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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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『日本沈没』(2006年)

高僧

以前も書いたが、ぼくが知る限りで最後の反日反戦映画は、『きけ、わだつみの声Last Friends』(東映)だ。公開は1995年6月。
そしてそれ以降に作られた戦争映画は、近年大ヒットした『永遠の0』(2012年・東宝)に至るまで、特定のイデオロギーは交えないか、交えたとしても「右」寄りだ。大手が「左」寄りを作らなくなって、もう20年が経つ。

この理由は、対象年齢を落とした子供番組を見ると分かりやすいと思う。
例えば2001年の『ウルトラマンコスモス』では、怪獣性善説をとなえ、怪獣を殺さず保護しようとする人々とウルトラマンが、設定された。ぼくらが見た実相寺&佐々木のガヴァドンスカイドンシーボーズを全編に拡大しようとした恐ろしい作品だが、言うまでもなく、早々にウルトラマンは怪獣をぶっ殺すようになる。

あるいは2002〜2004年の『ガンダムSEED』『ガンダムSEED DESTINY』に登場する中立国オーブ
彼らは「他国を侵略せず、他国の侵略を許さず、他国の争いに介入しない」、すなわち「非戦」を訴えたが、やがては大国から独立を守るために武器を生産し、保持し、輸出し、さらには(ごく自然な成り行きとして)集団安全保障の先兵として戦うようになった。

この二作品で、最初に掲げられた左翼イデオロギーを吹っ飛ばしたのは何だったか。
それは「現実」だ。
現実にとって「不自然」だから、左翼イデオロギーは退場させられた。

そんなわけで、最近の日本映画では、局面から「自然に」現れてくる日本人の美意識や美徳みたいなものにスポットを当てた作品が主流になっているように思う。考えるより、感じろ、といったところか。代表的な作品として、2006年にリメイクされた『日本沈没』(監督・樋口真嗣/東宝)を観てみたい。

1973年版『日本沈没』では、徐々に判明していく破局にどう対処するか、という物質的な問題と並行して、日本人とは何か、という精神的な問題がクローズアップされた。ラストで田所博士(小林桂樹)はこう言う。

日本人は民族としては若い。四つの島でぬくぬくと育てられてきた、まだ子供だ。外へ出て行ってケンカをしてひどい目にあっても、四つの島に逃げ込み、母親のフトコロに鼻を突っ込みさえすりゃよかった。しかしこれからは、その帰るべき国がなく海千山千の世界の人間の中で・・・

それが小松左京の日本人観だったのだろう。
ゆえに「日本民族の将来」をどうするか、に対して出された結論のひとつに、「このまま何もせん方がええ」つまり、日本人は愛する国土とともに海に沈んだ方が幸せなのかも知れない・・・が加えられた。丹波哲郎の名演(怪演?)もあって、ずしりと重いテーマが示された。

しかしそれから30年以上が経った2006年版の『日本沈没』では、その小松左京の日本人観は明確に否定された。かつて丹波哲郎が演じた山本総理を今度は石坂浩二が演じたが、彼は気の毒にも阿蘇山の噴火に巻き込まれ、命を落としてしまうのだ。
だからと言ってリメイク版が、人命が一番大事だ、みたいな陳腐な主張をしているわけではない。むしろ反対に、命を捨てて、沈みゆく日本に踏みとどまろうとした人々を描いたのが樋口作品だ。

2006年版では冒頭から日本が沈没する未来が予測されていたが、田所博士の研究によってタイムリミットが一年以内であることが判明し、物語は一気に加速する。田所博士に協力したことでいち早く情報を知り得た潜水調査船のパイロット、結城達也は、すでに妻子を海外に逃がしていたが、自分は日本に残って田所博士の手伝いをすると言う。理由は、息子を自分が育った田舎の浜に連れて行って、海を教えてやりたいから。彼にとって、息子に教えたい「海」は、どこの海でも良かったわけではないってことだ。
しかしその結城は、深海での作戦実行中の事故で亡くなってしまう。

結城の同僚である(主人公)小野寺俊夫は、母親を逃がそうと実家に帰省するが、母親は「家族の思い出がつまっている」家とともに沈むことを選ぶ。最後まで、亡き夫と一緒にいたいのだと言う。小野寺は「馬鹿なこと言うなよ」と説得するが、母親は「命より大事な場合もあるの、人を好きだっていう気持ちは」と動かない。

潜水調査船の優秀なパイロットである小野寺は、実はイギリスの調査会社からオファーを受けていた。小野寺は、思いを寄せる女性、阿部玲子に一緒に渡英しようと持ちかけるが、断られてしまう。パイパーレスキューの隊員である玲子は、日本に残される人を見捨てることはできないと言う。

そうして「今までやりたいことだけやって生きてきた」小野寺の心境に変化が起こる。
小野寺は「自分の使命を見つけることができた」と玲子に書き残し、彼女を守るために老朽艦「わだつみ2000」に乗り込む。
それは機体の限界深度を超えた、生還不可能な作戦だった・・・。


2006年の樋口版『日本沈没』で描かれたこと。
それは、自己犠牲の精神だった。

実は公開当時、旧作の大ファン(なにしろ主役がいい!)だったぼくは、樋口版にいまいち感心できなかった。何か予定調和的というか、できすぎの感じがして素直に楽しめなかった。だが、あの3・11の大災害のあとで、ぼくの評価は一変した。

CGや特撮の災害シーンがやけに身に迫るのはもちろんのことだが、映画で描かれた尊い自己犠牲の精神が、決して作り話の上だけの美談ではないことを、あの災害時のリアルな日本人の行動が証明してくれた。あの時日本中に、ヒーローは、確かにいたのだ。

というわけで、『エヴァンゲリオン』以降というか、ここ20年くらいの映像作品から、自然に現れてくる日本人の美徳や美意識として、今回は「自己犠牲の精神」について書いてみた。

もちろん、そんなのは珍しい話じゃない。このブログでも『ジャイアントロボ』の最終回や、『さらば宇宙戦艦ヤマト』は記事にしたし、最近見直した『ウルトラQ』(1966年)にも第14話「東京氷河期」で、怪獣ペギラに特攻をかける元ゼロ戦乗りのエピソードがあった。
要は、日本人にとって、それはいたってごく自然に湧いてくる美意識ということだ。

だが戦後日本には、その心情と、真っ向から対立する思潮がある。
戦後民主主義だ。

つづく


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