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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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碇シンジの「補完」について

なぜ冷や汗?
『ガンダム』に続いては『イデオン』の話題に移りたいところだが、その前にひとつハッキリさせておくことがある。
それは、TVシリーズ最終話で、はたして碇シンジくんは「補完」されたのかどうか、だ。

結論から言ってしまえば、ぼくが初めて『新世紀エヴァンゲリオン』をみた1996年夏頃は、シンジは「補完」された、という合意があったように思う。これは、TVシリーズ第25話「終わる世界」と第26話「世界の中心でアイを叫んだけもの」を普通に眺めていれば、普通に導かれる結果だろう。順に見ていこう。

まず第25話「終わる世界」のAパートが、「そして 人類の補完が始まる」で終わる。

Bパート早々、闇の中にうずくまっているシンジが「なんだ? この感触? 前に一度あったような・・・自分の形がきえていくような・・・。気持ちいい・・・自分が大きく広がっていくみたいだ・・・どこまでも・・・どこまでも」と言って、「補完」が始まったことを示す。

続いてテロップ「それは人々の補完の始まりだった 人々が失っているもの 喪失した心 その空白を埋める 心と魂の、補完が始まる 全てを虚無へと還す 人々の補完が始まった
で、あーだこーだといろいろあって、「そして補完への道は つづく」で第25話は終わる。

最終回第26話は冒頭からテロップ。
「時に 西暦2016年 人々の失われたもの すなわち心の補完は続いていた だが、それを記すには、あまりに時間が足りない よって今は、碇シンジという名の少年 彼の心の補完について語ることにする」

どうだろう?
これだけ「補完」してますよーと言っておいて、最後が「補完」されませんでしたでは、完全にやるやる詐欺というものだろう。
続いて第26話では、オールスターキャストがシンジをひとつの結論に追い込んでいこうとする。そうして、やがてシンジは「ぼくはここにいたい」「ぼくはここにいてもいいんだ」と悟り、みんなの祝福を受ける。

・・・が、シンジが言ってる「ここ」ってどこだ?

第25話Bパート冒頭で、シンジが既に液状化してることは明白だ。
ならば「ここ」とは、補完された人々の心と魂が溶解している場所、ということになるだろう。シンジはみんなの説得で心を開き、「補完」の輪の中に入っていった・・・と見るのが至って普通の感覚じゃないか?

そのことは当時の出版物にも普通に書いてあることで、1997年2月、要は『劇場版Air/まごころを、君に』公開の5ヶ月前に発行された『ニュータイプ100%コレクション29 NEON GENESIS EVANGERION』(角川書店)でも、ストーリー紹介のなかで「祝福され微笑むシンジ。それこそが補完されたシンジの姿だった」という記述がある。

さらには、1997年3月発行の『庵野秀明 スキゾエヴァンゲリオン』(太田出版)では、庵野監督自身のこんな発言がある。

竹熊 シンジくんが大人になる話ですよね、ホントは。
庵野 それは、僕が大人になるってことと同じですよね。シンジ君って昔の庵野さんなんですかって聞かれるんですが、違うんですよ。シンジ君は今の僕です(笑)。一四歳の少年を演じるくらい僕はまだ幼いんです。どう見ても精神医学的に言うならオーラルステージ(口唇期)ですよね。メランコリーな口唇依存型。まあ、これは否定しようのない事実で、しかたがないことなんです。そこから前に進もうと思ってたんですが、それは結果として自己への退行になってしまった。袋小路ですね。
竹熊 となると、ある意味ではアン・ハッピーエンドですよね。『エヴァ』の最終回は。
庵野 ある意味ではそうですね。そこから前に出たのがハッピーと取れば、アン・ハッピーなんですけれど。これでよしとすればハッピーエンドですね。
竹熊 一応、ハッピーエンドの体裁は取ってますもんね。


簡単にまとめれば、シンジ=庵野で、彼らは口唇期から前に進もうとしたが、「退行」してしまった。
つまりは「赤ちゃん帰り」、現実逃避だ。
彼らに拒否されたのは「補完」じゃなく、現実世界の方だと見るのが普通の感覚だろう。


さて、以上はWikipediaにある記述、「ストーリーは変わらずどちらも補完を否定した結末であり」にケチをつける意図で書いたことじゃない。きっと、ぼくの知らない所で、そういうことに決まったのだろう。

ただぼくは、1996年夏、確かにシンジは「補完」されたのだと感じて精神的に救われたし、97年7月に『劇場版Air/まごころを、君に』を観て、ありゃー結末が変わっちゃったよと笑った。それが、ぼくが見た『エヴァ』だった、というわけだ。

ぼくにとっては、『エヴァ』のテレビシリーズと劇場版は、まったく反対の結末を描いている作品だということ。
そのことを前提に、次回は再び本題に戻りたい。

つづく


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