プロフィール

竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
一つの 「カテゴリ」 で一つの記事となってます(記事は古い順に並んでます)。同世代のおっさん向け。

カテゴリ
もくじ

全ての記事タイトルを表示する

ブログ内検索
月別アーカイブ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

主要記事
リンク
応援中
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

フリーエリア
趣味 - シュミラン

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『エヴァンゲリオン』と『伝説巨神イデオン』

one more final

富野由悠季監督が、昭和のテレビアニメの思想面で果たした役割は大きい。
海のトリトン』『無敵超人ザンボット3』『戦闘メカ ザブングル』についてはリンクを踏んでいただくとして、ここではまず、『機動戦士ガンダム』の「ニュータイプ」について、ちょっと触れたい。

それは、人間が宇宙生活のなかで獲得した能力で、映画『逆襲のシャア』(1988)では「物とか人の存在を正確に理解できる人のことだよ」とクェス・パラヤに言わせたものだ。人間はまだその力をモビルスーツの操作ぐらいにしか活かせてないが、いずれは「人類がみんな共感しあえる」ようになると考えられていた。

もちろん、富野監督がそんな場末のカルト宗教みたいな理想論を唱えていた、なんてことじゃなくて、理想を唱えながら、それを人殺しの道具として進化させようとする人間のエゴイズムが、主眼として描かれた。富野監督にとって「ニュータイプ」なんてのは、人の心の醜悪さを引き出すための道具、方便でしかなかった。

そして、そうした「人の心」をテーマにして、さらに突き詰めていったのが『伝説巨神イデオン』(1980)だ。

『イデオン』の世界では、宇宙には地球人とバッフクラン人の二つの人類がいた。あるとき地球人は、彼らがソロ星と呼ぶ星の遺跡から、巨大な宇宙船とロボットを発掘した。しかしそれらはバッフクラン人にとって、他者に奪われるとバッフクラン人が滅亡するという伝説をもつ代物だった。バッフクラン人の攻撃が始まり、地球人はただ生き延びるために、それらを使って逃げようとする。

そうして地球を目指す主人公たちだったが、補給や修理のために立ち寄った植民星では同じ地球人から迷惑がられ、散々な目に合わされる。そしてついには、母星である地球からも拒絶されてしまうのだった。行く当てのない逃避行は、続く・・・。

詳しいことは「伝説巨神イデオン」のカテゴリを参照していただきたいが、『イデオン』の前半部で描かれたのは、われらが「戦後民主主義」の成れの果ての姿だったとぼくは思う。

戦後民主主義についてこのブログでは、脚本家・佐々木守さんの「個人が、体制よりも社会よりも組織よりも、すべてに優先されるという考え方・行動」という定義を採用しているが、要は「超」のつく個人主義だ。
富野監督はそれを、ただのエゴイズムだと断罪する。

続いて『イデオン』では、戦後民主主義によって「個」に分断されてしまった人間たちの孤独と悲哀が描かれていく。生き延びるために理解し合わなければならないのに、「個」のエゴが邪魔をする歯がゆさだ。
そして富野監督はいよいよ、戦後民主主義どころか、民主主義そのものの根幹へと降り立っていく。
「内心の自由」だ。

人は神さまを拾ったが、神は意思を持っていなかった。それで人は神に、私の願いを叶えてくださいとお願いした。神は聞き入れ、人が本心で願っていることを実現させた。そしたら人類が滅亡してしまった。
これが赤木リツコ博士風にまとめた(笑)『イデオン』のストーリーだ。

発掘された宇宙船(ソロシップ)とロボット(イデオン)には、何億人かの「第6文明人」の意思が封じ込められていた。彼らはあるとき、地球人ベスの夢に現れ「心のあり所たるイデの場を守る権利」があると言う。そこでベスは「全力を尽くして良き道を探すべきだ」と返した。このときからイデ=第6文明人は、「良き道」を人々の心の中に探し始めることになる・・・。

「内心の自由」とはこういうものだ。

 1648年に至るまでの1300年間のヨーロッパの歴史は、宗教戦争・十字軍・魔女狩り・拷問・異端審問などの横行です。
「違う宗教を信じてる奴」「よからぬことを考えているかもしれない奴」は、「殺さなければならない」のがヨーロッパ社会でした。
 しかし、三十年戦争で欧州が廃墟になって、ヨーロッパ人は、ようやく宗教戦争の不毛さに気付きました。1648年に(ウェストファリア会議で)示された「心の中では何を考えても良い」は近代思想の出発点です。これを現代の憲法学の用語では、精神的自由権と呼びます。(『誰が殺した?日本国憲法』倉山満/講談社)


