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竹波エーイチ

Author:竹波エーイチ
1967年生まれのおっさん。
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怪獣墓場 <シーボーズ>

悩むヒーロー

『ウルトラマン』第35話「怪獣墓場」(佐々木守脚本/実相寺昭雄監督)は、宇宙パトロール中のアラシ、イデ両隊員が、彼らが宇宙の「ウルトラゾーン」と呼ぶ一帯で、過去に戦ってきた怪獣たちの亡霊を発見するところから始まる。
「やつらはここまでウルトラマンに放り出されて、そして永遠にウルトラゾーンを漂っているんだ」(イデ)
「まるで怪獣墓場だな、ここは」(アラシ)

すでにみてきたように実相寺/佐々木作品には、ウルトラマンを「正義」の座から引きずり降ろそうという意図がある。怪獣の墓場があるエリアをあらかじめ「ウルトラゾーン」と呼ぶのも、その一環にあるとみていいだろう。
続いて舞台は科特隊基地内部に移る。

「話を聞いてみるとかわいそうね。姿形があたしたちと違い、力がありすぎるというだけで、宇宙へ追放されてしまったのだから」(フジ)
「そういえば随分やっつけたなあ・・・ウルトラマンの力を借りて」(ムラマツ)
「やつらはウルトラマンに力いっぱい放り出されて無重力地帯までスッ飛んでいき、そこで永久に宇宙の孤児となっているんですよ」(アラシ)
「キャップ、どうです? 怪獣供養ってのをやってみませんか?」(イデ)
その場にいたたまれなくなったハヤタは外へ飛び出す。そして、
「許してくれ。地球の平和のため、やむなくお前たちと戦ったのだ。俺を許してくれ」(ハヤタ)
さらにナレーションがダメ押し。
「心ならずも葬った数々の怪獣たちに対し、ウルトラマンはおそらく心の中で詫びていたに違いない」

以上の会話が、ハヤタ(ウルトラマン)に怪獣に対して「謝罪」させることを結論にして、そこから逆算されて作られていることは明白だろう。フジ隊員は怪獣を「姿形があたしたちと違い、力がありすぎるというだけ」というが、そんなはずはない。また、アラシとイデが見た亡霊は、ケムラー、アントラー、ネロンガだったが、それらは爆死したのであって、宇宙に放り投げられたわけではない。
しかしその後、実際に「姿形があたしたちと違い、力がありすぎるというだけ」という怪獣シーボーズが宇宙から落ちてきて、また宇宙に戻されるというストーリーが続くため、まるで全ての怪獣がそうであったかのように思わせることに成功している。
要するにこのストーリーは、ハヤタ(ウルトラマン)に「謝罪」させるために、事実を「ねつ造」している。

だが、どうして佐々木守にはハヤタに謝罪させる必要があったのだろう?
『戦後ヒーローの肖像』という本のなかで、当時の気分について佐々木はこう書いている。

こうした特撮ドラマを書きながら思ったことは、宇宙人は本当に地球の侵略者なのかということだった。明らかに地球侵略を狙ってきた宇宙人もいた。しかし多くの宇宙人はたまたま何かの偶然や出来事が重なって地球に落ちてきただけではないのか。それを自分たちと姿かたちや話す言葉が違うというだけで闘い追放しようとするのは、それこそ地球人のエゴであり、逆に侵略しようとする野望の原点ではないのか。これに欲望が加われば戦争の理由になる。かつての日本のアジアや太平洋地域への侵略の基礎はここにあったはずだ。いま宇宙人の侵略と戦うという大義名分にかくれて、ぼくたちはいつの間にか戦争気分を醸成しているのではないか。まさに「地球人は宇宙の敵」であり「日本人は地球の敵」になりつつあるのではないか。


つまり佐々木に言わせれば、怪獣退治はアジアへの侵略の原点につながることであり、それを行う日本人は「地球の敵」になりつつあり、だからハヤタとウルトラマンは怪獣に謝罪しなくてはならない、ということらしい。

言うまでもないが、これぞまさしく正真正銘、非の打ち所のない「自虐史観」というものだろう。自虐史観の持ち主が、自虐史観を子どもたちに植え付けるために作ったファンタジーが「怪獣墓場」という物語だということだ。

