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竹波エーイチ

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キミがめざす遠い星 (『怪獣使いと少年』その2)

メイツ星人とムルチ

前回の記事(怪獣使いと少年 その1)からの続き

ところで、『帰ってきたウルトラマン』第33話「怪獣使いと少年」について聞かれるとき、上原正三はいつもこんなふうに答えていたようだ。

あの作品は僕のなかの差別に対する反発がちょっと出すぎていて、自分としては気に入っていません。いつもはもうちょっと自分の本音は殺して書くんですけれども、あのときはナマ過ぎたというか」(『怪獣使いと少年』/切通理作著)

上原がこのような発言をする背景には「ファンがことさらにこの作品ばかりにこだわる傾向があった」(『24年目の復讐』脚本解説/会川昇)という点もあったようだが、さらにはそれが、上原の脚本からかなり逸脱したものとして放映されたせいもあるだろう。

実際、いま手元にある宇宙船文庫『24年目の復讐ー上原正三シナリオ傑作集』におさめられた元の脚本を読むと、「怪獣使いと少年」の一種異様な雰囲気が、実はそこには存在していないことに気がつく(なお、原題は「キミがめざす遠い星」という意外と軽い命名がされている)。

では「怪獣使いと少年」の特異性とは何かと言えば、なんといっても『帰ってきたウルトラマン』には不可欠なはずの、坂田家の風景とMAT隊員たちが一切出てこないことだろう。それがこの作品に、何だか今回はいつもと様子が違うぞ、という印象を与えているのだとぼくは思う。

ところが「キミがめざす遠い星」には、両方ともいつもどおり、いつもの姿で登場する。坂田健は毎度おなじみの昔話を始め、それを聞いた郷が何かを悟って飛び出していくのも、いつもの通りだ。
もちろん坂田アキも登場する。アキは、パン屋で食パンを売ってもらえなかった佐久間良少年に、にっこり笑って自分のパンを譲ってあげる役だ。アキの笑顔は良を癒し、視聴者の心に救いをもたらしたはずだった。

そしてもっとも決定的なのは、
「日本人は美しい花を作る手を持ちながら、一旦その手に刃を握るとどんな残忍きわまりない行為をすることか・・・」
という伊吹隊長のセリフは「キミがめざす遠い星」には全く存在しないということだ。
脚本ではこうだ。

ユリ子「良君はお父さんがほしかったのよ。お父さんを捜すために家出したんだわ」
南「うん、きっとそうだ」
伊吹「花の松前、紅葉の江差、開く函館菊の紋・・・(呟く)」
上野「なんです?(伊吹を見る)」
伊吹「なあに昔の唄さ。郷」
郷「ハイ」
伊吹「佐久間君に関しては君にまかせる。早く宇宙人説から解放してやり給え」
郷「わかりました!」

見てのとおり、いつものMAT基地の会話がそこにはあり、日本人批判のかけらもない。
さらにもう一つ付け加えるなら、脚本ではあのとき市民に襲われたのは、佐久間良とメイツ星人だけではなかった。それを制止しようとした郷秀樹も投石によって血を流し、さらには次郎くんまでもが木切れを投げつけられて倒れている。

つまり上原の準備稿にはあったはずの、坂田家の人々だけは良少年とメイツ星人の味方であろうとした、という部分は映像では全てカットされているわけだ。

となれば「怪獣使いと少年」の癒し難さや救い難さは、上原正三本人が当初から意図したものではなかったことが分かる。上原正三の「キミがめざす遠い星」から、癒しや救いを取り除いたものが「怪獣使いと少年」だということだ。

この点については『24年目の復讐』の解説で会川昇さんが書いていることが正鵠を射ているだろう。

上原氏がためらいつつも本音として沖縄等の問題を強く描いた事実上最後の作品であり、その意味をくみあげて自分なりの映像で作りあげたのが東條昭平監督であったことをふまえて(※脚本を)読んでいただきたい。脚本と映像は必ずしも同一でなくてもよいのだ、という事実も。