戦いの最中、人々は問題解決へのより良き道を探そうと努力した。
自分たちが「良き心」を持つことが答えだと、やさしさや思いやりに目覚めた少女もいた。
しかしイデが人々の心に見つけた最大公約数的な「良き道」とは、破滅の道、すなわち全人類の滅亡だった・・・。


言うまでもないが、人間の内心が怪しげだからこそ、人類はそれを克服すべく民主主義を発展させたわけで、『イデオン』が今さらそれを告発して悦に入ってるとか、そういうことじゃあない。人間同士が分かり合おうする努力は、永遠に続けられなければならないことだ。『イデオン』はただ、人の心の実相という「本当のこと」を描いているだけだ。

で、ここまでが前置き。
『新世紀エヴァンゲリオン』は、この『伝説巨神イデオン』の問題意識をどう引き継いだというのか。

『伝説巨神イデオン』で描かれた「個」の孤独や悲しみは、人間が「個」であることに原因がある。ならば「個」を「個」たらしめているワクを取っ払ってしまえば、それらから救われることになるはずだ。
『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」とは、要は地球人類が「第6文明人」になるってことだ。意図して「個」を捨てるということだ。

これは全然関係ないものを無理矢理くっつけて話している訳じゃなくて、庵野監督が1988年の富野作品『逆襲のシャア』の伝道師だったのは有名だし、『エヴァ』は元々は(イデオン同様の)古代文明の話だったことからして、見えないリンクがあっても不思議ではないだろう。

ロンギヌスの槍:人類が生まれるまでに非常に高度なテクノロジーをもつ先史文明が二相存在し、最初の文明がEVAを造ってそれが原因で滅び、次の文明がロンギヌスの槍をつくってEVAを封じ込めに成功、後に何者かがEVAを復活させたときの対抗策、いわば全自動の安全装置として使徒を眠らせた。当事者間でも、すでに話が暴走しているいまとなってはどうかは知りませんが、これが企画会議のとき決められた設定。(『それをなすもの』山下いくと きお誠児/1998年・角川書店)


繰り返しになるが、戦後民主主義とは「個人が、体制よりも社会よりも組織よりも、すべてに優先されるという考え方・行動」だ。

それは戦後日本にだけ存在する特殊な思潮で、日本人を国やら地域やら学校やら会社やら、ありとあらゆる共同体への帰属から分離して、「個」に孤立させようとしてきた。愛国心は持つな、国歌は歌うな、個性が大事、個性を伸ばせ、ナンバーワンよりオンリーワンだ。ゆとり教育が最高だ。

富野監督は、そんな思潮に一貫して異議を唱えて続けているが、例えばこれ。
エゴとは「自我」のこと。

だからエゴというのは、すごくラフな言い方をしますと、ありません。あってはいけないんです。こういったときに、私とか僕がなくなっちゃって寂しいという言い方をするのが、今の子たちかもしれないし、今の日本の風潮かもしれないけども、それは違いますね。それは、エゴがあると信じた近代思想がでっちあげた概念です。(『イデオンという伝説』太田出版・1998年)


富野作品のエヴァンジェリストだった庵野監督が、果たして「補完」されちゃうと僕がなくなっちゃって寂しい、なんて思うものだろうか。

劇場版エヴァンゲリオン Air/まごころを、君に』のラスト、「ONE MORE FINAL」。
シンジは「補完」されていく世界の中で、「でも、これは違う」と言って、碇シンジとして存在していくことを選ぶ。しかしどうだろう。再びシンジが自分のかたちを取り戻した世界は、まるで地獄絵図じゃないか。巻き添えにされたアスカが可哀想すぎるぞ。

てなわけで、『エヴァンゲリオン』のテレビシリーズと劇場版は、まったく正反対の描き方で、いずれも「戦後民主主義」を明確に否定しているのだとぼくは思う。一度目は自らの心を開いて「補完」の輪に飛び込むことで、二度目は「補完」を拒否した結果で。

そして「借り物の正義」と同様に、ここでも『エヴァ』は、「戦後」的、「昭和」的なるものを葬り去ろうとしているように、ぼくには見える。だがぼくたちは当時、残念ながらそのことの意味に気がつかなかった。反撃のノロシを見失ったまま、そろそろ20年がたつ。

つづく

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。