プロフィール

竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
一つの 「カテゴリ」 で一つの記事となってます(記事は古い順に並んでます)。同世代のおっさん向け。

カテゴリ
もくじ

全ての記事タイトルを表示する

月別アーカイブ
ブログ内検索
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

主要記事
リンク
応援中
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

フリーエリア
趣味 - シュミラン

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『もののけ姫』と『エヴァンゲリオン』

生きろ
もう少し、『もののけ姫』の話題を続けたい。
宮崎駿の思想的代表作とみなされる映画、『もののけ姫』(1997年)のテーマとは何だったのか。

1998年発行の「『もののけ姫』はこうして生まれた。」(浦谷年良/徳間書店)という本によると、制作当時の宮崎駿が「我々が直面している最大の課題」として語っているのは、次のようなことだった。

 今まで僕が作ってきたものは、基本的に守るべき人間がいて、その人間達に支持されているという人物が主人公だった。今度は違う。守るべき村や、守るべき何かが無いんですよ。要するに、露骨にはやってませんけど、はっきりお前さんはいらないと言われている人物なんです。いなくてもいい。活躍しても、別に褒め称えられない。(中略) 
 今度の映画を、この世に生きていて、いわれのない、不条理な、肉体的にも精神的な意味も含めてババを引いてしまった人間達が、どういう風に感じてくれるだろう。それは今の若者の共通の運命であるはずですから。


そうして宮崎が「大人である我々が」「答えをそれなりに出したい」(※)と言って、「不条理な運命の中で生きる」ことを模索する若者として登場させたのがアシタカとサンというわけだ。
だが、ぼくが初めて上記の発言を読んだとき、真っ先に頭に浮かんできたのは『新世紀エヴァンゲリオン』(1995〜96年)の碇シンジや惣流・アスカ・ラングレーの顔の方だった。

宮崎は「守るべき何かが無い」というが、アシタカにはもともと「守るべき人間」も「守るべき村」も存在したし、サンと出会ってからはサンを守ろうとしている。サンはサンで、守るべき森や山犬の家族があって、侵略者エボシと戦っている。二人とも自分の考えを持った立派な若者で、運動能力や知力、体力も申し分ない。

そんな優秀な二人が、宮崎お得意の”エスコート・ヒーロー・ストーリー”(要は『ドラクエ』)を繰り広げるのが『もののけ姫』という映画だ。果たして当時の「ババを引いてしまった」少年少女たちが、どれほどアシタカとサンに共感できたものやら、疑問が残る。

守るべき何かがなく、お前はいらないと言われ、活躍しても褒められない・・・、どう考えてもシンジやアスカについて語っているように読めるのは、ぼくだけではないだろう。

あの頃の宮崎はあちこちで、『エヴァンゲリオン』は観ていないと言っていたが、弟子の作品にまったく興味がないとは考えにくい。時期的にいっても、『エヴァンゲリオン』の少年少女にインスパイアされて、アシタカとサンのキャラクターを煮詰めていった可能性は十分にある。

が、そのことの真偽はどうでもいい。
問題は、では宮崎は「ババを引いてしまった」若者達に、「不条理な運命の中で生きる」ことへの「答え」を出せたのかどうかだ。

・・・「生きろ」。
糸井重里が考え、鈴木敏夫が選び、宮崎駿が「近い」と喜んだ『もののけ姫』のキャッチコピーだ。
おそらく、これが「答え」ということだ。

えーっ!?と拍子抜けするのが当然だろう。
こっちは「どう生きればいいか」の答えを期待しているのに、単に「生きろ」と言われても困るだけだ。答えになっていない。

実はこの展開について、「『もののけ姫』はこうして生まれた。」の著者、浦谷年良さんはあらかじめ予期していたフシがある。引用部分を、浦谷さんはこう分析する。

「貧しさから抜け出して豊かになろう」で生きてきた大人達の価値観は子供達にはリアリティがない。大人はその落差に気がつけない。気がついても変えられない。いや「豊かになる」以外の価値観を持っていなかった。そこにますます空洞が広がる。(同書)


