崎駿は観もしないで馬鹿にしてるようだが、これ、完全な「反戦映画」だぞ。今は”右翼”が反戦映画を作る時代ってわけだ(笑)。
主役のエースパイロットの零戦評はこんなだ(小説版より)。

「自分は、この飛行機を作った人を恨みたい」
「いま、その類い稀なる能力が自分たちを苦しめている。560浬を飛んで、そこで戦い、また560浬を飛んで帰る。こんな恐ろしい作戦が立てられるのも、零戦にそれほどの能力があるからだ」
「8時間も飛べる飛行機は素晴らしいものだと思う。しかしそこにはそれを操る搭乗員のことが考えられていない。8時間もの間、搭乗員は一時も油断はできない」
「いつ敵が襲ってくるかわからない戦場で8時間の飛行は体力の限界を超えている。自分たちは機械じゃない。生身の人間だ。8時間も飛べる飛行機を作った人は、この飛行機に人間が乗ることを想定していたんだろうか」



あるいはキャッチコピーの「生きねば」。

2011年に公開された日本映画に『日輪の遺産』(角川)がある。
終戦間際、20人の少女がマッカーサーの財宝を秘匿する極秘作戦に狩り出されていたが、敗戦が決まり、少女らの殺害命令が下される。担当の真柴少佐(堺雅人)は命令実行後、自分も責任を取って自決すると言うが、同行していた主計中尉に「少女もわれわれも、生きねばなりません」とたしなめられる。むろん、財宝を使って、飢餓に陥ると予想される一千万の日本人を救うためだ。そしてそれこそが「もうひとつの本土決戦」だと中尉は言う・・・。

この両者の「生きねば」を比べた時、残念ながら『風立ちぬ』のそれは、いかにも軽い。
命を一代のものとして完結させてしまう、幼稚で自己中心的な個人主義。しかも自画自賛。きっと鈴木敏夫の発案だろう。そうに決まってるさ(笑)。

つづく


(※)宮崎駿は『熱風』のなかで「憲法は目標であって〜」などと言ってるようだが、イギリス人が聞いたら意味不明な発言だろう。イギリスには成文憲法典がなく、要は歴史や文化、伝統から判断される「イギリスの常識」が憲法だ。憲法は、事務所の壁に貼ってあるスローガンではない。

でもまぁこれぞ「偏った」戦後教育の成れの果て、というところなんだろう。イギリスのような先進国が不文憲法であることを知れば、「護憲」の意味はあらためて考えざるを得ない。だがぼくは、それを学校で習った記憶がない(寝てたか?)。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。