ついでに書いておくなら、「怪獣使いと少年」には結構見落とされがちな問題点がいくつかあると思う。まず第一点は、舞台となっている日本は「平時」の日本ではないということ。あちらこちらで怪獣が出現し、宇宙人がひんぱんに侵略にやって来る状況というのは平時とは言えず、むしろ「戦時」と言っていいだろう。そのような状況で、人々が疑心暗鬼に苛まれることは理解できなくはないことだ。そしてそんな状況で「地球の風土、気候を調べていた」というメイツ星人。彼の目的は何だったのだろうか。彼は何のために地球の調査をしていたのだろう・・・。


・・・いや、つまらぬ揚げ足取りはこんなところにしておこう。
ぼくが言いたいのは「怪獣使いと少年」という物語が、日本人の沖縄差別を告発してやろうという上原正三のドロドロとした怨念からだけ生まれたものではない、ということだけだ。本来はそこには、坂田家の人々のやさしさや、MATの人々の人間理解なども含まれていた。ただ、最終的な映像を作った東條監督が、上原脚本からそういった要素を取り除いてしまったから、やたらとネガティブな面だけが強調される作品となってしまった。

では、そうやって上原作品のモチベーションから沖縄人としての日本本土への怨念や遺恨を除外してみたとき、そこに見えてくるテーマは何だろう? 
とは言え、そこに上原正三が体験してきた沖縄と日本のありようといったものが、全く反映されていないということも考えにくい。
そこでまず、切通理作さんの名著『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』から、上原正三が「沖縄」「日本」「戦後」について語った部分を、時系列的に引用してみることにしたい。

「僕にとってアメリカ軍は解放軍に思えました。なにしろ空爆に怯えないですむし、沖縄が戦場ではなくなった。そして食べ物や物資を配ってくれるアメリカはニライカナイの神々に匹敵したんじゃないかな」

「なんで沖縄でのみ地上戦が行われたかといえば、沖縄が日本じゃないからですよ。戦後、日本のアメリカ軍の軍事基地の七四%は沖縄にあるけど、そんなこと、日本人が本当に沖縄のことを日本だと思っていたら許しておくはずがないでしょう。あなたも含めて。沖縄が遠くにあるから自分たちは安心だという日本人。東シナ海の海溝はやはり相当に深いと思います」

「結局人は殺し合って滅びていくんじゃないかという予感はありますね。僕のなかには常に戦時状態があるような気がします。もちろん平和にこしたことはないんだけど、平和ってのが本当にこの世に存在してるのかっていう疑問があるんですね。思い込んでいるだけなんじゃないか。だって沖縄は今、平和じゃないですよ。アメリカ軍の精鋭部隊が常駐しているわけでしょう」

「沖縄は日本の植民地なんだ・・・。そのことをまずハッキリさせて、(沖縄人は)そういうものにめげない異民族としてのアイデンティティを確立しないと・・・。日本と一緒になれば何もかも良くなるんだと思うと必ずしっぺ返しを食らう。日本に復帰して二十年になるけど、今でも僕のなかには常に『沖縄は日本か?』という疑問がある。強引に日本国に組み込まれた植民地ではないのか、というね。
だから僕は日本復帰のときなんかなんの感動もなかったね。砂川の基地闘争のデモには行っても、本土復帰運動には一切参加しなかった」

何となく読むと、日本人にもアメリカ人にも、さらには沖縄人にまでも腹を立てて悪態をついている、ただの恨みがましいオッサンのようにも見えるが、要点はこうだろう。

沖縄は平和ではない。沖縄は植民地である。と。
しかし前回の記事で引用したように、上原はこうも言っているわけだ。

だから僕が本土に来ることじたい、ここで沖縄人として生きてみよう、自分の肌で感じる差別、それが何なのか突きとめてみようという決意の元でしたね。

つまり、上原正三はずっと日本本土で生きてきた人間だった。ただしその人間は、沖縄人の目を持っていた。そして沖縄人の目は、ふるさと沖縄が平和と呼べる状態ではなく、一種の植民地であることを見抜いていた。

ではその沖縄の目は、彼が暮らす日本本土を、どのように見抜いたというのだろうか?

【関連記事】「怪獣使いの遺産」ーウルトラマンメビウス

つづく



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