要するに、「守るべき何かが無い」のは少年少女だけじゃない。宮崎駿ら、大人たちにもそれはなかったということだ。だから「答え」を出せない。生き方を提示できない。「おいしい生活」が最高の価値だ。

だがそのことで、宮崎や糸井を責めることはできないだろう。
戦後の日本は国として「守るべき何かが無い」状態であることを強いられてきたからだ。
アメリカの「保護国」なんだから当然だ。

独自に軍事・食料・エネルギーを開発することは半ば禁じられ、外交も制限され、バブル崩壊後は経済まで指図されるようになった。そんな国で、大人が子供に道を示せたら、その方がむしろ欺瞞というべきだろう。
極端な話、総理大臣も経団連の会長もヤクザの親分も金八先生も、みーんな「保護」されているコドモなんだから、コドモがコドモに威張ってどうすんだ?

「生きろ」という言葉の背景にはおそらく、「守るべき何か」を否定して、気がついたら生き延びること以外の価値を見失ってしまった戦後日本の、自己弁護があるような気がする。あるいは、自己肯定か。奴隷だろうが何だろうが、とにかく生きてりゃいいんだ、命どぅ宝だと。


5月14日の「しんぶん赤旗」の記事によると、沖縄の辺野古基地建設に反対する運動資金「辺野古基金」とやらの共同代表に、宮崎駿が就任したとか。そんで、辺野古は中止、普天間も撤去、などと主張しているとか。
ううむ、これぞまさに、コドモの主張だな。

普天間が危険だというから、人の少ない辺野古に移すといってるのに、ゴネるばかりでまるで聞きわけがない。

じゃあ米軍を追い出したあとの軍事的空白はどうすんのよ?
彼らが、それを考えないでも平気でいられる精神的根拠は、多分これなんだろう。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。(『日本国憲法 前文』)


周りの国々は平和を愛してるんだから、その公正と信義を信頼しているだけでわれわれは安全なのだ、と書いてあるのが我らが最高法規、日本国憲法だ。なのに基地を作って防衛するなど、憲法の精神に反しているのだー!

「護憲派」と言われる彼らの脳内は、これくらいブッ飛んでいるに違いない。守りたいものは日本人の生命ではなくて、諸国民の公正と信義に信頼できる美しきわが心!!・・・とでも自己陶酔してない限り、あんなコドモっぽい無責任な発想にはならないと思う。
そして、そんな夢想に生きる大きなコドモたちが、現実の悩める少年少女達を救えるはずもないというわけだ。

だからこそ、この情けない「保護国」の状態を脱したいと願う人の矛先は、日本国憲法の改正に向かう。
ぼくは別に憲法に「守るべき何か」をゾロゾロ書けばいいとは思わないが、少なくともマッカーサーにそう「決意」しろ、と命令された前文などは全て削除したらいいと思う。たとえ前文が空白になっても、削除したという行為自体が、日本人の新しい「決意」となるからだ。


というわけで、例によってのタイトル詐欺で、ほとんど「もののけ」も「エヴァ」も出てこない記事になったが、とりあえず「もののけ姫」の話題はこれで終わり。

「エヴァ」については、TV放映当時ぼくはすでに28才で、ロボットヒーローアニメから精神的影響を受けるような歳じゃなかった。にも関わらず、ぼくにとって「エヴァ」は重要な作品となった。
なので次回からは「エヴァ」にまつわる個人的な話などしつつ、「ぼくが見たエヴァ」みたいな無意味で無内容な(笑)エヴァ論を展開してみたいと思う。

つづく

※96年7月6日、中国人映画監督の田荘荘氏との対談にて(DVD「『もののけ姫』はこうして生まれた。」より)。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。