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竹波エーイチ

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映画『まぼろしの邪馬台国』(2008年・東映) -九州編その2

まぼろしの邪馬台国

まぼろしの邪馬台国』は2008年公開の日本映画。
主演の吉永小百合が、あっち方面のシンパだということで拒否反応を起こす人もいるかも知れないが、盲目の郷土史家・宮崎康平を演じた竹中直人の怪演はいいし、堤幸彦監督ならではのVFXもいいし、吉野ヶ里遺跡で撮影したと思われる弥生時代の再現シーンもいい。見て損はないと思う。

さて、それでは長浜本の話題に移ろうかと思ったが、本題に入る前に整理しておかないといけないことが、一点ある。
邪馬台国の位置についてだ。

すでに見たように、「東遷説」に基づくマンガ『ヤマタイカ』では、それは阿蘇だとされたし、映画『まぼろしの邪馬台国』で宮崎康平が出した結論は、長崎県の島原だった。
ぼくなんかも、ごく自然に邪馬台国は九州のどっかにあったんだろう、と感じていたが、専門家の間ではそうではなく、邪馬台国は大和(奈良県)にあったという説が主流なんだとか。

その根拠をざっくりwikipediaから引用すると「畿内には最大級の都市遺跡がある。魏に朝貢した邪馬台国はその当時の日本列島最大勢力であったはず」という仮定、に基づいているそうだ(『邪馬台国畿内説』)。

ううむ、漫画家や郷土史家が九州説で、専門の学者が大和説じゃ、やっぱり大和説が正しいのかなぁ・・・とあっさり考え直したくなるが、ここにお一人、興味深いキャリアの専門家がいる。長年の大和説を死の間際に否定して九州説に転じられた、門脇禎二先生だ。

門脇先生は京大卒業後、京都学派として長年大和説を支持され、京都府立大学の学長まで務められた立派な先生だ。その先生が、病床で執筆し、絶筆に終わった「九州説」が『邪馬台国と地域王国』(吉川弘文館/2008年)だ。

この本のなかで門脇先生は、大和説をとることが「不安になった」と率直に述べられている。そして全ての始まりだった『倭人伝』の読み込みへと戻られていったのだった。

ぼくは門外漢なのでザックリとした話になるが、『魏志倭人伝』には、邪馬台国の位置を示すものとして、距離・面積・方角があるらしい。

まずは距離だが、その起点となるのは、当時の魏の、朝鮮半島最南端である帯方郡で、これは今のソウルあたりと岩波文庫版には書いてある。んで、当時の朝鮮半島の状況は『魏志韓伝』によればこうだ。

※なお、以下の『魏志韓伝』『魏志倭人伝』の訳は、こちらのサイトから引用させて頂いた。
古代史レポート

韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。


どうやらソウルから南が「韓」で、朝鮮半島南部で「倭」と境界を接しているらしい。
んでその接している「倭」については、『倭人伝』の方では「狗邪韓国」だと書いてあり、帯方郡から「狗邪韓国」までは7000余里なんだと。

そこからいよいよ海を渡って「対海国」まで1000里、南にまた1000里行って「一大国」、また1000里いって「末盧国」、ここからは陸行で、東南に500里で「伊都国」、東南100里で「奴国」、東に100里で「不弥国」と、ここまでは「里」で具体的な距離が書いてあって、そして最終的に、帯方郡から邪馬台国までは1万2000余里だとも書いてある。

簡単な引き算で、総距離12000から道中の10700を引けば残りは1300前後。
伊都国だとか奴国だとかが九州北部のどこかであることは大和説でも認めているわけで、邪馬台国は佐賀県、福岡県、熊本県のどこかだと考えるのが素直だろう。

次に面積だが、『魏志韓伝』によれば「韓」の面積は「四千里四方」とあって、今の韓国から「狗邪韓国」を切り取ったサイズが一周4000里。一方、邪馬台国を含む「倭」の面積は『魏志倭人伝』では「五千余里」で、九州全体に対馬を合わせれば「韓」の20%増しでザックリ計算が合うと思う(少なくとも中国地方や近畿地方は含まれないだろう)。