それにしても、佐々木には何故にそうまでして、子どもたちに自虐史観を植え付ける必要があったのだろう。ぼくの見るところ、佐々木には何が何でも守り抜きたいものがあり、そのための手段として自虐史観を使った形跡がある。

日本の敗北を体験した僕には「戦後民主主義」は明確な手ざわりとして残っている。それは『個人が、体制よりも社会よりも組織よりも、すべてに優先される』という考え方であり、そんな行動のことであった。(「佐々木守シナリオ集・怪獣墓場」あとがき)


戦後民主主義。
それが佐々木の死守したいものだったようだ。それは、個人がなによりも優先される、という思想のことだ。時々勘違いしている人がいるが、多数決の原則等は「民主主義」のことで、一般的に「戦後民主主義」は、戦後の日本にだけ存在する行き過ぎた個人主義のことを指すようだ。個人の自由や個人の権利が最重要視されるので、悪平等に繋がったり、ゆとり教育を生んだりする土壌となったものだ。

終戦を抑圧的で旧態然とした北陸の片田舎(本人が言っていることです)で迎えた佐々木少年は、GHQによってもたらされた「戦後民主主義」に、限りない夢と可能性と未来を感じたそうだ。これだけは手放したくない。個人の自由や権利を奪う社会は二度と来て欲しくない。
そういった佐々木の願いが顕著に現れているのが「故郷は地球」のジャミラだろう。たしかにジャミラの持つ権利や自由を奪うことは、あってはならないことだ。

しかしその思いを表現するために、佐々木は「公」を「悪」だと決めつけた。「私」を抑圧するものとして「公」を捉えた。だから「公」に属する科特隊、ハヤタ、ウルトラマンは、佐々木にとって「悪」だということになる。
それでは正義の味方ウルトラマンを、子どもたちに「悪」であるように思わせるにはどうしたいいか。一番てっとり早いのはウルトラマンに「謝罪」させることだろう。あのウルトラマンが謝っているんだから、きっと何か悪いことをしたのに違いない。と、純真な少年少女なら無条件に信じてしまっても仕方がないことだ。

が、大人はどうだろう。いい大人が、純真な少年少女のように、他人が言うことをそのまんま受け入れてしまっていいものだろうか。例えば、(ホロコースト的な意味での)「南京大虐殺」。あるいは、(軍の強制という意味での)「従軍慰安婦」といった自虐史観・・・。
ジャミラの「故郷は地球」やシーボーズの「怪獣墓場」を無批判に「名作」だと信じることと、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」が本当に存在したと信じることは、どこか似ているようにぼくには思える。

終戦を8才でむかえた佐々木にとって、1966年にジャミラを、1967年にシーボーズを生み出すことには大きな意義があった。しかしそこで追求された「戦後民主主義」は、現在どう発展しているというのか。
「公」より「私」が優先される社会で、公務員や政治家が「私」に走ることを、一体誰が非難できるのか。社会的なマナーやモラルの崩壊を、どこの誰が止められるというのか。

精神分析の世界では、ウルトラマンなどのヒーローは子どもにとって「超自我」にある存在だそうだ。心の中のウルトラマンが、悪いことをしようとする心の働きを制御する、という意味だろう。
しかしそのウルトラマンは、これまで殺してきた怪獣たちに「謝罪」してしまった。ウルトラマンも悪いことをしている。そんなウルトラマンは、本当に「超自我」として機能するのだろうか。

もちろん、中年になったウルトラファンが、自嘲的な意味合いを込めて「故郷は地球」や「怪獣墓場」を懐かしむことは反対しない。しかし、一方で現在の日本社会の精神崩壊を嘆いたり村山談話に腹を立てながら、その一方で「故郷は地球」「怪獣墓場」を名作扱いすることは完全に矛盾するとぼくは思う。それらはみな、根っ子を同じくするものだからだ。

その根っ子、戦後民主主義は、このあとも着実にウルトラを蝕んでいくことになる。そして『ウルトラマンA』をもってウルトラという巨木は朽ち果ててしまうことになるが、その件についてはいずれ書きたいと思う。
それよりもまず、佐々木守の思想が最も顕著に現れている「ヒーロー番組」について検討し、佐々木のヒーロー観をより一層、浮き彫りにできたらと思う。

アイアンキング』だ。

つづく

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