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竹波エーイチ

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1967年生まれのおっさん。
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『帰ってきたウルトラマン』は「人間ウルトラマン」か?

郷秀樹の反省と努力

帰ってきたウルトラマン』を語るとき、しばしば持ち出されるのが、メインライター上原正三の沖縄人としての「怨念」についてだ。いわく、沖縄人の被差別意識が作品に現れている、とか、上原がたびたび東京を廃墟にするのは沖縄の復讐だ、とかそういった感じの話だ。

なるほどそれも一理あるのだろうが、『帰ってきたウルトラマン』は上原正三がひとりで書き上げた小説ではないし、全てをその一点で説明するのは無理があるだろう。それに、聞けば上原正三は沖縄返還には立ち会うことなく東京で仕事をしていたということだ。そんな上原が、いつでも沖縄を念頭において脚本を書いていたのかには多少の疑問も残る。

また、『帰ってきたウルトラマン』は、主人公・郷秀樹の「成長物語」として語られることもある。
Wikipediaではこうだ。

『ウルトラマン』の主人公ハヤタが、変身前後で完全無欠の万能ヒーローであった事に対し、本作の主人公の郷秀樹は、元々レーサー志望の普通の勤労青年として設定され、ウルトラマンとしての能力のために、周囲と軋轢を生んだり、悩んだりを繰り返しながら困難を乗り越えていくという努力するヒーローであった。変身後のウルトラマンも、しばしば怪獣に対して苦戦し、時には敗北している。いわゆる「人間ウルトラマン」というテーマ設定である。

これまたなるほど、と思えなくもないが、実はよく考えてみると沸々と疑問が湧いてくる説明でもある。

こうした説明の根拠になるのは、第一には第2話「タッコング大逆襲」の衝撃のシーンだろう。
第1話でウルトラマンに命を預けられた郷秀樹は、入隊したMATで抜群の運動能力を披露することになる。自分がウルトラマンであることを確信した郷は、血気にはやって命令違反を犯したうえでウルトラマンに変身しようとするが、なんと何も起こらない。郷は命令違反を追求されてMATをクビになり、自分の思い上がりを反省する。再び怪獣タッコングが現れると郷は一民間人として命がけの人命救助に当たり、ついには絶体絶命のピンチに陥る。すると今度は郷をまばゆい光が包み、彼はウルトラマンに変身する・・・。
つまり、ウルトラマンは郷の思い上がりを諌めるために、彼の変身を許さなかったというわけだ。

あるいは第4話「必殺!流星キック」。
この回ウルトラマンは怪獣キングザウルス三世に敗れてしまう。そこで郷はウルトラマンの弱点をカバーすべく、一人で山に籠ると丸太を運んだりして、心と体を鍛え直そうとする。要は、スポ根マンガさながらの修行を行うのだった・・・。

あるいは第5話「二大怪獣東京を襲撃」。
工事現場で発掘された物体をめぐり、岸田隊員と対立する郷。そこへ怪獣出現の報が入り、二人は攻撃態勢に入るが、近くに少女の姿を見た郷は岸田の命令にそむいて攻撃を中止する。チームワークを乱した罪を問われ、郷は一週間の謹慎処分を受けてしまう・・・。

という具合に、郷はたしかに「周囲と軋轢を生んだり」することがあり、そのことについて「悩む」ことがある。が、問題はそんな郷秀樹は、実のところ、いつまでたってもそういう人間だったということだ。つまりそれは、もともと郷秀樹に設定された性格や人物像であって、彼の精神的な未熟さを表すものではなかったということだ。現に郷はシリーズ終盤になっても周囲に無条件で同調するようなことはなく、積極的に思いやりを示すようなこともなかった。

また、衝撃的なウルトラマンの変身拒否。これも第2話で1回あっただけだったし、厳しい修行によって自己を鍛錬することも第4話にしか見られなかった。
要は「人間ウルトラマン」や「郷の成長物語」の根拠となるものは、シリーズの序盤に若干見られただけで、その後は大々的に扱われるようなことはなかったというわけだ。

もちろん、『帰ってきたウルトラマン』が当初の設定としてそういった要素を含めていたことは確かなことだ。メインライターの上原正三とプロデューサーの橋本洋二が、彼らがその直前に手掛けていた『柔道一直線』のイメージをウルトラに被せていったということは、当の彼ら自身が証言していることだ。

しかし、それが本当に『帰ってきたウルトラマン』のテーマであるなら、最初の方でちょこちょこ出しただけで終わり、というのは納得のいく話ではない。
それにそもそも『帰ってきたウルトラマン』の視聴者は、幼稚園児からせいぜい10才くらいまでのものだろう。そんな小さな子どもたちに、23才の成人男性の「成長物語」をみせることにどんな意義があるというのか。


辰巳出版という会社から1999年に出版された『帰ってきた帰ってきたウルトラマン』というムック本のなかに、次のような一説がある。

ウルトラマンはもはや無敵の超人ではなくなっていた。これは偶然ではない。はっきりとした狙いをもって、こう描かれたのだ。ここに、『帰マン』を貫く思想がはっきりと現れている。それは、ウルトラマンを、我々と同じように悩み、苦しむ、人間として描こうという姿勢=「人間ウルトラマン」という大テーマなのだ。

これを読んでぼくが思うことは、ウルトラマンを「人間として描こうという姿勢」に一体どういう意義があるのか、ということだ。ウルトラマンを悩んだり苦しんだりする存在として描くのは結構なことだが、それを子どもたちに見せてどうなるんだ? ということだ。
ウルトラマンでさえ悩み苦しむんだから、君たちが悩み苦しむのも普通のことなんだよ。
それが『帰ってきたウルトラマン』の「大テーマ」なのだろうか?

つまりは上記引用文では、「人間ウルトラマン」自体が目的化していることになるが、本当にそれで全てなんだろうか? むしろ「人間ウルトラマン」は、何か他のテーマを伝えるための「手段」なんじゃないか? 

視聴者である幼児たちに何かを伝えるために、今度のウルトラマンは悩んだり苦しんだりするようになった。
そう考えるほうが自然なようにぼくには思える。

つづく

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