プロフィール

竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
一つの 「カテゴリ」 で一つの記事となってます(記事は古い順に並んでます)。同世代のおっさん向け。

カテゴリ
もくじ

全ての記事タイトルを表示する

ブログ内検索
月別アーカイブ
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

主要記事
リンク
応援中
Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

フリーエリア
趣味 - シュミラン

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『エヴァンゲリオン』の思い出 その3 ー使徒ー

rei
前回からの続き)

あらためて、「使徒」について。
世に『エヴァ』の「解読本」「謎本」がどれほどあったのかは知らないが、その善し悪しを決めるのは「使徒」についての考察次第なんじゃないかとぼくは思う。というか、96年当時、ぼくらが一番知りたかったのが「使徒」の正体だった。

まず第1話。
「予想どおり自己修復中か」「そうでなければ単独兵器として役に立たんよ」「機能増幅まで可能なのか」「おまけに知恵もついたようだ」などの会話から、ゲンドウと冬月が、使徒の能力をおおむね把握していたことが分かる。

第5話で、人間と使徒は、DNAが99.89%酷似してるとされるが、これはおそらくカヲルくんへの伏線だろう。

第10話で、使徒が「さなぎ」から「羽化」することが分かり、その幼体は第8話で加持くんが持っていた「アダム」の幼体と同じ姿だった。

第13話で、コンピュータ・ウイルス状の使徒がマギ・システムに侵入。リツコ「彼らは常に自分自身を変化させ、いかなる状況にも対処するシステムを模索しています」、冬月「まさに生物の生きるためのシステムそのものだな」。

第17話で、ミサトが「使徒同士の組織的なつながり」をほぼ否定した一方、同じ文脈のなかでゲンドウが「使徒は知恵を身に付け始めています」と言って、全体としての使徒の継続性・連続性の存在を示唆している。

第22話は、使徒が「人の心を理解」して、「人の心を知ろう」とする話。アスカが精神汚染される。この時、セカンドインパクトが使徒の接触が原因でないことが判明。

第23話、使徒が「積極的に一次的接触を」試みる。レイ、自爆。第三新東京市、消滅。

以上から、当時ぼくらが考えていた第3〜第16使徒とは、本体である「アダム」から分裂して、「アダム」に回帰するという行動原理の元、外敵を威力偵察して情報を収集し、共有された情報を元に適応・進化し、外敵を全滅させる・・・、みたいな軍事システムだ。

そしてヒトを滅ぼす最適の姿がカヲルくんというヒト型で、地球全体を(アスカみたいに)精神汚染することで人類だけ全滅させるのでは、と想像した。

もちろん使徒をバラまいたのはゼーレで、それはエヴァ12体を造るための口実だと考えた。
カヲルが、最後のさなぎを羽化させたら偶然ヒト型で現れたのか、それともレイのように幼児からヒト型で成長していったのかは、大きく意見が分かれたところ。ゲンドウはヒト型の使徒を予測してなかったようだし、一方、ゼーレはレイの正体を知らなかったわけで、これらを矛盾なく説明するには情報が足りなすぎた。

カヲルくんが次の「アダム」になるのでは? という意見もあったが、それは「僕が生き続けることが、僕の運命だからだよ」が根拠だった。ジオフロントを造った古代人だか宇宙人だかが、自己防衛のために造ったのが使徒システムなら、現人類を滅ぼした後も、カヲルくんは引き続き、次に現れる外敵からの防衛に備えなければならない。それがカヲル=次のアダム説。

だが、うっかりヒト型になったのが災いしたか、人の心の寂しさを知ったカヲルくんは、「君たちには未来が必要だ」と言って生存権を譲ってくれた。「未来」とはつまり、来たる人類補完計画のことだろう。

重複になるが、参考に元々の『エヴァ』の設定を引用しておこう。最初はEVAこそが悪魔的な存在で、それを倒すために使徒が準備されてたようだ。

ロンギヌスの槍:人類が生まれるまでに非常に高度なテクノロジーをもつ先史文明が二相存在し、最初の文明がEVAを造ってそれが原因で滅び、次の文明がロンギヌスの槍をつくってEVAを封じ込めに成功、後に何者かがEVAを復活させたときの対抗策、いわば全自動の安全装置として使徒を眠らせた。当事者間でも、すでに話が暴走しているいまとなってはどうかは知りませんが、これが企画会議のとき決められた設定。(『それをなすもの』山下いくと きお誠児/1988年・角川書店)


さて、これ以上の深入りはポエミーにしかならないので、そろそろ思い出話は終わりにしたいが、最後に一つ。
初めて『エヴァンゲリオン』テレビシリーズを見進めていった時、ぼくは作品世界の背景に、併走するふたつの物語を感じていた。ひとつは心の補完を求める人間の物語。もう一つは「肉体」の補完を求める使徒の物語。その二元論の真ん中にいるのが、レイだ。

最初のうちは、いかにも使徒と同じ肉体でできた作り物の人間っぽかったレイだったが、頬を赤らめたり、にっこり微笑んだり、涙を流したりと、次第に人間らしくなっていった。だがその心は、本当に人間と同じものなのか?

カヲルとシンジを追ってターミナルドグマに降りていくレイは、その答えを探しに行ったのだろう。だが、レイと同じようにシンジと心を交わした使徒、カヲルくんは、当のシンジの手で潰されてしまったのだ。ならばレイの運命も、誰か人の手によって潰されてしまう悲しいものなのだろうか。

しかしそれは杞憂だった。
『新世紀エヴァンゲリオン』最終回、レイは補完されたシンジを祝福する人々の輪の中にいた。

おー、レイちゃん良かったなあ、君も補完されたのかー、と思わず涙したぼくだったが、すぐにあることに気がついた。それは、テレビのこっち側にいるぼくは、補完されないということだった。そう、人はエヴァンゲリオンという特殊な装置なしには、分かり合うことができないのだ。
当時、離婚だなんだで極度の自己嫌悪に陥っていたぼくだったが、それは「本当のこと」としてスーッと心に入ってきた。そうしてぼくの閉じた心は、次第に溶かされていったのだった。

まとめます。
なぜ今頃、テレビシリーズの『エヴァンゲリオン』の話なんてしているのか。
一つには今年、自分がついにゲンドウの年齢に達することもある。
だが何といっても強調したいのが、それが(このブログで扱ってきたような)戦後的な枠組みの、ひとつの終局を描いていたことだ。

『エヴァ』には「父性」がない。誰も少年少女に正義を語ってはくれない。『エヴァ』には「母性」もない。それは庵野監督がみんな殺してしまった。『エヴァ』は「神」を造る物語だが、その「神」は肉体だけで、心がなかった。

語るべきものがないことこそが、『エヴァ』で語られたことだった。
だが20年近く経った現在から見れば、それは確かに、次へのスタート地点でもあった。

僕のアンテナが、要するに自分自身には何もないので、無意識に社会を反映できるというのがあるかも知れない。(『庵野秀明パラノ・エヴァンゲリオン』1997年)


『エヴァ』には語られるべき日本がなかった。
だが、日本は今もここにあって、新しい物語を探す人も出ている。
次回からはいくつか、そういった作品をみていきたいと思う。

つづく


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。