最後は方角だが、『倭人伝』には「その道里を計るに、まさに会稽東冶の東に在るべし」とあって、正確な地図もない時代のこと、「倭」は中原から海を渡った東方だとザックリ言ってるのだと、ぼくは思う。もしも女王国が九州でなく近畿地方にあったのなら、こういう書き方は意味を成さないのではないか。


というわけで、素直に『魏志倭人伝』を読めば、邪馬台国は九州のどこかでしかあり得ないように思えるが、一カ所、厄介な記述がある。「不弥国」までは「里」で表してきた距離が、そこから先はなぜか南へ「水行二十日」、南へ「水行十日、陸行一月」と旅程で表記され、ではその通りに、と移動すれば、邪馬台国はとんでもなく南の洋上に存在することになってしまうことだ。

それで学者が考えたのが、きっと南と東を間違えたのだろう。南じゃなくて東なら、だいたい近畿地方になるじゃないか。めでたしめでたし。

・・・ということらしいが、それってホントに学問なのか?(笑)
 
吉野ヶ里遺跡
(本文とは関係ありません)

考えるヒントは二つあるようで、まず『魏志倭人伝』と同時代に書かれた文献『広志』には、邪馬台国は伊都国の南にある、とシンプルに書いてあること。
もう一つは、時代を下った『隋書倭国伝』に「夷人(倭人)は里数を知らない。ただ日を以って計算している」という記述があること。

『魏志倭人伝』によれば、この時代の邪馬台国は、伊都国に代官を置いて、交易や外交を行っていたらしい。つまり、魏の使者が実際に知っているのは伊都国周辺までで、それより南は倭人からの伝聞情報でしかないってことだ。

倭人に聞いたら「水行二十日」だとか「水行十日、陸行一月」だとか答えたよ、というのが謎の旅程の正体で、実際には『広志』にあるように伊都国の割とすぐ南に邪馬台国はある、と言われた方がぼくにはスッキリした説明だと思えるんだが。

ちなみに『魏志』のあとに書かれた『後漢書』『宋書』『隋書』からは、水行なん日〜陸行なん日のくだりはカットされているな。


ところで『魏志倭人伝』によると、いわゆる「倭国大乱」と言われる時代があって「倭国は乱れ、相攻伐すること歴年」だったらしい。そこで「卑弥呼」という巫女を共同の王に立てることで、「倭」は平和を取り戻した、とある。
そしてそのせいか、卑弥呼の「宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、常に人がいて、武器を持ち守衛している」とあって、つまりは邪馬台国はかつての大乱の地の上に、立つ国だと言えそうだ。

それでは『倭人伝』で倭人が用いたとされる武器、「鉄鏃」(てつぞく)が多く出土している地域はどこだろう。

それは、2016年発行の『古代史15の新説』(別冊宝島)に収められた安本美典さんの記事によれば、1位は福岡県で398個、2位は熊本県で339個、3位は大分県で241個、となっている。
素直に考えれば、これらの地域こそが「倭国大乱」の舞台で、邪馬台国もその中にあったはずだ!、となると思う。

ちなみに奈良県は、たったの4個だってさ・・・。

さて、そろそろ飽きてきたので、邪馬台国の位置の話題は終わりにしよう。
次回は長浜本に戻って、いかにして長浜さんが神武天皇の即位年を割り出したか、を紹介したい。


【6/12追記】
「水行」について、納得いく説明を読んだので追記しておく。

弥生時代を拓いた安曇族』(亀山勝/龍鳳書房)というブックレットによると、「水行」という表現は『三国志』65巻中「倭人伝」に出てくる3箇所しかなく、130巻の『史記』にも3箇所しか出てこない珍しい言葉で、かつ『越絶書』には「越人は山だって水行する」という文もあるらしい。

つまり「渡海」と「水行」は明確に分けて使われている言葉で、内陸部の河川を利用した場合のみ「水行」と表現されるそうだ。さらに具体的には「川を主に使い舟に乗っては陸地に上がりと繰り返し旅の状態」という「名詞的」なもので、現代で言う「航行」とは異なるとも。

古代史ファンには常識なのかも知れないが、なるほど〜と思ったので。

つづく

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