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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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侵略者を撃て/科特隊出撃せよ 

交渉中:交渉決裂

上原正三が書いた『金城哲夫ウルトラマン島唄』には、金城哲夫が、彼の全く新しいヒーロー像であるウルトラマンを他の脚本家に説明するのに悪戦苦闘する様子が描かれている。

「四十メートルの巨人です。宇宙から来たんです。颯爽としてカッコいいんです」
「怪獣の殺し屋なのかなあ?」
「えッ。いえ、殺し屋ではありませんよッ」
「四十メートルの巨人。まるで怪物だ」
「ううう、違うんだなあ・・・・・・人間が怪獣に襲われてピンチになりますよね。その時に颯爽と現れて助けてくれるんです。ウルトラマンは正義の宇宙人なんです」
「でも怪獣をやっつけるんだよね」
「そりゃそうだけど。なんていうかなあ、ほら、人々の願い」
「願い?」
「そう、願い。祈りと言ってもいいです」
「祈り? すると神、宇宙から来た」
「神ではないんです。困ったな。ウルトラマンは人々の心が呼び寄せるものなんです」
「・・・・・・?」
「例えば、大怪獣が現れた。ウルトラマン助けてーッ、ウルトラマン来てくれーッ。そうした心からの叫びに反応するというか。そういう存在なんです。ですから初めから怪獣をやっつけに来るんじゃないんです。人間を守るために現れるんです。そうなんです。殺し屋ではありません。ウルトラマンは殺し屋ではありません」
「書いてみなきゃわからんなあ」(「ウルトラマン誕生」)



こうした金城の雲を掴むかのような説明を元に、『ウルトラマン』の初期の作品は、それぞれ異なった作家の手で書かれていった。第1話が関沢新一と金城哲夫、第2話千束北男、第3話山田正弘、第4話南川竜、第5藤川桂介。ちなみに『ウルトラマン島唄』によれば、第1話はシリーズに箔を付けようとして関沢新一に依頼したものの、関沢が映画用のシナリオを用意したため、やむを得ず金城が全面的に書き直したそうだ。大恩ある師匠に謝りにいった金城だったが、関沢は弟子の行き過ぎを叱ることなく共作のクレジットを勧めてきたともある。

ともあれ、こうして漠然としたイメージに基づいて複数の作者によって描かれたウルトラマンは、結果的に重層的なイメージを積み上げたヒーローとして活躍することになった。
まず第2話「侵略者を撃て」。
有名なバルタン星人が登場するエピソードだ。ここではハヤタ=ウルトラマンが、一方的に異星人を排除しようとはせず、まず話し合いによる解決を図ろうする様子が描かれた。

「彼らの星バルタンは、ある発狂した科学者の核実感が元で爆発してしまったのである。宇宙旅行中だった彼らは帰る場所を失い、しかたなく彼らの生存できる天体を求めて地球の近くまで来たのだが、あいにく宇宙船の重力バランスが狂い、修理をするために立ち寄ったと言うのであった」(石坂浩二のナレーション)
そしてすっかり地球が気に入ったバルタン星人は、このまま地球に住むと言い出す。これを聞いた星野少年やフジ隊員は「なんて図々しいやつらだ」と憤慨するが、ハヤタは落ち着いてこう言う。
「いいでしょう。君たちがこの地球の風俗、習慣に馴染み、地球の法律を守るなら、それも不可能なことではない」

ここにみられる精神は、聖徳太子以来の日本的精神である「和」の精神だろう。作家の井沢元彦さんは『逆説の日本史』等の著作のなかで、日本人の信仰の根底にあるものとして「和・言霊・怨霊・穢れ」の存在を主張しているが、その「和」だ。簡単に言えば、他人と争うことは「怨霊」が発生する原因になるので、話し合いによって皆がほどほどに「納得」する道を選ぶ。それが日本的「和」ということだろう。
ウルトラマンもその「和」の心を持っている。このことは、1966年当時の少年たちにとっては、ウルトラマンを身近に感じ、ウルトラマンを受け入れるに足る大きな要因となったのではないかとぼくは思う。


続く第3話「科特隊出撃せよ」ではまた違うウルトラマン像が提示された。
それは「武士」のイメージだ。
物語は、どこかの立派な城の映像から始まる。この城の敷地内にある古井戸から、ときどき変な鳴き声のようなものが聞こえると言うので、星野少年とフジ隊員が調査にやってきたというわけだ。実はその鳴き声の主は、地中に住んでいた怪獣ネロンガだった。ネロンガについては星野少年が次のように説明している。
「あの井戸にはね、昔ネロンガっていう怪物が住んでいたんだって。それを村井せいえもん(※wikiによる)という侍が退治したって言うけど、まだ生きてたんだ」

かつて村井強衛門(※wikiによる)という武士と戦ったネロンガは、今度はウルトラマンと戦う。もちろんこの符合だけでウルトラマンに「侍」のイメージが重ねられているというわけではない。それを明確に表しているのは、この回から劇中にナレーションが入るようになった、カラータイマーの存在だろう。
カラータイマーというのは、要するにウルトラマンの行動に時間的な制限があることを伝えるものだ。ウルトラマンは巨大で強いが、万能ではない。ウルトラマンには一定の短い時間しか地球上で行動できない。

カラータイマーによって示されるこのウルトラマンへの制限は、ウルトラマンという強大な存在への安心感につながるだろう。地球上で3分間しか行動できないウルトラマンが、地球の支配者になることはありえない。さらにそれは、内心ではウルトラマンを「人間に仕える者」として下に見る、秘かな優越感の源泉ともなるだろう。
日本の歴史上、これと似たような立場の存在として武士はあったと、上記の井沢元彦さんは言っている。武士は、殺人による血の「穢れ」を嫌った人々(特に公家)に、その「穢れ」をまとめて押し付けられた存在であると。だから現実世界でいかに物質的な栄華を誇ろうと、武士は日本的な精神世界においては一段下に置かれる被差別階級として始まったのだと。

ただ、こうしたケガレを嫌う日本人の性向を、『ウルトラマン』では巧妙な形で回避することに成功している。
まずウルトラマンの必殺技、スペシウム光線。これは、ウルトラマンが直接怪獣に手を触れずに倒せる技なので、ウルトラマンと血のケガレの間に適当な距離が置かれるようになっている。また、ウルトラマンが戦闘のあと毎回宇宙に飛び去るのも、血のケガレを地球の外に排出してくるような印象を生む。つまりはケガレに対する「禊ぎ」が行われている。

こうした配慮によって、本来は武士的なケガレにまみれていたウルトラマンは、毎回ミソギを済ませた状態で再び現れることが可能になった。何かおどろおどろしい印象のある『仮面ライダー』に比べて、『ウルトラマン』がどこかクリーンなイメージがあるのは、ケガレとミソギという日本人独特の感覚を無意識のうちに取り入れていたおかげかとも思う。

と、言うようなたわごとはともかくとしても、ウルトラマンはそもそものあり方として武士的であったことは確かだ。と言うのは、ウルトラマンとはまず辺境を守護する者であったからだ。
征夷大将軍・坂上田村麻呂が代表するように、武士はまず辺境にあって「外部」(蝦夷や熊襲)を制圧する者として誕生した。ウルトラマンもまた、辺境から「内部」に侵攻しようとする者を排除するために現れる。これは、常に最初から「内部」に存在するショッカーと戦った仮面ライダーとは、根本的に異なるあり方と言えるだろう。

では、そういった『ウルトラマン』世界において、「外部」にあった敵、すなわち怪獣とはどんなものだっただろう。

つづく

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